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日記・物語・エッセイ・感想その他

ヒュペーリオン⑭

2010-12-31 06:42:11 | エッセイ
 ヒュペーリオンはベラルミンに当時の手紙を書き写して送る。彼女と別れてからの二人が交わした数通の手紙である。最初、戦況は味方に有利に進展し意気揚々たるヒュペーリオンの心情が語られる。しかし、ほどなくディオティーマ宛に悲痛な手紙が書かれる。
「万事休した、ディオティーマよ、わが部下はだれかれの区別なしに、掠奪をほしいままにし、殺戮を始めた。私たちの同胞、ミジストラに住んでいるギリシア人はなんら罪なくして殺されてしまった」(178頁)「ほんとに! 群盗の一団によって私の楽園を樹立せんとするのは、常軌を逸した計画でなければならなかった。いや! 聖なる復讐女神にかけて! 私には当然な結果が与えられたのだ」「私は、残虐なことを食い止めようとすると、私の忠実なる部下の一人が私に斬りかかってきたために、名誉の負傷をしたのだ」「凶暴な群集はどこといわず侵入して来るし、モレアでは掠奪欲は疫病のように荒れ狂った。剣を手にしないものまでも追い立てられ、されるような勢いで、しかもそういう狼藉者の言い草は、われわれはわれらの自由のために戦っている、というのだ」「ああ、あなたに新しいギリシアを約束した、ところがあなたに差しあげたのは嘆きの歌曲だけである」(180頁)

ヒュペーリオン⑬

2010-12-30 08:03:28 | エッセイ
 ディオティーマは恋人をいさめて「何はさておき極端に走ろうとする人は、復讐の女神(ネメシス)のことを思い出さないといけません」という。それに対してヒュペーリオンは「極端を好む人間には極端が適しているのです」と譲らない。「適しているかもしれませんが」と彼女は言った、「あなたはそういう性質の方ではありません」(145頁)
 いうまでもなく「極端を好む人間」とは、この場合、ギリシアの独立を阻むトルコ軍を指している。こうしてヒュペーリオンは恋人の島カラウレアを後にしてアラバンダの待つ戦場へとおもむく。これが生身のディオティーマと接する最後の機会になろうとは知るよしもなかった。

ヒュペーリオン⑫ 後編第一章

2010-12-29 06:50:24 | エッセイ
 ヒュペーリオンはベラルミン宛に手紙を書いている。
 アテネ旅行は初夏であった。今は秋である。音信不通のかつての親友アラバンダから突然手紙が届く。北方の大国ロシアがトルコに宣戦布告したので、それに呼応して立ち上がれば、トルコ皇帝のくびきを脱してギリシアは独立を勝ち取ることが出来る。ヒュペーリオンへ参戦を促し、古代スパルタの遺蹟近くの要塞まで来ないかという誘いである。アラバンダはすでに秘密結社との結びつきを切っていた。ヒュペーリオンは大いに動揺して自問する。
「お前は単なる言説で満足し、呪文をもって世間を魅了せんとしているのか。しかしお前の言説は紛々たる雪片のように、何の役にも立たない、そして空気をただ濁らすだけのことである。お前の呪文は敬虔なる輩には向くだろうが、不信の徒はお前の言に耳を傾けない――そうだ、機に応じて温雅であることは、美しいといえようが、あらぬ時に温雅であることは見苦しい、つまり卑怯な振る舞いであるからだ」(144頁)
 ここで「呪文」は、現実に目を背けて、詩作に没頭する詩人の比喩にもとれよう。いわば、ヒュペーリオンは芸術を取るか、現実行動である戦闘を取るか、詩と政治の選択を迫られたと言えよう。

ヒュペーリオン⑪

2010-12-28 06:53:19 | エッセイ
 ディオティーマも恋人に自らの考えを語る。
「あなたの心情や活動が非常に早く成熟してしまったら、あなたの精神は決して今のような状態に達していなかったでしょう。あなたが悩める人間、内向する人間でなかったら、現在のような、考える人間になれなかったでしょう」「あなたはあなたの恋の天国に閉じこもってしまって、あなたというものを必要とする世間をそのまま枯死させ、冷却させてしまおうと思っているのですか。あなたは太陽光線のように、万物を生き返らせる慈雨のように人間界に降り下るべき方です」(134頁)
 そして彼女はヒュペーリオンにさらに言う、「この国の教育者」になるように勧める。
 こうしてヒュペーリオンからベラルミンへの手紙は、稔り多きアテネ旅行の記述によって終って前編は終了する。

ヒュペーリオン⑩

2010-12-27 09:40:46 | エッセイ
 なおもヒュペーリオンは語り続ける。
「人間的な、言い換えると神的な美の長子は芸術である。芸術において神的な人間は自分自身を若返らせ、繰り返してみるのだ。彼は自分自身を感じようと欲する。それがために彼は彼の美を自分の面前に対峙せしめる。人間が彼の神々を自分自身に与えたのも、その一例である。というわけは、自己の何たるかを意識しない太初においては、人間と彼の神々とは一つであったからである――私は神秘を語っている。しかし神秘は存在しているのだ」(121頁)
 ここでは、ヒュペーリオンにとって、恋愛であれ、幼年期の童心であれ、無垢なるものが神的なものと同一に扱われている。「詩は哲学の初めであり終りである」(123頁)という箴言にも、詩は無垢なるもの、哲学を人間と解する含意が認められよう。
「完全な純粋な美を少なくとも一生に一度、自分のうちに感じなかったような人間は、ひとり感激の時刻においてのみ、一切がいかに切実に一致するかを決して経験しなかったような人間は、哲学的な懐疑者すらなりえないであろう。彼の精神は破壊にすら役立たない。まして、いわんや建設に役立とうはずがない」(124頁)

ヒュペーリオン⑨

2010-12-26 06:54:36 | エッセイ
 若干の予備知識が必要かもしれない。古代アテナイ人は、ほかのポリスの多くが北方からギリシア半島に南下してきたドーリア人であったのに対して、彼らはアッチッカ地方に土着の民族としての誇りを持ち続けていた。また、トロイア戦争にもほんのわずかな軍勢しか参加しておらず、大きな役割を果たしていない。じつに、彼らの歴史は、僭主ペイシストラトス(前561-528)の時代以前にはほとんど知られていない。アテナイの人間的文化芸術が花開くのは、第一次ペルシア戦役の勝利以降である。引用は明らかに、対比として常にアテナイとギリシアの覇権を争ったスパルタを意識しての記述である。今日、スパルタではどのような文化的な遺蹟も見出すことは出来ない。
「スパルタ人は永遠の断片以上のものではなかった。かつて完全なる子供でなかったものは、完全な成人とはなり難いからである」(120頁)
「要するに彼以外に人間が存在する、何か或るものが存在するということを後になってやっと分かるようにしてやることだ。そういう風にしてのみ彼は人間になれるからだ。人間はしかし彼が人間になるや否や、一人の神となる。そして彼が一人の神であるならば、彼は美を示現したことになるのだ」(121頁)
 ヒューマニズムを、ある意味で超える、深い思想であり、教育論である。明確な言葉で他者認識が語られている。

ヒュペーリオン⑧

2010-12-25 06:37:11 | エッセイ
 前編のしめくくりは、ヒュペーリオン、ディオティーマ、ノターラらの一行は、カラウレア島からギリシア本土に渡りアテネを訪れる。アテネを俯瞰しながら語られる対話は、ヒュペーリオンの古代アテナイ論であり、もちろん著者ヘルダーリンの思想であろう。本編の一つの圧巻である。
「いかなる点においても妨げられることなしに、地球上のいかなる民族よりも、偉い影響から煩わされることなしに、アテナイの人民は成長して行ったのだ。彼らはいかなる征服者からも弱められることなく、いかなる戦争によっても酔わされた例はなく、いかなる外来の礼拝によって麻痺せしめられたことなく、いかなる既成の人生観によって早熟を促されたこともない。彼らの幼年時代は、金剛石のように、自分の力で自然と延びて行った。ペイシストラトスおよびヒッパルコス(前者の息子)の時代に至るまでは、彼らのことは一向に伝えられていないと言ってよろしい。トロヤ戦争にも彼らはほんの少ししか関心を持たなかった。この戦争はちょうど温室のように、ギリシアの民族の大半をあまりにも早く興奮せしめ、活気付けたに過ぎないのだ――異常な運命というものは、人間を生むものではない。かくのごとく母から生まれた息子たちは雄偉であり、巨大である。しかし、美しいもの、言い換えると人間にはならない。もしくは対立があまりにも激しく戦いあった揚句の果てに、やっと平和がかもされる頃になって始めて、人間になれるのだ」(118頁)「いずれの技術も人間の自然(ナトゥール)がまだ成熟してないときに始まるのは、尚早といわねばならないから」(119頁)

ヒュペーリオン⑦

2010-12-24 06:21:11 | エッセイ
「幾度も幾度も私は彼女と私自身に向って繰り返した――最上の美は最上の聖であると」(85頁)
「自分の知識や人格が人並み以上に優れていることなど少しも知らないでいるこの女性の巧まざる調子に比べると、世の中のあらゆる人為的な知識などはそもそも何であろう? 人間の思想の得意満々たる成熟も何であろう?」(86頁)
「私はこれほど欲望のない、神のようにおのれに安んじているものにめぐり会ったことはない」(88頁)
「泉が銀の水滴で滴り落ちてくる天との接触によってかそけくもうちふるえる有様を眺めるように、私は恍惚として彼女の心情を見つめるとき、私は昂ぶる生命と努力にあえぐ精神とは幾度か柔げられたことであろうか」(89頁)
「夢は美しい星のように消えうせて、ただ哀愁の甘美なる味わいがその形見として私の心に残っている」(107頁)
「私たちの対話はそちこちに砂金の閃めく紺碧の水のように、滑らかにすべって行った」(114頁)
「人間は恋するときには、一切を見、一切を浄化する一つの太陽である。恋せぬときには、人間はくすぶれる豆ランプの点っている薄暗い部屋である」(114頁)
「私は当時はまだ、林檎の実が自分たちの口に接吻してくれないと、それが全然そこにないかのように、樹の下で泣き喚く短気な子供たちのようなものであった」(115頁)
 長い引用になったが、二人の恋の日々を要約して伝えるわけにはいかなかったのである。

ヒュペーリオン⑥

2010-12-23 06:30:25 | エッセイ
「彼女のいることによって一切は聖化され、美化されていた。どこを見ても、何に触れても、例えば彼女の絨毯、褥、小卓、何もかも彼女とひそやかな繋がりを持たないものとてなかった」(81頁)
「数千年の間に人間が行いかつ考えたところの一切も、恋の一瞬に比べればなんであろう? それはまた自然における成功の極致、神々しい美の至境でもある。生の梯子のあらゆる階段は結局そこへ通じる。私たちはそこから来り、そこへ帰ってゆくのである」(84頁)
 この恋を私たちはあまりにロマンチックに解してはならないだろう。実存が問われているのだ。その実存が両性の関係において極限にまで拡大されている。

ヒュペーリオン⑤

2010-12-22 06:25:34 | エッセイ
 恋の予感をヒュペーリオンは手紙に書く。
「おお、火のように力強くわれわれの内部で生活している精神の姉妹なる、聖なる大気よ、お前が、どこへ私がさすらって行っても、いつも私の伴侶になってくれるのは、なんと素晴しいことであろう。宇宙に遍満せる不死なる者! 子供たちと崇高なる大気はいちばん楽しそうに戯れていた」(76頁)
 ヘルダーリンにおいて大気は、つまりエーテルは重要な概念であることを忘れてはなるまい。悦びの拡がる聖なる媒体であることを。
 いま、ヒュペーリオンはディオティーマとの失われた恋を振り返って自問している。
「私はかつて幸福であった、ベラルミンよ。私は今でもやはり幸福ではないのか。私が始めて彼女を見た瞬間がたとえ最後のものであったとしても、私は幸福ではないのであろうか」「私はそれがどこにあるかをもう訊ねない。それは世界において回帰することが出来る。それは世界において十分姿を現さないだけだ。私はそれを見た、私はそれを識ったのだ」「彼者の名は美である」(80頁)
 ヒュペーリオンは、失われた恋を存在論的に問うていることに注目したい。恋人ディオティーマを超えて、精神分析的には母なるものであろうし、エクリチュールの白紙であろうし、さらにその先に、バシュラールの言う物質的想像力の元素である大気への呼びかけなのだ。つまり、ポエジーへの限りなき信頼!