帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集 巻第一 春秋 (三十九と四十)

2012-04-09 01:05:06 | 古典

  



          帯とけの新撰和歌集



 紀貫之の云う「歌の様」を知らず「言の心」を心得ないで、近世以来、解き明かされてきたのは歌の清げな姿のみ。歌の「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解け、生々しい人の心が浮言綺語の戯れのような歌言葉のうちに顕れ、貫之の云う「絶艶の草」が実感できるでしょう。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第一 春秋 百二十首(三十九と四十)


 桜花さきにけらしなあしひきの 山のかひより見ゆる白雲 
                                   (三十九)

(桜花、咲いたようだなあ、あの山の峡谷に見えている白雲……お花、咲いたことよ、あの山ばの谷間より、見ている白けた心雲)。


 言は戯れるものと知り、当時の大方の人々が歌言葉より思い浮かべた事柄、即ち「言の心」を心得ましょう。

 「桜花…木の花…男花…おとこ花」「けらしな…にちがいないなあ…であったことよ」「な…感動を表す」「あしひきの…枕詞」「山…山ば…感情の高まったところ」「かひ…峡…谷…交…貝…女」「見…目に見える…覯…媾…まぐあい」「白…はてた色…白けた色…おとこのものの色」「雲…空の雲…心の雲…煩わしくも心にわき立つもの…情欲など…煩悩」。

 春の景色を清げな姿として、ものの山ばの果てを詠んだ男歌。



 秋の露うつしなればや水鳥の あをはの山うつろひぬらむ 
                                    (四十)

(秋の露は、移しだからねえ、水鳥のような青葉の山が色移ろうているのでしょう……飽きの白つゆ、写しだからか、女がまだ青い、吾がおの山ば、おとろえてしまったようね)。 


 「秋…飽き」「うつし…移し…変えること…写し…そっくりそのまま」「水鳥…女」「水…女」「鳥…女」「の…比喩を表す…主語を示す…所属などを表す」「あをは…青葉…吾お端…吾がおとこ」「山…山場…もののやまば」「うつろひ…移ろい…色変わり…衰え…色褪せ」「らむ…しているのだろう…ているような」。

 秋の景色を清げな姿とする、ものの山ばの果てを詠んだ女歌。

 


 近世以来、これらの歌は叙景歌とか自然詠などと名付けられ、景色の歌とされているでしょう。


 歌の「心におかしきところ」が聞こえなくなった原因を考えましょう。


 一に、言の戯れを、序詞とか縁語とか掛詞と名付けることによって克服し把握したと錯覚し
たことである。言の戯れはそのように単純ではなく、戯れを利して歌の趣旨を表す様式であった。

 
二に、貫之のいう「言の心を得たらむ人」とは、桜花は男花、水鳥は女、雲は情欲であることなどを、心得ている人である。これら「言の心」は古今伝授の中に埋もれて、近世以来の近代人の論理実証型の思考にはなじまない事柄であるため拒否され、「さくら花…おとこ花」などということは、蘇える事はなさそうである。

 もとより言葉は、不条理な意味をも孕むものである。多くの古歌から会得または体得して心得るべきこと。


 三に、歌は、姿清よげに、心におかしきところがある様式であったのに、近世以来、清げな姿を歌そのものと見なしてしまったことである。

 


 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九 新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。