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帯とけの枕草子〔百〕淑景舎、春宮にまいり給ふ
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言 枕草子〔百〕淑景舎、春宮にまいり給ふ
淑景舎(宮の妹君)、東宮に参り給う頃のことなど、なにもかも、愛でたくないということなどない。正月十日に、女御として・参られて、東宮と・御文などは繁く交わされていても、まだご対面はなかったのを、二月の十何日かに、宮の御方に淑景舎が、一先ず・お渡りになるとお知らせがあって、常よりも部屋のしつらえを心こめて磨き繕い、女房らも皆、用意している。夜中にお渡りになられたので、いくらも経たないうちに夜が明けた。
登花殿の東の廂の二間に設えしてある。今宵、東宮にお渡りになられて、次の日はここにおられることになるので、淑景舎の女房たちは御宿泊所の向かいの渡殿に控えているのでしょう。殿(道隆)と母上が暁に一つの御車でいらっしゃった。明けて朝、たいそう早く御格子を開けて差し上げて、宮は御曹司(設えた部屋)の南に、四尺の屏風を、西東に御座敷いて、北向きに立てて、御畳、御敷物だけ置いて、御火桶が置かれてある。御屏風の南、御几帳の前に、われわれ・女房がたいそう多くひかえている。宮は・まだそこにて、御髪の御櫛をして差し上げているときに、「淑景舎は見奉ったか」と問われるので、「いまだ、拝見いたしていません。車寄せの日に(昨年の積善寺での経供養の日に)、ただ後ろ姿だけをですね、ほんのすこし」と申し上げれば、「その柱と屏風とのもとに寄って、わが後ろより密かに見なさい。とってもかわいらしいきみよ」と仰せになられたので、うれしく、見たい気持ちが増さって、いつしかと思う。
宮には紅梅の固紋、浮紋の御衣らを、紅の光沢ある御衣の三重の上に、ただひき重ねてお着せしてさしあげる。「紅梅には濃い衣がすばらしいことよ。着られないのは残念ね。紅梅は着なくてもいいのだ、でも萌黄などは気に入らないので、紅に合わないかな」などとおっしゃるけれど、ただとっても愛でたくお見えになられる。お着せする御衣の色毎に、そのまま御容姿のすばらしさと合っておられる。やはり、あの良きお人(妹君)もこのうようでいらっしゃるのだろうと、ゆかしき(拝見したいことよ)。
さて、膝で移ってゆかれ屏風の前にお入りになられたので、屏風の後ろに添い付いて覗くのを、「あしかめり、うしろめたきわざかな(悪るそう、後ろが気がかりな行為だこと…悪るそう、うしろめたい稼業だこと)」と聞こえよがしに言う女房もおかしい。障子がたいそう広く開いていたのでよく見える。母上(高内侍・高階貴子)は、白い御衣と紅の糊張りしたのを二つばかり、女房の裳のよう、引きかけて、奥に寄って東向きにいらっしゃるので、ただ御衣が見える。淑景舎は、北に少し寄って南向きにおられる。紅梅(の内衣)、数多く濃のも薄いのもあって、表衣に濃い綾の御衣、少し赤い小袿、蘇枋の織物、萌黄の若やかな固紋の御衣をお召しになられて、扇をつとさしかくし給へる(扇をじっと懐に差し隠しておられる…逢う気をじっと胸にさし隠しておられる)。いみじうげにめでたくうつくしと見え給(たいそう、ほんとうに愛でたくかわいいとお見えになられる)。
殿(道隆)は、薄色の御直衣、萌黄の織物の指貫、紅の御衣ら、御紐しめて、廂の柱に背後を当ててこちら向きでおられる。愛でたいこのご様子を、ほほ笑みながら、いつもの戯れ言をおっしゃっている。淑景舎がとっても愛らしく絵に描いたようであられるのに、宮はたいそう安らかに、いま少し大人びておられる気配が紅の御衣とあいまって輝いておられる、やはり、たぐいなきお人ではないかとお見えになられる。
御手水さしあげる。かの御方(淑景舎)のは、宣耀殿・貞観殿を通って、童女二人、下仕え四人で持って参るようである。唐廂のこちらの廊には、女房六人ばかり控えている。狭いということで、他は送りのみしてみな帰ったのだった。童女らの桜の汗衫、萌黄・紅梅とってもすばらしい、汗衫を長く引いて、御手水を取りついでさしあげている、いとなまめきをかし(とっても初々しい色香があってかわいい)。織物の唐衣などこぼし出だして相伊の馬の頭の娘の少将、北野宰相の娘の宰相の君らがお近くにいる、美しいと見ているときに、こちらの宮の御手水は、当番の采女が青裾濃の裳、唐衣、裙帯、領布などして、顔たいそう白く化粧して、下仕えが取りついでさしあげるところ、こちらは公の行事のよう、からめきてをかし(唐風で趣がある)。
御膳のときになって、御髪上げして差し上げて、女蔵人ら、御賄い人の髪上してさしあげている間は、隔てていた御屏風も押し開けたので、かいま見ていた人(私)、隠れ蓑を取られる心地して、心細かったので、御簾と几帳との中にて、柱の外より拝見させていただく。わが衣の・裾、裳などは御簾の外にみな押し出されたので、殿(道隆)が端の方からご覧になられて、「あれ、誰かな、かの御簾の間より見えるのは」と咎められたので、宮「少納言が、もの見たがって控えているのでしょう」と申されたので、「あなはづかし、かれはふるきとくひを、いとにくさげなるむすめどももたりとも見侍れ(ああ恥ずかしい、彼女は古い馴染みだからなあ、たいそうにくらしげな娘どもを持ってるとだ、見てございますな)」などとおっしゃる御気色、いとしたりがほなり(得意満面である)。
あちら(淑景舎)にも御膳をさしあげる。「うらやましい、方々にはみな差し上げたようだ。はやく召し上がって、翁と嫗に御下ろしでも賜え」などと、一日中、ただ、さるがうごと(おどけた言)ばかりおっしゃっている間に、大納言(伊周)、三位の中将(隆家)、松君(伊周の長男)参られる。殿(道隆)がいつのまにか松君を抱き取られて、膝の上に立たせておられる。いとうつくし(とってもかわいい)。
狭い縁に男君たちの堂々とした御装束の下重ねがひき散らされてある。大納言殿は重々しく清げに、中将殿はたいそう上品で美しく、いずれも愛でたいさまを拝見していると、殿(父上)はもちろんのことで、母上の御宿世こそ愛でたいことよ。御座布団をと母上は申していらっしゃるけれど、伊周「陣の座につきます(会議がございます)」と、いそいでお立ちになられた。
しばらくして、式部の丞の何某、主上の御使いとして参られたので、御配膳所の北に寄った間に敷物さし出し座っていただく。宮はご返事をすぐにおだしになられた。まだその敷物も取り入れないときに、東宮の御使として周頼の少将(道隆の六男)が参られた。御文取り入れて、渡殿は細い縁なので、こちらの縁に敷物をさしだした。御文取り入れて、殿、母上、宮に御回覧する。「御返事、早く」とおっしるけれど、淑景舎はすぐにはお聞き入れになられないのを、殿「だれかさんが見てごさいますので、お書きになれないようです、そうでないおりは、これより間もなくご返事申し上げられるのだ」と申されたので、淑景舎は御おもて少し赤らめてほほ笑んでおられる。いとめでたし(とっても愛らしい)。「まことに、早くね」などと母上も申されたので、淑景舎は奥に向いて書いておられる。母上近くお寄りになられて、ともにお書きになられるので、いとゞつゝましげなり(いっそうきまりわるそうである)。宮の方より萌黄の織物の小袿と袴を、御使の周頼におだしになられたので、三位の中将が授けられる。首筋がくるしそうで重くて手で持って席を立った。
松君が可愛らしくものをおっしやるのを、誰もが、いとおしがってお聞きになる。殿「宮の御子たちということで、さしだしても、悪くはございませんな」などとおっしゃるのを、たしかに、なぜかそういう事が今迄と、心もとなき(気がかり)。
午後二時ごろに、筵道をお敷きするというまもなく、(主上、御衣を)そよぐようにお入りなられれば、宮もこちらへお入りになられた。すぐに御帳台にお入りになられたので、女房も南面にみな衣そよがせて去ったようだ。廊には殿上人がたいそう多くいる。殿が御前に宮の司を召して、「果物、肴などをめし上がれるよう手配せよ、人々酔わせよ」などと仰せになられる。まこと皆酔って、女房ともの言い交わすほどに、かたみにをかしと思ひためり(お互い興味深く思っているようだ)。
日の入るころにお起きになられて、山の井の大納言(宮の異母兄)を召し入れて、御袿を整えさせられ、お帰りになられる。桜の御直衣に紅の御衣の夕日に映えているさまなども、おそれおおいので書くのはやめることにした。山の井の大納言は、お身内に入り難いが(異母で祖父の養子)、たいそう立派な人でいらっしゃるのだ。すばらしいご容姿とその雰囲気は、この大納言(伊周)にも勝っておられるものを、いろいろと世の人は言い貶めてうわさするのが、お気の毒なことよ。殿、大納言、山の井も、三位の中将、内蔵の頭などが、主上のお見送りに控えていらっしゃる。
主上のもとに・宮が上られるべき御使として馬の典侍が参った。「今宵は、まいれない」などと渋られる。殿がお聞きになられて、「いとあしきこと、はやのぼらせ給へ(とってもわるいこと、さっそくお上りください)」と申されておられるときに、春宮の御使、頻りに参る間、とってもさわがしい。淑景舎を御迎えに、女房、春宮の侍従などという人も参って、はやくと、そそのかし申される。
「先ずそれでは、かの君(淑景舎)をお送りなさいまして」と宮がおっしゃっると、殿「といっても、どうしょう」とおっしゃっているので、「(われも、かの君の)見送りをいたしましょう」などとおっしゃるときも、いとめでたくをかし(とっても愛でたくすばらしい)。「それでは、遠い方を先にすべきか」ということで、淑景舎が渡られる。殿らがお返りになられてから宮はお上りになられる。道中も、殿の御猿楽言に、いみじうわらひて(ひどく笑って)、打ち橋(板を渡しただけの橋)より、もう少しで落ちてしまいそう。
長徳元年二月の慶事の記録。関白道隆の晩年の事。この四月には職を辞した後、病の為に亡くなった。
「かれはふるきとくいを…彼女は古い馴染みなのだ」というのは、最初の出会いは小白河という所〔三十二〕での八講の法会の時で十年近く昔のこと、宮仕え以前、女車への男たちの戯れの言い掛けに、見事に応対して笑わせてやったことがあって、そのとき以来の馴染み。
道隆の「さるがうごと」も座を取り持ち笑いを誘う話芸。『大鏡』では道隆を酒乱という。ほとんど酔っ払いの言葉のようにも聞こえる。殿の酔ったご様子も、一風変った母上の御ことも、ものに包んで表現しているが、とり繕ったりしていない。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・9月、改定しました)
原文は「枕草子 新日本古典文学大系 岩波書店」による