■■■■■
帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。
歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (268)
人の前栽に、菊に結び付けてうへける歌 在原業平
うへしうへば秋なき時やさかざらむ 花こそちらめ根さへかれめや
(他人の前栽に、菊に結び付けて植えてあった、歌……女の前にわに、菊に・貴具に、つけて植えた・歌) 在原業平
(植えたならば、秋でない時に、咲かないだろうよ、秋には・花は咲き散るだろう、根さへ枯れるだろうか、枯れはしない・長寿の菊ですよ……植えつけたからには、貴女に・厭きが来ない時に咲きはしないだろうよ、お花こそ咲き散るだろう。根さ枝、枯れるだろうか・涸れはしない・離れないぞ)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「人の前栽…他人の家の前庭…女の前にわ…おんな」「きく…菊…草花の名…女花…言の心は長寿…名は戯れて、奇具・貴具・おんな・特別なおとこ」。
「うへし…うゑし…植えた…植え付けた…たね撒いた」「し…強意を示す…肢・士・おとこ…きの連体形…(植え)た…(植え)た状態が今も続いている」「うへば…植えれば…うへは…上は…からには」「秋…飽き…厭き」「花…お花…貴具の花…おとこ花」「根…お根…おとこ」「かれ…枯れ…涸れ…離れ」「や…反語の意を表す」。
植えたならば、秋でない時に咲かないだろうよ、花は秋に咲き散るだろう、根さへ枯れるだろうか、枯れはしない・長寿の菊ですよ。――歌の清げな姿
植えつけたならば、貴女に・厭きが来ない時に咲きはしないだろうよ、おとこ花こそ咲き散るだろう、根さ枝、枯れるだろうか・涸れはしないぞ、離れないからね。――心におかしきところ。
おとこの薄情な色情を克服して、わがお根は、貴女に厭きが来るまで、折れない・涸れない・離れないと告げた歌だろう。、
この歌は「伊勢物語」の歌である。「伊勢物語」(51)には、「むかし、男、人の前栽に菊うへけるに」とあって、この歌がある。
「伊勢物語」は「業平の日記」であり、業平原作の物語である。その清げな姿の内なる真髄は、次のように読める。「……武樫おとこ、女の前にわに、貴具うえつけたときに、……植えたからには、貴女に、厭きの来ない時には咲かないだろうよ、おとこ花は咲き散るだろう、貴女の音は嗄れるだろう、おとこ根は枯れも涸れもしない、離れないからね」。このエロスが清げな姿に包まれてある。
次の(52段)の真髄を記すと、「武樫おとこがあった。女の許より、重なりちまきを贈って来た(重ねて、ちまき・おとこ、欲しいの)という意味らしい)、業平の返歌、
あやめ刈りきみは沼にぞまどひける 我は野に出でて狩るぞわびしき
(……美しい女めとり、貴女は情欲の沼に惑うたことよ、我はひら野に出て、枯れ涸れ離れている、わびしい)とて、雉(きじ・来じ・再び通って来ないだろうという意味らしい)を贈った。
少なくとも「歌の言葉」は、浮言綺語に似た戯れの意味で詠まれてあると知り、国文学的うわの空読みを脱すれば、「伊勢物語」ほどおもしろい物語は他にない。武樫おとこと言えども、女の性(さが)には、勝てないらしい。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)
明日より当分の間、都合により新規投稿は休みます。