帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集 巻第一 春秋 (四十九と五十)

2012-04-14 00:03:42 | 古典

  



          帯とけの新撰和歌集



 言の戯れを知らず、貫之の云う「言の心」を心得ないで、解き明かされてきたのは和歌の清げな姿の
み。公任の云う「心におかしきところ」を紐解きましょう。貫之の云う「艶流、言泉に沁みる」を実感できるでしょう。帯はおのずから解ける。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第一 春秋 百二十首(四十九と五十)


 見る人もなき山里のさくら花 ほかのちりなむ後ぞさかまし 
                                   (四十九)

(見る人もない山里の桜花、他の花の散った後に咲けばいいのに……見るひともいない山ばのすそのおとこ花、ひとの華の散った後に咲けばいいのに)。


 言の戯れと言の心

 「見…目で見ること…覯…まぐあい」「人…人々…女」「山里…山の麓…山ばの裾野」「さくら花…桜花…男花…おとこ花」「ほか…他…他の花…女の華」「花…華…栄華…盛り」「散る…果てる…おわる」「まし…もし何々ならば何々だろう…仮に想像する意を表す…であればよい…適当の意を表す…だろうに、ならばいいのに…不満や希望を込めて用いられることが多い」。


 歌は山里の桜花を詠んで清げな姿をしている。何となく女の妖艶な情が感じられれば、それが歌の「心におかしきところ」。常に先に散ってしまうおとこのさがにたいする不満が歌の心でしょう。
 女歌であることは歌の内容によってもわかる。

 


 たまかづら葛城山のもみぢ葉は おもかげにこそ見えわたりけれ 
                                    (五十)

 (玉かづら葛城山のもみじ葉は、思い出される景色として、見渡していることよ……玉且つら、且つら来山ばの飽き色の身の端は、まぼろしとなって見つづけていることよ)。


 「たまかつら…枕詞…延るもの、長いもの、絶えるものなどにかかる」「葛城山…山の名…名は戯れる、且つらの山ば…なおもまたという長い山ば」「ら…状態を表す」「もみぢ…黄葉紅葉…秋の色…飽きの色」「は…葉…端…身の端…おとこ」「おもかげ…思い浮かぶ姿かたち…幻影…まぼろし」「見…覯…まぐあい」「わたる…渡る…ひろがる…つづく」「けれ…けり…気付きや詠嘆の意を表す」。


 歌は思い出される葛城山の紅葉を詠んで清げな姿をしている。飽き延び果てたおとこの見続ける艶情が「心におかしきところ」。



 伝授 清原のおうな

 
 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九 新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。