蔵書目録

明治・大正・昭和:来日舞踊家、音楽教育家、来日音楽家、音譜・楽器目録、士官教育、軍内対立、医学教育、林彪、北京之春 

「西洋菓子の製法」 (1905.3)

2016年07月17日 | その他
 

 西洋菓子の製法  畔居田郎

 日本流の台所では、欧米諸国の様に、ストーブの設備がないので、七輪とテンピで代用させるのですから、勿論立派な大袈裟な事は出来ないのみならず、加減の判らぬ初めの程は兎角失敗するものです。然し乍ら苟くも二十世紀の新家庭に主婦たらむ方々は、大膽に毎度仕損じる覚悟で試して御覧なさへ。

 ●珈琲のたて方  〔省略〕

 ●ドーナツ

 是は米利堅粉 めりけんこ に砂糖や鶏卵 たまご 等を混ぜて、油煎 あぶらいり した菓子の総称で、数種ある。其一つ 
    ニュー、エングランド、クッキング
    スクール、ドーナツ

 原料
  米利堅粉               コップ 二杯
  鹽 しお               茶匙  四分ノ三杯
  酒石英 くりーむたーたー       同   一杯
  肉豆蒄 なつめぐ (粉にしたるもの) 同   四分ノ一杯
  肉桂  しんなもん(粉にしたるもの) 同   四分ノ一杯
  バタ                 同山盛 一杯
  砂糖                 コップ 半杯
  腐敗牛乳               同   半杯
  鶏卵 たまご                 一個
  曹達 そうた             茶匙  四分ノ三杯

   若し腐敗せざる牛乳を用ふる時は曹達を用ひず、之れ曹達は牛乳の腐敗を戻す為に用ふるものなればなり

 丼 どんぶり の中に、砂糖とバタとを入れ、二本の指にて能 よ く練り混ぜ、之れに
 鶏卵を割りて加へ、どろどろになる迄攪 か き混ぜ、
 米利堅と酒石英とを一所に篩 ふる ひ込み、
 鹽、肉豆蒄、肉桂、牛乳、曹達等を加へ、五本の指先にて、静かに軽くまんべんなく湿 しめ り気が通る様に攪き回し、
 板の上に粉を少し振り散 ま き、其上に取り出し、
 猶 なほ 又其上より粉を少し振りかけ、熨棒 ろーらー にて軽く押 おさ へ乍 なが ら、厚さ三分位に熨 の す、次に
 ドーナツ抜 ぬき にて、一つ宛 づヽ 輪に抜き取り、
 脂 へつど を沸かしたる中に入れて狐色に揚げる、ふつわりと膨 ふく れるなり、
 抜き取りたる中のぼちも揚げて良し、
 揚げたらば直 す ぐ砂糖にてまぶせる、

 ●スチウアップル

 林檎を煮て食する法なり、
 林檎の皮を剥 む き、程よく割りて核心 しん を去り、各々を薄く削 そ ぎ、
 鍋に入れて、林檎の七分目程水を入れて煮る
 煮立ち始めたら、焦げ付かぬ様絶へず匙 さじ 又は杓子にて攪き回す、
 林檎は煮へるに従って軟 やはら かになり、熔 と けてどろゝとなる、
 其時火より下 おろ し、好みに砂糖少し加へ丼に移して冷 さま す、
 茶匙にて食す、暖きより冷 さ めたる方味宜し、

 ●ビスケット

 ビスケットにも色々の種類がある、

 ●ウエーファービスケット

 煎餅の様に薄く小さく作るビスケットなり。
  米利堅粉  一斤
  砂糖    二百匁 もんめ 
  バタ    七匁
 を一所に丼に入れ、両手の掌にてよくゝ揉み混ぜ、
  鶏卵の白味 二個
 を鶏卵攪乱器にて充分泡となして加へ、猶
  牛乳又はクリーム 少々
 を加へて柔かき餅位にねたゝになし、布を掩 おほ ふて三十分計り置く、
 其後板の上に粉を少々振り散 ま き、其上に取り出して又其上より粉を振りかけ、熨棍 ろーらー にて煎餅の厚き位に展 のば し
 ビスケット切にて一つ宛 づヽ 抜き取り、ブリキの板に上に並べ、余り強からぬ火加減にて、テンピにて、三四分間焼く、
  
  ビスケット切には、大小並に種々の型あれども、体裁を撰ばざれば、ナイフにて好む様に小さく切りて宜 よろ し、

 ●ス井ートワインビスケット

  米利堅粉  一斤半
  砂糖    二十八匁 
  バタ    二十八匁
 を丼に入れ、両手の掌 てのひら にてよくゝ揉み合せ、
  鶏卵    二個
 を黄身と白味と別々に鶏卵攪乱器にて泡となして、一所に加へ、
  牛乳又はクリーム 少々
 を加へ、ねちゝする位の固さになし、
 板の上に取り出し、熨棍 ろーらー にて折り返すゝ熨 の し、薄く展 のば し、ビスケット切にて抜き取り、ブリキ板の上に並べ、テンピの余り強からぬ火加減にて、五六分間焼く、

 上の文は、明治三十八年三月一日発行の『新家庭』第一巻第四号に掲載されたものである。
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『帝国劇場案内』 (第二版) (1911.4)

2015年11月06日 | その他
 

 帝国劇場案内  明治四十四年四月二十五日発行

 下は、その掲載の写真や記述の一部である。

       

 上の写真(左から):基礎鉄筋混凝土工事(四十一年八月)、鉄骨工事(四十二年九月)、屋頂「翁」の金像、帝国劇場全景、附属技芸学校出身の女優、劇場附管絃楽隊

 建築の設計  は工学博士横河民輔氏之を担当し、為めに特に欧米遠航して、親しく詳に彼の地の劇場建築を視察し、その得来たれる所を尽 ことごと くこの帝国劇場に応用したれば、蓋し世界に於ける進歩したる劇場建築の一なるべし。
 ルネーサンス  手法は仏蘭西に則り、建坪六百四十五坪余、軒高 のきたか さ前面に於いて五十二尺余、舞台所在部に至つては其高さ六十六尺、此部分に於いて地下室床上より屋根突針頂までの高実に百十一尺を算す。間口前面に於いて十七間、中央部に於いて二十五間余、奥行三十三間余、地下室を別として、地上に三階を構ふ。外部前面に備前伊部の
 装飾煉瓦  を貼し、屋根蛇腹には舞楽の面を模刻す。廂 ひさし は凡て鉄製にして、覆ふに橄欖色の塗料を以つてす。色彩の優雅なること、一見して直に快美の感を呼ぶに足るべく正面の屋頂には能楽
 『翁の舞』  の金像を建つ、西洋彫刻の名手沼田一雅氏の作にして、特に能楽の大家、松本長氏の演舞を模範としたるものなり。『翁』は舞曲の最も古く、且つ最も崇重なるものにして、天照大神を表し、天下泰平五穀豊穣を祈願する為めに演奏するものなりとの伝説あり。本劇場が『翁』の面を紋章とするもの、また演劇の本流を敬重し、国土と共に芸術の円満なる発達を遂げんことを祈るの意に外ならず。建物内部には
 大理石  を潤沢に使用しその壁の下方および柱脚に据ゑたるものゝ如き、之が良材の産地として世界に聞えたる伊太利より遠く特に輸入したるものなり。結構の善美威厳とに於いて、ひそかに欧羅巴の

 耐震の設備  と防火の装置とを加へて、此等来集者の身命を安固にするを要す。依りて、本劇場は地下十尺七寸乃至十五尺の深さに土壌を掘出し、三間及び三間半の松丸太一万数千本を打ち込みたる上、上部を一面に鉄筋混凝土を以つて固め、尚ほ建物の重量を軽減する為め鉄骨を採用したり。
 火災の防禦  に至りては、観覧席、舞台、場外に各二個の消火栓を備ふる外、舞台の前後に各一面のゲバー会社製鉄扉を備へ、過つて其一部に火を失するも、忽ち之を閉鎖し、建物を全然区分して以つて累を他に及ぼすことなからしむ。その他防火上主要なる窓及び出入口はケルショー会社製自働鉄戸を有し、火熱を受くると共に、人力を待たずして自然に閉鎖する装置あり。

 完全なる
 換気の装置  なくんば、衛生上未に観客の安を保し得たるものと云ふ能はず。仮令 たと ひ多数の窓開くも、空気自然の流通に待たば、到底不健全瓦斯の停滞を免る能はざるなり。依りて屋上に大旋風機を備へ電力を以つて之に一分間二百回転を與へ二万八千八百立方呎 フィート の空気を屋外に放出せしめ、盛んに其の流通催行す、寒冷の侯には、屋頂より攝取したる新鮮の空気を一たび地下室に導き
 温暖空気  となして観覧席の座下に送る。右は地下室に装置されたる、千二百八十平方呎の放熱全面積を有する鉄管に依り百二十度の温度に温めらるゝものにして、観客一人に対して能く一時間八百立方呎の空気を供給す。從つて観覧席は常に六十五度の温を保持し十分間に一度づゞ尽く空気を交換せしむべし。場内廊下およびその他の諸室には米国製
 放熱器  を配置し、同じく地下室より之に蒸気を送り、その冷却して露結したるものを集むる水管中には常に若干の真空を保持せしめ、蒸気の循環をして頗る平準ならしむ、為めに更に不快の音響を発するが如きことなし。夏季には総て三十個の
 扇風機  を備へ、観覧席左右の壁側より冷気を送り、且つ場内の換気を一層に催進せしむ。婦人化粧室には卓上に此扇風機を置く、洗面の後に、蓋し一倍の冷を覚えらるゝならん。此等設備の一端に由りても、当劇場の用意、自ら他の同種営業物と異なるところあるを知るべし。

 装飾  に善美を尽くし、観客に専ら快適の感を與へんことを期したり。換気、保温保冷等、衛生上の注意は既に遺さゞるが上に、観客の一たび観覧席に入るものをして、忽ち実世間と隔離し身は恍惚美神殿堂内にあるの思あらしめん為め、
 天井  の如き特に意匠を用ひ、中央に強力なる電燈を点じ、之を圍繞して十面の装飾画を配し、『虚空に花降り、音楽聞え、霊香四方に薫ず』るの光景を現す、即ち舞台前三面の大油絵、三保の天女
 霓裳羽衣  を為しつゝ、数多月界の天女に迎へられ、昇天するの図と連絡して、凡て謡曲『羽衣』の意に取る、洋画界の泰斗和田英作氏の筆に成る。街路の実生活より観客を舞台の別世界に導く最も恰当の構図なるを信ずるなり。この油絵を圍繞するに唐草模様の
 彫刻物  を以つてし、點綴するに楽器の彫刻を以つてす。彫刻は凡て『翁』の像と共に沼田一雅氏の製作にして、二階観覧席の前手摺 バルコニー には幼児遊楽の彫刻を施し、三階の同じ位置には花飾 フエス ン を刻す。三階欄間 フリーズ には又唐草地紋の上に高く香の図を浮彫りにしたり。尚ほ貴賓席の破風上には
 白鴿数羽  の彫刻物あり、宛然真に迫り、将に浮翔せんとするの勢を有す。舞台額縁に至りて彫刻はいよゝ其精を極め、中央に二羽の孔雀を刻し、之に劇場の紋章『中啓に翁の面』を擁かしむ。
 額縁  は幅八間余、高さ四間、西洋の舞台に比して稍や広く且つ低きは、我邦演劇の慣例を参酌したるに由るなり。上部に仏国帝政時代様の二重上飾を施す。濃緑色のテレムプ地に金糸の刺繍を加へたるものにして、一面に金糸の総 ふさ を垂らせたり。
 緞帳幕  は即ち之より懸かり落つるものにして、正副の二種を備ふ。淡紅色テレムプ地の下部に月桂樹模様金糸刺繍を施し、且つ同じ刺繍を縫目に沿ひ縦に数條加へたるものを正とす、三越呉服店の製作なり。副は高島屋の製作にして、図案家結城素明氏の意匠に成る、
 百花爛漫  たる花園の、鳥歌ひ蝶舞ふ間に上代の乙女子遊戯する華麗の図を、刺繍および貼縫 アツプリケート にて金糸入白茶斜子の上へ現したるものなり。華麗雅美、世に稀なる出来栄との評あり。貼縫と称するは縮緬、繻子、羽二重、琥珀、天鵞絨 びろうど 等、種々の織物を、その固有の地合と染色とを利用し、図の随処々に綴り縫ひたるものなり。

 別に舞台前、観覧席内に
管絃楽隊  を置き、演芸中または幕間に奏楽を行はしむべし。西洋の所謂オーケストラにしに、我邦には未曾有の者たり。本劇場は我邦音楽の開発に幾 分資せんとする目的を以つて、特に開場前より西洋音楽の大家ユンケルウエルクマイステル両氏に囑し、隊員の養成を為さしめたり。
女優  も亦た、男優と伍し専ら婦人役を演ずる意味に於いて、我邦に一新計画といふを得べし。歌舞伎の初期には男女並びて一舞台に立ち、男女その各 の役を演じたりしも、中頃制令に由りて禁ぜられ、男子の婦人役を演ずること久しきに及べり。到底不自然にして、観者に充分の
感興  を與ふるに適せず。本劇場茲に見る所あり、四十一年九月、川上貞奴等に囑し、資金を給して女優養成所を設立せしめたるが、後収めて之を本劇場の附属とし、組織に多少の改革を加へて、名称をも帝国劇場附属
 技芸学校  と更め、渋沢男爵を総長に戴き、西野、益田の両取締役理事として、演劇に必要なる諸種の芸術、学科を教習せしむること年あり、既に幾多の卒業生を出だすに至れり。多くは高等の教育を受けたる、身分ある人の子女にして、何れも
 新時代  の女優たるに適する素質あるを信ず
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「バイオリン王 鈴木政吉翁発明苦心談 (二)」 (1940.5)

2014年05月26日 | その他
 バイオリン王 鈴木政吉翁発明苦心談 (二)

 

 前述のやうな関係から蓄音器のサウンドボックスにサイイン〔済韻〕することゝとなりました。喧噪な雑音とツンゝ突き射さる様な金属音は、聴取者の誰もが一様に嫌悪する処ですが、これも理論上除去し得るものと考へて、ビクター、ポリドール、コロムビア等五個許りを買ふて研究致しました。先づゼラルミンがカバーの為め押へ付けられると音が妨げられることを発見し、カバーの金属細胞の配列が、ゼラルミンの起す音響に最も適合する様に外側からゼラルミンとカバーの調和を取りゼラルミンが鋭敏に働く様にすれば、初めて雑音なしになるものと考へて、その変化を起させ様と努力した結果、音は分離しピンゝと耳を射る様な音は圓く滑らかになり肉声が現はれる様になりました。
 尺八にサイインを施すことを研究するに、尺八は上部の吸口は竹が軟く下方に行くに従って硬くなってゐますが、低音は波動が大きくなるに従って力は弱くなる訳であります。尺八の根が軟くないと低音にはよくない訳でありますから、呂の音が出し難いことになっています。これは軟くあるべき尺八の根が硬いからで根が軟くなる様なサイインすれば、竹の質に調和がとれるから、音の諧調を得ると同時に半分の力で妙音が出るから大変楽であります。
 サイインの原理は以上の様なものでありますが、その方法は?と云ひますと、先づバイオリンならば糸の振動を多くすることに依って音が出るのでありますから、振動を多くするーこれには経験上振動の硬軟をも識別して調和し得る様にするーこれは経験であって理論でないので完全な表現、説明は至難でありますが、簡単に云へば、凡ての楽器は各々その美音を発する理想的な釣合を有してゐるものであります。然し凡べての新楽器は全部この微妙な釣合が保たれてゐらず、丁度自動車にブレーキをかけて走行するやうなものであります。サイインは各々の楽器の特性に応じてその釣合を取り、以てブレーキを取り除いた理想的な状態に置くのであります。
 これを少しく専門的に申し上げれば、素晴らしく弾込まれた天下の名楽器を、音響的見地から詳細に調べますと、百年二百年弾き込まれたバイオリン等は、それを音波写真を撮って調べれば凡ての音、即ち高周波並に低周波に対してオクターブ倍音を完全に出す事が、その音色を著しく清澄明朗にして、真に美音として何人の肯定する名バイオリンとなります。
 之の実際につき先年航空研究所の小幡博士〔小幡重一〕に依って実験して頂きました。先づ私の自作のバイオリン(サイインの施していない新品)の音波写真を撮りましたが、その波状型は二百年も弾込まれた名器、ストラデイバリー作のバイオリン並にグワルネリユース作の名器とは全く異った型を示しました。
 そこで同一バイオリンにサイインをして再び音波写真を撮りましたところ、前の新らしい時の波状型と全く異って、二百年も弾込まれた天下の名器と殆んど同一の波状型を呈し、計算的に調べましても全くオクターブ倍音が完全になって、私が考へてゐた成果を如実に目で見る事が出来ましたので真に嬉しく感じました。
 結局学理的に一口に云へば、楽器全体の音響に必要、又適合せる細胞組織の状態に、その機体を置き、正確なる倍音の発声を完全にすることが“サイイン”であると云ふことが申されます。又例を尺八にとりますと、尺八は吹く楽器でありますから、空気の圧力を応用して行ふといふ風に、物の性質を変へるのであります。尺八でも五十年、百年と長期に亘り吹込んだものは非常に妙音を発しますが、サイインは短期間にこれと同様の効果を合理的に収めやうといふ処にその特色があり、事実尺八でもサイイン後二三ケ月吹けば、五十年百年吹込んだものより却って優秀なものであります。
 都市衛生の立場から騒音防止の眼目の一つになっている、喧噪極まるラヂオのラッパをサイインに依って除去し、さらでだに苛立つ都会人の神経に安息を與へることを研究してゐます。即ちラッパの中心にあるゼラルミンを調整して騒音強音を除き、恰も放送者が聴取者の側にある如く湯を呑む音迄聞える様に仕度いと思ってをります。なほ駅で汽車の出発や到着を知らせるラッパ放送も同様でありますので、此の方も改良して一般乗客の便宜を計リたい念願であります。(終)

 ◇鈴木政吉翁壽像建立

 鈴木政吉翁は先年七十七歳の壽齢を迎へられ尚矍鑠として身心共に壮者を凌ぐ意気を以て楽器の研究に終始せられてゐるが、翁が楽器製造を志してより苦闘五十余年、遂に楽器王として普く世界に覇を唱へられてゐるその偉大なる功績を永遠に顕彰すべく、侯爵徳川義親氏、子爵近衛秀麿氏、子爵鍋島直和氏、男爵大倉喜七郎氏、大岩勇夫氏、下出義雄氏初め朝野の貴紳、音楽関係者発起となり、“壽像建立会”を組織された。壽像は元帝展審査員長谷川義起氏の手にて、翁の半身二倍大のものを製作、知多郡大府町字横根山鈴木バイオリン大府工場内に、割栗石及混凝土を基礎に、淡路産花崗岩を以て台座として建立されるもので、竣工は今年十月の予定である。

 上の文と写真は、『勧業』 五月号 名古屋市役所内 名古屋勧業協会 昭和十五年 〔一九四〇年〕 五月一日発行 第廿七巻第五号 掲載のものである。
 
 ※〔 〕内は、蔵書目録による補足。

 下は、『音楽グラフ』 七月号 第四巻 第七号 大正十五年七月一日発行 の 楽界彙報 にある記事とその写真である。

 ○鈴木政吉翁新作提琴披露会

 翁は明治二十年以来提琴の製作に刻苦し勵精よく内外の需要を充たして国産の伸張に努められた功労に依り曩に緑綬褒章を下賜されたのは世間周知の事実である、然るに大正十年の暮独逸に留学した令息鎭一氏が不思議の因縁から彼の地で手に入れたクレモナ派の名匠ガルネリウスの作品を携て昨年五月帰朝した、翁は是を手にして深くも其技巧に驚嘆し妙音に感服すると共に自分も何とかして斯る名品を作り後世に遺したいものだと茲に堅く志を決して爾来寝食を忘れ只管其研究に没頭して遂に大に発明する所があつた、乃ち最近の作数個を携へて上京されたので徳川義親侯と小山作之助氏とが肝煎で六月三日夕六時から華族会館で其披露を兼ね諸先生の批評を乞ふことになつた当日出席の人々は幸田延子、安藤幸子、頼母木駒子近衛秀麿、ケーニヒ、多久寅、ス末吉雄二、杉山長谷夫、多忠壳、田中英太郎、村上直次郎、鈴木米次郎、山田源一郎、田邊尚雄、平野主水、佐藤清吉諸氏外新進の提琴家を合せて四十名、七時食堂を開き席上徳川侯爵の挨拶あり晩餐後別室に鈴木翁は創業以来四十年間の歴史と製作上の辛苦に就て事細に説話された、終つて鎭一氏は四個(中に古銘器一個を交ぜて)の提琴を一二三四と列べた順に弾奏個々に就ての忌憚なき批評を来賓に求められたが四個殆ど同一の特級品で中に多少の差違があつてもその差違は寧ろそれゞの特色とも見るべきもので優劣の語を以て区別することは出来ない但強ひて云へば新品は古器に比して幾分か若い音色を持つて居るやうにも思はれる位るのことで一同感嘆し翁の成功を賞讃して止まなかつた、それから尚暫くの間来賓は思ひゝに新古を弾き較べて頻に鑑賞に耽つて居られたが十時前後に何れも大満足の体で退散された。
 挿図は鈴木鎭一氏が珍蔵さるゝガルネリウスの特製提琴(特価壹萬圓以上)を寫したものである。

 
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『帝劇招聘 世界的芸術家』 (1926.7)

2013年12月27日 | その他
創立二十年記念「帝劇之洋楽運動」別冊
    帝劇招聘 世界的大芸術家(写真帖) 東京 噴泉堂

    前書

 今年は帝劇が創立されてから丁度満二十年に相当する。そして改築されてから三周年経った。そこで、私は去る大正九年 〔一九二〇年〕 に玄文社から「帝劇十年史」を刊行した関係上、今回も二十年史を出さうと企てた。が、何分震災後の創痍全く癒えざる今日、搗て加へて経済界は空前の不景気であるため、劇場の方にも創立二十年祝賀会等の催しも無いので其の企ては後日に譲ることにした。
 然し、開場当初の西野専務の歌劇創始と大正七八年以来計画された山本専務の洋楽運動は我が楽界に一大ショックを與へたもので、之によって各種の新運動が勃興し我が楽界は漸く黎明期に到達した。此の功績こそ帝劇か演劇を実業化した以上の大功績であって、私が敢て「帝劇の洋楽運動」なる一書を世に公にする所以なのである。
 此の小冊子は、「帝劇の洋楽運動」の別冊で、意義のあるものではないが、珍しい写真が多いだけ好楽家に喜ばれるであらうと信ずる。

   出版者識

  

  

 ・アレキサンダー・モギレフスキイ
 ・ナジエダ・レエフテンベルグ・ボーアルネー

  モギレフスキイ氏の経歴

        

 ・帝国劇場取締役会長福澤桃介氏 MOMOSUKE FUKUZAWA PRESIDENT
 ・帝国劇場取締役山本久三郎氏 KYUZABURO YAMAMOTO MANAGING-DIRECTOR

              

 ・エレナ・スミルノワ ELENA SMIRNOVA
 ・ミシエロ・ピアストロ MICHAEL PIASTRO
 ・アルフレッド・ミロヴィッチ ALFRED MIROVITCH
 ・セルギイ・プロコフィエフ SERGES PROKOFIEFF
 ・ミッシャ・エルマン MISCHA ELMAN
 ・エルネスチン・シューマンーハインク ERNESTINE SCHUMANN-HEINK
 ・エフレム・ヂンバリスト EFREM ZIMBALIST
 ・アンナ・パヴロワ ANNA PAVLOWA
 ・レオポルド・ゴドウスキイ LEOPOLD GODOWSKY
 ・フリッツ・クライスラー FRITZ KREISLER
 ・ヤシャ・ハイフェッツ JASHA HEIFETZ
 ・ミエチスラフ・ミュンツ MIEZYSLAW M●NT

       

 ・メイ・ランファン 梅蘭芳
 ・メエベル・ギアリスン MABEL GARRISON
 ・ルー・モータン 緑牡丹
 ・ルウス・セント・デニス … テット・ショウン TED SHAWN … RUTH ST. DENNIS
 ・ミッシャ・レヴィツキ MISCHA LEVITZKI
 ・ジョン・マッコオマック JOHN McCORMACK

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 奥付〔その一部〕

 大正十五年 〔一九二六年:但し、表紙裏には「大正拾五年十一月卅日」の印がある〕 七月三日発行 定価五十銭 
 編輯兼発行人 杉浦善三
 発行所    噴泉堂
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『翠渓歌集』 故前田翠渓著 (1913.8)

2013年11月07日 | その他
 翠渓歌集

 ・序 大正二年七月 上田敏
 ・  大正二年七月 よさのひろし〔與謝野寛〕〔下は、その一部〕

 明治の終末に余と曾て詩社を同じくした二人の友が共に肺を病んで亡くなった。前田翠渓君と石川啄木君。
 二君はその資性も職業もちがって居た。その短い生涯の思想の経過は太略似て居た。理想主義の憧憬から現代主義の苦悶へ。病を得てからの境遇が同じやうに悲惨を極めて居たのは、之を言ふに忍びない。
 〔中略〕
 啄木君は、負けぬ気の勝った貴族的な気質から、口を少し歪めて、冷い苦笑に之を撥無しやうとあせったが、翠渓君は醞籍な田園風の性情から、宇宙自然の律のまにまに我を任せて、静かに之を諦めようと努めた。
 〔以下略〕

 
 ・序 大正二年六月 佐々木信綱識 

 ・〔短歌五首〕 與謝野晶子

 天地もかなしかりけり若き子の死にたる後の歌におもへは

 たくひなき悪夢を見つゝこの君はやかて覚めすもなりにけるかな

 この君は何をたのみし妻か子か悲しけれとも一巻の歌

 若き人はやく世になしその歌はしら玉のこと後をてらせと

 夏の雨純孝の君のありし日の病のころのはなしなと聞く

 ・〔写真〕 明治四十年の著者

 

 翠渓歌集 故前田翠渓著

  〔写真〕・著者の遺児美津子(六歳の春) 
      ・著者病やゝよき頃の肖像と自讃

  自讃

 ほねを父に肉は母にとかへすときそこに残れる何物ありや

   明治四十三年十一月廿七日 前田純孝 

 

 ・思ひ出の二つ三つ 平木白星  〔下は、その最初の部分〕

 前田翠渓君は音楽に多大の嗜好を有つてをった。天才もあった。殊にヴァイオリンが得意で、彼の作曲も決して凡庸ではあらなんだ。doが高いのかmiが低いのかさへ知らぬ私が、自分の作詩にデタラメの節調をつけて歌ふとすると、内発的だとか印象的だとか勸勵して、彼は即座にそれを音譜に構成して呉れるのが常例で、私の拙い詩も曲を附けた為呼吸づくやうになったのが少なく無い。『歌劇富士』『機おり唄』『国歌』『羽衣』『星となりて』『嵯峨野』なぞがそれだ。その中の二三は既に青年会館や中央会堂に於ける朗読会の公開場で、作曲者自身なり私なりが吟唱を試みた。明治三十九年頃私は『復活』(発市せし時の題名は『耶蘇の恋』)『釋迦』と共に三部曲の一として『マホメットの死』と題するオペラの『リブレット』めくものを書いた。彼は其に作譜しようとして手許に置いてあったうち、『衷心から溢発した生力の律呂でなければならぬ。』とて、作興の燃焼を待ちつゝ、その序曲の二分の一をも了へず、夕陽丘高等女学校の教授として大阪へ赴任する事となった。

 ・翠渓歌集の後に 矢澤邦彦 

 ・悲しき一束の書簡 葛原滋  〔下は、その一部〕

 はからずも、その人に接近する時が来た。大塚音楽会の声楽練習の折であった。今の高師教授文学博士神保君が、オルガンを弾いて、「鶯のうた」(ハラー作曲。のち『中等教育唱歌集』に出づ)の練習があった。ソプラノとバスとには唄ひ手が多かった。テノルは、六しいといふのでか人は少かった。神保君は弾くのをやめて、「テノルが弱いね」とオルガン越に謂った。するとソプラノから、進んでテノルに入って、大きな声で、「ケキヨ、ケキヨ」と、うたった人ーそれが美男の、わが翠渓兄であったのである。左手に譜本をもち、右手を自然に垂れて、細い指で、ヅボンをうちゝタイムをとって、、大きな声で、ケキヨゝとうたふのであった。それが、わが純孝兄、その唱歌作者であった。その頃の私は、驚いた、畏敬の念を強うした。君の直ぐ後に立って、バスを歌う筈の私は、まだ歌へぬ私の、タイムの合はぬ節を、君に聞かれたくなくて、たゞ、後から君の、気持よくタイムをとる手の指を見て、只立った。
 それと前後して、正午の大食堂で、オルガンで六段を弾くものがある。巧に弾く。明暮琴の音の中に大きくなった私は、オルガンで六段をきくのを、珍しく欣び、夕々の食後には、只耳に知るそのメロデーを辿って、苦心して、遂に完全に弾ける様になった程の親しみの六段である。多くの校友も六段の、はじめ一段位は、まごつきゝ弾くものも多かったが、その時の六段は、すらゝときれいに弾かれた気持よさ。立ち上って見ると、それは翠渓兄であった。食パンに砂糖をつけて牛乳を飲むのが流行してゐた頃の、食堂に、私は立上って、欣んだ。甘い、柔かな、色も平和なミルクの中食時に、君の六段をきいて、心はおどらざるを得なかった。同級の一友は、翠渓兄と師範時代の同窓といふので、紹介して呉れようといった。しかし、紹介されたのは、よほど後であった。其までには、幾度か君と相見た。幾度か同じ室で相うたった。

 ・著者の年譜

 明治十三年四月三日 但馬国美方郡諸寄村六十一番地にて生まる。父は純正氏、母はうた子。
  四十五才のとき、うた子、故を以て前田家を去り高村氏に嫁ぐ。純孝氏は祖母に養はる。
 明治二十年四月   鳥取市に赴き叔母の家に寓し、鳥取県師範学校附属小学校に入る。
 明治三十年七月   兵庫県より小学校の准教員の免許状を受く。
 同    九月六日 美方郡諸寄尋常小学校准訓導となる。
 明治三十一年四月  兵庫県師範学校(御影師範学校と改称)に入る。
 明治三十四年    痔を病んで約一月病院生活を送る。
 明治三十五年    師範学校卒業と同時に東京高等師範学校に入学在学中同級生を集めて鼎会を作りて短歌を競作し、又明星の社友として毎月作物を掲載す。
 明治三十七年    前田林外氏等の白百合の社友として大に盡力す。
 明治三十九年四月  高等師範卒業と同時に大阪府島之内(後に夕陽丘)高等女学校に教頭として赴任。
 同     八月  帰省途次発病、肋膜炎にて十月まで欠勤。
 明治四十年 三月  秋庭信子と結婚。
 明治四十一年    美津子生る、夫人信子産後の肥立よろしからず。
 明治四十二年二月  又々肋膜炎。 五月  味原池のほとりより住吉に転地療養。
   素人目には快方の如く見えたれど、佐多博士は、肺尖カタルに罹りゐたりといふ。一日に一里も散策出来、肉もつきしに、梅雨に入りてより元気食欲共に減退、七月喀血、少量なれど衰弱す。
 同年    十月  佐多博士の診察ー左右とも肋膜炎を患ひをり、肛門にも痔核あり、膓結核の疑もあり、十中八九難治。
   校長などは帰国を勧められたれど、人の壽命は解らぬものゆゑ、充分療養させたしとの夫人の希望にて、明石なる夫人の里家に転居。
 明治四十三年五月まで よくもならず悪くもならず。夫人の病のため、五月十四日、但馬へ帰る。
 同年    六月二日 膓出血、のち稍佳良。時々喀血す。
   病間筆をとり歌を売って、薬餌を買ふ。
   日々の生活を、短歌に作りて日記に代ふ。
 明治四十四年一月  乳母の家に移居。半歳あまり、大に心和ぐ。
 明治四十四年九月二十五日 遂に起たず。但馬に葬る。年三十二。

 

 大正二年八月十五日発行 (非売品)         
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『ヘレン・ケラー女史 来朝記念写真集』 (1937.7)

2012年12月13日 | その他
 ヘレン・ケラー 〔Helen Keller〕 女史 来朝記念写真集 昭和十二年七月 非売品 昭和十二年 〔一九三七年〕 七月二十五日発行 金富堂写真部 〔15.5センチ、19頁〕

 ヘレンケラー女史の面影

 女史は、一八八〇年六月二十七日、北亜米利加合衆国アラバマ州タスカンビア町に生れ、生後十九ヶ月目に熱病で、一時に耳と目の両感覚を失つた。満七歳少し前に、アンニー・エム・サリヴアン嬢によつて、その言葉の教育が有効に行はれて、知識の戸門が開かれ、思想の発展又極めて顕著なるものがあつた。十歳に及んで口にて語らんとする強烈なる衝動にかられて、苦辛努力の結果、遂に発音発語に成功し、その全教育の進歩又、甚だ顕著であつて、世人をして驚嘆せしめた然るに女史の稀有なる好学心と向上心とは、初等教育に満足する所とならず、更に高等専門の教育に志し、困難なる入学試験を突破して、二十歳にしてラツドクリフ女子大学に入学し、四ヶ年の過程を見殊に修了して卒業の栄冠を與へられた。実に盲聾者にして、大学を卒業するに至つたことは、空前であつたのみならず、その後に於ける修養研鑽の結果、その思想の豊麗深遠なる、その徳性の円満崇高なる、蓋し絶後と称するも決して溢美ではなからう。嘗て米国の文豪マーク・トーウエン氏は、十九世記には世界的二大偉人が出た。それはナポレオンとヘレン・ケラーである。前者は剣を以て世界を征服せんとして遂に破れたか、ケラーは思想の力を以て、永遠に人類の大なる炬光となつたといふ様なことを言つたことがある。誠に然りである。
 此の世界的の偉人、人類愛の戦士たるケラー女史は、昭和十二年春爛漫なる四月十五日、万里の波濤を越えて本邦に来朝せられ、邦人は親しく女史に接する機会を得た。時恰も新宿御苑の観桜御会の開かるゝありて、御召の恩命を賜はり、又高松宮御殿にも伺候を差許さるゝの光栄を蒙り全国民又空前の熱誠を以て女史を歓迎した。爾来女史は三ヶ月に亘りて、全国各地に於て講演を行ふこと七十七回、其他の会合に出席し、又四十校以上の聾学校及び官立学校を訪問して、所謂奇跡の声を発し、豊麗なる思想と温雅なる聖容を示し、日本国民に聖女の語を冠らしめるに至つた。女史は本邦における盲及び聾者の教育並に、福祉事業の発展に絶大の熱意と努力を以てし、口を開けば必ずやこの事に及び、その深厚絶大なる人類愛には、真に驚嘆と敬服に堪へないものがある。而も女史の高遠なる思想は、本邦民の崇敬する神社仏閣に詣でては、日本精神を体得すること無比たらしめ、又その鋭敏なる感覚は、美術工芸の優秀なる作品に接して、非凡なる心眼を以て之を鑑賞せしめ、吾人をして転た観賞おく能はざらしめて居る。
 本写真帖は、女史の来朝を永遠に記念する為に、本邦に於ける女史の活動の諸相と、女史が本邦人の生活を満喫し、我が芸術を鑑賞する所の光景を、彷彿せしむるに足る、各種の写真十八葉を蒐輯したものである。

 写真

                

 ・ポリー・タムソン女史 ヘレン・ケラー女史
 ・四月十五日来朝第一日の聖女【帝国ホテルに於て】
 ・徳川侯邸に於ける歓迎午餐会
 ・徳川侯邸に於て日本美術に陶酔する聖女
 ・徳川侯邸講堂にて‥‥【其の一】
 ・徳川侯邸講堂にて‥‥【其の二】

              

 ・古都奈良にて‥‥【其の一】 (主婦之友社撮影)
 ・古都奈良にて‥‥【其の二】 (主婦之友社撮影)
 ・主婦之友社長邸に於て (主婦之友社撮影)
 ・軍人会館に於て
 ・羽折を着てカナリヤを相手に悦ぶ二女史
 ・所・日比谷公会堂 日本音楽の鑑賞 【其の一】 弾奏は宮城道雄氏 (東京朝日新聞社撮影)
 ・所・日比谷公会堂 日本音楽の鑑賞 【其の二】 弾奏は吉田晴風氏 (東京朝日新聞社撮影)

            

 ・東京聾唖学校講堂に於て
 ・徳川侯邸講堂にて 【其の一】 (署名はケラー並にタムソン女史)
 ・徳川侯邸講堂にて 【其の二】
 ・徳川侯邸講堂にて 【三】
 ・七月五日日米国大使館に於て‥【右より廣田外相・聖女・米国大使・タムソン女史】

  

 盲・聾・唖の聖女 ヘレン・ケラー博士とライト・ハウス  

   桃谷順天館奉仕部パンフレツト 「女性之光」 第三輯 昭和十二年 〔一九三七年〕 四月廿五日発行 昭和十二年五月三日三版 編輯兼発行者 桃谷勘三郎 発行所 桃谷順天館奉仕部  〔19.2センチ、本文10頁〕

 見返し

 「ヘレン・ケラー女史に託されたルーズベルト大統領のメツセージ」・写真「ルーズベルト大統領」

   「三重苦」の聖女ヘレン・ケラー女史は三月二十五日午後五時半ニューヨークを出発、日本訪問の旅程についたが、出発にあたりルーズヴェルト大統領は特に次のメッセージを託した。
      X                          X
   女史今回の日本訪問より肉体的困苦に悩む日本人は不断のインスピレーションを受けることを確信する、さらに女史が今回の訪問で人道的事業に携はる日本人ならびに日本の各団体と親しく交際する結果、日米両国民の親善友好関係に寄与するところ甚大であらう、国家間の親善関係はつねに国民相互間の親善に依存するが女史は申し分ない親善使節としてアメリカ国民衷心からの挨拶を日本国民へ伝へられることを切望する

 ・「詩聖タゴール翁と語るヘレン・ケラー女史」

  

 本文は、桃谷順天館編輯の「ヘレン。・ケラー博士小伝」他である。

 〇盲・聾・唖の聖女 ヘレン・ケラー博士小伝

 はしがき
 父母のねがひ
 サリヴアン女史


 当時、電話の発明家として世界に名声を轟かしてゐたグラハム・ベル博士は、その老母が晩年に聾になつたために聾唖教育に多大の関心をもつてゐましたが、不幸な少女ヘレン・ケラーの話をきゝ、何とかして一人前にしてやりたいと思つて、かつてサミエル・ハウ博士が盲唖教育で尽粋されたので有名なパーキンス盲学校にその事を相談されました。そのしてその結果、同学校を卒業したばかりのアン・マンスフスキールド・サリヴアン女史がヘレン・ケラーの家庭教師として選ばれる事になりました。時にサリヴアン女史は芳紀まさに二十一歳、ヘレン・ケラーが七歳になつた春の事です。
 かくて、サリヴアン女史は、七十歳にいたるまで、即ち昨年十月に長逝されるまでの約五十年間といふ長い歳月を、文字通りヘレン・ケラー博士のために全身を捧げ尽くしたのです。たゞ一人の不具者を教育するために、一生涯を捧げ尽したサリヴアン女史!何といふ尊い一生でせう!それであるだけにまたどんなにそれが難しい仕事であつたでせう!サリヴアン女史の努力は全く筆紙につくせぬものがありました

 文字を知るまで
 無形の物を知るまで
 口で語るまで
 栄冠を得るまで
 全世界讃嘆の的
 女史の信仰
 むすび


 〇ヘレン・ケラーを語る 〔一部省略〕

 ルーズベルト大統領曰く

  ▲ヘレン・ケラー博士は盲聾唖の三重苦を突破して今日アメリカに於てゆるされたる学術の最高峰を往くのみならず闇に住む同胞のために日夜寝食を忘れ献身しつゝある事は実に驚嘆の限りである。彼女こそは『アメリカの国宝』としして推すべき存在である。

 文豪メーテルリンク曰く

  ▲青い鳥を見出した女性!
    ヘレン・ケラーこそは私の著『青い鳥』の中に秘められた幸福を見出した唯一の女性です。ヘレン。ケラーをおいてこの祝福を受ける資格者は他にありません。

 文豪マークトウエン曰く

  ▲十九世紀の奇蹟!
    十九世紀の奇蹟は不可能を可能にしたボナパルト・ナポレオンであり、今一人は盲聾唖の女性ヘレン。ケラーである。

 山室救世軍中将曰く

  ▲神の力の活ける證明!

 桑木文学博士曰く

  ▲懦夫を起たしむ!

 〇ヘレンケラー博士を招聘せる ライト・ハウスとその愛盲事業 ライト・ハウス館長 岩橋武夫
 〇ライト・ハウス館長 岩橋武夫先生

 裏の見返しには、写真5枚がある。

  

  ① 指話するサリヴアン先生とヘレン・ケラー女史
  ② 幼き日のヘレンケラー女史とサリヴアン先生
  ③ 大阪中央公会堂にて講演中のヘレンケラー女史(右端)
  ④ ライト・ハウスの於けるヘレン・ケラー女史(向つて右よりケラー女史、トムソン女史、岩橋先生(写真③④は桃谷順天館奉仕部撮影)
  ⑤スピーカーに手を触れてラヂオを聴くヘレン・ケラー女史」がある。

 裏表紙には、次の表がある。

 

 ヘレン・ケラー博士日満巡講演日程表 (昭和十二年四月十一日現在調)

 横浜   四月十五日  郵船浅間丸 
                臨時列車東京へ
 東京   四月十六日  宮内省外務省米国大使館訪問
       四月十七日  内務省文部省訪問
       四月十八日  市民歓迎会 
               歓迎晩餐会
 大阪   四月十九日
       四月二十五日
 東京   四月二十六日
       四月三十日
 横浜   五月一日   港記念館 二回
 横須賀  五月二日   海軍下士官兵集会所
 箱根   五月二、三日 静養
 静岡   五月四日   公会堂その他
          五日
 名古屋  五月五日   公会堂 一回
          六日   その他 二回
 彦根   五月七日   高商
 大津   五月七日   教育会館
 京都   五月八日   朝日会館其他
       五月十日
 奈良   五月十一、十二日   女高師及休養
 神戸   五月十三、十四日   海員会館他四回
 岡山   五月十五、二十日   静養
       五月二十一日     岡山公会堂其他
 広島   五月二十二、三、四日 教育会館
 下関   五月二十五日     梅光女学院
 福岡   五月二十六、二十七日 九大其他 三回
 長崎   五月二十八、二十九日 勝山小学校
 雲仙   五月二十九、三十日  静養
 熊本   五月三十一日     公会堂
       六月一日
 大分   六月二日       
 大阪   六月四日       
       六月七日
 岐阜   六月八日       市公会堂
 金沢   六月九日       市公会堂
       六月十日
 長岡   六月十一日      公会堂
 新潟   六月十二日
 秋田   六月十三日      二回
 大鰐   六月十四日、十五日  静養
 弘前   六月十六日
 青森   六月十七日
 湯ノ川  六月十八日      静養
 函館   六月十九日 
 湯ノ川  六月二十、二十一日  静養
 小樽   六月二十二、二十三日
 札幌   六月廿四、廿五、廿六日 四回
 盛岡   六月二十八、二十九日  二回
 仙台   六月三十日       二回
       七月一日       
 福島   七月二、三日
 水戸   七月四日
 日光   七月五、七日     静養
 東京   七月七日
 大阪   七月八、九日
 朝鮮   七月十一、十七日   二回
 満州   七月十八、二十四日

 なお、七月七日、北京郊外の盧溝橋で発生した事件により、日中は全面戦争に突入した。

 

 ヘレン・ケラーアルバム 岩橋武夫編 主婦之友社

 ヘレン・ケラー アルバム 序 1948年3月 岩橋武夫 

  目次

 出発にあたりて
 タムスン女史と共に
 一九三〇年当時のヘレン・ケラー
 ケラー女史の両親と妹
 北米アラバマ州タスカンビアにおけるヘレンの生家
 レンサムにおけるヘレンの家
 アニー・サリヴァンとヘレン・ケラー(一八八七年) (アニー二十一歳、ケラー七歳当時)
 ・十一歳当時のヘレンとサリヴァン先生
 ナイヤガラ瀑布にて(一八九三年)
 点字の読書をするヘレン(一八九一年)
 インドの詩聖タゴールと語る(一九〇一年)
 マーク・トウェインとヘレン(一九〇二年)

  ヘレンが二十二歳の時であった。あるお茶の会に招かれて行ってみると、そこに文豪のマーク・トウェインに紹介された。このときトウェインは六十七歳であったが、ヘレンはそれ以来トウェインと大そう親しくなった。トウェインはその後ある雑誌に、『十九世紀に二人の大人物がこの世に生れている。その一人はナポレオンで、他の一人は、三重苦を突破してあらゆるものを征服したヘレン・ケラーである。』と書いた。

 大学在学中のヘレン・ケラー(一九〇三年)
 なつかしい自然(その一)(一九〇四年)
 なつかしい自然(その二)
 大学卒業を前にして(一九〇三年)
 自然の美を(一九〇四年)
 樹上で読書のひとゝき(一九〇四年)
 グラハム・ベルと指話
 『石壁の歌』(一九〇九年)
 正装せるヘレン・ケラーのプロフィル(一九〇九年)
 先生、そしてもう一度、先生
 先生と指話するヘレン(その一)(その二)(その三)
 サリヴァン・メイシー、夫君ジョン・メイシーと共に語る
 ジョセフ・ジェファーソンと共に
 時計を見るヘレン
 カルソーの独唱を聴く(一九一五年)

  イタリヤの生んだ世界的名歌手カルソーがヘレンのために歌っている。彼女はカルソーの唇に手をおいて、その妙なるテノールの旋律を振動によって聞き、鑑賞するのであった。

 楽聖ハイフェッツのヴァイオリンを聴くヘレン・ケラー
 遠乗り(一九一八年)
 ハリウッドにて(その一)(一九一八年)
 ハリウッドにて(そのに)(一九一八年)
 弟と共に(一九一八年)
 愛犬と共に(一九二二年)
 幼き協力者(その一)(その二)
 タイプライターを打つケラー
 世界盲人大会にて
 テンプル大学にて博士号を受く
 悲しみを知る人の顔
 ウェルズと共に(一九三一年)

  評論家、歴史家として、『世界文化史』の著者として有名なエイチ・ジー・ウェルズは、ケラーについて次のように言っている。
  『私はアメリカに行って最も驚くべき人物にあった。それはヘレン・ケラーである。彼女は、英、独、佛、伊、ラテン、ギリシヤの数ヵ国語を解して、世界の思潮に通じている。その見えない眼で、世の哀れな人たちの生活を見る。現代の不正と不義をも見る。即ち彼女は世界の涙を見ている。その聞えない耳で、人道の叫びを聞き、飢えに泣く幼児の泣き声を聞くのである。』と

 グラスゴー大学にて博士号を受く(一九三二年)
 遠き思い出(一九三二年)
 芸術の世界(一九三三年)
 愛犬と戯れるケラー
 日本来朝のヘレン・ケラー(その一)
 日本来朝のヘレン・ケラー(その二)
 日本来朝のヘレン・ケラー(その三)
 日本来朝のヘレン・ケラー(その四)
 ヘレン・アダムス・ケラー年譜

 昭和二十三年 〔一九四八年〕 七月三十一日発行
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『露西亜舞踊大観』 (1922.9)

2012年12月06日 | その他
 RUSSIAN BALLET  

 ・序論  三島章道訳
 ・曙光以前  伊東松雄訳
 ・ディアギレフの到来  河村邦成訳
 ・レオン・バクスト  川口尚輝訳 
 ・ブノア、レエリツヒ並びに他の露西亜の人々  久能龍太郎訳
 ・ゴンチヤロヴアとラリオノフ  山村魏訳
 ・世界的の形相  大関柊郎訳  
 ・ドレインとピカツソ  渡平民訳
 ・マチスとセルト  免取慶一郎訳
 ・セルゲイ・ドウ・ディアギレフ  勝矢剣太郎訳
 ・振付ーフォーキン 小森三好訳
 ・ニジンスキイ  永田龍雄訳
 ・マツシーン  田中総一郎訳
 ・舞踊の音楽  永田龍雄訳
 ・レパートア  近衛秀麿訳

  挿絵目次

 ・セルゲイ・デイアギレフ
   原色版
 ・宦官(シエエラザアド) バクスト
 ・火の鳥 バクスト
 ・金雞 第一幕 ゴンチヤロウ
 ・聖馬可(礼拝式) ゴンチヤロウ
 ・深夜の太陽 ラリオノフ
 ・ロシヤ物語第一場 ラリオノフ
 ・三角帽 ピカソ
 ・ポロヴイツチの天幕(イゴル公) ローリツヒ
 ・アランヂユエの夜の衣裳 セルト
 ・婦女子の狡猾の聯歩 セルト
   写真版    
 ・礼拝式の場面の一部 ゴンチヤロワ
 ・露西亜の市のカーテン ゴンチヤロワ
 ・キキモラ(露西亜物語) ラリオノフ
 ・道化のカーテン ラリオノフ
 ・鶯のカーテン マチイス
 ・パラデのカーテン ピカソ
 ・サロメの衣裳 スギーキン
 ・イゴル・ストラヴインスキイ
 ・ウスラヴ・ニジンスキイ

 露西亜舞踊大観 定価 弐圓八拾銭
 大正十一年 〔一九二二年〕 九月二十三日発行
 著作者 三島章道 
 発行所 アルス
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「下岡蓮杖 全楽堂、撮影旅行振り」

2012年10月12日 | その他
   

 安政六年開業したる本邦最初の写真店全楽堂 〔上左の写真〕

 Photographic studio first and foremost in Japan established at Yokohama by the late Renjo※ Shimooka by whom photography was first introduced into this country.

 今日でこそ如何に不便な片田舎に行つても到るところ写真館の設けがつて、田夫野人の末に至るまでレンズの中の人となり得るのであるが、今から六十年前には我国に唯だの一軒の写真撮影所といふものはなかつたのである。然るに安政六年(大正六年を距る五十九年前)当時我国に於ける写真術研究の第一人者下岡蓮杖氏始めて一の写真店を横浜太田町に設立して人物撮影及び写真販売を開業し是に全樂堂と命名したので る。写真は当時其の全樂堂の外観を撮影したもので、富士山を象どつた看板や、“up stairs” と誌された案内書きに対照して江戸風の紺の暖簾の鬱陶しげに重く懸れる有様など、今日より是を見れば誠に興味ある光景である。
                       (東京浅草 二世下岡蓮杖氏寄贈)

 本邦写真術の鼻祖故下岡蓮杖翁の撮影旅行振 〔上右の写真〕

 Lake Renjo Shiomooka by whom the photographic art was first introduced into Japan taken at that time when he used to make a trip for photographic purpose, upper left being the photpgrapher in his last years.

 写真術は独逸人シユルツエ氏が西暦一千七百二十七年銀鹽の感光性を利用して書画の複写を試みたのに始まり、次で一千八百二年英吉利人デーヴイ等是を研究し、爾来幾多の苦心を重ね、遂に一千八百七十一年英吉利人マツドツクスジエラチン製乾板を発明するに及び大成の域に達したのである。而して此の技術が本邦に渡来したのは、徳川幕府の安政年間であつたが、当時邦人の多くは是を以て一種の魔術と見做し其の技を賞讃するといふよりも寧ろ恐怖の念を以て見てゐたから容易に流行しなかつた。然るに当時下岡蓮杖といふ人、長崎に出でゝ米国人の写真師に就き該技を修得し、あらゆる迫害に抗しつゝ是が開拓に従事し、遂に今日の如き斯道隆盛の源を成した。写真は明治維新前蓮杖翁が大なる撮影器械を背負ひつゝ今や採写に出で立つ有様、又左上は同翁晩年の肖像である。               (東京浅草 二世下岡蓮杖氏寄贈)

 ※ 0 の上に、- あり。

 上の2枚の写真と解説文は、大正六年 〔一九一七年〕 十月一日発行の『歴史写真』 大正六年 十月号 第五十五号 に掲載されたものである。
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