蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

「奉祝演奏曲」 東京音樂學校 (1934.3.17)

2022年05月07日 | 音楽学校、音楽教育家

    昭和九年三月十七日
  兩陛下御結婚拾周年 皇太子殿下御誕生
    奉祝演奏曲
       東京音樂學校

          曲目 

       第一部  邦樂

一 能樂
   ツレ 觀世喜之  
    前シテ 梅若萬三郎
    後シテ 觀世左近       高安道喜 金春惣右衛門
   高砂  ワキ 寶生 新     幸悟朗  一噌又六郎
        ツレ 二人
  
一 箏曲
   新曲 皇太子殿下御誕生奉祝歌  講師  宮城道雄 
       歌 敎授 高野辰之謹作 講師  中能島欣一
       曲 講師 宮城道雄謹作

一 長唄
   鶴龜              講師  吉住小三郎
    嘉永四年           講師  杉本金太郎
      十代目杵屋六左衛門作曲       外職員生徒  
  
         第二部  洋樂

一 管絃樂附獨唱及合唱  
   皇太子殿下御誕生奉祝歌 ‥‥‥‥‥‥  東京音樂學校謹作  
         指揮        講師  橋本國彦  
         管絃樂           東京音樂學校管絃樂部  
         獨唱  
          ソプラノ     助敎授 淺野千鶴子
          アルト      聽講生 藤本惠美
          テノール     囑託  城多又兵衞
          バリトン      敎授  澤崎定之
          バス       聽講生 伊藤武雄
         合唱            東京音樂學校生徒  
二 ピアノ協奏曲
   D長調(戴冠協奏曲)  ‥‥‥‥‥‥  モーツァルト作曲     
    ケッヘル五三七番第一樂章  ピアノ 敎授 小倉末  
                               指揮 敎師 クラウス・プリングスハイム  
                               管絃樂   東京音樂學校管絃樂部  
三 ヴァイオリン齊奏
   E長調 前奏曲     ‥‥‥‥‥‥    バッハ作曲  
                   敎師       ローベルト・ポラック  
                   講師   安藤こう  
                        外職員生徒
             ピアノ伴奏 敎師  レオ・シロタ
四 管絃樂及齊唱  
   皇帝行進曲       ‥‥‥‥‥‥    ヴァーグネル作曲  
                指揮 敎師  クラウス・プリングスハイム  
                管絃樂    東京音樂學校管絃樂部
                齊唱     東京音樂學校生徒
  君が代(管絃樂伴奏)

 解説及歌詞   
 
  第一部  邦樂
   
   一 能樂  高砂  
  
 古名を相生とも相生松ともいった。作者は觀世世阿彌、古今和歌集の序に「高砂住の江の松も相生のやうに覺え」とあるものに本づいて想を構へたもの。すなはち九州阿蘇の神主友成が上洛の途次、播州高砂の浦で、尉(攝津の住吉の松の精)と、姥(高砂の松の精)に逢って、松の由來を尋ね聞く。又住吉に詣でて住吉明神の御來現を拝し、明神は御代を壽ぐ舞樂を奏して見せたまふに終る。江戸幕府が特に之をめでたい曲として扱ったので、爾來一般にさう考へて來た。役人は次の如くである。
  前シテ 尉。 前ツレ 姥。
  後シテ 住吉明神。 
  ワキ  阿蘇の神主友成。ワキツレ 二人。 
今日のは禮脇と呼ぶ行き方で、ワキがツレを二人伴うて出る。時間の都合上、謠曲は稍省略してある。
  〔以下省略〕
     
   二 箏曲

  〔省略〕
 右は新作、歌詞は敎授高野辰之の作、曲は講師宮城道雄の作、此曲に限り生田、山田の流派別を超越して、兩派のもの各一人づつで連彈連奏をする。 
 
   三 長唄  鶴龜  
 
 歌詞は謠曲の鶴龜を殆どそのまゝ用ひたもの、嘉永四年十代目杵屋六左衛門作曲、祝言用の連吟もので、本調子からニ上りになり、また本調子にかへるもので、最も品位あるものとして知られてゐる。
  〔以下省略〕  

  第二部  洋樂 
           
  二 ピアノ協奏曲
   D長調戴冠協奏曲)(ケッヘル番號第五三七)  モーツァルト作     
 
 本曲はモーツアルト(Mozart 1756-91)の晩年時代の作、即ち一七八八年二月二十四日ウヰーンで作曲、翌一七八九年四月十四日ドレースデン宮廷で作者自身によって初演された。  
 本曲は戴冠協奏曲と呼ばれてゐるが、之は作者自身が附した標題ではなく、一七九〇年十月九日にフランクフルトで行はれた皇帝レオポルド二世の戴冠式の奉祝演奏會が同月十五日に同地で催され、その際モーツアルトが本曲をF長調協奏曲(ケッヘル番號第四五九)と共に演奏したことに由來し、爾來之が戴冠協奏曲と通稱されるやうになったのである。  
 編成は作者通有の小さいもので、絃の他、フリュート一、オーボー二、ファゴット二、ホルン二、トラムペット二、ティンバーニ。 
 曲相はC長調協奏曲(ケッヘル番號第五〇三)に似て華麗なものであるが、本演奏はその第一樂章である。   
  〔以下省略〕 


『心の花』 (橘糸重女史追悼號) (1939.10)

2021年12月26日 | 音楽学校、音楽教育家

 

心の花 
  第四十三卷
  第 十 號
  橘糸重女史追悼號

 橘糸重女史    ‥‥‥ 佐佐木信綱 〔下は、その一部〕

 今思ふに、これを公にして、和歌史家の立場からいふと、明治の和歌史を大觀して、新しい歌が興った後、はじめて沈痛な作を詠じたのが橘女史であって、後にその跡を履んだのが白蓮夫人である。
 明治の新しい歌壇は、巾幗者流としては與謝野晶子夫人を嚆矢とするが、女史は與謝野夫人とは全く異った方面で心の深い作を發表せられたのであった。しかしてその作品は、心の花の初期時代、竹柏園集等に掲げられてある。女史も白蓮夫人も、共にわが竹柏會の同人であるが、如上の言は決してわが佛尊しではない。自分は和歌史家の一人として肯へてこれを言擧するのである。もとより女史は、音樂學校敎授を多年つとめられ、ケーベル博士に敎をうけられたピアニストであって、歌はその餘技と言ふべきである。しかし三浦守治博士が偉大なる醫學者であると共に明治大正の歌史に不朽の足蹟を殘された如く、女史も亦女流歌人の一人として、永遠にその名を記さるべき人である。
 これを私にしては、明治四年の亡父の學友錄(心の花本年六月號口繪參照)によると、龜山として、橘正直、橘幸子の二人の名が見えるが、それが橘さん(以下女史といはず、さんといふ)の父母君である。しかしその幸子刀自と橘さんの姉君鈴木榮子ぬしと橘さんとは、父からつづいて自分の敎を受けられた。即ち橘さんの親子二代は、わが竹柏園二代の門人なのである。それで明治十五年自分が父に伴はれて東京に出た折、先づ第一に訪うたのは麴町の相澤氏と、下谷の橘氏とであって、當時橘さんは西黑門町に住んでをられた。やがて神田五軒町に移って世を終るまで住まれたのであるが、五軒町の家には、小花淸泉君や當時未だ學生であった上田敏君と同行した記憶もある。また夏の月夜に橘さんを訪ふ道すがら、ある古書僧で大隈言道の草徑集を始めて得、今道々讀んだのであるが、こんな名をしらぬすぐれた歌人があるとて言道の歌を話をした記憶もある。(なほ五軒町の橘さんの近くには、横山大觀畫伯が住んでをられ、間近い末廣町には、幸田露伴博士同延子女史がをられたのであった。)
 
 心の花の今月號を、橘さんの追悼號として諸家の寄稿を請うたので、口繪に橘さんに因ある三種の集合寫眞を揭げることとした。その一は、明治三十三年四月中川のほとりに野遊會を催したをりので、當時帝大法科の學生であった大野守衛君(前墺國大使)の撮されたのである。
 前列右より有賀晴子(寶月夫人)、橘糸重、佐佐木雪子、新井洸、後列、佐佐木、村岡典嗣(當時早稻田大學學生、今、東北帝大敎授)篠崎正(當時帝大法科學生、今、名古屋少年審判所長)印東昌綱、石榑千亦、木下利玄、三浦守治、小花淸泉、中澤弘光畵伯の諸君。(この中に、晴子ぬし、新井君、木下君、三浦博士は、すでに世を去られた。まことに痛歎せられる。
 その二は、神田如水會館で大正九年四月竹柏會大會のあったをり、黑田淸輝畫伯に講話を請うた後、長坂好子ぬしの獨唱(多賀谷千賀ぬし伴奏)があった際、控室で、文綱がかりそめに寫したもの、前列左より橘さん、藤田道子、多賀谷ぬし。後列渡邊とめ子夫人、佐佐木、永坂ぬし。
 その三は、昭和十二年七月、帝國藝術院會員を文相が東京會舘に招かれた夜の寫眞、左より橘さん、幸田延子女史、安井文相、右より、佐佐木、三宅雪嶺博士、(背面)比田井天來氏、院長淸水澄博士(背面)。

 弔辭        ‥‥‥ 東京音樂學校長 乗杉嘉壽 
 橘さんと母君   ‥‥‥ 幸田延子  〔下は、その一部〕  

 も一つ、橘さんと母君に關しての思出に、行啓をあふいだ日の演奏會か、他の演奏會の折だったか、ふところから、母君の寫眞を出して、「母も一緒にね」とか言って私に見せられたことがありました。晴がましい演奏會に、母君も一緒にと思はれた橘さんは、ほんとに母君思ひの方でした。

 橘糸重さん    ‥‥‥ 石榑千亦 〔下は、その一部〕

 橘さんは寫眞を撮るのが一番嫌であった。會の記念寫眞などには、いつも最後の列に加はってゐて、パッとシャッターを切った時には、すっとしゃがんで了ふ。その時刻を觀ることのうまさ。斯くて正面をきったのがありとすれば、立派に國寶的存在といって宜い位のものだ。

 橘糸重女史を懷ふ ‥‥‥ 小花淸泉 〔下は、その一部〕

 ピヤニストの橘糸重女史が遂に逝かれた。享年六十七、市區改正前の神田五軒町のお宅から上野の森音樂學校に通學した女學生時代このかた、音樂に終始した女史の一生は短くもなかった。
 女史の體格は何れかといふと骨太の方だったが、中年の頃の其が手首は旣に異常な發達を遂げてゐた。ピヤニストと手指との關係については、女史自身の口から聞いた事もある。指の長短とか指の伸長力とかに關して色々聞かされてゐるが、鍛錬されし女史の手指は眞に能く其が永年の努力と又其が音樂家的天資とを物語ってゐたやうである。
 竹柏會の會員としては歌も詠まれ文も多少作られたが、何といっても音樂が女史の本領だった。その道の天才の持主であったらうけれど人並以上の勤勉家でもあった。母校の敎鞭を取りながらも猶、當時小石川の原町なりしケーベル博士に師事して大に勉め、演奏會の練習などには涙ぐましい多大の努力が拂はれたやうである。晩年に帝國藝術院の會員になれたのも偶然ではない。
 明治三十年前後の音樂會では、幸田女史のヴァイオリンと相並んで、橘女史のピヤノが演奏の花形だった。私は時々切符をいたゞいて、佐佐木先生や同雪子夫人などと御一緒に、例の樂堂へ出掛けた事がある。學生服の上田敏君や島崎藤村氏の靑年姿などが見られたのも今は昔である。

 橘絲重ぬしの思出 ‥‥‥ 印東昌綱  〔下は、その一部〕

 橘さんは明治二十五年の東京音樂學校卒業生で、爾來母校に殘って、助敎授より敎授となられ、幾多の後輩の指導をされたが、又本邦に於いて婦人敎育者としてはやく勅任待遇をうけられた一人でもある。歌の道では明治十六、七年頃より我が父の敎へ子として學ばれたと思ふ。橘さんの父君良珉氏も母君幸子刀自も古くから父の弟子であったので、わが一家が伊勢から東京に移り來るや姉君榮ぬしと共に入門せられ、父亡き後は兄について學ばれる樣になったのである。竹柏會同人の中でも父子二代のお弟子として今僅かに殘る三人四人の中の一人であった。
 橘さんが小川町の稽古に見えた頃は、歌や習字を勉強して居られた。稽古机に向っては折々習字に飽きた橘さんが、人形の首を書いてゐたのを先生に見つかって叱られたものですとは、後年屡々思出話として語られた事である。自分の父は橘さんが音樂學校にはいられた事を大いに喜んで、わしには西洋のコロリンシャンは判らないが、何でも良いから上手になって下さいと勵まして居ったのを記憶する。橘さんの卒業される一年前の六月に我が父は世を去り、又二十七年九月に我が母は逝いたが、橘さんの母君もこの年の十月になくなられて自分達兄弟も、橘さん御姉妹も皆親なしとなった。然しその頃から橘さんは姉君の嫁がれた鈴木家と御一緒に、五軒町に住まはれる樣になったので、それは君にとって此の上もない心強さであったらうと察せられた。
  
 橘女史の歌    ‥‥‥ 伊藤嘉夫
 橘さん      ‥‥‥ 佐佐木雪子
 亡き先生     ‥‥‥ 多賀谷千秋  〔下は、その一部〕

 思ひは三十年ほど前、私が音樂學校の生徒時代に走る。御敎室の先生は、いつもゆかしく又おごそかであった。レッスンの時、私共は云ひ合せた樣に襟を正し、眞白い足袋をつけた。
 一曲一曲と理解させて頂いた時の生き甲斐のあった事、ベートーブエンソナタを、次から次と息もつかせず敎へて下さった時のきびしかった事。又は樂聖バッハのフーグを、幼稚な頭にどうにかして理解させようと御心をくだかれた時の御親切、又其の時の苦しかった事、また演奏會の折や御滿足に弾けた時の御よろこびなど、どれも之も決して一生わすれられぬ事である。
 又或時は御ねだりして、かって行啓の御前演奏を遊ばされたベートーブェン、さては先生の御得意であり御好みのショパン、ブラームスをきかせて頂いて涙を流した事もあった。
 校庭の藤棚の下に推の實を拾ひながら、よく御歌の御話も出た。また音樂史上の御話や、先生の恩師ケーベル博士の御事ども、さては我が國の物語のこと、其の御言葉は汲めどもつきぬ泉のやうに、藝術其のものであった。

 橘先生を懷ふ   ‥‥‥ 佐佐木治綱

 橘の香り床しく黑白の鍵盤 キイ に一生を獻け賜へる
 聾に耐へ苦惱に堪へし音樂の王者の寫眞姉に賜ひし

 心もうつろにて  ‥‥‥ 鈴木榮
 叔母のこと    ‥‥‥ 鈴木昭
 糸重叔母の思ひ出 ‥‥‥ 熊本 山崎とね子
 五軒町の叔母さま ‥‥‥  石邨幹子 

〔蔵書目録注〕

 上の写真と文は、何れも、昭和十四年十月一日発行の雑誌 『心の花』 第四十三卷 第十號 (通卷四百九十八號) 橘糸重女史追悼號 に掲載されたものである。


「オルフォイス日本初演の想出」 石倉小三郎 (1949.3)

2021年06月28日 | 音楽学校、音楽教育家

グルックの歌劇
 オルフォイス
   日本初演の想出
    ◇ 石倉小三郎 

 オルフォイス初演と申しますのは明治三十六年のことでありますから、つまり二十世紀の始め一九〇三年今から算へて正に四十六年前の事であります。上演と云ひ初演と申しましても、全く學生達の研究のための仕事でありましたから、たった一晩一回行ひましただけで、事は終ったのでありまして、今から考ると少し惜しいやうな氣がいたしますけれども、時の情勢はそれを續けることを許さなかったとでも云ふのでありませうか。しかし、ともかく明治音樂史上の劃期的の仕事であり、破天荒の思ひ付きと申しても差支ないと思はれますが、一體老人の回顧談など申すものは、あんまりよい趣味のものとは思はれませんので、私としては差控へて居たのであります。今回はからずも本誌より御依賴を受けましたし、若し私が死んでしまへば、その事情を語る人もなくなるかと思ひまして、ここに貴重な紙面を拝借することと致しました。
 それは丁度日露戰爭の前の年でありますから、東洋の風雲まさに急を告げんとしてゐたのでありませうが、私などは藝術至上主義や理想主義にあこがれて、氣らくな日を送ってゐたのでした。しかし何と云ってもその頃の日本は微々たる東洋の一小帝國で、一農業國に過ぎなかったのですから、東京市内の到る處に田園的風景が見られ、民衆の生活態度も牧歌的といふ一語に盡きるといってもよかったでありませう。上野、新橋、淺草とだけ走ってゐた鐡道馬車が電車に代って外壕線が通じ、それが本郷四丁目までは來てゐたでせうか、山の手線の省線も漸く通じ始めたくらゐの事と覺えてゐます。音樂會なども上野の學校の定期演奏會が春秋二季に行はれる外は明治音樂會といふ宮内省の雅樂寮の諸氏を中心とした小管絃樂の演奏が會員組織の形式で年二回位行はれてゐたに過ぎませんでした。上野の學校の音樂會も入場料をとって入れるといふのでなく、學校の配布する入場券を緣故をたどって買って行くといふ有樣でした。生徒數も少く三十六年の卒業生は本科九人師範科八人といふ少人數で、もっともその次の年から大分ふえてゐますが、そのような有樣で一般人は音樂などとは全く沒交渉であったのですから歌劇所演などいふことは全く大膽極まる計劃であったといふ事はおわかり下さるであらうと思ひます。
 オルフォイスを演じられた吉川やまさんがその時三年生即ち新卒でオイリディケの環さんが二年に居られました時代でした。山田耕筰信時潔氏等の大家もまだ中學の三四年といふところでしたらう、近衛秀麿氏は學習院の初等科に居られたでせうか。私は當時の文科大學なるものの二年生で大した抱負もなく獨逸文學とやらを志してゐました。戰犯組の廣田弘毅氏などは法科の二回生、極めて謹嚴な學生で九州男子、玄洋社系の憂国慨世の志士型でしたが、私などは一高の寮生活時代でもそれ等諸氏の驥尾に附して動いてゐた意氣地のない極めて小さな存在でした。東郷茂徳氏などはその頃七高の學生で、これも珍らしい秀才で、獨逸語に優れ獨逸文學を志しその科を卒業されたのが、後に外交官に轉向してああいふ途をふまれたのであります。文科方面では片山先輩や櫻井、山岸兩君のような錚々たる連中もあり、英文學には厨川白村氏なども同期でしたが、これ等の諸君はそれぞれ立派な業績を殘して早くも世を去られたのに私ひとり僕樕の資を挾んで碌々として今日に及んでいることを心から恥ぢ入ってゐる次第であります。文學雜誌は帝國文學と早稲田文學とが對立して二つあっただけで、綜合雜誌としては太陽が一つ、それは高山樗牛氏が主宰して居られました。それ等にも音樂論などは 絕無で、私がオルフォイス上演に關聯してグルック論を帝國文學に書いたなどが音樂論の始めでしたでせう。以上前置きが少しながくなりましたが、これでこの時の時代的背景は判っていただけたことと思ひます。
 私の一高在學中は一高音樂部の衰微時代でありました。その前は神保三郎氏ー精神病學の大家ーの如き專門家の壘を摩する程なヴィオリニストがあり、あとには田邊尚雄氏のような立派な技術家もありましたが私はその衰微時代に當って居りまして、島崎赤太郎先生を先生としてお願ひしてあっったのですが、同氏も研究生として非常に御多忙であり、つづいてすぐ獨逸留學に行かれたといふわけで、格別に先生を得ることもできず、大學在學中の先輩の指導で、辛うじて譜を讀むことを覺え、バイエルをあげて、チェルニーや、やさしいソナタ位どうにかたたゐていたのでありました。そして私は今以てその程度に止まってゐるのですが、同時の入學生に乙骨三郎君とふ人がありまして、同君は幕末の學者の名門の出で、上田敏氏はその從兄であった關係上外國文學の知識も廣く秀才型で技術の進歩も早く、私などは兩方面に於て常に同君に引きずって貰ってゐたのでした。
 少しく音樂を學ぶにつれ、また外國語がどうやら讀める樣になるにつれ、せめて本の上ででも音樂を研究して見たいとの念願が萌え出ましたが、當時は音樂書と云へば二三の樂典教科書があったばかり、一高の圖書館にグローヴがあるのを發見して、それを辭書としてでなしに、重要な條項を讀んでは摘記したりしてゐました。歌劇とかオペラとか云ふものが西洋にはあると聞いて、渇仰の念を抱きながらも、どんな事をするものか見當もつかず、タンホイゼルとかローエングリーン(その結婚行進曲には落合直文先生によって別の歌がついて一高生徒間に歌はれてゐたが誰もその出所を知ってゐるものはなかった。)など云はれても何の事やら分らず、尤も中世傳説などに就ては、その敎を受くべき先生もなく、後には上田敏先生なども、「音樂のことは乙骨君と君とに任せておく」などと云はれる調子で、結局獨學の暗中模索を續けて居りました。そのうち當時上野の三年生であった渡部康三君や山本正夫君と相知る樣になり、今後は提携して研究して行かうとの黙契が自然に出來たのでありました。
 三十六年七月にその渡部氏が卒業さるに當り、同君の令兄で當時瓦斯會社の重役で牛込の大地主であられた渡部朔氏から、同君の卒業祝に金千圓を提供するから、何か意義ある事業に用いてほしいとの申出がありました。
 千圓と云へば當時としては奏任官の中級處の年俸に當るものですから、相當な金額でありました。吾々は驚きもし、感激もして、卽座に歌劇の試演といふことに意見は一致したのでありました。その頃上野で和聲學を講じて居られたカトリックの學僧ノエル・ペリー先生の指導により、グルックのオルフォイスといふ事にきまり、乙骨君と私とは歌詞の譯をなすべき御依頼を受けたのでした。時の校長は大島義脩先生でありましたが、その頃は學生が演劇類似の事をやるのは文部省令で禁止されてゐたに拘らず、充分な理解を以て適當に處理して下すった事は今でも大に感謝してゐる次第であります。その緣故で後年八高創立に際してお召しを受け、その膝下に微力を致し、同先生の推薦によって獨逸留學の命を受けるなど、私個人としては一方ならぬ恩顧があるわけで、この際先生在天の靈に對して謹んで敬謝の微忱を捧ぐる次第であります。丁度暑中休暇に入ったので、學校とは關係なく、全く學生だけの研究作業といふことで學校を拝借することの許可を受けオルフォイスは吉川やま氏(女子學習院敎授を勤められた、今も健在であらう)オイリディケは柴田環氏ときまり、伴奏はオーケストラは手が足りないからピアノで先生にケーベル先生にお願いする事とし、かくて一同勇躍して練習にとりかかったのありました。ケーベル先生は大學で哲學を講じて居られたのでしたが、その頃では唯一の最高のピアニストで眞の意味の思想家的音樂家であられたことは申すまでもありません。昨年は先生の二十五周年に當りましたさうで、先頃さる雑誌に追懐談が出てゐましたからここでは特に述べる必要はありますまいが先生の高徳、その特殊の風格學徳とを追懐するとき、誠に感慨無量であります。ペリー先生は謠曲を深く研究されて大きな業績もあるのですが、その後佛領印度方面へ行かれたとかききました。或はまだ御健在かも知れません。
 外國語の歌詞をば綴音數を合せて歌へる樣に譯すといふことは、自分達は勿論始めての事であり、またその以前には誰も試みた人はないのでありましたから一體可能な事であるか如何か、隨分大膽な事を引受けたものだと思って大いに危惧の念をもったのでありましたが、案ずるよりは生むが易いといふ諺はこの塲合よく當ってくれたのでありました。そばに居て練習をきいてゐるから、メロディーは覺え込むし、感情も氣分もよく了解出來てゐましたから、原詞をながめてゐるうちに、譯詞はスラスラと口をついて出て來るといふ調子に行きました。乙骨君の外に近藤逸五郎、吉田白平兩君の援助を得て、自分は第二幕地獄の部全部と天國の入口の部分を引受けたのでしたが、オルフォイスの「ユリディス失い、わが幸うせぬ」のアリアだの、そのあと二人の二重唱など何の苦なく氣持よく出來てうれしかったことを覺えてゐます。地獄の場の三拍子つゞきのコーラスには些か弱りましたが、どうにかやってのけました。
 背景は當時一流の畫家、美校教授の藤島武二、岡田三郎助兩先生を始め、當時唯一の畵會白馬會の白瀧幾之助、北蓮藏諸先生が全く無報酬で引き受けて下さったのでした。山本芳翠先生が一番先輩であり、フランスで背景には專門的な研究をされた方であったので、萬事指揮は先生に願ふこととして一同仕事にとりかかりました。道具方は磯谷健吉君といふ當時隋一の額緣屋さんが引受けられ、照明も同君と渡部、山本兩君とで苦心の研究の結果、私などの思ひもつかなかった立派な脚光が放射されたのでありました。その間に非常に困ったが併し今思ひ出しては非常に面白いエピソードがあるのであります。
 ある日山本芳翠先生御不在の日、全體の構圖をペリー先生が見て何か不滿さうな顔をされる。天國の風景がお氣に召さないらしいのです。そこで岡田、藤島兩先生が相談の結果それではソルボンヌのシャヴァンヌの壁畵のようなのは如何でせうと云はれたら、ペリーさんは大變悦ばれて「それは大變よいのです」と日本語で叫ばれました。それでは早速塗りつぶせといふ事になって改案。それを聞かれて山本芳翠先生が大さう御立腹だとのこと、それは御尤も話で、まあ仕方がないあやまりに行かふといふことになって、渡部、山本兩君と私とが謝罪使となって出かけ、事情をお話して事は圓滿解決。電話はまだ普及して居らず自動車はなし電車の便もなし、人力車で上野から白金まで往復すれば一日はかゝるといふ時代のこと、今から回顧すれば面白い一挿話であります。
 その頃私共は西洋の美術などに就ては何の知識もなく、ソルボンヌとかシャヴァンヌとか云はれても何の事やら分らず、それでも其事は餘程印象深くよく覺えてゐましたので、其後十年餘を經て第一次世界大戦勃發の直前、獨逸留學を命ぜられて渡歐しましたとき、まっ先に巴里へ行きまして、その日は日曜であったに拘らず、門衞に特に賴んでソルボンヌの講堂をあけて貰ひその壁畵を見せて貰ひましたが、それは全くその時のオルフォイスの背景と同じものでありました。その背景など今殘ってゐれば國寶級の逸品だと思はれますが、多分燒けてしまったでせう。
 そんな有樣で練習も完成し、かくて明治卅六年七月廿三日の夜上演して上野の職員生徒のほか、畫家敎育家、外交官の外人達を招待して見て貰ったのでした。新聞方面の人も招待したのでしたが、音樂や歌劇などにはニュースヴァリューもなかったと見え格別の反響もなく、私共も就學中のこと故、その樣な事に沒頭してゐることも出來ず、その夜一回だけで事は終ったのでありました。
 何と云っても我邦最初の歌劇演奏で、眞劒味溢れた純眞な藝術運動であったのは事實であります。ケーベル、ペリー兩先生始め畵壇の大家諸先生の犠牲的な指導と努力。渡部氏が千金を損ってこの事業を助けられた事實は明治音樂史の一大事實として特記して感謝を捧げてよいことゝ思っております。その方々も今は旣にこの世にはおはさず、環さんとは一九一四年に獨逸で出合い、その時は敵國人として伯林脱出の行を共にしましたが、その脱出行がやはり七月廿三日の夜のことであった事が、奇しき因緣の樣に思へてなりません。環さんとはロンドンでお別れして爾後三十年程して大阪でおあいしましたが、それが最後となりました。今は世になき方々を思ひ偲んで惆悵これを久しうするのみ、そして自分だけが生き殘ってゐることを思って感慙の念に堪へません。(終り)

 〔蔵書目録注〕

 上の文は、昭和廿四年三月十二日發行の音樂雜誌 『シンフォニー』 第十五輯 オペラ特集 東寶音樂協會 に掲載されたものである。


「伊澤修二先生」 田村虎藏 (1926.12)

2021年03月19日 | 音楽学校、音楽教育家

我國敎育音樂の創設者としての
   伊澤修二先生
           田村虎藏

 我國敎育音樂としての濫觴は、去る明治五年、我文部省が學制を頒布せられた際、普通教育の教科目中に、唱歌と云ふ學科を加へられたのにあります。が勿論これは單に、當局者の立案になったものであって、これが實施は何處にも見られなかったのであります。
 こゝに信州上伊那の産で、伊澤修二と云ふ天才的大偉人が顯はれたのであります。氏は頭惱明晰ー精力絶倫、特に創設の才に富み、一心徹底的のお方でありました。ですから、明治七年の三月、年僅に二十四歳で、時の官立師範學校の一つである、愛知師範学校長になられたのでありましたが、その際、この師範學校の附屬事業として、今日の幼稚園樣のものを作り、こゝに始めて唱歌を試みられたのであります。このことは、餘り世間に知られてゐない珍談でありますが、現今吾々の唱謠しつゝある「蝶々」の唱歌、即ち「蝶々ゝ菜の葉にとまれ‥‥‥云々」は、實にこの明治七年に於て、名古屋で生れ出たものであるとのことであります。
 それから明治八年の八月、伊澤先生は我文部省から、師範學科取調の命を受けられ、米國に派遣されたのでありますが、先生は米國着後、直ちにマサチューセッツ州立のブリッヂウォーター師範學校に入學して、總ての學科を修められたのでありましたが、音樂と英語だけは、如何に勵んでも上達しなかったさうであります。併し乍ら、先生は人一倍に勝氣の方でありますから一科でもニ科でも除外例によって卒業する事は、如何にも殘念のことであり、又師範學科取調の重大なる趣意にも叶はないと云ふ所から、どうにかして米國人と同樣にやって退けたいと苦慮されたさうであります。處が、丁度直ぐ近くなるボーストン市に、當時米國でも敎育音樂家として有名なメーソン氏の居られることを聞込まれ、早速このメーソン氏の門を敲いて、その來意を告げ、遂に氏に師事して大に音樂に勵み、全科相當の成績を得て卒業されたのであります。伊澤先生の音樂に趣味を持たれ、かつ作曲までなされる樣に至ったのは、實に此のメーソン氏の敎養によもるのであるとは、私共も先生から常に聞かされてゐる所であります。
 先生は更は、ハーバート大學の理科に入學せられ、苦刻勉學中、郷里なる嚴父危篤の飛電に接せられ、在學半ばにして明治十一年の秋歸朝されましたが、間もなく嚴父はお亡くなりになりました。併し、當時の新歸朝者として名聲高く、かつ秀才で活動力に富む先生は、此年の十月には体操傳習所の主幹を命ぜられて、我國學校体操の創設をも成し遂げられたのであります。そして翌十二年の三月には、東京師範學校長となられました。
 さて米國在學中にも、我文部省に向ひまして、我國學校敎育に、音樂教育の必要なることを建議せられ、又御歸朝後も熱心に之を主張されたのであります。けれども、當時の我世の中には、先生の此主張し意見に耳を藉すものすらなかったさうであります併し乍ら、勉めて倦まず、所信は斷行し、疑義は抱く迄も研究する、所謂一心徹底的の先生のこと、その力説は遂に我文部當局を動かすに至り、明治十二年の十月、とうゝ文部省内に音樂取調掛が設置さるゝに至りまして、先生は其の御用掛を命ぜられたのであります。於是先生は、自己主張の實現を見るに至ったのであるから、強大なる責任觀念もあり、實に紛骨碎身ー奮勉努力ー刻苦研讃をなされたのであります。當時先生が、如何に是等調査研究に盡碎せられたかは、其の最始より明治十七年に亘事情及經過を、時の文部郷大木伯に報告せられた
   音樂取調成績申報要略
を一見すると、よく判明するのであります。私共は此申報要略を一讀する度に、常に先生に対して敬服の感を惹起せざるを得ないのであります。
 かくて翌十三年の三月、さきに先生が敎育を受けられた、彼の米國ボーストン市の有名な音樂敎育家メーソン氏を招聘することになり、これより漸く唱歌敎材の編纂に着手し、唱歌敎授の実施を見るに至ったのでありますが、これが實施の最初は、時の東京師範學校附屬小學校及女子師範學校附屬幼稚園でありました。そして、メーソン氏自身が、ヴァイオリンで、この幼稚園兒童に敎授されたのでありますが、今や我國樂界の元老たる幸田延子女史は、この幼稚園で學ばれたのでありまして、早くもメーソン氏に其の樂才を認められたとのことであります。
 そこで伊澤先生、洋樂に通じたメーソン氏、及邦樂に明るい樂士と共に、内外音樂の長所短所を研究し、而して其の比較研究を試み、音樂上の樂語を創始し、各國々歌の由來及其の譯歌を作り、又神津專三郎氏をして外國音樂の譯書を出さしめ、以て樂理の研究に資せらるゝなど、大に努力されたのであります。而して是等音樂の研究と共に、其の實施を圖り、其の普及發達を期せんとして、
 第一に唱歌敎材を作成して,世に之を提供しようとせられたのであった。即ち先生は、メーソン氏を始め、他の職員と共に熱血をそゝいで、遂に小學唱歌集初編、二編、三編を編纂されました。これは實に我國敎育音樂に於ける唱歌敎材の寶典でありまして、今尚我師範學校では、之を唯一の敎科書として採用して居る次第であります。
 第二には音樂を敎授する先生を養成することでありました。於是先生は、音樂傳習生廿二人を募集し、六個月間の敎養を施して世に供給せられましたが、これ實に明治十三年十月のことであります。是等の傳習生は、卒業の上各府縣に歸り、琴、胡弓、ヴァイオリン等で唱歌を敎授したものであります。
 第三には樂器の製作であります。先生は此點にも深く頭を惱まされるのでありましたが、ふとした事から靜岡縣人の山葉寅楠氏を見出され大に氏を指導督勵なされた結果、現今我國唯一の樂器會社である日本樂器なるものが、此山葉氏によって創設されるに至ったものであります。
 斯くの如くにして、伊澤先生は、あらゆる方面に向って、我國敎育音楽の創設、普及、發達に最善の努力を拂はれた大恩人なのであります。
 其の後右の音樂取調掛は明治十八年に音樂取調所となり、後更に又取調係と復し、更に同二十年十月四日、この音樂取調掛が東京音樂學校と改稱せられ、二十一年一月、伊澤先生は文部省編輯局長兼東京音樂學校長となられ、同ニ十四年六月まで在職せられたのでした。これより幾多の校長を經、種々の變遷移によって、現今音樂の隆盛を極むるに至ったのでありますが、昨年は東京音樂學校創設五十年の祝賀會が擧行せられ、數多の卒業生竝有志者の據金によって、伊澤先生の立派な銅像が建設されることになって居ります。私も伊澤先生の知遇を忝うした一人でありますので、聊か先生の御事業の一端を述べた次第であります。

 上の文は、昭和五年二月一日発行の雑誌 『月刊樂譜』 二月號 「教育音樂」特輯號 第十九卷 第二號 山野樂器店 に掲載されたものである。


「東京音楽学校 オーケストラ」 写真・絵葉書 (1905ー)

2021年01月20日 | 音楽学校、音楽教育家

   

 上左:「東京音楽學校管絃合奏」
     この写真は、明治三十八年二月三日發行の雑誌 『教育界』 第四卷 第四號 の口絵写真にあるもの。
     
 上中:「管絃合奏 Orchestra & Chorus of the Tokyo Academy of Music. 合資会社共益商社楽器店発行」
     この絵葉書には、「三九、四、二四 〔明治三十九年四月二十四日〕於 東京」との書き込みがある。
     なお、この写真については、『明治音楽史考』(遠藤宏、1948年)に以下の詳しい説明がある。

  明治三十八年頃の東京音楽学校管絃楽と合唱

 明治三十八年頃の東京音樂學校の管絃樂合唱の全員である。同團は當時敎官と卒業生、生徒からなり、宮内省樂部から管樂器、コントラバス、ティムパーニが参加してゐた。
 中央立ってゐるのがアウグスト・ユンケル教師、その右第一ヴァイオリン 幸田延安藤幸、その後賴母木こま、高折周一、その後チェロ岡野貞一、その左幸田(チェロ)、その左ヴァイオリン鎗田倉之助(尺八の名手)、その左鈴木保羅、その左前ヴァイオリン林テフ、安藤幸の右第二ヴァイオリン多久寅、山井基淸、多の後吉澤重夫、その後西村、山井の後永井、鳥居つな、その後東儀哲三郎(ファゴット)、高津環(クラリネット)、渡部康三〔コメントにより訂正。原文は「渡邊康三」〕(トラムペート)、原田潤(コントラバス右端)他の管樂器大部分は宮内省の伶人達。
 合唱右手前列中央吉川ヤマ、その右鈴木乃婦子。
 (右は川上淳氏學生時代の能憶による) 

 上右:「東京音楽学校 オーケストラ」「東京音楽学校、鳥居教授廿五週年記念、6th.10.、1907 〔明治四十年〕、園遊会」下は、この絵葉書の通信文である。
 Ⅰ.
 今日の園遊会雨天の為め室遊会となりました。しかし色々の余興や売店接待処などがあつて非常な愉快な一日を過ごしました。
 上図は学校の正面、下図は奏楽堂で管絃合奏、合唱の写真です。これは演奏台の方から聴者の居る方へ向つて写したのですからいつもとは位置が反対です。ピアノによりかゝつて居るのはユルケル師その右のヴァイオリンヲ持つて居る二人は幸田先生姉妹です左は姉さんで右は妹の安藤教授です。幸田先生はピアノ、安藤先生 

  

 上左の写真:ユンケル(左下の椅子の人物)、安藤幸子・幸田延子姉妹(ユンケルの右)、頼母木駒子(中央二列目右)が写っている。
 上右の写真:印刷物。指揮台の右に、ユンケル、左にウェルクマイステル・安藤幸子・幸田延子、さらに頼母木駒子などが写っている。

 なお、昭和二十七年四月二十日発行の『音楽の花ひらく頃 ーわが思い出の楽団ー』小松耕輔著 音楽文庫38 音楽之友社 の 音楽学校時代 に次の記述がある。

 アウグスト・ユンケル先生は明治三十二年四月から東京音楽学校教師として招聘された。私の入学した頃は同校の指揮者兼ヴァイオリン及び声楽の教師をしておられた。私は同氏から声楽の教授を受けた。先生の教室は、今の校長室であった。我々は部屋の真中にすえられたグランド・ピアノを、ぐるりと取巻いて授業をうけた。その頃の先生は仲々おしやれで、いつも立派な背広に、キチンとおリ目のついたズボンをはいていた。稽古がきびしくて、みんなは恐れをなしていたものである。よく葉巻をくわえたままで部屋にはいつて来て、その葉巻を窓の横木の上においた。時にはそれを先生が忘れていくことがある。すると生徒がそつと持出していつてしまう。
 その頃のオーケストラは極めて貧弱で人員も尠なかつた。管楽器の多くは雅楽部の人達が来て手伝つていた。その後海軍の委托生が来るようになつてから雅楽部の人達は来なくなつた。そのようなわけで、生徒は専攻以外に何か一つ管楽器を兼修しなければならなかつた。私もフルートを受持たされた。その時の先生は雅楽部の大村恕三郎氏であつた。
 そのうちオーケストラの陣容もおいおい整備し明治三十八年頃には相当の人員となり、本格的の演奏が出来るようになつた。しかしそれまでにするのに、先生はどれほど苦心されたか知れない。我が国に管弦楽の土台が出来たのは全くユンケル先生のお陰である。
 先生のオーケストラの稽古は全く猛烈だつた。間違いでもしようもんなら忽ち雷がおちる。大きな声でしかりとばす、指揮棒をたたきつける。そして汗をふきふき次の稽古にかかるのであつた。口は相当悪い方で、「豚の頭」だとか、「つんぼ」だとか言つてどなりつける。しかしどなりつけられながら皆は感謝し心服し、そして彼を愛していた。少しのかざりけもない、正直な良い先生であつた。先生は一旦ドイツに帰つたが再び来朝し、七十余歳で東京で亡くなつた。先生は晩年、日本の土となることを望んでいられたようであつた。 

     

 左:「PRPF.A.JUNKER,」 中:「T.A.M.Orchestra under Prof.Junker.」 右:「Farewell then, wife and child at home!」
   これらの写真は、いずれも「送別演奏会記念 11.30.1912 〔大正元年十一月三十日〕」とある絵葉書のものである。

 なお、前述の『音楽の花ひらく頃 ーわが思い出の楽団ー』小松耕輔著 の 大正元年 に次の記述がある。

 ユンケル先生は十三年間の東京音楽学校教師を辞して帰国することになつた。そしてその送別の演奏会が十一月三十日と十二月一日の両日同校奏楽堂で催された。曲目のおもなものは、管弦楽「フェードル」の序曲(マスネー)ガーデの第四交響曲、ブルックの「美くしきエレン」合唱附独唱は園部ふさと船橋榮吉が歌つた。その他ペッオードは短イ調独奏曲(グリーグ)、安藤幸子はシュポーアの第九協奏曲を演奏した。
 又十二月十一日には同じくユンケル氏の送別音楽会が帝国劇場で催されて盛会であつた。

  

 「東京音楽学校学友会合唱団(グルック二百年祭記念)」 大正三年 〔一九一四年〕 七月四日

  上の写真も絵葉書のものである。

 なお、前述の『音楽の花ひらく頃 ーわが思い出の楽団ー』小松耕輔著 の 大正三年 に次の記述がある。

 七月四日に東京音楽学校学友会の主催でグルック二百年記念音楽会が催され、グルックの「オルフォイス」その他の曲が演奏され、水野康孝、花島秀子、渡邊某、柴田知常、高折宮次、山下テイの諸君が出演した。これからそろそろ以上の諸君が楽壇に活躍するようになるのである。



 左:「東京音楽学校合唱団」     三木楽器店 大阪市東区久宝寺町四丁目
 右:「東京音楽学校オーケストラ団」 三木楽器店 大阪市東区久宝寺町四丁目

 上の写真二枚も、絵葉書のものである。

 

 東京音楽学校奏楽堂(其一) BAND-STAND IN THE TOKYO MUSIC SCHOOL.
 この写真は、年代不明の絵葉書のものである。


「私の音楽遍歴」 安藤幸 (1954.9)

2020年07月22日 | 音楽学校、音楽教育家

 私の音楽遍歴

 我が国ヴァイオリン界の元老、安藤幸子女史は今年七十七才の喜寿を迎えた。女史は明治二十九年東音卒、ドイツに留学後は母校の教授として後進を育成し、傍ら芸術院会員。文豪幸田露伴、ピアニスト幸田延子女史の令妹に当る。   

   安藤幸

 音楽之友から与えられた題名は「私の青春時代」ということですが、もう半世紀も前のことを書けと云われても記憶がはっきりせず、あんなこともあつた、こんなこともあつたと思い出しはするのですが、どれが何才の時のことかははつきりと致しません。この文章をお読みになる方もそんな事もあつたのか位にお読みになつて下さい。  

 私がヴァイオリンをはじめたのは、今流に数えると十才の時だつたと思います。それまでは世間一般のお嬢さん方と同様にお琴を習つておりました。私の家は日本のものであれ、西洋のものであれ、一家そろつて音楽好きだつたものですから、当時としては非常に環境に恵まれていたと云えるでしょう。姉はピアノをやつておりましたので、私はヴァイオリンをはじめたわけです。はじめた動機と云えばただ好きだつたとしか云えません。

 話は一寸横道にそれますが、ピアノをしていた姉は私より十才も年上で、とてもしつかりしていたらしく、兄の幸田露伴も大分面倒をかけていたらしく、私も大分感化されました。伊藤整という人の書いた「日本文壇史」をお読みになればお解りになりますが、姉の延子は音楽取調所(音楽学校の前身)を優秀な成績で卒業し、そしてそれまで熱心な日蓮宗の信者であつた幸田家を一家揃つてキリスト教徒にしたのも姉の力が大きかつたようです。その頃北海道の勤務地から職を棄てて乞食のような恰好でまいもどつた、露伴に何くれと援助を与えたのも姉だつたようです。

 さて私がヴァイオリンをはじめた頃は、まだヴァイオリンなどという楽器は日本に極くわずかしかなく、音楽学校でヴァイオリンを専門にやつている方も五指を屈するに足らぬ程の淋しさでした。現在のように子供がヴァイオリンを習うなどということは一寸考えられないことだつたのです。その頃音楽学校に専科生というものが出来まして、そこへ私が入れて頂いたわけです、専科でヴァイオリンを習うのは私一人だつたものですから、本科の人と一緒にディートリッヒさんが教えて下さいました。 

    

〔写真の説明〕

 〔左〕滞日当時のディートリッヒ氏

 〔中〕渡欧直前の記念撮影

 〔右〕明治三十五年ベルリン留学当時(左)

 ディートリッヒさんは音楽学校がウィーンから招聘した熱心な音楽教育家で、献身的でその頃の日本の音楽界にとつて非常に貴重な存在だつたのです。その後ベルリンのホッホシューレを出たユンケルさんがいらしつたので、私はユンケルさんにも習いました。

 二十才の時文部省の留学生ということでウィーンへまいりましたが、私はどうしてもヨアヒムに師事したかつたのでベルリンへ行つてしまいました。ヨアヒムはベルリンのホッホシューレの教授をしておりましたが、ともかくベルリンに行つてプリベートにでも習いたいと思つたのです。ヨアヒムは峻厳な感じの怖そうな人で、身体は大きく弾く時にはヴァイオリンが普通の半分位に見える人でした。ヨアヒムにつくということは大変難しいことだと聞いておりましたが、やはりプリベートには教えて呉れませんでした。来年三月の試験をうけてみろと云われたので、ベルリンに行つたのは十二月ですがマルケースと云う先生について三月まで待ちました。三月にホッホシューレーレの試験を受け無事入学できました。私はヨアヒムに習えると期待しておりましたが、それはかなり弾けるようになつた者だけのクラスなので一寸がつかり致しました。一年後オーディションの上やつと待望のヨアヒムに師事することができました。

 レッスンは二週間に一度でとてもきびしいものでした。他のお弟子さん達が一しょに傍聴をしているので、他人が弾くときは大変勉強になりましたが、自分が弾く段になるととてもつらいものです。ヨアヒムは口数がとても少くて、出来ないからと云つてガミガミ叱るでもなし、良く出来たからといつて大変ほめるでもない。生徒が弾いて悪いところは、無言のまま直接弾いて聴かせてくれます。そして気に入る演奏をしたときにはただ一言「グート」と云うだけです。この「グート」と云われるまでが大変なのです。こうして足掛四年の間ヨアヒム先生の下で勉強致し帰国したわけです。

 ドイツに滞在中にはいろいろな演奏会に行き大変勉強になりました。まだ日本にはオーケストラも室内楽もなかつた頃でしたのでその素晴らしさにびっくりしてしまいました。

 ヴァイオリンではサラサーテやイザイエ、ピアノではダルベル等が活躍しており、指揮者ではニキッシュが生きており、ベートーヴェンのシンフォニー等、もう無我夢中でむさぼるように聴いておりました。私が始めて弦楽四重奏を聴いたのはウィーンでヘルメスベルゲル・クゥルテットをきいたのが最初です。その中でディートリッヒさんがヴァイオリンを弾いておりました。ですからディートリッヒさんも相当な腕前であつたわけです。

 日本に帰つてからは上野で教鞭をとつておりましたが昭和七年再びウィーンへ国際コンクールの審査員として招聘されました。そのときは十ヵ月程滞在し、コンクールがすんでからはフレッシュのところへ通つて指導をうけました。

 その後上野にもオーケストラが出来ましたが、指揮はユンケルさんがなさいました。私がコンサートマスターでしたが、萩原英一さんや颯田琴次さんなどいろいろ一風変つたメンバーがおりました。やさしい曲ばかりやつておりましたが、今考えると一しょにひいたというだけでシンフォニーなぞには全然歯がたちませんでした。

 楽器は以前グァルネリウスを使つておりましたが、これはある事情で手放してしまいました。現在使つているのはグワダニーニです。このグワダニーニはユンケルさんから頂いたものでたのしい思いでが御座居ます。それはユンケルさんと室内楽をはじめようとしたときに、私の持つているヴァイオリンがあまり良いものではありませんでしたので、ヴァイオリンはとくに楽器が大事だからといわれて私に下すつたのです。姉がヴォラを弾きましたが、このヴィオラもユンケルさんから拝借したものです。セロは横浜にいたデヴィスと云う人です。この人は素人でしたがイギリスに居た頃、くろうとを相手に何時も室内楽をして楽しんでいたそうです。腕前は大層上手というわけではありませんが、音楽知識がとても豊富な人でした。それでユンケルさんと姉と私は、毎週一回横浜のデヴィスさんの家へ汽車に乗つて通つたものです。朝から晩まで弾きづめで食事のとき以外は休まず、やつと終列車に間に合う時間まで楽しんだものです。私もこれで大変室内楽の勉強になりました。

 私は一度もリサイタルを開いたことが御座居ません。レオ・シロタが「なぜあなたはリサイタルをしないのか」と云つてすすめましたが今の世の中とは大分違い、私の性質のせいもあるのでしょうが、何か自分のためにお客様を一晩中引張つておくのは、申しわけないような気がして出来ませんでした。でもレオ・シロタと「ソナタ・アーベント」と云うのを開きましたが、現在でいえばジョイント・リサイタルのようなものでしよう。

 私が上野で教えた生徒には、鳥井つな、多久興、藤田経秋、河野俊達、鈴木鎮一、渡辺暁雄、伊藤良、鈴木共子さんなどが居ります。先日は楽壇の皆さんと、それから私の生徒さん達に喜寿のお祝をしていただき、こんな長生きをして申しわけがないような気が致しました。この紙上をかりてみなさんに厚く御礼を申し上げます。

 終戦後、外国の演奏家がたくさん参りましたが、メニューヒン、シゲティ、アイザックスターン等どれもみんな聴いておりますが、みなそれぞれに感心しております、ことにメニューヒンが来た時は、最初の来朝者であつたしほんとうにうれしくてたまりませんでした。

 日本のヴァイオリン界もそういうこうに刺激されてか、最近は小さな子供がヴァイオリンのケースを下げてレッスンに通つているそうですが、はたしてこの子供達の中から何人のすぐれたヴァイオリニストが出るか、私はそれを大変楽しみにしております。

                                             (文責記者)

 上の文と写真は、 昭和二十九年九月一日発行の 『音楽之友』 九月号 第十二巻 第九号 に掲載されたものである。

 下は、レオ・シロタ、マリア・トールとの音楽会のプログラムである。

  

 安藤幸子女史

 マリア・トール女史  大演奏會

 レオ・シロタ氏

  時 〔昭和六年〕四月二十九日(水)夕七時

  所  市公會堂

  主催・名古屋音樂協會

      プログラム

 Ⅰ.奏鳴曲 二短調 ‥‥‥ ブラームス

    アレグロ

      アンダンテ

        アレグロ ビバーチェ

               ヴァイオリン獨奏  安藤幸子女史

               伴奏        レオ・シロタ氏

 Ⅱ.我が まどろみ 寺の庭に いよよ うつゝなく  ‥‥‥ シューマン

   詩人(ミューズの子)             ‥‥‥ シューベルト

               ソプラノ獨唱    マリア・トール女史

               伴奏        レオ・シロタ氏

          - 休憩 -

 Ⅲ.旋律                     ‥‥‥ バッハ

   ガボット                   ‥‥‥ バッハ

   アレグロ      ‥‥‥ プグナニー作曲 クライスラー編曲               

               ヴァイオリン獨奏  安藤幸子女史

               伴奏        レオ・シロタ氏

 Ⅳ.歌劇「フライシューツ」中のローマンス     ‥‥‥ ウェーベル

   捧げまつる歌                 ‥‥‥ シュトラウス

   チェチリェ                  ‥‥‥ シュトラウス

               ソプラノ獨唱    マリア・トール女史

               伴奏        レオ・シロタ氏

 Ⅴ.夜想曲 ヘ短調                ‥‥‥ ショパン

   ワルツ 變イ長調               ‥‥‥ ショパン

   軍隊行進曲     ‥‥‥ シューベルト作曲 タウジッヒ編曲

               ピアノ ソロ    レオ・シロタ氏


「第一回 帝国音楽学校演奏会」 (1932 6.14)

2020年05月04日 | 音楽学校、音楽教育家
   

 第一回 帝国音楽学校演奏会

          六月十四日午後七時 於 神宮外苑 日本青年館

   主催 帝国音楽学校  

 PROGRAMME

   ーⅠー

 1.CHORUS(合唱)         … 全校生徒        指揮 小松平五郎教授
 2.VIOLIN SOLO(ヴァイオリン独奏) … 本科二年 片山 アリス  ピアノ伴奏 選科 片山淑子
   (ヴァイオリン協奏曲)         (ダヴイド作曲)
 3.SOPRANO SOLO(ソプラノ独唱)  … 小原威子助教授   ピアノ伴奏 江藤輝助教授
  a. (あゝ、そはかの人か)         (「椿姫」より)
b.(花より花に)             (ヴエルデイ作曲)
 4.PIANO SOLO(ピアノ独奏)    … 江藤支那子助教授
   (ロンド 作品十六番)         (シヨパン作曲)
 5.QUINTET(五重唱)        … 卒業生 井上ケイ 本科三年 黒田多嘉子 〃 室井美津枝 ウマール教授門下生 森治 長崎康二
   (オペラ「魔笛」より)         (モーツアルト) 絃楽オーケストラ伴奏 指揮 菅原明朗教授

   ーⅡー

 6.a. DUET FOR VIOLIN AND PIANO(ヴァイオリンとピアノの二重奏) … モギレウスキー教授 ロイヒテンベルヒ教授
    (古式による組曲)          (マツクス・レガー作曲)
   b. VIOLIN SOLO(ヴァイオリン独奏)… モギレウスキー教授 ピアノ伴奏 ロイヒテンベルヒ教授
    (1)(「おゝ神よ與へ給へ」「テデウム」よりの祷り)  (ヘンデル作曲)
    (2)(ロンド)                    (モーツアルト作曲・クライスラー編)

   ーⅢー

 7.STRING ORCHESTRA(絃楽合奏)    指揮 モギレウスキー教授 鈴木鎭一教授外三十余名

   a. (大協奏曲・第十番ニ短調)      (ヘンデル作)
   b. (悲しき旋律)            (グリーク作曲)
 8.PIANO SOLO(ピアノ独奏)    … 屬澄江助教授
    a. (演奏会用練習曲 第三番 嬰ニ長調)(リスト作曲)
    b. (泉の傍にて)           (リスト作曲)
 9.VIOLIN SOLO(ヴァイオリン独奏) … 選科 諏訪根自子 ピアノ伴奏 ロイヒテンベルヒ教授
    a. (アンダルテイアの物語)      (サラサーテ作曲)
    b. (ペルペツーム・モビレ)      (リース作曲)
 10. TENOR SOLO(テノール独唱)   … 太田黒養二教授 ピアノ伴奏 江藤輝助教授
    a. (悲しき歌)            (デパルク作曲)
    b. (私は鳥ですー「グリセリデイス」より)(マスネー作曲)
 11. PIANO DUO(ピアノ二重奏)    … 第一ピアノ 黒川いさ子講師 第二ピアノ 笈田光吉教授 
   (幻想曲)                (ラハマニノフ作曲)
 
        (ブリュートナー・ピアノ使用)  

 

 入学案内 帝国音楽学校  詳細ハ郵券封入照会ノコト 

  位置   新宿駅ヨリ小田原急行電鉄ニテ約十二分、中原駅下車
  科別   予科(一年以内) 本科(三ヶ年) 研究科、聴講科、選科
  科目   器楽部(ピアノ、オルガン、ヴァイオリン、セロ)。声楽部及作曲部
  予科   中学、高等女学校第四学年修了者又ハ之ト同等以上ノ学力アルト認ムル者並ニ小学校教員免許状ヲ有スルモノハ予科ニ入学ヲ許可ス
       前項ノ資格ナキ者ト雖モ試験ノ結果特ニ才能アリト認ムルトキハ入学ヲ許可スル事アルベシ
       予科在学中本科ヘ編入サルベキ程度迄進ミタル者ハ定期進級試験ノ外ニ担任教授ノ推薦ニ依リ臨時試験ノ上本科ヘ編入ス
  入学試験 受験科目ハピアノ、オルガン、ヴァイオリン、セロ、声楽ノ内任意ノモノ一ツ、曲目随意
       毎年定時入学試験(四月)ノ外ニ臨時補欠試験アリ
  選科   年限ナシ、資格ヲ問ハズ無試験随時入学ヲ許可ス。ピアノ、オルガン、ヴァイオリン、セロ、声楽ノ内一科目又ハ二科目ヲ修ム

  本校特色
       ヴァイオリンノ世界的巨匠モギレウスキー教授ヲ始メ内外専門大家ヲ聘シ人格陶冶ト相俟チテ芸術的教養アル真ノ音楽家養成ニ努ム
       専門科目ハ個人教授ニシテ一回三十分乃至一時間ニ及ブ
       試験ハ総テ全教授立会ノ上之ヲ行フ
       独立セル作曲部アリ、作曲専攻ノモノヲ特ニ指導ス

         本校教員

 ヴァイオリン    アレキサンダー、モギレウスキー
           鈴木鎭一
           鈴木章
 セロ        鈴木二三雄
 ピアノ       ナデジダ、ロイヒテベルヒ
           笈田光吉
           朴啓星
           江藤輝
           江藤支那子
           屬澄江
           黒川いさ子
           花井吉三郎
 声楽        アルフレッド、ウマール
           太田黒養二
   (休職)    平間文壽
           小原威子
           辻輝子
 作曲及和声学    菅原明朗
 管絃楽合唱指揮   小松平五郎
 音楽教育及教授法  田村虎藏
 音楽史、英語    野村光一
 音楽理論      服部正
 オルガン、音楽理論 李志傳
 芸術思想史、英語  西村鎭彦
 伊太利語、歌劇論  下位英一
 国語        金原省吾
 独逸語       鈴木鎭一
 美学        麻生義輝
 倫理        武田豊四郎
 女子寄宿舎監    小原威子

    東京市外世田ヶ谷町中原(小田原急行電車中原駅下車)
        帝国音楽学校

 上の入学案内は、上の演奏会プログラムと一緒に入手したもの。

 

 上の募集広告は、昭和六年一月一日発行の『月刊樂譜』一月号にあるもの。なお、同号には、下の文も 音楽學校だより にある。

 帝音通信 河邊生

 新綠の色すがすがしい郊外世田ヶ谷中原の地に育まれ行く帝音の姿、それは丁度麗かな春光を浴び日一日と成長して行く木々の若葉の感がある。
 参月末の卒業式後から四月の新學期開始迄僅か貳週日程の間に帝音の姿は随分と健な成長を續けた、先づ外面に表はれた姿としてはこの四月に吾等は七拾名(受験者總數八十九名)の新しき若き未來ある弟妹達を迎へ得た事である、現今の樣な世想の中に新生以後僅か半歳の歴史しか持たぬ我等帝音が以上の成績を羸ち得た事は確かに他に比して誇り得る何物かを持ってゐたからである。
 今春の入學試験に表はれた面白い現象は受験者總數の過半数が絃樂部志望者であった事である。隨って受験者の質も一段と向上し中には現在樂壇からその存在を驚異的の眼でもって見られてゐる拾貳才の少女提琴家諏訪根自子嬢を始め、某音樂学校卒業生等々枚擧する遑 いとま がない程である。
 殊に前述の諏訪根自子嬢の受験振の美事さには受験場に立會はれた内外貮拾數名の諸教授方も感歎久しくせられた。
 受験曲目はあの有名な
  メンデルスゾーンの協奏曲!!!
 同曲の終るやモギレウスキー教授は同嬢の才能を認められ破格にも特に豫科在學中より自ら進んで同教授擔任のクラスに編入され壹週貮回親しく教授される事になった。
 又菅原教授も同嬢が帝音卒業の暁にはフランス留学の意志あるを聞かれ特に同嬢の爲に時間を割きフランス音樂に對する講義及音樂理論を、野村教授は音樂史をそれぞれ特志をもって教授される事になった。
 〔以下省略〕

『琴曲界』 第一号 琴曲研究会 (1913.1)

2020年03月05日 | 音楽学校、音楽教育家

 

 琴曲界 琴曲研究会発行 第壹号 (第壹巻) 大正二年一月一日発行

 賛助員 (いろは順)

 東京音楽学校学習院女子部琴曲教授 今井慶松君
 東京盲学校東京女子音楽院琴曲教授 萩岡松韻君
 宮内省御歌所主事         阪 正臣君
 東京音楽学校幹事文学士      富尾木知佳君
 山田流琴曲教授          高橋栄清君
 日本女子大学教授文学士      武島又次郎君
 東京音楽学校講師         上原六四郎
 山田流琴曲教授          上原真佐喜君
 東京女子美術学校琴曲教授     山木千賀君
 東京盲学校長           町田則文君
 学習院女学部教授文学博士     松本愛重君
 日本女子大学琴曲教授       佐藤左久君
 東京音楽学校長          湯原元一君
 東京女子高等師範学校教授文学博士 関根正直君     

 琴曲研究会設立趣意書

 現時の我が音楽界はさながら洋楽の独舞台とも申すべき有様でありまして惜いかな邦楽は実に衰微の極に達しようとして居ります洋楽の隆盛になりましたのも決して喜ぶべきことゝは申しませんが併し是れが為に折角古来幾多名手の研究を重ね随分久しい歴史を持つて伝はりました邦楽之れを洋楽に較べましても総べての点に於て毫も遜色のあるでなく寔にに能く我が国民性的嗜好に適合した音楽でありますのにそれが全然頽廃に帰せんとするをも顧りみないといふ今日の形勢となりましたのは畢竟我が国人があまりに洋風崇拝の一方に傾き過ぎて遂に本末を誤り肝腎の国粋保存といふ本義までを無視した結果でありまして心ある者の憂惧措く能はざる所でありますそこで是非共茲に邦楽の振興策を講ずる必要があるのでありますそれには先づ兎も角も一般の家庭に容れられて猶多少の命脈を繋いで居る琴曲を主として研究を始めますのが便利でもあり又順序にも適つて居ると考へられます所から此の度学術と技術の両方面に於て現今第一流の聞えある諸先生の賛同を得まして本会の設立を見るに至つた次第であります。

     東京市小石川区竹早町七番地
  大正元年十一月 琴曲研究会   

 琴曲研究会会則 (大正元年十一月廿五日創定)

 第一條 本会は主として我が国古来の琴曲を研究し邦楽の発達普及を図るを目的となす。

 第二條 前條の目的を遂ぐる方法として毎月一回『琴曲界』と題する機関雑誌(一冊定価金貮拾銭郵税金貮銭)を発行する外特に有益と認むる図書を随時に刊行し又時々琴曲演奏会を公開す。

 第三條 道義を重んじ著実に琴曲を研究せんとする者は何人にても本会の会員たることを得。

 (以下省略)

 ◎口絵写真七面 …

   

 ・流風余韻山田翁
 ・東京盲学校長町田則文君
 ・東京盲学校内楽々会秋季演奏会

  口絵第三面の説明

 本誌の口絵第三面に掲げた須磨の嵐合奏の一面は、大正元年十月十七日午後、小石川区雑司ヶ谷町東京盲学校講堂に催された同校内楽々会秋季演奏会に於ける曲目八番中、第五番の実景を、本会が町田校長の許可を得て特に撮影せしめたもので、壇上琴に対へる男子は同校教員萩岡松韻君、婦人は竹下ヨシエ三宅正子及び古澤まさといふ三君で孰れも師範科生である。次に三絃は天野宗吉君、尺八は関口月童君といふ顔揃ひなのである。因に、楽々会の演奏会は必ず春秋二季に催さる々といふことである。

  

 ・今井慶松君〔上左〕、萩田松韻君〔上右〕、櫛田ひろ子君

  

 ・高橋栄清君〔上左〕、上原真佐喜君〔上右〕、木南美千勢君

  

 ・山木千賀君〔上左〕、佐藤左久君〔上右〕、諏訪多喜井君
 ・石井松清君女富子嬢(四歳) (同君助手)、飯田松連君門弟 田淵すみ子君(十九歳)

 ◎発刊の辞 … 本会幹事 田中真弓

 私は、自らの浅学菲才をも省みず、敢へて琴曲研究会の幹事として、今回江湖の諸君子に見 まみ ゆる事となりましたにつきまして、茲に御挨拶を兼ねて極めて簡単なる発刊の辞を述べようとする次第であります。
 我が琴曲研究会は、即ち時代の要求に促されて起つたものでありまして其の目的は、予ねて会則を以て公表しました通り、主として我が国古来の琴曲を研究し、邦楽の発達普及を図らうといふのでありますが、之れは、従来に絶えて無い頗る困難な事業でありまして、迚 とて も吾々微力の企て及ぶ所ではありませんが、幸に賛助員各位を始め、名誉会員外諸先生の深甚なる御賛成と多大なる御同情とを 辱 かたじけな うしまして、兎も角も茲に機関誌第一号を創刊するに至りましたのは、最も光栄とする所であります。何分、創業に際し、殊に年末多忙の時に会しましたので、総てが心に任せませぬ所から、内容の整はないのみでなく、甚だしく発行予期に遅れまして、何共恐懼に堪へませぬが、次号よりは、毎月一日を定期として確実に発行し、著々として完備の域に進むべく努力します。

 ◎琴曲研究会の創立をほぎまゐらせて(真筆短冊) … 実践女学校長 下田歌子

 ◎琴曲界発刊に題す … 東京盲学校長 町田則文

 這般琴曲研究会を設立せられ、機関雑誌として、『琴曲界』を発行せらる、余は頗る其旨趣を賛成するものなり。吾が邦各種の音楽時の古今により消長したけれども、恃 ひと り琴曲は、長く吾が国上下の家庭に行はれて替らざるのみならず、寧ろ現時に至りては、上は皇族方の御家庭を初めとせられ、華族以下社会一般の家庭に至るまで、漸次拡張隆昌の機運に向ひたりと云ふ可きか。現に帝国の中心たる東京市内にありては、該音楽教授を以て業務を開くもの数十を以て計 かぞ ふ可く、一所多きは百数十名の子弟を有し、少なきも三四十人の子弟を有せざるものはなしと云へり。他種の音楽にありて斯の如きの盛挙を看ることは幾 ほと んど稀れなり。以て知る可し如何に琴曲の吾が邦上下の家庭に愛玩せられあるかを。
 (以下省略)

 ◎琴曲と家庭     … 東京音楽学校長 湯原元一

 ◎(真筆短冊)   … 東京高等女学校長 棚橋絢子

 ◎雑誌琴曲界の発刊を祝す … 東京音楽学校幹事 富尾木知佳

 ◎歳暮の曲(新作琴歌) … 日本女子大学校教授 武島羽衣

 ◎佐保姫(新作琴歌) … 宮内省御歌所録事 加藤義清

 ◎琴曲さくら本譜略譜並に説明 … 落合澤子

    

 ◎琴曲松上の鶴 琴三絃本譜並に説明 … 同人

 ◎(真筆短冊) … 跡見女学校長 跡見花渓
 
 ◎音楽の人に及ぼす感化 … 第一高等学校教授 今井斐己

 ◎ 宮内省御歌所主事 … 阪正臣

 ◎(真筆色紙) … 三輪田高等女学校長 三輪田眞佐子

 ◎琴に就いて … 日本女子大学校琴曲教授 佐藤左久

 ◎私の教授法 … 琴曲教授 佐藤美代勢

 ◎琴歌講義 … 武島羽衣  〔下は、その最初の部分〕

 日本で琴といふのはもと廣い名まへで、謂はゞ弾物 ひきもの の總名であった。ことんとかかかたんとか弾いて音 ね を出す楽器は皆琴と呼ぶ事が出来たのである。されば、六絃の倭琴 やまとごと や、七絃の琴 きん や、十三絃の筝 そう の琴即ち筑紫琴やはいづれも琴 こと と名づけられてあった。それが室町時代に至りて獨り筝の琴のみ次第に流行の範圍が廣くなり、殊に徳川時代に及び上下普ねく子女によりてもてあそばるゝやうになりてからは筝の琴とか筑紫琴とか言はずとも、唯 ただ 琴とのみいひて直ちに筝の琴や筑紫琴を意味するやうになってしまった。今日の琴といひ琴歌といふのも其意味で使用せられてあるのである。さて是 この 琴には古くは定 さだま った歌が作られてゐなかったのを延寶天和 てんな の頃に八橋檢校といふ名人が出でて、表組 おもてぐみ 裏組中組奥組などの十三曲の組歌といふものを作り出して始めて曲と歌とを製定した。それから八橋檢校の門人や又次々の檢校が出でて、數多 あまた の新組を作りて遂に今日の琴歌 ことうた が出來あがったのである。
 琴は曲と歌と二つ揃うて眞實 ほんと の面白みはあるものであるが、しかしどうしても、曲が主になって歌は附けたりになるものであるから、曲の爲に歌が妨げられて、意味の聯絡しない、通りのわるいふしぶしが澤山ある。されば今日琴曲をもてあそぶ數多の子女には歌の義理の何なるかも知らず、無意味に歌ひてをる場あひが必ず多からむと推量する。さりながら前にも言うた如く、琴曲の眞實の面白みは曲と歌と相揃った所に於て始めて生ずるのである。曲もわかり歌もわかって本當の琴の妙味は感ぜられるのである。されば歌を無意味に歌ひながら曲を弾くのは正しい琴の學びかたではないと思ふ。是點 このてん に感じて試みたのが本號から掲載する是 この 琴歌講義である。尤もこれまでとても、琴歌の講義をなしたものは少くない。元祿八年に出た琴曲抄を始めとして、安永八年山田松黑が著したる筝曲大意抄、天明三年百井定雄のものしたる調筝自在抄、文化九年高井伴寛の著したる撫筝雅譜大成抄などが、板 ばん に成ってゐる物では人のよく知ってゐる書である。是外寫本で傳はってゐるものには天明五年に成りたる立木信憲の筝曲考、又村田了阿の著にかゝる吾嬬 あづま 筝譜考證が最も詳しく注釋してゐる。而して明治になりてからも、二三の解釋書が出てゐるが或者 あるもの は餘りにざっと説き、或者は却りて繁に過ぎ、どうも中等教育を受けた子女に程よくわかるやうに説き明かしてゐるものが見えぬやうであるから是講義には成るべく中間の道を採って行ったつもりである。詳しい、考證に渡るやうな解きかたをせぬのは是目的の結果であるから豫 あらか じめ心得ておかれむ事を希望する。

      

 櫻。 さくら。 やよひの空は見渡すかぎり霞か雲か。 匂ひぞ出づる。 いざや。 いざや。 見に行かむ。

  是歌は組歌の中 うち のものでは無い。琴を初めて習ふ者が手ほどきに教へらるゝ曲の一つの歌である。これは鎌倉時代の歌人で僧慈圓といふ人の歌に、
   春のやよひの曙に、四方 よも の山べを見渡せば、花ざかりかも白雲の、かゝらぬ山こそ無かりけれ。
  といふ今様(七五といふ句を四つ幷べたる歌の形)と、本居宣長の
   しき島の大和心を人問はゞ朝日に匂ふ山櫻花。
  といふ歌を取合せて作ったものである。
  (語釋)やよひは彌生 いやおひ といふ意で、草の若芽などが彌彌 いよいよ 生 お ひ出づる頃といふ意味。舊暦の三月頃を言ふ言葉である。 見渡すかぎりは目に見ゆるだけ、目で見る全體といふ意。 匂ひぞ出づる。 日の光りなどが花びらにさしてほんのり赤く色に出 いづ るといふ事。これは前の本居宣長の歌の「にほひ出でたる」といふのを用ゐたのである。
  (大意)櫻よさくらよ。満開になった三月頃の空を見ると、目に見ゆる全體が雲ではないか霞ではないかと思はるゝばかりにほんのり赤い色ににほってゐる。さあさあすぐにあの櫻を見物しに行かうといふので、春さきの樂しい景を叙 の べた歌である。

 ◎山田検校翁略伝 … 田中真弓

 ◎十三絃 … 岐水迂人 

 名誉会員


「お師匠様に可愛がられ歌のお代り出されるのを嫌がって泣いた私の少女時代」 幸田延子(1911.3)

2019年10月25日 | 音楽学校、音楽教育家

 

 お師匠様に可愛がられ歌のお代り出されるのを嫌がって泣いた私の少女時代

      前音楽学校教授 幸田延子

  音楽のお上手なお母さま

 私の母は大変に音楽が好きでございました。音楽と申しましても、昔のことでございますから、今のやうにピアノだとかヴアイオリンだとかいふ西洋の音楽ではなく、お琴や三味線 さみせん ばかりでございました。母は、そのうちでも長唄の名人でございまして、子供の時分に教はった長唄など、只の一句も今になって忘れてゐるやうなことはございません。
 さういふ母親を持ってゐましたから、私は三歳 みっつ か四歳 よっつ のまだ舌もよく廻らぬ頃から、母がお裁縫 しごと をしてゐる傍 そば に座って、遊び半分に長唄やら、お琴の歌やらを教はってをりました。そんな風で私は極小さい頃から、音楽と仲善 なかよし になりました。けれどもこれがまた、今のやうに、私の一生涯のお友達にならうとは、夢にも存じませんでした。

  隅っこでシクゝ泣く

 六歳 むっつ のとき、私は初めてお師匠様のところへ長唄のお稽古に通ひ初めました。私が大へんよく歌を覚えるものですから、お師匠様は、誰よりも私を一等可愛がってゐらしったやうでございました。
 ときゞ方々で長唄のお浚 さら への会がありますときには、お師匠様は、いつでも小さい私を連れていらっしゃいました。
 会のときに、お浚へをする子供が、折々俄かの病気や何かで差支へることがございます。そんなときにお師匠様は、いつも私にそのお代りをするやうにお云ひ付けになります。それは、私に唄はせれば、大切 だいじ な処を忘れたり、行き詰ったりするやうなことがないからだといふことでございました。
 併 しか しその頃の私は、どうしたものか、お師匠様からお代りを云付 いひつ けられるのが、いやでいやで堪 たま りませんでした、ですから私は、その度 たんび 、室 へや の隅っこに引込んで、シクシク泣いてをりました。お師匠様が自分を見込んでかう言って下さるのですから、得意になって、威張るくらゐが普通ですのに、それを泣いていやがったなどは今から考へるとをかしうございます。
 
  唱歌を百人一首と間違へる

 間もなく私は、お茶の水の高等師範学校の附属小学校へ上 あが りました。処がこゝに、面白いことが起ってまいりました。それは、
 『今度学校で唱歌といふものが初 はじま るんですって。私達もそれを教 をそ はるんですって。唱歌って何でせう。百人一首見たいな歌でも唄ふんでせうか。』
 かういふ評判なんです。さあその評判が拡 ひろ まってから、学校では皆大騒ぎで、早くその唱歌といふものが知り度いと、ワアゝ云ってをりました。
 或日生徒一同が、講堂に呼び集められました。正面を見ますと、何だか大きなテーブルのやうな、箱のやうなものが据えつけてあります。何だらうと皆 みんな が眼を丸くして見て居りますと、メーソンといふ西洋人の先生が、その蓋を開けて、指でもって叩いてゐらっしゃいますと、誠に好 い い音 ね が出てまゐります。私共は皆呆気に取られてをりますと、これがピアノといふもので、この音に合せて唱歌を教 をそ はるのだといふことを、先生が説明して下さいました。

  幼稚園生の二重音唱歌

 間もなく私は、学業の余暇にはメーソン先生のお宅へ行って、音楽のお稽古をして戴 いたゞ くやうになりました。十三歳のとき、附属小学校を下 さが って、音楽取調所 おんがくとりしらべどころ に入って、専門に音楽を勉強するやうになりました。その頃はまだ、音楽学校といふのはなかったのでございます。
 一昨年私は、二度目に西洋へまゐりまして、フランスの幼稚園で感心な生徒を見ました。
 そこの生徒は、二歳から六歳までの子供でございますが、私がそこへまゐりますと、皆大喜びで、お得意の歌を唄ってきかせました。すると先生が、
 『今度は低い方の音 おん で唄って御覧なさい。』
 と仰しゃいますと、その二歳の子供達迄が、直 す ぐに低い方の音で唄ひましたのには驚きました。

 上の写真と文は、明治四十四年三月一日発行の雑誌 『少女の友』 第四巻第三号 実業之日本社 に掲載されたものである。


「創立一週年記念大音楽会」 (武蔵野音楽学校)(1932.2.25)

2017年10月20日 | 音楽学校、音楽教育家
      

     昭和五年二月二十五日(火)午後六時半     
     明治神宮外苑 日本青年館

 創立一週年記念大音楽会

    武蔵野音楽学校

         曲目

  第一部 

 一、混声合唱     生徒
 ニ、ピアノ独奏    藤田喜與子
 三、ヴァイオリン独奏 栗原大治
 四、四重唱      平井美奈子 
            澤智子 
            木下保 
            徳山璉 

    [休憩]

  第二部

 五、混声合唱     生徒
  a . 旅の歌  信時潔曲
  b .深山には 同
  c . 春の彌生 同
  d . 渡り鳥  同
 六、ピアノ独奏    山越八重子
 七、ヴァイオリン独奏 田中英太郎
 八、ピアノ独奏 澤崎秋子
 九、混声合唱  生徒

  合唱指揮 木下保
  伴奏   山越八重子
       藤田喜與子
       富田三枝子

「子守唄が音楽家の第一歩」 神戸絢子 (1911.8)

2017年01月27日 | 音楽学校、音楽教育家

  

 東京音楽学校教授神戸絢子女史と其筆蹟〔上の右の写真〕 

  子守唄が音楽家の第一歩

      東京音楽学校教授 神戸絢子

 私は音楽に対して、別にこれぞといふ意見は厶 ござ いませんが日本の家屋にはピアノは不適当です、何よりも響がないのですから、余程違ひます、ピアノが三味線や琴のやうに一般に歓迎されるには、未だ余程の時日がありますでせうと思ひます、ですが私が欧洲 あちら へ参つた時と、帰朝 かへつ た時とは、余程進歩して来たのは確 たしか です今ではピアノと言ふものは奈何 どう いふ楽器 もの である位の事を知らない人はありますまい、其だけでも余程の差 ちがひ やありませんか。
 私が欧洲へ参りましたのは四十年の六月で御座いました。大抵は巴里 ぱりい に居りましたが、伯林 べるりん へも行きました、其 それ は唯ピアノを聞きに参ゐりましたので御座います。女で仏蘭西 ふらんす へ参ゐりましたのは、或は私だけかもしれませんぬ。彼方 あちら で日本人の方にお目にかゝつたのは大使館の方位で、画家の御方も余程行つて被在 ゐらつしや つたさうですがお目にかかりませんでした、往方 あちら の音楽は申すまでもなく盛大で、毎日音楽会がない日はありますまい、ですから聴きに行くに迷ふ位です、其 それ は先方 あちら では名を売るまでは無価 たゞ で入場券を呉れますからです、元より沢山の音楽師がありますのでなかゝ名をうるまでは大抵ではないやうで、巧手 じやうず な方でありながら、場末へ行つて演奏されると言ふ有様です、之と言ふも必竟 ひつきやう 多勢 おほぜい の為でしやう。
 彼方ではピアノ師に為様 しやう と思ふと、十二三歳の頃から稽古をさせまして、一切外 ほか の事はさせません、一日に六時間も稽古させますのです、でなくては奈何して手が練 ね れて来るものですか、若い年頃から一生懸命になつて稽古しました所が、手が堅くなつてゐますから、思ふやうに働きません故、進歩しました所が程度が知れてゐます、異常の天才のある方でない限りは、群を抜くと言ふ程の名手は今の所出ないかと存じます。
 仏蘭西に限らず欧洲では、十二三歳の頃早いと七八歳の頃から専一 せんしん にピアノ計 ばか りを稽古させますから、十代であつて已に大人も及ばない位に巧手な方が沢山あります、日本でもピアノ師として立派な人の出るのは以後 これから だらうと思ひます、今の方は大抵稽古を始めやうとなさる頃は年頃で、手が何 どう しても今申します通りに堅くなつてゐて働きませんから、今稽古して被在 ゐらつしや る方は大いなる将来はないかと思はれます、ですから私は今一意専心に稽古をなすつてゐらつしやる、またしやうとお出での七八歳の方が十年位経つと立派なピアノ弾きになる事が出来ますから、本当のピアノ弾きは以後 これから と申しますのです。
 私が彼方へ参りまして入つたのは、大変によい学校で、教方のうまいので有名な先生でしたから、何よりも幸福 しあはせ で御座いました、参ゐつた当座は生徒さんが皆巧手な方計りでしたから力を落しましたが、先生が鼓舞激励されましたので、自分と力を入れて励みました。
 ピアノの趣味については其 それ は何度も聞かなくては判りますまいと思ひます、耳に蒼蠅 うるさ い程聞慣れなくては、ピアノに限らず趣味と言ふものは湧いて来ないでせう、私なぞは彼方での名手を聞きましたが、余りよくは判りませんでした、と言ふのは未だ耳にもよく慣れなかつた故 せい と思ひます、その趣味が判ると言ふのが、今の所では不思議な位です、三味線や琴のやうに腹の中に居る時から聞いたのではありませんので、今まで日本にはなかつたものですから、其を今直 すぐ に解しやうとしたつて出来ものぢやありますまい。
 彼方では生れる時からピアノを聞いゐますので、一般に拡 ひろが つてゐるのは申すまでもなく、大抵の家にはピアノが一台位は供へてあります、行つて見ますれば、日本の家屋に床の間がない家はないと言つた様にです。
 私は日本橋の生れでして、四歳の頃から子守歌を聞いて唄つたりしまして、両親 ふたおや もこの子は音楽家にしたらばよいだらうと思つたさうで厶います、十歳頃から三崎町の仏和女学院へ這 はい りまして、ピアノを稽古しました、小さい時から、ピアノと言ふものは好きでした、その頃は別に慾がありませんでしたから、稽古と言ふ程の稽古はせずに、ピアノを弾かない時には編物など致して暮らしました、今から思ふとそんなことをして時間を費やしたのが非常に残念で仕方がありません、その学校で仏蘭西語を習ひました、卒業してから音楽学校へ這入りまして、研究科を卒 お へて助教授になりました、その頃ヂーベル先生から教へて頂きました、欧洲へ参りましたのは其後 それから で学校へは今でも毎日出てゐます。
 一般の家庭にピアノが這入ると言ふ事はある、当分の間は出来ますまい、外国のものではあり、未だピアノの趣味を解するだけに、耳が一般に発達してゐませんから、今の所では上流の家庭より外には、用ひられると言ふ事はないだらうと思ひます。
 私はピアノ弾きにならうと思はれる方があるか、または御自分のお子さんをピアノ弾きにさせやうと思ひになる方があるならば、七八歳の頃から、良い先生の許 もと で専心に勉強させられる事を祈ります。ピアノにはピアノの趣味があり、日本の楽器には又特有の趣味はあるものですから、比較すると言ふ事は根本の間違ひだらうと思ひます、自分が一番ピアノで苦しみましたから、ピアノが何よりも難しい気がします、一曲を終へて終 しま はない間 うち は、途中で可厭 いや になることがあります、ですが一曲を了 お へて終ふと、又面白いものなのです、加之 それ にピアノに限りませんが、中でもピアノは絶えず自習をしなくてはなりませんので、本当に稽古なさらうと言ふ方は別としましても、大抵の方は自習をなさる方はありますまいかと思はれます、ですけど今の方は好 よ く判つて被在るものですから、ピアノを本当に稽古なさらうとする方は熱心のやうです。
 私なぞ一日 じつ でも自習しないと、手が悪くなるものですから、毎日何時間となく稽古致してゐますから、頭が余程変になつて居るやうな気がします、一寸した物音も頭に響く事があります位です、何うしても躯 からだ の壮健 じやうぶ でない方は分けて損で厶います。
 ピアノ弾きとして恥づかしくない方が日本に何人あると言ふ事は申されもしません、まして誰々と言ふ事は、私から迚 とて も申上げられませんが、数は少ないやうに思はれます、三味線のやうに一般に行渡る事は前にも申した通りに、今の所では難しい事ですが追々は必ず発達進歩するには相違ないと思ひます。
 若し私が注意を申上げる事が出来るならば、手の練習を怠らぬやうに致して頂き度いのです、今稽古して被在る方は、皆手の練習にすぎないのです、音が多いだけに複雑ですから、余程敏活に働きませんと、間違つた音を出したりします、音計 おんばか りは欺むかうとした所が欺むけないものですから、明かにそのまゝを出して了 しま ひます、余程手の練習を為 し て頂かないとなりません、全たく今の方は練習にすぎない所へ持つ来て、最 も う手が堅くなつてゐますから、七八歳の頃から練習して敏活に働く人の手と比較にはなりませんから、発達する度が決まつて、其以上に進歩する事はないだらうと思ひます。
 日本の家屋とピアノとは、言ふ迄もななく不調和なものです、又ピアノに取りましても、此麼 こんな に不利益な事はなからうと思ひます、何よりも大切な響が出ないのですから仕方がありません、琴や三味線なら、形も小さし又日本の楽器ですから、日本の家屋に極く調和しますが、一方は持運びに不便で形があの通りに大 おほき いものですから、狭い日本風の座敷に置く可きものでは決してありません、私は自分が習つてゐる故か存じませんが、ピアノが一番音量が多いかと思つてゐます、その楽器々々に特長がありますから、好い悪いと言ふのではなく、単に此処では音 おん の数の事を申すので厶います。(をはり)

 上の文章と写真は、明治四十四年八月一日発行の『新婦人』第一年第五号 八月の巻 掲載のものである。 


「私の半生」 幸田延子述 (1931.6)

2015年02月28日 | 音楽学校、音楽教育家

 私の半生    幸田延子述

  

 私の生立

 私は明治三年に東京の下谷で生れました。私の家は代々徳川家に仕へた士で所謂本当の江戸つ子です。兄(幸田露伴博士)は私より三年前、慶應三年に生れました。妹(安藤幸子女史)は私より五六年あとになります。
 私の音楽趣味は直接には母-ゆふと申しました。-から受けました。母は長唄を稽古して居りました。一体に私の祖父は物事を徹底的にやらせる人でして、母は家附きの娘で父は養子に来た人でありましたが、母は祖父の徹底的な教育の下に育てられた人でした。一例を申しますと、お習字にいたしましても、いろは、を祖父から三年かゝつて教へられたさふです。母の子供の頃、教育は全部祖父から受けて居りましたが、お習字なども祖父は仲々漢字を教へなかつたさふです。先づいろはを書かせましたが、仲々此れで良いとは云つてくれない。母は早く画の多い字を書きたかつたさふですがまだ駄目だと云つて許してくれない、到頭三年間いろは許り書かされたさふです。此の祖父は趣味の広い人だつたさふでして殊に音楽が好きだつたのです。で、母は祖父の希望で杵屋六翁さんのお弟子さんの杵屋えつと云ふ人の所へ長唄を稽古に行きましたが、父は几帳面な、徹底的な人だつたので、趣味に習つてはゐるものゝ家でのおさらひなどはきちんゝとさせてゐたさふです。此の祖父の教育法を母が受けついだのでした。
 私が長唄を始めたのは随分小さい時でした。口がきける位の時でした。その頃から母はお裁縫をしてゐる合間でも私をそばに置いて口三味線で教へたものでした。だから私もをさらひをする時に母の口三味線の真似をそのまゝして笑はれたことがありました。かふやつて母の心盡しから私の音楽趣味は成長して行つたのです。

 洋楽への第一歩

 お茶の水の師範附属の小学校に入いりましたが、その内にお琴も習ひました。先生は山瀬松韻さんと云つて今の音楽学校の前身で音楽取調所の講師をしてゐた方でした。此の方の所へ学校の帰りに立寄つて習つて居りました。
 丁度十三歳の時でした。附属小学校に唱歌の先生でメーソンと云ふアメリカ人が来ました。メーソンさんは附属小学校ばかりではなく音楽取調所の先生にもなりました。今日の皆様方では想像もなさらないでせうが唱歌を、一 ひ 、二 ふ 、三 み 、と云つて習つたものです。此の唱歌の後に音階の練習や聴音の練習などもやりました。一つの音をメーソン先生が弾いて「此の音は何の音だ」なんて云ふ練習や、音階を歌ふ練習などは、小供の頃から長唄やお琴をやつてゐた私には大して難しいことではなかつたのです。で、メーソン先生から可愛がられまして、「此の子は音楽の才があるから個人教授をしたい」と云はれました。先生がさふ云つて下さるのでしたら、と父も母も同意して下さいましたので、毎週土曜日の午後、学校が終ると母につれられて、その頃本郷の森川町にありました音楽取調所に参る様になりました。そこで始めてピアノを見、そしてそれを習ひ始めたのです。その頃音楽取調所にお見えになつてゐた方には奥好義さんや、上眞行さんなどがゐらつしやいました。
 メーソン先生は仲々お急がしい方だつたので主として私はミス中村と云ふ方にピアノの手ほどきをして頂きました。此のミス中村と云ふ方は非常にハイカラな方で、英語も流暢でメーソン先生の通訳などもして居られました。此の方とは因縁が深い話がありまして、此の方のお宅と私のお宅とはお隣り同士だつたのです。家庭同士もおつき合ひ致して居りました。或る時、此のミス中村がお宅で琴をひいてゐらしたのですが、その時私はその琴の音が面白く垣根のそばで聴いてゐました。そしたら中村さんのお宅から、琴をお聴きになりたいのならどうぞ此方にゐらつしやい、とお招きされてお菓子など頂いて聴かせて頂いたこともありました。此の様に前から存じ上げてゐるミス中村が音楽取調所でメーソン先生の助手をしてゐらしたので、「まあ、あなたですか」と云ふ訳で大いに驚いたものです。
 矢張り始はバイエルからでした。けれど当時、ピアノなんかつて取調所以後に殆んど見ませんでしたし、まして家になんかありません。土曜日にお伺がひする度びに取調所のピアノを拝借してチョツとお浚 さら ひをして見て頂く位のものでした。唱歌なども皆さん大人の方々の中にまじつて一所に歌はせて頂いたり致しました。此のミス中村と云ふ方は後に高峰と云ふ高等師範の校長の所へ嫁がれました。
 この頃は勿論楽器店などは一軒もなく、ピアノを自宅で勉強するなんて事は到底出来ませんでした。たゞ、取調所にテーブル型の古ぼけたピアノがあるだけでして、お稽古して頂く前に二三度お浚ひして先生に見て頂き、此所はかふ弾くんだ、彼所はかふ、と御注意を聴いて済んだのです。家へかへればピアノなんか勿論ありませんから、お琴か三味線をお稽古をしておりました。

 音楽取調所へ入学

 私を色々に御指導下さつたメーソン先生は明治十五年に満期になつてお帰へりになることゝなりました。丁度私も小学校を卒業することゝなつたのであります。その時、メーソン先生が学校へ私の母をお呼びになりまして「此の子は見込みがあるから音楽取調所に入れて専門家にしたら好いだらう」とお勧めになりました。先生からのお勧めで私の家には何の異議も御座いません。私も興味を持つて居りましたので音楽取調所へ入学することゝなつたのであります。その時の校長は伊澤さんでして、その他の先生にはピアノに瓜生繁子さん、唱歌は上眞行さん、ヴアイオリンは多久随さんなどがゐらつしやいました。瓜生さんは文部省から第一回の留学生として大山捨松さん、津田梅子さん方とアメリカへ御勉強にゐらした方です。多久随氏は先日お逝くなりになつた音楽学校の提琴教授多久寅氏のお父さんでした。音楽取調所にはいつて勉強を始めたのですが、ピアノなども楽譜が手に入いりません。で、五線紙に一生懸命譜を写したものです。馴れないものですから随分此れに時間を取られました。今日の様に必要な楽譜が直ぐ手に入る時など、その頃のことは御想像も出来ないでせう。始めはピアノを専心やるつもりだつた所、ヴアイオリンもやれと云はれてヴアイオリンも習ひ始めました。先生は前に申上げた多久隨氏です。何と云つても明治十六七年と云ふ頃です。ピアノやオルガンなども音楽学校以外には殆んど御座いません。折角唱歌の先生を作つても教へる方法が無いと云ふので、お琴や胡弓を伴奏楽器に使つて唱歌を教へられる様にしよう、と云ふのでその研究が始まりました。お琴の絃を西洋音階に直したり、胡弓をヴアイオリンの調子に合わせたりしてやつたのです。此れも私が試験台になつてやりました。

 音楽取調所を卒業

 かふ云ふことをしてゐる間に卒業と云ふことになりました。明治十八年で私の十六歳の時です。卒業演奏にはピヤノではウヱーバーの「舞踏会への招待」を、独奏し、又遠山さんや市川さん方とヴアイオリンの三重奏も致しました。私は引続き今で申す研究科に入いつて勉強致しました。此の研究科の四年間に、当時海軍軍楽隊のお雇教師だつたヱツケルトさんも学校へ教へに見へられました。又、その頃横浜にソーフレーと云ふオランダ人が居られまして此の方は専門家ではありませんでしたが大変器用な人で、少しの間学校へ教へに見へられました。此の方から沢山シヨパンのものを教へて頂きましたし、沢山聞かせて頂きました。テイーチヱと云ふドイツの声楽の先生も見へられました。此の方は本当の声楽家で本当の歌ひ方を習ひました。
 その時に文部省からの招聘でデイツトリヒと云ふドイツの先生が参られました。此の方はヴアイオリニストで今考へても立派な音楽家だと思ひます。デイツトリヒさんからヴアイオリンを習ひました。教則本はクロイツアーでした。教へる時は非常に厳しい方でした。此の時、妹の幸子(今の安藤幸子女史)がデイツトリヒさんにお眼にかゝつた折、幸子の手を見て、「此の子はヴアイオリニストにすると良い」と云はれました。此れが機となつて幸子がヴアイオリンの道へ進む様になつたのです。幸子はそのとき確か十一、二歳でしたでせう。

 アメリカへ留学

 研究科を四年やりました折、私の留学の話が出ました。行先きはアメリカです。ボストンにあるニュー・イングランド・コンサーベートリーの校長がメーソンさんとお友達と云ふので其処へ行くことになりました。此の話が出ましてから、時の文部大臣森有禮さんのお宅によくお招きされました。そして奥さんにピアノをお教へしました。何度もゝ御飯など御馳走になりまして親切にして下さいました。洋行するのだから英語を習はふと云ふのでミス・プリンスの寄宿舎にも、八ヶ月入りまして、グツド・モーニング位の挨拶が出来る様になりました。洋行する時は洋服を着ましたが、此れもミス・プリンスが作つてくださつたものです。
 ボストンまで丁度御帰国なさるナツプさん御夫婦に御同伴させて頂きました。ボストンのホテルでナツプさんが学校長のドクトル・ドルヂヱさんの所へ電話をかけましたら直ぐホテルまでいらしつて下さいまして、私の荷物を持つたりして学校へつれて行つて下さいました。異郷で御親切にして頂いたので大変有難く感じました。それから寄宿舎に入いつて勉強をしはじめましたが、専攻科目は日本を出る時から、ヴアイオリン、と定められたのでヴアイオリンを習ひ、その傍らピアノも習ひました。ヴアイオリンの先生はヱミール・マールと云ふ方でヨアヒムの弟子の方でした。ピアノはカール・フヱルと云ふ方でした。お二人とも独逸人でした。ボストンには一年間居りましたが此の間には寄宿舎生活をしたので余り外出を致しませんでしたが、それでもニキシユ、ダルベア、ヘツキング、サラサーテなどを聴き、今でもその印象は残つて居ります。

 更にウイーンへ五ヶ年

 予定の一年が過ぎましたので今度はウィーンに行くことになりました。領事館から領事館へと、お荷物の様にされながら一人旅でウィーンに到着し早速ウイーナー・コンセルヴアトリウムに入学致しました。住居は程近い所に家族的に寄宿させて頂きました。ウイーナー・コンセルヴアトリウムでも矢張り専攻はヴアイオリンでした。先生はヘルメスベルガーと云ふ人で此の人のお父さんは有名な方でした。その他ピアノはジガー、和声学は有名なロバート・フツクスについて習ひました。此のウイーン時代、ウィーンで過した五年間は随分と勉強致しました。ヴアイオリンピアノも一生懸命やりました。学校で習ふ和声だけでは足らなくてフツクス先生の所へプライヴヱートに対位法と作曲法を習ひに参りました。
 その頃ウイーンに大きな書店がありまして其処の奥さんのローザ・フオン・ゲルグと云ふ方は芸術家の保護者でした。殊に日本へ大変親しみをもつて居られまして私を大変可愛がつて下さいました。その時私の持つてゐたヴアイオリンはアメリカで買つたドイツ製のものでしたが、「ヴアイオリニストはもつと良い楽器を持つてゐなくては…」と仰言つて私にヴアイオリンを下さいました。見ると真正のアマテイなんで全く驚いてしまいました。此の楽器は大切にして持つて帰りましたが流石名器だけに非常にデリケートだと見えて、日本へ帰つたら方々はがれて来ました。三度位外国へ直しにやりましたけれど駄目なので、折角頂いても弾けなくては、と云ふのでウィーンのローザ奥さんの所へ「もつと健康なヴアイオリンと取換へて下さい」とお願ひして、リユツポと云ふ楽器と代へて頂きました。所がこの楽器はつぼが私の手よりは大き過ぎるのでまた代へて頂き、三度目に送つて下さつたのが今持つて居る楽器です。
 ローザ奥さんはさふやつて世話なさる傍ら毎週自宅にお友達を集めてコーラスのお稽古をなさつてゐたのですが、その集りに私もお招き下さいました。私はアルトのパートを受持ちました。何にしろ此の合唱団は皆さんお出来になる方々で、奥さんのお室に備附けてある楽譜を直ぐその場で歌ひ合せられるので随分と良い勉強になりましたし、合唱の妙味も会得致しました。が、それにも増して嬉しかつたのはお食事の間、或は稽古の休みの間、人々のお話が皆音楽のことばかりで随分良い、ためになるお話を伺がひました。此のローザ奥さんの生きてゐられる間はよく文通致しました。
 ウィーンでは良い音楽を沢山きゝました。ハンス・リヒターの指揮でベートーヴヱンの第五交響曲をウイーン・フイルモニーが演奏しました時、此の世にこんな立派な音楽があるのか、と思はず泣いて仕舞ひました。その他では同じくリヒターの指揮でヴアークナーの「ローヘングリン」やクナイゼル四重奏団が演奏したメンデルスゾーンのカンツオネツタなどはまだ頭に残つて居ります。

 帰朝後とそれから

 刺戟の多かつたウィーンの五年間の生活を終つて日本に帰へつて参りました。そして直ぐ音楽学校でヴアイオリンを教へました。帰朝演奏は上野の音楽学校の講堂で致しました。伴奏は橘糸重さんでメンデルスゾーンのコンチヱルトの第一楽章でした。此の時はヴアイオリン許りではなく歌も歌ひまして、曲はブラームスの「五月の夜」とシユーバートの「死と少女」とでした。その他に遠山さんがベートーヴヱンの「月光ソナタ」を独奏なさいました。その時音楽学校には、帝大文学部の嘱託をしてゐらしつたケーベル博士がピアノを教へに来られました。私は皆さんのお稽古の時通訳をして差上げ、その代りと云つても変ですが、私もピアノを教へて頂きました。その内にケーベル博士が当時の校長渡邊さんにお話になりまして「幸田をピアノの先生に」と云ふわけで、それからピアノ科の先生になることになりました。私の教へした方では今でも逝くなられた久野久子さんが惜しまれてなりません。あの方は生きてゐたら、と今でも考へます。

 学校を辞して今日まで

 それからは平凡な生活です。学校の先生をし又家へ習ふ方が見えたり、音楽の先生として平凡に過しました。明治四十二年に学校を辞しドイツへ一年の予定で参りました。此の時は伯林におりまして先日逝くなられたジーグフリード・オツクスの指揮するフイルハルモニツシヱル・コールに入いり、合唱の勉強を致しました。或る時ニキシユの指揮するベートーヴヱンの第九交響曲の終楽章合唱に出ました。
 学校を辞してからの私は、音楽を出来るだけ家庭に入れよ、の考へで参つて居ります。先づ家庭から音楽を、それでなければ音楽の普及と云ふことは難かしい事と考へて居ります。で、今日素人のお嬢さん方がお稽古して居りますのもその理由からで御座います。
 自分が進んで弾きたいと考へて居りますのは矢張りショパンで御座いませう。ショパンの音楽は一音一符と雖もピアノ的でないものはありません。どのパセーヂでも無駄がなくて、全くピアノ音楽として立派なものだと存じます。リストも結構だと存じますが、そして、伺がふには面白いと存じますが、一人ピアノの前に座つた時はどうもリストを苦労して奏かふと云ふ気にはなりません。疲れた時や、その他、自分を慰める為めにはショパンは私の友です。  (在文責記者)

 上の文は、巻頭の写真と共に、『音楽世界』 昭和六年 〔一九三一年〕 六月号 第三巻 第六号 に掲載されたものである。
 なお、本号には、次の口絵写真〔すぐ下の写真〕、楽譜2頁〔下はその説明〕、囲み記事〔下の写真〕も掲載されている。

 

 此の楽譜 シヨパンのグランド、ヴアルス、ブリラントは幸田女史が十七歳頃音譜したものである。当時は楽譜が仲々手に入らなかつたので皆音譜したものである、標題の英字は故瓜生女史が書いたもの。

 我が楽壇の母 幸田延子女史 盛んな表彰式 五十年の功績と還暦祝 来月七日に上野音楽学校で

 

 

 「幸田延子先生略歴」 〔18.8センチ、二つ折〕

 

 明治三年三月十九日東京市下谷区仲御徒町に御出生。幼にして聡明、明治十五年早くも音楽取調掛伝習所に入つて研鑽さる事三年有余、業を卒へるや直に同所の助手を拝命、時に齢僅に十六、誠に世の異数とする所である。同廿二年四月米墺両国に留学、音楽芸術の薀奥を究めて同二十八年十一月帰朝、爾来東京音楽学校教授として育英の道に励精せられ、同四十二年九月退職せられるや審声会を組織し、民間にあつて子弟の教養に当り、鋭意専心今日に及ばれた。此間前後を通じて五十年、竹の園生のやんごとなき方々の御教授の光栄を担はれし外、先生の指導誘掖を受けたものの数実に数百千の多きに上り、常に楽界に於て燦然たる存在を示されてゐる。

   昭和六年 〔一九三一年〕 六月    幸田延子先生功績表彰会

 この略歴は、「幸田延子先生功績表彰歌」とともに『記念』に挟まれていたものである。

 ・「幸田延子先生功績表彰歌」 〔22.8センチ、二つ折〕

     :歌詞付楽譜、岡野貞一作、小松玉巌作の歌詞一番二番。裏表紙には、「昭和六年六月七日 幸田延子先生功績表彰会」とある。

 ・『記念』 〔31センチ、楽譜15頁〕

     :明治天皇御製の「天」と「蘆間舟(あしまのふね)」(乗杉嘉壽謹書)、歌詞付楽譜(幸田延子謹作)

 この「天」と「蘆間舟」の作曲などの経緯は、大正七年 〔一九一八年〕 一月一日発行の『婦人週報』四巻一号にある「我が楽界に 咲き出づる名花 畏くも先帝陛下の御製に 謹譜し奉りたる幸田女史」を参照の事。それによれば、大正三年 〔一九一四年〕春、女史は楽譜を持って参内し、皇后に奉ったとのことである。

 なお、昭和六年六月一日発行の『月刊楽譜』 六月号 第二十号 第六号 には、次の写真2枚、記事、短い情報などが掲載されている。

 ・〔口絵〕 「わが楽壇の母 幸田延子女史」 〔ブログ上部の写真〕
 ・「大正天皇御慶事当時の幸田女史」

   

 記事
 ・「幸田先生のことども」      鳥居つな
 ・「幸田女史に就いて二三の事ども」 倉辻龍男
  幸田延子女史のお祝ひ。六月七日午後一時より 表彰式及記念演奏会。夜は精養軒にて記念晩餐会

 音楽の盛んな国  幸田延子

 

 帰朝せる音楽の天才幸田延子女史と其居室
 新近回国之音楽界名手幸田女史小像及女史居室
 Miss N.Koda, the famous lady pianist, who has retured from Germany after ten months’stay there.

 出来る丈多くの音楽会へ臨んで、出来る丈け多くの音楽を聞きたいと昨年の九月二十五日久しく欧洲の風物に接しなかった私は、当年(十四年前洋行当時)の事共を頭の中に描いて横浜を解䌫 たつ た。汽船は折良く伏見若宮同妃両殿下の御召船で、私は図らずも殿下と同じ汽船に乗ることの出来る光栄を擔 にな つたその上妃殿下より有り難い御言葉さへ賜つたのは身に取つての栄誉であった。私は十一月伯林へ着いて墺国のピーン、巴里、倫敦等を経て帰朝したのであるが、至る所音楽は大層盛んで就中 とりわけ 伯林の音楽の盛んなことに驚いた。毎晩のやうに幾ら尠も音楽会の数が何しても十以上はある彼 あ の音楽会へも行って聞きたい、此の音楽会へも行って聞きたいと心ばかり焦慮 いら つてもさうゝ一晩中に四つも五つもの音楽会へ行く時間がないので、思ひながらも聞き遁 のが した音楽会の数が幾らあったか知れない程であった。音楽の種類はバイオリン、ピアノ等が重で、私の聞いた音楽家中現代著名の人の名を挙ぐれば、ピアノの方ではブゾーニー、ゴドウスキ、コチヤルスキー、サオヱル等で又バイオリンの方ではエサイ、 クベリツク、マルト等で何れも以上は男子である、女子の方の歌者 ボカリスト は子ーマン、デスチング、メルバー、ペトラチーニ等であった。此度の漫遊中痛切に感じたのは、若し私がグラヒック記者のやうに絶えず写真機を携ひてゐたならば、至る所で珍らしいと思ったものを一々写真に撮って、日本への土産に出来たであったらうと思った。日誌を出して見ても数ある中には鳥渡 ちょっと 思ひ出せぬ事も沢山あるが、写真を見ればさうゝ此処にこんな事もあったとと直ぐと記憶を呼び起す事が出来て余程興味ある事であったらうと考られる。

 上の写真と文は、明治四十三年〔一九一〇年〕十一月一日発行の『グラヒック』第二巻第二十号 掲載のものである。


『ピアノ グラフ』 小野ピアノ (1935?)

2013年06月23日 | 音楽学校、音楽教育家
 表紙には、「ピアノグラフ PIANO GRAPH」とあり、表紙写真下の説明には「世界的ピアノ巨匠 アルトール ルービンシュタイン先生と ホルゲールピアノ」とある。裏表紙は、「HORGEL PIANO」とあり、「小野ピアノ店」の広告で、「本店、六郷工場、本店陳列所ノ一部、支店内部」の写真がある。小野ピアノ店が、ホルゲールピアノの宣伝のために作成した写真グラフ〔写真のみで、表紙も含め64枚掲載〕と思われる。発行年月日の記載はないが、昭和十年 〔一九三五年〕 頃かと思われる。37.8センチ。

   

 ・東京音楽学校高折先生と ホルゲールコンサートピアノ 〔上左〕
  ホルゲールピアノ御愛用の レオニード クロイツア先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 守田貞勝先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 井口基成先生 〔上中〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 黒澤愛子先生 〔上右〕

   

 ・ホルゲールピアノ御愛用の 鈴木清太郎先生(札幌)、
  ホルゲールピアノ伴奏にて演奏中の 世界的巨匠フォイヤーマン先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 阪本規與子先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 原智惠子
  ホルゲールピアノ御愛用の齋藤英子先生

     

 ・ホルゲールピアノ御愛用の ジェームス ダン先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の マキシム シャピロ先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 内野照子先生 〔上左〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 弘田龍太郎先生 〔上中〕
  名ピアニストウイルケンス氏 とホルゲールコンサート、
  ホルゲールピアノ御愛用の 東貞一先生 〔上右〕

   

 ・ホルゲールピアノ御愛用の 宝塚楽長高木和夫先生、
  ホルゲールピアノ伴奏にて歌ふ 船越富美子嬢 〔上左〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 豊増 昇先生 〔上中〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 世界的巨匠フリードマン先生、
  東京市女学校連合音楽会にて演奏中の ホルゲールコンサート於日比谷音楽堂
  ホルゲールピアノ御愛用の遠見トヨ子嬢 〔上右〕

   

 ・ホルゲールピアノ御愛用の 片山信四郎先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 牛島彌生先生、
  日比谷公会堂にて演奏中の 甲斐美和子嬢、
  ホルゲールピアノ御愛用の 伊藤義雄先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 袴田克己先生、
  ホルゲールコンサート伴奏にて歌ふ 世界的声楽家ガリクルチ夫人、
  ホルゲールピアノ御愛用の 内田藤子先生

   

 ・東京音楽学校教授木下保先生と ホルゲールピアノ 〔上左〕
  大阪朝日会館に於て演奏中の マキシム・シャピロ先生、
  ホルゲールピアノ御使用ニテ声楽教授中の リデイア・モーレー先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 佐藤美子先生 〔上中〕
  ホルゲールピアノ御愛用の ダン道子先生 〔上右〕
  大阪室内楽協会演奏会 ホルゲールピアノ御使用にて

    

 ・ホルゲールピアノ御愛用の 宝塚楽長古谷幸一先生 〔上左〕
  ホルゲールピアノと 山田康子先生 〔上中〕
  日本青年館に於けるホルゲールコンサート演奏中の レオニードクロイツアー先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 平井美奈子先生 〔上右〕
  ホルゲールピアノ御愛用の ヤノウスキー先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の カラスロヴア先生

    

 ・ホルゲールピアノ御愛用の 田中規矩士先生 〔上左から1番目〕
  ホルゲールピアノと ブルガー嬢、
  ホルゲールピアノにて演奏中の 永井静子先生 〔2番目〕
  ホルゲールピアノ御愛用の ペルムムツテル氏、
  ホルゲールピアノ御愛用の 永井進先生 〔3番目〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 袴田先生 〔4番目〕
  ホルゲールコンサート三台にて演奏中の 榊原先生 福井先生 土川先生 於青年会館、
  ホルゲールピアノ伴奏にて唄ふ チエンキン先生

   

 ・ホルゲールピアノ御弾奏の 東京高等音楽学院教授の榊原直先生 〔上左〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 長谷川さく子先生 〔上中〕
  ホルゲールピアノ伴奏にて演奏中の 世界的提琴巨匠ヂムバリスト先生、
  ホルゲールピアノ御弾奏の 土川正浩先生 〔上右〕
  ホルゲールピアノ御愛用の 武澤武先生、
  大阪国民会館に於ける 大阪帝国大学音楽部演奏会江藤支那子女史御使用のホルゲールピアノ

   

 ・ホルゲールピアノ御愛用の 高木東六先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 井上定吉先生 〔上左〕
  大阪朝日会館に於ける 原智惠子嬢ピアノ演奏会ホルゲールコンサート使用 〔上中〕
  ホルゲールコンサート伴奏にて演奏中の 世界的巨匠フォイヤーマン先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の 伊達愛先生御夫妻、
  ホルゲールピアノ御愛用の 藤原貞次郎先生、
  ホルゲールピアノ御愛用の モイセイヴィッチ先生、
  ホルゲールピアノ演奏中の 本多信子嬢 於日比谷公会堂 〔上右〕

『楽のかゞみ 全国音楽教育家一覧』 (1910.1)

2013年01月26日 | 音楽学校、音楽教育家

 内表紙には、「創業廿週年記念編纂 楽のかゞみ 全国音楽教育家一覧 松本楽器合資会社」とある。奥付には、「明治四十貮年十二月廿五日印刷 明治四十三年一月一日発行 (不許複製) 編纂兼発行人 山野政太郎 発行所 松本楽器合資会社」などとある。12.1センチ、写真50頁〔各頁3人掲載〕。

 当時の音楽家〔男性118名(外国人7名を含む)、女性32名:計150名〕の写真帖である。

  謹言

  弊社創業廿周年記念として斯道啓発に資せんと全国音楽家一覧編纂を企画せるに当り斯道諸家の深厚なる協賛に浴し爰(ここ)に其刊行を見るを得弊社一同感謝に堪えざる所殊に歳末に際し完成に焦慮し為めに周到なる考察を缺(か)き序列の不同、製版の不鮮明なるは寛大なる黙認を乞ひ奉る

          

 ・伊澤修二氏、上眞行氏、鳥居忱氏 
 ・東京音楽学校 上原六四郎氏、幸田延子女史、瀏道子女史
 ・小山作之助氏、学習院女子部 納所辨次郎氏、マンドリン好楽会 比留間賢八氏
 ・内田夆太郎氏、神奈川県師範学校 小林錠之助氏、東洋音楽学校 鈴木米次郎氏  
 ・女子音楽学校 山田源一郎氏、理学博士 田中正平氏、韓国漢城師範学校 小出雷吉氏

          
 
 ・大阪堂島高等女学校 妹尾繁松氏、大阪府師範学校 目賀田萬世吉氏、東京音楽学校 楠美恩三郎氏
 ・長野県上田高等女学校 依田辨之助氏、東京第二高等女学校 丸山トメ子女史、青木武子女史
 ・高知師範学校 福長竹男氏、東京音楽学校 橘糸重女史、多唱歌会 多梅雅氏  
 ・賴母木コマ女史、二葉音楽会 石原重雄氏、東京音楽学校 島崎赤太郎氏
 ・長尾秀女史、北村季晴氏、高濱孝一氏

          
   
 ・東京高等師範学校 田村虎藏氏、東京音楽学校 前田久八氏、広島高等師範学校 吉田信太氏
 ・札幌師範学校 玉川瓶也氏、鳥取県第二中学校 林重浩氏、京都府第二中学校 野村成仁氏
 ・北海道函館中学校 今野大膳氏、東京音楽学校 安藤幸子女史、台湾国語教師 高橋二三四氏
 ・小倉高等女学校 塚越久賀女史、兵庫県御影高等女学校 米野鹿之助氏、茨城師範学校 片岡亀雄氏
 ・早川嘉左衛門氏、山口高等女学校 黒部峯三氏、長崎師範学校 島村吉門氏

          
 
 ・山口師範学校 松山若拙氏、富山県師範学校 高塚鏗爾氏、東京音楽院 天谷秀氏
 ・長野県師範学校 神山末吉氏、東京成女学校 稲岡美賀雄氏、清国保定府師範学堂 近森出来治氏
 ・愛媛県松山高等女学校 山本静野女史、京都府師範学校 吉田恒三氏、栃木県宇都宮高等女学校 栗本清夫氏
 ・東京音楽学校 杉浦千歌女史、熊本師範学校 入江好治氏、東京音楽学校 神戸絢女史
 ・東京府中学校 鈴木穀一氏、東京音楽学校 岡野貞一氏、高折周一氏

            

 ・福岡高等女学校 中村イシ女史、東京音楽学校 喜多襄女史、久留米高等女学校 新清次郎氏
 ・巌本捷治氏、中村忠雄氏、清国浙江師範学堂 福井直秋氏  
 ・東京音楽学校 吉川やま女史、東京実践女学校 澤田孝一氏、東京音楽社 山本正夫
 ・甲府師範学校 小林禮氏、三重県師範学校 村上一郎氏、東京青山女学校 古澤きみ女史
 ・大阪相愛高等女学校 栗原欣子女史、新潟県高田師範学校 横田三郎氏、岡山高等女学校 赤尾寅吉氏  

          
   
 ・福岡師範学校 松園卿美氏、静岡師範学校 内藤俊二氏、広島師範学校 渡邊彌藏氏    
 ・東京音楽学校 南能衛氏、和歌山師範学校 長澤光治氏、長野県飯田高等女学校 長谷部巳津次郎氏    
 ・徳島県高等女学校 田原美喜女史、岡山女子師範学校 岩倉一野女史、熊本県尚絅高等女学校 成田藏巳氏  
 ・皐月会 天野愛子女史、福井師範学校 安藤弘氏、宇都宮高等女学校 外山國彦氏
 ・東儀哲三郎氏、函館高等女学校 遠藤タキ女史、門司高等女学校 西村甫也氏

            
 
 ・兵庫高等女学校 田中銀之助氏、新潟県長岡高等女学校 若林孫次氏、新潟師範学校 與田甚二郎氏
 ・大津高等女学校 田淵初子女史、神戸市小学校 松本徳藏氏、熊本高等女学校 犬童信藏氏
 ・三重県師範学校 江澤清太郎氏、東京音楽学校 鳥居つな女史、東京音楽学校 川久保美須々女史
 ・東京府第一中学校 鎗田倉之助氏、東京上野高等女学校 森田孝子女史、澤田柳吉氏
 ・学習院男子部 小松耕輔氏、徳島中学校 小串信太郎氏、徳島師範学校 大槻貞一氏

            

 
 ・神奈川女子師範学校 草川宣雄氏、東京府青山師範学校 松岡保氏、静岡女子師範学校 平林たみ女史
 ・富山高等女学校 浅尾初音女史、小倉師範学校 栢森享氏、東京音楽学校 中田章氏
 ・福岡高等女学校 秋山升氏、京都市高等女学校 原田彦四郎氏、青森高等女学校 中島かつ女史
 ・埼玉師範学校 成澤潤藏氏、大塚淳氏、山田耕作
 ・島田英雄氏、大阪夕陽丘高等女学校 杉浦秋乃女史、東京音楽学校 本居長世氏

          
 
 ・群馬県女子師範学校 本多ひろ女史、長崎女子師範学校 副島外喜尾女史、群馬県師範学校 大西正直氏
 ・島根県師範学校 新谷八太郎氏、富山県高岡高等女学校 吉田なほ女史、福岡県浮羽女学校 上野百代女史
 ・宮内省雅楽部 多忠龍氏、宮内省雅楽部 薗廣虎氏、宮内省雅楽部 芝忠重氏
 ・宮内省雅楽部 薗十一郎氏、大阪相愛高等女学校 大村恕三郎氏、宮内省雅楽部 奥好察氏
 ・東京音楽学校 コイベル氏、東京音楽学校 ユンケル氏、宮内省楽部 ドウポラウ并チ氏

          
 
 ・ハイドリヒ氏、東京音楽学校 マイステル氏、ヴ井ギエチ氏  
 ・東京音楽学校 ロイテル氏、陸軍戸山学校 永井健子氏、横須賀 兵団 瀬戸口藤吉氏
 ・大阪陸軍々楽部隊 小畠賢八郎氏、金須嘉之進氏、大橋純次郎氏
 ・和歌山高等女学校 奥村静氏、関西音楽団 甲賀良太郎氏、鎌田伸氏
 ・東京音楽学校 大野朝比奈氏、京都淑女高等女学校 田島教惠氏、中村源之進氏

 松本 ピアノ  金参百廿円以上 金貮千円迄
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「神戸絢子女史」 (1914.1)

2012年11月20日 | 音楽学校、音楽教育家

 

 寅年の名流(三)

 東京音楽学校教授神戸絢子 〔神戸絢〕 の君。独逸 〔実は、仏蘭西〕 仕込みのピアニストとして有名な方ですが、教場以外の楽壇にお出でになつた事はありません。明治十一年のご誕生で、今年は三十七歳、四まはり目の当り年です。

 上の写真と説明は、大正三年 〔一九一四年〕 一月一日発行の『淑女画報』第三巻第一号の口絵に掲載されたものである。

 

 頼母木駒子女史 神戸絢子女史 大音楽会出演ノ為 梅田駅到着ノ光景

    絵葉書:大阪市東区博労町四丁目 中央写真館撮影 三木楽器店印行、大阪開成館

  写真は、左が頼母木駒子、右が神戸絢子である。

 なお、ヴァイオリンの頼母木駒子については、田辺尚雄が、東京音楽学校ヴァイオリン選科でその教えを受けた思い出などを記している(『明治音楽物語』〔藤村操や久野久子の思い出なども記している〕また『田辺尚雄自叙伝:明治篇』など、明治三十九年七月撮影の先生や友人らと一緒の写真もある)。

 

 仏国より帰朝せし閨秀音楽家の実歴
     
     東京音楽学校助教授 神戸絢子

 東京音楽学校助教授神戸絢子女史(三十二)は、一昨年 〔明治四十年:一九〇七年〕 の三月、文部省から選まれたフランスパリに渡り、専らピアノを研究されて、六月十七日めでたく帰朝されました。一日 いちじつ 記者はパリ留学中のお話を承 うけたまは はらうと思つて、東京神田駿河台鈴木町のお宅へ伺ひました。まだ木の香の失せない新しい御門、それに続いて青葉若葉のすがすがしい植込。案内を請ふと、間もなくお二階の広間に通されました。
 やがて優しい衣ずれの音と共に、薄い緑色の洋装をされた女史は、しとやかに出ていらつしやいました。
 『ようこそおいで下さいました。お待たせ申して失礼いたしました。』
 と、つつましやかに御挨拶をあそばしました。御縹緻 ごきりやう のお美しいのに、自らなる愛嬌。わざとらしからぬ温情は頬 ほほ に眼に口にあらはれてをります。真の天才は、あらゆる瑣事にまで流露するものであると聞きましたが、女史の如きは、まつたくそれであらうと思ひました。次に掲げますのは即ち女史のお話でございます。

 『毎日音楽会が二つ三つある』

 申すまでもなく、パリは音楽が非常に発達してをりまして、下流社会の人でも音楽を解しない人はないくらゐでございます。日本で申しましたら、丁度琴三味線をといふ具合に普通の家庭でピアノの一台ぐらゐの備へない家 うち はございません。単に室内の装飾品としても、なければならぬもののやうになつてをります。どんな日でも音楽会の二つ三つない日はございません。男も女も、年をとつた人も、若い人も、皆それぞれ番附を見て、好きなところへ聴きにまゐります。音楽趣味の普及してゐることは、実に驚きますほどで、パリ人で音楽を聴く耳を持つてゐない人は一人もないと申してよいくらゐでございます。

 『厳重極まる官立音楽学校』

 私のまゐりましたのは、フランスでも有名な巴里官立音楽学校でございます。パリは音楽の盛んなところだけに、私立の音楽学校は数へ切れないほど沢山ございます。けれども私立学校は容易 たやす く入学ができるだけに、生徒の学力もまちまちでございますが、この官立音楽学校は学制が非常に厳重で、毎年幾百人といふ多数の応募者の中 うち から、七十人か八十人かの秀才を選抜して、入学させるのでございます。入学年齢は十八歳までで、二十二歳まで在学することが出来ます。このやうに厳重でございますから、この学校に入学出来たといふだけでも、もう立派な音楽家というてよいので、非常な名誉としてあります。男の生徒も随分多うございます。
 私はパリに着きますと直<す>ぐ、その音楽学校の傍聴生となつて、校長のホーレーさんに就いて親しく研究しましたが、その傍ら、ホーレーさんの紹介で、有名なヒリツプ先生にも学びました。
 パリの市中にをりましては、人家は稠密でございますし、それにいろいろな事情が起つて来て、一日音楽を聴いていることができませんから、私は町はづれの或る寄宿舎の一室を借りて、出来るだけ音楽に親しんでをりました。

 『流行嫌ひなパリ音楽生気質』

 一級の生徒は十人か十二人で、家庭から通つてゐる人が多いやうでございます。学校の授業時間は一週間に三度で、大抵二時間づつ教授を受けます。先生では、校長のホーレーさん、その他、リエーメンレスリーヒリツプなどといふ方が最も有名でございます。
 音楽学校の生徒は、一般に極く質素でございます。尤 もつと も中には、流行を追うてゐる人がないでもありませんが、十人のうち九人までは、衣裳でも持物でも、流行を追ふやうなことはないやうです。何しろ流行の中心といはれるパリのことでございますから、流行を追ふとなれば制限がありませんからでもあらうと存じます。
 パリの処女は一体に快活で、家庭も何となく晴れやかなやうに感じます。厳格な家もあり放任主義の家もありますが、総じて自由といふことを尊 たつと んでをりますから、皆ある程度までは解放されてゐるやうでございます。

 『聴衆の熱心は驚くの外なし』

 音楽会は、稀に劇場で開くこともございますが、到る処に音楽堂がございますから、大抵の演奏は音楽堂で開きます。演奏は皆専門的で、ピアノの時はピアノばかり、合奏の時は合奏ばかりといふ風で、一人で数時間づつ演奏をつづけるのが例です。少し有名な人の演奏でもありますと、皆競つて来会する熱心は、実に驚くの外はございません。
 音楽会の一番多いのは十一月頃から翌年の三月頃までで、暑中になりますと、有名な音楽家は大抵避暑にまゐりますから、随つて盛んでありません。入場料はなかなか高価ですから、来会者の多くは中流以上の人ですが、中には下流の人も見受けます。
 音楽堂で一番大きいのはエラール音楽堂です。これはピアノハルプを販売する有名なエラールといふ楽器屋で建てたものでございます。
 私は今年 〔明治四十二年:一九〇九年〕 の三月パリを去つて独逸の伯林にまゐりました。そして著名な音楽家を訪ひ、または音楽会などにまゐりまして、五月九日、マルセーユ出帆のツーラヌ号に搭乗して、無事に帰国いたしました。

  洋楽と家庭

    ピヤノと床の間

 私の居ました仏蘭西は流石芸術の国と呼ばれる丈御座いまして、彼地 あちら の家庭には中々能く音楽趣味が普及して居ります、大抵な家庭には必ずピヤノが一台御座います誰も弾く人が無くても必ずあります、是はピヤノを以て客間の装飾と迄考へて居るからで、日本なら床の間がないと可笑しく思はれる様に、ピヤノは是非客間に無くてならぬ物となつて居ます、彼地の風と致しまして客の訪問は午後で、お客を招きまするは多く晩餐で御座いますが、其後では必ず奥様とか令嬢とかゞピヤノを弾いてお客を楽しませます、又普通の日でも主人が会社なり店なりから疲れて帰つて参りますと、主婦は晩食を勧めた後で自らピヤノ台を開いて一曲面白く弾じて所夫 をつと の一日の疲労を休めます

    音楽の解る耳

 何も私の専門がピヤノであるからピヤノでなければならぬ様に申すではありませんが、凡て音楽の原 もと はピヤノでヴアイオリンなども結構で御座いますが、先づ最初にピヤノのお稽古を少しなさいまして、夫 それ からでないとヴアイオリンも上手には参りません、又ヴアイオリンはピヤノの伴奏がないと奏 ひ かれぬ位のものです、西洋では先づピヤノが家庭にも学校等にも全盛を極めて居ると申しても宜しいので、日本では小学校にはオルガンが必ず御座いますが、彼地ではオルガンはお寺にしか御座いません、勿論彼地と日本とは富の状態が大層違ひますから、四百円五百円、少し良いのになりますと千円以上もするピヤノの日本の家庭に入れることは困難の事情も御座いませうし、他の事物との釣合も取れますまいが、私の希望としては夫々の家庭に相応な琴もオルガンでも何でもよろしうございますから、日本の家庭に音楽趣味を普及して、大人や子供も音楽を聞いて楽 たのし む耳を持つ様になりたいと思ひます

    稽古に良い年齢

 これは私一人の考へかも知れませんが昨今日本の音楽、琴とか三味線とか申す方は洋楽に次第に地盤を蚕食されて居ると思ひます、成程三味線は下町の家庭に深く根ざして居り琴は官吏や純日本的家庭に大層勢力を有して居ますが学校で洋楽を稽古なさるものですから、卒業後も洋楽に趣味をお持ちになる方が次第に増えて参ります殊に上流の家庭にはピアノが今非常なる勢力をもつて居ます、上流の奥様で随分おやりの方もありますけれども、何かと御用がおありなさるもんですから私は止めますから今度は嬢に稽古して下さいなど仰しやいますピヤノのお稽古によい年齢 としごろ はと申しますと、九歳か十歳からですが日本では多く十一二歳からです、夫 それ 以上になりますと指が堅くなつて上達は中々の骨です

    音楽よりも芝居

 私は此の間フイハーモニーの会で帝国劇場でピヤノを弾きましたが、彼処 あそこ は劇場としては立派ですが、音の響きは建築のよくない為か大層悪う御座います、私のが出来が悪かつたのかとロイテルさんの後ろで聞きましたが、矢張り響きがいけませなんだ、先づ日本で音楽に最も適したのは上野、音楽学校の講堂でせう、彼処は日本一と云はれる三千円のピヤノもあります、音楽学校では毎週音楽会を催しまして、土曜には無料日曜には二円取りますが土曜の日には夫はゝ沢山の人で廊下に迄一杯と云う有様ですが、日曜には只西洋人許りと云うてもよい位です、日本人は未だ音楽の趣味が乏しいもんですから二円出す位なら芝居の方が面白いと大抵な方は仰しやつて来 いら しやいません(神戸絢子)

 上の文「洋楽と家庭」は、大正元年 〔一九一二年〕 十二月一日発行の『淑女画報』 第一巻第九号 に掲載されたものである。

 なお、東京朝日新聞 大正八年三月十三日(五)面 には、「神戸女史の光栄」良子女王御教育係としてピアノ御教授 という記事がある。