private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第18章 3

2022-12-25 18:23:23 | 連続小説

「完璧だろうがあ! これで文句ねえだろっ!!」
 ドライビングシートで怪気炎を上げる安藤。まさに自分が求めていたパッシングシーンを具現化でき、達成感は快感へと昇華していった。
 それを見て西野も大したものだと感服していた。有利な点は幾つかあった。レースに入る気持ちの入れ方、これで2回目となる後ろからの追い上げ、そしていささか拍子抜けだったここまでのオースチンの走り。
 それでも自分の思い描いたパッシングを、観衆が期待した場面で観衆の思い描いたとおりにやりとげる能力は、誰にでもできる芸当ではない。その一点にすべての流れを持っていけることが、他人より抜きに出た安藤の才能と強運なのであろう。
「今度は、コッチが楽しませてもらうぜ。せいぜい後ろで地団駄でも踏んでろ」
 西野も当然そう来ると思っていた。前回の峠でも同じことをした。あの時はルノーという障害物のせいで成し遂げられなかったことを、今回は余計な邪魔が入る心配も無く、観衆の前でオースチンをいたぶりながら、自分のテクニックを思う存分披露することができる。
 それが自分の価値を高めるために必要な行為であり、レース後の出臼への立場も変わってくる。過去2回の失態を帳消しにして、さらに上乗せをするためにはやらなければならない大切な見せ場だ。
 コーナーではイン側に少しだけスペースを開け、オースチンを呼び込み、早めのブレーキでリズムを狂わせて、自分だけが使えるラインを好きなタイミングで立ち上がっていく。コーナー入り口ではテールにピタリとつけてくるオースチンを、立ち上がりでは面白いように引き離していく図である。
 ここからは安藤の独壇場になるはずだった。もちろん西野もそれを疑うことはなかった。しかし、しばらくその走りを続けていると何か様子がおかしい。オースチンとは立ち上がりでも差は広がらず、抑えて走っているようには見えない。
 安藤に同情する点があるとすれば、マリとのシフトワークがまだ不慣れな状態で先行していたオースチンに合わせた走りを続けていたことだ。
 いつしか苛立ちを含んだ走りとなり、そこには焦りや怯えが根底にあると思える程に集中力を失っているように見え、これでは相手をあざ笑うぐらいの狡猾さを含んだ安藤のドライビングではない。
 安藤は西野からの観察されている目線が鬱陶しかった。西野がすでにそれらを察知しているのはわかっている。オースチンを抜き去ってからの走りが、自分らしくないことに疑念を持っているのだ。安藤も自分の流れで走れていないことは百も承知だ。
 安藤がいま本当にしなければならないことは、オースチンを手玉に取って押さえ込む走りではなく、最終の5連続コーナーの前で少しでも差を広げることであった。
 それを認めてしまえば自分のロータスは、あのコーナーでオースチンに劣ることになり、踏み込めない自分の弱さを認めてしまうことになる。ふたつの相反する不合理さが、安藤の走りをどっちつかずの中途半端なものにしていた。
 頭ではわかっていても素直に逃げ切りを図るわけにはいかない。抜こうとするオースチンを弄ぶように押さえつけ、5連続コーナーでさらに差をつけてフィニッシュすることで、自分の立場を明確化することを優先せねばならない。
 そんなジレンマに陥り、徐々に動きも鈍くなる安藤であったが、それは高いレベルで走っている当の本人達だけがわかる微小なモノで、外から見ているだけでは競い合うふたりの闘いは、紛れもなく見るものをとりこにする圧巻の走りであった。
 不安定な心の隙間をどんなにごまかそうとも、走るクルマの動きには正直に現れている。抜かれた後もオースチンは執拗に食い下がり続け、離されることなく、追走していく走りを見せつけられれば、見ている方としてはどうしても後から追い駆けるほうに勢いを感じ、再び抜き返すシーンを期待いてしまうのも無理はない。
 そして安藤の目線の先に、5連続コーナーが映りはじめる。そのコースマーシャルにはアラトが陣取っていた。
「まったくさ、ゴウさんもどこまで本気なんだか知らないけど、あれじゃあ逆立ちしたってGMにはなれないな。結局自分じゃなんにもしやしないんだから、おかげで手に油が染み付いちまったよ」
 アラトは持ち場である、最終5連続コーナー前の第4ポストに居た。そこでコースマーシャルの任に付くのは今回の受け持ちでなかったが、そこは出臼がぬかりなく手を回しており、アラトを据えていた。
 はち切れんほどに膨れ上がったポケットを重たそうにして、ぎこちなくコース脇まで歩いてくる。一応辺りは気にしてみたが、もちろん近辺に人影はない。
 サーキットにサイレンが鳴り響き、スタートへのカウントダウンがはじまっていた。アラトはポケットに入れておいた白い砂をコースのライン上に撒きはじめる。
 強い日差しの中で照り返すアスファルトに撒かれた白い砂は、しゃがみ込んで目を凝らさなければ見分けがつかない。そこをレーシングスピードで駆け抜けていくクルマが、グリップを失いコントロールを乱すには充分の仕掛けとなる。
「さすが、出臼さんだ。万が一を考えてここまで押さえるとはさ。そうまでして、不破さんをやっかい払いしたいんだな。ナイジも目立つことしなきゃこんな目に合わずに済んだのにさ。悪く思うなよ。人生、成るようにしか成らないんだから。しかし、ロータスも一緒にかたずけちまうとは以外だね。オレみたいに長いものには巻かれなきゃ。煙たがられりゃ、どれだけ力があったって切り捨てられるだけってことだ」
 かたまって砂が落ちた部分を足で慣らしていると、額からこぼれ落ちた汗がアスファルトに黒い痕を残し、瞬時にして蒸発し何も無かったように元のアスファルトに戻って行く。
 アラトの目にそれは小さな力では大きな世界は何も変えることはできず、ただ飲み込まれているだけであることを再認識させていた。
 この時点で自分はレースの行方と、サーキットの今後を知る数少ない人間のひとりであることに満足を覚え、その歪曲した姿勢に悪魔が蝕んでいることさえも充足感のひとつに転化されている。
 出臼の陰謀が水面下に在るうちはそれでなにも問題にはならないが、明るみになった場合、すべてが自分に押し付けられ、今度は自分が切り捨てられるだけの駒であることを、アラトのちっぽけな頭では片隅にさえも考える余地はなかった。
「おっ、近づいてきた。派手にやってくれよ」
 それにしては少し時間が早すぎるなと思い、走行音のする方に目を向けるアラトの表情はまだ余裕があった。
「よーし。まだ負けてないぞっ!」
 甲洲ツアーズのガレージ屋上でも、ナイジの走りにキレが戻ってきたのが見て取れ、前を行くロータスに負けていないと確信すると、互いに目を合わせ確認すしてこぶしを力強く握りしめる。
 そんな興奮の勢いにも乗って、甲州ツアーズは再び活気を取り戻してきた。他のツアーズの連中が驚きの表情をしているのがそれに一層輪をかけていった。
「なんだよアイツ、ちゃんと走れるじゃないか。登りはなんだったんだよ」
「ハラハラさせやがって、そこまで演出してんじゃねえよ」
「いやいや、キミのチカラはそんなもんじゃないでしょ。もっと、もっと攻めていいから」
 ミキオも、リョウタも、ジュンイチも、誰もが勝手な言葉を口にし、誰もが全身総毛立ち、カラダのシビレが頭頂まで走っていた。登りの走りを見たときは落胆し、追い抜かれてからはこのままジリ貧で離されていくのではと覚悟していた三人だった。
 そんななか、普段なら誰よりも狂喜乱舞して、仲間と喜びを分かち合っているはずのリクオは、ひとり冷静にナイジの走りを追い続けていた。
――バっカヤロウ、アイツ。心配かけやがってよ。ホントによ。ホントにオマエってヤツは… これで終わりじゃねえぞ。勝たなきゃ何にも意味がないんだぞ。――
 少しでも戦況を目に入れようと、背伸びしてあたまを振るリクオは、体中に力が入って硬直していた。二台の走り以外は何も目に入らない、何も聞こえない。握りしめた両のこぶしがワナワナと震えている。
 まさかここで持ち直してくるとは想定外で、下りになってから本来の力強い走りを取り戻し、同時に目に見えて鋭さを増した走りをしはじめたナイジに、安堵と共に烈しく心を揺さぶられていたのは、彼らツアーズのドライバーだけではなかった。
「どうゆうこった。安ジイの言うとおりになったな」
 不破は首の皮一枚つながった心境で、安堵と共に思わず声を漏らした。
「なんだ、あんまり信用されとらんかったみたいじゃな。まあ、ワシもそれほど確信を持って言ったわけじゃないがの」
 不破は腰が砕けそうになり、脇の下から汗が噴出してきた。
「よしてくれよ、安ジイ。コッチは死活問題なんだから。あのまま終わってたら、オレはお払い箱になっちまうんだからな」
「フハハッ、そりゃ、オマエさんの都合じゃろ。ワシが確信を持てなかったのは、後半持ち直すかどうかは、ナイジの内側の変化に因るところが大きかったからじゃ。何が起きたのかまではわからんが、ヤツが次の段階に行ける人間なら、背負い込んだ苦境も力に変えて結果に結びつけなきゃならん。ここまで終わるなら、どれほど有利な条件でも勝つことはできんだろうて」
 安ジイの言葉を噛みしめているのは不破だけではなく、権田も一緒だった。最初はナイジを疎ましく思い、深く関わることを避けようとしていた。
 その要因であったナイジの言動であったり、世の中をバカにしたような振る舞いのすべてを受け入れたわけではないが、それらひとつひとつがレースに勝つという一点に集約されていることだけは、信じられることができた。
 瞳の奥にだけ存在する純粋な勝利への渇望、そのために出来ることを疎かにしない行動力。大人の目から見れば稚拙な部分も見え隠れしても、ひと肌脱いでやろうと気が変わってきたのは、ナイジの持つ特有の魅力に引き込まれたからであるのは否定できなかった。
「俺達をその気にさせたんだ、ヤツは次に行けるドライバーだ。神輿の上に乗る人間ってのはそんなもんだ」
 権田の思いをまとめるように、不破がボソリとつぶやいた。


第18章 2

2022-12-18 16:30:24 | 連続小説

 スタンドから見つめる観衆の目にも、2台のクルマはどれほど減速したのかもわからないほどのスピードのまま、ほぼ並列の状態を保ちながら1コーナーを旋回していく。
 ギアを落とした時に高回転になるエンジン音、摩擦音をかき立てるブレーキング音、そして引き裂くようなタイヤのスキール音がユニゾンとなって1コーナーに陣取る観衆に響いてくる。
 2台が連なって奏でるそれぞれのサウンドは、タイムアタックの単独走行では耳にすることはできず、ふたりのドライバーの闘争心も重なってさらに荘厳となる。
 誰もが息を飲み、そして間髪を入れずに声を挙げた。その音もまたスタンドを揺るがすほどの大音響となり、自らの行為に高揚していった。
 イン側のラインを有効に使い、アウトへはらみながらロータスを牽制して加速するオースチンに、行く手を阻まれ思うように加速できないロータスが後塵を拝するのを目にして再び歓声が上がる。
「オースチンだ!」「赤の5番が先だ!」見たままの言葉を発することで、スタンド全体で共通認識することが大切かのように我先に競い合い声に出した。
 誰もがスタートダッシュから1コーナー争いまでの、まさに火花を飛び散らせる対面対決に酔いしれ、それだけでもこのレースを見に来た価値があると、自らに心酔していった。
 甲洲ツアーズのピットは狂喜乱舞していた。身を乗り出した不破がナイジのホールショットを見届けると、権田と安ジイと交互に力強く手を握った。
 すかさず山間部の様子を見るためにピットのガレージルーフに向かおうと体を向けると、既にジュンイチやミキオがハシゴを登りはじめていた。
「こら、オマエら先走りやがって、オレに譲れ! いや、早く登って状況を報告しろ!」
 どのみち脚が悪くハシゴを使うことができない不破の叫びにミキオが応える。
「大丈夫です、まだ、ナイジが抑えてますから。うわあ、やべえ、ロータスのヤツ、ピッタリ後ろについてやがる。5cmと開いてないいんじゃないか」
 1~2コーナーでなんとかロータスを抑えこんだナイジは、すかさずミラーチェックを入れ、背後についたロータスの挙動を確認しようとする。
 最初に闘走した山道で抑えこんだ経験はあったとしても、リクオとの“追いかけっこ”のおかけで隅々まで知り尽くした公道とオールドコースとではわけが違い、コースの難易度も雲泥の差だ。
 まずは自分のクルマを前に進めることが先決で、ミラーに目をやるのは二の次となり十分にはいきとどかず、ロータスの挙動も思うようにはつかめない。
 マリが手伝ってくれているギアシフトにも、普段以上に意識が持っていかれる。あの時のように、後ろに目が付いたような走りの再現は困難であった。
 そしてもうひとつ、今までに経験したことの無い重荷がナイジには圧し掛かっていた。いつもと同じ気持ちで闘いに臨んでいるつもりでも、レースに関わる多くの人の業が、ナイジが尋常であることを許してくれない。
 ひとりで好き勝手に走っているときにはあるはずもない、スタンドから発生する空気の揺れや、ピットからの羨望を含んだ熱い視線と、タワーから見下ろしてくる多くの思惑がそこには漂ってくる。
 ナイジの預かり知らぬところでうごめいている私念が、走り出したナイジを追いかけてくる。それは今では身体の中まで浸透し、重石となり圧し掛かってくる。
 その時初めて、戦いにおいて外圧を受けている自分と相対していると気づかされる。ピットでスタンバイしていた時に吹っ切れたものはまだ第一段階でしかなく、真の圧力は走り出した状況において初めて身に降りかかってきた。
 さらに1コーナーを取った優位性から、このまま確実に勝利への流れに乗っていかなければという、視野の狭さが自からのカラダを縛り付けていった。
 虚栄心に翻弄される自分を振り切った後に来たものが、護るべき自尊心であることに、まだ経験値の少ないナイジにはそこまで頭と身体がついていかない。多くの過負荷がナイジの身体のあちらこちらにへばりつき動きを鈍らせていた。
 さらに、ナイジにとって予想外だったのは、挑む立場から受けの立場に廻ったことにより、前回のように先、先を読み、攻撃的に相手を抑えこむのではなく、相手のペースに合わせながらの走りに知らず間になっていたことだ。
 前回の教訓を糧に右にも左にも振らず、オースチンの背後にピタリと陰のようにつきまとうロータスは、なおのこと、いつ、どこから、どちら側に飛び込んでくるのか予測もつかず、それが余計にナイジの走りを小さなものにしていった。
 同じように抑えこんで走っているように見え、実は立場は逆転しており、ナイジは自分の間合いで思い切った踏み込みができなくなっていた。
 迷いをはさめばその時点での後退を意味し、思い描いていたレースプランにほころびを作り出す。先行は阻んだものの、思い通りに抑えこめていない状況でレースをコントロールしようにも、コースと自分との戦いに追われ、そこまで手が廻らない。
 1コーナーで頭を取り、山間部で抑えこむ。それが勝負に持ち込むための最低条件ではあるが、必ず勝利に結びつく絶対条件ではない。レースは生き物で刻一刻と変化していく動きに対して、ナイジは流動的に対処しきれていないでいた。
 不利な状況、囲まれた環境、手詰まりの心境。気持ちが萎えるには充分の組み合わせであった。いつ投げ出したっておかしくない中で、決してあきらめることを許さない存在が隣にいる。目端に映るマリは青ざめた顔で必死になってシフトノブに喰らいついている。絶対にロータスに先行を許すまいと。
――吐きそうなぐらい辛いくせに。こんな小さなカラダで受け止めている… ――
 引っ張り込んでおいて、自分が先に降りるわけにはいかない。ましてや、マリにあきらめるなと叱咤したのは自分であったはずなのに。
 もう一度、戦かえる状況に引きもどさなければ、これほどみっともないことはない。自分を戒めるナイジは、厳しい環境下での闘いの中でしか開花しない新たな能力にまだ気付いていなかった。近視眼的視野は広がりを見せ、マクロ的に広範囲に高度にまで拡大していった。
 いつしかナイジの耳は無音となり静寂に包まれだした。そのうちに本来オースチンが出しているさまざまな走行音は遠くにあり、それと引き換えに聞えるはずのない追走してくるロータスのロードノイズだけが伝わってきた。それがひたひたと背後に忍び寄り重苦しさをもたらしてくる。
――なんだよ、どういうことだ。ロータスの足音だけ聞えるなんて――
 未来はいつだって常識から外れていき、価値観はズレていき、予測も予想も単なる妄想と同義語になっていく。心の準備が伴わないうちに、ただ受け入れることしかできず、受け入れた上で従事することを選ぶか、まだ、上を目指すのならば瞬時に答えを出さなければならない。
 そこから遡って考えればロータスのロードノイズのみが耳に伝わったのも、その前兆だったのかもしれない。いつしか、ミラーでチェックできなかったロータスは俯瞰の位置から捉えられ、オースチンをもてあそぶようにテールトゥノーズで食いついている動きが映像として現れる。
 コースはもうすぐ登りが終わり、そこで、ロータスが仕掛けてくるシーンも浮かんできた。さらに、スタンドやピットの様子までもが。
――あれ、なんだよ。いいきなもんだぜ、リクさんたちはガレージの上に登ってのご観戦かよ。ああ、安ジイも権田さんも来てるのか――
 極限の闘いの中で、いっとき、闘いから身を離す自分がいるのがわかった。それが次なるステージへの助走として必要な時間であるかのように。

 背後からオースチンの走りを直視する安藤の目には、前回の押さえ込まれた時ほどのいやらしさや、手の施しようがないほどの巧妙なブロックが感じられていない。
 それどころか時折、隙さえ見つけることができた。特にシフトチェンジのタイミングは、スタートダッシュで見せたキレからは想像がつかないほど、まどろっこしかった。
「どういうワケか知らんが、遠慮はしないぜ。コッチもこれでメシ食ってかなきゃならねえんだ」
 眼光鋭く、安藤は狙ったポイントを逃すことはない。登り勾配の最終地点、そこから下りがはじまるため大きく曲がりながら道がうねっており、コークスクリューのような形状をしたコーナーとなっている。
 最頂点に登りきる手前でエアポケットにでも入ってしまったような挙動をするオースチンは、加速が鈍く安藤には止まっているように見える。
 インを押さえたコーナーリングのオースチンを横目に、狙い澄まして飛び込んでいった外側のラインを走っていくロータスの方が出足がいい。
 左コーナーのイン側から立ち上がろうとするオースチンと交差しながらクロスラインをとり、コーナー奥のクリッピングポイントから伸び足の鈍いオースチンを外側へ追いやりながらイン側を加速していく。
「遅いわ!」
 鋭くインを差したロータスが、その位置から力強く加速して自然にアウトに膨らんでいく。インを押さえられたオースチンにはコーナーの立ち上がりが厳しい、ロータスにアタマをねじ込まれているため、なすすべもなくラインを譲り渡し、その後も思うようにスロットルを踏み込めない。
 滑るようにコーナーを旋回するロータスは、完璧な方法でオースチンをオーバーテイクして見せた。文句のつけようのない美しい差し返しだった。
「どうだあ!」
 してやったりの安藤。思い描いたとおり、多くの観衆が見守る中で先行するオースチンをやりこめることができた。大声をあげて喜びを表現する。
 スタンドもそこで一気に盛り上がった。狙い済ましたパッシングはアプローチ段階から、観衆が持つイメージ通りでもあり、目の前に展開された映像は人々の感情の抑揚と同期することで、さらに力強く中枢を刺激し脳内で爆発する。
「あーっ!!」「やられたぞ!」
 落胆の声は甲洲ツアーズのガレージ上からだけ漏れてきた。大きな歓声があがるスタンドにかき消され、この場所だけがサーキット全体から異質な空間となった。
 その中でリクオはひとり冷静であり、その光景が予測できていた。できれば実現して欲しくなかったのに、負の予測は得てして当たることが多い。ここまでのナイジの走りは、先週目にした切れのある走りには程遠かった。
 タイヤもグレードアップしさらに鋭い走りを期待していたし、1コーナーまでの走りからもそれは間違いないはずだった。シフトワークが思うにままならないナイジの状況を知らないリクオの目に映るのは、なんとも歯切れの悪いコーナーリングで、あきらかにロータスに好きなように煽られている図であった。
 そうなれば第3者的な立場である観衆からすればどうしても、ロータスに肩入れするのはいたしかたがない。彼らが望むようなオーバーテイクが登りの頂点で見事に行われ、誰もがその結果に満足していた。それがどうにもリクオには歯痒く感じられた。
――どうしたってんだナイジ、こんな走りするためにレースする気になった訳じゃないだろ――
 嘆くリクオに、ジュンイチも心配気にことの成り行きを見守っている。あれだけ用意周到に準備してスタートした割には、1コーナー後の意図の感じられない走りは、これまでのナイジからすれば考えられない。
 それは同様に不破ら重鎮の面々も落胆が隠せないでいた。いまのナイジの走りには速い遅い以前に、戦いにのぞむ覇気が抜けているように見える。顔をしかめる不破に、安ジイが落ち着いた態度でたしなめる。
「大丈夫。ナイジもオースチンもエンジンが掛かってくるのは、これからじゃ。今はまだ少し歯車が噛みあってないだけだろ。前の時もそうだったはずじゃ、コツをつかむのに半周使ったって言ってたからな。それでもここまで押さえ込めてたんじゃ、残りで何とかするじゃろ」
 皆が一様に安ジイの言葉に肯いていた。何に対してのコツがつかめたのかわからないまま、前回そうだったからといって、果たして今回もそんなにうまく事が運ぶのか確証は何もない中で、妙に説得力のある言葉に今はただすがりつくしかなかった。
――たのむぞ、ナイジ。これで終わりじゃ目も当てられねエ――
 こぶしを握り締める不破の手に力が入る。


第18章 1

2022-12-11 17:24:31 | 連続小説

 ピットには権田と安ジイが到着していた。レース場に顔を出すことのないふたりがここに現れたのは、自分の手をかけたクルマと、そのクルマをナイジがどう乗りこなすか、どうしても見ておきたかったからだ。
 それにあわせてエキシビションとはいえ、いつものタイムアタックではなく、数年ぶりの対面対決での勝負であることも、ふたりを呼び寄せる一因となっていた。
「不破さん、どうしたんですか? コ・ドライバー同乗のレースに変更とは?」
 権田が戻ってきた不破に直ぐに問い掛ける。
「あのバカヤロウ、なんか隠してやがる。となりにオンナ乗せて走るってきかねえんだ。海へのドライブじゃねえんだぞ。それがどこでどう馬庭さんの耳に入ったのか、先刻承知だとよ。 …あの娘、志藤先生のとこで働いてる女のコだろ。たしか、左手を悪くしてる… 左手」
「左手がどうかしたのか?」今度は、安ジイが眉根をあげる。
「いいや、なんでもねえよ。安ジイ」不破は言葉を濁した。
「それより、アイツ、1コーナーでアタマ取れる算段はあるんですかね。クルマにはそれなりのことはしましたが、ロータスの具合もわからないし」
 ナイジのことより、クルマの方が気になってならない権田はそう言う。できれば不破について行って、ロータスを間近で見てまわりたいぐらいだった。不破が口ごもっていると安ジイが冷静に正論を述べる。
「普通に考えれば、特にロータスが出足の鋭い類のクルマじゃない。ナイジのオースチンに比べればマシってくらいの話だ。そもそも、コーナーリングカーだし、直線スピードでそれほど差がつくとは思えん。そこを考えれば、やはり山間部を走る前に先に出すのはうまくない。是が非でも1コーナーは取っとかんと。そのための手は打ったし、ナイジのヤツもやるべきことはわかっとるはずだ。まあ、なんとかするだろ。とっておきの奥の手が久々に見られそうだわい。ヒッヒッヒッ」
 満更でもない顔つきの安ジイは、ナイジの戦略を知っているかのような口ぶりで、それは見てのお楽しみといった表情は余裕を含んでいる。
 権田は安ジイの意見も取り入れてオースチンにいろいろ手を加えた。それが最終的にどうまとまったのかつかみきれないことがこのいら立ちにつながっている。
 いまさらそれを聞くのもプロの整備士としてのプライドが許さず、そんなことをすればいまだ安ジイの足元にもおよばない自分を露呈するだけだ。
 権田はクルマを仕上げる力は一流の腕を持っているのは間違いない。ただそれはクルマの持つ限界値を上げるだけで、それを乗りこなすドライバーとのマッチングまでに踏み入るまでになっていない。
 クルマに乗らされているドライバーにはそれで充分運転しやすくなっていても、自分のうま味を知っているドライバーにとっては尻を叩かれているだけで、自分の色が出せずにストレスを感じてしまう。
 今回のナイジのことでその弱味に気づいて欲しい安ジイは、指示をするだけで、なぜそうするのかその理由はいっさい語らなかった。権田が自らその理由を感じ取り、ドライバーとの会話からそのスジを見つけられる目を養って欲しかった。
 含み笑顔の安ジイはスタートの秒読みを向かえた2台の方に目線をずらす。無論、権田の疑問に答えるつもりもなく、それはナイジの走りから読み取れと言わんばかりに。

 大きなサイレン音が、どこまでも真っ青に広がるサーキットの上空を切り裂いていく。
 浮ついた雰囲気に終止符を打ち、すべての音がサイレンの終了と共に何処か彼方に吸い込まれ、そしてあたりは静寂につつまれる。
 ついにスタートへの幕が切っておとされた。対外的には公平を期すために、該当ツアーズでない地崎がスターターを務めるべくホームストレートに現れ、フラッグを手に二台のクルマの間に割って入った。
 全ての注目を全身に受け、焦らすことを楽しむように一呼吸の間を置く。これ見よがしに振り上げられたフラッグに、誰もが旗先を落とされるその一瞬を待ち固唾を飲むんだ。
 ナイジの眼も安藤の目先も振り落ちるタイミングだけに全てを集中させる。次第に高まるエンジン音とスタンドの歓声の中、サーキットの熱気が頂点に達した時、地崎の手からフラッグが解き放たれる。
 煽り続けられたエンジン音と観客の歓声は、その瞬間に目に映る光景も、時の流れも止まったかに見えた。
 人々が空白の中に陥ったその時、二台のクルマは寸分の差もなくクラッチをジャストミートさせる。
 車体は鼻先を持ち上げ、強烈なスキール音とともに、ため込んでいた爆発寸前の熱量をホームストレートに向けて放出しはじめた。
『なんてクラッチミートだ!!』『タイミングもバッチリだ!』『あんなスタート見たことないぜ』
 満員のスタンドから沸き立った。人の声とは程遠い地鳴りにも似た歓声や声援が、クルマが進むよりも早く1コーナーに向けて連鎖していくように進んでいった。
 ゼロスタートからの凄まじい加速を身体全体で受け止める中、マリはナイジの信じられない動きに目を見張った。それは正確に言えば動きではなく、動いていないことが不自然だからだ。
「何…?」
「黙ってろ! 舌かむぞ!」
 ナイジに言われるまでもなく、もはや口どころか、目を開けているだけで精一杯だった。クルマが空気を切る音が変わり、この時を境にナイジは別の世界へ入り込んで行くのだとマリは覚悟した。
 これまではそれでも良かった。マリはひとり、遠くからナイジのドライビングを傍観する存在でしかなくなる。だが今日はそんなことはいってられない。ナイジと同じ領域に、しがみついてでも付いていき、なおそこに居つづけなければシフトチェンジをサポートできない。
 なんとか目の前の状況に喰らいつき、シフトノブに手を添えた右手に伝わってくる感触から、ナイジの微々たる動きからも遅れることなく同調させるべく神経を集中させる。
 ステアリングから放たれた手がマリが握るシフトノブに、ぶつかるようにして当たってくると同時に、ギアをシフトアップする。ナイジの信じられない行動は続いている。
 通常ならば左足を動かす動作をして、つまりクラッチを切ってから、ギアがシフトされるはずなのに。いまのナイジは左足をまったく動かすことなく、マリの手が添えられたシフトノブを動かし、何事もないようにギアアップをし、一度もクラッチを切ることなく、オースチンをあっという間にトップスピードまで持っていってしまった。
 マリが呆然としている中、回転数を指す針の位置も見ることなく、エンジン音から正確無比に同期地点を逃さず瞬時にギアアップするという、まさに神業ともいえる能力を駆使している。
 クラッチを切るためにスロットルを離せば回転数が落ち、もう一度上げながらギアを入れるという、僅かなタイムラグをも省いた加速は、その空白を容認しているロータスと比較すれば、その都度、その都度、微々たるものではあるがギャップが生まれていく。
 それは観衆の目には、どこに差が生まれているのか、わかりづらいぐらいの微細なものでしかない。目の肥えたレース屋達は、見逃すはずもなくハッキリと見て取っていた。そこで権田は安ジイのいう奥の手の意味を知る。
「なんて加速しやがる。シフトチェンジのつなぎ目を感じさせないマシンガンショットだ。あれほどのウデを持ってるとは、口だけのヤツじゃなかったんだ。タイレルのアルボレートなみの高速ギアチェンジの使い手なのか?」
 まさかクラッチ操作をせずにシフトアップしているとは夢にも思わない権田は、異常に素早く正確なギア操作を連想していた。この男としてはめずらしく興奮して、腹の底から喜びが湧き出してくるのを抑えられない。
 ナイジのスタートでの離れ業は、技術屋の権田の心をわしづかみにしていた。自分が組み立てたクルマの能力を余すことなく搾り出し、驚異的なテクニックで乗りこなされては、黙っていろというのも無理なハナシだ。
 高い集中力と繊細な神経を使うギア操作であり、ナイジもスタート直後でしか使えない。1コーナーまでに鼻先ひとつでも先に出る必要があるため、それがここ一番での秘策として威力を発揮した。
 それを知る安ジイはエンジンの吹け上がりのレスポンスを上げておいた。スロットルの動きで回転数がそのままついてくれば、山間部のクイックなシフトチェンジには効果を発揮する。
 クラッチを切るシフトアップをしないことを前提にエンジンをピーキーに振ることができた。コーナーの立ち上がりで蹴飛ばされるような不快感を取り除くことにもつながる。
 ここまでは予定通りだったが、ナイジの鮮やかなスタートダッシュを見せつけられた安藤は、そんな前後のことなど忘れさせ、1コーナーまでは仕舞っておくはずだった走り屋の闘争心に火をつけた。
 鼻先をかすめていくオースチンを目にすれば、ただ指をくわえ黙って見ていられるはずもなく、添加剤入りのスペシャルオイルの効果も手伝って、オースチンまでとはいかないがロータスの加速も負けてはいない。
 プラス数パーセントのパワーが最後のひと伸びにつながり、徐々にオースチンに横並びに位置するところまで盛り返してきた。
「くっ、ロータスの伸びも負けてねえな。スペシャルオイルの恩恵かよ」
 徐々に追いついてくるロータスを目にして、悪舌をつく不破に権田が口を挟む。
「大丈夫だ。オースチンもよくエンジンが回ってる。アイツ一生懸命に磨いてたからな。ちゃんと、神様が見ててくれる」
「神様って、オマエのことだろ。頼みもしないことしやがって、結局はオマエもナイジを放って置くことができないひとりだな」
「さあな、オレはただ、安ジイに言われたことをしただけだ」
 照れ隠しもあり、権田は1コーナーに目を向かせようと指を差す。
「さあ、ブレーキング競争だ」
 1コーナーのイン側を抑えるオースチンにアウト側から襲い掛かるロータス。無理はしないが譲るほど簡単に先行もさせない。
 車体が擦れ合うぐらいにまで接近し厳しいコースライン争いを仕掛ける。少しでも良い位置を取るにはクルマを押し付けるまではいかないが、先行する車体をそちらへ被せて、相手の自由を奪う必要がある。
 そのためブレーキング競争はそのままライン争いの優先権の奪取につながるため、どちらも限界ギリギリまでブレーキングを我慢する。
 1コーナーはもう直ぐなのに、競い合う2台のクルマからはお互い減速する意思が伝わってこず、観客はこのままコースアウトするのではないかと息を飲む。
 マリの目の前には1コーナーがもう目の前まで迫っているのに、ナイジは、いつまでたってもブレーキを踏もうとしない。
 ナイジを信用していないわけではないが、このスピードでコーナーへのアプローチに間に合うのか恐怖心に囚われ、声が漏れそうになるのを必死に堪えている。
 そんなことをすればナイジが集中力を乱し邪魔になるだけだ。正面から目をそらしてシフトレバーに目をやると、震える右手で握り締められたシフトノブに、ナイジの左手が覆い被さってきた。ナイジの手もわずかだが震えているように思えた。
――ナイジだって簡単じゃないんだ――
 そうは思ったとたん、ノブを手にしたナイジの手はピタリと震えは納まり、そこから凄まじい勢いでブレーキングとシフトダウン。マリも必死にその動作についてギアを2つ落とす。
 回転数は高い位置を保ったままで、マリにはたいして車速が落ちたようには感じられないまま、ナイジは躊躇無くステアリングを左に切り込む。
 強烈な力で体は右側へもっていかれ、ウインドガラスに映る景色は横向きのスピード線と化した。腹部が猛烈に押さえ込まれ、胃液が喉元まで押し寄せてくる。
 飲み込む力もかけられず、喉から口の中に酸味がひろがる。次はすぐさま左側に体を持っていかれマリの細い首が大きく振られる。
 そこでナイジの手が再び伸びてきて今度は3速へシフトアップ。身体全体が軋み搾り尽くされる酷い状況の中、手だけは自分の苦痛から切り離し、必死の思いで力を込め、ナイジのシフト操作のアシストを続ける。
 ロータスの助手席も状況はマリとさして変わりない。その西野の傍らをオースチンがすり抜けて行く。レース前の言葉はどこふく風、安藤にはこれっぽっちもオースチンに譲るつもりがないことは西田にも見て取れる。
 相手にプレッシャーを掛けるライン取りを仕掛け、少しでも怯んだり、僅かな隙でも見せようものなら、一気にそこから捲り上げるつもりだ。
 迫り来る1コーナーをまともに正視できず横を向く西田の視界には、オースチンのドライバーが大写しになる。とても車間があるとは思えないほど真横に接近している。それもトップスピードの中で。
 擦れ合うばかりの超接近戦をしつつあの若造は、ロータスの挙動に目もくれることなく減速し、自分のラインを譲ることなくコーナーを旋回して、オールドコースの侵入口に車体をねじ込み、ロータスにクロスラインを与えずに抑えきり、山間部へ先行して突入していった。
「先に行きたいって言ってんだ。好きにさせてやるぜ」
 もちろん本心ではない。ただ、そういう結果になっても、最初から想定どおりと思えば冷静さを欠くほどのことでもない。
 少しはムキになって1コーナーを取り合ったが、先に行かせる状況での戦略は考えたうえでのことで、安藤がそうやって自分を追い込んで、勝利への動機付けに転化していく悪癖は西田も承知のうえだ。
 二度の煮え湯を飲まされたからには、万人が納得するよう完璧にオースチンを差し返す必要がある。1コーナーでアタマを取って、そのまま抑えて勝ったとしても何も残らないレースになってしまうため、それだけは避けなければならない。
 そういった意味では安藤にとっても決して簡単に入れるレースではなく、ナイジの横やりのおかげで望んだ方向にシナリオの書き直しができたことは幸運となった。


第17章 6

2022-12-04 18:28:42 | 連続小説

 レイナがサロンの客に今回の事例を説明をしはじめると、馬庭は一歩引いて受付のテーブルにある内線をプッシュした。現場に見に行かせた八起に連絡を取るためだ。
 表情はあいかわらずのポーカーフェイスで、レイナの説明を聞き入る客の顔を見渡す素振りだが、頭の中では多くのケースを想定しながら、その場合の対処方法を考えうるだけ模索していく。
 常に最悪を想定しておかなければ、打つ手が限定され効果的な対応が取れなくなる。これまでの経験が馬庭の洞察力を磨き上げ、最適な判断を選択するよう導いていた。
 電話口で待機していた八起がすぐに受話器を取る。呼び出し音をピットに響かせないように日頃から気づかっているうえでの対応力だ。
 わずかな振動を捕らえ、すぐさま受話器を取り上げる動きはこの時も発揮された。受信音を微塵も聞くことなくつながるのは馬庭も慣れっこになっている。あうんの呼吸で状況報告をはじめるのはふたりにとってあたりまえの姿だ。
「ボス。不破のところの若造が、助手席にオンナを乗せています」
 馬庭はすぐに先週の早朝でコースを歩くふたりの姿が脳裏に浮かんだ。同時にそれはミカの出店している店で突っかかってきたあの女性であり、志藤先生のところで働いている娘だとつながっていく。
「ピットやスタンドの様子は?」
「そうですね、まだ気づかれてないようですが… 」
 ここまでレイナが組んだタイムスケジュール通に進んでおり、観客の反応も良い中で流れを断つのはうまくない。変に時間をかければ、それこそ段取り外のトラブルと不信がられる怖れもあり、このまま進めた方が無難なのは間違いない。
 ただしそこは馬庭のこと、成り行きでことを済ますようなマネはしない。
「このままで行こう。不破にそのことを伝えて、私が承知済だと言ってくれ。オマエはそのままスタートまでそこで待機だ。何かあればすぐ連絡をしてくれ。動いて欲しい時はこちらから連絡する」
「了解です、ボス」
 静かに受話器を下ろす馬庭。レイナの説明も終わり、サロンの客はスタート間近のグリッドを展望窓から見下ろしている。
 その姿からはグリッドでは変わった動きはまだなさそうだ。馬庭に近寄るレイナは商材発表の出来具合を馬庭に求めているようで、安心させるために右手のサインだけで問題のないことを伝える。
 オースチンがドライバーでもない女性を乗せていることについて、必要以上にレイナに不安を与えるわけにはいかない。ホスピスの主任であるレイナに動揺が見られれば、すぐに全体に伝播し、ひいては顧客にまで感染し、最終的にサロン内の雰囲気に悪い影を落としてしまう。
 それほどまでにサロンでのレイナの影響力は強かく、安心を得たレイナはいつもと同じ定位置に立ち、各テーブルの状態を確認し、必要があればテーブルに向かい、立ち膝をついて顧客や担当のホスピスと会話を交わすことで、問題点や疑問点を解消すべく対応している。その状態に馬庭は一息つきながらも次の手を考える。
――それにしても、ヤツはなぜ、助手席に彼女を乗せなければならない? 無意味なことや、目立つような行為を好むようなつまらない男じゃないはずだ。さっきの、コースを横断するパフォーマンスも不可解だ。反発を糧に生きてきたタイプに見えるが… 彼女の存在がヤツに影響を与えているのか。それにしても彼女を乗せてのレースはやり過ぎだろう。となれば、隣の席で何らかの役目があると考えればつじつまはあう。志藤先生はコースアウトの際の身体への影響はなし、と言っていたが… ――
 色々な憶測を交えながら馬庭の脳裏には繋がるイメージが湧いてきた。そこへ突然肩を掴まれる。驚いて振り返れば志藤が含みを持った顔でそこにいた。
「志藤先生。どうしたんです?」
「いやな、このタイミングでないとオマエさんは承諾しないと思ってな。ワシも即決はできんかったが、さりとてアイツを止めることもできんかった」
 この言葉で馬庭は想像した推論との一致を確信しつつも、果たして志藤がどこまで自分の気持ちに正直に言っているのかは読めなかった。
「なるほど、先生は最終的にそれを認めたということですね」
 そう言ってそのままレイナに合図をして呼び寄せる。エマージェンシーを察したレイナが厳しい面持ちで寄ってくる。その耳元に手短に指示をして、急いでと言葉をつないだ。
 その一連の動きを志藤は冷静に見ていた。これでもう後戻りはできないと腹をくくるしかない。矢継ぎ早に手を打った馬庭は目を閉じて首を振る。
「志藤先生、あなたも人が悪い。わたしにこうするしかない状況まで黙っているとは。しかし、それで危険にさらされるのはあなたのお孫さんとわかったうえで」
「マリも自分の運命をうすうす気づいているようだ。それなのにこれまでで一番生き生きしとる。悔しいがアイツと関わるようになってからだ。あの時、安易に社長に相談したことを後悔しとる。と同時に、これで良かったとも思っとる」
 馬庭は自分の健康状態を診察を受けた時にナイジの状況をそれとなく尋ねてきた。それは提出された書面以外のオフレコの部分がないかを探るためだ。
 その時の志藤は少し間を置いて、何を聞き出したいのか、言わせたいのかを冷静に判断していた。これまでの経験上では、うかつなことを口にすれば、そこから何を引き出されるか、わかったものではない。
 どこかナイジの身体の異変について引っかかることがあるのか、それとも大事の前に少しでもリスクを減らしておきたいのだろうか。もしくは自分の過去と照らし合わせているのか。
 ならばますます正直に左手のことを言うわけにはいかない。それは志藤自身の保身からではなく、ナイジのこのレースにかける意気込みと、マリがそこに賭ける思いを知っているからこそ、馬庭といえども変な横やりは入れさせたくなかったからだ。
 志藤は何事もないように、診断結果は書面でご報告した通りで、何か不審な点でもあるかと逆に問い詰めるほどで、馬庭もならば結構と言うしかなかった。
 診断書を出した手前、いまさら隠し事をのうのうと語るはずもない。逆に、どこが気になるのか馬庭の腹を探るつもりなのだろう。
「アイツはコースインする前に、ワシのところに来て、マリを助手席に乗せるのを承諾してくれと言ってきた。理由は言えないとな」
 そこまで言っておいてこの状況を許す志藤の意図を馬庭は外堀からほぐしていく。
「なるほど、あのオースチンのドライバーは、レースをするのにマリさんの力が必要なわけですね。それが何なのか、残念ながらわたしには思いもつきません」
 志藤は鼻で笑う。
「そう言われましてもな。医者だって神様じゃない。本人が痛いの、どうのと言われなければ、すべてを見つけられるわけじゃない。現に馬庭さん、あなただって人前では平気な顔をしてますが、どれほど病んでいるのかは自分が一番分かっているでしょう。違いますかな?」
 先日の診断の際、外づらだけのことしか言わない馬庭にチクリと皮肉を言ってみた。これには、馬庭も苦笑するしかない。
「まあ、わたしの話はここでは置いておきましょう。それより、あの若者ですよ。いや、マリさんですかね」
 感心したように馬庭が言い放つ。その言葉の真意がつかめない志藤が聞き返す。
「マリがなにか… 」
 そこで、馬庭は志藤を制するように手をかざした。内線が赤く点滅すると同時に受話器を取る。馬庭もまた緊急連絡を受け取る準備は怠らない。その未来を予測したような素早い反応に志藤も舌を巻く。
「ああ、そうか。わかった。また、動きがあれば連絡をくれ」
 指先で電話を切り、すかさず別の内線ボタンを押す。今度は馬庭は手で口を覆い、手短に指示を伝え受話器を置く。
「失礼しました。合法的に彼女を助手席に乗せる手はずは整いました。安心してください。安全面にも万全をつくします」
 志藤は口を閉ざしてこうべを垂れる。もうこれで後戻りはできない。
「今日のこのような大きなアングルを打てたのは、すべてマリさんがあの男を知りたいと思ったとこからはじまっています。彼女はわたしなんかより余程レーサーを見る目がある」
「いや、それは」
「事実です。そして悲しいかな、わたしはあの男に賭けるしかなかった。時代は常に新しいヒーローを求めています。ヒーローを創れなければどうしたってひとは離れていくでしょう。そして彼の登場とともに新しい芽があちこちで開いていったんです。それは間違いなくマリさんが勇気を持って一歩を進んだ結果なんです」
 自分が主導権を握っていると思っている時ほど、思わぬ弱点をつかれれば動揺は大きくなる。そこを見透かされればなおのこと大きな反動となってあらわれる。
 志藤はしばらく沈黙が続けた。返すべき言葉を考えても一定しない脳波の動きが言葉を構築していかなかった。ただその中で揺らがなかったのは、あの男を信用してもいいという自分の六感だけだった。
 マリの不憫を聞いても投げ出すこともなく、志藤に自分の思いを声を震わせて誓っていった。ならばマリを助手席に乗せるのも彼なりの熟考の末だと信じてやりたかった。
「馬庭さん、あなたはずるい人だ。そこまで言われればなにも知らないでは済まされません。たしかに左手は気にはなりましたが、それがどれほどのものなのか知らないのは本当です。彼はしきりと庇ってわたしに見せんようにしてましたから悪いのは確かでしょう。レースに影響するのか、それでどのように走るのか、マリを乗せてなにか手伝わせるのか、すべては彼のみしか知らないことです。あなたが昔した時と同じようにね」
 最後の言葉に馬庭は苦笑して首を振る。
「そうですか、左手ね… ありがとうございます、志藤先生」
「随分と彼のことを気にかけているみたいですな。いや、馬庭さん、わたしも同感です。単なる医者の端くれでレースのことはシロウトですが、これに関しては論理的思考ではない、ニオイってやつです」
「フフッ、『望みは偶然に得られるものではなく、そこに至るまでの明確な論理がある』が持論ですからね。そんな凡人の浅はかさをも凌駕し、本当に人々の心をつかむ人間というのは、理屈を越えた力と才能を現実のものとして見せつけてくる。あの若者には惹きつけるものがあります。そう、ニオイです。お互い彼等の幸運を祈りましょう。今日はここでレースを観戦していってください。それでは失礼」
 馬庭はそう言うとすぐに受話器を取り、三たび内線をプッシュする。間髪入れずに八起が応える。
「えっ! ホントですかい。まさかそんな… 」
 八起が思わず声を荒げる、そして、周りを見渡し再び声をひそめた。
「すいません、ボス。でもどうして。 …。いえ、はい、わかりました」
 静かに受話器を置いた八起は、コース走行用に置いてあるランチアに乗り込むための専用のガレージに急いだ。馬庭の最後の指示を遂行するために。
 馬庭も受話器を置き、時計を見る。すると場内放送がはじまった。しかしこれで終わりではないやるべきことはまだまだある。これであの男がいい走りをしてくれればそれでいい。そのためにはできることをやりつくすだけだ。
 いささか疲れを感じた志藤はそばにあった椅子に深く身体をあずけた。こめかみに手をやり、二度、三度と首をふる。体中がそわそわとする感覚を久しぶりに味わっていた。
――どうしたってんだ、いい年だってのに。三つ子の魂ってやつか。それともあの男がこれほどまでワシにレース魂を呼び覚まさせるのか。いったいマリを乗せてなにやらかそうってんだ… いや、マリのことを知ってしまったからこそ乗せたのか。馬庭さんはどうやら読み切ったようだな。まったく、どこまでアタマがきれるのか――