private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第17章 1

2022-10-30 14:09:26 | 連続小説



R.R

「行っちまったぜ。いいのかよ、ほんとに、マリ様乗せたまんまで… 」

「よくないでしょうね。気付かれなければ御の字ですけど… 気付かれますよね、きっと」
 シャッターを上げる作業が済んだふたりの周りにあれだけいた人混みと目線は、オースチンの移動と共に、いまはスタートアンドフィニッシュラインに注がれている。
 ふたりきりになったあとに発せられたリクオの問いに対するジュンイチの言葉は、どこか他人事で、どこか楽しんでいるように聞こえた。
「まったく、ナニ考えてんだ。こればっかりはよ、ホント、ワケわかんないぜ」
 嬉しそうな顔をしていたジュンイチは、少し真顔になり上目遣いにリクオの方へ顔を向ける。
「今まで考えていたんですけど、ナイジは何らかの理由があり、あの女性を乗せなければならず、増えた重量を差し引こうとガソリンを抜こうとひらめいた。そうして彼女を呼び出して僕等にガソリンを抜く指示をした。ガソリンを抜くのは彼女が必要である結果であり、アイデアではない。では、なんのために?」
「なんのためだよ」
 目を泳がして推測したことを順序だてて話そうとするジュンイチに、何の想像もつかないリクオがぶっきらぼうに尋ねる。
 どこから話すべきか口に指を当てしばらく黙っていたジュンイチは、しだいにその指をピアノでも弾くように小刻みに動かし考えを述べ出した。
「考えられるケースは、レースをするにあたって、助手席からのなんらかのアシストが必要になった… 」
「どうして? ナビゲートするような道じゃないだろ。かえってナイジの方が知り尽くしている、ジャマなだけじゃねえか?」
 ジュンイチが言い終わるのも待たずに、さすがにそれぐらいはわかると言わんばかりに、ふんぞり返ってリクオは答える。ジュンイチの言うアシストとはなにも、道案内をすることを言っているわけではないがリクオを立てて肯定してみせる。
「ですよね。そこで、それ以外で考えられるのは、タンデムシートのクルマでは両側に人が乗ったほうがバランスがいいということ。特にここでレースしているクルマは、だいたいが、ライトウェイスポーツ。車重は比較的軽く、重量の差し引きによって、少しとはいえクルマの挙動に変化は生じますからね。そこでメリットとしては、スタート時ではノーズの浮き上がりを抑え、前タイヤもしっかりと路面をグリップするでしょうし、重量バランスが良ければコーナーも右でも左でも、喰い付きが良くなる。左右バランスが良くなり、弱オーバーの状態になりますね」
 わかっているのか、そうでないのかリクオは無造作に何度も首をタテに振る。
「もう一方で、不利益な面としては、ガソリンが少ないためにコーナーリング中にタンクの中ではアウト側へ偏るので、長いコーナーが続けばサージングを起こし、軽いガス欠状態になる可能性もあります。あっ! もしかして。最後の5連コーナーはすべて左コーナーです。助手席の荷重分でイン側のロールを抑え、前輪左のタイヤをしっかりとグリップさせ、最終コーナーでの優位性をより確実にして、そこを勝負どころとして捉えているとしたら… 」
「でもよ、そうしたら、逆に連続するコーナーはやばいんじゃないの。あれだけ長い左コーナーだ、ガス欠状態になっちまうんだろ?」
「うーん、可能性はありますね。諸刃の剣になるかもしれない。ナイジのオースチンはタンクが換装してあるので、どのような形状になっているかわかりませんし、タンクからエンジンまでのどれぐらいのガソリンが流れ込んでるか断定できませんけど、あとは神頼みになりそうですね… 」
 ジュンイチは一転、険しい顔になっていった。ホームストレートでは歓声が段々と大きくなっていく。リクオは両手をアタマの後ろに組んで、なにやら冷めた表情になっていた。
「あのさ、オレ、難しいことはよくわかんねえけどさ… 」そう切り出した。
 ツアーズの関係者達は、こぞってピットウォールに鈴なりになっている。一週間前にナイジが走る前まで、誰がこんな光景を想像できただろうか。ほとんどの者達がそう思うなかで、ウラでそれを仕掛けている者はほくそ笑んでいる。
「みんなさ、だれもがさ、自分の都合がいいように物事が進めばいいと思ってるだろ。そんでさ、そうならないと、気分が悪かったり、誰かのせいにしたり、ひどい時にはその誰かに八つ当たりしたりするんだよな」
 リクオが突然に何を言い出すのか、ジュンイチは少しあっけにとられながら話の続きを聞こうとリクオを見やる。はやくピットウォールに行かなくていいものか声掛けのタイミングあつかめない。
「オレのさあ、死んだバアちゃんが口癖のように言ってたんだ。ヒトが生きるには、ムダと、余計なことが必要なんだって。うまくやろうと思えば思うほど、まわりの信用を失って、ひとりぼっちになっていくってさ」
 的を得た格言であるが今この時にどう結びついているのかわからない。そんなリクオの言葉をジュンイチは遮ることができずに聴き入っている。
「もともと、誰の信用を得ていない、孤立していたナイジがさ、自分の信念をつらぬきはじめたとたん、こんなおおごとになっちまった。なんだかさ、その差し引きとして、ムダであり、余計なことであるマリ様を助手席に必要としたのかなって、なんかそんなふうに思ってな」
 現実としてはそうでなくとも、リクオの言わんとしていることは間違いではない。それで均衡が保たれるならば、それを皮膚から感じ取っているなら、ナイジの愚行が正当化されると信じたい。
「バアちゃんはこんなことも言ってた。この世の中は差し引きがゼロに成るようにできているから、何かが増えれば、何かが消えていき、何かが減れば、何かが生まれるだってよ。そうでなければこの世が傾いちまうってな。オレはさ、根性ないから、もし自分がひとより抜きんでたら、なんだかそれより悪いことが起こるんじゃないかって、だったら、平穏に暮らしてた方がいいやって。それは、できないことの言い訳だけどな」
 誰もがその生き方の背景にはそれなりの理由が詰まっている。リクオの人生の成型に祖母の言葉が影響を占めており、これまでオモテに出すことのなかった想いがこのタイミングで吐き出されている。ジュンイチはそんなリクオの気持ちが身に染みてよく理解できた。自分もそんな弱さが無いわけではない。
「だからさ、ナイジはさ、オレの希望なんだ。アイツならこんな常識をひっくり返してくれるって。ずっと思ってた。どんな手段を選んだっていい。このサーキットの止まった時間を動かしてくれるのはアイツだって、そう信じてたんだ」
 誰しもがヒーローになれるわけではない。どこかでなれる側と、応援する側になる踏ん切りをつけなければならない。リクオは何度か手合わせをしているうちに、ナイジを応援する側になることを決意していた。
 自分が決意しても本人が動かなければ応援することもできない。そのナイジがいま腹をくくって人生を左右する闘いに臨もうとしている。リクオにはそれだけで感極まるものがあった。
 それを聞くジュンイチは、それが自分ではないと宣言されたも同じであり、厳しい現実を突きつけられたことになる。そうであっても自分にできる方法で闘い続けていかなければならない。
「しかしなあ、さっきから聞いてりゃ、それ全部、助手席に人が乗ることから考えついたんだろ。オマエどんだけ思いつくんだ。なんかさ、オレ、自分が嫌になってきた。同じドライバーと思えない。オマエにしてもナイジにしてもどこまで深いんだッつーの」
 自分の言いたいことを言い終えて、気持ちが落ち着いたリクオは、急にサバサバした表情になり自分の無能ぶりをさらけ出した。
「ハハッ。そうですかね?」
 そんなリクオをおもんばかり、どれも走っていればわかることだとは、とても言えないジュンイチであった。ここまでリクオに気を使ってきたそんなジュンイチに、まさかの言葉を投げかけ舌を出す。
「おい、ジュンイチ。スタートするぞ。なにやってんだ急げ!」


第16章 6

2022-10-23 14:45:53 | 連続小説

 マリの鼓動だけが伝わっていた。ホームストレートを走るクルマのエギゾーストノートが耳に届いても、その心音を消し去ることはなかった。
 誰かのためを想って行った行為でも届かないこともある。却って反発を呼ぶことさえも。信じたいのか、それ以外を選択したいのか、それは自分の判断次第であるのに、それを相手にせいにしてしまうことにもなる。
 ふたりのそれぞれの想いが一致したのは、お互いがそう信じると選んだからで、それが後から考えれば安易にノボセあっがったからだけの単純な思考の結果だとしても、いまのふたりにはそれだけが真実であった。
「オレさ、こうしてたいのは山々なんだけど、そうにもいかないんだ」
 袖を引っ張られたナイジは、そのままマリに引き寄せられていた。自分の胸の中でしゃくりあげるマリを大切にしたくても、いつかは踏ん切りをつけなければならない。
 マリも感傷に浸っている時間はないとわかってはいる。だとしてもすぐに次の行動に移せるほど気持ちは落ち着いていない。
「あっ、んっ」なんとかそう吐き出して、細かく震え続けるカラダを離す行動に移ろうと力を込めるマリを見て、ナイジは何度も背中をたたいたり、さすったりして落ち着かせようとする。
「わかった、もう少しな。できそうになったら言ってくれ」
 ゆっくりと深くうなずくマリの、その髪がナイジの胸を引きずっていき、深くこうべを垂れたところで動きが止まる。ナイジはそこでグッと抱きしめたくなるところを懸命に堪えた。
 そうしてようやくマリは腕を伸ばしてナイジからカラダを剥がしていく。泣きはらした目をハンカチで拭い、ハニカんで見せた。のどの奥が痛み、何度もむせるようになってしまう。
「悪いな、ムリ言って」
 切り出してみたもののマリのそんな姿を見れば、あまりにも無情すぎ、すぐには切り出しづらい。マリは小さく首を振ってナイジの言葉を待っている。
 ナイジはオースチンの天井を見上げ、しかたなく謎掛けのように言い放った。
「マリにさ、オレの左手になって欲しいんだ」
 助手席のシートが軋み、ズズッと革の擦れる音がした。
「えっ?」
 話しの見えないマリに、ナイジは上着の袖を引き上げ、左手を露出させた。日焼けを防ぐためではなかったことが露呈する。
「ナニこれ?! どうしたの?」
 青黒くアザになっていた手首を見てマリは驚きの声をあげる。
「あのさ、オレの左手、思うように使えねえんだ」
「はっ?」ナイジの言わんとするところがつかめない。
「先週のクラッシュのとき、痛めちまって。だから、オレ、マリのこと言える立場じゃないんだ」
 ナイジにもそれなりの理由があったうえで、そのことを黙っていた。それを許すかどうかは、マリに委ねるしかない。
「そうだったの」それ以上は何も言えなかった。
 単純に自分と比較するつもりはない。この状況になっているのにはそれなりの理由があるのだろう。いろいろな想いがマリのアタマをめぐった。
 確かなことは志藤もわかっていたはずで、それなのに先週も、今日も、治療どころか言葉にもしなかった。つまりはそういうことなのだ。そして自分がここにいる訳が少しづつ飲み込めてきた。
「いろいろとあってさ。治ると思ったんだけど、シフトチェンジとかしてたら悪化しちゃって。で、マリがオレの左手になる、ってことで。どう?」
「どう? どうって… 」
「だってさ、最初から言ってたら、二の足踏んで、ここまで来なかったろ」
「それは… でも、それならリクさんや、ジュンイチさんの方が… 」
「あのさ、今回のレースはそれじゃあ意味がないんだ。アイツらを巻き込みたくないってこともあるけど、それよりなによりマリでなきゃ意味がないんだ。オレはオマエと一緒に闘って勝たなきゃならない。でなけりゃ、今日、このレースをする意味がなくなっちまう。それがオレが出した答えなんだ」
 ナイジが言いたいことは理解できた。今回の騒動の幕引きをするために、目に見える結論をふたりで出す必要がある。そうでなければナイジは闘うための拠り所が見つけられないし、ここまで巻き込まれた大きなうねりに決着がつけられない。
 それは、今でなければならないことであり、同時にナイジがマリを幸運の女神として、そこに賭けてみたい弱さも少なからずあった。
「それにさ、リクさんやBJじゃ体重あるだろ」「えっ、体重?」
「まさかふたりより重くないよね? あっ、イテっ!!」
 マリの右手がナイジの頬を引っ張っていた。
「あっ、ゴメンね。左手にしとけばよかった?」
「いや、すごく素早い反応だ。これならシフトチェンジも安心して任せられる」ふたりは笑いあった。
「シフトチェンジって、つまり、アタシが運転した時にナイジがしてくれたことの逆をするってことね。 …って、これレースでしょ。そんなことアタシに出来るわけないじゃなーい!?」
「ハハッ、ひでえノリ突っ込みだな。そうだな、その感じのほうがいいよ、マリは」
 そう言われてもマリにはナイジの本気度がわからなかった。冗談を言うために自分をここまで引っ張ってきたわけではなかろうが、それでレースをすると言われてハイやりますと返答するほど簡単ではない。
「心配するなよ、それほど動かないわけじゃない、マリはこうして、ギアノブを握っててくれ」
 ナイジの手が添えられた。少しの衝動とともに覆われた手から強い熱量が伝わってくる。
「オレが動かす方向へ、少しだけ力を込めてくれるだけでいい。そうすればオレは闘えるから」
 いまのままでは闘いを諦めなければならない。そう暗に匂わされれば力になりたい気持ちも高まってくる。
「そんなふうに言われると、なんだか出来そうな気持になってくる。変なものね」
 それが大事だとばかりにナイジは人差し指を立てる。
 クラッチを切った状態で、シフトアップ、シフトダウンを繰り返す。ナイジの意図する方向へマリも一緒になって力を込める。たしかにこれならそれほど無理な感じはしない。
 ただ実際のレーシング状態で、どれほど精確にスピードを殺さず、通常ナイジがやっているように、自分の意のままに操ることができるのかまでは、この時点では想像すらできない。
 さらにいえば随意筋で操作している範囲ではある程度ついて行けても。刹那的な判断、ひらめきの部分で咄嗟に脊髄が反応するような不随意筋が動いたとしたら、どれほどナイジの動きを妨げずにアシストできるのか。
 その小さな、たったひとつの誤差によるミスがレースの勝敗をわける致命傷になるとわかっているはずだ。
「それでね、いまからオレがヤルことになにも訊かずにつき合って欲しいんだ。その、つまり、いちいち説明してる時間がなくてさ」
 豹変するナイジの真剣な表情を見て真剣な話しだと身を正てうなずく。ナイジは勇気づけるようにマリの目を見た。もう言葉はかけない。自分についてきて欲しいと想いを託す。
 ナイジはドライビングポジションを決めて目を閉じる。そうしてオースチンとつながっていき、マリの存在を消してく。
 スタートフィニッシュラインに立つ、オースチンを俯瞰でとらえる。レッドゾーン付近で上下する針が次に上がるタイミングでクラッチをつなぐ。
 2、3、トップとシフトアップして鋭く加速していくオースチンは、一気に1コーナーに差し掛かる。次に3、2とシフトダウン。イメージ通りにスムーズにシフトゲートに入っていく。もはや手首の痛みへの意識は消えていた。
 そこから改めて見直した今日の路面を思い出し、考えていたラインに挑んでいく。スロットルを戻して、シフトダウン。ブレーキを軽く踏みながらステアを左へ。荷重が左フロントにかかる。前タイヤがよじれ、後ろタイヤがスッと流れる。
 コーナーの出口が見えてくると同時に後ろからパワーが伝わってくる。途切れ途切れだった動作が、なんの切れ目もなく気持ちがいいほどにつながっていった。
 こうしてナイジは新しい領域の世界に入り込んでいった。それはマリの手のひらの中にすべてをゆだねていくことで得られた新たな空間だった。コーナーを駆け抜けるためにシフトノブを手にするたびに新しい力が自分に注がれていく。
 いつもなら、走った後に感じていた破壊された細胞が再生されていくときの温かみに包まれる感触が、同時進行的に行わている。
 いくつものコーナーをクリアしていき、すべてが終わったあと、ナイジはうっすらと汗をにじませシートにぐったりと身を任せた。
「 …ナイジ、 …ナイジってば」
 遠くから聞こえるマリの声がナイジの意識を呼び覚ましていった。
「どうしちゃったの? 目を閉じたとおもったらだんだん息があがってきて… 」
 ナイジが意識の中でオールドコースをラップしていたのは、マリの時間ではたった数秒のことであった。それほど深く、濃密な時間を一瞬のあいだに経過したことで、ナイジの息は上がり、発汗を促していた。
 ドライビングシートに視界が戻ってきたナイジには、まだあの不思議な感覚がカラダに残っていた。これまでにないオースチンとの一体感と操舵性。なにが起こったのか自分にもわからないでいた。
「わからない、よくわからないけど、もしかしたら奇跡が起こるかもしれない」
 ひとりで興奮気味のナイジにマリはまったくついていけなかった。
 このタイミングで満を持したようにピットレーンには空気を震わすサイレンが鳴り響く。スタンドには一瞬の静寂が広がり、そして、徐々に歓声が高まってくる。
 サイレンが鳴り切る頃には人々の身体には痺れが走っていた。本戦がまるで前座の扱いを受けている。それはレース関係者の望むところではないとしても、今日この日に限ってはしかたがないだろうと、そんな雰囲気に誰もが承知せざるを得なかった。
 ナイジの意思を汲んだふたりは、ガレージの左右からシャッターを上げはじめる。まばゆい太陽光を遮るようにして多くの人の影が目の前に現われた。
 マリは助手席に背筋を伸ばし、自分がこのまま人目に曝されていいものかナイジを見た。
「悪いな、身を沈ませて、これ被っててくれ」
 シートの後ろからシーツを取り出すと、マリにかぶせた。
「アッ?! もう、ビックリした。まさかこのタイミングで押し倒すつもりじゃないでしょうね?」
 シーツから顔を覗かせるマリ。紅潮した頬に目が笑っていた。
「上等、上等。そんな減らず口叩けるんなら。とにかくグリッドまで隠れててくれ。見つかったら引き摺り下ろされちまう」
 ナイジは素早くエンジンに火を入れ、思い切ってスロットルを踏み込むと、回転計器の針は一気に跳ね上がる。それでも揺れ動く人垣は無節操にいまだガレージの出口を覆い尽くしている。
 高らかなエンジン音を発し、スキール音を鳴らしてガレージを飛び出す。それが合図となったのか蜂の子を散らすように人波は散開していった。
 大一番にのぞむドライバーの心境を垣間見ようと、ナイジの顔を見るべく再びギリギリの場所までクルマに近づいてくる。
 取り付く者達を押しのけるように、オースチンをうねらせ、しかしスピードは緩めず、当たっても構わないぐらいの意思を持ってピットレーンを進んでいく。
 人々の群れが左右に引き裂かれていくのは幕開けにふさわしく、まさにショーのはじまりを告げる光景がスタンドから見ることができた。


第16章 5

2022-10-16 14:22:03 | 連続小説


R.R


 ジュンイチもリクオも、なにやら言いたげなのはナイジにも十分に感じていた。もしくはナイジから何らかの説明をしてくれるものと期待している素振りが見て取れる。
 だからといって、ナイジにはその問いに答えることはできない。例え近い仲でも自分の弱点をさらけ出すのは、戦いを直前に控える者にとって絶対にしてはいけないことだ。
 ふたりから問われる前に先手を打つために、必要なことだけを説明しはじめる。
「あのさ、わかってるけど何も聞かないでほしい。彼女は必要なんだ。ふたりに迷惑をかけることになるから、見なかったことにしてもらって構わない。手伝ってくれて感謝してるよ」
「ナイジ、オマエ… 」そうリクオが言いかけてジュンイチが止めた。そして首を振る。
「ありがと。わかってくれて。悪いけど、あとはガレージの外で待機して、合図が鳴ったらシャッターを開けて欲しいんだ。いろいろしてもらってこんな言い方するのもなんだけど、ここからはオレ達の問題なんだ」
 そこまで言うと有無を言わせずウインドウを上げ、もう二度とふたりの方へ顔を向けることはなかった。リクオはまだ何か言いたげでも、ジュンイチに促がされガレージを後にした。
 もうどんな正論をたてにとろうとも、今のナイジの耳に届かないだろうし、いまさら人の意見で自分の行動を覆すとも思えなければ、あとはナイジに託すしかなかった。
「ワリイな、ジュンイチ。アイツ、悪気はねえからさ、許してやってくれよ」
「大丈夫ですよ、リクさん。わかってますから。ナイジのヤツ、何か隠してますね。素人の女性をナビに乗せることがどれだけ危険か。これは、彼女自身と、ナイジのドライビングと両方に関わることですけど。その危険を承知でやるんだから、それだけの理由が在るんでしょうね。もう、あとはレースでその結論を見せてもらうしかないでしょう」
「だな、オレも長くツルんできたけど、今回ほど自我を見せたのは初めてだ。そうゆうとこ見せたがらなかったのにな。なんか変わったなアイツ。オレだけが取り残されてるってことか、ハハ」
 最後は虚しく笑っていた。ふたりは半閉まりのシャッターをくぐってガレージの外に出て、シャッターを完全に閉めて右と左に位置した。サーキットはまだ本戦が続いているので、誰もふたりには気を留めようともしない。
 スタートの合図が鳴るまで、ふたりはそこで待ちつづける。このサーキットの誰よりも、これからはじまるナイジのレースに不安と期待と、少しばかりの妬みを持って時を待ち、同時にこの時間を楽しんでいた。
 シャッターを閉じたことでガレージの中は暗闇になった。お互いの存在が一度消えてしまったあと、少しづつ目が慣れてきたことで、薄っすらと輪郭が認識できるようになってきた。
 この状況だから言える言葉もある。ナイジはそれに頼っていた。とても明るい中で面と向かって切り出せるような話ではない。それでもまだ踏ん切りはついていなかった。
「よかったの? 追い出しちゃって… 」
 マリの言葉には何も答えられず表情をこわばらせる。ナイジも親切にしてくれたふたりに、突き放った言葉を投げつけるのは悪いとは思っても、ここは一線を引くしかなかった。
 これからは自分の戦いの領分で、何者にも四の五の言わせる訳にはいかない。それに、これ以上からませれば、間違いなくあのふたりにも迷惑が掛かってしまう。
 それだけは避けなければならない。ただ、マリだけには何も言わずこのままレースに入ることはできない。困惑する表情のマリがどうすればいいものかもわからず、じっとナイジを見ている。
 マリにはもっと残酷な言葉をかけなければならない。この話しをいますることが正しいのか判断することは難しい。それでも走る前に決着をつけておく必要があり、それはふたりのあいだでは決まっていたことなのだと言い聞かせた。
 マリも何かを感じたようで、互いの耳には自らの大きな心音のみが届き、膨張して張り裂けそうな位に身体を押し広げていく。
「 …あのさ、マリ。オレ、志藤先生に聞いたよ」
 やっとの思いで、そこまで切り出すことができた。不安な思いは、なにもマリだけではない。ナイジの言葉の遣い方ひとつで、もしかすれば二度と今までどおりのふたりではいられなくなる。だとしてもいつまでも黙っているわけにはいかない。
「その、つまり、左手のコト… だけど」
 そして、圧迫しつづける心臓のわななきと供に大きく息をついた。ついに来るべきものが来たのだとマリは覚悟した。
「そうだったの。だから… ごめんなさい… 」
 それだけを言うと口をきつくつむった。何を言っても言い訳にしかならない。そんな状況を招いてしまったのは自分がこの件を先送りにしてきたからなのはわかっていても、ただもう少し時間が欲しかった。自分の気持ちが定まるまでに、そしてナイジの気持ちが見える前に。
「あやまるなよ。マリが悪いわけじゃないだろ。オレがマリの人生に関わった時点から、決まってたことだ。いつかこうなる必要なことだったんだよ。志藤先生だって伯父として最低限言わなきゃいけないことを言っただけだ。 …それは、オレにその覚悟があるのか見定める必要がある。ただそれだけのことだ」
「でも、そんなんじゃ、」マリはいまにも泣き出しそうだ。そうさせたくはなかった。
「オレはてっきり、ここの黒幕に… 社長だかに、良いように遣われたことで、オレに負い目を感じてるんだと思ってた。マリから時折感じられる寂しげな翳の正体は、もっと深刻で残酷なものだったと知った。そのほうが悪かったんだ」
 もう耐えられなかった。マリが閉じた目端から一筋、涙がこぼれ落ちた。そして、自分の口から左手のこと、そして自分の人生の、決められた制限時間について話しはじめた。
 嗚咽をこらえながら話すひとことひとことが、ナイジの心臓を鋭利に切り刻んでいく。
「物心ついた時からすでに、アタシの左手はうまく動いていなかった…
左手だったし、親も回りの人も特に気にならなかったみたいで、
そのうち左手首も不自由になってきて…
思い通りに動かせていない。
さすがにこれはおかしいと親も思ったらしく、病院に連れてかれたけど…
原因も、どんな病気かもわからなかった。
長野からここに出てきて伯父の元で暮らしているのも、定期的な検査と…
新しい、治療法が見つからないか、いろいろな病院を廻っているから、
いろんな治療法もためした、クスリも飲んだ。
良くなった時もあったし、そうでない時もあった。
この世界も、アタシのカラダも何一つ確実なことなど無いって…
知ることができただけだった」
 暗がりの中で少しの明かりがマリの皮膚を浮かび上がらせる。細かく震わせるその動きを目にするだけでナイジはいたたまれない。
「前に話したよね、夢のこと。
左手から徐々にカラダ全体が動かなくなっていく、アタシが見る夢の話を。
それは、夢だけのことじゃなくてね、実際に起きているの。
少しづつ、わからないくらいに…
このごろは、肘の辺りまで悪くなってきてる。
一日、一日、日が進むに連れて細胞が弱って死滅していく、
アタシの命が精確に削られていく、
この先どうなるかお医者さんにも、アタシにもわからない。
どこかで止まってくれるのか、今までと同じように身体を蝕んでいくのか、それとも…
そのことについて誰も約束できないの。
ごめんなさい、いつまでも黙っていてはいけないとはわかってたけど…
アタシにもね、それなりの覚悟が必要だった。
ナイジとね、わかり合うことができる程、それが現実でなくなればいいと思いたくなってきた。
 …ダメだよね、こんなんじゃ、ナイジの迷惑になっちゃうだけだね」
 マリがその説明をするのがどれほど苦しいことか。彼女が生まれもって背負ってきた重すぎる十字架を理解していれば、いまようやく知っただけの自分に、どうして非難することができるのか。
 いったい彼女は物心ついてからこれまで、この世界にどんな風景を見てきたのだろうか。我がままで独り善がりすぎた自分の人生が薄っぺらになっていく。
 だからこそ、なんとかしてあげたい思いは募るばかりだ。わかった気になった慰みの言葉は、なんの意味も持たない。それでもナイジは声を振り絞ってマリに言葉をかけなければならなかった。
「あのさ、オマエがどれほど苦しい思いをしてここまで生きてきたか、それにこれからどれほど厳しい現実に直面するのか、そんなのを簡単にわかった気になって言うつもりはないよ… でもさ、あきらめんなよ、あきらめるのは何時だってできるんだ。オマエが辛いんなら、それを含めてオレが受け止めるから。マリがここまで辛い思いをして生きてきた理由が、オレと出逢うためだったと信じてくれるなら… オレはね、オレは、マリが勇気を持ってオースチンのドアをノックしてくれて、本当に助けられたんだ。この一週間、マリの存在が近くにあって、どれだけそのことを実感したか。ここまで生きてきた意味を、オレの方こそようやく知ることができたんだ」
 ここまでナイジはマリを見ずにフロントウィンドの外をぼんやり見たり、目をつぶったりしていた。そしてようやくマリに目をやる。真っ赤にはらした目がそこにあった。
「なあ、マリ。マリが、そいつを信じてくれるなら、オレはきっとマリを助けられると思うんだ。だからさ、オレに迷惑かけるだなんて思わなくていい。他の誰かが迷惑だって言ったとしても、少なくともオレには必要なんだ… けど」
 マリの固く握られた両手がナイジのTシャツの裾を引っ張っていた、もう何かにすがりつかなければ1秒だって身を起こしていることが出来なかった。そのまま力なくナイジに身体をあずける、何度も何度も首を縦に振る。
「もう、独りぼっちはイヤだよ。もう… 」


第16章 4

2022-10-09 16:12:17 | 連続小説



R.R

 悠々とピットレーンまで戻ってきて、すまし顔でひょいとフェンスを飛び越えたナイジは、興奮している不破たちに取り囲まれる。
「何やってんだオマエ! バカもたいがいにしとけ!」
 掴みかからんばかりの不破をいなすように。
「余興っスよ、余興。お客さんを盛り上げようと思ってね。ハハッ。いい感じに盛り上ったでしょ」
 これには不破も腰砕けで、開いた口が塞がらない。何事もなかったようにナイジはガレージへ戻って行く。すれ違いざまに鬼の形相の出臼が不破の元に駆け寄る。
 すれちがいざまに一瞥する出臼にナイジはまったく意にすることなく、存在も気付かないような態度を取る。それがまた出臼の癇に障る。
「不破さん! どうゆうことです。本戦中のコースを横断するなんて、前代未聞のことです。始末書ものですよ!」
 自分もナイジにうっちゃられて、まともに説明することも出来ない不破は、開き直って言うしかなかった。
「見てのとおりだ。余興だよ、余興。いい感じに盛り上ったろ。馬庭さんのお気に召さなきゃ始末書でもなんでも書いてやるよ」
 開き直りとも思える言葉を聞き、さっきまでの自分の姿を見ているように、口を開けたまま呆気にとられている出臼に、めずらしく不破は同感の思いだった。
 出臼は虚をつかれ、いったんそのまま引き返すも再び戻ってきて、いまの言葉忘れないでくださいと、指を立てて念を押していった。不破はその後ろ姿に中指を立ててやり返す。
 出臼と不破がやり合っている隙に、ナイジはピットレーンで整備をしているリクオを捕まえ、さらに本戦を走り終えたばかりでクルマから降り立ち、ことの成り行きを見守っていたジュンイチを手招きして呼び寄せる。そして3人だけがガレージに納まった。
「おい、ナイジ。いったいどうしたんだ? 大事な対戦の前じゃないか。キミがあんな派手なコトするとは意外だよ」
 さすがに温厚なジュンイチでも、不可解なナイジの行動は目に余ったのか、言い方は緩いが、ついつい、たしなめる言葉が口をついて出た。
 ナイジも、説明したいのはやまやまだが、一から話しをしている時間はないし、思いつきの愚考を納得してもらえるほど、説得力を持って話す自信もなかった。
 それで、いつもリクオにそうするように、肩に手を回しジュンイチの耳元に口を寄せる。信頼できる仲間としての行動で応えることしか思い浮かばなかった。
「ちょっとね、ワケありなんだけど。調子にのり過ぎたな。それよりさ、コース一周でどれぐらいの燃料喰うかな? 教えて欲しいんだ」
「はっ?」反省の言葉も早々に、あまりにも突拍子もない問いかけに対し、思わず聞き返すジュンイチ。
「いいからさ、いくつぐらい?」
 なんだかはぐらかされた質問に納得がいかないまま、しかたなく天を見上げて計算する。
「1周が6.284キロだから、レーシングスピードで走ればリッター3kmぐらいか。そうなるとだいたい2リットルは必要だろ。あっ、でも、インラップとアウトラップを含めれば、最低でも6リットルは要るんじゃないのか。そんなこと聞いてどうする… 」
 ナイジはジュンイチをさらに引き寄せ何やら耳打ちした後、手を離し開放すると両手を顔の前で重ねて『お願い』の仕草をする。
「えっ?」驚きの声を上げるジュンイチに傍らにいたリクオが、ふたりの間でどんな会話がなされたのか気になって仕方ない。
「何? なに? なんだって?」自分の役割を取られた気になり、ふたりの間に割って入る。
「リクさん。びーじぇいと一緒に、ひと仕事たのまれてよ。オレちょっとトイレ行ってくるからさ。緊張しちゃってね。ヨロシク」
 挙げた手をヒラヒラさせさっさとガレージを出て行ってしまった、こうなるとジュンイチに話しを聞くしかなく、困惑した顔のまま腕を組んで押し黙っている。
「どうした? ジュンイチ。どうしろって?」
 話しが見えないリクは早く結論を知りたくジュンイチを急かす。腕を解いたジュンイチは目を閉じて天を仰ぎ、うーんと唸りながら頭を掻く。腹を決めたのかリクオにナイジの意向を説明する。
「そんなこと… いいのか? しかしなあ、オレらにムチャ頼んで自分は、のうのうとトイレ行っちまって、どんな神経してんだよ」
「神経が図太いのは今にはじまったことじゃないでしょう。満タンで走るより、ガソリン減らして少しでもクルマを軽量化するってことなんでしょうけど… 何か考えがあるとすればそれぐらいですかね」
 ジュンイチがポリタンクと手動式の給油ポンプを引っ張り出してくると、オースチンに積載されたガソリンを一度すべて抜きはじめた。
 腕が疲れてくるとリクオが交代して、なんとかタンクを空にした。次に計量ボトルにガソリンを入れて3リットルをキッチリ計る。アウトラップの分はいらないとナイジに言われていた。たしかにゴールしてしまえばガス欠になってもいいのかもしれない。
「いいのかよ、そんなギリギリで?」
「このオースチン、オイルタンクが換装してありますね。標準装備なら27リットルのはずだけど、36ぐらい入ってた。全部は抜け切らないので500ぐらいは残ったとして合計で3.5入ってるから。約32キロの減量になりますね」
「へえー、オマエ、アタマいいな。すぐそんな計算できるなんて」
 ジュンイチは自分で再確認するために計算したのを、真剣に感心しているリクオに気付かれないよう含み笑いする。そしてナイジの逆転の発想を解説しはじめた。そこはリクオのプライドを考慮しながら。
「リクオさんも1リットルのガソリンが、約1キロの重さがあることは知ってると思いますけど、通常、ぼくらはレース当日の朝にタンクを満タンに給油してから、フリー走行から本戦を走りますよね。レギュレーションでガソリンを入れてから、車検を受ける規則になってるし、一日1回しか入れられないから誰もが当然のように満タンにますよね。車種によってタンクの容量は違うし、このオースチンのように改良してある可能性もありますし、それに、フリー走行を何周してから、つまりどれぐらいガソリンを消費してから、本戦に臨んでいるかもまちまちだし、それぞれのクルマの重量自体も均一ではないので、一概には言えませんけど。たしかに、ワンラップだけの戦いなら必要最小限のガソリンの方が、満タンに近い相手に対して優位性を持つことができますからね。ドライビングするにあたっても、単純に、いままで走っている感覚より車輌は軽く、取り回しも良くなるでしょうし。それはスタート時の加速であったり、旋回中のコントロールにも、いい影響を及ぼすと思います。いったい、ナイジがどうしてこんなこと思いついたかわかりませんが、意外な盲点でしたね」
 リクオはひたすら感心しきった面持ちで聞いている。すべてが今ここで初めて聞いたという体裁ではジュンイチの気遣いも意味をなさないが、変に知ったかぶりをしないリクオの好感を持てる一面でもあった。
「じゃあさ、これから2~3周する分だけ入れて走れば、有利になるんじゃないのか。仲間に教えれば残りのシリーズで俺達のツアーズがトップに立てるかもよ」
「そうですが、レギュレーションにどこまで定めてあるか確認しないと。それに、どのみち4つのツアーズで戦っていることだから、突然ウチのツアーズだけが速くなったら、いずれはネタばれするでしょうね。その時の対応が厄介なことになりますよ。ウチだけがそんな真似して走っていたことがバレたら言い訳が利かないでしょうし。今回は1戦限りのしかも、興行的意味合いの強いレースだから『ガソリン量がどうだか』ってことまで突き詰めないと無いと思います」
「そうかあ、いい手だと思ったんだけどなあ、これでオレも最速ランナーの仲間入りができるってさあ、まあ、確かにみんながやりはじめたらおんなじことだよなあ」
 本気でガッカリしているリクオを見て、再び密かに笑みを含むジュンイチは、ふと見たタイヤがこの前にふたりで装着したものより、さらに新しくなっているのに気付いた。
 ガレージの暗がりの中でわかりづらかったが、エンボスに抜かれたタイヤメーカーのロゴと商品名に白くペイントが施されていた。
 しゃがみこんで、トレッドを触ってみると、細かく拠れたタイヤカスが全面に付着しており、きれいに馴らしがされてようで良いコンディションを保っているのがわかる。
 タイヤのクラウンの形を見て、ガソリンを減らして減量した分、空気圧を調整する必要があるのではと気にかかった。その矢先、右後輪タイヤ下の床面であるコンクリートに、薄っすらと染みが付いているのに気が付いた。
 手を伸ばして人指先で触れ親指と重ね合わせると、粘着性を帯びたそれは何かのオイルと考えるのが普通であろう。リクオも一緒になってしゃがみ込み目を凝らす。
「どうした? なんだった?」
 ジュンイチはリクオに『少し待って』と手で合図を送ると、コンクリートに仰向けになって寝そべり、車底に手を伸ばし、何やら探り出そうとあちらこちらに手を突っ込んだ。
 ジュンイチが出す結論を見守るしかないリクオは腕を組み様子を伺っていた。その時、ガレージのドアが開きナイジが戻ってきた、背後には何故か一緒にマリが一緒にいたので、首を伸ばし、目を見開くリクオは思わず声を上げる。
「えっ、なに? どうゆうこと?」
 作業を終えその場に座り込んだままのジュンイチも、女性同伴で戻ってきたナイジにお手上げのポーズをする。ここでは、めずらしくリクオが真っ当な意見を先に言う。
「おいおい、ナイジ。さすがにここはマズイだろ。いくらマリ様っても。それとも何か、出走前の愛の抱擁でもオレ達に見せびら ッヴェ… 」
「あっ、ゴメン、痛かった?」
 リクオの妄想が長くなりそうだったので、ナイジの右コブシがリクオのみぞおちを捕えていた。それよりナイジの関心はジュンイチの汚れた指先の方にあった。棚からウエスを取り出してジュンイチに手渡しする。
「何かあった?」
「このオースチン、権田さんのところで直してきたばっかりだよね? おかしいよ、ブレーキオイルの締め付けが一箇所緩んでた。権田さんがこんな初歩的な見逃しをするはずがない」
 手についたオイルの汚れを拭き取るジュンイチに、手をかざし立ち上がるのを助けるナイジ。その後ろではナイジに殴りかかろうとするポーズを取っているリクオに、マリが笑いながら両手を合わせて謝る仕草をしている。
「悪意ある行為?」冷ややかな目でナイジはつぶやいた。
「おそらく。そう考えるのが妥当だね」
 マリになだめられて機嫌を直したリクオが首を突っ込んでくる。
「なんだよ、ふたりして真剣な顔しちゃってさ。そんなことよりナイジ。どーすんだよマリ様連れ込んじゃって」
 マリの件に関して話しを広げるのは避けたいナイジは、ジュンイチの見つけた問題に引き戻す。
「リクさん、ちょっと待って。こっちの方が重要だからさ。あっ、マリさ、シートに座って待っててよ。あとで話したいことがあるからさ」
 どうみても場違いな状況で登場してしまい居所のなかったマリは、ナイジに言われるがまま助手席に収まった。これからなにがはじまるのかわからず、とりあえずジュンイチとリクオの目から避けることができ、気を落ち着かせることができた。
 馴れた具合に助手席に座る振る舞いが気にかかり、目線で追っていたジュンイチが、自分の姿をナイジに見られているのがわかると目を泳がせるようにして視線を外し、しらじらしく咳払いをする。
「ンッ、ウンッ。そのー、やっぱり、誰かの手によって、故意に緩められたと考えるのが自然だろうな」
 難しい顔をして頭をひねるリクオは、ようやく合点がいったらしく、ジュンイチもナイジも既にわかっていることに対し、おさらいをしはじめる。
「なんだよ、ジュンイチ、回りくどいな。どっかの誰かがナイジのクルマに悪さしたってことだろ。誰だよ、悪いヤツがいるもんだな。あれ? でもさ、そうすると、ヨソのツアーズのヤツラじゃなくて、ウチの誰かってことになるんじゃないのか? ガレージの中にあるクルマに手ェ出せるってーのは」
 ナイジとジュンイチがいま問題の本質として挙げているのはまさにそこで、ようやくリクオが追いついてきた。ナイジは『いまさら』という意味で頭からこけて見せたが、人のいいジュンイチはリクオに付き合う。
「あまり、考えたくはありませんが、そうなるでしょうね」
 そこまで聞いて結論に至ったのか、リクオはアタマに浮かんだ人物を、つい口に出してしまう。
「 …ゴウさん」
「リクさん止めようぜ。憶測でモノ言っても、何にも解決しないし気分が悪くなるだけだ。いいじゃないか走る前に見つかったんだからさ」
 事の重大さを微塵も感じさせず、ましてや自分がドライブするクルマに危害が加えられているのに、これまで以上に平然と対処しようとするナイジに、心情的にすぐには同意することはできないジュンイチだった。
「ナイジ、でも、手を掛けたのがここだけという保証はないよ。まあ、かと言って簡単に手が入らないところにまで何か仕掛けたとも思えないけど。リクさん、僕らふたりでもう一度ひと通り点検しましょう。どうせ、ナイジはクルマのことまったくダメだし」
「あっ、ああ、わかった。何かあったらエライ事だしな。見直しとくに越したことはないだろ」
「あっ、ホント? 悪いねぇ。シートで待ってるからさ、何かあったら教えてよ」
 そう言うとナイジはサッサとシートに収まってしまった。ふたりはお互い顔を見合わせて苦笑いをして肩をすくめる。リクオはボンネットを開けて、エンジン周りを。ジュンイチは引き続き足回りの確認をはじめた。ナイジがシートに現れると、待ちくたびれていたマリがすかさず問い詰める。
「ちょっと、ナイジ。どうゆうこと? 手伝ってくれって、ガレージまで呼び出して。アタシ、クルマ乗っちゃっても大丈夫なの?」
「マリ、あのさ、多分まともに説明してもパニックになるだけだと思うし、オレ自体思いつきでやってることだから、本当にうまくいくかどうかもわからないんだけど。そんなことより、なんかさ、マリが隣にいないと落ち着かなくて、レースする気になれなくてさ」
「はっ? 何、なに言ってんの?」
 他人事を気取って話すナイジに、マリはおどろくやらあきれるやら。それでも、ナイジはいたって余裕の面持ちで、両手を頭の後ろで組んでふたりの作業を車窓から悠々と眺めている。もちろん先ほど口にしたことは冗談だが、このタイミングで隣にマリがいることに、心落ち着くのは嘘ではなかった。
「まあ、おいおい説明するから、しばらくそのまま隣で座っててよ」
「おいおいって… 」
 理由も知らされずノコノコとガレージまで顔を出してしまい、一向に何をするのかもわからないまま、ただクルマに乗るよう促がされ、馬鹿正直にシートに収まっている自分がいったい何に役立つのか。
 ナイジは意気揚揚と楽しげで、今から行くところがコースではなく、ピックニック気分のサンデードライブにも思えてしまうほどだった。
 あの日、ロータスと最初にやりあった公道で、戦う前のギスギスとした苛立ちを伴った感情の昂ぶりを見ているだけに、これほど穏やかに待機していることが不思議でなかった。
 ナイジの言うことを間に受け、自分が居ることで感情の波を良い方にもっていけたのなら、少しは自分も役に立っているなら嬉しいのだが。
 ただ、それだけの理由で呼ばれたわけはないはずで、いったいナイジの口から何が飛び出してくるのか、なんとも落ち着かないまま放置されている状況は、マリにしてみれば心穏やかではない。
 ジュンイチたちの確認が終わったらしく、ドライバー側のドアをノックする。ウインドハンドルを回してのぞき込むナイジに対し、ドアに両手をついて体を支え、腰を折った姿勢で説明するジュンイチ。本当に口にしたかったのはそんな、当たり前の事後報告ではなかった。
「ナイジ、安心してくれ、ほかに問題は見つからなかったよ。それにしても… 」
 ナイジはジュンイチの言葉にひとつひとつ首を縦に振りながらも最後の言葉はさえぎった。漏れていたブレーキオイルの減りが少ないということは、手を掛けられてからそれほど時間が経過していないということで、推測すればナイジがマリを呼びに行ったあいだと考えるのが妥当だ。
 それなのにナイジからはそんな邪推を一切口にする気配もなく、ジュンイチたちの行為に礼を言うに留めていた。自分がレースに出て闘いをはじめたことで、まわりに良い影響も悪い影響も及ぼすことになる。自我を出すということは同時に敵を作ることにもなる。そんな新たな弊害にまで対処するのはキツかった。
 だからといって、それを理由に周りとの調和だけを考えていては、何ひとつ自分の描いた未来を成し遂げることはできない。そう信じ込むことで、もう少しの刺激いかんで脆く破れそうな心情を覆い隠しているだけだった。
 ジュンイチにはやけに温和なナイジのそんな表情が余計に痛々しく、言うべきことを切り出せなくなっていた。もしかすると身内に裏切りともいえる行為をされ、最悪の場合を想定すれば大事故にも成りかねなかったわけで、自分がその立場なら烈しい怒りと、虚しさが混同する思いであるはずなのに。
 自分の存在が疎まれ、失墜を望むものがこのサーキットに、さらには高い確率で同じツアーズ内にいると知り、少なからず動揺もあるだろう。
 悲しい現実だが、だからといってあれこれ詮索していても埒があかない。この段階で発見でき、手が打てたことにツキがあったと取った方がいいという了見なのか。
 さばさばとした表情からは、不思議と恨みや妬みといった陰の要素は少しも見受けられない。戦いの渦中に巻き込まれたことにより、ナイジをより高みの境地へと引き上げていったのか。
 つい自分との比較すれば、おのれの小ささだけが卑しく浮かび上がってきた。ナイジがそこまで冷静で、戦いに集中しているならば、あの女性を助手席に乗せる理由も、深い意図があってしかるべきだろう。
 軽量化のためにガソリンを抜いたと推察したが、実のところ、もう一人乗せなければならないための、苦肉の策から引き出された妙案だったのかもしれない。ならば、何故、あの女性が必要なのか。ナイジの左手の怪我を知る由もないジュンイチには、そこから先の解答にたどり着くのは簡単な作業ではなかった。


第16章 3

2022-10-02 14:46:47 | 連続小説



R.R

 ナイジの顔がかしみ表情に苦痛が走る。痛みは治まってはくれなかった。それなのに出走時刻は刻一刻と迫ってくる。本戦が行われている中で、全員ピットレーンにいるか、自分のクルマで出走を待っており、ひとりガレージの中で待機するナイジがそこにいた。
 いまもレースの前にオースチンとの儀式をおこなっていた。手足で操縦系を操っての頭の中で試走をしている最中に、痛みに襲われるたびに間断してしまい集中できないでいた。
 そのため一向にオースチンの具合と自分との同期がはかられず、コース戦略に手もつけられない。左手は正確にいえば動かしさえしなければ痛むことは無い。ただ、レーシング状態を想定し、素早く、烈しくシフトチェンジをすれば痛みが走り、続けていけばしだいに感覚が麻痺し握力が保てなくなる。
 痛みが引く間隔は確実に短くなっており、なるべく手首に負担のかからない動作を模索しようと、何度かギアを入れ変える動きを試してみる。
 1、2、3、トップ。上に押し上げる1と3はそれほどでもないが、手首を返さねばならない2とトップには問題がある。レース中には3から1や、4から2とひとつ飛ばすケースもあり、そこにも懸念が残る。気を遣かって慎重におこなえば痛みを抑えることも出来ても、そんな動きでレースになるわけがない。
 瞬時の判断と咄嗟の動きにどこまで耐えうることができるのか、取り返しのつかないミスを起こせばロータスに勝つことはおろか、最悪の場合、事故につながることさえありえる。
 そんな気持ちを断ち切るべく、自分にまとわりついた重く湿った空気を取り払おうと、本能に任せたギアチェンジをしてみた。
 3から2にダウンした時、手首から痛みと伴に感覚がなくなり力が抜け、痛みが引くまで数分を要してしまった。思わず手首を右手で押さえると却って痛点を触ってしまい、その痛みの方が大きくなってしまった。
 さんざん思案しては同じことを繰り返している自分が愚かでしかない。
――ダメだな、このままじゃレースにならない。勝負どころか、まともに走るのも、おぼつかなくなる。もう少し力が入ればギアチェンできるのに… どうする――
 何か手を打たなければ、走る意味さえなくなり、そんなレースをしてしまえば、関係者や観衆から非難を一手に浴び、矢面に立たされるのは自分だけじゃない。
 保身に走るつもりはなくとも、何のために今日走るのかを考えれば、このままレースを迎えるのは、あまりに無責任であるのは否めない。打開策を講じようと必死に頭をひねっても、焦れば焦るほど、アタマはうまく回ってくれず、熱病に冒され悪夢を繰り返し見ているのと同じで、無情に時は進み苛立ちが募るばかりだ。
――こんな気持ちになったのははじめてだな――
 うまく考えがまとまらないのは何も焦っているからだけではなく、認めたくはなくとも、前回の出走前とはまったく違った圧力が自分に覆い被さっているという理由もあった。
 戦うべき相手が多すぎることで、どこに意識を集中させればいいのか戸惑っていた。単純にロータスの男だけに照準を合わすのではなく、今日集まった大観衆を含め、自分に関わる周りの人間も相手を意識しはじめていた。
 勝負に徹するだけではなく、彼らの要求を満たし、前回を上回るほどの魅了する走りをしなければ、自分という価値があっという間に空気より軽い存在になってしまうようで、知らず知らずの内に得も知れぬ畏怖となって身体を締め付けていた。
 ある種の経験は、成長することと、後退することの二面性を持ち合わせ、どちらかが主導権を取るかで、人が成長する場面での岐路となるならば、いまのナイジの現況は、あきらかに負の階段にさしかかっていた。
 自分には関わることはないはずであった好奇の目にさらされる中で、たとえ、そうであっても上手くいなせる自信はあったはずなのに、いざ、その心境に置かれた今、みっともない姿を露呈することを避けようとしている自分がいた。
 不安は他人からもたらされるものではない、自分の内面に巣食っているだけだ。自分以上を求めるた時に起こる意識のズレが、勝手に壁を高いものにしていることにより、それをまわりの要求と履き違えている。そしてそれに輪をかけるようにマリのことが、より一層ナイジの精神を不安定にさせる元凶となっていた。
 スタンバイの前に最終検査をするために医務室に行った。現状を打破する手立てが思い浮かばず、その時のことを振り返っていた。
 いや、正確に言えばその時の志藤からの言葉も、いまのナイジを冷静でいられないくしているもうひとつの元凶であった。
 検査は単純な確認事項だけで、特に問題もなくそうそうに診察は終了した。あの医者、志藤は、ナイジの左手のことをわかっているはずなのに何も言わなかった。言われていても反論する言葉は用意しておいたのに、志藤はそんな無駄なことに時間をかける余裕はなかったのだ。
 マリに必要でもない仕事を言いつけて意図的に席を外させた。志藤は深い思いを秘め、細めた瞼の隙間から伺える瞳には多くの言葉が隠されているように見える。
 ふたりきりになった医務室で、志藤がナイジに告げたマリのこと。なぜこのタイミングだったのか、その時はただ、頭が真っ白になっていた。レースを前にして、いやそれより今度どのような顔でマリに向き合えばいいのか。ナイジには志藤の意図がつかめず怒りにも似た感情がわきあがり、いつしか志藤を睨んでいた。
 そんな反応を目にしても志藤は揺るぐことなく、ナイジから目を離すこともなかった。その強い信念に気圧されるようにナイジは目線を切りった。
 志藤が口にしたマリの状態は、ナイジが思っていたものより深刻だった。その時、最初にアタマに浮かんだのは、誰だって自分の生命が保証されている訳じゃないという屁理屈のような理論だ。ましてやレーサーであるならばその確率は他の者より高そうだと笑いそうになった。
「やはりまだそこまでは聞いてなかったか。マリを悪く思わんでくれ。ワシはな、なにもオマエを追いつめようとしているわけじゃない。ただ、知って欲しいだけなんだ。そのうえで判断して欲しい。マリとその運命を共にするのか。それともお互いにケガをしないうちに引き戻すのか」
 そんな言われ方をして、じゃあ止めますと言えるわけもなく、もともとそのつもりもない。志藤がナイジを試したわけでもない。そこにはなんの駆け引きもなく、ただ自分の本心をありのままに出しているだけだ。
 もうひとつ、ナイジが頬を崩しそうになったのは、自分も左手首のケガを隠しているのと同様に、マリもまたその真実をナイジに話せていなかったことだ。ともすれば他人行儀だと感じてしまう部分も、いまならその相手を思いやる気持ちが素直に腑に落ちる。
「オレにはマリが必要なんだ。それになんの疑いもない。先のことまで考えて答えを出すなんて、いまのオレにはできない」
 それでもいまは素直にマリの顔を見れそうになく、用事から帰ってくる前に医務室をあとにした。そこも含めて志藤がマリに用事を言いつけたことを理解し、その時は、なにか先回りされている状況が面白くないナイジであった。
 今にして思えばレースを前にして知りえたことは、この流れの中で決められていた運命だったともいえ、ほとんど賭けに近いナイジの決断にはずみをつけることになる。
――なんだ、しょせんオレもこんなもんだ。これじゃあネコの手でも借りるか、勝利の女神にでもすがるしかねえな… ――
 そこで、ナイジの脳内にぽっかりと空白が生まれた。そこに侵入しはじめたひとつの妙案が大きく膨らみだす。口元が徐々に緩みだし、やがて口から息が漏れはじめ、あとは勝手に笑いだしていた。
「バカバカしい。でも、オレらしいや。それにネコの手よりよっぽどマシだし、女神ってほどご利益があるわけでもないだろうけど。 …マリが聞いたら怒るな、確実に」
 憑き物が落ちたかのように暗雲が晴れていった。単なる思い付きをきっかけにでさえ、呪縛から解かれていく自分を客観視してみても、説明できない不思議な感情に流されていたのがわかる。
 それに、ここでマリの存在が大きくなるとは思いもよらなかった。今回の一連の流れがマリの登場からはじまり、志藤の独白を受け入れ、気持ちを伝えるには、そこに運を託してみてもあながち間違いではない。
 意を決してからの行動は早かった。車外に飛び出し、ガレージを抜け、ピットレーンを横切る。ピットフェンスから掲示板を見上げればアタック中のクルマは都合よく1コーナーに差し掛かったばかりで、まだ計測がはじまっていなかった。ピットレーンに出走を終えていたミキオがナイジの姿を目にし声をかける。
「どうした、待機してなくて良いのか。何か気になることでも… 」
 ナイジはミキオにちらりと目をやっただけで、何も答えることはなく左手を挙げて振るだけだ。ミキオもつられて手を挙げるが、ナイジの思いもよらぬ行動に、口は開いたが声にならない。
 おかまいなしにナイジは、ピットフェンスを跨ぐとホームストレートを小走りして横切っていく。面食らったのはミキオや甲洲ツアーズの仲間達だけでなく、本日の主役の一人がした、常軌を逸した行動に誰もが唖然として固まってしまった。観衆もその行動に気付き出し、レース中のクルマを追う目をそちらへ向けはじめた。
「何やってんだ、あのバカァ! 早く連れ戻して来い!」
 不破が悪態をついても、さすがにこればかりは、いくら命ぜられようとも、後を追いかけて同じようにホームストレートを縦断するわけにもいかず、誰もが手をこまねいたまま傍観するしかなかった。
 それにナイジが何の考えもなしにこのような行動をとるとも思えず、ツアーズの仲間たちは何をはじめるつもりなのか、少なからず興味をもって待っていた。
 ナイジはホームストレートの真中辺りまでくると、首を回しスタンド全体の様子を眺めてみた。さっきまで自分に無言の圧力をかけていた群衆が、今はもう単なる人の波であり、人の塊という個体にしか見えず、自分が平静に戻っていると予期せず確認していた。
 冷静すぎる自分は、観衆を俯瞰して見ることができ、その落差が面白く思えるほど楽しめている。あの時の得も知れぬ緊縛感はいったいなんだったのか。周りや、環境のせいにしてしまいがちだが、一皮剥けば自分の心に巣食う、欲目と羞恥心に飲み込まれていただけなのだ。
 完全に払拭できた今はもう、多くの名もなき眼が自分に降り注いでいても、なにひとつ臆することなく、走るための力にさえ転化されていく。新たな経験から自分で作り出していた見えない壁を乗り越え、次に進むことができたのだ。そこには、腹をくくって、やらなければならない行為を遂行する力強さが伴っていた。
 スタンドでは、ピットレーンから飛び出てきたひとりの男の行動に、すべての観衆が注視し指を差す。レースの最中、あの男は何をしているのか、これから何が起こるのか、何かが行われる予定だったのか、勝手に想像・連想・妄想して言葉にしている。
 誰がいうでもなしに、あの男がオースチンのドライバーであることが認識され広まっていった。観衆の憶測を意に介さず、タワー側スタンドのフェンスまで来たナイジは、お目当ての人影を探しはじめた。
 スタンドにいるマリにも、ナイジの奇怪な行動は目に入っている。フェンスに張り付いて、誰かを捜している様子から、その誰かは自分かもしれないと思うのは当然の成り行きだ。
 とにかくナイジの意図を確認する必要がある。用事をすまして戻った診療室にはナイジはもうおらず、志藤に聞いても歯切れが悪かった。レースに向けて忙しいのだと自分を納得させるしかなかった。
 最上席から駆け下りていくのは、少しの注意力と、多少の体力と、かなりの勇気が必要とした。その姿を目に留めたナイジが、手を挙げて傍に来るように促がしている。
「もう、わかってるわよ、急かさないで。余計に目立って行きづらくなるじゃない」
 ナイジの真意がつかめないまま、周りからは好奇の目にさらされ、マリは恥ずかしさから顔が赤らむ。ナイジが立っているフェンス際の客席や通路は人垣ができているので、身体をねじこみ掻き分けて進むのもひと苦労だ。
「すいません、すいません。通して下さい」
 ナイジが女性の名前を連呼しているので、人垣の客もマリの存在に気付き、道を開きはじめる。ようやくフェンスまで近づいたところで勢い余り、金網に突っかかるように身体をあずけてようやく止まることができた。
 必死のマリの行動とは対照的に、至って冷静で笑顔まで携えたナイジは、人差し指を動かし、耳を近づけるよう合図している。
「どうしたの、何? 何が起きたっていうの?」
 金網に顔を近づけ「耳、耳」と、ささやくナイジ、自分に周りからの視線が集中しているのがわかり、うろたえるマリ。これほど他人から注目を浴びた経験はなく、恥ずかしさから逃げ出したい気持ちを抑え、半ばやけくそ気味にフェンスに耳を当てる。
 付近の群衆もオースチンのドライバーが、この女性に何を話すつもりなのか気になるが、両手で女性の耳を塞いでいるため、これでは聞き耳をたてることも出来ない。
「えっ!」
 心臓の高鳴りと、ナイジの息がかかるこそばゆさもあり、直ぐには言われた言葉の意味が飲み込めなかった。呆然とするマリは、ナイジに人指し指で強く身を指され念押されても、いったい自分に何ができるのか、まったくわからない。
「時間がないんだ。たのんだから」
 差した指を折り、親指を立ててマリに合図してから最終コーナーを見て、まだクルマが戻ってこないのを確認すると、再びコースを横切りピットフェンスへ戻っていく。そうなると、周りの観衆の目は一斉にマリの方へ注がれる。
 いったいあのドライバーから何を頼まれたのか、この女性は何者でこれから何をしようとするのか、そもそも、なぜこの段階で多くの人目にさらされる中で伝えなければならなかったのか。
 一段と高まるマリへの好奇の目をそらすためか、コースを走りながらナイジは観衆に向かって手を振りだした。派手な振る舞いや、目立つ行為を極力避けていた自分が、こんな派手な行動をとっていることがおかしくてしょうがない。
 調子に乗って振った手を高く上げたまま拍手して、両手を広げスタンドを指差した。それに応えスタンドから大きな歓声と拍手が返ってくる。今日のメインイベントを盛り上げるための、余興の一つかと勘違いしたらしい。
 なににしろ、周りの目から逃れることが出来たマリは、その隙にこの場を離れてスタンドゲートに向かって行った。そのあいだも周りからの視線は途切れることなく、火を噴き出しそうに赤らんだ顔を、できるなら両手で覆いたいぐらいだったが、そんなことをしたら階段を登る速度が落ちて、結局は人目にさらされる時間が長くなってしまうので、しかたなく顔を下げるに留めるしかない。
「もう、ナイジのバカ、バカ、バカーっ」