66歳の貧乏なアルバイター

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

「変わったのは世間ではなく自分」

2024-03-27 06:11:23 | 暴言
少し思った。
変わったのは世の中の風潮ではなく、自分の方なのかもしれないな、と。

昔から世の中はいい加減で嘘ばかりだった。
世間ではデマが垂れ流しだったし、詐欺や事故物件が右往左往していた。
今と変わってない。
昔と変わってない。
自分は完成度を望み、平和を望み、自由を望んだ。
最後に安定を望んでいる。
昔の理想と同じ。

変わったのか?今は。
昔と違うのか?

変わったのは年老いて完成度を望み過ぎている自分の方でないのだろうか?
出鱈目な時代。
それが今なら昔も同じだな。

昔は出鱈目でいい加減だった。
今は細かいものが増えたけれど、基本構造は同じ。
ただ、道具が変わっただけだ。
そう思う。

変わったと思ってる自分の思いが変わっただけなのだろう。
今現在、最新の道具を使うということだけが変わった。
それは、道具の変化を受け入れたら、それだけでいいのかもしれない。
あとは昔と同じように、出鱈目に生きていけば。
それで、それだけで良くないか?

デジタルでいろんな事が便利になったと思い込んでる。
でもねぇ、我々というか人間の生活の仕方はむしろ窮屈になってる気がしないか?
1日の仕事の時間が終われば 会社、職場という場所から離れ そこからの時間は何をしてても他人には分からなかったのは昔である。
当然、何してるか不明だから自分以外の人については全く感知できない。
それを考えたら不安要素なのかもしれない。
が、逆に「そんなの関係ない」と一切 忘れてて良い。

今はいつでもどこでも連絡がつくし、ややもすると他人が自分の居場所を知ってたりする。
画像も見えるし、町じゅうのカメラで録画されていたりする。
監視されてる牢獄の中に似てる。
それが便利と思うならそれでもいいけれど、生活の中に楽になった、幸せの度合いが大きくなった、と言えないと思う。

人の噂も75日
不透明な人の噂さ話はちっちゃな事がどんどん膨らんで町中に広がる。
ややもすると隣町まで広がり国じゅうにすら広まる。
デマも広まるし、良からぬ噂を作為的に言い振り撒くこともあった。
今は昔と違って噂の真偽をネット検索して調べることが誰でもできる様になった。
と、そうは言っても、やはり同じことがネットの中で行われてる。
場所が生身の人の動く空間をから物理的に狭い空間であるはずのネット環境の中だけで完結する様になっただけ。
人の噂も75日
ネットの中でも同じことが繰り返されてませんか?
昔も今も人の世の中は同じだなぁ。

結婚しない若者も増えた。
家庭に未来を感じない?
子供との生活の幸せ感は味わってみないと分からないのだけれど、経験する前に、あるいはそれにチャレンジする前にネットやSNSの情報で幻滅してるんじゃあないのかな?

そういう時代背景に「発展した」という言葉を当てはめて良いものか。
でも、やはりそこは若者はパワーがあるから、時代なりの行動を取ってるらしい。
ある意味、反抗精神とでも言おうか。
一筋縄ではいかない連中が出てくる。
そういう若者には、言わずもがな年寄りが「今の若者は~」と話し始める。
つまり、道具が変わり、やや生活環境の変化があるけれど、人と人との世界は同じ土俵の上で切磋琢磨してる。
そういう様に 人の生活としては同じ暮らし方じゃあないのかな。

しかし、今の環境の流れも結局は昔の様に放浪されて流されて落ち着くところは本来の人の手による生活にもどるでしょうね。
新しい機械も、遊びもたいていはかつてから存在していた伝統のもとに戻って来た気がします。
肉体的に楽をしようとして様々な機器を投入した。
そうして得た仕事の短縮でできた時間でトレーニングジムに行く。
そこで汗をかくことは、なんだか合理性にかけてる様にも感じますがね。
生活の中で生きるために汗をかいて得た報酬こそが最も尊くあるいは愛おしく感じませんか?

六十数年 生きてきて感じるのです。
人は今も結局は同じことをしてるなぁ、と。
ちょっとだけ形を変えてみただけ。
変わったのは私自身が歳を取ったことだけだな。
ちょっと、身体が不自由だな。
そこだけな、そんな感じだ。
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落ち着いて老後の不安を考える

2024-03-26 07:01:02 | 日記
今の世の中のメディアが作為的な扇動してる気がするので、もう少し落ち着いて老後の不安を考えようと思う。
老後とはいつなのか?
私もそろそろ自活するための健康状態はやや低下してるから老後という時期なのか?
そもそもが老後とは何をいうのか?
今も昔も老人は居たろう。
今に始まったことではない。
なのに今更、これからの老後人生とは、と言われてもしっくりこない。
今までの老人は歳を取ったらどうであったのか?
ネット上で出てくる老人の実態は、やたら「これから」のこと、」つまり未来がどうかを言うが、かつての老人、過去の老人はどういう暮らしをしてるのか?
確かに、歳をとって住む場所もなく、駅地下で段ボールで寝てる人も居る。
しかし、それは若い人も居るから、老人に特化してるものでもない。
私の母はどうだったか、今の90歳くらいの人はどうなのか?
そこまでの年齢になるまでどう言う暮らしをしていたのか?

つまり、周囲を見回して見たら、そんなに困っている様子はない。
大きな社会問題とはなっていない様子だし。
とは言っても生活保護受給してる人はある一定人数いるには居る。
ただ国の社会保障費用は130兆円以上あり高齢者だけでなく多くの人が受給してるらしいし、自分の年金にもそれが使われている。

そこで、考える。
今と今後20~30年後の世間の比較。
と言うことになるが、世の中は変化してる。
確かに、人口が減り、社会保障のレベルは下がる可能性はある。
年金も減る可能性がある。
物価が上がる可能性は、むしろ高い。

しかし、そう言う時代にはその時の生活基準が変化する。

かつて、はリタイヤとは言わず、隠居と言った。
子供たちの面倒で生きていた。
子供もまぁまぁ多かった。
違いは大家族だったことは考えるべきかもしれない。
大家族の意味は、今のシェアハウス的な要素は大きいと思う。
個人だけのプライベートな生活レベルは低下する。
しかし、孤独という意味合いも低くなる。

どっちを好むかは、置いといて良いのではないか?
いずれにしても若い頃からの生活の仕方、暮らし方からが大きく左右する様に思う。
老人になってから考えても遅いのだろう。
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ヘルニア

2024-03-25 06:33:49 | 日記
昨日、夕飯時にヘルニアになった様子である。
うちは賃貸の住まいである。
狭いから食卓というものは置いていない。
卓上こたつ程度の低い折りたたみテーブルに正座して食事をする。
息子や娘がいた時も同様で家族四人で正座してコタツ程度の卓上テーブルを囲む。

今は奥様と二人だけだけれど、正座して茶碗を持った時に左後方の脇腹にズキンと痛みがあった。
その時はちょっとだけ、痛いかな、レベルの痛みだった。
その後、前屈をすると痛みがあり、早い動きでしゃがんだり立ったりするとズキッと痛みが走る。
けっこう痛い。
だからヨボヨボの高齢者的な動きでないと動けなくなってる。
トイレに入ってもしゃがんだり立ったりが苦痛である。
生活に支障が出てる。
まぁ、今は仕事はおやすみで、何もしなくても社会的に必要な存在ではないから、あと10日間くらいは寝ててもイイ。
でも寝てるのも飽きるから、じっとしていられないから、動きたいのである。

でもって、10日後は母の一周忌があるので、岡山の山奥まで車で行こうと思っていた。
そこはちょっと困る。
車が無理ならば新幹線で行き、兄に車で送ってもらうか、しないといけない。
思案中。
まだそれまで日にちはある。
考えよう。

まずは今の生活第一だから。

前屈すると痛いのは、ヘルニアだそうな。
しかし、くしゃみをしてもやや痛みがあるのが面倒な印象を持つ。
私はアレルギー性鼻炎が激しいので、鼻を噛むことが多い。
その時も痛みがある。
お腹に力が入ると痛いのである。

困るなぁ。
まぁ、とにかくゆっくりと動こう。
う~ん、ゆっくりでも靴下が履きにくい。
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言葉をどう捉えるか

2024-03-24 18:58:53 | メンタル
「この上何が欲しい」(木枯紋次郎の歌の歌詞)
この言葉をどう捉えるか?
私の解釈は、
まだ甘えるのか、という責めと捉えた。
楽を求める自分に
もうこれ以上の楽はないぞ、と捉えた。
奈落の底に落ちてあとは死ぬだけと感じてる自分に対して、
まだ生きてるじゃねえか、というトドメの言葉。
「苦しいか、じゃあ死ねよ、この上何が欲しいんだ、」というトドメの言葉。
でも、その言葉をきき続けてる限り、まだ自分は死んでない。
聞こえなくなったら、それで終わり。
楽になる。
楽になってないことはまだ生きていること。
その証しが痛みとなり自分を生きてると教えてる。
だから、
生きろ、そしてまだまだ苦しめ、と。
地獄にはまだまだ辿り着いてない、と。
それが、
今が最上の楽な感覚であり、生きてるだけでもっと苦しい苦痛がこのあとに続くのに、
この上何を欲しがってるんだ?と。
生きてる、それだけが最高の生きる証しだろう、と。
それ以上望むことは「死」しかないぜ、と。
それを言葉で顕してる、と。
それが私のこの言葉の捉えかた。

「この上何が欲しい」
ドラマの木枯紋次郎は殺伐としたこの世の旅を綴ってる気がしました。
そして、づっとそれが続いてる。
生きてるかぎり。
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日曜日

2024-03-24 05:03:53 | メンタル
暇な日。
何もしない。
外は雨。
世間と縁を切ったら自由になるのかなぁ。
想像した自由は存在しない。
若い頃、とても苦しい時に頭の中でかかってた唄は
「誰かが風の中で」
歌詞の中に
「血は流れ、皮は裂ける、痛みは生きているしるしだ、いくつ峠をこえた、どこにもふるさとはない、泣くやつはだれだ、この上何がほしい」
苦しみは生きてる証拠。
ながい時を過ごし、いくつも峠とも思える苦難を歩いてきたのか。
そうして生きてる実感を痛いほど感じてる。
この上何を求めてるんだ?
と。
今も頭の中をぐるぐる回る。
もし、納得できないならば
まだまだ苦難の数が少ないんだろう。
もっと苦しめ、と。
そう言うこと。
今はまだまだ安らぎは必要ない。
修行だな(苦笑)
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