蔵書目録

明治・大正・昭和:来日舞踊家、音楽教育家、来日音楽家、音譜・楽器目録、士官教育、軍内対立、医学教育、林彪、北京之春 

「日本基督教会堂改築費寄附金者招待 音楽会 神戸」(絵葉書)(1907.4)

2015年12月02日 | 小倉末子 1
  40-4.22.3.4 〔明治四十年四月二十二、二十三、二十四日〕 日本基督教会堂改築費寄附金者招待
  神戸
  音楽会

    

 ・音楽会記念 神戸市音楽家有志演奏者諸君
 ・音楽会記念 神戸アポロ声楽会
 ・音楽会記念 大坂音楽協会員 有志演奏者諸君
 ・音楽会記念 大坂音楽協会員 有志演奏者諸君 

   
 
 ・音楽会記念 エフ・エチ・スミス君   (音楽家)      
 ・音楽会記念 ウオルテル・ビショツプ君 (ヴァイオリン)   
 ・音楽会記念 小倉すゑ子嬢 (ピアノ) 

    
                      
 ・音楽会記念 鈴木鼓村君        (箏)            
 ・音楽会記念 中尾都山〔写真右〕 北山篁山君  (尺八)
 ・音楽会記念 平豊彦君         (薩摩琵琶)
 ・音楽会記念 大坂白面社々中有志者   (ちぎり木)

 なお、これらの絵葉書には、全て最初に記した内容の、同じ記念印が押されている。 
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『 CHICAGO MUSICAL COLLEGE 1915・16』 (シカゴ)

2015年06月12日 | 小倉末子 1
            
 
 CHICAGO MUSICAL COLLEGE 〔内表紙:Catalog of the Chicago Musical College

    ESTABLISHED1867 INCORPORATED  1915・1916

   624 SOUTH MICHIGAN AVENUE CHICAGO

      COPYRIGHT 1915 BY THE CHICAGO MUSICAL COLLEGE

 PIANO DEPARTMENT 〔下は、東京音楽学校でも教えたルドルフ・ロイテルの略歴〕
 
 

 RUDOLPH REUTER joined the faculty of the Chicago Musical College in 1912. An American by birth, his education was gained first in New York and later in Berlin, where he became a pupil of Heinrich Barth and Rudorff in piano-playing and of Max Bruch in composition. In order to make his knowledge of art as complete as possible, Mr.Reuter spent three years studying singing with Max Stange. Mendelssohn prize in competition with artists from every part of Germany. The reputation for brilliant pianism which he acquired had resulted in an engagement to make a tour throughout the empire when a call came to Mr. Reuter to take up the directorship of the piano department of the Imperial Academy of Music at Tokio, Japan, an institution which always has prided itself upon the worth of the artists which it engages. That the subject of this sketch has been appreciated in Chicago no less than he has been appreciated abroad may be seen from the fact that he has been honored by engagements with the Chicago Symphony Orchestra, the Minneapolis Orchestra, the Kneisel Quartet and other notable organizations. Mr.Reuter is one of the examiners for degrees issued by the Illinois Music Teacher’s Association.

 RATES OF TUITION 〔下は、その最初の部分で、ピアノのレッスン料が一番高い二人の教師である〕

 WALTER R. KNUPFER OR RUDOLPH REUTER

 Private Lessons, two lessons per week, of thirty minutes each … $80.00
 Private Lessons, one lesson per week, of thirty minutes  …  40.00

 PIANOS

 The Chicago musical College is furnished throughout with KIMBALL grand and upright pianos. Dr.Ziegfeld, apart from his experience of fifty years as a teacher of music, has had wide experience as a judge of pianos, and during the World’s Columbian Exposition knowledge, therefore, allowed him to select for the College the best and most enduring instruments.

 ARTIST’S CLASS 1915
   Degree-Master of Music
        PIANO
VIOLIN
Degree-Master of Music
Harmony and Composition

 POST-GRADUATION CLASS, 1915
   Degree-Bachelor of Music
        PIANO
Harmony and Composition
        VOCAL
   Harmony,Composition and Italian
        VIOLIN
   Harmony and Composition
SCHOOL of EXPRESSION

  

 GRADUATING CLASS, 1915  〔このクラスの36名の中に、小倉末子の名が見える〕
   Harmony and Composition
        PIANO

   Suye Ogura … Kobe, Japan

        VOCAL
   Harmony,Composition and Italian
        VIOLIN
SCHOOL OF EXPRESSION

 TEACHER’S CERTIFICATE CLASS, 1915
PIANO
   Harmony, Psychology of Music, History of Music and Pedagogy
        VOCAL
   Harmony, Italian, Psychology of Music, History of Music and Pedagogy
VIOLIN
SCHOOL OF EXPRESSION
PUBLIC SCHOOL MUSIC
        
        PALMEN QUI MERUIT FERAT
 Medals Awarded in the Different Classes of 1914-15
        POST-GRADUATING CLASS
        PIANO
VOCAL
VIOLIN

 〔以下略〕

   

 A Japanese pianist

 The Chicago debut of Miss Suye Ogura gained for her the respect and approval of many of the city’s connoisseurs. Miss Ogura gave a thoroughly western program from Bach-Liszt to Debussy.
 Japanese artists have a sincere admiration for western art, but in order to reaeh their hight-light of expression they must always work through that passion and come back to their own wonderful racial genius and bring with them the occidental ideas for incorporation with the oriental. This is true in painting and will doubtless be proved so in music. Miss Ogura is a pioneer in this work, and a worthy one, for she has opened the door to respectful hearing of her fellow countrymen. She has given a convincing glimpse of their possibilities in musical interpretation.
 Mr.Grant Hadley, baritone, assisted Miss Ogura by singing a fine group of songs.

 上の短い記事は、『THE MUSICAL MONITOR』VOL.5, No.10 JUNE 1915 に掲載されたもである。
 なお、この雑誌は、 HathiTrust’s digital library でも閲覧出来る。

   
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「何事も五里霧中の現代」 小倉末子 (1933.6)

2015年02月04日 | 小倉末子 1
  

 何事も五里霧中の現代   
       探り当てたい幸福の正体
             東京音楽学校教授 ピアニスト 小倉末子

 この頃のやうに世の中が混乱して、人々が自分のしてゐることに自信がなくなり、何をなすべきかに迷つてゐる時には、一番自分には手近な家庭といふやうなものゝ中でさへも自分の指針を見失ふ人があるのではないかと思ひます。その日ゝを気紛れに送つてゐるやうにみえる人達でも、たゞだらしなくさうしてゐるのではなくて何をしてよいかゞ解らないために、結局その時々の都合主義になつてしまふのではないでせうか、勢ひ家庭教育なども何等確かりした信念も方針もないようなものが多く、従つて家庭で子女を教育して行くといふ重大な事業であるのにも拘はらず根本の熱情が欠けてしまつてゐるといふことがありがちなのであらうと思はれます。これは何も私が家庭教育に対して一つの定見を持つてゐるがために、いふのではなく、私自身がかつて受けた家庭教育が、今思へばかなり勝れたものであつた、少くとも熱情に充ちゝたものであつたことを想ひ起して、例へ結果は一人の音楽のメツカへの小さな使徒を作つたゞけに過ぎなくても、充分の敬意と思慕とをそれに対して持つてゐるからなのであります。若い人達が自分の進むべき道を模索して尊い青年の日を空しく浪費してゐること、若い早計から再び逆に回転させ難い人生の何頁 なんページ かを切捨てゝゐることに彼 あ の人達以外の責任がないといへるでせうか。私の場合には外国人である義姉 あね が両親に代つて私を育てゝ呉れました。幼い頃からその義姉 あね に実にきちつとした教育を受けました。決して世にいふ厳格といふのではなくつまり非常に整然としてゐたといふのでせう。それは義姉が独逸 ドイツ 人で、その国民性から来るものもきつとあつたのに違ひないと思ひますがその終始変らない熱情と鞭撻とを、私が若い人達に勤勉をすゝめる時には、必ず思ひ出します。私が自分の思出をこゝに書き始めたのは、これを読んで下さる人があつて、或ひはそれが家庭のお母さんであり姉さんであって、たまたま家庭教育の或る一つの型として参考にして下されば幸ですが、さうでなくて、若い人の生活を何処かで鞭撻出来れば意いゝと思ふためであります。
 「顏を洗ふ時にはきっと襟も洗ふのですよ、石鹸で洗って、さあもう一度水道の水で洗ってー」綺麗好きの義姉はさういって、毎朝私にそれを実行させました。顔を洗ふだけでも面倒で直ぐにも飛び出して行き度い子供には襟を洗ふのは非常に億劫でした。水が冷くて辛い時もありました。義姉はこんなことからよい習慣を私につけてくれようとしてゐました。両親には孫のやうな末っ子の私はたゞ可愛がって貰って決して一人では外へ出されず、他所の子とも遊んだことはありませんでした。三つ位の頃から東京の家から神戸の兄夫婦の家へ父に連れられて行きましたが、夜勝手なれないその家の二階へよくものをとりにやらされたことを覚えてをります。「とって来たかい。恐かったか?暗がりは悪いことは何もしないんだよ。そんなことを恐がるのは侍の子ぢやない」義姉も父のこんな言葉を聞いてゐたさうで、六歳で死別しましたが、一番時代にふさはしい教育をしてやってくれ」と言ひ遺したさうです。義姉の手に渡された時義姉はもうどういふやうに教育するかを決めてゐました。父が「侍の子」はといひながらも掌中から離さないやうに愛撫してゐたのに比べて義姉はたゞ黙々と導き、最 もっとも 必要なところで、最必要なことだけを教へて行きました。そしてそのための方法を実によく考へられて日常生活の中へ織り込んでくれたものです。忘れられないのは小学校へ入学する前から算術の稽古をしてくれたことです。胡桃の皮を糸で吊って兄が拵へてくれた小さな秤と十銭から五十銭までの単位のお銭 あし とが庭へ持ち出されて、女中総出の飯事をしてくれたものです。物を売ったり買ったり、お釣りを出したりすることで直ぐ算術を覚えてしまった私は、飯事 ままごと そのものが無性に面白くてゝおしまひには家 うち のものが困った程でした。音楽をするための数学的な頭と語学の力、これを義姉は余程考へたのでせう。後でこれが大変ためになりました。ピアノは満七歳で始めましたが、楽譜は義姉が絵を画くやうにして教へてくれるのでした。時間を規則正しくさせたこと、健康に心を使ってゐたことはこんな例でも解ります。学校から家まで三十分の道程でしたが、三十分の時間を計って義姉が家で待ってゐるので道草は絶対に出来ません。家へ入るなり荷物を投げ入れるやうにして義姉と一緒に散歩に出ることになってゐました。散歩は一時間か一時間半で、帰るとお茶でした。ピアノ、英語と義姉の時間割通りにするのです。朝など、九時始まりの時期には登校前にもピアノをするのでしたが、「さあお稽古ですよ」と座らせられてからどんどん時間が経って次第に学校に遅れやしないかと心配になって来る頃になっても義姉はなかゝ呼びに来てくれません。「さあもう学校へいらっしゃい」と云晴れるまで大丈夫とわかってからも毎朝心配だったものです。義姉のいふ時間に家を出れば必ず間に合ふのでした。数へ年の八つ頃で、子供心にピアノは好きは好きでしたが、義姉がこんなに熱心になってくれなかったら勉強が進まなかったに違ひありません。家の中には偉くて有名だったピアニストの写真が沢山かけてありました。「この方達のやうに偉くなりますと、王様の御陪食も出来るのですよ」といった言葉で義姉は励ましました。芸術家は偉くなると王様のお側へも行けるといふやうな話は小さな子供の心に、この世以上の素晴らしい世界、丁度お伽噺の国へ入って行けるやうな夢を描かせました。気高い、自分の思ふものは何でも得られるやうな地位、私はよく考へてゐました。
 勝れた芸術家の生れた独逸のことを義姉は考へてゐたのでしたでせう。
 ピアノをさらふことは好きでしたが、もうすっかり上げてしまった曲をくりかえしさらふことは厭でした。それなのに、義姉は、もう随分と稽古して、いゝ加減弾きあいてしまってゐた古い楽譜を手にして来てさあこれを弾いて御覧ーといふのでした。それが一番いやで又かと思って仕方なしに弾いてゐましたが、曲に対する理解を正確にするために、これは決して無駄ではありませんでした。
 独逸へ勉強に行く時、義姉はわざゝ私のために、ついて行ってくれました。先生についた私を、義姉はもう勉強のことでは何も導かうとはしませんでした。たゞ私の弾き疲れる頃をちゃんと知ってゐて散歩に外へ誘ふことは前と同じでした。もうすっかり時間の習慣がついて、私は能率をあげることを知ってゐました。絶えず私の側にゐて私のためによく考へよく実行してくれた姉のことを思ふことそれ自体がもう一つの励みになる程時間が経ってゐたのでした。
 義姉は日本語が上手になり、白髪がふえただけの変化で、私の側に私の守り神のやうについてゐてくれます。
 独逸人的な計画性、積極性、正確性といったものを私は挙げようと思ひません。私はこんな思ひ出話だけを綴り合せてゐる間にもどんなに義姉が私のために盡してくれたかに胸を塞がれてしまひます。犇々 ひしひし と心を打つ愛情を感じて頭が下ります。
 幼くして両親に死別した私は、不幸に両親の教育を知りませんが、若し世の若い人達が私の経験して知ってゐるだけの感激を與へられる母体を持ち得たらきっとそれは幸福の正体だといふことを私は躊躇しないでせう。外国人である人がこれ程に日本の娘を理解し正しく導いてくれたことが日本のお父様やお母様に出来ない筈はないと思ひます。
 何をなすべきかに迷ふことも如何にすべきかに躊躇することもすべて熱情の一筋にかゝってゐるのでないかと思ひます。

 この文は、昭和八年 〔一九三三年〕 六月一日発行の 『家庭』 第三巻 第六号 大日本連合婦人会 に掲載されたものである。
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「小倉末子嬢」 三木楽器店 (1916.7)

2012年11月22日 | 小倉末子 1
 

 写真の下には、「小倉末子嬢 三木楽器店 神戸市元町三丁目」とある。14.2センチ。

 下は、日本語版および英語版の『新築記念帖』〔昭和九年:一九三四年 神戸女学院〕にある小倉末〔第二十七回音楽部卒業生〕の履歴などの記載である。

     ヨハネス・ブラームス像牌 (在音楽館)
        第二十七回音楽部卒業生小倉末記念


 明治24 2月6日生誕。 ※ 東京生れ、大垣に籍 〔蔵書目録注〕
 同 38 神戸女学院普通科に音楽特科生として入学。  
 同 40 同学院音楽部の創設と同時に之に転科した。
 同 43 同校卒業。 
 同 44 東京音楽学校に入学。
 同 45-大正3 ベルリンの王立高等音楽学校に在学。大戦勃発の為同地を去つた。
 大正3-5 米国滞在、音楽会に出演し、後半はシカゴに於てピアノを教授した。
 同 5 帰朝、東京音楽学校に奉職しつゝ音楽会に出演、現在に至る。
    正五位勲六等。
   小倉末女史は八歳の時から本学院音楽部の創設者ヱリザベス・ターレーに就きピアノを始めた。大正10年その師の逝去をきいて、記念演奏会を思ひ立ち、大正11年10月本学院講堂に於て同窓会主催の下に之を開いた。
   その収入は、当時同窓会が募集してゐた新敷地購入資金に寄贈した。このブラームス像牌はその後、前述の寄附記念として音楽館に設置されたものである。

      MUSIC BUILDING
    BRAHMS MEDALLION
      In honor of

    Sue Ogura, pianist
  Kobe College Music Department, Class of 1910


 Born February 6, 1891.
 1905, enterd Kobe college Academy as a part-time student specializing in music.
 1907, transferred to the Music Department when it was organized.
 1910, graduated.
 1911-12, studied at the Tokyo School of Music.
 1912-14, studied at the Royal Conservatory in Berlin, leaving after the outbreak of the Great War.
 1914-16, in the United States, giving concerts and the latter year teaching piano in Chicago
 1916, returned to Japan. Has been giving concerts and teaching in the Tokyo School of Music ever since.
 Holds the Six Order of Merit and the fifth rank of the senior grade.
  Miss Ogura began at eight years of age to study piano with Miss Elizabeth Torrey, the organizer of the Kobe college Music Department. On learning of Miss Torrey’s death in 1921, Miss Ogura planned to give recital in her memory. This was done on October 27, 1922 in the Kobe college hall, under the auspices of the Alumnae Association. The proceeds of the concert were given to the Alumnae Land Fund to help purchase the land for the new building, and the medallion of Brahms was later presented to the Music Building in memory of that event.

 ○ ゴットシャルク (ゴッチョーク Louis Moreau Gottschalk:19世紀 米国)
   「最後の望み」(最後の希望 The Last Hope : Religious Meditation   1854年)

      

 上の写真は、改訂版の楽譜表紙(1856年)及び見返し

    

 ○ 『小倉末子編 新撰ピアノ教則本』 〔上左〕

   :内表紙には、「新撰 ピアノ教則本 東京音楽学校教授 小倉末子編 大阪開成館藏版」とある。奥付には、「大正八年一月十五日印刷 大正八年〔一九一九年〕一月二十日発行 大正九年十月十五日修正再版印刷 大正九年十月二十日修正再版発行 昭和四年〔一九二九年〕四月一日十版発行 定価金壹円参拾銭 編纂者 小倉末子 発行者 三木佐助 発行所 大阪開成館 発売所 三木楽器店 発売所 三木楽器各支店」などとある。ハードカバー、26センチ、「はしがき」など、本編65頁、「楽語解」、広告(「大阪開成館発行音楽書」など)。

 はしがき

本書は一般ピアノ初学者の教科書用に充てんがため各国の名著を参考し我国の事情に適せしむる様特に意を用ひて編纂したり。従来我国に用ひられ居る教則本の内外出版物、数多有りと云へども学習者をして容易にピアノ奏法の一班を習得せしめ得る様留意編纂せられたるものなきを遺憾とし、去る大正五年の秋頃かと覚ゆ大阪開成館主人の切なる勧めにより茲に此本を公にするに至れり。幸に斯界のために幾分貢献する処あらば著者の光栄これに過ぎざる所なり。

   大正七年二月一日   編者識

 一、演奏上の注意

 (1) 演奏者は先づ椅子をピアノの中央「中央のハ音(C)より稍々右方」に据ゑ鍵盤と椅子とは運指の自由を妨げざる様に適宜の距離を保ち、身体を真直にし、上半身をゆるやかに保ちて腰部を以て全身の平均をとり、両腕は体躯に添ひて自由に鍵盤を使用し得べき姿勢を取るべし。
 (2) 足先をペダルに踵を床に着くるを法則とすれども初心の人にありては、其儘ペダルの側に置くも妨げなし。
 
 二、運指上の注意

 (1) 指は拇指を除くの外、第二関節より柔かに内方に屈し、手甲を水平にし、指端を以て鍵盤の中央を打つこと下図の如し。 

〔以下省略〕さらに「三、音符と休止符(又ハ休符トモ云フ) 七オクターブを有する鍵盤と大譜表との関係」が図などとともに記され、その後に本編が続く。

 ○ 『ピアノ小曲集』 大阪 開成館発兌 〔上右〕

   :奥付には「昭和九年 〔一九三四年〕 六月十五日訂正八版発行 編纂者 小倉末子 発行所 合名会社 大阪開成館」などとある。29.3センチ、44頁。 

 〔曲名など、一部正確に表示できないものあり、下の目録の写真参照。作曲者は、グルリット、ベートーベン、シューベルト、バッハ、ライネッケ、シューマン、フンメル、ガーデ、メンデルスゾーン他である。〕

 1 Morning Prayer (Morgengebet.) … 朝の祈祷
 2 Marionettes … マリオネツト
 3 Sonatine. Tres Facile TREES FACILE … ソナテイナ
 4 Spinnliedchen. … 機織歌
 5 Priere Du matin.MELODIE. … 朝の祈祷
 6 Moss Rose Waltz … 苔薔薇(ワヲルツ)
 7 Menuet … ミニユエツト
 8 Musette … ムゼツト
 9 Gavotte … ガヴヲツテ
 10 Wild. Rider … 勇壮なる騎者
 11 Gondolier’s Song … ゴンドラの歌
 12 Styrienne … ステイリーネ
 13 Petite Tarantelle … タランテラ(小サキ)
 14 Little Hunting Song … 猟の小歌
 15 Romance … ローマンス
 16 Scherzo … スケルツヲ
 17 Mysterious Affair, Geheimnis … 秘密
 18 Giguette … ギギエツト
 19 The Little Soldier … 可愛らしき兵士
 20 Menuet and Trio … ミイニユエツト及トリオ
 21 Chorus From “Lohengrin” … 歌劇ローヘングリンのコーラス
 22 Good Night … 就眠
 23 Scherzo … スケルツヲ
 24 The Sisters … 姉妹

 ○ 『三木楽器店 音楽書総目録』(1924)、昭和版『三木楽器店音楽書目録』内地の部(1927)での紹介

      

 

 ピアノのトーンに就いて 小倉末子

 我々は此忙しい生活を致して居ります間にも、音と云ふものと離れられない関係を持て居ります。それが即ち聴力の必要な大原因で心地よい音も聞きますが又不愉快な思はず耳を覆ふ様な場合も往々御ざいます。何れも音ではありますが前者は音楽的でありまして鳥の声、木々のさざやき、小川のながれ、寺院の鐘の音等皆聴て心を澄す心地が致します。後者は申までもなく非音楽的なものであります。
 外国の社交会では普通の会話にも音楽的なクルティウェートされた声を用ひ、地声で話すのをヴㇽガとして直ちに其人の社交的教育の程度を批判されると申します。
 偖 さ て音楽は芸術の最高のものでありますから単に心地のよい音を現はすのみではありません、その音と云ふものに最大の注意を払う必要がある事は亦明かであります。
 音楽は声楽と器楽の二つに分れて居りまして感じのにぶい人に最も感動を與へるのが声楽であります。それは声のよい悪いが誰にも容易に解り易く且詞歌が伴ふ為でありませう。
 天より賜つた如何なよい声でもそのまゝでは音楽的価値に乏しいのであります。その声を音楽的に美しく発声する事を学び、芸術の理解を得て初めて人間の霊を魅する力を得るのでありませう。殊に声の性質が大切で音量は第二であります。
 声楽に続いて早く感動を與へるのは器楽中でも絃であります。例へばワ〔濁点あり〕ァイオリンに就て申ますれば、詞歌はありませんが声楽とよく似て一つの音に於て美しいクレシェンド及ディミニュエンドが自由に出来るのみならず、メロディーを思ふ様にあらゆる感情を表はしつゝ奏する事が出来るのであります。そこが絃楽及声楽の長所であります。けれども絃楽は声楽と同じく只音を出すだけでは其特徴を発揮する事は出来ませんのみならず美しい音を出すと云ふ事に於ては声楽以上の努力を要します。何故かと申しますれば楽器及即ち死物によつて生命のある音を作り出さなければならないからであります。
 これに反してピアノは多数のキーがありまして、どれでも打てば音が出るのでありますから、甚だ容易な様でありますが、それでは単に音を発するのみに過ぎませぬ。
 ピアノは現在ある楽器中最複雑で且つ完全に近いものとされていますだけに、その長所も他の一楽器では到底真似る事が出来ないのであります。従つて音楽的音(トーン)に就き努力を要する点が種々ありますが、取分け其著しいものは次の二つであります。ピアノの長所は自由にハーモニーを現はす事が出来る事で、スィムフォニーのスコーアでもピアノでは弾く事が出来ます。
 ハーモニーに豊富なだけ曲も複雑になります。例へばベートヴウェンのソナタの大部分はオルケストレーションが出来ます。従つてオルケストラ中の種々の楽器即ち、バス、セロ、ウァイオリン、クラリネット、オボー、フルート等の音を現はし、それ等の色彩を加へなければなりません。それには以上列記致しました各楽器及其配合を知る必要があります。これ等をよく知った上に非常の努力と研究を以つて始めて其目的に達し得るのであります。ピアノ研究者がオルケストラと親しみを得なければならない理由はこゝにあります。
 ピアノの短所は声楽や絃楽に反し、一打鍵を以つてクレジェンド及ディミニュエンドを自由に行つたり、或は一音を伸したりする事が不可能である事であります。サステイントペダルは限られた場合の一音のみを伸す為に用ひられるのであります。其短所を補ふ為には一音の打ち方、及それに伴ふ和声の補助によつてクレシェンド及ディミニュエンドの印象を與へねばなりません。勿論此場合に於てペダルは非常な助となります。斯様な困難な事を巧みに行ふ事が非常な努力と研究を要する第二の理由であります。
 これ等の困難があるにも拘らずピアノ研究者は音(トーン)と云ふ事に兎角冷淡であるかの様に思はれます。それはピアノなる楽器が鍵盤に触れさへすれば非ピアニスティツクなテクニックでも発音するからでありませう。尚他の一つの理由は余りテクニックに捕はれ過ぎて音楽の真髄とも云ふべき、音は即ち一種の言語である事と、音の色彩を以つて音楽を描写しなければならない事を忘れて居るからではございまますまいか。美しい発音は語学のそれと同じく一朝一夕になし得るものではありません。ピアノを研究する方々は日常の練習にも其辺に留意して努力研究する事が最も必要であると申上たいのであります

 上の文は、大正十二年 〔一九二三年〕 一月一日発行の『詩と音楽』 新年号 第二巻 第一号 発行所 アルス に掲載されたものである。

 

 音楽で名高き三女史 

 ピアニストとして有名なる小倉末子女史と令姉マリヤ子の君。-女史邸にて。

 上の写真と説明は、大正八年〔一九一九年〕 四月一日発行の『淑女画報』 第八巻第四号 のものである。この号には、下の文もある。

 訪問印象 現代名流婦人一百人(四) TOK女

 小倉末子女史

 非常に輪廓の鮮やかな、強みのあるお顔立で、一度お目にかゝつたら、何千何百人の婦人方の間にでも決して見逃しするやうな事はない、印象の深い方です。洋装の時は水色か純白、日本服の時は黒の地質がお好みで時々華やかなオレンヂの帯なんかお締めになる事もあります。弾奏に於ては恐らく日本の楽壇で第一人者でありませう、女史のテクニツクは非常に鮮かです。何を弾いても、どんな難曲を弾いてもそれを統一する丈けの理解力を持つてゐらつしやる。日本の楽壇、妙に狭くるしい官僚主義を真向に振りかぶつてゐる日本の楽壇で、この立派なピアニストを割合歓迎しないとは何うした偏見でありませう。官僚主義を薙ぎ倒せ、そして世界の広い公平な眼を以つて芸術の花を愛せよと、ピアニスト小倉女史のために叫び度い位です。

   

  ピアニスト 小倉末子 Miss Suyeko Ogura, pianist.

 上の写真と説明は、大正十四年〔一九二五年〕 一月十五日発行の『アサヒグラフ』 新年増刊 婦人号 の 楽壇の明星(一) のものである。
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「米国から帰朝した閨秀洋琴家」 小倉末子 (1916)

2012年11月21日 | 小倉末子 1
 □米国から帰朝した閨秀洋琴家
  =小倉スヱ子女史が昨日鎌倉丸で=
    ◇東京音楽学校の教授となり華族会館で音楽会◇

 郵船会社の鎌倉丸は去る二十一日横浜入港の予定であつたがシヤートルを出帆して一週間目に二日続きの時化に遭ひて船尾の方に少し許り破損を生じた位で予定より二日間遅れ、二十三日の未明に横浜へ着いた
 ▽積荷は鉄材が 重である為め赤腹はウント水に浸つて船客も満員で其内には三浦環女史と共に日本音楽家として米国の楽壇を騒がし、義姉のマリヤ夫人に伴はれて五年振りで帰朝した閨秀洋琴家小倉スヱ子女史がある。記者は女史を船室に訪うて土産話を聞いた、女史は身に紫紺地の服を着け真珠の首飾りを掛け雪を欺く白毛のボーアと同じマツフを手にダイヤの指環光らせつゝキツと引締まつた口元を綻ばせて語る、『私は今から

   □鎌倉丸甲板上の小倉季子〔小倉末子〕女史 〔上の写真〕


 ▽五年以前に シベリヤ経由で一直線に伯林〔ベルリン〕へ行き、王立音楽学校の入学試験を受けました、試験の科目はピアノと音調でしたが、受験者は五十四名で、合格したのは僅かに十四人でありましたが幸ひに私も合格者の一人に数へられました、私の教師は同校の教頭であるパールト博士で、博士は非常に親切にしてくれました、私も熱心に勉強して居ましたが、恰度一昨年の八月日独戦争が始まりまして同じ月の十五日に伯林を退去し倫敦〔ロンドン〕に渡りました、夫れから米国へ行つて紐育〔ニューヨーク〕に半年市俄古〔シカゴ〕に一年居りました、市俄古ではメトロポリタンコンサバトリー学校の高級教授となり一時間
 ▽四弗の俸給 で教授をしました、独逸と米国との楽界を比較して見ますと、独逸の方が無論立優つて居ります、今米国へは欧洲から音楽家が非常に多く入り込んで居まして楽壇は中々盛んな者であります、米国の音楽界は紐育と市俄古が其中心となつて居る様であります、東京音楽学校の校長さんから私を教授に頼みたいと云ふ通知が来て居ります、又華族会館の音楽会からも出るやうにとの通知を受け承諾をしまして既にプログラム迄送つてあります、夫れはバーク、シヨーパン、ベート及びリストであります』と女史の言葉に次ぎ、同席の義姉マリヤ夫人は、『環さんのコンパニーは皆白人でありますが
 ▽環さんが一番 評判であります、元来彼地の人は日本人には西洋音楽は出来ないものと信じて居ましたが三浦さんの独唱や洋琴を聞いて日本人も西洋音楽が出来ると云つて非常に感心して居ります』

 上の写真と文は、「大正五年 〔一九一六年〕 四月二十四日 第一万一千七百四十号」の「時事新報」に掲載されたものである。

 

 欧米婦人の音楽趣味 新帰朝者 小倉末子


 △婦人の音楽

  欧米では音楽の発達して居ない国は真の文明国でないと申しますから、男女を問はず一般に音楽を尊重致しますが、婦人には特に密接の関係があるやうに思はれます。男の方でも音楽に対する趣味の深い人は多くありますけれども、一般には如何 どう しても婦人の方が男子よりも熱心であるやうで御座います。独逸の歌劇 オペラ の作者リヒアルト・ワーグネルと言へば、今日では子供でも知つて居る位有名で、其作は他の歌劇よりも確かに優れたものと認められて居りますが、其ワーグネルが当時の楽壇を風靡して居りました伊太利の歌劇から脱して、初めて自己の歌劇ー独逸の歌劇を創造した時には、非音楽的であるとか、気狂染 きちがいじ みた音楽であるとか、世間からは様々の酷 きび しい悪評批難を蒙つたので御座います。其当時ワーグネルは友人に手紙を寄せて、「婦人は天性感情に富んで居るから、私の音楽即ち私を男子よりも能く理解してくれる。」といつたことがあります。これは男子よりも婦人の方が一層遥かに音楽に対して鋭敏な感受性を持つて居ると云ふことを、ワーグネルが裏書して呉れた訳で御座います。

 △子供の時からの音楽的教養

  欧米の婦人が常に音楽に対して、深い趣味と鋭い鑑賞力を持つて居ることに就 つ きましては、索 もと めたら種々の原因もありませうけれど、其著しいものは次の二つであらうと私は思ひます。其一つと申しますのは、小供時代からの教育にあるので御座います。外国では中流以上の家庭ですと、音楽は必ず普通教育に伴ふべきものとなつて居ります。ですからピアノやヴアイオリンのお稽古は、外国語とか歴史とか云つた他の学科と並行して行はれて居ります。それで子供に音楽の才能でもあるとすれば、更に家庭に良い教師を招くとか、或は専門の学校へ通はせるとかするので御座います。それに人間の一生は何時 いつ 迄も長閑 のどか な春が続くとは限られませんし、又何時如何 どん な変化が其境遇を襲ふか分りません。それですから万一 もし 一旦境遇に変化が起つて、自活の必要に迫られた場合などにも、少しも差支へを来たさないやうに、平常 ふだん から娘達に何か一廉 ひとかど の芸を授けて置きたい、それには音楽などは一番婦人の性情に適して居るからと言ふやうな訳で、ますゝ音楽が普及されるので御座います。貴族の令嬢の中より音楽の専門家となられる方が往々御ざいます。斯 こ うして一般の家庭では音楽を奨励いたしますから、子供衆のニ三人も御座いますお家では、一人がピアノを弾けば、一人がヴアイオリン、も一人はセロを奏すると云ふ風に、一家内で楽しく合奏が出来る有様で御座います。ですから必然音楽の趣味が培 つちか はれ、発育して行きます。

 △交際上に欠くべからざる音楽

  も一つの著しい理由は、只今申しました通り家庭で音楽が盛んに行はれて、子供の時分から音楽的な雰囲気 アトモスフエア の中に生 お ひ育つて居ります外に、交際上の必要から音楽の教養が是非無くてはならないものとされてゐます。御承知の通り、西洋では芸術を最も高尚な、最も尊いものとして居りますが、わけても音楽は眼に見ることの出来ない極めて神聖なものと思はれて居ります。そんな理由 わけ で音楽は上流社会の最大の娯楽で、又交際の中心となつて居ります。それ故 ゆえ 欧米の交際時季と時を同じく致します音楽時節は実に華々しいもので御座います。夜毎にオペラを始め種々な音楽会や大家の演奏が御座いまして、何処 どちら の奥様でも其等の一つに出席いたしませんのを恥辱のやうに心得て居られます。平常左程 さほど 音楽に趣味をお持ちでない婦人でも、争つてオペラや音楽会へ出掛けになり、次第に面白味を有 も たれる様になられるので御座います。又午後の婦人の客室 ドローイング の会話 はなし と云へば趣味に関する事が多く、取りわけ音楽のとが其主なる話題 サブゼクト となつて居りまして、例へば昨夜のXX歌劇へはお出席なさいましたかとか、一昨夜のダルビアの演奏をお聞きになりましたかとか、イザエの演奏は何と思ひでしたとか云つた風で御座います。恁 か かる話題は単なる無駄話でないのみならず、会話が卑俗な世間話に陥るとから遠ざかることが出来ます。欧米の社会で歌劇や音楽会 コンセルト の絶えた時季、つまり音楽季節 ミュージカルシーズン でない時は、都会の生活も物淋しいものとなつて了 しま ふので御座います。
 亜米利加では音楽は欧羅巴 ヨーロッパ ほど一般に発達はして居りませんけれど、それでも近頃では随分盛んなもので、戦争の影響を受けて渡米される欧洲大家の音楽会は毎日の如く御座います。又婦人が熱心に音楽の普及に力 つと めて居るやうで御座います。唯単に趣味を持つと云ふ許りでは御座いませんで、盛んに活動して音楽倶楽部などを組織したり音楽教修団 ミューヂカル、エヂュケーション、リーグ などを設けたりして、自分の研究に尽くす上にまた、天才があつてもそれを充分に磨き上げて行く程の資力のない子供の為めに多くの便宜を與 あた へて居ります。又沢山のお金を払つて音楽会へ出掛けられない人達のために、大きな会を開いて大家の演奏を聞かせる事も度々御座います。
 要するに欧羅巴でも亜米利加でも、音楽が最も婦人に適 ふさ はしい趣味の一つであると認められて居るので御座います。尤 もつと も茲 ここ に音楽の趣味と申しましても、必ずしも自分で弾ひたり唄つたりしなければならないと申すのではなく、音楽に関する書物を読むとか、有名な楽人の演奏を聴くとかして、兎に角音楽と云ふものに対する智識を養はうとするのが一般の傾向で御座います。西洋では婦人として一通り音楽の智識を有て居りませんでは、教育が未だ充分でないやうに自分でも感じますれば、人からも然 こ う思はれますので、厭 いや でも音楽の一般的智識を得やうと努力 つとめ るので御座います。実際欧米では有名な曲や偉大な音楽家や、殊 こと に歌劇の名前や其内容を一通り知らないやうでは日常の会話にさへ差支えるので御座います。

 上の文は、大正五年九月一日発行 の『婦人公論』 九月号 第一巻 第九号 に掲載されたものである。
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「皇后行啓演奏会」 音楽学校奏楽堂 (1916.11)

2012年08月12日 | 小倉末子 1
   

 上左の写真:大正五年 〔一九一六年〕 十二月一日発行の『写真通信』 第三十二号 大正五年 十二月号 に掲載されたものである。

 皇后陛下東京音楽学校行啓ー職員生徒晴れの演奏

 皇后陛下には芸術御奨励の思招にて大正五年十一月十六日正午御出門上野なる東京音楽学校に行啓あらせれた、玉座は音楽 舞台正面に設けられ左右は親任官及同校教師陪観席とし舞台には白き綾絹の幕を引き玉座と舞台との間は数十種の草花を飾然り宛花園の如き美観を極めた軈〔やが〕て陛下玉座着御と共に妙なる音は響いて御大礼奉祝唱歌より順次交る々々妙手の奏ずる楽の音を楽譜を御手に御耳を傾けさせられて後一旦便殿に復御陳列されたる雅楽、能楽、邦楽の器具書籍を御覧の上音楽場に臨御第二部演奏ピアノ講師小倉末子女史外謹奏楽手の演奏する数曲を聴召されたる後便殿御小憩午後四時御還啓になつた。写真は鹵簿同校へ着御のところ下なるは同校職員生徒奉迎のところ上なるは御前演奏の光栄に輝く小倉末子、田中ひさ子、左下は久野久子女史である。

  H.I.M.the Empress visited the Tokyo Academy of Music at Uyeno Park on Nov. 16, and in the auditorium of the Academy Her majesty listened to a special programme of music.

 上右の写真:大正六年一月一日発行の『歴史写真』 第四十六号 大正六年 一月号 に掲載されたものである。

 光栄ある御前演奏者及び御前揮毫者

 Artists and musicians honoured by drawing picturess and giving musical performaces in the presence of Her Majesty the Empress.

 皇后陛下には大正五年十一月十六日東京上野音楽学校に行啓遊され、数々の演奏を聴召されたが、其の演奏者中には我国閨秀音楽界の天才と称せらるる小倉すゑ子、久野ひさ子、田中ひさ子、及び長坂好子等があって夫々ピアノ、ヴァイオリン、及び最高音の独唱等を御耳に達した。陛下には九條家に在します頃より洋楽の御造詣深く渡らせらるることとて此日の行啓は殊に御興趣深く思召された。写真の左上は当日御前演奏の光栄に浴した音楽学校講師小倉すゑ子女史。其下同校助教授久野ひさ子女史。又、右上は当日玉輦されたる際、御前揮毫の光栄に浴したる十画伯中の五氏で、右より寺崎廣業氏、竹内栖鳳氏、四人目荒木十畝氏、五人目小室翠雲氏、其次ぎ上村松園女史、左端池田蕉園女史である。 

 なお、当日のまだ皇后陛下未着席の玉座と舞台の間の花々を挟み左右に人が立ち並ぶ写真は、『創立五十年記念』で見ることが出来る。

 下は、その『創立五十年記念』掲載の当日の演奏曲目である。〔※は、蔵書目録による追加〕

 大正五年十一月十六日

 御大礼奉祝合唱歌  歌 教授  吉丸一昌  謹作
           曲 教授  島崎赤太郎
 御大礼奉祝進行曲    助教授 大塚淳謹作
 立太子礼奉祝歌         文部省謹選
 立太子礼奉祝合唱歌 歌 教授  大須賀績
           曲 教授  島崎赤太郎 謹作
   第一部
 一、オルガン独奏    助教授 中田章
    祝典前奏曲     レンメンス作曲
 一、最高音独唱     聴講生 長坂好子
    旅人の歌      グーノー作曲
              大須賀績作歌
    ヴァイオリン助奏 聴講生 蜂谷龍子
    ピアノ伴奏    研究生 山口節子
 一、ピアノ独奏     助教授 久野ひさ子
    イ、春の曲     グリーク作曲
    ロ、練習曲     シヨッパーン作曲
 一、セロ及ピアノ合奏  セロ  助教授 信時潔
             ピアノ 研究生 高折宮次
    ソナータ      ルービンシタイン作曲
 一、合唱        生徒一同
    イ、幼児      露西亜民謡
              旗野十一郎作歌
    ロ、秋       和蘭民謡
              吉丸一昌作歌
  第二部
 一、ピアノ独奏     講師  小倉すゑ子
    狂想曲       サン、サーンス作曲
 一、ヴイオリン独奏   聴講生 田中ひさ子
    幻想曲       ヴュータン作曲
    ピアノ伴奏    聴講生 石原和子
 一、次低音独唱     講師  船橋榮吉
   イ、春を惜む     マツスネ作曲
              大須賀績作歌
   ロ、印度の調     ベンベール作曲
              大須賀績作歌
     ピアノ伴奏   助教授 貫名美名彦
 一、ヴァイオリン及ピアノ合奏
     ヴァイオリン  教授 多久寅
     ピアノ     教授 萩原英一
    ソナタ       フランク作曲
 一、管絃楽       職員及生徒
    戯曲「ラルレジエンヌ」中のメヌヱ
    ツト及ファーランドール
              ビゼー作曲

※一、ピアノ独奏     小倉末子
     鳥の預言者     シューマン作曲
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