蔵書目録

明治・大正・昭和:来日舞踊家、音楽教育家、来日音楽家、音譜・楽器目録、士官教育、軍内対立、医学教育、林彪、北京之春 

「創立一週年記念大音楽会」日本青年館(1932.2.25)

2017年10月20日 | 音楽教育家
      

     昭和五年二月二十五日(火)午後六時半     
     明治神宮外苑 日本青年館

 創立一週年記念大音楽会

    武蔵野音楽学校

         曲目

  第一部 

 一、混声合唱     生徒
 ニ、ピアノ独奏    藤田喜與子
 三、ヴァイオリン独奏 栗原大治
 四、四重唱      平井美奈子 
            澤智子 
            木下保 
            徳山璉 

    [休憩]

  第二部

 五、混声合唱     生徒
  a . 旅の歌  信時潔曲
  b .深山には 同
  c . 春の彌生 同
  d . 渡り鳥  同
 六、ピアノ独奏    山越八重子
 七、ヴァイオリン独奏 田中英太郎
 八、ピアノ独奏 澤崎秋子
 九、混声合唱  生徒

  合唱指揮 木下保
  伴奏   山越八重子
       藤田喜與子
       富田三枝子
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『琴曲界』 第一号 琴曲研究会 (1913.1)

2017年06月13日 | 音楽教育家
 

 琴曲界 琴曲研究会発行 第壹号 (第壹巻) 大正二年一月一日発行

 賛助員 (いろは順)

 東京音楽学校学習院女子部琴曲教授 今井慶松君
 東京盲学校東京女子音楽院琴曲教授 萩岡松韻君
 宮内省御歌所主事         阪 正臣君
 東京音楽学校幹事文学士      富尾木知佳君
 山田流琴曲教授          高橋栄清君
 日本女子大学教授文学士      武島又次郎君
 東京音楽学校講師         上原六四郎君
 山田流琴曲教授          上原真佐喜君
 東京女子美術学校琴曲教授     山木千賀君
 東京盲学校長           町田則文君
 学習院女学部教授文学博士     松本愛重君
 日本女子大学琴曲教授       佐藤左久君
 東京音楽学校長          湯原元一君
 東京女子高等師範学校教授文学博士 関根正直君     

 琴曲研究会設立趣意書

 現時の我が音楽界はさながら洋楽の独舞台とも申すべき有様でありまして惜いかな邦楽は実に衰微の極に達しようとして居ります洋楽の隆盛になりましたのも決して喜ぶべきことゝは申しませんが併し是れが為に折角古来幾多名手の研究を重ね随分久しい歴史を持つて伝はりました邦楽之れを洋楽に較べましても総べての点に於て毫も遜色のあるでなく寔にに能く我が国民性的嗜好に適合した音楽でありますのにそれが全然頽廃に帰せんとするをも顧りみないといふ今日の形勢となりましたのは畢竟我が国人があまりに洋風崇拝の一方に傾き過ぎて遂に本末を誤り肝腎の国粋保存といふ本義までを無視した結果でありまして心ある者の憂惧措く能はざる所でありますそこで是非共茲に邦楽の振興策を講ずる必要があるのでありますそれには先づ兎も角も一般の家庭に容れられて猶多少の命脈を繋いで居る琴曲を主として研究を始めますのが便利でもあり又順序にも適つて居ると考へられます所から此の度学術と技術の両方面に於て現今第一流の聞えある諸先生の賛同を得まして本会の設立を見るに至つた次第であります。

     東京市小石川区竹早町七番地
  大正元年十一月 琴曲研究会   

 琴曲研究会会則 (大正元年十一月廿五日創定)

 第一條 本会は主として我が国古来の琴曲を研究し邦楽の発達普及を図るを目的となす。

 第二條 前條の目的を遂ぐる方法として毎月一回『琴曲界』と題する機関雑誌(一冊定価金貮拾銭郵税金貮銭)を発行する外特に有益と認むる図書を随時に刊行し又時々琴曲演奏会を公開す。

 第三條 道義を重んじ著実に琴曲を研究せんとする者は何人にても本会の会員たることを得。

 (以下省略)

 ◎口絵写真七面 …

   

 ・流風余韻山田翁
 ・東京盲学校長町田則文君
 ・東京盲学校内楽々会秋季演奏会

  口絵第三面の説明

 本誌の口絵第三面に掲げた須磨の嵐合奏の一面は、大正元年十月十七日午後、小石川区雑司ヶ谷町東京盲学校講堂に催された同校内楽々会秋季演奏会に於ける曲目八番中、第五番の実景を、本会が町田校長の許可を得て特に撮影せしめたもので、壇上琴に対へる男子は同校教員萩岡松韻君、婦人は竹下ヨシエ三宅正子及び古澤まさといふ三君で孰れも師範科生である。次に三絃は天野宗吉君、尺八は関口月童君といふ顔揃ひなのである。因に、楽々会の演奏会は必ず春秋二季に催さる々といふことである。

  

 ・今井慶松君〔上左〕、萩田松韻君〔上右〕、櫛田ひろ子君

  

 ・高橋栄清君〔上左〕、上原真佐喜君〔上右〕、木南美千勢君

  

 ・山木千賀君〔上左〕、佐藤左久君〔上右〕、諏訪多喜井君
 ・石井松清君女富子嬢(四歳) (同君助手)、飯田松連君門弟 田淵すみ子君(十九歳)

 ◎発刊の辞 … 本会幹事 田中真弓

 私は、自らの浅学菲才をも省みず、敢へて琴曲研究会の幹事として、今回江湖の諸君子に見 まみ ゆる事となりましたにつきまして、茲に御挨拶を兼ねて極めて簡単なる発刊の辞を述べようとする次第であります。
 我が琴曲研究会は、即ち時代の要求に促されて起つたものでありまして其の目的は、予ねて会則を以て公表しました通り、主として我が国古来の琴曲を研究し、邦楽の発達普及を図らうといふのでありますが、之れは、従来に絶えて無い頗る困難な事業でありまして、迚 とて も吾々微力の企て及ぶ所ではありませんが、幸に賛助員各位を始め、名誉会員外諸先生の深甚なる御賛成と多大なる御同情とを 辱 かたじけな うしまして、兎も角も茲に機関誌第一号を創刊するに至りましたのは、最も光栄とする所であります。何分、創業に際し、殊に年末多忙の時に会しましたので、総てが心に任せませぬ所から、内容の整はないのみでなく、甚だしく発行予期に遅れまして、何共恐懼に堪へませぬが、次号よりは、毎月一日を定期として確実に発行し、著々として完備の域に進むべく努力します。

 ◎琴曲研究会の創立をほぎまゐらせて(真筆短冊) … 実践女学校長 下田歌子

 ◎琴曲界発刊に題す … 東京盲学校長 町田則文

 這般琴曲研究会を設立せられ、機関雑誌として、『琴曲界』を発行せらる、余は頗る其旨趣を賛成するものなり。吾が邦各種の音楽時の古今により消長したけれども、恃 ひと り琴曲は、長く吾が国上下の家庭に行はれて替らざるのみならず、寧ろ現時に至りては、上は皇族方の御家庭を初めとせられ、華族以下社会一般の家庭に至るまで、漸次拡張隆昌の機運に向ひたりと云ふ可きか。現に帝国の中心たる東京市内にありては、該音楽教授を以て業務を開くもの数十を以て計 かぞ ふ可く、一所多きは百数十名の子弟を有し、少なきも三四十人の子弟を有せざるものはなしと云へり。他種の音楽にありて斯の如きの盛挙を看ることは幾 ほと んど稀れなり。以て知る可し如何に琴曲の吾が邦上下の家庭に愛玩せられあるかを。
 (以下省略)

 ◎琴曲と家庭     … 東京音楽学校長 湯原元一

 ◎(真筆短冊)   … 東京高等女学校長 棚橋絢子

 ◎雑誌琴曲界の発刊を祝す … 東京音楽学校幹事 富尾木知佳

 ◎歳暮の曲(新作琴歌) … 日本女子大学校教授 武島羽衣

 ◎佐保姫(新作琴歌) … 宮内省御歌所録事 加藤義清

 ◎琴曲さくら本譜略譜並に説明 … 落合澤子

    

 ◎琴曲松上の鶴 琴三絃本譜並に説明 … 同人

 ◎(真筆短冊) … 跡見女学校長 跡見花渓
 
 ◎音楽の人に及ぼす感化 … 第一高等学校教授 今井斐己

 ◎ 宮内省御歌所主事 … 阪正臣

 ◎(真筆色紙) … 三輪田高等女学校長 三輪田眞佐子

 ◎琴に就いて … 日本女子大学校琴曲教授 佐藤左久

 ◎私の教授法 … 琴曲教授 佐藤美代勢

 ◎琴歌講義 … 武島羽衣

 ◎山田検校翁略伝 … 田中真弓

 ◎十三絃 … 岐水迂人 

 名誉会員
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「子守唄が音楽家の第一歩」 神戸絢子 (1911.8)

2017年01月27日 | 音楽教育家
  

 東京音楽学校教授神戸絢子女史と其筆蹟〔上の右の写真〕 

  子守唄が音楽家の第一歩

      東京音楽学校教授 神戸絢子

 私は音楽に対して、別にこれぞといふ意見は厶 ござ いませんが日本の家屋にはピアノは不適当です、何よりも響がないのですから、余程違ひます、ピアノが三味線や琴のやうに一般に歓迎されるには、未だ余程の時日がありますでせうと思ひます、ですが私が欧洲 あちら へ参つた時と、帰朝 かへつ た時とは、余程進歩して来たのは確 たしか です今ではピアノと言ふものは奈何 どう いふ楽器 もの である位の事を知らない人はありますまい、其だけでも余程の差 ちがひ やありませんか。
 私が欧洲へ参りましたのは四十年の六月で御座いました。大抵は巴里 ぱりい に居りましたが、伯林 べるりん へも行きました、其 それ は唯ピアノを聞きに参ゐりましたので御座います。女で仏蘭西 ふらんす へ参ゐりましたのは、或は私だけかもしれませんぬ。彼方 あちら で日本人の方にお目にかゝつたのは大使館の方位で、画家の御方も余程行つて被在 ゐらつしや つたさうですがお目にかかりませんでした、往方 あちら の音楽は申すまでもなく盛大で、毎日音楽会がない日はありますまい、ですから聴きに行くに迷ふ位です、其 それ は先方 あちら では名を売るまでは無価 たゞ で入場券を呉れますからです、元より沢山の音楽師がありますのでなかゝ名をうるまでは大抵ではないやうで、巧手 じやうず な方でありながら、場末へ行つて演奏されると言ふ有様です、之と言ふも必竟 ひつきやう 多勢 おほぜい の為でしやう。
 彼方ではピアノ師に為様 しやう と思ふと、十二三歳の頃から稽古をさせまして、一切外 ほか の事はさせません、一日に六時間も稽古させますのです、でなくては奈何して手が練 ね れて来るものですか、若い年頃から一生懸命になつて稽古しました所が、手が堅くなつてゐますから、思ふやうに働きません故、進歩しました所が程度が知れてゐます、異常の天才のある方でない限りは、群を抜くと言ふ程の名手は今の所出ないかと存じます。
 仏蘭西に限らず欧洲では、十二三歳の頃早いと七八歳の頃から専一 せんしん にピアノ計 ばか りを稽古させますから、十代であつて已に大人も及ばない位に巧手な方が沢山あります、日本でもピアノ師として立派な人の出るのは以後 これから だらうと思ひます、今の方は大抵稽古を始めやうとなさる頃は年頃で、手が何 どう しても今申します通りに堅くなつてゐて働きませんから、今稽古して被在 ゐらつしや る方は大いなる将来はないかと思はれます、ですから私は今一意専心に稽古をなすつてゐらつしやる、またしやうとお出での七八歳の方が十年位経つと立派なピアノ弾きになる事が出来ますから、本当のピアノ弾きは以後 これから と申しますのです。
 私が彼方へ参りまして入つたのは、大変によい学校で、教方のうまいので有名な先生でしたから、何よりも幸福 しあはせ で御座いました、参ゐつた当座は生徒さんが皆巧手な方計りでしたから力を落しましたが、先生が鼓舞激励されましたので、自分と力を入れて励みました。
 ピアノの趣味については其 それ は何度も聞かなくては判りますまいと思ひます、耳に蒼蠅 うるさ い程聞慣れなくては、ピアノに限らず趣味と言ふものは湧いて来ないでせう、私なぞは彼方での名手を聞きましたが、余りよくは判りませんでした、と言ふのは未だ耳にもよく慣れなかつた故 せい と思ひます、その趣味が判ると言ふのが、今の所では不思議な位です、三味線や琴のやうに腹の中に居る時から聞いたのではありませんので、今まで日本にはなかつたものですから、其を今直 すぐ に解しやうとしたつて出来ものぢやありますまい。
 彼方では生れる時からピアノを聞いゐますので、一般に拡 ひろが つてゐるのは申すまでもなく、大抵の家にはピアノが一台位は供へてあります、行つて見ますれば、日本の家屋に床の間がない家はないと言つた様にです。
 私は日本橋の生れでして、四歳の頃から子守歌を聞いて唄つたりしまして、両親 ふたおや もこの子は音楽家にしたらばよいだらうと思つたさうで厶います、十歳頃から三崎町の仏和女学院へ這 はい りまして、ピアノを稽古しました、小さい時から、ピアノと言ふものは好きでした、その頃は別に慾がありませんでしたから、稽古と言ふ程の稽古はせずに、ピアノを弾かない時には編物など致して暮らしました、今から思ふとそんなことをして時間を費やしたのが非常に残念で仕方がありません、その学校で仏蘭西語を習ひました、卒業してから音楽学校へ這入りまして、研究科を卒 お へて助教授になりました、その頃ヂーベル先生から教へて頂きました、欧洲へ参りましたのは其後 それから で学校へは今でも毎日出てゐます。
 一般の家庭にピアノが這入ると言ふ事はある、当分の間は出来ますまい、外国のものではあり、未だピアノの趣味を解するだけに、耳が一般に発達してゐませんから、今の所では上流の家庭より外には、用ひられると言ふ事はないだらうと思ひます。
 私はピアノ弾きにならうと思はれる方があるか、または御自分のお子さんをピアノ弾きにさせやうと思ひになる方があるならば、七八歳の頃から、良い先生の許 もと で専心に勉強させられる事を祈ります。ピアノにはピアノの趣味があり、日本の楽器には又特有の趣味はあるものですから、比較すると言ふ事は根本の間違ひだらうと思ひます、自分が一番ピアノで苦しみましたから、ピアノが何よりも難しい気がします、一曲を終へて終 しま はない間 うち は、途中で可厭 いや になることがあります、ですが一曲を了 お へて終ふと、又面白いものなのです、加之 それ にピアノに限りませんが、中でもピアノは絶えず自習をしなくてはなりませんので、本当に稽古なさらうと言ふ方は別としましても、大抵の方は自習をなさる方はありますまいかと思はれます、ですけど今の方は好 よ く判つて被在るものですから、ピアノを本当に稽古なさらうとする方は熱心のやうです。
 私なぞ一日 じつ でも自習しないと、手が悪くなるものですから、毎日何時間となく稽古致してゐますから、頭が余程変になつて居るやうな気がします、一寸した物音も頭に響く事があります位です、何うしても躯 からだ の壮健 じやうぶ でない方は分けて損で厶います。
 ピアノ弾きとして恥づかしくない方が日本に何人あると言ふ事は申されもしません、まして誰々と言ふ事は、私から迚 とて も申上げられませんが、数は少ないやうに思はれます、三味線のやうに一般に行渡る事は前にも申した通りに、今の所では難しい事ですが追々は必ず発達進歩するには相違ないと思ひます。
 若し私が注意を申上げる事が出来るならば、手の練習を怠らぬやうに致して頂き度いのです、今稽古して被在る方は、皆手の練習にすぎないのです、音が多いだけに複雑ですから、余程敏活に働きませんと、間違つた音を出したりします、音計 おんばか りは欺むかうとした所が欺むけないものですから、明かにそのまゝを出して了 しま ひます、余程手の練習を為 し て頂かないとなりません、全たく今の方は練習にすぎない所へ持つ来て、最 も う手が堅くなつてゐますから、七八歳の頃から練習して敏活に働く人の手と比較にはなりませんから、発達する度が決まつて、其以上に進歩する事はないだらうと思ひます。
 日本の家屋とピアノとは、言ふ迄もななく不調和なものです、又ピアノに取りましても、此麼 こんな に不利益な事はなからうと思ひます、何よりも大切な響が出ないのですから仕方がありません、琴や三味線なら、形も小さし又日本の楽器ですから、日本の家屋に極く調和しますが、一方は持運びに不便で形があの通りに大 おほき いものですから、狭い日本風の座敷に置く可きものでは決してありません、私は自分が習つてゐる故か存じませんが、ピアノが一番音量が多いかと思つてゐます、その楽器々々に特長がありますから、好い悪いと言ふのではなく、単に此処では音 おん の数の事を申すので厶います。(をはり)

 上の文章と写真は、明治四十四年八月一日発行の『新婦人』第一年第五号 八月の巻 掲載のものである。 
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「私の半生」 幸田延子述 (1931.6)

2015年02月28日 | 音楽教育家
 私の半生    幸田延子述

  

 私の生立

 私は明治三年に東京の下谷で生れました。私の家は代々徳川家に仕へた士で所謂本当の江戸つ子です。兄(幸田露伴博士)は私より三年前、慶應三年に生れました。妹(安藤幸子女史)は私より五六年あとになります。
 私の音楽趣味は直接には母-ゆふと申しました。-から受けました。母は長唄を稽古して居りました。一体に私の祖父は物事を徹底的にやらせる人でして、母は家附きの娘で父は養子に来た人でありましたが、母は祖父の徹底的な教育の下に育てられた人でした。一例を申しますと、お習字にいたしましても、いろは、を祖父から三年かゝつて教へられたさふです。母の子供の頃、教育は全部祖父から受けて居りましたが、お習字なども祖父は仲々漢字を教へなかつたさふです。先づいろはを書かせましたが、仲々此れで良いとは云つてくれない。母は早く画の多い字を書きたかつたさふですがまだ駄目だと云つて許してくれない、到頭三年間いろは許り書かされたさふです。此の祖父は趣味の広い人だつたさふでして殊に音楽が好きだつたのです。で、母は祖父の希望で杵屋六翁さんのお弟子さんの杵屋えつと云ふ人の所へ長唄を稽古に行きましたが、父は几帳面な、徹底的な人だつたので、趣味に習つてはゐるものゝ家でのおさらひなどはきちんゝとさせてゐたさふです。此の祖父の教育法を母が受けついだのでした。
 私が長唄を始めたのは随分小さい時でした。口がきける位の時でした。その頃から母はお裁縫をしてゐる合間でも私をそばに置いて口三味線で教へたものでした。だから私もをさらひをする時に母の口三味線の真似をそのまゝして笑はれたことがありました。かふやつて母の心盡しから私の音楽趣味は成長して行つたのです。

 洋楽への第一歩

 お茶の水の師範附属の小学校に入いりましたが、その内にお琴も習ひました。先生は山瀬松韻さんと云つて今の音楽学校の前身で音楽取調所の講師をしてゐた方でした。此の方の所へ学校の帰りに立寄つて習つて居りました。
 丁度十三歳の時でした。附属小学校に唱歌の先生でメーソンと云ふアメリカ人が来ました。メーソンさんは附属小学校ばかりではなく音楽取調所の先生にもなりました。今日の皆様方では想像もなさらないでせうが唱歌を、一 ひ 、二 ふ 、三 み 、と云つて習つたものです。此の唱歌の後に音階の練習や聴音の練習などもやりました。一つの音をメーソン先生が弾いて「此の音は何の音だ」なんて云ふ練習や、音階を歌ふ練習などは、小供の頃から長唄やお琴をやつてゐた私には大して難しいことではなかつたのです。で、メーソン先生から可愛がられまして、「此の子は音楽の才があるから個人教授をしたい」と云はれました。先生がさふ云つて下さるのでしたら、と父も母も同意して下さいましたので、毎週土曜日の午後、学校が終ると母につれられて、その頃本郷の森川町にありました音楽取調所に参る様になりました。そこで始めてピアノを見、そしてそれを習ひ始めたのです。その頃音楽取調所にお見えになつてゐた方には奥好義さんや、上眞行さんなどがゐらつしやいました。
 メーソン先生は仲々お急がしい方だつたので主として私はミス中村と云ふ方にピアノの手ほどきをして頂きました。此のミス中村と云ふ方は非常にハイカラな方で、英語も流暢でメーソン先生の通訳などもして居られました。此の方とは因縁が深い話がありまして、此の方のお宅と私のお宅とはお隣り同士だつたのです。家庭同士もおつき合ひ致して居りました。或る時、此のミス中村がお宅で琴をひいてゐらしたのですが、その時私はその琴の音が面白く垣根のそばで聴いてゐました。そしたら中村さんのお宅から、琴をお聴きになりたいのならどうぞ此方にゐらつしやい、とお招きされてお菓子など頂いて聴かせて頂いたこともありました。此の様に前から存じ上げてゐるミス中村が音楽取調所でメーソン先生の助手をしてゐらしたので、「まあ、あなたですか」と云ふ訳で大いに驚いたものです。
 矢張り始はバイエルからでした。けれど当時、ピアノなんかつて取調所以後に殆んど見ませんでしたし、まして家になんかありません。土曜日にお伺がひする度びに取調所のピアノを拝借してチョツとお浚 さら ひをして見て頂く位のものでした。唱歌なども皆さん大人の方々の中にまじつて一所に歌はせて頂いたり致しました。此のミス中村と云ふ方は後に高峰と云ふ高等師範の校長の所へ嫁がれました。
 この頃は勿論楽器店などは一軒もなく、ピアノを自宅で勉強するなんて事は到底出来ませんでした。たゞ、取調所にテーブル型の古ぼけたピアノがあるだけでして、お稽古して頂く前に二三度お浚ひして先生に見て頂き、此所はかふ弾くんだ、彼所はかふ、と御注意を聴いて済んだのです。家へかへればピアノなんか勿論ありませんから、お琴か三味線をお稽古をしておりました。

 音楽取調所へ入学

 私を色々に御指導下さつたメーソン先生は明治十五年に満期になつてお帰へりになることゝなりました。丁度私も小学校を卒業することゝなつたのであります。その時、メーソン先生が学校へ私の母をお呼びになりまして「此の子は見込みがあるから音楽取調所に入れて専門家にしたら好いだらう」とお勧めになりました。先生からのお勧めで私の家には何の異議も御座いません。私も興味を持つて居りましたので音楽取調所へ入学することゝなつたのであります。その時の校長は伊澤さんでして、その他の先生にはピアノに瓜生繁子さん、唱歌は上眞行さん、ヴアイオリンは多久随さんなどがゐらつしやいました。瓜生さんは文部省から第一回の留学生として大山捨松さん、津田梅子さん方とアメリカへ御勉強にゐらした方です。多久随氏は先日お逝くなりになつた音楽学校の提琴教授多久寅氏のお父さんでした。音楽取調所にはいつて勉強を始めたのですが、ピアノなども楽譜が手に入いりません。で、五線紙に一生懸命譜を写したものです。馴れないものですから随分此れに時間を取られました。今日の様に必要な楽譜が直ぐ手に入る時など、その頃のことは御想像も出来ないでせう。始めはピアノを専心やるつもりだつた所、ヴアイオリンもやれと云はれてヴアイオリンも習ひ始めました。先生は前に申上げた多久隨氏です。何と云つても明治十六七年と云ふ頃です。ピアノやオルガンなども音楽学校以外には殆んど御座いません。折角唱歌の先生を作つても教へる方法が無いと云ふので、お琴や胡弓を伴奏楽器に使つて唱歌を教へられる様にしよう、と云ふのでその研究が始まりました。お琴の絃を西洋音階に直したり、胡弓をヴアイオリンの調子に合わせたりしてやつたのです。此れも私が試験台になつてやりました。

 音楽取調所を卒業

 かふ云ふことをしてゐる間に卒業と云ふことになりました。明治十八年で私の十六歳の時です。卒業演奏にはピヤノではウヱーバーの「舞踏会への招待」を、独奏し、又遠山さんや市川さん方とヴアイオリンの三重奏も致しました。私は引続き今で申す研究科に入いつて勉強致しました。此の研究科の四年間に、当時海軍軍楽隊のお雇教師だつたヱツケルトさんも学校へ教へに見へられました。又、その頃横浜にソーフレーと云ふオランダ人が居られまして此の方は専門家ではありませんでしたが大変器用な人で、少しの間学校へ教へに見へられました。此の方から沢山シヨパンのものを教へて頂きましたし、沢山聞かせて頂きました。テイーチヱと云ふドイツの声楽の先生も見へられました。此の方は本当の声楽家で本当の歌ひ方を習ひました。
 その時に文部省からの招聘でデイツトリヒと云ふドイツの先生が参られました。此の方はヴアイオリニストで今考へても立派な音楽家だと思ひます。デイツトリヒさんからヴアイオリンを習ひました。教則本はクロイツアーでした。教へる時は非常に厳しい方でした。此の時、妹の幸子(今の安藤幸子女史)がデイツトリヒさんにお眼にかゝつた折、幸子の手を見て、「此の子はヴアイオリニストにすると良い」と云はれました。此れが機となつて幸子がヴアイオリンの道へ進む様になつたのです。幸子はそのとき確か十一、二歳でしたでせう。

 アメリカへ留学

 研究科を四年やりました折、私の留学の話が出ました。行先きはアメリカです。ボストンにあるニュー・イングランド・コンサーベートリーの校長がメーソンさんとお友達と云ふので其処へ行くことになりました。此の話が出ましてから、時の文部大臣森有禮さんのお宅によくお招きされました。そして奥さんにピアノをお教へしました。何度もゝ御飯など御馳走になりまして親切にして下さいました。洋行するのだから英語を習はふと云ふのでミス・プリンスの寄宿舎にも、八ヶ月入りまして、グツド・モーニング位の挨拶が出来る様になりました。洋行する時は洋服を着ましたが、此れもミス・プリンスが作つてくださつたものです。
 ボストンまで丁度御帰国なさるナツプさん御夫婦に御同伴させて頂きました。ボストンのホテルでナツプさんが学校長のドクトル・ドルヂヱさんの所へ電話をかけましたら直ぐホテルまでいらしつて下さいまして、私の荷物を持つたりして学校へつれて行つて下さいました。異郷で御親切にして頂いたので大変有難く感じました。それから寄宿舎に入いつて勉強をしはじめましたが、専攻科目は日本を出る時から、ヴアイオリン、と定められたのでヴアイオリンを習ひ、その傍らピアノも習ひました。ヴアイオリンの先生はヱミール・マールと云ふ方でヨアヒムの弟子の方でした。ピアノはカール・フヱルと云ふ方でした。お二人とも独逸人でした。ボストンには一年間居りましたが此の間には寄宿舎生活をしたので余り外出を致しませんでしたが、それでもニキシユ、ダルベア、ヘツキング、サラサーテなどを聴き、今でもその印象は残つて居ります。

 更にウイーンへ五ヶ年

 予定の一年が過ぎましたので今度はウィーンに行くことになりました。領事館から領事館へと、お荷物の様にされながら一人旅でウィーンに到着し早速ウイーナー・コンセルヴアトリウムに入学致しました。住居は程近い所に家族的に寄宿させて頂きました。ウイーナー・コンセルヴアトリウムでも矢張り専攻はヴアイオリンでした。先生はヘルメスベルガーと云ふ人で此の人のお父さんは有名な方でした。その他ピアノはジガー、和声学は有名なロバート・フツクスについて習ひました。此のウイーン時代、ウィーンで過した五年間は随分と勉強致しました。ヴアイオリンピアノも一生懸命やりました。学校で習ふ和声だけでは足らなくてフツクス先生の所へプライヴヱートに対位法と作曲法を習ひに参りました。
 その頃ウイーンに大きな書店がありまして其処の奥さんのローザ・フオン・ゲルグと云ふ方は芸術家の保護者でした。殊に日本へ大変親しみをもつて居られまして私を大変可愛がつて下さいました。その時私の持つてゐたヴアイオリンはアメリカで買つたドイツ製のものでしたが、「ヴアイオリニストはもつと良い楽器を持つてゐなくては…」と仰言つて私にヴアイオリンを下さいました。見ると真正のアマテイなんで全く驚いてしまいました。此の楽器は大切にして持つて帰りましたが流石名器だけに非常にデリケートだと見えて、日本へ帰つたら方々はがれて来ました。三度位外国へ直しにやりましたけれど駄目なので、折角頂いても弾けなくては、と云ふのでウィーンのローザ奥さんの所へ「もつと健康なヴアイオリンと取換へて下さい」とお願ひして、リユツポと云ふ楽器と代へて頂きました。所がこの楽器はつぼが私の手よりは大き過ぎるのでまた代へて頂き、三度目に送つて下さつたのが今持つて居る楽器です。
 ローザ奥さんはさふやつて世話なさる傍ら毎週自宅にお友達を集めてコーラスのお稽古をなさつてゐたのですが、その集りに私もお招き下さいました。私はアルトのパートを受持ちました。何にしろ此の合唱団は皆さんお出来になる方々で、奥さんのお室に備附けてある楽譜を直ぐその場で歌ひ合せられるので随分と良い勉強になりましたし、合唱の妙味も会得致しました。が、それにも増して嬉しかつたのはお食事の間、或は稽古の休みの間、人々のお話が皆音楽のことばかりで随分良い、ためになるお話を伺がひました。此のローザ奥さんの生きてゐられる間はよく文通致しました。
 ウィーンでは良い音楽を沢山きゝました。ハンス・リヒターの指揮でベートーヴヱンの第五交響曲をウイーン・フイルモニーが演奏しました時、此の世にこんな立派な音楽があるのか、と思はず泣いて仕舞ひました。その他では同じくリヒターの指揮でヴアークナーの「ローヘングリン」やクナイゼル四重奏団が演奏したメンデルスゾーンのカンツオネツタなどはまだ頭に残つて居ります。

 帰朝後とそれから

 刺戟の多かつたウィーンの五年間の生活を終つて日本に帰へつて参りました。そして直ぐ音楽学校でヴアイオリンを教へました。帰朝演奏は上野の音楽学校の講堂で致しました。伴奏は橘糸重さんでメンデルスゾーンのコンチヱルトの第一楽章でした。此の時はヴアイオリン許りではなく歌も歌ひまして、曲はブラームスの「五月の夜」とシユーバートの「死と少女」とでした。その他に遠山さんがベートーヴヱンの「月光ソナタ」を独奏なさいました。その時音楽学校には、帝大文学部の嘱託をしてゐらしつたケーベル博士がピアノを教へに来られました。私は皆さんのお稽古の時通訳をして差上げ、その代りと云つても変ですが、私もピアノを教へて頂きました。その内にケーベル博士が当時の校長渡邊さんにお話になりまして「幸田をピアノの先生に」と云ふわけで、それからピアノ科の先生になることになりました。私の教へした方では今でも逝くなられた久野久子さんが惜しまれてなりません。あの方は生きてゐたら、と今でも考へます。

 学校を辞して今日まで

 それからは平凡な生活です。学校の先生をし又家へ習ふ方が見えたり、音楽の先生として平凡に過しました。明治四十二年に学校を辞しドイツへ一年の予定で参りました。此の時は伯林におりまして先日逝くなられたジーグフリード・オツクスの指揮するフイルハルモニツシヱル・コールに入いり、合唱の勉強を致しました。或る時ニキシユの指揮するベートーヴヱンの第九交響曲の終楽章合唱に出ました。
 学校を辞してからの私は、音楽を出来るだけ家庭に入れよ、の考へで参つて居ります。先づ家庭から音楽を、それでなければ音楽の普及と云ふことは難かしい事と考へて居ります。で、今日素人のお嬢さん方がお稽古して居りますのもその理由からで御座います。
 自分が進んで弾きたいと考へて居りますのは矢張りショパンで御座いませう。ショパンの音楽は一音一符と雖もピアノ的でないものはありません。どのパセーヂでも無駄がなくて、全くピアノ音楽として立派なものだと存じます。リストも結構だと存じますが、そして、伺がふには面白いと存じますが、一人ピアノの前に座つた時はどうもリストを苦労して奏かふと云ふ気にはなりません。疲れた時や、その他、自分を慰める為めにはショパンは私の友です。  (在文責記者)

 上の文は、巻頭の写真と共に、『音楽世界』 昭和六年 〔一九三一年〕 六月号 第三巻 第六号 に掲載されたものである。
 なお、本号には、次の口絵写真〔すぐ下の写真〕、楽譜2頁〔下はその説明〕、囲み記事〔下の写真〕も掲載されている。

 

 此の楽譜 シヨパンのグランド、ヴアルス、ブリラントは幸田女史が十七歳頃音譜したものである。当時は楽譜が仲々手に入らなかつたので皆音譜したものである、標題の英字は故瓜生女史が書いたもの。

 我が楽壇の母 幸田延子女史 盛んな表彰式 五十年の功績と還暦祝 来月七日に上野音楽学校で

 

 

 「幸田延子先生略歴」 〔18.8センチ、二つ折〕

 

 明治三年三月十九日東京市下谷区仲御徒町に御出生。幼にして聡明、明治十五年早くも音楽取調掛伝習所に入つて研鑽さる事三年有余、業を卒へるや直に同所の助手を拝命、時に齢僅に十六、誠に世の異数とする所である。同廿二年四月米墺両国に留学、音楽芸術の薀奥を究めて同二十八年十一月帰朝、爾来東京音楽学校教授として育英の道に励精せられ、同四十二年九月退職せられるや審声会を組織し、民間にあつて子弟の教養に当り、鋭意専心今日に及ばれた。此間前後を通じて五十年、竹の園生のやんごとなき方々の御教授の光栄を担はれし外、先生の指導誘掖を受けたものの数実に数百千の多きに上り、常に楽界に於て燦然たる存在を示されてゐる。

   昭和六年 〔一九三一年〕 六月    幸田延子先生功績表彰会

 この略歴は、「幸田延子先生功績表彰歌」とともに『記念』に挟まれていたものである。

 ・「幸田延子先生功績表彰歌」 〔22.8センチ、二つ折〕

     :歌詞付楽譜、岡野貞一作、小松玉巌作の歌詞一番二番。裏表紙には、「昭和六年六月七日 幸田延子先生功績表彰会」とある。

 ・『記念』 〔31センチ、楽譜15頁〕

     :明治天皇御製の「天」と「蘆間舟(あしまのふね)」(乗杉嘉壽謹書)、歌詞付楽譜(幸田延子謹作)

 この「天」と「蘆間舟」の作曲などの経緯は、大正七年 〔一九一八年〕 一月一日発行の『婦人週報』四巻一号にある「我が楽界に 咲き出づる名花 畏くも先帝陛下の御製に 謹譜し奉りたる幸田女史」を参照の事。それによれば、大正三年 〔一九一四年〕春、女史は楽譜を持って参内し、皇后に奉ったとのことである。

 なお、昭和六年六月一日発行の『月刊楽譜』 六月号 第二十号 第六号 には、次の写真2枚、記事、短い情報などが掲載されている。

 ・〔口絵〕 「わが楽壇の母 幸田延子女史」 〔ブログ上部の写真〕
 ・「大正天皇御慶事当時の幸田女史」

   

 記事
 ・「幸田先生のことども」      鳥居つな
 ・「幸田女史に就いて二三の事ども」 倉辻龍男
  幸田延子女史のお祝ひ。六月七日午後一時より 表彰式及記念演奏会。夜は精養軒にて記念晩餐会

 音楽の盛んな国  幸田延子

 

 帰朝せる音楽の天才幸田延子女史と其居室
 新近回国之音楽界名手幸田女史小像及女史居室
 Miss N.Koda, the famous lady pianist, who has retured from Germany after ten months’stay there.

 出来る丈多くの音楽会へ臨んで、出来る丈け多くの音楽を聞きたいと昨年の九月二十五日久しく欧洲の風物に接しなかった私は、当年(十四年前洋行当時)の事共を頭の中に描いて横浜を解䌫 たつ た。汽船は折良く伏見若宮同妃両殿下の御召船で、私は図らずも殿下と同じ汽船に乗ることの出来る光栄を擔 にな つたその上妃殿下より有り難い御言葉さへ賜つたのは身に取つての栄誉であった。私は十一月伯林へ着いて墺国のピーン、巴里、倫敦等を経て帰朝したのであるが、至る所音楽は大層盛んで就中 とりわけ 伯林の音楽の盛んなことに驚いた。毎晩のやうに幾ら尠も音楽会の数が何しても十以上はある彼 あ の音楽会へも行って聞きたい、此の音楽会へも行って聞きたいと心ばかり焦慮 いら つてもさうゝ一晩中に四つも五つもの音楽会へ行く時間がないので、思ひながらも聞き遁 のが した音楽会の数が幾らあったか知れない程であった。音楽の種類はバイオリン、ピアノ等が重で、私の聞いた音楽家中現代著名の人の名を挙ぐれば、ピアノの方ではブゾーニー、ゴドウスキ、コチヤルスキー、サオヱル等で又バイオリンの方ではエサイ、 クベリツク、マルト等で何れも以上は男子である、女子の方の歌者 ボカリスト は子ーマン、デスチング、メルバー、ペトラチーニ等であった。此度の漫遊中痛切に感じたのは、若し私がグラヒック記者のやうに絶えず写真機を携ひてゐたならば、至る所で珍らしいと思ったものを一々写真に撮って、日本への土産に出来たであったらうと思った。日誌を出して見ても数ある中には鳥渡 ちょっと 思ひ出せぬ事も沢山あるが、写真を見ればさうゝ此処にこんな事もあったとと直ぐと記憶を呼び起す事が出来て余程興味ある事であったらうと考られる。

 上の写真と文は、明治四十三年〔一九一〇年〕十一月一日発行の『グラヒック』第二巻第二十号 掲載のものである。
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『ピアノ グラフ』 小野ピアノ (1935?)

2013年06月23日 | 音楽教育家
 表紙には、「ピアノグラフ PIANO GRAPH」とあり、表紙写真下の説明には「世界的ピアノ巨匠 アルトール ルービンシュタイン先生と ホルゲールピアノ」とある。裏表紙は、「HORGEL PIANO」とあり、「小野ピアノ店」の広告で、「本店、六郷工場、本店陳列所ノ一部、支店内部」の写真がある。小野ピアノ店が、ホルゲールピアノの宣伝のために作成した写真グラフ〔写真のみで、表紙も含め64枚掲載〕と思われる。発行年月日の記載はないが、昭和十年 〔一九三五年〕 頃かと思われる。37.8センチ。

   

 ・東京音楽学校高折先生と ホルゲールコンサートピアノ 〔上左〕
  ホルゲールピアノ御愛用の レオニード クロイツア先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 守田貞勝先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 井口基成先生 〔上中〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 黒澤愛子先生 〔上右〕

   

 ・ホルゲールピアノ御愛用の 鈴木清太郎先生(札幌)、
  ホルゲールピアノ伴奏にて演奏中の 世界的巨匠フォイヤーマン先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 阪本規與子先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 原智惠子
  ホルゲールピアノ御愛用の齋藤英子先生

     

 ・ホルゲールピアノ御愛用の ジェームス ダン先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の マキシム シャピロ先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 内野照子先生 〔上左〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 弘田龍太郎先生 〔上中〕
  名ピアニストウイルケンス氏 とホルゲールコンサート、
  ホルゲールピアノ御愛用の 東貞一先生 〔上右〕

   

 ・ホルゲールピアノ御愛用の 宝塚楽長高木和夫先生、
  ホルゲールピアノ伴奏にて歌ふ 船越富美子嬢 〔上左〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 豊増 昇先生 〔上中〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 世界的巨匠フリードマン先生、
  東京市女学校連合音楽会にて演奏中の ホルゲールコンサート於日比谷音楽堂
  ホルゲールピアノ御愛用の遠見トヨ子嬢 〔上右〕

   

 ・ホルゲールピアノ御愛用の 片山信四郎先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 牛島彌生先生、
  日比谷公会堂にて演奏中の 甲斐美和子嬢、
  ホルゲールピアノ御愛用の 伊藤義雄先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 袴田克己先生、
  ホルゲールコンサート伴奏にて歌ふ 世界的声楽家ガリクルチ夫人、
  ホルゲールピアノ御愛用の 内田藤子先生

   

 ・東京音楽学校教授木下保先生と ホルゲールピアノ 〔上左〕
  大阪朝日会館に於て演奏中の マキシム・シャピロ先生、
  ホルゲールピアノ御使用ニテ声楽教授中の リデイア・モーレー先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 佐藤美子先生 〔上中〕
  ホルゲールピアノ御愛用の ダン道子先生 〔上右〕
  大阪室内楽協会演奏会 ホルゲールピアノ御使用にて

    

 ・ホルゲールピアノ御愛用の 宝塚楽長古谷幸一先生 〔上左〕
  ホルゲールピアノと 山田康子先生 〔上中〕
  日本青年館に於けるホルゲールコンサート演奏中の レオニードクロイツアー先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 平井美奈子先生 〔上右〕
  ホルゲールピアノ御愛用の ヤノウスキー先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の カラスロヴア先生

    

 ・ホルゲールピアノ御愛用の 田中規矩士先生 〔上左から1番目〕
  ホルゲールピアノと ブルガー嬢、
  ホルゲールピアノにて演奏中の 永井静子先生 〔2番目〕
  ホルゲールピアノ御愛用の ペルムムツテル氏、
  ホルゲールピアノ御愛用の 永井進先生 〔3番目〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 袴田先生 〔4番目〕
  ホルゲールコンサート三台にて演奏中の 榊原先生 福井先生 土川先生 於青年会館、
  ホルゲールピアノ伴奏にて唄ふ チエンキン先生

   

 ・ホルゲールピアノ御弾奏の 東京高等音楽学院教授の榊原直先生 〔上左〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 長谷川さく子先生 〔上中〕
  ホルゲールピアノ伴奏にて演奏中の 世界的提琴巨匠ヂムバリスト先生、
  ホルゲールピアノ御弾奏の 土川正浩先生 〔上右〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 武澤武先生、
  大阪国民会館に於ける 大阪帝国大学音楽部演奏会江藤支那子女史御使用のホルゲールピアノ

   

 ・ホルゲールピアノ御愛用の 高木東六先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 井上定吉先生 〔上左〕
  大阪朝日会館に於ける 原智惠子嬢ピアノ演奏会ホルゲールコンサート使用 〔上中〕
  ホルゲールコンサート伴奏にて演奏中の 世界的巨匠フォイヤーマン先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 伊達愛先生御夫妻、
  ホルゲールピアノ御愛用の 藤原貞次郎先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の モイセイヴィッチ先生、
  ホルゲールピアノ演奏中の 本多信子嬢 於日比谷公会堂 〔上右〕
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『楽のかゞみ』 松本楽器合資会社 (1910.1)

2013年01月26日 | 音楽教育家
 内表紙には、「創業廿週年記念編纂 楽のかゞみ 全国音楽教育家一覧 松本楽器合資会社」とある。奥付には、「明治四十貮年十二月廿五日印刷 明治四十三年 〔一九一〇年〕 一月一日発行 (不許複製) 編纂兼発行人 山野政太郎 発行所 松本楽器合資会社」などとある。12.1センチ、写真50頁〔各頁3人掲載〕。

 当時の音楽家〔男性118名(外国人7名を含む)、女性32名:計150名〕の写真帖である。

  謹言

  弊社創業廿周年記念として斯道啓発に資せんと全国音楽家一覧編纂を企画せるに当り斯道諸家の深厚なる協賛に浴し爰(ここ)に其刊行を見るを得弊社一同感謝に堪えざる所殊に歳末に際し完成に焦慮し為めに周到なる考察を缺(か)き序列の不同、製版の不鮮明なるは寛大なる黙認を乞ひ奉る

          

 ・伊澤修二氏、上眞行氏、鳥居忱氏 
 ・東京音楽学校 上原六四郎氏、幸田延子女史、瀏道子女史
 ・小山作之助氏、学習院女子部 納所辨次郎氏、マンドリン好楽会 比留間賢八氏
 ・内田夆太郎氏、神奈川県師範学校 小林錠之助氏、東洋音楽学校 鈴木米次郎氏  
 ・女子音楽学校 山田源一郎氏、理学博士 田中正平氏、韓国漢城師範学校 小出雷吉氏

          
 
 ・大阪堂島高等女学校 妹尾繁松氏、大阪府師範学校 目賀田萬世吉氏、東京音楽学校 楠美恩三郎氏
 ・長野県上田高等女学校 依田辨之助氏、東京第二高等女学校 丸山トメ子女史、青木武子女史
 ・高知師範学校 福長竹男氏、東京音楽学校 橘糸重女史、多唱歌会 多梅雅氏  
 ・母木コマ女史、二葉音楽会 石原重雄氏、東京音楽学校 島崎赤太郎氏
 ・長尾秀女史、北村季晴氏、高濱孝一氏

          
   
 ・東京高等師範学校 田村虎藏氏、東京音楽学校 前田久八氏、広島高等師範学校 吉田信太氏
 ・札幌師範学校 玉川瓶也氏、鳥取県第二中学校 林重浩氏、京都府第二中学校 野村成仁氏
 ・北海道函館中学校 今野大膳氏、東京音楽学校 安藤幸子女史、台湾国語教師 高橋二三四氏
 ・小倉高等女学校 塚越久賀女史、兵庫県御影高等女学校 米野鹿之助氏、茨城師範学校 片岡亀雄氏
 ・早川嘉左衛門氏、山口高等女学校 黒部峯三氏、長崎師範学校 島村吉門氏

          
 
 ・山口師範学校 松山若拙氏、富山県師範学校 高塚鏗爾氏、東京音楽院 天谷秀氏
 ・長野県師範学校 神山末吉氏、東京成女学校 稲岡美賀雄氏、清国保定府師範学堂 近森出来治氏
 ・愛媛県松山高等女学校 山本静野女史、京都府師範学校 吉田恒三氏、栃木県宇都宮高等女学校 栗本清夫氏
 ・東京音楽学校 杉浦千歌女史、熊本師範学校 入江好治氏、東京音楽学校 神戸絢女史
 ・東京府中学校 鈴木穀一氏、東京音楽学校 岡野貞一氏、高折周一氏

            

 ・福岡高等女学校 中村イシ女史、東京音楽学校 喜多襄女史、久留米高等女学校 新清次郎氏
 ・巌本捷治氏、中村忠雄氏、清国浙江師範学堂 福井直秋氏  
 ・東京音楽学校 吉川やま女史、東京実践女学校 澤田孝一氏、東京音楽社 山本正夫
 ・甲府師範学校 小林禮氏、三重県師範学校 村上一郎氏、東京青山女学校 古澤きみ女史
 ・大阪相愛高等女学校 栗原欣子女史、新潟県高田師範学校 横田三郎氏、岡山高等女学校 赤尾寅吉氏  

          
   
 ・福岡師範学校 松園卿美氏、静岡師範学校 内藤俊二氏、広島師範学校 渡邊彌藏氏    
 ・東京音楽学校 南能衛氏、和歌山師範学校 長澤光治氏、長野県飯田高等女学校 長谷部巳津次郎氏    
 ・徳島県高等女学校 田原美喜女史、岡山女子師範学校 岩倉一野女史、熊本県尚絅高等女学校 成田藏巳氏  
 ・皐月会 天野愛子女史、福井師範学校 安藤弘氏、宇都宮高等女学校 外山國彦氏
 ・東儀哲三郎氏、函館高等女学校 遠藤タキ女史、門司高等女学校 西村甫也氏

            
 
 ・兵庫高等女学校 田中銀之助氏、新潟県長岡高等女学校 若林孫次氏、新潟師範学校 與田甚二郎氏
 ・大津高等女学校 田淵初子女史、神戸市小学校 松本徳藏氏、熊本高等女学校 犬童信藏氏
 ・三重県師範学校 江澤清太郎氏、東京音楽学校 鳥居つな女史、東京音楽学校 川久保美須々女史
 ・東京府第一中学校 鎗田倉之助氏、東京上野高等女学校 森田孝子女史、澤田柳吉氏
 ・学習院男子部 小松耕輔氏、徳島中学校 小串信太郎氏、徳島師範学校 大槻貞一氏

            

 
 ・神奈川女子師範学校 草川宣雄氏、東京府青山師範学校 松岡保氏、静岡女子師範学校 平林たみ女史
 ・富山高等女学校 浅尾初音女史、小倉師範学校 栢森享氏、東京音楽学校 中田章氏
 ・福岡高等女学校 秋山升氏、京都市高等女学校 原田彦四郎氏、青森高等女学校 中島かつ女史
 ・埼玉師範学校 成澤潤藏氏、大塚淳氏、山田耕作氏
 ・島田英雄氏、大阪夕陽丘高等女学校 杉浦秋乃女史、東京音楽学校 本居長世氏

          
 
 ・群馬県女子師範学校 本多ひろ女史、長崎女子師範学校 副島外喜尾女史、群馬県師範学校 大西正直氏
 ・島根県師範学校 新谷八太郎氏、富山県高岡高等女学校 吉田なほ女史、福岡県浮羽女学校 上野百代女史
 ・宮内省雅楽部 多忠龍氏、宮内省雅楽部 薗廣虎氏、宮内省雅楽部 芝忠重氏
 ・宮内省雅楽部 薗十一郎氏、大阪相愛高等女学校 大村恕三郎氏、宮内省雅楽部 奥好察氏
 ・東京音楽学校 コイベル氏、東京音楽学校 ユンケル氏、宮内省楽部 ドウポラウ并チ氏

          
 
 ・ハイドリヒ氏、東京音楽学校 マイステル氏、ヴ井ギエチ氏  
 ・東京音楽学校 ロイテル氏、陸軍戸山学校 永井健子氏、横須賀 兵団 瀬戸口藤吉氏
 ・大阪陸軍々楽部隊 小畠賢八郎氏、金須嘉之進氏、大橋純次郎氏
 ・和歌山高等女学校 奥村静氏、関西音楽団 甲賀良太郎氏、鎌田伸氏
 ・東京音楽学校 大野朝比奈氏、京都淑女高等女学校 田島教惠氏、中村源之進氏

 松本 ピアノ  金参百廿円以上 金貮千円迄
    オルガン 金拾八円以上  金参百円迄
  其他西洋楽器及音楽書類各種
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「神戸絢子女史」 (1914.1)

2012年11月20日 | 音楽教育家
 

 寅年の名流(三)

 東京音楽学校教授神戸絢子 〔神戸絢〕 の君。独逸 〔実は、仏蘭西〕 仕込みのピアニストとして有名な方ですが、教場以外の楽壇にお出でになつた事はありません。明治十一年のご誕生で、今年は三十七歳、四まはり目の当り年です。

 上の写真と説明は、大正三年 〔一九一四年〕 一月一日発行の『淑女画報』第三巻第一号の口絵に掲載されたものである。

 

 頼母木駒子女史 神戸絢子女史 大音楽会出演ノ為 梅田駅到着ノ光景

    絵葉書:大阪市東区博労町四丁目 中央写真館撮影 三木楽器店印行、大阪開成館

  写真は、左が頼母木駒子、右が神戸絢子である。

 なお、ヴァイオリンの頼母木駒子については、田辺尚雄が、東京音楽学校ヴァイオリン選科でその教えを受けた思い出などを記している(『明治音楽物語』〔藤村操や久野久子の思い出なども記している〕また『田辺尚雄自叙伝:明治篇』など、明治三十九年七月撮影の先生や友人らと一緒の写真もある)。

 

 仏国より帰朝せし閨秀音楽家の実歴
     
     東京音楽学校助教授 神戸絢子

 東京音楽学校助教授神戸絢子女史(三十二)は、一昨年 〔明治四十年:一九〇七年〕 の三月、文部省から選まれたフランスパリに渡り、専らピアノを研究されて、六月十七日めでたく帰朝されました。一日 いちじつ 記者はパリ留学中のお話を承 うけたまは はらうと思つて、東京神田駿河台鈴木町のお宅へ伺ひました。まだ木の香の失せない新しい御門、それに続いて青葉若葉のすがすがしい植込。案内を請ふと、間もなくお二階の広間に通されました。
 やがて優しい衣ずれの音と共に、薄い緑色の洋装をされた女史は、しとやかに出ていらつしやいました。
 『ようこそおいで下さいました。お待たせ申して失礼いたしました。』
 と、つつましやかに御挨拶をあそばしました。御縹緻 ごきりやう のお美しいのに、自らなる愛嬌。わざとらしからぬ温情は頬 ほほ に眼に口にあらはれてをります。真の天才は、あらゆる瑣事にまで流露するものであると聞きましたが、女史の如きは、まつたくそれであらうと思ひました。次に掲げますのは即ち女史のお話でございます。

 『毎日音楽会が二つ三つある』

 申すまでもなく、パリは音楽が非常に発達してをりまして、下流社会の人でも音楽を解しない人はないくらゐでございます。日本で申しましたら、丁度琴三味線をといふ具合に普通の家庭でピアノの一台ぐらゐの備へない家 うち はございません。単に室内の装飾品としても、なければならぬもののやうになつてをります。どんな日でも音楽会の二つ三つない日はございません。男も女も、年をとつた人も、若い人も、皆それぞれ番附を見て、好きなところへ聴きにまゐります。音楽趣味の普及してゐることは、実に驚きますほどで、パリ人で音楽を聴く耳を持つてゐない人は一人もないと申してよいくらゐでございます。

 『厳重極まる官立音楽学校』

 私のまゐりましたのは、フランスでも有名な巴里官立音楽学校でございます。パリは音楽の盛んなところだけに、私立の音楽学校は数へ切れないほど沢山ございます。けれども私立学校は容易 たやす く入学ができるだけに、生徒の学力もまちまちでございますが、この官立音楽学校は学制が非常に厳重で、毎年幾百人といふ多数の応募者の中 うち から、七十人か八十人かの秀才を選抜して、入学させるのでございます。入学年齢は十八歳までで、二十二歳まで在学することが出来ます。このやうに厳重でございますから、この学校に入学出来たといふだけでも、もう立派な音楽家というてよいので、非常な名誉としてあります。男の生徒も随分多うございます。
 私はパリに着きますと直<す>ぐ、その音楽学校の傍聴生となつて、校長のホーレーさんに就いて親しく研究しましたが、その傍ら、ホーレーさんの紹介で、有名なヒリツプ先生にも学びました。
 パリの市中にをりましては、人家は稠密でございますし、それにいろいろな事情が起つて来て、一日音楽を聴いていることができませんから、私は町はづれの或る寄宿舎の一室を借りて、出来るだけ音楽に親しんでをりました。

 『流行嫌ひなパリ音楽生気質』

 一級の生徒は十人か十二人で、家庭から通つてゐる人が多いやうでございます。学校の授業時間は一週間に三度で、大抵二時間づつ教授を受けます。先生では、校長のホーレーさん、その他、リエーメンレスリーヒリツプなどといふ方が最も有名でございます。
 音楽学校の生徒は、一般に極く質素でございます。尤 もつと も中には、流行を追うてゐる人がないでもありませんが、十人のうち九人までは、衣裳でも持物でも、流行を追ふやうなことはないやうです。何しろ流行の中心といはれるパリのことでございますから、流行を追ふとなれば制限がありませんからでもあらうと存じます。
 パリの処女は一体に快活で、家庭も何となく晴れやかなやうに感じます。厳格な家もあり放任主義の家もありますが、総じて自由といふことを尊 たつと んでをりますから、皆ある程度までは解放されてゐるやうでございます。

 『聴衆の熱心は驚くの外なし』

 音楽会は、稀に劇場で開くこともございますが、到る処に音楽堂がございますから、大抵の演奏は音楽堂で開きます。演奏は皆専門的で、ピアノの時はピアノばかり、合奏の時は合奏ばかりといふ風で、一人で数時間づつ演奏をつづけるのが例です。少し有名な人の演奏でもありますと、皆競つて来会する熱心は、実に驚くの外はございません。
 音楽会の一番多いのは十一月頃から翌年の三月頃までで、暑中になりますと、有名な音楽家は大抵避暑にまゐりますから、随つて盛んでありません。入場料はなかなか高価ですから、来会者の多くは中流以上の人ですが、中には下流の人も見受けます。
 音楽堂で一番大きいのはエラール音楽堂です。これはピアノハルプを販売する有名なエラールといふ楽器屋で建てたものでございます。
 私は今年 〔明治四十二年:一九〇九年〕 の三月パリを去つて独逸の伯林にまゐりました。そして著名な音楽家を訪ひ、または音楽会などにまゐりまして、五月九日、マルセーユ出帆のツーラヌ号に搭乗して、無事に帰国いたしました。

  洋楽と家庭

    ピヤノと床の間

 私の居ました仏蘭西は流石芸術の国と呼ばれる丈御座いまして、彼地 あちら の家庭には中々能く音楽趣味が普及して居ります、大抵な家庭には必ずピヤノが一台御座います誰も弾く人が無くても必ずあります、是はピヤノを以て客間の装飾と迄考へて居るからで、日本なら床の間がないと可笑しく思はれる様に、ピヤノは是非客間に無くてならぬ物となつて居ます、彼地の風と致しまして客の訪問は午後で、お客を招きまするは多く晩餐で御座いますが、其後では必ず奥様とか令嬢とかゞピヤノを弾いてお客を楽しませます、又普通の日でも主人が会社なり店なりから疲れて帰つて参りますと、主婦は晩食を勧めた後で自らピヤノ台を開いて一曲面白く弾じて所夫 をつと の一日の疲労を休めます

    音楽の解る耳

 何も私の専門がピヤノであるからピヤノでなければならぬ様に申すではありませんが、凡て音楽の原 もと はピヤノでヴアイオリンなども結構で御座いますが、先づ最初にピヤノのお稽古を少しなさいまして、夫 それ からでないとヴアイオリンも上手には参りません、又ヴアイオリンはピヤノの伴奏がないと奏 ひ かれぬ位のものです、西洋では先づピヤノが家庭にも学校等にも全盛を極めて居ると申しても宜しいので、日本では小学校にはオルガンが必ず御座いますが、彼地ではオルガンはお寺にしか御座いません、勿論彼地と日本とは富の状態が大層違ひますから、四百円五百円、少し良いのになりますと千円以上もするピヤノの日本の家庭に入れることは困難の事情も御座いませうし、他の事物との釣合も取れますまいが、私の希望としては夫々の家庭に相応な琴もオルガンでも何でもよろしうございますから、日本の家庭に音楽趣味を普及して、大人や子供も音楽を聞いて楽 たのし む耳を持つ様になりたいと思ひます

    稽古に良い年齢

 これは私一人の考へかも知れませんが昨今日本の音楽、琴とか三味線とか申す方は洋楽に次第に地盤を蚕食されて居ると思ひます、成程三味線は下町の家庭に深く根ざして居り琴は官吏や純日本的家庭に大層勢力を有して居ますが学校で洋楽を稽古なさるものですから、卒業後も洋楽に趣味をお持ちになる方が次第に増えて参ります殊に上流の家庭にはピアノが今非常なる勢力をもつて居ます、上流の奥様で随分おやりの方もありますけれども、何かと御用がおありなさるもんですから私は止めますから今度は嬢に稽古して下さいなど仰しやいますピヤノのお稽古によい年齢 としごろ はと申しますと、九歳か十歳からですが日本では多く十一二歳からです、夫 それ 以上になりますと指が堅くなつて上達は中々の骨です

    音楽よりも芝居

 私は此の間フイハーモニーの会で帝国劇場でピヤノを弾きましたが、彼処 あそこ は劇場としては立派ですが、音の響きは建築のよくない為か大層悪う御座います、私のが出来が悪かつたのかとロイテルさんの後ろで聞きましたが、矢張り響きがいけませなんだ、先づ日本で音楽に最も適したのは上野、音楽学校の講堂でせう、彼処は日本一と云はれる三千円のピヤノもあります、音楽学校では毎週音楽会を催しまして、土曜には無料日曜には二円取りますが土曜の日には夫はゝ沢山の人で廊下に迄一杯と云う有様ですが、日曜には只西洋人許りと云うてもよい位です、日本人は未だ音楽の趣味が乏しいもんですから二円出す位なら芝居の方が面白いと大抵な方は仰しやつて来 いら しやいません(神戸絢子)

 上の文「洋楽と家庭」は、大正元年 〔一九一二年〕 十二月一日発行の『淑女画報』 第一巻第九号 に掲載されたものである。

 なお、東京朝日新聞 大正八年三月十三日(五)面 には、「神戸女史の光栄」良子女王御教育係としてピアノ御教授 という記事がある。
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『創立五十年記念』 東京音楽学校 (1929.11)

2012年06月10日 | 音楽教育家
 表紙には、「東京音楽学校 創立五十年記念 昭和四年十一月」とある。奥付には、「昭和四年 〔一九二九年〕十一月十五日印刷 昭和四年十一月廿八日発行 (非売品) 編輯兼発行者 東京音楽学校」などとある。19センチ、本文44頁。
 
 目次

 ・写真の部

   行啓記念写真
    一、昭和三年十二月十二日 
      皇后陛下本校行奉迎門御通過
    ニ、明治三十二年四月二十一日 
      皇后陛下本校行啓御座
    三、大正五年十一月十六日 
      皇后陛下本校行啓御座
   
   歴代校長写真
    一、伊澤初代校長及其筆頭
    一、前校長及現校長
   
   其他の写真
    一、音楽取調掛建物
    一、音楽取調掛建物内奏楽堂及備付管絃楽器
    一、音楽取調掛最初の関係者(メーソン教師外数氏)
    一、メーソン教師及同師に就て伝習せる東京女子師範学校生徒
    一、新築当時の本校々舎
    一、旧分教場玄関及同声会員の一部
    一、現在の本校々舎及職員生徒
    一、現在の分教場
    一、本校奏学堂に於ける本校管絃楽及合唱(ユンケル教師指揮の時代)

      

    一、本校奏楽堂に於ける本校管絃楽及合唱(クローン教師指揮の時代)

      

    一、昭和三年十二月十二日大礼奉祝演奏会予習(能楽及長唄)
    一、同上(洋楽)
    一、明治十八年以後の卒業生写真
           
 ・沿革大要及名簿

    一、東京音楽学校沿革大要
    一、現在職員名簿
    一、旧職員名簿
    一、卒業生及修了生名簿

 ・演奏曲目

    一、皇后陛下行啓の際謹奏したる曲目
      
     (一)明治三十二年四月二十一日

      一、合唱            卒業生及生徒
         惶き御影         モツアルト作曲 中村秋香作歌
      一、ヴァイオリン二部合奏    教授 幸田延 研究生 幸田幸
         ドッペルコンツェルト   バッハ作曲
      一、ピアノ独奏         助教授 橘糸重
         ソナータ(パテティーク) ベートーヴェン作曲
      一、ヴァイオリン、筝合奏    生徒
         雪の朝          八ツ橋検校調
      一、独唱            教授 幸田延
         甲、船出         フランツ作曲 佐々木信綱作歌
         乙、デル、ノイギーリゲ  シューベルト作曲
      一、ヴァイオリン合奏      卒業生及生徒
         甲、アンダンテ      グルック作曲
         乙、ルール        バッハ作曲
      一、筝             生徒
         都の春          山勢松韻作曲 鍋島侯爵作歌
      一、ヴァイオリン、ピアノ合奏  アウグスト、ユンケル フォン、ケーベル
         ソナータ         ルービンシタイン作曲
      一、合唱(管絃合奏)      職員卒業生及生徒
         国の光          メンデルスゾーン作曲 黒川眞作歌

     (二)明治三十四年六月四日
     (三)明治三十五年五月六日
     (四)大正五年十一月十六日
     (五)昭和三年十二月十二日

 写真の部には、「明治十八年以後の卒業生写真」がある。すなわち、「明治十八年七月卒業生」から「昭和四年三月卒業生」まで教職員とともに撮った47枚である。下は、その一枚である。

 

    明治三十九年七月卒業生

 東京音楽学校沿革大要〔一頁~十頁〕は、「本校は明治十二年十月文部省内に音楽取調掛を設置された時に始まつたもので、此の掛の創設に就ては当時東京師範学校長たりし伊澤修二氏が主として尽力せられたのである。」という文で始まる。
 名簿は、「現在職員」〔十一頁~十六頁:本校ニ就任年月、官職名、氏名、備考〕・「旧職員」」〔十七頁~二十八頁:任免年月、摘要、職、氏名、備考〕・「卒業生及修了生」〔二十九頁~四十一頁〕である。
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『行啓記念写真帖』 東京音楽学校 (1934.5)

2012年06月08日 | 音楽教育家
 表紙には、「昭和九年 〔一九三四年〕 四月二十一日 行啓記念写真帖 東京音楽学校」とある。横内写真館。15.6センチ。

 ・凡例

 皇后陛下に於かせられては去る四月二十一日本校に行啓遊ばされ奏楽堂に於て照宮成子内親王殿下を始め御八方の宮様と陪聴の栄誉を担へる四百の臣子と御共々親しく本校の演奏を聴召された。
 願ふに本校は創立以来斯くの如き行啓の光栄に浴すること実に七回に及んで居るが、これ偏に音楽並に教育御奨励の深き思召に依るものと拝察され洵に恐懼感激に堪えない。
 而してこれは独り本校のみならず広く我楽界、教育界の光栄とする処と言はなくてはならぬ。仍つて茲に我等はこの光栄を永く記念せんが為に、行啓記念写真帖を謹製した次第である。

    昭和九年五月  東京音楽学校

 ・御前演奏曲目

  
 
 ・陛下
 ・奉迎門、門内に奉迎の海軍々楽隊
 ・照宮殿下の御着
 ・着御
 ・着御
 ・台臨の皇族殿下 2枚
 ・着御を待ち奉る齋藤文相と乗杉校長、職員の奉迎
 ・御座所、便殿、照宮様の御休憩室
 ・能楽 小鍛冶、能楽 小鍛冶
 ・長唄 神田祭、筝曲 奉祝歌
 ・ヴアイオリンの演奏、パイプオルガン独奏
 ・三つのピアノと絃楽合奏、児童楽団と合唱団の斉唱
 ・奉祝歌の演奏

  

 ・還啓、還啓
 ・皇族方の御車、光栄の陪聴者
 ・職員生徒の萬歳
 ・萬歳三唱後 生徒達の退散
 ・皇太子殿下御誕生奉祝演奏会 台臨の各皇族殿下(三月十七日)、皇太子殿下御誕生奉祝演奏会 カイザーマーチの演奏(三月十七日)

  
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「東京音楽学校 オーケストラ」 絵葉書 (1906.4)

2012年03月14日 | 音楽教育家
  

 上左:「管絃合奏 Orchestra & Chorus of the Tokyo Academy of Music. 合資会社共益商社楽器店発行」
     この絵葉書には、「三九、四、二四 〔明治三十九年 (一九〇六年) 四月二十四日〕於 東京」との書き込みがある。
     なお、この写真については、『明治音楽史考』(遠藤宏、1948年)に以下の詳しい説明がある。

  明治三十八年頃の東京音楽学校管絃楽と合唱

 明治三十八年頃の東京音楽学校の管絃楽合唱の全員である。同団は当時教官と卒業生、生徒からなり、宮内省楽部から管楽器、コントラバス、ティムパーニが参加してゐた。
 中央立ってゐるのがアウグスト・ユンケル教師、その右第一ヴァイオリン 幸田延、安藤幸、その後チェロ岡野貞一、その左幸田(チェロ)、その左ヴァイオリン鎗田倉之助(尺八の名手)、その左鈴木保羅、その左前ヴァイオリン林テフ、安藤幸の右第二ヴァイオリン多久寅、山井基清、多の後吉澤重夫、その後西村、山井の後永井、鳥居つな、その後東儀哲三郎(ファゴット)、高津環(クラリネット)、渡部康三〔コメントにより訂正。原文は「渡邊康三」〕(トラムペート)、原田潤(コントラバス右端)他の管楽器大部分は宮内省の伶人達。
 合唱右手前列中央は吉川ヤマ、その右鈴木乃婦子。
 (右は川上淳氏学生時代の能憶による) 

 上右:「東京音楽学校 オーケストラ」「東京音楽学校、鳥居教授廿五週年記念、6th.10.、1907 〔明治四十年 (一九〇七年) 〕、園遊会」下は、この絵葉書の通信文である。
 Ⅰ.
 今日の園遊会雨天の為め室遊会となりました。しかし色々の余興や売店接待処などがあつて非常な愉快な一日を過ごしました。
 上図は学校の正面、下図は奏楽堂で管絃合奏、合唱の写真です。これは演奏台の方から聴者の居る方へ向つて写したのですからいつもとは位置が反対です。ピアノによりかゝつて居るのはユルケル師その右のヴァイオリンヲ持つて居る二人は幸田先生姉妹です左は姉さんで右は妹の安藤教授です。幸田先生はピアノ、安藤先生 

  

 上左の写真:ユンケル(左下の椅子の人物)、安藤幸子・幸田延子姉妹(ユンケルの右)、頼母木駒子(中央二列目右)が写っている。
 上右の写真:印刷物。指揮台の右に、ユンケル、左にウェルクマイステル・安藤幸子・幸田延子、さらに頼母木駒子などが写っている。 

     

 左:「PRPF.A.JUNKER,」 中:「T.A.M.Orchestra under Prof.Junker.」 右:「Farewell then, wife and child at home!」
   これらの写真は、いずれも「送別演奏会記念 11.30.1912 〔大正元年十一月三十日〕」とある絵葉書のものである。 

  

 左:「東京音楽学校学友会合唱団(グルック二百年祭記念)」 大正三年 〔一九一四年〕 七月四日 右:「東京音楽学校合唱団」(大正初期?) 上の写真も、絵葉書のものである。

 

 東京音楽学校奏楽堂(其一) BAND-STAND IN THE TOKYO MUSIC SCHOOL.
 この写真は、年代不明の絵葉書のものである。
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「妙なるかなで」 絵葉書 (1910頃)

2011年12月11日 | 音楽教育家
 絵葉書の袋には、「妙なるかなで」とあり、「六枚壹組 定価 金拾五銭」とある。

           

 ・東京音楽学校           Tokyo Academy of Music.
 ・ユンケル教授ト鈴木ヴァイオリン  Prof. Augusut Junker and Suzuki Violin.
 ・ウエルクマイステル教授ト鈴木セロ Prof. Heinrich Werkmeister and Suzuki Celo.
 ・ロイテル教授ト山葉ヲルガン    Prof. Rudolph Reuter and Yamaha Organ.
 ・ロイテル教授ト山葉ピアノ     Prof. Rudolph Reuter and Yamaha Piano.
 ・ペッツオールド夫人ト山葉ピアノ  Mrs. Hanka Petzold and Yamaha piano.  

 また、下の絵葉書は、「大音楽会記念 三木楽器店」とあり、明治四十三年 〔一九一〇年〕 七月十一日の日付印がある。

  

  アウグスト・ユンケル〔August Junker〕、ハインリヒ・ヴェルクマイスター〔Heinrich Werkmeister〕、安藤幸子、幸田延子と思われる。

 なお、下の絵葉書2枚は、大正初期の絵葉書と思われる。

  

 ・クローン 〔Gustav Kron〕 氏鈴木ヴァイオリン演奏之図 於東京音楽学校奏楽堂
 ・ショルツ 〔Paul Scholz〕 氏山葉ピアノ弾奏之図 於東京音楽学校奏楽堂
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『現代名流婦人』 「音楽関係」 (1911.1)

2011年08月31日 | 音楽教育家
 表紙には、「婦人画報 増刊 現代名流婦人 〔明治〕四十四年 〔一九一一年〕 一月十日発行」、また「THE LADYS GRAPHIC NO.51. JANUARY 10TH. 1911」とあり、奥付には「発行所 東京社」とある。26センチ、96頁。
 口絵の音楽関係には、次の6人の写真がある〔1頁に2人掲載〕。

  ・幸田延子女史と柴田環女史 ・安藤幸子女史と神戸絢子女史 ・頼母木こま女史と橘糸重女史 

                     

 西洋音楽関係の記事には、次のようなものがある。

 
 音楽界の婦人

 一 音楽に乏しい家庭の空気  幸田延子

  指折り数ふれば早や二十余年

 経 た つて見ると造作も無いやうなものゝ、指折り数へて見ますと、早 は や二十何年と云ふ昔、今の女子高等師範学校が東京師範学校と云ふ名義になつて居りました時分、其 その 附属学校へ私は通学致して居りました。当時、音楽を受持つて居られた先生はメーソンさんで、私も此の先生について唱歌を習つたことを記憶して居ります。
 その頃また本郷森川町、只今の高等学校の前に、音楽取調掛と云ふものが出来て居りまして、メーソンさんは此処に住んで居られました。この音楽取調掛が後日 のち に音楽取調所と云ふ名義になりました。今日上野に在る東京音楽学校は、この音楽取調所からだんゝと変遷して来たもので御座います。

  たゞ何とはなしにヴアイオリンを……

 長く女子師範学校の校長として居られまして、昨年物故されました高嶺秀夫先生の御夫人がが、このメーソン先生の一番弟子で在 あ らつしやいましたが、昨年お亡くなりになりました。この奥さんは其の頃には未だ中村さんと仰有 おつしや いまして、私が音楽の手ほどきをして戴 いただ いたのは、この中村さんからで御座いました。
 メーソンさんや中村さんに種々 いろいろ 願つて居りまするうち、唯だ何と云ふ気もなしに、私は音楽学校に這入 はい ることになりました。これは私が十五歳の砌 みぎり で、明治十三年のことゝ覚えて居ります。
 その頃の音楽学校には、今日のやうに外国から参られた教師がたはお一人も居られませんで、私がピアノの教授を受けましたのは、瓜生男爵夫人からで御座いました。
 今日はヴアイオリン専門になりましたが、その時分には、ヴアイオリン専門にならうなぞとは、夢にも思ひませんでした。また、その頃、音楽学校には、今日のやうに大勢の生徒が有ると云ふ譯 わけ ではなく、至つて少数の人で御座いまして、皆さん方大概はピアノばかりを習つて居られました。また、私もピアノを学び通さうかと云ふやうにも思つて居りましたのでした。それが、私ばかり、他の人のしないヴアイオリンを学ばされるやうになりましたから、何ですか、他の人々 かたゞ よりも、余計に課税されたやうに思はれまして、何と無く可厭(いや)に思はれましたのは、今日から考へますと、実に不思議なほどで御座います。先づ斯ういふ次第で、ヴアイオリンをはじめましたのですから、最初から何ういふ考へが在つての、何 ど うのと云ふ次第では無かつたので御座います。他人 ひと から学 やつ て見よと申され、その云はれたまゝに学んだと云ふに過ぎないので御座います。

  ヴヰエナ〔ウィーン〕の三年

 学校の名義が音楽取調所であつた頃にも、卒業された方もあつたでしやうが、東京音楽学校と云ふ名義になりましてからは、私が一番初めの卒業生であつたものと見へまして、卒業證書は第一號となつて居ります。爾来 それからのち だんゝと大勢 たいぜい の方が卒業されましたのですから、今日の卒業證書は何百號と云ふやうな番号になつて居ることゝ思ひます。ヂツトリツヒさんが、音楽学校へ見えられるやうになりましたのは、私の卒業する少し以前 まへ のことで御座いました。ですから、私はヂツトリツヒさんに就いて学んだのでは御座いませんのです。
 学校を卒業後、私は更にヴヰエナで学ぶことになりまして彼國 あちら へ出向きました。その頃、音楽学校の外国語は英語ばかりでしたから、彼地へ参るにつきまして独逸語を学んだので御座いました。彼地へ参りますと、何事も当時 そのころ は驚くことばかりで、それに御存知のやうに有名な大家 かたがゞ が居られましたから、留学中の三年間は耳と手との働き、練習に唯だゝ一三昧 いつさんまい になつて居りましたやうな次第でした。申 まを さばヴヰエナの三ケ年間は夢のやうに過ぎたとでも申しませうか、眞 ほん に彼地で音楽の十分発達致して居りますことは、羨しいことで御座います。これは、先頃二度目で欧洲 あちら へ参りました節にもつくゞ左様感じました。

  集会に不便な日本家屋

 それに、御教授を致して居る方々とも好く左様 さう 申すことで御座いますが、未だ今日の日本には、お互に集つて、お茶でもいたゞき、親睦会とか、談話会とか云ふやうにして、音楽の小集会を催したいと思ひましても、何分にも適当な場所がないので困ります。お互の家屋 うち が、斯ういふ集会の出来るやうに建てゝありますと、何の雑作も無いことなのですけれども、天井の低い日本風の家屋では、何うも斯ういふ集りには都合が宜しく御座いませんので……。
 この点から考へますと、欧洲の家屋のやうな建築法 たてかた で御座いますと、何時何処のお家へ寄り合つても、直ぐに打ち解けた、音楽の小集会が出来まして、練習の助けとなるので御座いますけれども、これだけは、催したいと思ふばかりで、何分にも場所の関係が思はしくないので、何時も困つて居るので御座います。

  私に取ては音楽が唯一の慰楽

 ヴヰエナの三年を夢の裡 うち に過ごしまして帰朝致しました後 のち は先頃、欧洲へ参りますまで、引きつゞき音楽学校教授を致して居りましたので、私に音楽上どんな著しい苦心があつたか、何ういふ考へが有つて音楽を習ひはじめたなぞと申すやうな、むづかしいことは取止めて申上げ兼ますが、唯今の私に取りましては、音楽は確かに心の慰めでもあり、楽しみでも御座います。お酒を上 あが る方は、お酒で心を慰められ、花や植木を心慰 こゝろなぐ さにして居られることゝ思ひますが、それと恰度同じやうに、私も此の音楽をば心慰さに致して居ります。ですから、世間にお一人でも多く、音楽を解せられ、音楽趣味を持ち、音楽を心慰さとする方があるほど、日本の音楽も進んで行きます譯で、私と致しては、左様いふ方々が日に増し殖 ふ え、欧米の家庭のやうに、日本の家庭でも、音楽を一般に家庭の方々の楽しみとさるゝ日が、一日 いちじつ でも早く到着することを望んで居るので御座います。何うも音楽に乏しい家庭の空気は、何か物足りないやうで、何処となく陰気なやうに思はれまして……

 二 独逸の三年間       安藤幸子

  ・欧州の楽壇を風靡したヨワヒス先生
  ・手を見てヴアイオリンを勧めらる
  ・私に今少し体力があらば       

 三 橘糸重女史にお目かかる記 白芙蓉

  ・名聞を好まれぬ斯道の名家
  ・眩しい電燈の下にすらりとしたお姿
  ・音楽家との会見にふさはしき琴の音  〔下は、その一部〕 

 「その鴎外さんの『即興詩人』のやうに認めることの出来る履歴でも私が持つて居りますと、それは、お話し致すことも有るので御座いませうが、何に致せ、唯だ空しく二十年ばかりも学校を教へて居ると申すばかりで、他には何のお話し致しますほどの経歴もない私で御座いますから……。」

 「私は高等師範学校の附属学校に居りました。それから、母や兄から申さるゝまゝに、音楽学校這入つたと云ふばかりなので御座います。入学当時は勿論のこと、在学当時、卒業当時でさへ、母校で今日までも引きつヾき音楽を教へるやうにならうなぞとは、更々思つて居りませんので御座いました。
 御言葉は、また途切れた。途切れたお言葉は、また暫くしてから断片的に発せられたのでありました。

  ・若き楽人の意味深く味はふべきお言葉

 「私は音楽が大好きで御座いますが、その好きと申すのは、他の方が上手になさるのを楽しく聞いて居りますことで御座いまして、私が自分で致すのは、楽しみ処ではなく、反て苦痛なほどで御座います。」

 四 巴里で学ばれた神戸絢子女史 いくよ 〔下は、一部〕 

  苦しんだのも音楽、楽しんだのも音楽

 「巴里 パリー で、特別に、私の心を慰めたものとては御座いません。-苦しんだのも音楽、楽しんだのも音楽……何しろ、この官立音楽堂(コンセルヴアトール)にても這入(はい)つて居らるゝ方々は、皆な立派な素養のある方ばかりなのですから、日本から彼地へ参りたては、何うかして、斯ういふ人々と肩を並べたいものと、随分焦りも致しますし、骨も折りました。」

  苦心を苦心とも思はず

 「官立音楽堂は、我国 こちら の東京音楽学校とは違つて、皆な専門に習ふやうになつて居りまして、ピアノを終業するものは、ピアノばかり、ヴアイオリンを修業するものは、ヴイオリン一三昧になつて居ると云ふ状況 ありさま なのです。で、他の課目を学ぶと云ふ必要は御座りません。自修時間も十分あるやうでは御座いますが、それでも、私なぞには、未だゝ自修時間が不足のやうに思はれましたので御座います。」

 五 音楽の修行から得た苦しい経験  東京音楽学校教授 頼母木こま子

   楽みよりも苦みが余計

 これぞと申す際立つた考へもなく、何の気もなしに東京音楽学校に這入り修行を致し、別に臨んだわけでもなく、卒業後引きつゞき、今日まで学校を教へて居ると申す他には、私、何とも格別申し上げることも無いので御座います。先輩のお勧めがあつて、そのきつかけに音楽の修業をはじめたと云ふやうなことで私に在りませば兎も角、私の音楽をはじめましたのは、そんなきつかけなぞ有つた譯 わけ では無いので御座います。
 今日と違ひまして、私の在学当時には、未だ音楽学校には余計に生徒は御座いませんでした。それに、一時 ひとしきり なぞは、教師の側でも、外国教師の一人もお出でなかつた時も御座いました。何に致せ、音楽のことで御座いますから、他の人が御覧になりましたら、いかにも楽みの多いやうに思し召すか知れませんが、やはり、一つの職業になつて居りますと、楽しみと申すよりも、苦しみの方が余計なので御座いまして、決して他からお考へになるやうなものではありません。それも、何か特別の天才でもあつたらば、また楽しみも御座いませうが、私のやうに天才どころか、何の取り所 え もないものには、決して音楽の楽しみなぞがあらう譯はないので御座います。
 併しこれは、何の道でも同じことで御座いませう。それに私なぞは、宅へ帰りますと、主婦 かない で御座いますから、一軒の家相応の用事があるので御座いまして、唯今から考へますと、修業中の方が未だ音楽の楽みがあつたかも知れぬと、斯う思ふので御座います。

   第一は天才、第二は忍耐

 楽才が御座いませんなら、骨を折つて勉強致しました所であまり効 かひ がないかと思はれます。音楽学校なぞの生徒に致しましても左様で御座います。先づ最初から、この人はと、目をつけた生徒は、進みも充分はか取るので御座いますが、左様いふ生徒で御座いませんもので……。尤 もつと も、最初 はじめ に何うかと思はれた生徒 かた でも、だんゝ練習が積み、勉強を重ねるうちにはじめに考へましたとは違つて、大層見直すやうな人も無いのでは御座いませんが、斯ういふ人 かた はまた格別の人と云つても宜しいので御座いません。
 日本の音楽と違ひまして、この西洋音楽の方は、取りかゝりが誠に退屈なもので御座いまして、はじめから、これと一つ纏つた曲 もの を初めると云ふ譯には参らず、練習にばかり時を費すので御座いますから、それを能 よ くも御忍耐なすつて皆さんが好くこそお稽古をなさることゝ思はれるほどで御座います。
 それに何か何か一曲まとまつたものが済ました後でも、その次の曲をはじめるまでには、またゝ長い間、単に練習の曲を致さなければなりませんのですから、習ひはじめの方は、決して楽しみがあらう筈はありません。楽しみ所 どころ か、殆んど苦痛ばかりをお感じにならうと思はれます。
 斯ういふ次第ですから、何うやら人通り仕あげやうとするのにも、第一幾分か天才がなければならず、第二には、余程忍耐強くなければ、到底 とても 仕上がる理 わけ にはまゐりますまいと思ひます。音楽を学ぶにも、随分な精神上の犠牲が要 い るので御座います。しかも、そんなに苦労をして、どれほど上手になるかと思ひますと、たゞ一通りのことが出来ると云ふまでゞ御座いまして。-誠に音楽の修行も容易なものでは御座いません。
 
 六 柴田環女史の半面                有隣子

  ・飾り気の無き女史が母堂の物語
  ・祖母君の声音を遺伝した環女史
  ・天才の母と趣味の遺伝
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