帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (239)なに人かきてぬぎかけし藤袴

2017-05-31 09:10:01 | 古典

            

                       帯とけの古今和歌集

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 239

 

是貞親王家歌合によめる       敏行朝臣

なに人かきてぬぎかけし藤袴 来る秋ごとに野べをにほはす

是貞親王家の歌合に詠んだと思われる・歌。 藤原敏行

(なに人が来て脱ぎ掛けた藤色袴か・藤袴草か、来る秋毎に、野辺を、ほんのり淡い紫に色づける……如何なる男が来て、抜き、ふりかけし、ふちはかまか・淵端彼間か、繰り返す飽き満ちたり毎にひら野を、お花の香に・匂わせる)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「なに人…如何なる身分の人…如何なる地位の人…どのような男」「ぬぎかけし…脱ぎ掛けた…抜きかけた…抜きふりかけた」「藤袴…草花…言の心は女…ふちはかま…紫に染めた袴…草花の名…名は戯れる。上品な色合いの袴、淵端彼間・おんな」「ふぢ…ふち…淵…川の深いところ…言の心はおんな」「はかま…袴…腰から下の衣の名…名は戯れる。端か間、女の身の端」「は…端…身の端」「ま…間…言の心はおんな」「くる…来る…繰る…繰り返す」「あき…秋…飽き満ち足り…厭き」「のべ…野辺…山ばではないところ…ひら野」「にほはす…色付かせる…色に染める…香を漂わせる…匂わせる」。

 

なに人が来て、脱ぎ掛けた、淡い紫の袴か、秋来る毎に、野辺を染め匂わせる・藤袴草よ。――歌の清げな姿。

如何なる男が来て、抜き、ふりかけたか、淵端か間、繰る飽き満ち足り毎に、ひら野を、おとこの色に染め匂わせる。――心におかしきところ。

 

エロス(性愛・生の本能)の極致の、ふち端か間(おんな)を、詠んだ歌のようである。

 

言語観の異なる今の人々は、歌言葉が「ふぢ…ふち…淵…川の深いところ…川の言の心は女…おんな」と意味が戯れることに、拒否反応を起こすだろう。


 古今和歌集とほぼ同じ文脈にあったと思われる枕草子の「淵は」を、「ふち…おんな」であるとして読んでみよう。枕草子(十四)

ふちは、かしこふちは、いかなる底を見て、さる名を付けんとおかし。ないりそのふち、たれにいかなる人のをしへけん。あを色のふちこそおかしけれ、蔵人などの具にしつべくて、かくれのふち、いなふち。

淵は、畏くも尊い淵は、如何なるそこ(其処)を見て、そのような名を付けたのでしょうとおかしい。入るな!の淵、誰に、如何なる人が教えたのでしょう(どなたにおかれては、如何なる人のお肢圧し折ったのでしょうね)。青色の淵こそおかしいことよ、蔵人(六位)などの、具(衣服・配偶者)にするといいので、隠れている淵。(六位では)否という淵」。


 「淵」を「おんな」と聞く事ができる「聞き耳」持てば、当時の読者とほぼ同じ「をかし」を享受できるはずである。笑えれば、清少納言の文芸の術中にはまることができたのである。

 

清少納言の文芸を、無意味な物の名の羅列にすぎないとか、意味の通じない下手な文章などと、今の人々は、いつまで誤読しつづけるのだろうか。そもそも、「古今和歌集」の歌を、うわの空読みして誤解していることが、誤読の原因である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)。
 
 
都合により、明日から数日の間、新規投稿は休みます。


帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (238)花にあかでなに帰るらむをみなへし

2017-05-30 19:10:36 | 古典

            

 

                       帯とけの古今和歌集

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 238


寛平の御時、蔵人所の男ども嵯峨野に花見むとてまかりたり

ける時、かへるとて、皆歌よみけるついでによめる 平貞文

花にあかでなに帰るらむをみなへし おほかる野べに寝なましものを

寛平の御時、蔵人所の男たちが、嵯峨野に花見しようと、出かけた時に、帰るとて、皆で歌を詠んだついでに詠んだと思われる・歌……宇多帝の御時(889897)、蔵人所の男ども(当然遊女たちを伴って)、さが野に華を見ようと出かけた時、くり返すと言って 皆、歌を詠んだ、その流れで詠んだらしい・歌。 (平のさだふん・平中物語の主人公か著者か)

(花見に飽きていないのに、諸君・何で帰るのだろうか、女郎花多くある野辺に、寝てしまいたいのになあ……おとこ花に、飽き満ち足りず、何を、繰り返すのか、遊びめよ・をみな圧し、多く離れた野辺で、男どもは・寝てしまいたいのになあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「花…草花…女花…木の花…おとこ花」「あかで…飽かで…飽き満ち足りなくて…もの足りず嫌で」「なに…どうして…なぜ…何を」「かへる…帰る…帰宅する…返る…繰り返す」「をみなへし…女郎花…女花…遊び女…をみな圧し」「おほかる…多くある…多離る…多く離れる」「かる…ある…離る…離れる」「ましものを…実現出来そうもないことを仮想し不満や希望を表す…出来ればそうしたいのだがなあ」。

 

花見したあと、女郎花の多く在る野辺で、野宿したいものだなあ。――歌の清げな姿。

お花に飽き足りず何を繰り返すのか、遊女よ、もう少し多く離れたひら野で、我は・寝てしまいたいのだがなあ。――心におかしきところ。

 

男の性(さが)について、女性とは比べられないほど薄情で反復力や持続力の無さを、言い出した歌のようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)。


帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (237)をみなへし後ろめたくも見ゆるかな

2017-05-29 19:19:30 | 古典

            

 

                       帯とけの古今和歌集

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 237

 

ものへまかりけるに、人の家に、をみなへし植へたりけるを

見てよめる                   兼覧王

 をみなへし後ろめたくも見ゆるかな あれたるやどにひとりたてれば

或る所へ宮の内を退出して行った時に、他人の家の庭に、女郎花が植えてあったのを見て詠んだと思われる・歌……仕事終え帰った時に、妻女の井辺に、をみな圧し、もの植え付けたる、おを思って読んだらしい・歌。 かねみのおほきみ(惟嵩親王の子)

(女郎花・可憐な草花、気がかりで不安に見えることよ、荒廃した家の庭にひとり立っているので……をみな圧し、おとこは・後ろめたくも思えることよ、荒れている、や門に、独り断ってしまったので)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「をみなへし…女郎花…草花…女花…女…をみな圧し」「うしろめたし…気がかりだ・心配だ…気がとがめる・後ろ暗い思いがする」「見…観…覯…覯…まぐあい」「かな…であることよ…感嘆・詠嘆の意を表す」「あれたる…荒れている…(庭など)手入れがされていない…(心が)荒れている…(気が)しらけている」「やど…宿…家…言の心は女…や門…おんな」「ひとり…独り…孤独に…一人…単独で」「たてれば…立てれば…立っているので…断てれば…断ってしまったので…絶えてしまったので」「れ…『り』の已然形…存続している意を表す…完了した意を表す」。

 

可憐な草花・女郎花、気がかりだなあ、荒廃した家の庭に、独り立っているので。――歌の清げな姿。

をみな圧した、後ろめたく思えるなあ、荒れたや門に、われ独り断ってしまったので。――心におかしきところ。

 

おとこの性(さが)について、その薄情な尽き果てを「ひとり断てれば」と言い、後ろめたい思いを表出した歌のようである。

 

国文学的解釈の常識は、草花の女郎花ようすを詠んだだけの歌とは思えないので、「女郎花…女」であることから、荒廃した家に独り住む若い女性を想像する。そのような情況を想像させるのが、歌の主旨か趣旨であると考えるようである。

 

藤原俊成『古来風躰抄』に「歌の言葉は・浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れ」とある。「歌の言葉は、浮言綺語のように戯れているけれども、そこに、ことの深い主旨や趣旨も顕れる」という意味である。言語観が違い、歌の表現様式の捉え方が違うと、歌から受け取る主旨や趣旨が大きく異なるのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (236)ひとりのみながむるよりは女郎花

2017-05-25 19:28:18 | 古典

            

 

                      帯とけの古今和歌集

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 236

 
                              
(忠峯)

ひとりのみながむるよりは女郎花 わが住む宿に植えて見ましを

(歌合の歌と思われる)             (ただみね)

(一人だけで眺めているよりは、女郎花、我が住む家に、移し植えて、皆で・花見するのがいいだろうなあ……独りだけで・もの思いに沈んでいるよりは、遊び女よ、我が住む家に、引きとって、妻として見るのがいいと思うけれど、どうだろうか)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ながむる…眺める…見つめる…もの思いに沈む…ぼんやりとして悩む」「女郎花…秋の草花…女花…をみな部し…遊び女…をみな圧し」「植えて…移植して…ひきとって…めとって」「見…観賞…結婚…覯…媾…まぐあい」「まし…すればよい…適当であることを表す…したものだろうか…ためらいを表す」「を…なあ…感動・感嘆・詠嘆を表す」。

 

野にある美しい花を、わが家の庭に移し植えたいと、誰もがふと思う心の表出である。――歌の清げな姿。

悩める美しい遊女への、愛の告白、求婚のようである。男なら誰もが、ふと思ってしまう心の表出。――心におかしきところ。

 

をみな部し(遊女たち)には、美人で、謡い・舞い・演奏・和歌など良くできる人、そうでない人、身を売るだけの人まで様々だっただろう。

 

「女郎花」は「女」という意味も有ると解くだけでは、「遊び女」や「をみな圧し」と結び付かない。そのような歌解釈は、この時代の歌の文脈とはかけ離れていて、歌の「清げな姿」しか見えない。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)都合により、明日から数日の間、投稿休みます。


帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (235)人の見ることやくるしきをみなへし

2017-05-24 19:27:24 | 古典

            

 

                      帯とけの古今和歌集

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 235

 

忠岑

人の見ることやくるしきをみなへし 秋霧にのみたちかくる覧

(歌合の歌と思われる)        (ただみね)

(人の見ることが、恥ずかしく・嫌なのか、女郎花、秋霧にばかり隠れているだろう・どうして……男どもの見ることが、気に入らないのか、遊びめよ、おとこは・厭き切りに、立ち隠れ逝くだろう・山ば嵐)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「見…目で見ること…見て思うこと…覯…媾…まぐあい」「くるし…苦し…堪え難い…嫌だ」「をみなへし…女郎花…秋の草花…女花…をみな部し…遊女…をみな圧し」「秋霧…白くかすんで見えなくするもの…厭き切り」「たち…接頭語…断ち…断絶…立ち…起立」「かくる…隠れる…失せる…逝く」「覧…らむ…だろう…推量の意を表す…らん…見…覯…媾…まぐあい…嵐…山ば荒らし…乱…心の乱れ」。

 

人に見られるのが嫌なのか、女郎花、秋霧に隠れてばかり、なぜか・姿見せないだろう。――歌の清げな姿。

男どもの見が気に入らないのか、をみな圧し、厭き切りに立つもの隠れ逝くだろう・心乱れ山ばは嵐。――心におかしきところ。

 

人に見られるのが苦痛なのか、遊び女よ、秋霧にばかり隠れているだろう、「必ずしもこの世に在るべきではない業である」からなあ・思い乱れる。――このような意味もあるだろう。

 

紀貫之土佐日記(二月十六日)、船着場の山崎の夕方の様子は出立した五年前と変わっていなかった。遊びめ(さげすんで、曲がり大路という)。「売り人の心ぞしらぬ(春うる女の気が知れない)」と帰京した国守一行の女たちはいう。「かならずしもあるまじきわざなり」とある。「これにもかえりごとす(これにも、返礼する・銭を支払う)」。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)