何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

汝、命の器を生ききれ

2017-02-19 10:25:05 | 
「’’これから’’が決める’’命の器’’」より

気持ちがパーッと晴れるようなニュースが無いと思っている時に、「これからが、これまでを決める」という言葉に再会したため、’’これから’’は後どれくらいあるのだろう?と一層悲観的になったのだが、週末近場の温泉にゆったり浸かりまったりしたならば、そんなことは もう どうでも良いような気がしてきた。

後どれくらいあるか分からない’’これから’’の長さを憂いていても仕方がないし、’’これから’’がどれほど長かろうと僥倖に出会う事は少なかろう。
すべきことを淡々と しかし一生懸命にし、それが誰かの 特に若い世代の役に立ては幸いで、そうでなくとも週末近場の温泉でまったりできれば良いではないかという安直な結論に至ったのだが、’’これから’’の生き方を模索するため せっかく「四角な船」(井上靖)を読み返したので、井上靖氏が思うところの、人類滅亡の危機を生き残るべき人物像を記しておきたい。(『 』「四角な船」より引用)

背表紙の解説より引用
『人類絶滅の大洪水が襲来する日、ハコ船によって、救い出されるのは誰か?大洪水を信じ、琵琶湖の畔で、密かにハコ船の製造を開始した一人の男がいる、深い学識の持ち主で、山中の旧い館に住む彼は、心を許す船大工に設計製造をまかせ、自分はその船に乗るべき人を捜す旅に出る・・・・・。奇妙な人物をめぐるゆーむらすな物語のなかに、現代社会への鋭い風刺をこめた長編』 

この物語の主人公・甍が、人類絶滅の危機に救い出されるべき者と考えるのはどのような人なのか? 
船に乗るべき人を捜すために全国を転々とする甍、その甍の足跡を追う新聞記者の丸子を通じて、甍が認める’’船に乗るべき人’’に読者は出会う。

1人目は『佐渡の浜辺で来る日も来る日も漁網を繕って暮らしている』生まれながらの盲目の老婆であり、2人目は『他人の子供を引き取って育てている、人の好いバー勤めの女』であり、3人目は『動物園の虎の飼育係』といったぐあいに、三人は三人とも名もなき一般人だ。

この三人の’’船に乗るべき人’’は、甍から乗船証となるカメオを渡されていたのだが、アッカド文字で「汝、船に乗れ」と記されているカメオを甍から直接カメオを渡されたのは盲目の老婆だけであり、バー勤めの女性と飼育係の場合は、捨て児や虎とカメオを共有しているという体裁をとらせている。
些細なことだと思うが、ここに井上靖氏の拘りを、私は少し感じている。

甍が直接首にカメオを掛けたこの老婆は、丸子の目には確かに『いかなる人類絶滅の時が来ても、彼女は生きるべき』と映るのだが、そう思う根拠は判然とはしない。
だが、この老婆の『誰を恨むでもなく、誰を羨むでもなく、己が運命を素直に受け取って、長い人生を生きてきた』美しい笑顔には『えらいと言う以外仕方がない』ものがある。これが井上氏としては重要なのではないだろうか。

井上氏は、捨て児や虎の命を育むバー勤めの女性や飼育員を’’船に乗るべき人’’とするだけでなく、捨て児や虎に、誰を恨むのでもなく誰を羨むでもなく運命を素直に受け取って生きて欲しいと願うからこそ、彼らの首にカメオを掛けるのではないだろうか。

ハコ船からほど遠い人間であるせいか・・・・・ゆったりと温泉に浸かりまったりしてしまった頭のせいか、どうにも分からないが、本書には「救われるべき人は?」というテーマとは別に、「正常と異常の境界が曖昧になったが故の社会の歪み」というテーマがあるように感じている。
それは、人類絶滅の危機に備えてハコ船を造ろうとする甍を通して、現代社会の狂気と正常の定義の再考を促しているように思えるからだ。
甍から船の製造を託された船大工はいう。
『みんな(大洪水を生き残ってもらう者に乗ってもらう船を造ろうという)若(甍)は狂っていると思うとるか。
 思うとったら大きな間違いだぞ。そりゃ、することや言うことは違うわな。
 することや言うことが間違ったって、そんなことはたいしたことではあるまい。
 考えていることは、若は誰よりもまともや。正気や。考えていることが正気なら文句はあるまいが。
 考えていることが違っている時狂人というんや。
 みんな、自分の周りを見てみい。若と反対や。
 することと言うことはまともだが、肝心の考えてることが違っているわな。
 そうだろうが、そういうのを狂人と言うんや。』

確かに、一見正しいことをしているようで、その目的(考えていること)が間違っている例は多くある。
目的(目論見)は兎も角、見せかけだけでも正しい行動が出来れば良いではないかという処まで、この世は堕ちているような気もするが、それで良かろうはずもない。
狂気を狂気と見做せなくなった時、見せかけすらも取り繕わない剥き出しの本性が跋扈する世になるのではないだろうか、既にそのような世になっているのではないだろうか。

自分自身を考えた時、’’これから’’を如何に長く見繕ったとしても、カメオを首に掛けてもらえる人間になれるとは思えない。
だが、カメオを首に掛けてもらえそうな人を心をこめて応援することはしていきたいと思っている。
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