帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの土佐日記 (つとめて大湊より) 正月九日

2013-01-25 00:04:01 | 古典

    



                          帯とけの土佐日記

 土佐日記(つとめて大湊より)正月九日

 
九日の早朝、大湊より奈半の停泊港に至ろうとして漕ぎ出した。誰彼となく入れ替わりに、国境の内まではということで、見送りに来る人が多く居る中で、藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきまさ等は、(前国守が)御舘を出られて以来、あちこちに追って来る。この人々こそ心ある人だったのだ。この人々の深い厚意は、この海にも劣らないでしょう。これより(彼らから…深い厚意から)、いま漕ぎ離れてゆく。れを(離れゆく一行を)見送ろうとして、この人々は追って来たのだった。こうして漕ぎ行くにつれて、うみのほとり(海の辺り…憂みのほとり)に留まっている人も、遠くなった。ふねのひともみえずなりぬ(船の人も見えなくなった…夫根の男も見えなくなった)。きし(岸…女)にも言うことがあるでしょう。ふね(船…夫根)にも思うことあるけれど、かひ甲斐…貝)はない。それでも、この歌を独り言(語り手のつぶやき)にして終わった。

おもひやるこゝろはうみをわたれども ふみしなければしらずやあるらむ

(遠く離れた相手を・思い遣る心は、海を渡るけれども、文をしなければ知ってもらえないでしょうね……ゆき離れるふ根を・思い遣る心は、憂みがひろがるけれども、経験しなければわからないでしょうね)。


 言の戯れと言の心

 「うみのほとり…海辺…憂みのほとり…つれない思いの辺り…満たされない辛さの辺り」「ほとり…辺り…付近…果て」「ふねのひと…船の人…夫根の人…男」「かひ…期待している効果…貝…男にはないもの」。「みえず…見えない」「見…覯…まぐあい」「きし…岸…浜や渚とともに言の心は女」「ふみ…文…踏み…経験…体験」。


 こうして、うたのまつはら(宇多の松原…憂多の待つ腹)を行過ぎる。その松の数、どれほどか、何千年経ているか知らない。根元毎に、波打ち寄せ、枝毎に、つる(鶴…女)が飛び交う。おもしろいと見ているだけでは堪えられず、ふなひと(船人…夫の人)の詠んだ歌、

みわたせばまつのうれごとにすむつるは ちよのどちとぞおもふべらなる

(見渡せば松の梢毎に住む鶴は、松を千代の友と思っているようだ……身わたし見つづければいつも女の憂い言にて済んでしまうのは、千代に変わらぬ女の思いのようだ)。

とか。この歌はところをみるにえまさらず(この歌は所を見る感動に優ることはできない…歌に表わされた景色は、現実の景色を見る感動に優ることはできない)。


 言の戯れと言の心

 「うた…宇多(地名)…歌…憂多」「まつ…松…待つ…女」「はら…原…腹…心の内」「なみ…波…男波」「つる…鶴…鳥…女…松と言の心は同じ」「ふなひと…船人…夫な人…男」。

「み…見…覯…媾…まぐあい」「み…身」「松…女…鶴…女…言の心は同じ同士」「うれ…梢…憂い」「ごと…毎…言」「すむ…住む…済む」「つる…鶴…鳥…女…完了の意を表わす」「どち…同士…友…同じ思い」「べらなり…推量の意を表わす…男が女性について推量した」。


 
 貫之は、歌の様について、それに、言の戯れと言の心を、それとはなしに教示している。「うた、まつ、はら、つる、ふね、み、ふみ、かひ」などのこと。

歌は「心に思ふことを、見る物、聞くものに付けて言い出せるなり」と古今集の仮名序にある。見る景色などの描写は、それに人の思う心を託し付けるためにあるということ。景色をどのように描写しても、実際の景色を見る感動に優ることはできない。


 
伝授 清原のおうな
 
聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系土佐日記による。