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書く虫についての幻想

2012-08-07 13:59:34 | エッセイ
 まことに異様で、不可解なことだが、人間が壁を這うような虫以外の何ものでもなくなる事態がある。その生存のために食べつつけるのが、文字である虫。すでに、ドストエフスキーのイポリートの夢に登場する毒虫の素生がこのエクリチュールの虫であることを私は発見しているが、カフカのグレゴールが変身した虫もまた、同種の虫であることも、解明したつもりである。
 現代においては、エクリチュールの虫は、通俗化して、出版社からホテルに缶詰めにされて、ただひたすら、パソコンなり原稿用紙のマス目に、規則正しく、猛烈なスピードで文字を生み落している恐るべきメカニックな虫も見つかっている。自称、詩人など云う生きものは、自分をどう過大に評価しようと、不活発な死に損ないのいじけた虫を、ペン先でつついたり転がしたり繰り返して、わずかな生存の可能性を、ルーペを拡大してのぞいているに過ぎない、その虫であろう、霞を食って生きているとうそぶこうと。
 もちろん、ルーペをのぞいている、人間などという幻想は、書く虫の世界では存在しないばかりか、それを信じずに虫が自分というあらたかな主体の表現に過ぎないなどと信じるお目出度い物書きも、厳密な意味で存在しない。
 ところで、シロアリの食べカスらしい木屑が物置で見つかり、駆逐業者に来てもらって調べたら、間違いなくシロアリとのこと。業者のパンフには「姿は見えなくても、一年中活動しています」とある。物置だけでなく家の本体も調べた方が良いと言うので、依頼する。幸い、その形跡はなかったが、薬剤の散布は必要だとのこと。これが大変な作業で、キッチンの床を剥がして和室の畳を上げ、土間に穴を空けて、宇宙服のようなものを身にまとい、殺虫剤を散布することになった。費用も確かに掛かったが、作業員の人達の一日がかりの労働にはほとほと感心した。非力・不器用・もの草と三拍子そろった、書く虫の一匹に過ぎない私には、シロアリ駆逐こそ、書く虫に比べれば、まさに人間の幻想にふさわしい仕事と思われた。尊敬すべき彼らでさえも、パンフに書かれた虫の幻影かもしれないが――。
 シロアリと言う虫は、業者の説明によれば、蟻や蜂の仲間ではなく、ゴキブリに近いのだそうだ。生命力は驚異的で、「好きな食べ物は木材。でも、レンガや金属に穴をあけることも」。コンクリートの土台さえも溶かす能力を持っており、岩石ばかりしか見えない荒野にも、巨大なアリ塚をいくつも築くのだから、途方もない生態と言えようか。
 エジプトの砂漠にビラミットがいくつも聳えた画像を観たとき、これは、ファラオが、大空と言うカンバスにおのれの業績を描いたペン先ではないかと思ったものだが、奇怪なアリ塚もまた天空の神に奉げられた伝達文のペン先と思われた。シロアリどもはそのペン先で天空にいったい何を描いているか、宇宙の彼方へどのようなシグナルを送っているのであろうか。
 書く虫の話題に戻る。書く虫は、原理的に、書いた文字を読まねば前に進めないのだから、読む虫でもある。書く虫は、いささかなりともクリエイティブな面を持っているのだから建設的とも言えるが、読む虫に特化されている虫は、書く虫に寄生してしか生きられないので、見方によってはみじめである。始末の悪いのは、新聞の紙面やネットに巣食う読む虫でほとんど生存の意味は持ち合わせていない。ときには、部屋の片隅に本物のゴキブリを見つけて、読んでいた新聞紙で叩いて用途以外に使われ、ゴミのように振り落された活字も、ねばねばの体液で汚された紙面も、いずれにしてもみじめであろう。
 最近、私は、五冊ぐらい併読している読む虫であるので、机の上に気味が悪いほど無数にはびこっており、時には、床にまで零れ落ちる。
 そいつをつまんで、しげしげ観察するとき、自分が、いつの間にか読む虫から書く虫に変換しているのに気づく。それはほとんど稀な瞬間――エクリチュールの生命――で、なきに等しくい。書く虫は瞬く間に読む虫に寄生されて食い尽くされ、死骸だけを遺す。
 部屋中、家中の壁や家具・床に読む虫で充満しており、そのうち、家が崩れて、丸裸にされるのではないかと恐れている。それこそ、「姿は見えなくても、一年中活動しています」とパンフにある通りであろう。
読む虫に土台まで食い荒らされた敷地に、案外、蜃気楼のような逆さになった幻想を垣間見る僥倖あろうかと期待している。それもある種の文学という生き方であるかもしれない。ついでながら、書く虫と自負しているが、民主主義社会での主権者としての人間個体の一個を分泌物、あるいは排泄物によって捏ね上げている現実を否定しているわけでなく、それなりに人間的責任と義務を分担しているつもりである。
 ボードレールのエクリチュール論である『人工楽園』の献辞で「誰某のために書かれたかということが、果たして欠くべからざることでしょうか?」と今から百五十年も前に疑問を呈していることを付記しておく。