蔵書目録

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『丹沢山塊』日本山岳写真書(1944.9)1

2018年01月08日 | 丹沢・ハイキング
 丹沢山塊

   日本山岳写真書 塚本閤治 山と渓谷社

   昭和十九年九月二十五日発行

 ・〔絵〕初冬の表尾根 著者筆
 ・はしがき

 丹沢山塊目次

  写真及解説 塚本閤治

 〔下の写真は、その一部。写真の解説。ヤビツ峠から塔ノ岳、大倉から塔ノ岳、丹沢山と蛭ヶ岳に分けて。左から〕

    

 ・ヤビツ峠 丹沢林道札掛道
 ・二ノ塔から東に大山を見る 右方の低部がヤビツ峠
 ・烏尾山から縦に見た表尾根 雲の中は塔ヶ岳 木ノ俣大日 新大日
 ・塔ヶ岳頂上

    

 ・大倉尾根の堀山(905米附近)
 ・前尊仏〔?〕を前景に函根足柄連嶺を展望
 ・大倉尾根花立附近から東望,中景の突起は表尾根行者ヶ岳,其右遠きは大山

  
 
 ・丹沢山山頂
 ・蛭ヶ岳頂上

 塔ヶ岳の展望
 大山ー物見峠
 本谷川キウハ沢溯行
 丹沢表尾根縦走  
 水無川溯行
 鍋割山稜
 四十八瀬川右俣溯行
 大倉尾根から主脈縦走
 高松山
 玄倉川本谷溯行
 檜洞溯行秘峰檜洞丸へ

  記事 漆原俊・宇山幸治・根本行道

 概説

 ・地域
 ・地形
 ・地質
 ・成立
 ・山系
 ・水系

 6.水無川 塔ノ岳から南下する水無川は下流こそ磊々 らいらい たる河原で荒廃を極めてゐるが、仲小屋から上流には溯行感を満してくれる好適な渓趣を整えた本沢に、それぞれ瀑声を上げるシンカヤノ沢、ヒゴウノ沢等の渓流も集る。
 7.金目川 金目川には秦野町東郊で合する、大山に発する春嶽沢と三ノ塔から流出する葛葉川の二川がある。

 ・地震

 江戸の昔から大山不動に登拝する伝統に生きて来た東京人が、その存在も知らなかつた丹沢が関東大震災以来、重要な余震は此の山地を震源とすると発表されてから、急に其の名が遠近に拡つた程丹沢と地震はとは関係深い。
 〔中略〕
 以上の表で大地震の周期を見ると最近は七十余年目位に活動したものであることが判る。

 ・植物
 ・動物
 ・沿革

 丹沢山塊の中でも人文交渉のあつたのは、何と云つても阿夫利神社の鎮座ゐます大山で、山岳仏教徒の開山に俣つた日本山岳史の範疇に洩れず、皇紀一四一二年(天平勝宝四年)の昔、南都から東国巡錫に来た良辨僧正によつて開創されたと伝へ、鎌倉時代から武将の尊崇極めて厚く神馬、社領の奉納のあつた事等記録してゐる。〔中略〕震災前まで五丈八尺の黒孫仏を有してゐた塔ノ岳は、山麓北秦野の氏神唐子神社縁起に拠ると矢張り役小角登山開創の山と謂ふが、それは兎も角として山中の諸処に祀つた石像の年代から考察すると永禄或は貞治の昔から信仰登山があつた。此の外不動ノ峯、大群山頂の権現、蛭ヶ岳の薬師等山岳仏教徒の行所とされた跡がある。

 ・民俗
 ・峠

 ヤビツ峠 (七九九、七米)此の峠程札掛、いや丹沢の消長も息吹きを感ぜしめる峠は少ないだろう。明治の中年諸戸植林によって開鑿 かいさく された此の峠は、秦野と札掛を駄馬で繋 つな ぎ、それ以前の御林管理に巡視する里正の通つた岳ノ台よりの仙太コロガシの坂道は、草叢 くさむら に隠れてしまつた。しかし恩賜林の林業行政に乗り出した神奈川県が、昭和八年遂に此の峠の東に迂回する自動車林道を通じ、観光、登山、産業の上に一大飛躍を與へるに及び、歩行困難な峠は自然荒廃した。

 新ヤビツ峠 (七五〇米)此の峠も戦時下に大きく転回し、今は観光、登山の為に乗り越すハイカーの姿ははなく、本谷の奥から巨材を運搬する県のトラックのみが走つてゐる。さうして青年の丹沢報国寮や札掛山の家が丹沢勤労訓練所に転向された今日、そこへ通ふ一団と往き遭ふて、丹沢も新たな使命を果しつゝあるを覚えさせる。此処の展望は相模を一望に納める景勝な位置にある。

 善波峠 (一九二米)家族連れの散策に好適な弘法山(二一〇米)の東方、秦野と伊勢原を繋ぐ矢倉沢往還が通じて居る峠で、その昔江戸の俳人筑波園杉人が、麦や菜種が朝霞む秦野盆地の風光を此処から眺めて、「世を旅にまかせて花のやどり哉」と賞し、遂に此の山麓に住したといふ。

 丹沢山塊の遭難とその対策


 丹沢山塊は元来山麓登山口の高度が低位の為め、千五百米級の低山ではあるが相当のアルバイトを強要されるのである。
 今山麓大倉から蛭ヶ岳に登るには大倉の海抜が三百米であり、蛭ヶ岳は海抜一六七〇米なるを以て垂直高度実に一三七〇米となり、奥日光湯元(海抜一五〇〇米)から白根山(海抜二五七七米)に登るよりも困難であり、上越の谷川温泉(海抜五〇〇米)から谷川岳(一九六三米)に登る高度に匹敵してゐるのである。

 交通

 その昔、と言つてもさう大して古い事ではなく、東京急行電鉄小田原線(旧小田急線)が昭和二年四月に開通する迄、帝都から丹沢に這入る登山者は、其頃の東海道本線の要衝松田駅山北駅或は中央線與瀬駅に拠つたものである。然し現在は一部の地域の人達や特殊の二、三コースを選む者人達以外には殆ど東京急行小田原線を利用して居ると言つても過言ではない。

 行程表

 案内篇

 ・大山、物見峠

 拝殿を辞して左に廻り込めば、門の中に石段の登山道がある。此門は大祭期間以外は閉されて居るので、左の潜りから登らねばならない。昔から山中で運試し賭博が盛んに行はれて居たと見えて、門の側に「やるな、かゝるな、詐欺賭博 オツチヨコチヨイ 、伊勢原警察署」と言ふ古びた制札が建つて居たが、今は見えない様である。最初の急な階段から山頂まで、二十八丁と言ふ歩き悪い石段の山径である。眺望の佳い処には茶店が頑張って居て、径は必ず其軒下を通る様になつて居る。つい、二三回は財布の紐を緩めあるを得ない様な仕組みとなつて居る。時折、振返れば茫洋たる相模灘が雲烟の中に光つて居る。やがて段々の道がなくなり左手から蓑毛の参道を合して、やゝしばらくで、黒門となり、鉄の鳥居となる。こゝから数十の石段を上つて奥宮に一礼して背後の平に出ると三峯山稜が指呼の間に迫り、凄惨なガレ膚を見せた主稜が畳々として連り登高欲をそゝる。

  参考時間

 伊勢原駅一(乗合三十分)一大山町(四十分)一追分駅(急坂四十分)一下社一(一時間三十分)大山頂上一(五分)一分岐路一(五十分)一ヤビツ峠

 ・キウハ沢溯行
 ・表尾根縦走

 東部丹沢の概念を理解するに最良の地域であり、又実に素晴しい展望台として先づ第一に表尾根山稜を推薦したい。
 快適な山稜縦走と明快な展望とは、此の相当アルバイトを要する山行を充分に償つて余りあるものがある。
 季節的に云つて最も興味の深いのは冬期であり、そして春の緑の茅戸と秋の孤色に輝やく茅戸の山肌は各々捨て難い味ひを持つてゐる。
 秦野から蓑毛行のバスに乗ると、以前は蓑毛部落の第一鳥居上の停留場迄我々を運んでくれたのであるが、大東亜戦争の始まる頃より寺山の藤棚迄しか車は行かぬ事になつた。此れはバスに乗つても十分以内の処であるから登山者は成可く秦野から歩く様にすべきである。
 
 橋を渡れば指導標に従つて林道と別れて左手の小径に入つて行く。ゆるやかなだらだら登りを続けると「三ノ塔登山口」と書かれた白塗りの指導標に出逢ふ。
 峠から眺めた三ノ塔は其の余りにも尨大 ぼうだい な山容に少々面食ふけれど、登るにつれて南方の視野がぐんぐん開けて脚下の菩提峠、二又峯、岳ノ台と連亘 れんこう する和やかな高原状の山容に私は時折り山中湖畔の大出山、大平山辺りの山容に良く似てゐるのに気付き、ともすると湖畔の此れら曾遊の山々に遊んで居る様な錯覚を起すのである。
 歩一歩と楽しい登りを続ければ、新緑の候にはシドメの薄紅白色の花が開き、ワラビのすくすくと伸びてゐる長閑さである。やがて山径は広々とした防火線に合流して鷹休も眉間に迫つて来る。ローム状の暖かな土にコイハザクラの群生が見事に開花してゐるも見られる。一汗かいてやがて一一四四米の独標を有する鷹休に到達する。
 此処から三ノ塔は指呼の間で、一寸した痩尾根を渡れば間もなく広々と南北に長いローム状の山頂に立つ事が出来る。三等三角点は山頂の南寄りに立つてある。
 山頂の展望は塔ノ岳にも劣らぬ素晴しさで、これから辿る表尾根の山稜が巨鯨の背の様に連なつてゐるのも興味深い。晴れた日は西方に秀峰富士が其の裾を限りなく広々と展開してその左手に愛鷹、箱根、伊豆の山々を慴伏させ、軈 やが てそれの尽きる辺り縹緲たる相洋に連なつて行く。富士の右手に銀鞍の様に輝やく南アルプスの望見されるのは晩秋から冬へ掛けての一段と視野の利く季節である。
 烏尾山へは百米余りの急峻な赤土の崩壊状の山径を下るのであるが、此れは雨の直後等には径が完全に消えてゐるから十分注意して掛からなければならない。さて下り切つた処は極度の痩尾根で、ヒゴノ沢とヤゲン沢との分水嶺にあたつてゐる。烏尾の円やかな山頂はそれより一投足である。山径は山頂を走らずに北側の腹を捲いて続いてゐる。それより二、三の小突起を過ぎると行者山の前山たる無名のピークで、此のピラミット形の急な突起を越せば次の岩峯が一一八八米の独標記号の有る行者山である。此処から少し下つた一岩峰に昭和十三年迄は行者を刻んだ立派な石像と石造の巻物迄も安置してあつたのだが、其れ以後姿を見せない。心無い登山者の悪戯であらうか。行者山附近は表尾根コースの内で最も変化に富んだ箇処で、岩間にはコメツツヂ、イハカガミ、ウテフラン等が可憐な花を開いて登山者を喜ばせてくれる。特にイハカガミの群生は美事である。それより岩峰を一つ越せば前後二十分余りの興味ある緊張したルートから開放され、これから愈々新大日への急登行が開始される。
 ローム状の広い防火線状の山径を登り切つた処がカラヒゴノ頭である。其処から急なアゴ出しの登りを暫次続けると目指す新大日である。振り返ると三ノ塔も大山も最早脚下に続いてゐる。塔ノ岳へは垂直高度にして余す処百五十米足らずである。一息入れて橅 ぶな や雑木の茂る心良い落葉深い径を二、三度の上下を繰り返せば木ノ俣大日の山頂である。山頂と云はんよりは木ノ俣平と呼びたい平坦広濶を極めた茅戸の山頂である。
 大震災前は山頂の橅の巨木の俣に大日如来の像が安置されてあつたのでかく名付けられたのだと云はれてゐる。復もゆるやかな登行を暫らく続けると無名の茅戸の平へ辿り着く。橅の樹林を透して竜ヶ馬場、丹沢山、三ツ峯が一望の内に眺められる好展望地である。
 塔ノ岳への最後の登りを一気に押し切れば不意に西部丹沢の豪壮な展望が開け続く山頂に到達する。
 先づ瞳を南方から漸時西へと回転させてゆかう。
 箱根山塊に続いて愛鷹山の端麗な孤峯が中空に冴え冴えと聳立 しょうりつ し、更にその右手に秀峯富士が燿いてゐる。良く腫れた日は南方の主峰赤石連峰の白雪の山々が遥かに連らなり、雪山への思慕をそゝらされるのである。
 此れらの外劃 がいかく の山塊から瞳を転じ、脚下に淙々 そうそう の響きを立てゝ白々と輝く玄倉川流域に移せば丹沢の核心をなす無数の急峻、悪絶な谷を秘めたドウカクノ頭、ザンザ洞ノ頭、檜洞丸等々が石英閃緑岩の山肌を残雪の様に光らせ乍 なが ら鋭峰を聳立させてゐる。其の背後に西部丹沢の山々が和やかに打続いてゐるのも面白い対称である。
 充分に山頂の景観を楽しんだら孫仏小屋で休息し、それより帰路は大倉尾根を辿らう。
 山頂を辞し熊笹地帯の下りを続けると軈て径は二岐し鍋割山への山径に出逢ふ。それを見送り左手を執れば馬ノ背となり、此れを渡ると花立である。一三七七米の独標記号が有り、石像が安置されてゐる。それより明快な茅戸の尾根を只管 ひたすら に下るのである。水無川をへだてゝ対岸には今朝辿り来た表尾根の山稜が多角的な山容を示して蒼穹を画してゐる。軈て名物の一本松跡に来る。今では此れも枯れ朽ちてしまつたが其の跡に新に第二世を植ゑ付けてある。最早目指す大倉部落はもう脚下である。
 黄昏に程近い頃一日の縦走を終り、一路渋沢駅へと静かな山麓径を心行く迄で味はひ乍 なが ら今日の山行を終る。

  参考時間

 大秦野(バス十五分)ー寺山(五十分)ー蓑毛(一時間十分)ーヤビツ峠(二十分)ー三ノ塔登山口(一時間)ー鷹休(十五分)ー三ノ塔(二十分)ー烏尾山(二十分)ー行者山(五十分)ー新大日(二十五分)ー木ノ俣大日(二十分)ー塔ノ岳。
 塔ノ岳(一時間三十分)ー一本松(三十分)ー大倉(一時間)ー渋沢駅。

 ・丹沢三ツ峯
 ・水無川溯行
 ・鍋割山稜
 ・四十八瀬川右俣溯行
 ・丹沢主脈縦走

 主脈縦走路は丹沢山塊の本町通りであり、山の全貌を知るには好適な径路である。若し、ヤビツ峠から三ノ塔、烏尾、行者、木ノ俣大日、塔ノ岳の表尾根縦走が、丹沢の第一課とすれば、之は将に第二課の段階である。
 この縦走路を歩く時は、早春より初夏にかけてよく、分けても、小鳥の賑やかな六月ともなれば丹沢名物の白八汐の花や紫紅色の三葉つゝじが峯々に咲き誇り、丹沢の美しさが高潮期に達する時である。又、初秋から初冬にかけての佳さは格別で、丹沢独特の茅戸の褥につゝまれた山々を秋草の径を踏み分け、行雲を追ふて行く情趣は、此径路を更に、印象的なものにする。
 一般に主脈縦走とは、南面の塔ノ岳から北上し丹沢山を経て、山塊の最高峯蛭ヶ岳を越えて姫次の高原を過ぎ、焼山の山腹を捲いて、山塊を南北に縦断する径路を言ふのである。

 南口の大倉口は、昭和二年四月に東京急行電鉄小田原線(元の小田原線)が開通して大倉尾根南方六粁 キロメートル に渋沢駅が営業を開始されるや、漸次、登山者が増え、更に昭和十四年一月に塔ノ岳山頂に横浜山岳会の尊仏小屋が竣成されるや俄然、利用者が激増し、遂に一般縦走者の表玄関となつたのである。

 南方登路大倉口は、渋沢駅から大倉迄、坦道がつゞき夜道をかけても途中に指導標があるので実に判りよい。尾根筋に入つても上り一本道で、たゞ水無川と四十八瀬川に挟まれた痩尾根「馬ノ背」さへ注意して通り過ぎれば危険な処はない。そして、塔ノ岳まで頑張れば丹沢山と不動の峯蛭ヶ岳の登りの他は、下り一方で楽ではあるが、余り龍ヶ馬場や姫次あたりの高原状の気持の良さに、のびて居られない事情がある。それは島屋の終発乗合が、十七時三十分(十九年四月調)に乗遅れたら帰京する事が出来ないからである。
 此縦走路の佳さは新宿から毎時、小田原行が出て居るので都合のよい時間を選択する事が出来るのと、前進根拠地が豊富な事である。即ち渋沢駅構内の丹沢山の家、駅前松屋、大倉尾根登山口の大倉山の家、塔ノ岳頂上尊仏小屋等々である。(駅構内の丹沢の家は都合により廃止された)
 主脈縦走は徒歩行程約三十六粁、十一時間を要するので相当健脚でなければならない。出発は晴天でない限り中止すべきで、塔ノ岳尊仏小屋の番人は、土曜及祭日の前日の晩しか居ないので平日は宿泊が出来ない。其他は強行であるが、前夜大倉に仮泊して早朝発がよい。水場が僅少なのと長丁場なので水筒、ランタンは必ず携帯すべきである。
 渋沢駅から右へ線路を越えて、此附近の特産煙草畑と野菜畑を抜け、広い県道を突き切つて行くと堀西の部落となる。こゝで三廻部への径を左に見送り指導標に従へば、やがて大倉部落に入る。恰度渋沢駅から一時間の行程である。部落を出外れると、道は水無川に突当り瀬音が急に高まり響いて来る。此処の畑中左へ一丁許り行くと丹沢党にはお馴染の高橋新一郎君の宅、大倉山の家に着く。川沿ひに左に畑中を通り右側の小祠を見過ぎると大倉尾根の登口である。眼下には水無川の川原が白々と拡がり、仰げば行者山の岩峯が怪奇な姿を見せ、それにつゞく表尾根の山稜が圧する許りに近い。山腹を捲くヂグザクの径は、間もなく急な登りとなり、軈てゾウジバの平に出て、尾根通しとなる。程なく名物一本松の休憩場に達する。一本松は昔から山路を歩く人達の好目標となり、懐しまれた巨松であつたが、昭和九年の台風に吹き倒され、今は枯れたまゝ横たへられ憩ふ人達の腰掛となつて居る。次々に移植された松も又枯れて現在のは四代目位の筈である。茲 ここ から一足登る毎に右は表尾根山稜が、左は鍋割山稜が追つて来る。左上空には富士が美しい姿を見せて居る。五〇九米〔九〇五米?〕の堀山の三角点の右を過ぎれば径は稍平坦となり、草原状の吉沢ノ平の瘤に到り続いて小草ノ平になつて気持ちの良い径が続く。程なく径が急な登りを見せて岩磐の露出した間をよぢ登つて行く。右側の大きな石の上に前尊仏の像が上半身の姿を岩に凭 もた せて安置されて居る。花立ノ頭は此処から暫く上つた所の草山で、径の左に石像が立つて居る。仰げば目指す塔ノ岳の頂上は目前に迫り、右に続く表尾根山稜が折柄の風に茅戸の波を打たせて居る様は仲々壮観である。此処までは来れば、通称大倉の馬鹿尾根も漸く峠を越した訳である。此尾根は一般に渓々の溯行や表尾根其他の縦走の帰路に利用される事が多いので、体力消耗しきつた登山者達が此長い尾根筋や帰路に飽々して大倉の馬鹿尾根と名付けて居るのである。併 しか し此尾根は仲々優れた展望と丹沢独特の佳さを持つて居る事は、塚本さんの写真に依つて証明されると思ふので茲 ここ では蝶々 ちょうちょう としないのであるが、中でも此花立ノ頭の気分は、尾根随一ではないかと思ふ。花立から一旦下つて馬ノ背と言はれる痩尾根を通り一一五七米圏の金冷シノ頭で、左に四十八瀬川の源頭を繞 めぐ る鍋割山稜径を見送り樹林地帯に入り樹間のヂグザクの最後の登りを喘登する事暫くして展け茅戸の明るい頂上に辿りつく。塔ノ岳の展望寔 まこと に素晴しく、南に富嶽を盟主として愛鷹、箱根、そして遥かに天城の山々、瞰下 かんか すれば、相模野の果遠く霞む相模灘の銀波東すれば、大山の尖頭に続く表尾根の山稜、西に転ずれば、檜洞丸、ドウカクの西丹沢の雄峯が畳々として重なり合つて居る。草原状の南北に広い山頂は石祠や石碑、石像などが指導標と交つて建つて居る。其北隅には横浜山岳会の尊仏小屋が建つて居る。小屋の名は、此山の北の肩にあつた五丈八尺の黒尊仏(狗留孫仏)といふ自然石の名に因んだものである。昔から此黒尊仏は、雨乞ひ開運の神として霊験あらたかと言はれ山麓の人々の信仰をあつめて居たが、かの関東大震災にて大金沢の谷底に振落とされ今は跡形もなく徒 いたずら に地図にその名を残すのみである。古くから例年黒尊仏の祭礼は四月、六月に山北の川村岸の東光院に依つて行はれ御影札など配布されて居たが、明治初年に三廻部の観音院が乗り込み、紛争を起こしたりしたものだが、今は両院共手を染めて居ないで、秦野町の行者か何かゞ、看板をあげて居る様である。御本尊の黒尊仏が無くなつても、山麓の人々が何時の間にか変つた五月十五日の祭礼日には塔ノ岳に登拝するとの事である。面白い事にはその当日に頂上を始めとして大倉尾根の要所々々に近郷近在の名うての博徒共が網をはり、登拝に来る善男善女及登山者に対して運試しの賭博を盛んに奨めたと言ふ習慣があつたさうである。

 参考時間

 渋沢(一時間)一大倉(一時間)一一本松(二時間)一 塔ノ岳(三十五分)一竜ヶ馬場(二十分)一丹沢山(三十分)一不動ヶ峰(三十五分)一鬼ヶ岩(二十五分)一蛭ヶ岳(四十分)一原小屋沢分岐(三十分)一姫次岳(四十分)一黍穀(三十分)一焼山分岐(一時間三十分)一平戸(三十分)一鳥屋

 ・高松山
 ・玄倉川溯行
 ・檜洞丸

  附図

 丹沢山塊概念図
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