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砂漠のバグダッド・カフェ

2014-08-08 20:43:57 | エッセイ
すでにかなり知られた名画の類であろうか、「バグダッド・カフェ」(パーシー・アドロン監督・二〇〇三年DVD)が発売されている。
 コンボイが行き交う砂漠の真ん中の寂れた給油所兼コーヒーショップに、一人の不思議な婦人が、迷い込むようにやって来る。それも徒歩で。いでたちは、黒いスーツで着飾り重い荷物を引きずっての来店に、無愛想な黒人のオーナー主婦も大いに戸惑った。まさに痩せこけた自分とは対照的に、見事にまるまると肥えた、言葉も分からない白人の外国人である。おんぼろショップはコーヒー豆さえも切らしている有様で、まともに客を受け入れる対応さえ出来ない。少々頭の弱い亭主を追い出したものだから、赤ん坊を抱えて、てんやわんやで、店は散らかしほうだいで、雇いのインディアン青年がやっとやりくりしている。黒人の独り息子はピアノ狂で四六時中騒がしく弾いている。娘が一人いるのだが、フラッパーで男友達と遊び歩いている。いらいらした女主人は、ドイツ人の婦人を金がないと見くびって、適当にあしらいショップ付属の宿泊施設をあてがう。誰も頼りにならないので、女主人は自動車で近くの街までコーヒー豆など食料品を買いに出かける。それから物語は急展開を始める。
 帰ってきたら、自分の店が自分のものでないみたいに変わっていたのだ。店は看板から窓ガラスまでピカピカ、店内もカウンター内も、整理整頓され、塵ひとつ落ちていない。雑多なガラクタは、一か所にまとめられている。まるで魔法である。外国人婦人――通称ジャスミン――は、子守を押付けられた音楽狂の息子が気の毒になり赤ん坊をあやしている。女主人は勝手にかたづけられて怒り心頭、ジャスミンがなにか自分に悪意があってか、金目当てと邪推したのだ。つんけんしてジャスミンに出て行ってくれと通告。赤ん坊を取り返えされて部屋を出て行くジャスミンの悲しげな顔を見て、この女は善意なのではないかと心を動かされる。女主人の邪険な対応は変わらないが、二人の関係が変化していく。ジャスミンは店の手伝いまで始める。よき理解者を得て息子のピアノ弾きも、好奇心旺盛の娘の態度も変わっていく。そうした一部始終を好意的に見ていた常連客がいた。ジャック・パランス――映画「シェーン」「軽蔑」などに名脇役として出演――が演じる売れない画家である。彼は、ショップの駐車場にキャンピングカーを停めていて、ときどき絵を描いている。ジャスミンは来店した客を相手にちょっとした手品をして楽しませる。何もない手からバラの花を咲かせたり、ハンカチを取り出したり、彼女は奇術師なのである。あの持ち込んだ重そうな荷物も奇術の道具や衣装が入っていたのだ。やがて店は、トラック運転手の口から口への彼女のうわさが広がって、客が増え、とうとう女主人も美声を披露する、一家総出でノリまくる。こうなるといかにもアメリカ的ノリで、私はつていけなくなる。常連客の変人の女客は、私と同じようについていけなくなったらしく「ここはみんな仲が良すぎる」と言って去っていくのが印象的だ。
 それでも、最後まで観させたのは、ジャスミンと画家の感情の推移である。ある日、彼女はモデルになるのを了承してキャンピングカーの画室に坐る。何日かが過ぎ、次第に打ち解けて、自分から太った上半身裸体となる。セクシーだがセクシャルでない裸体。ジャスミンはただ人を喜ばせたい、驚かせたい、その善意だけで生きているのだ。彼女が店を掃除して一変させたのもそうした奇術の一つなのである。
 このDVDを観ているときから気になったのは、フェルナンド・ボテロの太った女の絵である。分厚い画集を引っ張り出してきて観て、彼の絵を観る視点が変化したのに気づいた。そういえば、西欧の芸術の一つの流れには、太っちょの女の裸体の系統がある。彫刻のマイヨールの圧倒的な堂々とした量感、熟れた果実のような印象派のルノアール、土管のように逞しい手足の女たちを描くレジェ。視線に媚びて惹きつけるのではなく、もっと拡散するように広がる豊饒なもの。それは無心という意味で、形態の充実が、内に秘める真実なものだろう。それがジャスミンの心の真実であり、奇術なのではなかろうか。
 とりあえずジャック・パランスの画家は別として、ボテロの描く太った女の裸体は、豊饒を入れる乾杯のジョッキである。彼は、形態を描くのであり本来モデルなど必要ない。
 映画のストーリーに戻れば、ジャスミンは滞在期間切れで警察に捕まり、バグダッド・カフェを去る。よほど店が忘れがたかったのであろう。期間を延長して店にふたたび姿を現わし、女主人を喜ばせる。その時、画家が滞在期間切れの心配がないようにという、しゃれた理由でジャスミンに結婚を申し込んで、めでたしめでたし。彼女と画家の間にあからさまな恋愛感情を差し挟まなかったのが、どこかにすがすがしさを残した結末であった。
 現代社会において、ある意味で太った女はマイノリティーである。その真実を明らかにしたのがこの映画であり、ボテロの画業であろう。バグダッド・カフェとは、奇人変人、つまりマイノリティーばかりの舞台なのだ。今でも、アメリカの砂漠には存在するであろうか。残念ながら、日本の風土には、そうした自由の気質は欠乏している。奇術や手品を愉しむよりも、むしろ詮索好きなのだ。