蔵書目録

明治・大正・昭和:来日舞踊家、音楽教育家、来日音楽家、音譜・楽器目録、士官教育、軍内対立、医学教育、林彪、北京之春 

「パヴロワ女史露西亜舞踊劇 番組」 帝国劇場 (1922.9)

2012年10月04日 | アンナ・パヴロワ 1
 

 〔上の写真は、『帝劇招聘 世界的芸術家』より〕 

 パヴロワ女史露西亜舞踊劇 番組  

        大正拾壹年 〔一九二二年〕 九月十日より廿九日迄 毎夕八時開演 丸の内 帝国劇場 

  アンナ・パウロワ女史を迎へて    帝国劇場専務取締役 山本久三郎氏(談)

 □新日本の代表的劇場である我が帝国劇場は、只単に堅実一方な興行にみを繰返すことは其本旨でない、須らく現代人の嗜好欲求の傾向を察知して、これが先端となり暗示となり、亦刺戟ともなる有意義なものを江湖に紹介する事に依つて、始めて代表的劇場としての使命を完うする所以であると信じます。
 □例へば、今現に新国民音楽の樹立とか、新日本舞踊の創設といふやうな新運動が起つてをります、凡そ一つの運動の起る迄には、其処に起るべき必然の生命があらればばらぬ、其生命の奥を探り求めて、これを激励し、保護し、遂にその目的を達成せしむる事に努力するのが、代表的劇場の当局者としての責任である、と、斯やうに私は常に考へてゐるのであります。
 □努めて新作物を上場し、頻りに泰西名家の来演を乞ふのも、総て此意味に他あらぬのであつて、アンナ・パヴロワ夫人といふ舞踊界唯一最大の明星を迎へた事も亦、「現代人の共鳴するに足るだけの新日本舞踊を、つくりたい、みたい」といふ否むべからざる最近の新運動に対する一大光明と確く信ずるからであります。
 □ただ、二十日間といふ長期の開演は事実大冒険であります。然し乍ら、パヴロワ夫人は帝劇に於て二十日間の保證がなかつたなら恐らく日本への来演は不可能であつたのみならず、概ね物事の建設は智よりも勇にある場合が多いといふ私一流の信念と、一方この機会に於て夫人の有する芸術全部を心行くまで味つて戴きたいといふ欲望から、此大冒険を敢行した次第であります。
 □エルマン、シューマン・ハインク及びヂンバリスト諸楽聖の演奏会に成功しました事に勇気づけられたことも事実でありますが、帝劇は儲かるから盛んに彼等を迎へたのだといふやうな一部の論には首肯出来ません。私は更に此十一月ピアニストとして世界第一のゴドフスキイ氏の来遊を願つた、尚ほ其上にも明年はクライスラー、ハイフエッツ、マコーマツクの諸氏にも来演を慫慂してゐます。
 □せめては、今夕御来会の諸賢にだけでも、私の真意を御諒解くださつたならば、私は勇んで全責任を負ひ、更に々々我芸術界の為め貢献したく思ふのであります。〔杉浦善三記〕 

   

    自九月十四日 至同十七日 毎夜八時開演

 第一 舞踊劇 コツペリア 〔“COPPELIA”〕一幕
      
      レオ、デリベ 〔LEO DELIBES〕作曲

     幕間約十五分

 第二 舞踊劇 六つの花 〔“SNOWFLAKES”〕一幕

      「ナツトクラツカーより」
          チヤイコフスキー作曲
          クリスチン 〔Ivan Clustine〕 振附
          ウルバン 〔J.Urban〕 背景装置

     幕間約十五分

 第三 舞踊小品 六種

  (其一)プリマウ゛ヰーラの樹  〔Primavera〕  ‥‥ マイエル、ヘルムンド  〔Meyer-Helmund.〕  作曲
  (其ニ)蜻蛉  〔Dragonfly〕  ‥‥ クライスラー  〔Kreisler.〕  作曲
  (其三)弓と矢  〔Bow and Brrow〕  ‥‥ チヤイコフスキイ  〔Tschaikowski〕  作曲
  (其四)田園舞踊 アヂイル  〔Idyl〕  ‥‥ シヨパン  〔Chopin.〕  作曲
  (其五)牧踊  〔Pastorale〕  ‥‥ シユトラウス  〔Straus.〕  作曲
  (其六)和蘭舞踊  〔Holland Dance〕  ‥‥ グリーク  〔Grieg.〕  作曲  
  (其七)セーンダンサンテ  〔Scene Dasante〕 ‥‥ ボツシエリニ  〔Boeherini.〕  作曲

     幕間約十分

 第四 レーゾンデリイー   〔“LES ON DERIES”〕  カタラニ 〔Catalani.〕 作曲

  音楽指揮 セオドル、スタイアー 〔Theodre Stier〕 氏

   御入場料(観覧税金共)
  特等 金十五圓 三等 金 五圓
  一等 金十三圓 四等 金 二圓
  二等 金 十圓

   

 自九月廿二日 至同廿五日 毎夜八時開演

 第一 舞踊劇 波蘭土の結婚 〔“POLISH WEDDING”〕 一幕
      
      ピアノワスキー 〔Pianowski〕 振附
      クルビンスキー 〔Krupinski〕 作曲
      ドラビーク衣裳背景考案

     幕間約十五分

 第二 舞踊劇 花の眼覚め 〔“FLORA’S AWAKENING”〕 一幕

      ドリゴー 〔Drigo〕 作曲
      ロツテンスタイン衣裳背景

     幕間約十五分

 第三 舞踊小品  〔“DIVERTiSSMENTS”〕七種

  (其一)匈牙利のラプソヂー 〔Rasodie Hongroise〕  ‥‥ リスト 〔Liszt〕 作曲
  (其ニ)カリフオルニヤの罌粟 〔Californian Poppy〕  ‥‥ チャイコウスキー 〔Tschaikowski〕 作曲
  (其三)ピエロット 〔Pierrot〕  ‥‥ ドウボルジャック 〔Dvorjak〕 作曲
  (其四)三人舞踏 〔Pas de trois〕 ‥‥ ヂブルカ 〔Zibulka〕 作曲
  (其五)波斯舞踏 〔Persian Dance〕 ‥‥ ムソルグスキー 〔Noussorgski〕 作曲
  (其六)ピヂカトー 〔Pizzicato〕 ‥‥ ドリゴー 〔Dsigo〕 作曲  
  (其七)露西亜舞踊 〔Russian Dance〕 ‥‥ チャイコウスキー 〔Tschaikowski〕 作曲   

   

    自九月廿六日 至同廿九日 毎夜八時開演

 第一 舞踊劇 魔の湖 〔“ENCHANTED LAKE”〕 一幕
      
      フランク、シユーベルト作曲
      イワ゛ン、クルスチン振附 

     幕間約十五分

 第二 舞踊劇 仙女人形 〔“THE FAIRY DOLL”〕一幕

      バイエル其他作曲
      クリスチン振附

     幕間約十五分

 第三 舞踊小品

  (其一)ボヘミヤ舞踊 〔Bohemian Dance〕 ‥‥ ミンクス作曲
  (其ニ)蜻蛉 ドラゴンフライ 〔Doragonfly〕 ‥‥ クライスラー作曲
  (其三)弓と矢 〔Bow and Arrow〕 ‥‥ チヤイコウスキー作曲
  (其四)和蘭舞踊 〔Holland Dance〕 ‥‥ グリーク作曲
  (其五)アニトラの舞踏 〔Anitor s Dance〕 ‥‥ グリーク作曲
  (其六)瀕死の白鳥 〔Swan〕 ‥‥ サンサン作曲
                         フオキーン振附  
  (其七)セーン、ダンサンテ 〔Scene Dansante 〕 ‥‥ ボツシエリニ作曲
  (其八)藍色のダニユーブ 〔Blue Danube〕 ‥‥ シユトラウス作曲
  (其九)醼楽の人 バツキヤナル 〔Bacchanale〕‥‥ グラヅノフ作曲

   音楽指揮 セオドル、スタイアー氏

 下の文は、「世界の顔 アンナ・パヴロヴァ (エンリコ・ロシー※訳)」(『漠のパンフレット』 第四輯 所収)の一部である。

 舞台と観客席との間を電気に例へれば磁場のやうなものだと、私は何時も考へる。
 私は観客に呼びかける。私は心から訴へる。さうすると私は、彼等が私に対して抱く関心が、何んな形のものかを、木の葉のやうにデリケートな敏感さで、すぐに知つてしまふ。私が舞台に立てば、観客と私の間に電気の回路(サーキット)が結ばれるのだ。

 日本のトキオ‥‥私は帝国劇場の舞台に立つたー思へば既に十年近い昔だがー私は異常に真剣な眼が、私の心臓を刺すやうに注がれて居るのを感じた。彼等は私の踊を享楽しやうとは思はない。私を知らうとする。私の踊を学ばうとする。じつと哲学的な凝視を注いで、彼等は静座する。私は踊つて踊り抜いた。私は熱狂した。
 踊りを終つてホツとして、ディヴァンに身を沈めた私だつたが、何時迄も昂奮が消へなかつた。そして考へた。彼等は私の踊を解剖した。然し全体的に私を知つてくれただらうかーかくて私はトキオを去つた。アリガト‥‥‥日本の皆様、兎に角私は真剣な皆様に心から感謝するのです。

 ※エンリコ・ロシーは、石井舞踊研究所の器楽講師。
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「瀕死の白鳥」 アンナ・パヴロワ

2012年08月18日 | アンナ・パヴロワ 1
 ○ 上の写真は、アンナ・パヴロワ 〔Anna Pavlova〕 の「瀕死の白鳥」で、一九一〇年 〔明治四十三年〕 の米国公演のパンフレットに掲載されたものである。

 ○ また、下の写真は、「1927〔年〕」の消印のある英国製の絵葉書である。

 

 六代目尾上菊五郎は、大正十一年 〔一九二二年〕 九月の帝国劇場での公演を見ており、のちに次のように語っている。

 近頃よく新舞踊を拵へますが、新しい舞踊はどうも生温い、西洋の踊りはどうも飛びたがる。西洋の踊りは紫の蛭がくつついたやうな眉を引いて、髪はチリゝ、爪を真赤にして飛び廻るので、あれは引ッ掻く稽古かも知れません。唇が真紅で人喰人種のやうな恰好です。日本の踊りにはかういふのは滅多にありません。だから私は日本人の踊る西洋の踊りは見ない事にしてゐます。
 つまり日本に生れた者は日本のものに限ります。やはりパパやママよりお父ッあん、おつかさんの方がはるかにいゝ。富士山の高さを知らないで、ヒマラヤ山の高さを知らうなどと思ふやうな事は怪しからぬと思ひます。六七年前から何々の家元、何々の家元と、家元ばかり出来ました。踊れもしないのにそれが一ぱいです。舞踊が流行るのは大変結構です。が、今になつて日本の踊りを研究するのは遅蒔です。もつと早くからやつて貰ひたかつたと思ふ。今は敵国のことがやれなくなつたから、日本の方に引き摺り込むといふのでは如何かと思ひます。日本人は始めから日本のものに限ります。頭の毛の黒い者は日本に限るのです。尤も私は大分白くなりましたが…。
 先ほども音楽学校の校長と話しをしたのですが、「ねんゝよう、おころりよ、ねんねのお守りはどこへ行た」この子守唄で子供が眠られます。私もよくやられました。今はやられませんがね。之を西洋の節でラララッーとやられては眠られない。あつちの唄ならば又別ですが、「お江戸日本橋七ツ立ち」これをラララッでやられると、牝犬の遠吠えのやうに聞える。西洋の唄は酔はらひの唄、日本の唄は日本の節廻しでやらなければ事実聴き辛い。決してけなすんじゃありません。向かふのものは向かふのもの、日本のものは日本のもの。それをごつちやにした西洋皿へ飯を入れて、日本の茶をかけて、沢庵の香物をかじり乍ら、「サジ」でかつこむやうなものです。どつちかにしなければいけないと思ひます。 
 そこで西洋の踊りと日本の踊り、これは大変な差がございます。けれども外国にも かに踊りの名人があります。「瀕死の白鳥」を踊ったアンナ・パブロバ、あの人等は偉ひと思います。私は頭が下がりました。といふのはあの白鳥が死んだ幕切れのところで息をしてゐませんでした。私は余り不思議なので三日間行きました。その時、かういふ広い舞台に、最後にピタリと寝る。私はごく近い席に行って見たが息をしない。若し十分間幕が閉まらなかったら、あの人は事実死ぬかもしれません。余りの巧さに「私は菊五郎です」と言ったが、向かふは私を少しも知らない。それで紹介をして貰って自分の家に連れて来て、二晩芸談をやりました。芸のやり方、踊りのやり方が少しも違はない。通訳でやるんですから話が二時間で済むところは四時間かゝる。それで二晩かゝつたんです。
 そこで私は右足を出して叩きました。相手の足も叩きました。婦人の足を叩くのは失礼ですが、パヴロバがスカートを捲って足を出し、叩かせた。私も負けない気になって、俺のも叩いて呉れと、両方で叩き合った。併し私あの女に負けました。大変な堅さです。ゴツゝいふ。私も固い方ですが、向かふのはもっと固い。つまりそれだけ鍛錬が出来てゐるんです。それで帰すのが嫌になりました。さりとて一緒に踊るわけにも行きませんでしたが。
 いろゝの芸談の中で、私何が一番むづかしかったかと訊きました。幕が閉まる時が一番むづかしいと、涙をポロゝ出しながら話しました。同感です。どんな踊りをやっても人間ですから息が切れます。それで大抵は幕の下りる前に大きな呼吸をするんですが、これは実に見苦しいものです。その時にこの「瀕死の白鳥」は呼吸をしないのですから、私もこれには実に感服しました。


 『日本諸学講演集』第十三輯芸術学篇 「芸談 六代目尾上菊五郎」文部省教学局編纂 昭和十九年三月:昭和十八年 〔一九四三年〕 六月十日の一ツ橋共立講堂での講演の速記 の一部  

 ○ 下の写真は、一九二二年の公演後の帝国劇場の楽屋中のアンナ・パヴロワで、『サンデー毎日』(第一年第二十七号:大正十一年九月二十四日発行)の表紙を飾ったものである。

 
 
 快よき疲れ

 舞台から楽屋に引込むと、椅子に凭つてーーぐつたりしたパヴロワ夫人。しつとりと汗に濡れたその四肢には、踊り勞れた軽い心の満足が躍動してゐる。レンズを向けると、ヒョイと左の足を右に重ねて、鏡の方を向いた。隈取つた眼の縁、唇などに、年齢から争はれない固い線はあるが、無心に置かれた快い疲れの手足には、なだらかに流れた線の魅力がある。これが十万円の保険をつけてあるといふ舞踏女王の足だ。甲が高く、爪先きが小さく、踵は全く退化してゐる。この足にこそ、彼女の頭脳が反映して、世界の人を、各所に泣かしたり、笑はしたりして来たのだ(帝劇の楽屋にて、鈴木生)

 なお、この号の7頁には、着物姿で道成寺を習う弟子など2葉の写真もある。 

○ 下左の写真も、アンナ・パヴロワの「瀕死の白鳥」で、『週刊朝日』 第二巻 第十三号 大正十一年〔一九二二年〕九月十七日発行 通巻 第三十号 の表紙に掲載された。

    

 パブローワの舞踊

 この号の二十頁の「音楽」には、「パブロワ夫人後援会 は〔九月〕九日午後三時より鶴見志月園〔花月園〕ホールで来朝歓迎舞踊会を催すと」などとある。

 上右の写真も、裏表紙の「ライオン練歯磨」の広告にあるもので、パヴロワと思われる
 なお、のちにこの『週刊朝日』の表紙を見ているアンナ・パヴロワ〔Anna Pavlova〕の写真・関連記事が大阪朝日新聞〔大正十一年十月七日 第一万四千六百六十号〕に掲載された。大阪公演初日の十月六日に大阪朝日新聞本社を訪問したアンナ・パヴロワに贈られたとのことである。
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「日本舞踊家の見たるアンナ・パヴロワ」 (1922.10)

2012年03月16日 | アンナ・パヴロワ 1
    人としてのパヴロワ夫人
                  尾上菊五郎

 パヴロワ夫人ですか。芝居の都合で見られませんでしたが、仕舞つてからは是非見る積りです。
 私は横浜へ夫人が乗つてゐる船が着いたとき榮三郎と男女藏とを連れて出迎ひに行つて逢ひ写真を撮り、引き伸ばして夫人に贈りました。
 私は初めて逢つた時、たしかに此夫人は踊れる人と思つたのは、部屋の四十九号から出て来たときに非常に足に力がある女と感じましたさうして足が軽く上がるやうな気がしました。
 外国人の話は一切為方 しかた 話ですが、取分けパヴロワ夫人は、それが多いやうで、その一々が総て踊 おどり の形で遣つてゐました。
 握手をするのも、お辞儀をするのも、部屋へ這入つて戸を締めるのも一切踊の形になつてゐましたから、たしかに踊は旨いだらうと思ひました。
 さうして桟橋を大概の人は屈 かが むのを、パヴロワ夫人は反身 そりみ で、爪先を立てゝゐました。
 評判に拠ると上手だといふについて、果して自分の感想が当つたと思つて自負しました。 
 芝の家へ呼んでお茶を上げましたり〔上の写真:絵葉書のもので、撮影日は九月十二日〕、市村座の部屋へも参りました。

    

 新聞で御承知の通りでせうが、家でいろゝの話から、パヴロワ夫人が土蜘 つちぐも の法被 はっぴ を着、私が山中平九郎の鱗 うろこ の着物を着て、是非写真を撮りたいといふので、二人で並んで写ました。〔上の写真は、左が絵葉書の、右が雑誌掲載のもので、「菊五郎とパヴロワ夫人」〕 
 その時パヴロワ夫人が「日本の着物、綺麗なものばかりあります」と云はれたから、私が「あなたの国、舞 をどり の着物にきたないものもありますか」と聞いたら、「それはない」と答へられました。
 そこで私が「日本の踊の着物綺麗なものありますが、きたないものもあります」と云つたら見たいと云はれましたから、気違ひ幸兵衛の着物を出して見せました。

  

 それから子供を見せてくれと云はれましたから、次男の清晁 せいてう を見せましたら、国へ連れて行きたいと云はれました。連れて行かれて堪まるもんですか。〔上の写真:左は、雑誌掲載の「菊五郎夫妻と菊五郎の愛児を抱けるパヴロワ夫人」、右は、絵葉書のもの〕
 さうして気違幸兵衛の踊を遣つて見せましたら、是非遣つて見せましたら、是非遣 や つて見たいなどと云はれましたが、お世辞の好い事。一体日本の芸術家はお世辞が足りません。取分け私なぞはそのー点に就いてはパヴロワ夫人の爪でも煎じて呑みたい位にお世辞の好さ、踊は旨いと聞いただけ、まだ見ませんが慥 たし かに巧いに違 ちがひ がありません。

 上の文は、大正十一年 〔一九二二年〕 十月一日発行の『新演芸』十月号 第七巻 第十号 に掲載された「日本舞踊家の見たるアンナ・パヴロワ」の三つの文の中のひとつである。 
 
 なお、「六代目菊五郎とその家族と共に。」という写真が、マーゴ・フォンテーン著・湯川京子訳の『アンナ・パヴロヴア』(文化出版局 昭和61年)にある。
 
 

 この写真は、アンナ・パヴロワの踏影会〔菊五郎もその同人〕への御礼状で、大正十二年三月発行の『踏影』 第二号 の口絵に掲載されたもの。
 
 その日本語訳は、掲載写真の裏面にある。 〔手紙の日付は、一九二二年九月十二日〕
 
 若人達よ 
兄等の一番御深切な待遇に心から感謝して居ります 
美しい会員章の贈り物は私に「好い日本の思ひ出」として役立ちます 
私は兄等の計画の目的に深い感銘を覚えました「完全な成功」が兄等の努力を待つて居る事を私は疑ひません 
                                        アンナ・パブロワ
 踏影会皆々様

 下の一文は、大正十一年 〔一九二二年〕 十月一日発行の『新演芸』 十月号 第七巻 第十号 に掲載された「日本舞踊家の見たるアンナ・パヴロワ」の三つの文のひとつである。

 パヴロワ夫人の舞踊
               松本幸四郎

 帝国劇場では、十日から僕等が昼間舞台を勤めることになつて、夜は夜で、露西亜の舞踊を御覧に入れてゐます。
 僕がその初日を見物すると、或人が僕にパウロワ夫人の舞踊に就いて「日本の踊 をどり と比較して如何 どう だ」といふお尋ねがありましたので、僕がそれに答へたのを、又お尋ねに拠つて申しますれば、
 「それは日本の踊に比べることは出来ません。日本の踊は即ち振り所作で、始終表情があつて謂はゞ芝居の元となつてゐるのですが、あちらのは御覧なされた通り、体の鍛錬であり、又一つには特種の体でやるのですから全然 まるで 日本の踊とは趣が違ふのです。今夜見ました『瀕死の白鳥』は得意中の得意のものだと聞きましたが、なるほど結構なものでした。此の前有楽座でしたが、同じ露西亜婦人の『瀕死の白鳥』を見ましたが、あの時は白鳥にも羽が付いてゐたし、色電気を使つて見せました。今度のは羽などもなく淡 あつさ りとした服装 いでたち で、色電気も使はないところに、パヴロワ夫人の最大見識があつたやうに思はれました。稽古も毎日ちよいゝ見ましたが、物凄いやうでした。僕は大陸を歩いて来ませんから受合つて申されませんが、単に云へば、パヴロワ夫人の踊は、世界一だと云へようと思ひます。それは私のみならず、あの初日の夜、見物された名士の方々も大分来られたやうにお見受けしましたが、廊下で「それこそ本統の世界だ」と、どなただか褒めてゐられたのも耳にいたしました。」

 

 この写真は、絵葉書のものであるが、同じ写真が「中村福助とパヴロワ夫人の握手」の説明で、下の『新演芸』に掲載されている。撮影日は、大正十一年 〔一九二二年〕 九月十六日と思われる。

 中村福助は、帝劇の初日と三日目〔山田耕作夫妻・父の中村歌右衛門・友人近藤柏太郎らと〕にパヴロワの舞台を見ている。 

 下の文は、大正十一年十月一日発行の『新演芸』 十月号 第七巻 第十号 に「日本舞踊家の見たるアンナ・パヴロワ」として掲載された三つの文の中のひとつで、写真「中村福助とパヴロワ夫人の握手」もある。

   何度でも見たい
            中村福助

 わたしは「瀕死の白鳥」が一番好きです。第一回の番組では、この「瀕死の白鳥」を見たいために二度見にゆきました。何度でも見にゆきたいと思ひます。
 丁度、今度の羽衣会で、新しい舞踊「盲鳥」を上演することになつてゐたので、わたしにとつては、この上もない幸ひなことでした。
 「盲鳥」は「瀕死の白鳥」とは殆んど違ふものですが、わたしの考へてゐたことが、こゝに実演されてゐて嬉しかつたことは、舞台の上下に電気を點けないことでした。その明るさは、落ちついた深みのある味になりました。又、唄のない音楽だけであること、つまり、音楽と踊りによつての表現をするといふ事でした。わたしは、ひどく嬉しくなつて、なほ、「盲鳥」のときに用ひる衣裳や、電気の実際的な方面のことをいろゝと考へました。さうしてノートに書いておきました。なほもつと深くつきつめて考へてみるためです。
 二度目には、さうした考へを捨てゝかゝつて見にゆきました。丁度山田耕作氏が一緒に行つてくれたのは又幸でした。父も「瀕死の白鳥」を是非見たいといふので、ともゞそろつて出かけました。この時はわたしは「盲鳥」のことなんかの考へを全然すてゝしまつて、のん気な心持で見るつもりでした。しかし、一所に行つた耕作氏にいろゝ質問したりしました。わたしは舞台を前に見ながら、同氏からいろゝと説明されるので、前に見た時よりもよく分りました。又、始めて見た時より落ちついて見ることが出来たのもよかつたと思ひます。
 近いうち、羽衣会ではこのパヴロワ夫人の一行の歓迎会を開く筈です。その時は直接に逢つていろゝと聞いてみたいことがあるけれども言葉が通じないのは残念です。いろゝ突ツ込んで聞いてみたいのですけれども……。

 下は、大正十一年十月一日発行の『サンデー毎日』 一年 二十八号 に掲載された「パヴロワ夫人と私と」の一部である。

 日本の踊は手振りなり顔の表情で意味を描き出しますが、手の働きより足の働き、分けても爪先 つまさき 。トウの力のはたらきを中心にして、手の形は日本舞踊と違つて自然に流し美を描くに任せて置くのです、そして全身の形を統一して美の表現をして居るのが非常に私の参考になりました。 夫人の来朝記念としてパヴロワさんに何か芸術上で頂戴したいと思つていましたが、幸ひ十六日に父が自宅へ夫人をお招きしましたので、種々(いろいろ)と教を仰ぎ啓発される処がありました。そして夫人からも御頼みがありましたので誠に不遜な事ですがお礼の心持で帝劇の稽古場で、日本の舞踊をお見せしたら大変喜んで居られました。

 なお、この同じ号には、「東京千駄ヶ谷成駒家邸におけるアンナ・パヴロワ夫人ー向つて左歌右衛門、右福助、中央パ夫人の前が児太郎」という写真もある。 
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『アンナ・パヴロワ』 (1922.9-10)

2012年01月02日 | アンナ・パヴロワ 1
 

 ○ 表紙には、「アンナ パヴロワ」とあり、「瀕死の白鳥」を踊るパヴロワ 〔Anna Pavlova〕 の写真がある。奥付には、「大正拾壹年 〔一九二二年〕 九月廿八日発行 編輯兼発行人 千葉吉造 発売所 (大阪)松竹合名社」とある。22.3センチ、40頁。
 
 ・パヴロワ夫人に就て 

     ホノルゝにて 三浦環 しるす

  全世界に於ける唯一最大の舞踊のスターでありますアンナ・パウロワ夫人の東洋行は本当にワンダフルで御座います。パウロワ夫人は私の最も親しい友達、と申し上げますより寧ろ畏友として尊敬してゐる方なのです。どうぞ母国の皆さま、此の比類なき名手の芸術をお見逃しにならぬやう環は心よりお願ひ申上げます。さて私は、当ハワイのコンサートを了へてアメリカの各地を廻り、ベノスアイレス及びレオデヂヤネーロへ参ります、其後のことはアーテストの悲しさ一寸見当もつき兼ねますが、一日も早く蝶々の羽をなつかしい日本の土地で休ませて戴きたくて希て居りまする。しかし、私そのものであります鷲印レコードも御座いますことですから、帰りまするまで私吹込みの鷲印レコードを可愛がつて下さいませ。
  終りに、パウロワ舞踊会の成功と、日本の皆様の健康を祈ります。
        一九二二年八月十五日

〔口絵写真〕

     

 ・瀕死の白鳥 
 ・六つの花 
 ・妖精 〔上左〕
 ・アンナ・パヴロワ 〔上中〕
 ・ヒルダ・バストウ〔下の写真は、『サンデー毎日』第一年第廿四号の表紙のもの〕

  
 
 ・六つの花 
 ・蜻蛉
 ・新築の帝国ホテルにて 花が花につゝまれて 〔上右〕
  
目次

 ・序文
 ・アンナ・パヴロワ夫人招聘に就て 松竹合名社 白井松次郎

上演曲目解説
 
 ・露国舞踊劇一座人名 〔技芸員 音楽指揮〕
 ・舞踊小品目録    

   パヴロワ夫人独演舞踊 

    瀕死の白鳥‥サンサン曲 
    ゼ、ドラゴン、フライ(蜻蛉)‥クライスラー作曲 
    カルホルニヤの罌栗〔ケシ〕‥チヤイコウスキー作曲 
    夜‥ルービンスタイン作曲 
    ロンド‥べートーヴェン、クライスラー作曲 
    萎み行く薔薇‥チヤイコウスキー作曲 
    舞踏‥クライスラー作曲

   パヴロワ女史・ヴオリニン氏 二人舞踊 

    悲調なるウオルツ‥シベリウス作曲 
    ガヴォツト。パヴロワ‥リンケ作曲 
    バツキヤナル‥グラヅノフ作曲 
    ウオルツ、カプリス‥ルービンスタイン作曲 
    クリスマス‥チヤイコウスキー作曲 
    二人舞踊‥同上 
    時の経過‥ボンキエリ作曲

   ヴオリニン独演舞踊

    ピエロツト‥ドウボルシヤツク作曲 
    シムバルの舞踊‥グウノー作曲 
    弓と矢‥チヤイコウスキー作曲 

   座員の舞踊

    勾牙利のラプソヂー‥リスト作曲 
    マヅルカ‥グリンカ作曲 
    オーベルタス‥レワンドウスキー作曲 
    希臘舞踊‥ブラームス作曲 
    ゴパク‥セロフ作曲 
    幻形‥ベルリオツ作曲 
    ピヂカトー‥ドリゴ作曲 
    センチメンタルなウオルツ‥シユーベルト作曲 
    牧踊‥シユトラウス作曲 
    ツアルダツ〔濁点あり〕(勾牙利舞踊)‥グロツスマン作曲 
    三人舞踊‥シユトラウス作曲 
    アニトラの舞踊‥グリーク作曲 
    ミニユエツト‥パダレウスキー作曲 
    シーン、ダンサント‥ボツケリーニー作曲 
    アン、スールダン‥テラム作曲 
    春の聲‥シユトラウス作曲 
    火の鳥‥チヤイコウスキー作曲 
    ボヘミヤ舞踊‥ミンクス作曲 
    藍色のダニユーブ‥シユトラウス作曲

 ・アマリラ役割    同 梗概
 ・シヨピニアナ役割 同 梗概
 ・コツペリア役割   同 梗概
 ・六つの花役割   同 梗概
 ・花の目覚め役割  同 梗概
 ・魔笛役割      同 梗概
 ・秋の木の葉役割  同 梗概
 ・波蘭土舞踊役割  同 梗概
 ・メキシコ民謡役割  同 梗概
 ・眠れる皇女役割  同 梗概
 ・魔の池役割     同 梗概
 ・仙女人形役割   同 梗概
 ・世界の一つの花

 関西公演日 〔下の※は半券の記載による追加〕

   地 時 所
   
   名古屋 十月四日(水) 五日(木)  末広座  
   大阪  同 六日(金) 七日(土) 八日(日) 九日(月) 十日(火) 角座
   京都  同十八日(水) 十九日(木) ※二十日 ※二十一日 南座 
   岡山  同廿一日(土) 廿二日(日) 岡山劇場
   広島  同廿三日(月) 廿四日(火) 壽座
   門司  同廿八日(土) 廿九日(日) 凱旋座
   福岡  同廿六日(木) 廿七日(金) 大博劇場

 毎夕七時半開演  

後記


 ○ 表紙には、「アンナ・パヴロワ」とある。裏表紙に、「大正十一年 〔一九二二年〕 十月一日発行」とある。22.5センチ、口絵4頁・本文6頁。

 見返し
  ・写真 Dying,Swan 瀕死の白鳥
  ・目次 

 口絵

       

  ・パヴロワ夫人 〔上左の写真〕
  ・Lo Peri 仙女 〔上中の写真〕
  ・オルフォイス
  ・The Dragon Fly 蜻蛉 〔上右の写真〕

 本文

  ・唯一の美しい花 それがアンナ・パヴロワ夫人の舞踊なのです  … 山田耕作
  ・時間的の彫刻  真のルネサンスであり「浮世絵」の舞踊    … 齋藤佳三 
  ・舞踏の女王   

       尊きまでに白く秀でた象牙彫のやうな彼女の足

 アンナ・パヴロワ夫人が、露西亜を見棄てゝ、いよゝ外国への旅興行に上らうとする時、彼女は自分を見送りにきてくれた多くの人達の中にひときわ老いた某老将軍に対つて、別れの言葉を云つた「では将軍よ左様ならこれからの一番善良なもの全てがあなたのものになることを望みます。」するとその老将軍は銀糸のやうな長髯を撫ぜて「否 いや 、一番善良なものは今この国を去らうとしてゐるではないか、そしてそれは永久にこの国へは戻らないと云つてゐるではないか……」と、悲壮な語調で云つた。
 世に名高い「瀕死の白鳥」は、実に彼女によつて創作された舞踊なのです。原作曲者サンサン氏は自分の作品「スワン」がパヴロワ夫人によつてメトロポリタンのきらびやかな、ひろい舞台に上せられたとき、幕が下りぬ先から廊下の入口に彼女を待つて、彼女が舞台姿のまゝの白い細々しい身に犇 ひし と抱きついたまゝ、感激のあまりしばらくはものが云へず、やがてサンサン氏は泣き出した。そしてかすかに「ありがとう」と一言云つたきりであつたそうです。
 彼女の舞踊ーのそれは、しかし決して理論づくめのものではないのです。夢、たゞ美しい桃色の夢心地にまで彼女の手や足は、われゝを魅惑します。
 天下無双 インコムペラブル の名は、パヴロワ夫人の別名のごとく欧米の舞踊界に喧伝だれたのも既に久しいことです。舞踊の女王 レエヌ、ド、ラ、ダンス と云はれてからでも年月はかなり経ました。彼女の王冠は永久に何人も近づき得ないでせう。
 アンナ・パヴロワ夫人の舞踊を一度見たゞけでは、それがあまりに夢幻的である故に、よくはわからず二度、三度と愛賞するにしたがつて、いよゝその技術の天下無双であり、女王であることに肯定し得ると云ひます。
 殊に、そのトーダンスは、おそらくはパヴロワ夫人を最後として再びは欧米の舞踊界からトーダンスの跡は絶えるとまで云はれてゐるだけあつて、実に見事なものです。
 それに、いつたいが露西亜の舞踊家はみなそうですが、なかんづくパヴロワ夫人の舞踊は、静から動へ、動から静へうつるときの型が実際筆紙を超越した美しさを持つてゐます。たとへどんなときでも彫刻的であることを忘れないところに、永年の教養と苦心とが窺はれます。
  
  ・パヴロワ夫人招聘に就て                   … 松竹合名会社 白井松次郎
   パヴロワ夫人が横浜に上陸した時

 パヴロワ夫人大舞踊劇団一座
 アンナ・パヴロワ夫人大舞踊団関西公演日割

 アンナ・パヴロワ夫人と御園化粧品
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「日本芸術の印象」 アンナ・パヴロワ (1922.11)

2011年06月11日 | アンナ・パヴロワ 1
 この文は、大正十一年 〔一九二二年〕 十一月一日発行の『女性改造』 十一月号 (第一巻 第二号) に、写真一枚〔下の写真〕と共に掲載されたものである。

  

   日本芸術の印象 
            アンナ・パヴロワ

 あたしが、お国を訪ふと、もう、月のひとつを閲しました、まことに早いものです。さうして、あたしは、この帝国ホテルにー慕はしい大東京にもー別れねばならぬ、寂しき日が、あたしに近よつてゐるのです。
  おもへば、碧い波の上から丹麗な富士山の姿に迎へられて、港にきたあの朝から、いろゝな日本の印象が、あたしの踊る尖頭旋回 シユル・レ・ホアン のやうに、めまぐるしいやうに、あたしの感覚に触れ溢れてゐるのでございます。
 エンプレツス・オブ・カナダの甲板で、あたしは、いつも、どこの国に行つても、されるやうに、お国の新聞記者の方に逢ひました、そして写真を撮影させられました。それは、なんでもないことですが、お国の芸術を解せらるゝ知識のある女性にお逢ひしたことが、いちばん、あたしを驚かしたのです、あたしは、お国の女性を人形のやうな女性だとばかり思ふてゐたのでございます、白い顔に夢を見てゐるやうな黒い細い眼をもつた、行儀作法のゆきとゞいた静かな女性で、言葉すらもあまり言はれぬ、はにかみがちな、そんな女性だと思つてゐたのでございます、その女性のすがたは思ひがけないあたしの意表にでた女性でございました、流暢な英語をかたりました、握手を、いきほひよくしました、さうして社交的な礼儀を程よくもつた女性でした、-あたしは欧米で日本の女性によく逢ひました、友もありますーしかしそれは海の外に出た女性ー代表的な分子の女性であつて、進取的な頭脳の所持者であるからこそ、あゝでもあつたのだとーかうばかり思ひこんでゐたのでございますーが、あたしの思想の乏しいものをお笑ひくだされますなー欧米の女性は、まだまだ日本の女性のことは、あたしの知識のやうな方が多いのであることをあたしはお国の女性に告げたく思ふのでございます。
 お国の女性はーあたしの接した、はじめの印象の女性はーかほどに、あたしの夢をさましてくれました、決して錦絵のなかのやうな女性ではなかつたのですーあたしは、それであればよいと思ふのですーしかしお国の女性は、錦絵の女であるべく耐忍は、できかぬることであらうと思ふのですーそれは日本に上陸してほど経て、あたしが日本の生活といふものに触れた時、つくゞさう思ふたのですー夢の日本は、遠のむかしに消えてゐると思ひましたー日本は近世のコンマア・シヤリヅムの大きな渦のなかに、くるしく、もがいてゐるやうな姿です。
 あくまでも物の価が高うございます、こゝろみに倫敦でもとめる絹のハンカチーフ或ひは絹くつしたのやうなもの、それがことゞくお国のはうが高値をもつてゐるのです、この、あたしが、とまつてゐるホテルとてもさうです、このやうなホテルの料金は紐育の一流のところでございますーあたしが日本が悪い商業主義 コンマーシヤリズム の渦のなかにあるとまおすのは、これのことでございます、かくの如き日本の現状に女性ばかりが錦絵のやうな夢をむさぼつて居られるわけのものではなかつたのです、日本の現状の女性の生活ほどむづかしいものはないとあたしは思ふやうになりました、世界に於て日本の女性こそ目醒むれば目醒むるほど、むづかしい、いろゝな問題に蓬着する女性はないだらうと思ふのです、人生の根本である衣食住の大問題がそこに横はつてゐるのです、世界共通の問題ではなくて日本独自の衣食住を解決してかゝつてからー
 日本人の生活が世界共通になるべきかー或ひはその古来からの型を踏襲してゆくべきかー実におほきな問題があります、それをどうしてゆくべきかー日本の女性はその改造に勇ましく進まねばならぬのです、そこに悲痛な闘争もありませう、しかしそこを、あたしが踊るやうなバッキャナルのやうな生活の力の豊悦をもつと、つきすゝむべきではありませんか。
   
 あたしが舞台で踊るのは、ひとつは人生の悲痛を癒すべき任務だとして踊るのですー人類のための芸術です。

 あたしは日本に上陸してからこのかた、いろゝな社会組織のなかに迎へられました、東洋と西洋の差が実によくわかりました。  
 東洋の絵画と西洋の絵画の相違がそこにあります。
 三味線音楽 スリー・スツリング・ミユジツク とヴァイオリン音楽の相違がそこにあります。
 あたしは藤蔭会に招かれて日本の新らしい舞踊を見ました、さうして“The Dance of the Fn Leavealles’(落葉の踊)を興味をもつて見たのです、あたしの為に、特に刷つて下すつたプログラムには、かう書いてあります。
 This is the impresion coaveyed by the fallen leaves as they are lossed up and down and to and fro on the ground by the wind toward the end of autumn.”
 あたしが帝国劇場で踊つた『秋の落葉』と同じ趣をこのダンスがもつてゐるので、あたしは甚大な比較興味をもつたことは、だれしもかゝる場合にあへば、かうあるであらうと思ふのでございます、コト・ミユジツクにつれて静かにミス・シヅエは踊りました、そして可憐な二人のダンサアは落葉のひとつのつとめを完全にはたしました、踊のテクニツクは、実にあたしらもよくわかつたのです、言葉で表現できぬほど、心から心にミス・シズエのテクニツクはわかりました。この踊りで東洋と西洋の相違が実によくわかりました。
 おなじ芸術表現で、こんなに表現がちがふのです。
 あたしの落葉は生の悩みそのまゝを表現したつもりです。
 ミス・シズエの落葉には東洋の静的の瞑想した姿しか見られません。
 コト・ミユジツクは、やつぱり印度仏教の響です、亜細亜の光りに照らされた蓮の花のやうな沈黙のなかの悲しいすゝり泣きです。

 あたしは芝のシユラインにゆきました、東洋の匂ひです、荘厳でした、マダム・バツタァフライにでる鳥居の大きな門がありました、美くしい塔がありました、神聖の地としての絶好の樹木があたしを慰めました、その門の前を近世の自動車が走りました、褐色の市街電車が埃をあげてゆきました、すべてが、サンダルを穿いた希臘人が靴を見て驚くやうな姿態をこの東京はもつてゐるらしく思はれるのです。

 ある日、あたしは能プレーを見ました、立派なパントマイムです、心の芸術です、ところゞ不可知な動作に逢ふのです、しかし意味は囚へ得ました、あたしは能プレーに対して、すこしの知識をもつてゐません、能プレーは簡素であるべきものです、布臘の古代人のマスクの演劇が其処にあります、あのマスクは口を大きくあいて悲劇の物語をしました、この能プレーのマスクは、ひとつも口をあいてゐません、みんな結んでゐます、永久に結んでゐるらしく見えます、そこに心の芸術を見せるものがでたのであらうと思ひます。

 ある日帝国劇場の劇を見ました、あたしは其の背景の進歩してゐるに驚きました、その時の劇のテーマは池 ポンド でした、一人の儈とて女の恋の物語は話のやうに思はれました、わからないながらわかりました、あの背景は、まつと広い視野に見せる必要がなかつたでせうかーういらうは興味がありました、あの踊りにも日本の絵の気分がよく描かれて居ります、ういらうのキモノの色彩は、だれの考案でせうか、すぐれたものに思ひます。
 日本の劇を見る人々は服装が乱れてゐると思ひました、礼服は日本では、劇を見るにきないのですか、ハオリ、ハカマは、いつ着るのですか。

 ある日ゲイシャ・ガールのパアティと呼ばれました、日本の錦絵の姿は、この階級にばかりのこつてゐると思つて愛慕の情をもつて見ました、あたしに、はなしかける女性がひとりもゐなかつたのは寂しうございました、日本のナイフ・アンド・フォクのハシは、なかゝむづかしいものです、あれは一度つかへばすてるときゝました、国民性のひとつが現はれてゐます、日本の下駄もはきにくいものです、あたしの踊り相手のミスタァ・ヴォリイニンに慰めの靴 コンフオタブル・シユーウス だと言つてひました、どうしてゝ慰さめでありませう、ヴオリイニン氏のアイロニイです、箸と言ひ下駄と言ひ、実にむづかしいものを日本の人々はつかふものです。

 ある日美術学校を訪ひました、英作和田はいろゝな東洋仏教の絵を見せてくれました、仏像も見えました、あたしは古重襴のカケモノのキレも絵よりも深く愛しました、日本人の祖先の物をつくる魂のこもつたものが見られるからでした渋味のあるあの重襴の色彩は、われゝの生活のうへにも応用ができると思ひます。

 ある日ミツコシにゆきました、日本の純なキモノがなくて欧米にゆくキモノがレディ・メードにどつさりありました、そのキモノは心ある女性なら、すぐそのまゝ受けいれかねる安価な色彩と模様がありました、どこに多くゆくのでせうか日本のキモノなら、まだ、なんでもよいと思ふ気軽な女性がまだ欧米に多いのでせう。
 あたしどもは、いかなるときでも美の高上を願はぬ時はないのです。
 草の葉のひとつでも美であることをあたしは望みます。
 世界は美であらねばならぬのです。
 世界は美の宗教に支配さるべきものです。
 それならば、だれがこの美の宗教を司さどるべきなのでせう、われゝ芸術にたづさはるものが、その大任務をはたすべきなのです、通常の人が雪烟過眼する万象のなかに美の理想をとらへてこれをその芸術に現はして、美趣をこゝにありと教へるのです。
 この理想を発揮して、永遠の常住相をもつて心を感化するのでなければ芸術といふものは成立せぬであらうと思ふのです。

 あたしは、極めていそがしい身で、舞台から睡眠それから稽古といふわけで、日本の女性の方々としみゞ物語をするチヤンスがなくて過ぎたことを実に残念に思ふのでございます、あたしは世界の国々を、かうして急がしく旅するのでございます、しみゞと物を思ひ且つ考へることは、まれなのです、疲れた思想は、よくありません、ですからこゝに、あたしが書いた断片は瞥見 グリンプス にすぎないのでございます、グリンプスは、おほしくフレツシユなものです、しかし物の心核は、つかむときを、さうでないときがあるものです。
 あたしは、まだ多くの溢れたやうなものがあるのです、しかしそれをまとめる勇気がないのです、日本の暑気は随分強いこともそのひとつです、稽古が日本の舞踊の稽古のためにー割におほくの時をさくのですーそれがために敬愛する日本の女性のためになにごとかのこしたい言葉を、つひやしたく思ふのですが、それがかなはぬのです。
 あたしは、あまりペンをとることがありません、言葉がすぐ文字になるのに慣れてをらないのです、ですから、あたしの文意はきつと断片的です、まとまつたものがありません、これは心から深く日本の女性に詫びねばなりません、思想の深味もなく、まして啓発すべき言辞もないのです、ひとりのダンサァが思ひうかべたまゝのかざらぬ印象だと思つてくださればよいのです。

 あたしは Virina Reconstruo 〔Virina Rekonstruo 女性改造〕 のために、めづらしくも印象をのべました(あたしには長く感想をのべることがあまりないのです)あたしは有力な、あなたの雑誌を通じて、日本の女性の為に、あたしの日本滞在中の深甚な同情をうけたことを感謝します、さうして永遠にこの地上をすみよからしむることが女性の義務であるべきことを、お互ひに胸ふかく刻みこんで、地上楽園のために、勇ましく闘ふと言ふことを盟ふものであります。 (於一九二二・九・二九東京・帝国ホテル)
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