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タナトスの時代

2014-09-09 06:37:22 | エッセイ
 一〇一四年七月、佐世保で高1の女子高生が自室に連れ込んだ同級生の友人を残虐な手段で、殺害するというショッキングな事件が起きた。それも周到に準備された計画的な犯行であったと言う。複雑な家庭環境に問題があるとか、あるいは、被害者少女への怨恨ではなく、殺害自体が目的であったように報道されている。事件の詳細な内容について、私の興味を惹くものは、これ以上ほとんどない。この少女の幼年期における言語習得期に、なにか問題が潜んでいると感じるのは、私だけではないだろう。物質として人間の肉体と言語として人間の同一性は、精神分析ではオィデプス期と呼ばれる、幼年期の言語取得段階において、習得される。この加害者の少女の場合、言葉と物質が、感覚の上で乖離されたままなのではないか。言葉の形式上の理解力とほとんどかかわりはない。かえって言葉が独り歩きする部分で、言語習得が、他人より優れている場合も想定できる。もし、物質との関係性が、単純な符号で片づけられる他者であるとしたら、それと戯れるか、破壊するかであろう。対象が生き物であるとすれば殺害に至る。戯れは、殺害前のオードブルの様なものであって、戯れだけで留まることはない。人間の遊戯においてさえも、ゲームは決着のために営まれる。
 幼児期における言葉の習得は、端的に言えば、言葉で殺して現実に生かしておくことを、習得することにほかならない。「ママ」という言葉ひとつにしても、この言葉によって、それまで自己と明確に区別できない、輪郭の模糊とした膨大な圧倒的な存在であったものを「ママ」と名付けて呼ぶことによって、自分の行為に反応してくれる他者へと変容させる。膨大なものを殺害して、限定的なものへと再生させる。もちろん、利益ばかりでなく、おそらく失うものも大きい。あらゆる言語表現は、殺害することと同時に再生させる、二重の錯綜した行為である。
 梶井基次郎の習作に「鼠」という作品がある。子猫が子ネズミと戯れているのを目撃した梶井の観察が綴られている。全篇を引用する余裕がないので、冒頭と結末を掲げる。
「俺が戯れに遁してやった鼠よ。可愛い鼠よ。貴様はほんとうに可愛らしかった。若い肥えた身体、それから茶色の毛。溝の鼠の毛なら靴ふきの毛のようにきたないのにお前の毛は一本一本磨いたようだった。清潔だった。そして貴様は十七の娘のような身体をしていたのだった。お前の鼻の先と趾(あし)の赤いのはほんとうに見事だった。お前の鼻の先は冷いやりとしていい気持だろうな。お前の趾で俺の顔をめちゃめちゃに踏んづけたらさぞ気持ちがいいことだろう」「俺が戯れに遁してやった鼠よ。あんなに見えていてもお前は本当に怖ろしかったんだろうね。そしてあいつの牙は鋭く、爪は趾爪のように曲がってお前の身体を引かけたんだろう。」
 梶井の文章は子ネズミに感情移入して、その恐怖ばかりでなく、戯れる子猫のサディスティクな快楽を描いている。差し迫った子ネズミの死の先には、梶井自身の死の意識が垣間見える。梶井は、それと矛盾するかのように、無垢な生き物である子ネズミへのエロス的な嗜好を描き、無垢なるものをいたぶり凌辱することによって、現実での殺害を回避するというエクリチュールの本質に迫っている。だが、「俺が戯れに遁してやった」とある通り、書き手である梶井は、定められた虐殺の運命から、実際行為として助け出してあげたとしているのだから、ここでの描写は中止半端であり、エクリチュールに徹するならば、惨たらしい子ネズミの死を克明に描かねばならなかったのだ。たとえ、実際には、ここに描かれた通り救出したとしても。子ネズミの無垢と凌辱のエロティシズムを描くのが目的であったとすれば。おそらく、この習作が習作に留まった要因の一つであろう。冒頭の一行の出だしを梶井は間違えたのだ。
 佐世保の残虐な殺害事件は、加害者は、被害者に対して、こうしたエロス的、あるいはサディステックな快楽に走って犯行に及んだのではない。もっと殺伐とした、言語表現から見放された時点での、むき出しの行為であろう。しかし、言語表現から見放された人間の行為は、確かに野蛮には違いないが、動物の本能的な行為と違って、病理的なものに違いない。「文化とは、人類を舞台にした、エロスと死との間の、生の欲動と死の欲動の間の戦いなのだ」(浜川祥子訳「文化への不満」)と書いた晩年のフロイトの学説にてらして考えるならば、個人の病理を超えて、現代社会そのものが病理的な範疇に突入したのではなかろうか。地域社会の崩壊・核家族化・インターネット的な架空社会は、家族関係に余分な負荷を掛けて、幼年期の正常な言語習得を困難にしているのではないか。この殺害事件は、反エクリチュールという意味で、無意識の死の欲動に導かれたタナトスの時代の到来という本質を露呈しているのでは。希望があるとすれば、そうした時代を少しでも遅らせることが可能か、どうか、私は一世紀近く前のフロイトと同様に絶望的になってしまうのだ。フロイトは、死の欲動(タナトス)は、生の欲動(エロス)とともに働き、単独で作用することはないとも語っているが、現代は破壊のための破壊というタナトスの時代を予感させはしないか。テロリズムと戦う側にも、しっかりとそれが根付いているという現実。