帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの『金玉集』 春(十五) 在原業平

2012-10-31 00:07:53 | 古典

    
    




             帯とけの金玉集

 

 

 

 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。

 

公任の撰した金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が選ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。

 

金玉集 春(十五)業平朝臣

 

世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

(世の中に、絶えて、あわただしく咲き散る桜が無かったならば、春の人の心はのどかだろうなあ……男と女の夜の中で、耐えて、あわただしく咲き散るおとこ花なくかりすれば、春情の心はおだやかだろうなあ)。

 

言の戯れと言の心

「世の中…男女の仲…夜の中」「たえて…絶えて…耐えて」「桜…男花…咲くら…咲き散ること」「ら…状態を表す」「なかりせば…無いならば…無かったならば…無くかりすれば」「かり…狩り…猟…むさぼり…あさり…まぐあい」「春…季節の春…心の春…春情」「人…男…女」「のどけからまし…うららかだろう…長閑であろうな…ゆったりとしているだろうな」「まし…何々だったら何々だろうな…事実あり得ないことを仮に想像する意を表す。不満、希望、願望などの意向を含む」。

 

歌の清げな姿は、あわただしく咲き散る桜花についての感想。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、おとこ花のはかなさについての感想。大方の男の思いを代弁しているでしょう。

 

 

紀貫之は、この歌を「土佐日記」で紹介して、この男の思いについて、女の立場で女の感想を歌に詠んでいる(紀貫之作土佐日記の登場人物の詠む歌は、ほとんど貫之作と思っていい)。聞きましょう。

 

「土佐日記」二月九日。帰京の船の一行は、淀川をさかのぼり水量の少なさに難渋しながら、渚の院のある所に来た。此処は昔、惟喬親王の離宮で、後ろの岡には松の木々があり、中庭に(今は)梅の花が咲いていた。昔、在原業平がお供として来て「よのなかにたえて桜のさかざらば春の心はのどけからまし」という歌を詠んだ所であった。

 

いま、けふ、ある人、ところににたる歌よめり(今、今日、或る人、所に相応しい歌を詠んだ……いま、京在る女、ところに相応しい歌を詠んだ)

千よへたる松にはあれどいにしへの こゑのさむさはかわらざりけり

(千世経た松ではあっても、いにしえの松風の音のさむざむとした感じは、今も変わらないことよ……京を千夜経験している女であっても、過ぎ去った小枝の、さむざむとした感じは、いつも変わらないことよ)

 

「けふ…今日…京…山ばの頂上」「千よ…千世…千夜」「へたる…経ている…経験している」「松…女」「いにしへ…昔…古…去っていったあたり」「こゑ…声…音…小枝…身の枝…おとこ」「さむさ…寒さ…冷たさ…心が寒々とする感じ」「かわらざり…変わらない…あい変わらずである」。

 

 歌の清げな姿は、梅は咲いたが未だ寒々とした渚の院の風景。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、相変わらず、おとこの儚い性に寒々とした思いをしている女の気色。

 こ
の歌は、業平の歌の「心におかしきところ」に対応している。「もしも耐えてお花咲かなければ、女も心寒くならないでしょうね」。


 
伝授 清原のおうな

 

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

 
『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。


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帯とけの『金玉集』 春(十四) 紀 貫之 

2012-10-30 00:04:12 | 古典

    

    




            帯とけの金玉集 



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。

 
 公任の撰した金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が選ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。


 金玉集 春
(十四)つらゆき


 桜ちる木の下風は寒からで 空に知られぬ雪ぞ降りける

 (桜花散る木の下を吹く風は寒くはなくて、空には知れない、花びらの雪が降ったことよ……お花ちる男木の下の心風は冷えてなくて、天には感知されない、おとこ白ゆき、降ったことよ)。


 言の戯れと言の心

 「桜…木の花…男花…おとこ花」「ちる…散る…散らす…降らす」「木の下風…男木の下風…男の下の風…女の風情」「寒からで…寒くなく…なま暖かく…冷えていない」「で…打消しの意を表す」「空…大空…人の営みとはかけ離れたところ…天…あま…あめ…女」「知られぬ…無関係の…感知されない」「雪…逝き…おとこ白ゆき」。


 歌の清げな姿は、桜の花吹雪の景色。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、下のひとの心風は冷えてはいないのに白ゆきふる、おとこのふがいないさが。


 歌は、清げな姿があり、「心におかしきところ」の色情も、古今集真名序にいう奢淫(淫りがましいこと)にならない程度に抑えられてある。



 伝授 清原のおうな

 
 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。


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帯とけの『金玉集』 春(十三) 凡河内躬恒

2012-10-29 00:01:12 | 古典

    



            帯とけの金玉集 



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。


 公任の撰した金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が選ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。


 金玉集 春
(十三)みつね

 
 山たかみ雲ゐに見ゆる桜花 心の行きて折らぬ日ぞなき

 (山が高いので、雲の居る辺りに見えている桜花、心が上って行って、折らない日はない……山ばが高いため、雲井の女に見しているおとこ花、逝きて折らない日はない)。


 言の戯れと言の心

 「山…山ば…感情の山ば」「雲ゐ…雲居…雲の居るところ…雲井…雲のある女」「雲…心に煩わしくも湧き立つもの…情欲など」「ゐ…井…女」「見ゆる…目に見えている…見ている」「見…覯…媾…まぐあい」「桜花…男花…おとこ花」「行き…逝き」「折らぬ日ぞなき…折らない日はない…(心で桜の枝を)いつも折り取っている…(おとこを)折らない日はない…(山ばの途中でおとこは)いつも折れている」。


 歌の清げな姿は、山桜花の素晴らしい眺め。今や、このような歌と思われているでしょう。ほんとうに、それだけの歌だったのか。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、いつも山ばの途中で折れ逝くおとこのさがのふがいなさ。

 

他の歌の山と雲も同じ「言の心」かどうか、万葉集の雲に寄せて詠んだ歌を聞いてみましょう。


 万葉集巻第十 寄雲

白檀弓 今春山尓 去雲之 逝哉将別 恋敷物乎

 (白檀弓 今春山に去る雲の 逝や別れむ 恋しきものを……白まゆみ、いま春の情の山ばで、去り行く心雲のように、逝き別れるのでしようか、恋しい物を)。


 「白檀弓…枕詞、射や張るにかかる」「白…色の果て…しらじらしい」「弓…弓張…おとこ」「今…いま…射間」「春…張る…春情」「山…山ば…春情の山ば」「雲…心に煩わしくも湧き立つもの…情欲など…広くは煩悩」「之…の…比喩を表す」「逝…折れ逝く…おとこの小さな死」「物…もの…はっきり言えないもの…おとこ」「乎…を…感嘆・詠嘆の意を表す…おとこ」。


 女の歌として、歌の様を知り言の心を心得て聞くと、山ばで心と共に逝き果てるおとこを嘆く女の声が聞こえる。これが公任の云う「心におかしきところ」。

 

今やこの歌は、おそらく次のように解釈されているでしょう。「白檀弓 今春山に 去る雲の」は序詞で、枕詞を含むこの序詞によって、「逝き別れ」という言葉を導き出すと共に、情緒的な色彩をほどこし、「逝き別れるのだろうか、恋しいのに」という感情を表現した歌。今ではこれ以外の解釈はありえないでしょう。ほんとうに、このような歌だったのか。


 上の解釈では、貫之、公任のいう「言の心」や「歌の様」や「心におかしきところ」は無視され、清少納言、俊成のいう「聞き耳異なるもの」や「歌語は浮言綺語の戯れに似たもの」という言葉についての意見も無視されている。


 今や、古今和歌集のみならず万葉集を含む伝統的和歌の全てが、清げな姿しか見えなくなり、平安時代の人々が享受したのとは全く別物に解釈され、「心におかしきところ」の無い味気ない歌にされている。



 伝授 清原のおうな

 
 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。


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帯とけの『金玉集』 春(十二) 花山院御製

2012-10-27 00:10:22 | 古典

    



            帯とけの金玉集 



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。


 公任の撰した金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が選ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。


 金玉集 春
(十二)花山院御製


 木のもとを住み家とすればおのづから 花見る人になりぬべきかな

 (木の許を住み家とすれば、自然に、木の花を見る人になってしまうだろなあ……男木の許で暮らすとすれば、ひとりでに、おとこ花を見るひとになって当然だろうなあ)。


 言の戯れと言の心

  「木…男」「もと…元…許…庇護の許」「花…木の花…男木の花…おとこ花」「見…覯…媾…まぐあい」「人…女」「ぬ…完了の意を表す…なってしまう」「べき…推量の意を表す…きっと何々だろう…当然の意を表す…するはずだ」「かな…感嘆、感動の意を表す…だろうなあ」。

 

歌による仰せごとを、撰者の公任に成り代わってとりつげば、次のようになる。


 男どもよ、女は万夜経るだろうとか、若い女が未練がましくものつまんだとか、多情だとか昔から言われるけれども、男木のお蔭を以てその許で暮らすのであるから、木の小枝に咲くお花を見て当然であろうなあ。それにしても、男のさがの弱さよ。ゆきふれば小枝は折れる、知らぬまにゆきふる、世の中に男木など絶えてしまえばどれほど長閑なことかと、昔から嘆くが当然であるなあ。

 


 「みる」という言葉は、目で見るという意味の他に、顔を合わせる、体験する、世話をする、結婚する、異性と関係するなどという意味を、もとより孕んでいることは、今でも知られている。古語辞典を見れば記されてある。

多様な意味のうち、この歌での唯一正当な意味は、花を目で見る(観賞する)だとして、その他の意味は排除される。これは近代人の理性的で論理的判断であるため、永久に揺るぎようがない。かくして、清少納言の「同じ言なれども、聞き耳異なるもの」それが我々の言葉であるとか、藤原俊成の、歌言葉は「浮言綺語の戯れ」のようなもの、そこに歌の趣旨が顕れるという言語観を曲解するか無視することになる。

 
 和歌は、言葉の多様な戯れをすべて受け入れ、逆手にとって複数の意味を表現する。言わば言葉の戯れを利用した文芸である。



 伝授 清原のおうな

 
 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。


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帯とけの『金玉集』 春(十一) 源 重之

2012-10-26 00:11:49 | 古典

    



            帯とけの金玉集 



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。


 公任の撰した金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が選ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。


 金玉集 春
(十一)しげゆき


 やかずとも草は萌えなむ春日野を ただ春の陽にまかせたらなむ

 (野焼きしなくとも、草はきっと萌えるだろう、春日野を、ただ春の陽に任せればいい……男が気を揉まなくても、女はきっと燃えるだろう、かすかの山ばでないところを、多々の女の春情の火にまかせたらいい)。


 言の戯れと言の心

やかずとも…野焼きせずとも…気を揉ままくても…男が無理して心を火と燃やさずとも」「草…女」「萌え…燃え」「なむ…強く推量する意を表す…きっと何々だろう」「春日野…所の名…名は戯れる、かすか野、ひっそりとしたひら野、山ばではないところ」「ただ…唯…たた…多多…多情」「春…季節の春…春情」「日…陽…火…思火」「なむ…適当の意を表す…すべきだ…するといい」。


 歌の清げな姿は、野焼き反対、自然の力に任せましょう。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、かすかな野では、女のおおいなる春情の火に任せたらいい。

おとこの弱いさがでは、一瞬の山ばの後は、かすかな野となるのが常である。おとなの男どもは、少し気が和んで笑顔でこの歌を聞けるでしょう。


 この歌は「草」という言葉に、女という意味があると心得ないと、平凡な歌にしか聞こえない。「草、菜、水草、藻、草花」などに、女という「言の心」のあることを論理的に解明し実証することはできない。だからこそ貫之は、「言の心」を、知る人は(理解し知識とする人は)とは言はず、心得る人は歌がおもしろくて恋しくなるだろうと言った。


 万葉集巻第八 春雑歌。山部赤人の歌、「草花」を女と心得て聞きましょう。


 春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ 野をなつかしみひとよねにける

 (春の野にすみれ摘みにと来た我は、野を好ましく親しんで、一夜宿ったことよ……春の野に、をみな娶りに来た我れぞ、ひら野に慣れ親しみて、をみなはよ、寝てしまったなあ)。


 「すみれ…草花…女」「野…山ばの無いひら野」「なつかしみ…好ましくて…馴れ親しんで…(山ばの頂に上れず野に)狎れて」「ひとよ…一夜(原文)…人よ…女はよ」「宿二来(原文)…宿りにき…宿りにけり…寝にける」。


 少年の日、仲間との野宿の楽しさを詠んだかと思わせる清げな姿をしている。言の戯れに「心におかしきところ」が顕れている。それは、おとなの男どもを和ませ笑顔にさせるでしょう。和歌はそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。


 赤人は人麻呂の下に立たし難い優れた歌詠みだと、古今集仮名序で貫之は言う。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。


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