Kawolleriaへようこそ

日記・物語・エッセイ・感想その他

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

メランコリア

2016-11-04 19:34:30 | エッセイ
ワグナーの楽曲「トリスタンとイゾルデ」が流れる中で、剥製の鳥が空からぼたぼた落ち、石像のように微動だにしない謎めいた裸体の女が現れる。また、女は投網のような樹木に絡まれウェディングドレスの姿で逃れようと駈けている。不吉な太陽と月と未知の惑星のもとで、姉妹の女、二人の間に男の子がぽつんとたたずんでいる。水の中を漂うオフィーリアを思わせる若い女。いずれも、ラース・フォン・トリア監督の映画「メランコリア」(二〇一一)のプロローグに当たる、スチール写真のようなシーンである。この映画のDVDのケースに書かれたコピーを以下に転写する。
「その日ジャスティンにとって、人生最高の一日になるはずだった。マイケルとの結婚パーティーは、いま、姉クレアと夫ジョンの豪華な邸宅で盛大に行われている。しかし、皆の祝福を受けながら、ジャスティンは激しい虚しさと気だるさに囚われ、自らの感情をコントロールできなくなる。そして、パーティーは最悪の結末に……。憔悴しきったジャスティンが、クレアとジョンの邸宅を再び訪れた際、惑星メランコリアは地球に異常接近していた。地球との衝突を恐れて怯えるクレアに対し、ジャスティンはなぜか心が軽くなっていく感覚を覚える。メランコリアが地球に最も接近する夜、ジャスティンはクレアたちと共にその瞬間が訪れるのを待ち構えていた。それは「世界の終わり」が訪れるかもしれない瞬間――」
 このようなストーリーめいた文章を読んだだけでも、単に巨大惑星の衝突による「世界の終わり」を描いたSFではない、象徴的な作品であることが分かろう。さまざまな象徴が入り込んで仕組まれているので、まるで高級パズルを解く面白さに匹敵する。
 思いつくままに挙げれば、題名の「メランコリア」から、デューラーの版画「メランコリア1」を思い浮かべる。天使のような羽根のある男が考え込んでいて、得体の知れない器具や道具、うずくまる犬など、ごちゃごちゃに描かれ、謎の多い作品である。そもそも彼の一連の版画はどれも寓意画なのだ。観る人が観れば、謎解きは簡単なのかも知れないが、私には、映画と関係ありそうなのは、地平線のあたりが光っていて、メランコリアの地球衝突の発想を予感させたことくらいであった。また、乗馬シーンが多く、暴れる馬を虐待するところもあり、ニーチェの発狂のきっかけを連想させられる。
 映画の豪邸の二階には、画集が拡げられていて、最初、ロシア・アバンギャルドの抽象画が飾られていたのに、ブリューゲルの絵「雪中の狩人」に差し替えられるなど、映画全体に、象徴的な工夫に満ちている。おそらく、それを探すだけでも、その種の好事家にとっては堪えられない作品と思われる。
 最大の象徴は、遙か蠍座のアンタレスからやって来て、地球に接近する巨大な惑星であろう。ジャスティンの「鬱」とメランコリア接近がシンクロナイズされているのだから、当然、「うつ病」の症状の象徴として巨大惑星なのだ。ついでに触れれば、蠍座生まれの性格的典型は、完全主義者で堅実、思いやりがあって優しい、うつ病の専門書では、もっとも「うつ病」と馴染みやすいタイプとされている。彼女が、星空を見上げて蠍座を見分けるシーンなどもあって、設定としては、ジャスミンは蠍座の生まれではないか。
 そして、最後の地球崩壊に先立って、森や林ばかりか、彼女の指先や体からの放電シーンが印象的で、それによって彼女の快癒が表現されていて、「うつ病」治療で著しい効果がある通電療法を連想させられる。電気ショックで「うつ病」を治す療法である。
 私がこの映画を観る前から、「うつ病」に注目していたのは、現代では、誰でもが罹る〈心の風邪〉とも言われる「うつ病」が、人間の存在そのものにかかわる病気ではないかと思われたことだ。普通、病気は「存在」にかかわる、事物のあらゆる属性――腹だとか、頭など――を病むのである。「心臓を病む」という場合でも、「心臓を病んでいる」という意味で「いる」という、存在を表す言葉におさまる。「うつ病」は存在の属性ではなく、存在そのものである「居る」あるいは「在る」、英語ならBeingが蝕まれる病ではないかと。
 ゲーテの『ファウスト』の最後は、老いたるファウスト博士の部屋に鍵穴から「鬱」が忍び込む場面があったはずだ。私たちが普通に生活する「存在」と別に鬱の世界である「存在」があるのではないか。また、また、ヨーガなど瞑想によって極められる超越的な「存在」の境地も想定できるのでは。
 換言すれば、「鬱」の症状と「瞑想」の境地との間に、存在の一つのレベルとして、私たちの普通の生活――私はエクリチュール界と呼んでいるのだが――が危うくあるのではないか。フォン・トリア監督の映画に戻れば、「鬱」であるメランコリアに次第に飲み込まれていく普通の世界である地球において、「うつ病」であるジャスティンが神秘的な恍惚を覚えて映画が終える。地球はいざ知らず、少なくとも彼女は救われたのだ。あたかもヨーガにおけるアートマン(個我)とブラフマン(宇宙我)との合一のような。映画の隠喩の深さを反映しているかのように、映像のどの場面をとっても美的に贅(ぜい)を尽くしている。個人的には、かつてこのように美しい映画を観たことがない。巨大なメランコリアが迫る、月の光の中で、裸体になって月光浴するジャスティン役のキルスティン・ダンストの青白い肢体は、息を飲むほど見事であった、何ものかに捧げられた供物(くもつ)として。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« アイズ・ワイド・シャット | トップ | トリスタンとイゾルデ »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む