蔵書目録

明治・大正・昭和:来日舞踊家、音楽教育家、来日音楽家、音譜・楽器目録、士官教育、軍内対立、医学教育、林彪、北京之春 

『燕塵』 燕塵会 (北京) (1908-)

2015年04月21日 | 清国 日本人
       

 天下の同好に告ぐ
 燕塵発行の趣旨は筆写を印刷に代へ相互に分て北京に於ける出来事は勿論是れに関係する事々物々大は国家の体戚に関し小は個人の利害に伴ふ所有事件の報道を専らとし傍ら風雅の道を辿りて光風霽月以て俗情を脱し或は奇言怪語を弄して滑稽諧謔以て人の頤を解き時に暗々裏に彼を諷刺し時に明々地に是を警告す一言にして之を謂はゞ燕塵は我等同人が紙上俱楽部なり此俱楽部たるや実に広量無辺にして恰も天の覆ひ地の載するが如し是を以て世間有ふれたるヘチ矢釜シキ規則規約等の束縛なく苟も同好の志あるものは誰彼の差別なく随意に此仙境に遊ぶを得べし然りと雖も仙境には仙境の道義あり宜しく左の事丈は相互に守らざるべからず
 一投書は毎月十五日締切の事
 一投書は本会の原稿紙に楷書平仮名にて丁重に認め句読も可成打ち来る事原稿紙は需に応じて何枚にても差上ぐべし
 一投書の取捨選択はすべて編者に一任し毫も苦情を言はざる事
 一投書家の本名につきては編者言はず看者問はざる事
 一仙境に遊ぶ冥加の為め発行の料を負ふ事但し可成御持参を乞ふ
  明治四十一年二月  北京 燕塵会

 燕塵 第四号  明治四十一年四月三十日発行(非売品) 北京燕塵会

  目次

 題字(燕塵) 真闇齋
 表紙画図案(両把児頭) 秋野外也
 燕京耳塵   昴々生
 入塵之記   放鶴生
 燕塵の報界  燕人
 「サー、ロバート、ハート」 江山生
 独逸の郵便 附支那郵便 三野生
 昔見た北京と今見た北京 畑野杢平
 曬背囈語   杢造
 十把一束   莫哀生
 虎耶耶    南無加羅漢
 偶感     秋香生
 日本信局子在那児(承前)
 郵便茶話   郵便小僧
     文苑
 北京めぐりの記(明治三十九年) 金弟生
 スケッチ其三(轎上の満州人) 秋野外也
 燕会俳句
 狂歌     くちのわろ人
 哈々騒    思隣仙 ヽヽ坊 楠亭
 ○      三尺
 北京笑史   微々笑客
 前号象評   覆面頭巾
     雑報
 燕京たより  不倒菴
 青年会発会式及余興の記 太郎三郎
 園遊会見聞記 城北傖夫
 書柬一束
 編輯たより  遠甚子
     鴻便
 湖南たより  小華
 遼西たより  新平民

 燕塵 第五号 明治四十一年五月三十日発行(非売品)

  目次

 題字(燕塵) 林権助
 表紙裏図案(菖蒲) 秋野外也
 肖像画(林公使) 池原正利 〔掲載なし〕
 特命全権公使男爵林公の東帰を送る序 服部宇之吉
 林公使の君の日本に帰へらせ給ふに 服部繁子
 林公使を餞するの辞 傍聴生
 林公使を送る  没假生
 竹蔭星使を送る 燕人
 「ボイコツト」の潜因 山崎瞻
 日露戦争前後に於ける日本の地位 放鶴生
 燕京の医界  夏来生
 我が対聯観  素町人
 「サー、ロバート、ハート」(承前) 江山生
 娯楽場の拡張に就て 秋香生
 盧溝橋附近の沿革並橋の話 三野生
 曬背囈語(二) 杢造
 日本信局子在那児(承前) 藪唐坊
 郵便茶話   郵便小僧
 燕塵閑評   達観坊
 新珍摘録   或人
 北京と東京  涙仙
     雑報
 燕京たより  不倒菴
 游船献納式  N生
 本願寺に於ける宗祖降誕会 М生
 盧溝橋遠足会 S生
 春期大射撃会 W生
 編輯たより  遠甚子
 × ×    半駄子
 遼西だより(承前) 新平民
 上海たより  滬上槎客
 南清の台湾人 武彝山人

 燕塵 第六号  明治四十一年六月三十日発行(非売品)

 

 肖像画(林前駐清公使) 池原正利
 燕京耳塵   昴々生
  八、敵愾の観念 九、燕京の報界
 日露戦争前後に於ける日本の地位(承前) 放鶴生
 燕京の医界(承前) 夏来生
 「サー、ロバート、ハート」(承前) 江山生
 北京消費組合に就て 秋香生
 變聲語義   養稼生
 十三行記   その一人
 三日の旅   驢友
 曬背囈語(二) 杢造
  幌子(続)
 燕塵余聞   又聞小僧
 郵便茶話   郵便小僧
  北京の配達事務(附北京地図)
 燕会不問語  温古生
 昔の日記   Ⅹ生
 豪興歌    楸村
 佗住ひ    楸村情禅
     雑報
 燕京だより  不倒菴
  上諭集、閑語集、人事集、会集
 清国海関に於ける日本人 一記者
 編輯たより  遠甚子
     鴻便
 御河橋畔たより 燕人
 長崎たより  俳青
 新疆たより  林出生
 南清の台湾人 武彝山人
 スケッチ(其五) 秋野外也

 燕塵 第九号  明治四十一年九月三十日発行(非売品)

  目次

 表紙画図案(獣頭瓦) 秋野外也
 飛耳張目   黙笑生
  六、紐育「ヘラルド」の米清同盟論 七、燕京の外交社会
 新法鉄道問題の真相(其の三) 公平生
 独逸の清国開発事業一端(演説速記) 峡籟生
 曬背囈語(四) 杢造
  黄禍論
 清国に於ける電話事業 虚人
 北清事変回顧録    随軒
 北京在留邦人の消費組合 嗽石
 變聲語義(承前) 養稼生
 十三行記(続稿) その一人
 湯山日記  新泰獅稿
 長城観月行 放鴻生
 ザックバラン 藪唐坊
 豚の膓
 盧溝橋の紀  虎屋髯麿
 金毛獅子吼  楸村
 ありのすさひ 楸村
 巌谷博士夫人の柩を送る時 楸村生
 塵塚     三面子
     雑報
 燕京たより  不倒菴
  上諭集、人事集、会集
 編輯たより  遠甚子
     鴻便
 東京たより  権助
 長沙たより  艸夢
 包頭鎮たより 出口生

 燕塵 第十号  明治四十一年十月二十日発行(非売品)

 新星使を迎ふ

 京師新聞   柏菴
  〇達頼喇嘛〇法庫門電報
 新法鉄道問題の真相(其四)
 独逸の清国開発事業一端(承前) 峡籟生
 入竺求法の僧侶 桑原隲藏
 北清事変回顧録(承前) 随軒
 北京に於ける外人設立の学校(承前) 伊知生
 北京在留邦人の消費組合(承前) 嗽石
 京師電燈公司の事業拡張 KS生
 十三行記(承前) その一人
 湯山日記(承前) 新泰獅稿
 支那宿の落書 松涙生
 庭球     七赤子
 豚の膓    ヽヽヽ同人
 隨感隨吐集  虎屋髯麿
 塵塚     三面子
     雑報
 燕京たより  不倒菴
 献芹言    望蜀生
 編輯たより  遠甚子
     鴻便
 京城たより  井上雅三
 哈爾賓たより 北冥子

 燕塵 第十一号  明治四十一年十一月十日発行(非売品)

 表紙画図案  秋野外也
  字紙蔞に銀杏の葉
 清国立憲予備史(一) 燕人
 在清国各国宣教師の医学宣伝現況(演説速記) 峡籟生
 入竺求法の僧侶(承前) 桑原隲藏
 清国に於ける電話事業(承前) 虚人
 北清事変回顧録(承前) 随軒
 北京に於ける天主教 幽里人
 十三行記(完) その一人    
 湯山日記(完) 新泰獅稿
 變聲語義(五) 杢造
 支那宿の落書 松涙生
 忙中閑語   没法子
 ヨーチャンの気焔 塘沽 その親仁
 豚の膓    ヽヽヽ同人
 隠し芸    四畳半
 門頭溝    狂歌仙
 瓦屑     十二月菴
 塵塚     三面子
     雑報
 燕京たより  不倒菴
 編輯たより  遠甚子
     鴻便
 上海たより  平井徳藏
 新疆たより  林募勝
 滬上たより  含澤生

 燕塵 第十二号  明治四十一年十二月一日発行(非売品)

 表紙画図案「掛白」 秋野外也
 梓宮前に於ける公使団の弔唁式 同哀生
 監国考    随軒
 時局所感   陣笠
 在清国各国宣教師の医学宣伝現況(承前) 峡籟生
 清国に於ける電話事業(承前) 虚人
 電話度数料金制度に就て 虚人
 居庸関の壁文及其彫刻美術に就て 寺本婉雅
 北京の本屋  蠛子
 ドーダカ叢談 白耗子
 ザックバラン 藪唐坊
 シンシの徳義 白帽盔
 媽々     尺寸先生
     雑報
 燕京たより  不倒菴
 〇清国両宮の崩御附北京市内の状況〇上諭集
 〇燕京に於ける二侯一子〇人事会集
 編輯だより  遠甚子
     鴻便
 滞京の諸卿に致す 在阪 高橋天豪
 晋豫だより  星川生
 新疆たより 在廸化 林出生
     附録
 清国皇室御系図      
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『津門』 津門社 (天津) (1910.2-)

2015年04月14日 | 清国 日本人
        

 〔本誌発行の趣意書〕

 拝啓刻下日に増し気候緩和に相向申候処貴下益々御清祥の段奉賀候
 却説今回当地在留の同好者諸子発起人となり聊かなりとも支那の国勢に関する諸般の状況を洽く周知せしめ度き微衷と且は互に消息を漏らして娯楽の機関に供したき趣旨に基き雑誌津門を発行し之を知己朋友の間に頒配仕候
 尚ほ本誌は将来益々改良を施す必要も有之候就ては其維持発展は一に諸君の御同情に基くの外他に適当の方法も無之候に付本雑誌発行の経費を支持するため会員組織となし天津在留会員を正会員とし毎月一弗を会費として徴収うるの外地方に在て本会の主旨を賛成せられ好意を以て金員を寄附せらるゝ諸君を地方会員となし此に対して雑誌を贈呈することゝ定め候に付御賛成の諸君は御申込被下度茲に雑誌一部を贈呈し得貴意候也
                                        清国天津日本租界常盤街四九
                                     津門社委員
                                  各位
 津門 第一号  〔明治四十三年二月十一日発行〕

 発刊の辞

 敢て『燕塵』の後塵を拝せんとうるにあらす、敢て『江漢』の余流を掬まんとするにあらす、津門同好の士か職業の異同と年齒の長幼とを論せす余暇時に相会して互に闘はす議論雑談放言の類を活字てふ文明の利器を利用して小冊子となし一は以て同好の士に頒ち一は以て無責任なる放論を他日の左験に残さんとうるのみ
 若し世間『津門』の主義主張を問ひ抱負希望の如何を尋ぬる者あらば乞ふ去て白河の流水を見よ、白河の水は未た嘗て其の存在の理由を語ることなくして万世溶然として東流するにあらすや
 唯白河は一なるも水に清濁あり流に緩急あり『津門』と雖も会員の意見は其の面貌の如く異ならん、判断評価は読者のことにして発行者の知る所にあらさるなり

  

   天津日本租界旭街(河野写真館撮影)
   同  白河   (同上)

 時事の感 … 雲外
 祝津門発刊 … 豊島桑弓
 同     … 上野●羯
 不得要領の記 … 牛涎居士
 天津案内記  … SH生
  (一)天津の昔時
  (二)直隷総督の起り
  (三)天津警察の起り
 新雑誌に望む … 新来生

 一時萬を以て数へられたる在日清国留学生は今や僅に千余に下り日人の清国招聘者は日に其数を減じて又昔日の勢なし日清戦後より日露戦役後に及び清国官民が一時我に信頼したるが如き盛時は復た遂に見る事能はざるか
 事の茲に至りたるに就ては其原因固より少からずと雖要するに邦人が清人に対する途に於て甚だ失当の事多きによる其一は則ち邦人の言議を妄りにするにあり
  
 天津審判庁を観る … SH生
 清国民現代の時代精神 … 木戸郎
 明治四十二年の銀塊相場 … 小心生
 責ふさ記 … ひま生
 汝斬られても死なむ覚悟あるか … KN生
 仏字新聞の所論 … SМ生
 外貌学上より見たる支那馬と価値 … 冀北道人
 支那俚諺訳解 … 美智春
 今のハイカラと武術 … 武狂生
 津門日記 … 孔方兄
 三日旅行 … 古狂生
 口外の銃獵 … 北嶺
 同気会 … 花外
 郷里の友へ … ゆき子
 天津の名物揃ひ … 両巴生
 詞苑
 玉突会に望む … 六十三組の一人
 義太夫の話 … 養軒生
 曽国藩日記の一節 … 一葉
 暖炉問題 … 哈々道人
 租界の三幅対 … 浮世道三五
 社告

   ◎本社の簡章
  一、天津在留者にして毎月銀壹弗の会費を納むるものを以て正会員とし雑誌若干部を送呈す
  一、天津外に在留せるものにして本社に金員を寄附したるものは之を地方会員とし毎月雑誌壹部を送呈す

  明治四十三年二月 十日印刷
  明治四十三年二月十一日発行

    発行兼編輯人  清国天津日本租界常盤街四十九號 田中清
    印刷人     清国天津日本租界壽街三十六號  津田清之助
    印刷所     清国天津日本租界壽街三十六號  北清印字局
    発行所     清国天津日本租界常盤街四十九號 津門社

 津門 第貳號  〔明治四十三年三月十五日発行〕

  第二号目次

 西蔵問題の観測  牛涎居士
 清国軍隊の西蔵侵入  北嶺生
 佛字新聞の所論  SМ生
 摘食論  呑雷
 雙龍寶星  頑骨
 在理会  寂寞道人
 天津審判庁を観る  SN生
 天津案内記 第二回  SN生
  (四)天津城壁の今昔
 天津の誇り  香圃
 津門開く  五十男
 娘々宮  松涙生
 支那俚諺譯解  美智春
 平仄と北京語の聲との関係  馬吉
 曽国藩日記の一節 (二)  一葉
 三日の旅 (二)  古狂生
 口外の銃獵 (二)  北嶺
 天津陸上運動会  花外
 ひた振ひの記 ぶるゝ生
 義太夫の話 (二) 養軒生
 支那人の迷信と奇談 哈々道人
 詞苑
 津門日記 孔方兄
 天津看板のぞ記 慢々道人
 雑報 ●載濤貝勤 ●編輯余録
 社告

 

    禁衛軍大臣載濤貝勤 記事参照

 津門 第三号  〔明治四十三年四月十五日発行〕

  第三号目次

 春 茶目坊
 民国法施行規則の改正を要す 凸坊
 英国も亦我を怕る 水天
 天津青年諸君に英語字典の研究を勧む NМ生
 清国憲政予備概観 NМ生
 清国財政資料 凡々生
 鉄道借款問題 北馬生
 星龍寶章 頑骨
 在理会 寂寞生
 支那人の三特長 五十男
 天津案内記 第三回 SH生
  (五)天津洋務局の今昔
 曽国藩日記の一節 (三) 一葉
 大聖釈迦 松蘇水
 偶感 蘇の水
 有耶無耶論 呑雷
 支那の言文一致体 美智春
 支那俚諺譯解 美智春
 両宮西南播遷の顛末 馬脚散人譯
 興清傳 (一) 野史子
  (一)闖王李自成
  (二)奸党の陰謀
 痛恨 ゆき子
 詞苑
 天津の銃獵界 新天狗
 津浦鉄道工程時間発車表
 塔爾巴哈台の学堂
 話の話
 京津似顔の見立
 雑報
 山東通信 済南子
 津門日誌
 会員彙報
 証書授与式
 唐山セメント公司拡張
 社告

  三月二十三日天津尋常高等小学校証書授与式
  三月七日降雪中の大和公園

 津門 第四号 〔明治四十三年五月十五日発行〕

  第四号目次

  ◎評論
 清国の華と謂はん乎 編輯小僧
 佛字新聞の所論 SМ生
 経国の大事不朽の盛事論 五十男
  ◎雑録
 両宮西南播遷の顛末 (二) 馬脚散人
 曽国藩日記の一節 (四) 一葉生
 北方の名儒劉因の従祀 北嶺生
 国会速設請願運動の其後 TK生 
 黄河 北嶺馬
 日清用語対照 洋鬼子
 義太夫の話 養軒生
 狩水精舎雑筆 狗狼判官
 北洋法政専門学堂沿革 編輯小僧
    (本校の特色は日本語本位)
  学堂設立の目的
  建築費用及毎年の経費
  各科の成績
  附属簡易科
  附属中学部
  幹部及職員
 天津案内記 第四回 SH生
  (六)天津工巡捐局
 天津の下層生活 (一) 編輯小僧
 支那俚諺譯解 美智春
 支那の言文一致体 美智春
  ◎文苑
 紫竹亭之記 狩水生
 孤独 血瀾生
 涙 凡生
 俳句 
  ◎諧謔
 津門女傑 葫蘆生
 照魔録 玄々道人
  ◎各地便り
 南洋博覧会 子龍生
 上海便り 仝人
 風の便り 満州太郎
  ◎北清紳士録
 陳直隷総督 ▲▲生
 津門日記
 編輯余録
 社告
  ◎行春の名残
 運動会
 新河花見
 乗馬会
 テニス会
 招魂祭
 音楽会

 

  北洋法政専門学堂(記事参照)
  紫竹亭(記事参照)

  津門 第六号 〔明治四十三年七月十五日発行〕

  表紙 満漢文字の津門

  第六号目次  〔明治四十三年七月十五日発行〕

  ◎天津の将来に関する諸氏の意見
 天然と闘ふは不利なり 三井支店長   安川雄之助氏
 塘沽築港と農業振促  吉田洋行主   吉田房次郎氏
 太沽及秦皇島     郵船支店長   豊田●吉氏
 白河の浚渫は無論必要 大阪商船会社  安田安太氏
 白河太沽の改修に就て 大倉洋行支配人 菊池季吉氏
  ◎論説
 東洋思想の将来 五十男
  ◎雑録

 

 邦人関係の学堂官衙(北洋高等巡察学堂)
  ▲学堂設立の目的
  ▲学堂の廃合及沿革
  ▲本学堂卒業生
  ▲教授科目
  ▲現任総辨及日本教習
 両宮西安播遷の顛末 (四)
 高柳君訳のロバートハート伝 狩水
 清国新旧貨幣の処分 齊東隠士
 北清の気温 神原生
 清国に於ける日本郵便局 YW生
 天津案内記 SH生
  (八)天津知県衙門
 邦人の注意事項 津門生
 津浦鉄道分站問題 津門生
 武術の秘訣と臍 武狂生
 入蜀日記之一節 北京 寒蛇生
 草鞋の迹 北京 旋風生
  ◎北清紳士録
 王賢賓氏(天津商務総会総理)
  ◎交隣須知 
 支那俚諺約解
 支那の言文一致体
  ◎清国叢話
 百舌鳥の洗藻
  ◎廻訪録
 天津に於ける外国医術(平賀顧問談)
  外国医術の濫觴
  外国医学研究機関の概況
   ▲北洋医学堂
   ▲北洋軍医学堂
   ▲北洋女医学堂
  漢方医との関係
  支那人の対医術概念
  ◎各地便り
 口外見聞(二) 豊鎮 漠南生
  ◎短編小説
 緊急問題 (二) 北京 血瀾生
  ◎文苑
 漢詩 保定 籾山衣洲
 和歌 凡生
 発句数編
  ◎雑報
 数件
 津門日記

 

  秦皇島の桟橋左に微かに見ゆるは軍艦
  張家口外蒙古人テント家屋(河野写真館寄贈)

  第八号 津門  〔明治四十三年九月十五日〕

  第八号目次

  口絵
   ◎論説
  清国に於ける婦人の位置 高柳生
  清国鉄道の現勢     北嶺生
  世界に於ける海底電線  YМ生
   ◎雑録
  両宮西安播遷の顛末(五)
  北清人と回回教     五十男
  本年八月の気候概要   KK生
  苗族          北嶺楼人
  中国商業不振の原因   某清人

 

  邦人関係学堂官衙(天津高等学堂) 涙仙生
   開設の由来
   日出学館時代
   天津普通高等学校時代
   天津高等学堂時代
   修業年限及び学科目
   共立小学堂
   現在の状況と将来の希望
  清国内地旅行      赤城画伯談
  脚力の練習       神田ノ兄イ
  二閘行      北京 血瀾生
  満州演奏旅行      楽童
  孔子祭を観る      北嶺
  支那俚諺訳解   天津 美智春
  支那の言文一致体 天津 子方生
   ◎各地消息
  伯林より        中嶋半次郎
  弘前より        那須太三郎
  北京より        鉄公鶏
   ◎北清紳士録
  直隷巡警道舒鴻貽君
   ◎文苑
  関嶺紀遊(漢文) 傲霜窟陳人
  亡児記      凡生
  漢詩       年
  城址       萍村生
  舟の一夜     わか子
  発句       白水生
   ◎天津風俗画報
  天津の湯屋
   ◎支那事情問答
  答案及問題
   ◎筒の音
  軍糧城の鴫打   凸坊
  秋獮       華兒香
  租界の鉄砲組   新参者
   ◎雑報
  米国渡清実業団、秋季陸上運動会、津門発起人会、其他数件

  津門 第貳年 第一號  〔明治四十四年一月十五日発行〕

   目次

 口絵 西蔵達頼喇嘛の宮殿、支那風俗高脚

   ◎論説
 津門の憲章

 津門創設当時に於ける発起人は小幡酉吉、菊池季吉、豊田●吉、福山義春、森本啓太郎、原田俊三郎、矢田七太郎、松村利男、山下竹三郎、田村俊治、吉田良継、西村博、早川吉次、今井嘉幸、山根虎之助、田添豊造、鈴木藤藏、安達傳一郎、牧野田彦松、西村虎太郎、瀬上怒治、小田切勇輔、岡島光久、嘉悦敏の諸氏なりしも今や森本氏は大連に去り、嘉悦氏は東京に去り、山根氏は山口に去り、小田切氏他界に逝き、前後六名の発起人を失ひしとは雖、尚ほ十有八名の発起人のあるあり大に我徒の意を強ふするに足る
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「清国の夏」 吉野作造 (1909.8)

2013年10月05日 | 清国 日本人
 「清国の夏 吉野作造」は、明治四十二年 〔一九〇九年〕 八月発行の『新人』 第拾巻 第八号 に掲載されたもので、その中に、明治三十九年 〔一九〇六年〕 六月一日、吉野作造と袁世凱〔直隷総督兼北洋大臣〕との面謁の記述がある。〔上の写真は、『グラヒツク』より〕

 清国の夏 
          吉野作造

 まる三年滞在して居たうち、最後の年は暑中休みで帰朝して居たから、ツマリ支那の夏は二度経験した訳である。而かも一度は主として満州奉天で、一度は専ら天津で。

 ・三十九年の夏

 は主として奉天で過した。六月十五日に天津を出発し十八日奉天に着し、九月七日奉天を発し九日再び天津に戻る。支那の此辺の夏は五月半ば過を以て始まり九月半ばを以て終るから、夏の盛り凡そ八十日間は満州の野に放浪したのである。予の始めて天津に着いたのは二月であるが、予の雇主袁克定君は、急に勅命に依て奉天に仕官する事となり、同月下旬満州に出発した。而して親爺の袁世凱氏は、何か此際予の奉天に隨従するを好まぬ事情ありと見へ、久しく天津に予を遊ばして置いた。五月下旬に至り親爺の許諾を得たものが急に奉天より来て呉れと云って来たのである。一寸茲に袁克定君のことを話しておく。

 ・袁克定君

 は、時の直隷総督袁世凱氏の長子で、其嫡妻の独り子である。袁氏には子が多いが多くは妾腹である。其時克定君は数え年二十八才であったが、風采も性質も頗る御坊ッちゃんであった。号を苔といふ。総督附の日本語通訳金在業といふ朝鮮種の男がオンタイサンゝといふのが何の事か分らなかったが、後に克定君のことと分った。吾々は少爺 シャオエー と呼んで居る。若旦那の意である。此の少爺は、御自分で思ふ程偉くは無いが、親爺の威光で正四品を賜り、文官としては候補道台武官としては何とやらいふ日本の陸軍少将に相当する称号を貰って居る。制服を着て剣を握って撮った写真は、四ッ切大に引き伸ばして書斎の飾となって居る。予の赴任した頃は、別に現官を奏せず、親爺の下に読書三昧に耽って居た。彼れの読書好きなのはまた格別で、親爺が奨励など少しもせぬに拘らず、日本の新刊のあらゆる法政経済の書物を買ひ集めて勉強せんと心掛けて居る。是れ丈は誠に感心した。予の行く前は、直隷総督の招聘せる日本教習を引請して、日本語やら何や彼やを学んで居ったが、遂に専属の教習を雇って、かねて買ひ集めて居る日本の書籍を片ッ端から読破しやうとの決心から予を雇ふ事にしたのである。親爺の方はどうかと云ふに、少爺の勉強するのは余り好まぬらしい。ナゼといふに、少爺は元来蒲柳の質である。両三年前虎列拉に罹って九死に一生を得てよりは、殊に親爺の神経は過敏になり、勉強などしなくても身体さへ丈夫で居て呉れゝば宜いといふ考になったからである。曾って斯んな事があった。少爺日本に留学して勉強して見たくて堪らぬが、両親の許諾は之を得る見込みもない。そこで密に家を逃げ出し、三井洋行の周旋で日本船に乗り込み、遥かに海をこえて留学の素志を果さんとしたが、船に乗り込んだばかりで追手の捕まる所となったといふ事である。之も親爺が専属の家庭教師として僕を雇ふことに同意した つの原因であると後で聞いた。兎に角少爺は身体が弱いといふところから、両親の甘やかして育てた子である。袁世凱といふ人は元来が子供に甘い人なさうだ。であるから年既に二十八歳に至ると雖へども、支那人に珍らしい単純の人で、頭脳明晰と聡明好学といふことより取り柄のありさうに見えない人だ。袁世凱氏はその時年四十七だから、彼の二十八歳の頃は、李鴻章門下の麒麟児として嘱目されたものだ。明治十七年馬建忠と共に京城に我が竹添公使をイジめたのは二十五歳の時である。勿論親爺は多少早熟と云はゞ云へるけれども息子さんの方は晩成した所が親爺程には行かぬらしい僕の行く一年前には、時の山東巡撫楊士驤が、袁克定を引き立てる積りで(ツマリ袁世凱に対する一の御奉公たが)自分の幕賓として高禄を以て迎へたが、二ヶ月ばかりで飛び出して来た。奉天に行ったのも同じ理由であって、ツマリ時の奉天将軍張爾巽が、馬賊の討伐の為め袁世凱より直隷陸軍の兵隊を借りて居たが、一ツには之等の兵隊を操縦する便宜上、一つには袁に対する御奉公の積りで、克定君を迎へたのである克定君は奉天で将軍の幕賓たる待遇を受け、営務処総弁といふ栄職に坐して居た。
 少爺は奉天でも永続きはしなかった。汽車の便があったものだから、二ヶ月に一度位は必ず天津に帰り、二十日位滞在して暫く家族の間に旅情を慰めて居ったが、遂に堪え切れずして、些末の事に腹を立て八月中旬辞職して天津に帰った。従って予も奉天には留まること三ヶ月に足らずして再び天津に帰ることになったのである。
 併し先きに奉天から召命を受けた時は、斯んなに早く帰るとは思はなかった。多分奉天に居るうちに約束の期限も来て、其儘帰る事になるかも知れぬと思ったから、一度親爺に会って置きたいと思って金在業といふ男を頼んで面会を乞ふた。一寸横道だが、

 ・金在業

 のことを話して置く。此男は袁世凱氏の日本語通訳にて元は朝鮮人である。日本語の巧なることは驚くべきもので、誰でも始めて遇った者は日本人の支那装して居るものとしか思はない。此男の云ふ所によると、自分は朝鮮釜山の者で、両親は自分の生れぬ前から日本に商業をして居った。無論自分は日本にて生れた者である七歳の時横浜にて親父に死なれ、其後十九歳の歳まで長崎の高橋某氏に養はれ、其間辛さに艱難を嘗めた。十九の年から天津北京の地方に来て支那語を勉強した。今日は袁閣下の御引立に依って支那に帰化し、日韓両国語の通訳を勤めて居るが、元とゝ自分は日本に生れ日本人に養はれ、云はば日本に対して大恩を受けて居る者であるから、自分は幸ひ通訳の職に在るを利用して大に日本人諸君の便利を謀り、以て昔日の恩に酬ゆる積であるなどと云って居た。実際予に対しても頗るつとめて呉れた。之は慥かでは無いが、袁家の或る支那人の言に依ると、彼は袁世凱氏が朝鮮公使在任中手に入れた第三の寵妾金氏の兄ださうな。様子を見るとどうも本当らしい。
 話が後に戻る。かねゝ頼んで置いた

 ・袁世凱に面謁

の願望は愈六月一日御許が出た。一体袁世凱に遇ふといふことは容易の事ではない。予は到る処で、「支那人は直接遇つて見ると非常に愛嬌があるが、相見ぬ中は馬鹿に尊大に勿体ぶる」といふ事を云ふが、特に総督ともなると勿体ぶること王侯も啻(ただ)ならずである。予の如きは愛児の教師であるから、向ふから訪問して来なくても、不取敢僕を丁重に招いて宜しく頼む位の一言あるべきことゝ思ふのであるが、彼は中々勿体ぶつて之れ迄数度会見を申し込んだけれども、成功しなかつた。会見を申込んで其承諾を待つといふ様な対等の言葉では、勿体ぶる有様を形容することが出来ぬ。寧ろ拝謁を懇請して、御〔許〕しの御沙汰を待ちはべるとでも云つた方が適当であらう。

  袁氏に面のあたり遇つたのは此日が始めだけれど、同氏を見た事は度々ある。それは同氏が外国領事館を訪問するというやうな場合に、往来で馬車の窓から顔をのぞいたのである。此際の行列も一寸主上の御通りといふべき位の仰々しさである。先づ出門三十分前に号砲三発を以て合図し、此れに依りて巡会は通行を止めて往来を警戒し、やがて後先に一小隊位の騎馬の護衛兵と、同じく騎馬の供奉員数十名を従ひて静々と乗り出すのである。この際彼の性格を現はす一つの面白い事がある。彼は往き道には必ず往来の左側の民家に目を注ぎ、決して右側を見ない。返り道には又必ず反対の側に目を注ぐ。之を彼が民情に通せんと欲する心の切なるを示すものと半可通の支那人は馬鹿に感心して居るけれども、予等より見ればこは彼の細心と小策とを遺憾なく発揮せるものと思ふ。

  六月一日は来た。丁度珍しく涼しい日であつたから、夏物のズボンに冬物のフロツクコートを着けて、午後二時といふ約束の時間に遅れじと総督衛門に車を走らした。刺を通じて先ず金在業を呼んで貰ひ、応接間に五分間ばかり待つてゐると、金君が来て総督は直に御目に掛るさうだ此方へと誘ふ儘に猶奥の方へ行つた。途中に雑役雲の如く群がり居て一々起立最敬礼をあびせらるゝにはチト面喰つた。約一町ばかり廊下を伝つて行くと、とある左側の戸口の処には粗末な綿服を着けた小作りの老翁が、余を予を見るや嫣然として握手を求むる。見れば写真通り又かねゝチラと見ておいた通の総督であることは、金通訳の紹介あるまでも無く知られた。之れ迄の勿体ぶつたに似ず、遇つて見てニコゝ握手を求むるといふ軽快な態度にはまた面喰つた。招ぜられて部屋に入る。見るに真中に三尺に五尺位の卓子があり、其廻りに粗末な椅子が五六脚ある。隅の方にも机と椅子とありて書類が堆(うずたか)く積んである。凡て洋風であるが、其粗末なには驚いた。部屋は約二十畳位であるが、装備は何も無い。何よりも驚いたのは袁氏の垢じみた綿服をだらし無く着てゐる事である。之も後で分つた事であるが、支那人は一般に人の目のつく処は馬鹿に贅沢たけれど、人の目につかぬところは非常に倹約である。衣食住ともに、客の前とは雲泥の差である。袁氏は机の正面に腰を下ろし、予は其右手に、金通訳は子に対ひ合つて座つた。一と通り時候の挨拶が済んでから、袁氏は、息子は身体が弱いから余り過度の勉強せぬ様注意して呉れ。奉天は気候も違うし且戦後日浅く色々複雑な処だから、身体もどうだらう、仕事も旨くやれるか心配で堪らぬ、などの話があつた。夫から日本の気候はどうの、渡清するときは 難儀したらうの、妻君や子供衆は御機嫌がいゝかの、天津に来て病気せぬかの、何か不自由は感ぜぬかのと、のべつに喋り立て、約三十分間は予に一言も吐かせぬ。やがて袁氏は茶を啜り、予にも呑めといふ。予も呑んだ。スルト金通訳は、御用談も済んだから御暇しませうとて起つた余も已むなく起つた。袁氏は戸を明け、内門まで送り出し、二三度手を握り交して分れた。之も後で知つた事だが、貴人と会談して、主人が茶を呑めば客は必ず同じく茶を呑んで辞し帰るべきものださうだ。若し主人が客の帰ることを求むるの に非ずして茶を呑むときは、「御随意に御喫がり下さい」と屹度云ふものなさうだ。否らずしてイキナリ茶碗に手を掛くるは、辞帰を求むるの合図であるとの事である。シテ見ると袁氏と予との会見も、約三十分間一言も吐かざれずして、体よく追ひ返された訳になるので、考へて見ると馬鹿らしいが、併し其当時は、話し振りの如何にも打ち解けた、且愛嬌滴るばかりの容貌にて親切なる言葉を向けらるゝので、特に手を握るにも如何にも親情を込めたるらしき念入りの堅い握り様で、予は慕はしいやうの感情を持つて分れた。少くとも決し悪い感情は蕗ほども起こさなかつた。今から回想すればツマリ首尾能く翻弄されたのだが、併し応対振の巧妙を極むることは感服に堪らない。アレデは外交官も余程シツカリせぬとやられる哩と思はざるを得ない。

  袁世凱氏の容貌は能く雑誌の口絵などて見るが、ソックリ其儘だ。写真で見ると眼は鋭いが、実物は夫れ程で無い、光沢があつて一種の引力がある。色濃く頬豊に、鬚は半面以上だ。頭も余程禿げかゝり、僅に垂れたる辮髪も霜を帯ぶること深い。五十前の人とは思はれぬやうだ。心配の多い為めであつたらう。身の丈はヤット五尺位で、小肥りに肥つては居るが、脂肪質で、根は頗る弱かりさうに見えた。

  夫から愈(いよいよ)奉天行の準備に取りかゝり北京にも一両日見物に行き、六月十五日愈々半年の知己たる天津に惜しき別れを告げた。此項は頗る暑く、夏の真盛りであつた。一体

  ・北清の夏
  ・奉天に着いた
  ・初めての家住ひ
  ・馬賊襲来の噂

  

  上左の写真:『THE CHINESE REVOLUTION』 1912年 掲載のもので、著者J.BROWN が袁世凱より贈られたもの 1909年
  上右の写真:「中華民国大総統袁世凱閣下 Mr. Yuan shih-kai, The president of China.」とある絵葉書のもの〔臨時大総統時〕 

 なお、袁世凱の墓、「袁公林」(袁林:安陽市博物館)は、旧河南彰徳上村東北隅の太平庄〔現在の河南省安陽市(殷墟で有名)北郊郷安陽橋北:洹水北岸〕にある(「袁林与袁世凱」安陽市博物館)。実際、墓は立派なもので、皇帝の墓にふさわしい。牌楼門から、陵道には文官や武官・石獅や石虎、さらに碑亭には「大総統袁公世凱之墓」とある墓碑などもある。以前読んだ雑誌には、墓の詳しい説明があり、中国式とドイツ式が半々との説明があったように記憶する。〔下がその墓、以前撮影したもの〕

 
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『在清記念帖』(小畑勇吉)(福州) (1909.12)

2012年09月17日 | 清国 日本人
 在清記念帖 

 合同

 大清国福建学務公所議長師範学堂監督與大日本国小畑勇吉氏合意訂立約款如左

 第一條 延請小畑君為福建師範学堂教習兼高等学堂教習教授鉱物兼地質学及日語科
 第二條 小畑君以到閩第二日起算毎月給薪水食料費住宅費及與壹百捌拾元此外不給他項雑費
 第三條 小畑君初次由日赴閩及合約期満由閩帰日川費各給龍銀壹百元
 第四條 学堂暑假冬假期内如帰国或旅行照常支給薪水但須照堂中所定假期内到堂如有遅延計日減扣薪水
 第五條 約期末満以前小畑君自行退辞学堂不給川費若学堂将小畑君辞退應送龍銀壹百元作為川費彼此均須前一個月通知
 第六條 授課時刻及次序均由学堂指定但授課時刻毎週至少不得減二十四時至多不得逾三十時
 第七條 小畑君應遵循監督調度及学堂一切定章
 第八條 小畑君於所授功課有所擬議須向学堂監督商量可否由監督定之
 第九條 小畑君如因疾病及有本学堂認為不得已事故時告假一連三十日不計外此後如仍未能授課者應減束修之半唯従停課之日始三個月後仍未能授課此約作廃
 第十條 小畑君於両学堂外未経監督承認不得就他聘
 第十一條 小畑君無論在堂内外毎日必按堂章所定時間上堂授課
 第十二條 此約以光緒三十四年正月一日起至光緒三十五年十二月末日止為満期
 第十三條 此合同各執一紙為憑彼此遵守不得異辞

 光緒三十三年 〔明治四十年:一九〇七年〕 十二月廿九日

 大清国福建学務公所議長師範学堂監督陳宝琛 代理人 鍾麟祥 【印】
 大日本国            小畑勇吉         【印】

    添註壹字

        

 この記念帖は、24センチ、全長12メートル。
 見返しには、上の契約書〔合同〕及び博物班全体学生の感謝の辞などが添付されている。
 内容は、教えを受けた博物班学生約五十名が、日本人教習の小畑勇吉氏の帰国に際して贈った詩・書・画などである。〔下は、その一部。学生氏名は省略。〕

   
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『沿革史』 東亜同文書院学友会 (1908.6)

2012年06月15日 | 清国 日本人
 表紙には、「明治四拾一年六月編纂 沿革史 日清貿易研究所 東亜同文書院」とある。奥付には、「明治四十一年 〔一九〇八年〕 六月廿日発行 (非売品) 印刷所 〔清国上海〕作新社 発行所 東亜同文書院学友会」などとある。22.1センチ。 

 掲載の写真は、以下のとおり。 ※( )は、目次の記載
 
 ・故近衛篤麿公(故近衛公爵肖像) 
 ・故子爵長岡護美氏(故長岡子爵肖像) 
 ・故総参謀長子爵川上操六氏(故川上参謀総長肖像)
 ・根津一先生(根津院長肖像)
 ・宗方小太郎先生(宗方小太郎先生肖像)
 ・故荒尾精先生(故荒尾精先生肖像)
 ・故岸田吟香氏(故岸田吟香翁肖像) 
 東亜同文書院光景
 ・校門(校門附近ノ景) 
 ・食堂(食堂)
 ・学友会端艇部(学友会端艇)
 ・校舎並ニ寄宿舎(教堂並ニ寄宿舎ノ一部)
 ・消費組合(消費組合)

 沿革史編纂ニ就テ 松岡恭一 山口昇

 沿革史 上編 日清貿易研究所

 緒言
  第一章 根津院長談日清貿易研究所史
  第二章 宗方小太郎氏懐旧談
  第三章 日清貿易研究所生徒教育ノ精神要旨
  第四章 日清貿易研究所規則要旨
  第五章 滬学広懋同窓会規則
  第六章 日清商品陳列所創立趣旨
  第七章 日清商品陳列所規則概要
  第八章 日清貿易研究所之歌
  第九章 東方斎荒尾精先生之伝
  第十章 東方ノ大勢ヲ論ジテ対清問題ノ重要ヲ述ベ我国百年ノ長計ニ及ブ
      (故荒尾精先生著対清意見ノ一節)
  第十一章 岸田吟香翁紀効碑銘
  第十二章 日清戦争殉難烈士表紹録

 附図 東亜同文書院平面図 縮尺 三〇〇分の一 (明治四十一年五月十七日現在)
 下編 東亜同文書院

  第一章 東亜同文会ノ設立並其事業
  第二章 南京同文書院
  第三章 東亜同文書院ノ創立

 初メ書院ヲ南京ニ設立スルヤ同地ハ長江上下両遊ノ間ニ位スル枢要ノ地ナルノミナラズ古都ノ美風今尚存在シ学生養成ノ上ニ多少他ニ優ル所アルヲ以テ其ノ位置ヲ此処ニ定メタルモノナリ。而シテ之ヲ上海ニ移セシハ北清事変ニ対スル一時ノ権宜ニ出デ事変ノ鎮定ト同時ニ南京ニ復スルノ予定ナリキ。然ルニ熟上海ノ形勢ヲ察スルニ同地ハ清国商業ノ総匯ニシテ内外貿易ノ中心タルノミナラズ将ニ社会上政治上外交上ノ中心タラントスルノ状アリ是ヲ以テ内外言語ノ研究ニ於テモ将タ東亜ノ大勢ヲ知リ清国ノ状勢ヲ調査スル上ニ於テモ労ヲ費スコト少クシテ功ヲ収ムル事多キヲ観。遂ニ書院ヲ南京ニ復サズシテ永ク上海ノ地ニ置クニ決シ茲ニソノ名称ヲ東亜同文書院ト改メタリ。 
 〔以下省略〕

  第四章 創立東亜同文書院要領
  第五章 東亜同文書院章程
  第六章 東亜同文書院重要日誌
  第七章 東亜同文書院現況
  第八章 外人ノ見タル東亜同文書院
  第九章 故近衛公爵演説東亜同文会ノ目的
  第十章 故長岡子爵
  第十一章 故佐々友房氏演説東亜同文会ノ起源並東亜ノ現勢
  第十二章 吾人之本領  
 
 附表 在清国東亜同文書院卒業生就職一覧表、就職地方別一覧表

 附録 
  東亜同文書院学友会々員名簿録(明治四十一年五月二十日調)
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「記念帖」 清国上海東亜同文書院 (1909.10)

2012年06月03日 | 清国 日本人
 表紙には、「第六期卒業生 記念帖 清国上海東亜同文書院」とあり、奥付には、「明治四十二年 〔一九〇九年〕 十月廿五日発行 (非売品) 発行者 東京市赤坂区溜池町 東亜同文会 松本忠雄 印刷所 東京市小石川区久堅町 精美堂」などとある。18.8センチ。

  

 ・母校正門〔下の写真〕、母校講堂ノ一部

  

 ・母校寄宿舎(北寮)、母校庭園〔下の写真〕

  

 ・上海帝国総領事府、城堭廟
 ・上図 西湖湖畔雷峰塔(曾遊記念)、下図 清国上海市街(正金銀行楼上ヨリ見タル)
 ・東亜同文書院第六期生(華族会館ニ於ケル)
 ・鍋島会長一行来院記念
 ・第二年端艇競争優勝記念
 ・優勝記念 第三年端艇第一撰手、第二年端艇第二撰手
 ・東亜同文会々長 鍋島侯爵、東亜同文会副会長 清浦子爵
 ・東亜同文書院々長 根津先生、東亜同文書院教頭 上野先生

  

 ・東亜同文書院教授 福岡先生、東亜同文書院教授 中川先生、東亜同文書院教授 森川先生
 ・東亜同文書院教授 布施先生、東亜同文書院教授 大村先生、東亜同文書院教授 青木先生
 ・東亜同文書院 小田寮監、東亜同文書院 和田幹事、東亜同文書院 品川校医
 ・東亜同文書院教授 大原先生、東亜同文書院教授 橋詰先生、東亜同文書院寮監 土屋先生
 ・東亜同文書院助教授 松永先生、東亜同文書院助教授 辻先生、東亜同文書院 佐藤事務員
 ・東亜同文書院講師 Rev.H.V.S.Myers.、〔以下、東亜同文書院講師 中国人3名省略〕
 〔以下、86名の出身県名付の生徒写真17頁(各頁生徒5名:最終頁のみ6名)は省略〕
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『清国写真帖』(写真画報臨時増刊)(1906.2)

2011年12月23日 | 清国 日本人
 表紙には、「写真画報臨時増刊第一巻第三編 清国写真帖 博文館発行」とある。奥付には、「明治三十九年 〔一九〇六年〕 二月廿日発行」とある。26.2センチ。

 ●清国写真

 ◎西太后陛下(光沢三色刷) H.I.M. The Empress Dowager of China.

  

  大清国当今慈禧端估康頤昭豫荘誠壽恭欽献崇熙聖母皇太后は清国実際の主権者にて、現皇帝の生母なる醇親王妃殿下の姉に御座しまして、齢既に八十に近きも、なほ不老の仙女に似たりといふ。
  Her Majesty is said to be the real ruler of the Empire. She is the elder sister of the consort of the late Prince Ch’un, the mother of his Majesty the Emperor.

  ◎出洋大臣載澤親王殿下(アート) ◎清国皇室の各殿下(同)◎清国文武の大官(同)◎北京皇城大清門前(同) ◎蘇州城外の方塔(二色刷) ◎杭州海鹽城外の牧馬(同) ◎北京正陽門外駱駝の通過 ◎北京城崇文門内 ◎北京日本公使館門前 ◎故李鴻章伯 ◎北京崇文門外の城壁 ◎北京城外の駱駝群 ◎北京正陽門外大街 ◎北京皇城内 ◎北京皇城の内外 ◎北京城外に偉観

 ◎北京東文学社生徒 The Students of the Peking Tung-wen College.

   

  前列の向て右端なるは総教習中島裁之氏にて、其の左方に洋服せる二人は何れも日本より聘したる教員なり。 

 ◎日本留学後の清国学生 The Chinese men who formerly at Japan as the students.

   

  是れ皆な曾て北京大学堂より選抜せられて日本に留学し、卒業後帰朝したる人々にて、、記念の為に大学堂前の撮影なり。中央の日本人夫妻は、北京大学堂総教文学博士服部宇之吉氏及同夫人にて、他の諸氏は帰朝後皆な要路に登用せられたるなり。
  The Jpanese gentleman and lady in the photograph are Dr.Hattori, the principal of Peking University, and the his wife.

  ◎北京城外玉泉山 ◎奉天府の宮殿  ◎奉天府の城門と高塔  ◎奉天の楽人と楽器  ◎ 天津城の内外 ◎通州の舎利仏塔 ◎万里長城  ◎蒙古熱河八大廟の一  ◎山海関と秦皇島  ◎芝罘港  ◎上海の全景  ◎上海の湖心亭  ◎蘇州の風景  ◎蘇州の水陸  ◎蘇杭の勝区  ◎西湖々畔岳忠武公の墓 ◎鎮江の金山寺 ◎明朝十三陵の遺跡 ◎長江沿岸の勝区 ◎荊州城と土人の風俗 ◎大冶鉄山の鉱材船積場 ◎漢口市中一輪車の運搬 ◎漢口の芸妓 ◎宜昌港全景 ◎福州附近の光景 ◎山東省青州府附近の光景 ◎厦門港全景 ◎厦門港鼓浪島の全景

 ◎厦門東亜書院の職員及生徒 The teachers and students of the East-Asia College in Amoy.

  

  東亜書院は日本語を教ふる学校にて本図は厦門の帝国領事館前に生徒を集めて撮影せるなり。最後方の中央なる紳士は、台湾第一の富豪林維源氏、向つて其右は上野領事、生徒の前面五段は予科(幼稚科)後面八段は本科(青年部)総員一百二十六名なり。
  The college was established for the purpose to teach Japanese language to the natives. The photograph was taken at the front of the consulate building. The Chinese gentlman in the rear is Mr. Lin, the millionaire of Formosa ; at his right side stands Mr. Ueno, the japanese Counsul of Amoy.

 ◎汕頭港の全景 ◎広東造幣局 ◎澳門全景 ◎歩兵の制度 ◎百家爛漫の美人叢 

 ●清国記事 〔省略〕
 ●挿入写真 〔省略〕
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