蔵書目録

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「神戸絢子女史」 (1914.1)

2012年11月20日 | 音楽学校、音楽教育家

 

 寅年の名流(三)

 東京音楽学校教授神戸絢子 〔神戸絢〕 の君。独逸 〔実は、仏蘭西〕 仕込みのピアニストとして有名な方ですが、教場以外の楽壇にお出でになつた事はありません。明治十一年のご誕生で、今年は三十七歳、四まはり目の当り年です。

 上の写真と説明は、大正三年 〔一九一四年〕 一月一日発行の『淑女画報』第三巻第一号の口絵に掲載されたものである。

 

 頼母木駒子女史 神戸絢子女史 大音楽会出演ノ為 梅田駅到着ノ光景

    絵葉書:大阪市東区博労町四丁目 中央写真館撮影 三木楽器店印行、大阪開成館

  写真は、左が頼母木駒子、右が神戸絢子である。

 なお、ヴァイオリンの頼母木駒子については、田辺尚雄が、東京音楽学校ヴァイオリン選科でその教えを受けた思い出などを記している(『明治音楽物語』〔藤村操や久野久子の思い出なども記している〕また『田辺尚雄自叙伝:明治篇』など、明治三十九年七月撮影の先生や友人らと一緒の写真もある)。

 

 仏国より帰朝せし閨秀音楽家の実歴
     
     東京音楽学校助教授 神戸絢子

 東京音楽学校助教授神戸絢子女史(三十二)は、一昨年 〔明治四十年:一九〇七年〕 の三月、文部省から選まれたフランスパリに渡り、専らピアノを研究されて、六月十七日めでたく帰朝されました。一日 いちじつ 記者はパリ留学中のお話を承 うけたまは はらうと思つて、東京神田駿河台鈴木町のお宅へ伺ひました。まだ木の香の失せない新しい御門、それに続いて青葉若葉のすがすがしい植込。案内を請ふと、間もなくお二階の広間に通されました。
 やがて優しい衣ずれの音と共に、薄い緑色の洋装をされた女史は、しとやかに出ていらつしやいました。
 『ようこそおいで下さいました。お待たせ申して失礼いたしました。』
 と、つつましやかに御挨拶をあそばしました。御縹緻 ごきりやう のお美しいのに、自らなる愛嬌。わざとらしからぬ温情は頬 ほほ に眼に口にあらはれてをります。真の天才は、あらゆる瑣事にまで流露するものであると聞きましたが、女史の如きは、まつたくそれであらうと思ひました。次に掲げますのは即ち女史のお話でございます。

 『毎日音楽会が二つ三つある』

 申すまでもなく、パリは音楽が非常に発達してをりまして、下流社会の人でも音楽を解しない人はないくらゐでございます。日本で申しましたら、丁度琴三味線をといふ具合に普通の家庭でピアノの一台ぐらゐの備へない家 うち はございません。単に室内の装飾品としても、なければならぬもののやうになつてをります。どんな日でも音楽会の二つ三つない日はございません。男も女も、年をとつた人も、若い人も、皆それぞれ番附を見て、好きなところへ聴きにまゐります。音楽趣味の普及してゐることは、実に驚きますほどで、パリ人で音楽を聴く耳を持つてゐない人は一人もないと申してよいくらゐでございます。

 『厳重極まる官立音楽学校』

 私のまゐりましたのは、フランスでも有名な巴里官立音楽学校でございます。パリは音楽の盛んなところだけに、私立の音楽学校は数へ切れないほど沢山ございます。けれども私立学校は容易 たやす く入学ができるだけに、生徒の学力もまちまちでございますが、この官立音楽学校は学制が非常に厳重で、毎年幾百人といふ多数の応募者の中 うち から、七十人か八十人かの秀才を選抜して、入学させるのでございます。入学年齢は十八歳までで、二十二歳まで在学することが出来ます。このやうに厳重でございますから、この学校に入学出来たといふだけでも、もう立派な音楽家というてよいので、非常な名誉としてあります。男の生徒も随分多うございます。
 私はパリに着きますと直<す>ぐ、その音楽学校の傍聴生となつて、校長のホーレーさんに就いて親しく研究しましたが、その傍ら、ホーレーさんの紹介で、有名なヒリツプ先生にも学びました。
 パリの市中にをりましては、人家は稠密でございますし、それにいろいろな事情が起つて来て、一日音楽を聴いていることができませんから、私は町はづれの或る寄宿舎の一室を借りて、出来るだけ音楽に親しんでをりました。

 『流行嫌ひなパリ音楽生気質』

 一級の生徒は十人か十二人で、家庭から通つてゐる人が多いやうでございます。学校の授業時間は一週間に三度で、大抵二時間づつ教授を受けます。先生では、校長のホーレーさん、その他、リエーメンレスリーヒリツプなどといふ方が最も有名でございます。
 音楽学校の生徒は、一般に極く質素でございます。尤 もつと も中には、流行を追うてゐる人がないでもありませんが、十人のうち九人までは、衣裳でも持物でも、流行を追ふやうなことはないやうです。何しろ流行の中心といはれるパリのことでございますから、流行を追ふとなれば制限がありませんからでもあらうと存じます。
 パリの処女は一体に快活で、家庭も何となく晴れやかなやうに感じます。厳格な家もあり放任主義の家もありますが、総じて自由といふことを尊 たつと んでをりますから、皆ある程度までは解放されてゐるやうでございます。

 『聴衆の熱心は驚くの外なし』

 音楽会は、稀に劇場で開くこともございますが、到る処に音楽堂がございますから、大抵の演奏は音楽堂で開きます。演奏は皆専門的で、ピアノの時はピアノばかり、合奏の時は合奏ばかりといふ風で、一人で数時間づつ演奏をつづけるのが例です。少し有名な人の演奏でもありますと、皆競つて来会する熱心は、実に驚くの外はございません。
 音楽会の一番多いのは十一月頃から翌年の三月頃までで、暑中になりますと、有名な音楽家は大抵避暑にまゐりますから、随つて盛んでありません。入場料はなかなか高価ですから、来会者の多くは中流以上の人ですが、中には下流の人も見受けます。
 音楽堂で一番大きいのはエラール音楽堂です。これはピアノハルプを販売する有名なエラールといふ楽器屋で建てたものでございます。
 私は今年 〔明治四十二年:一九〇九年〕 の三月パリを去つて独逸の伯林にまゐりました。そして著名な音楽家を訪ひ、または音楽会などにまゐりまして、五月九日、マルセーユ出帆のツーラヌ号に搭乗して、無事に帰国いたしました。

  洋楽と家庭

    ピヤノと床の間

 私の居ました仏蘭西は流石芸術の国と呼ばれる丈御座いまして、彼地 あちら の家庭には中々能く音楽趣味が普及して居ります、大抵な家庭には必ずピヤノが一台御座います誰も弾く人が無くても必ずあります、是はピヤノを以て客間の装飾と迄考へて居るからで、日本なら床の間がないと可笑しく思はれる様に、ピヤノは是非客間に無くてならぬ物となつて居ます、彼地の風と致しまして客の訪問は午後で、お客を招きまするは多く晩餐で御座いますが、其後では必ず奥様とか令嬢とかゞピヤノを弾いてお客を楽しませます、又普通の日でも主人が会社なり店なりから疲れて帰つて参りますと、主婦は晩食を勧めた後で自らピヤノ台を開いて一曲面白く弾じて所夫 をつと の一日の疲労を休めます

    音楽の解る耳

 何も私の専門がピヤノであるからピヤノでなければならぬ様に申すではありませんが、凡て音楽の原 もと はピヤノでヴアイオリンなども結構で御座いますが、先づ最初にピヤノのお稽古を少しなさいまして、夫 それ からでないとヴアイオリンも上手には参りません、又ヴアイオリンはピヤノの伴奏がないと奏 ひ かれぬ位のものです、西洋では先づピヤノが家庭にも学校等にも全盛を極めて居ると申しても宜しいので、日本では小学校にはオルガンが必ず御座いますが、彼地ではオルガンはお寺にしか御座いません、勿論彼地と日本とは富の状態が大層違ひますから、四百円五百円、少し良いのになりますと千円以上もするピヤノの日本の家庭に入れることは困難の事情も御座いませうし、他の事物との釣合も取れますまいが、私の希望としては夫々の家庭に相応な琴もオルガンでも何でもよろしうございますから、日本の家庭に音楽趣味を普及して、大人や子供も音楽を聞いて楽 たのし む耳を持つ様になりたいと思ひます

    稽古に良い年齢

 これは私一人の考へかも知れませんが昨今日本の音楽、琴とか三味線とか申す方は洋楽に次第に地盤を蚕食されて居ると思ひます、成程三味線は下町の家庭に深く根ざして居り琴は官吏や純日本的家庭に大層勢力を有して居ますが学校で洋楽を稽古なさるものですから、卒業後も洋楽に趣味をお持ちになる方が次第に増えて参ります殊に上流の家庭にはピアノが今非常なる勢力をもつて居ます、上流の奥様で随分おやりの方もありますけれども、何かと御用がおありなさるもんですから私は止めますから今度は嬢に稽古して下さいなど仰しやいますピヤノのお稽古によい年齢 としごろ はと申しますと、九歳か十歳からですが日本では多く十一二歳からです、夫 それ 以上になりますと指が堅くなつて上達は中々の骨です

    音楽よりも芝居

 私は此の間フイハーモニーの会で帝国劇場でピヤノを弾きましたが、彼処 あそこ は劇場としては立派ですが、音の響きは建築のよくない為か大層悪う御座います、私のが出来が悪かつたのかとロイテルさんの後ろで聞きましたが、矢張り響きがいけませなんだ、先づ日本で音楽に最も適したのは上野、音楽学校の講堂でせう、彼処は日本一と云はれる三千円のピヤノもあります、音楽学校では毎週音楽会を催しまして、土曜には無料日曜には二円取りますが土曜の日には夫はゝ沢山の人で廊下に迄一杯と云う有様ですが、日曜には只西洋人許りと云うてもよい位です、日本人は未だ音楽の趣味が乏しいもんですから二円出す位なら芝居の方が面白いと大抵な方は仰しやつて来 いら しやいません(神戸絢子)

 上の文「洋楽と家庭」は、大正元年 〔一九一二年〕 十二月一日発行の『淑女画報』 第一巻第九号 に掲載されたものである。

 なお、東京朝日新聞 大正八年三月十三日(五)面 には、「神戸女史の光栄」良子女王御教育係としてピアノ御教授 という記事がある。



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