Kawolleriaへようこそ

日記・物語・エッセイ・感想その他

ベルクソン2 臨死体験

2009-11-28 06:25:07 | エッセイ
 整理すれば、意識――持続――記憶――生命、いずれも同じ実体のそれぞれの傾向的な把握と呼べる。これらの用語についてはいずれ立ち返る予定である。
 ベルクソンは、肉体である脳の役割を極めて限定的に捉える。
 比喩的に言えば、白紙の紙にペン先からつぎつぎにコトバが紡ぎ出され、文章が書かれていく。そのペン先が「脳」なのである。例えば、「脳」であるペン先の調子が悪ければ、書字は混乱し読みづらくなるであろう。意思疎通に支障を来すに違いない。「脳」という器官から記憶内容が紡ぎ出される。すでに、記憶内容は、ベルクソンによれば、霊魂である。例え、ペン先が故障したり、失われたとしても、霊魂である記憶内容そのものが霧散したわけではない。たんに、表現する出先を失ったに過ぎない。もちろん、再生されることのない脳の死は、現実的には、霊魂は地上的には、存在しないと同一の現象となる。
 早速、ベルクソンの記述を引用しよう。臨死体験について語っている箇所である。

「みなさんは溺れたり首つりをしたひとが、生き返ったときに一瞬のあいだに自分の過去のすべてをパノラマのように見たと語るのを聞かれたことがあるでしょう。」「つまり、われわれの過去の全体が、たえずそこにあり、それを認めるためには振り返りさえすればよいということなのです。ただわれわれは振り返ることができないし、振り返ってはならないのです。振り返ってはならないのは、われわれの運命が生きること、行動することであり、生と行動は前方を見ているからです。振り返ることができないのは、ここでの脳の機能がまさに過去を隠し、いまの状況を明らかにして行動に役に立つものだけをいつも見せるようにすることだからです。脳が、役に立ち記憶内容を想起するのは、われわれの記憶内容のすべてを、ひとつだけ残して暗くすることによってです。ただひとつ残される記憶内容とは、われわれに関心があり、われわれの身体がすでに身ぶりでまねをして描いているものです。いま、生への注意が一瞬のあいだ弱くなると、――私がここで言っているのは、瞬間的・個人的、意志による注意でなく、すべての人に共通で、自然によって与えられた永続的な注意で、《人間全体の注意》とでも呼べるものです――そのとき、その視線が無理に前方を見るようにさせられていた精神が弛緩し、弛緩したためにうしろを振り返ります。そしてそこに自分の歴史のすべてを再発見します。したがって、過去がパノラマのように見えるのは、すぐに死ぬのだという突然の確信から生じた、突如とした生への無関心のためです。そして、脳がそれまで記憶作用の器官として行ってきたのは、注意を生に固着させ、意識の領域を有効に縮めることだったのです。」(宇波彰訳『精神エネルギー』所載「《生者の幻》と《心霊研究》」93頁―94頁)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿