Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

コーカス・レース

2008年06月29日 | Weblog
哲学することの一つの根本気分……
一つの根本気分の呼び覚まし……(ハイデガー)。

「人間とは一つの過度か、一つの方向か、地球というわれらの惑星の上を吹き通る一つの暴風か、神々にとっては一つの堂々巡りか厄介者か? われわれはそれを知らない。だが、われわれは見た、人間というこの謎めいたものの中で哲学が生起する、ということを。」『形而上学の根本諸概念』ハイデガー(川原栄峰訳)

ハイデガーによれば、ニーチェの「神は死せり」とは、超感性的な世界(理念、理想等々)の活動力が欠けてしまったということである。無の蔓延、客のなかでも最も不気味な客-ニヒリズム。そしていまや、超感性的な世界の真理は、「商品」という名の下であらゆる物にとり憑いている。スペクタクル社会(ギ・ドゥボール)。

「目で触れる」とは物の側に立つことであり、物の権利を回復することである。「表象」に抗う物の権利。

自分のペンを思考のなかに浸している、アリストレス。
自分の眼を光のなかに浸している、写真家。

ここで言う光とは支持体と触れ合う物質的な光のことだ!デジタル時代にあってさえも、なおもそれは存在する。そういえば、新プラトン主義者たちは、物質を非身体的物質と身体的物質の二つに分けたそうだ。もちろん、新プラトン主義者たちにとっての非身体的物質とは超存在としての神になるのだが、しかし、非身体的物質を眼に見えない力動的なものと考えることも可能だろう。

眼で見ることと触れること。写真の歴史を「眼で触れること」という観点から覗いてみたら、どのような光景が写し出されるだろうか。イメージの物質的諸条件を表象するイメージ。光学の論理から痕跡の論理へ。ただし、痕跡の美学を回避しつつ。「風をみる・山にふれる」(鈴木理策)。

スヴェトラーナ・アルパースはその著『描写の技術』のなかで、物語化(テクスト化)を主眼としたルネサンス絵画に対して、17世紀のオランダ絵画は眼に映る事物を執拗に“なぞる”ように描写したと語っている。“見る(あるいは読む)視覚体制”から“なぞる視覚体制”(小林のりおの『ランドスケープ』を“なぞる視覚”から評価すること。ただし、時代的変化-つまりは時代的・歴史的推移を考慮しつつ)へ。眼で触れるとは、描写された事物が一つの意味に向かう(表象される)手前で、支持体の物質的次元にとどまることを意味しているのではないか。いわば支持体(シニフィアン)の物質性とも呼ぶべきものが前景化するのだ。

確かに、マリオ・ジャコメッリは素晴らしい。たとえば、「自然について知っていること」。遠近法を無化した版画的(痕跡としての)ディテールの露出(プロヴォーグや森山大道なんかよりも凄いかもしれない-微笑)。明らかにこれらの写真は“眼で触れること”を志向している。だからといって、「最新のデジタル技術を総動員してもよくなしえない、魂の芸術である」(辺見庸)なんぞと言ってはならない(こういう言述が良心的知識人の限界だよね-笑。ここにこそ、表現内容のみならず、作品を形式的にとらえなければならない重要性がある)。デジタル時代にはデジタル時代の<生の時>と<死の時>があるのだ。イメージの物質的諸条件は歴史的・時代的なものによって成り立っているのだ。イメージの物質的諸条件を反時代的に利用すること(その意味で、内原恭彦の作品は評価されてしかるべきものである。ことに、写真集『Son of a BIT』の最後を飾る「山田某氏の部屋」を撮ったものは興味深い。ただ、それでもなお、フィルム的あるいは油絵の具的、古い支持体の臭いが鼻につくのだが……)。それこそが「とことわの時間」を獲得する方法である。

ある場所と時代に制約された真理。しかしそれは決して相対的な真理を意味しているわけではなく、ある絶対的・普遍的な“形式的真理”を意味しているのだ。変化の、不変的な形式としての真理。

極端に偏った見方をすること。もちろん、その正当性を主張することなく。偏っているのだから、そもそも正当であるわけがない。それでも偏ることで見えてくるものがある。偏光・偏角の眺め、微光あるいは過剰な光のもとでの眺め。

「例外は、一般と例外自体とを説明する。一般を正しく研究したいと思うなら、ある現実的な例外を見わたすだけでよい。例外は、一般自体よりはっきりと、すべてを明瞭にしてくれる」(キルケゴール-シュミット『政治神学』からの孫引き)。

視点を変えるのではなく、問いを変えること。場所と時間を考慮しつつ。考古学と系譜学。「私たちが考え、述べ、行うことを分節化している、それぞれの言説を、それぞれに歴史的な出来事として扱うこと-考古学」「私たちが今在るように存在することになった偶然性から出発して、私たちが今のように在り、今のように行い、今のように考えるのではもはやないように、在り、行い、考えることが出来る可能性を抽出すること-系譜学」(フーコー)。

写真を感覚の(ということは“見る”ことだけに限定されない)分類行為とみなしてみること。どのような感覚で、世界を、事物を分類しているのか。もちろん、一言で分類といっても、そこにはまず、世界を、事物を最小限の諸要素(知覚)に分解・解体する行為があるだろう。そしてそれらの諸要素を分類し、さらには最適な連接と配列を打ち立てる。これら一連の行為をとりあえず、“写真の分類行為”と呼ぼう。言うまでもなく、写真家はさまざまな感覚で世界を、事物を分類する。しかし重要なことは、新たな分類法を生み出すことではない。むしろ、何がそのような分類を可能にしているのか、あるいは分類そのものの無根拠性を暴露することだろう。

テクノスケープもいいけど、サイト(工事現場)スケープもあるよ。そしてもちろん、キッチンスケープも。ただし、キッチンスケープは宿命的にフォトジェニック性を拒んでしまう(といっても、フォトジェニック性という写真美学の無根拠性を暴露するということだけど。安村崇の『日常らしさ』も広い意味でキッチンスケープだ)。けっして“萌える”ことの不可能なキッチンスケープ。昨今のテクノスケープへの偏愛は、鉄道マニアと変わらないわけだが、けっきょくマシーンエイジへのノスタルジー(空虚さを埋めるための、過去への回帰による充填行為)に過ぎないのだろうか。それとも何か別な現象なのか。

キリスト教における七つの大罪の一つ、怠惰。「怠惰は何でも欲しがるが、努力しようとはしない」(ヤコポーネ・ダ・ベンヴェーヌ)。19世紀に始まる近代は、かのボードレールがそうであったように、怠惰との死を賭した闘いなのだろうか。一方で近代は、“注意”を身体的に管理・制御する資本主義時代でもある。散漫と注意。弛緩と緊張。一瞥と凝視。この隔たりとその振幅こそが、ニーチェの言う近代的ニヒリズムを生み出すのかもしれない。

ニューヨークではレストランなどにおける「カロリー表示」が義務化されたそうだ。肥満が社会問題化するなかで、「自らの身体を管理すべし」ということらしい。肥満が増加すれば、成人病の可能性が拡大し、医療費(社会的コスト)が増大するという論理だ。もはや我々の身体は、ここまで管理されようとしている。国民の健康・安全という美名を建前として。ゾーエー(生物学的な生)の管理・統治。いずれの日か、大食漢が罪人になる日がやって来るのだろうか(アメリカのビジネス社会ではすでに、肥満=負け組らしいが)。で、写真は近代の身体への管理・統治テクノロジーに対してどのような貢献をしてきたのだろうか。たとえば、家族写真(カンバセーション・ピース)。いやそれよりも、写真を撮るという行為、あるいは写真における表現技法と管理・統治テクノロジーの関連について。あまりに飛躍しすぎだろうか。

何故にかくも人は写真を撮るのか?
人は写真を撮ることでいかなる効果(満足)を得ているのか?

ギリシアにおける大地の管理とユダヤにおける群れの管理。「これら二つのゲーム-シテとその市民のゲームおよび羊飼いと群れのゲーム-の両方をわれわれが近代国家と呼んでいるものの中で巧みに結合させることによって、まさしくわれわれの社会は悪魔的な社会となってしまったのです」(フーコー)。そしてもちろんフーコーは、後者の統治形態を分析し・問題化すること-いわゆる「生政治」の重要性を説くわけだが。というよりも、これまでの国家批判は、前者に重点が置かれ、後者の視点が欠落していたということである。

NHKドラマ「バッテリー」(原作あさのあつこ)が好きだ-苦笑。はみ出し(過剰な)者の孤独。イノセントの救い。もちろん、いわゆる予定調和を超えることはないのだけど。

NHKの番組・田中民(舞踏家)の「ようこそ先輩」は素晴らしかった!(土方巽の暗黒舞踏の系譜ってあまり好きじゃないんだけど……-笑)。

写真と「自己の技術」について考えてみること。ここでいう「自己の技術」とは、フーコーが問題にした「個々人が、自分自身によって、自らの身体、自らの魂、自らの思考、自らの行動にいくつかの操作を加えながら、自らのうちに変容をもたらし、完成や幸福や純粋さや超自然的な力などのある一定の段階に達することを可能にする」技術である。写真を撮るということは、これらの「自己の技術」とどのような関わりを持っているのだろうか(もちろん、荒木経惟の「私写真」とも大いに関わってくるが、それだけにとどまるものではない)。写真を撮るという行為における「自己の技術」には、フーコーにならって言えば、表現に関わる一連の義務が含意されているのではないか。表現によって何かを発見しなければならない、表現によって何かを解明しなければならない、表現によって何かを語らせなければならない。こうした義務が構成する自己(写真を撮る自己)とは何か。土門拳と荒木経惟の「自己(写真行為の主体)」は明らかに異なっている。

志賀理江子の作品は素晴らしい(写真集『CANARY』『Lilly』)。虐げられたイメージ。イメージによるイメージの虐待。デジタル時代の森山大道!?(デジタル時代といっても、デジタルカメラを使っているとか、デジタル処理しているとかは関係ない。今現在という時代意識のこと)

辺見庸がジャコメッリの写真について語ったNHK番組を見た。確かに、辺見庸は単なる良心的知識人ではないようだ。「ジャコメッリの写真でさえも資本=コマーシャルに食われてしまうかもしれない」というような意味の発言をしていた。われわれはそうした認識の上でジャコメッリの写真を見なければならないと。ジャコメッリの写真が写される事物からのまなざしであるとすれば、まずは人間的なまなざしのヴェールを剥ぎ取らなければならない。その覆いとしての人間側のまなざしは必然的に時代的諸条件を備えている(とするならば、現代における写真あるいは芸術の第一の使命は、広告的イメージといかに区別するかにある)。とするならば、「写される事物のまなざし」とは、ハイデガーが言うごとく、一つの「アレーテイア-存在するものの開け」そのものではないのか。「物のまなざし」が実在するわけではない。むしろ、一つの開け=裂け目のなかに「物のまなざし」がヌーメノンとして仮想されるのではないか。

たとえば、前述した志賀理江子の写真。ここで言う、虐げられているイメージとは何か。それは人間的なまなざしによって付加された意味性である。志賀理江子は文字通り、被写体を表現(expression)する。被写体を圧縮し、締め付け、搾り出す。被写体を覆っていた意味性を引き裂き、ずたずたにすることであらわになるのは、たとえば、我らの内なる獣性であり、我らの内なる悪であり、我なの内なる最も古い記憶である(この一連のプロセスはフランシス・ベーコンを思い起こさせる)。被写体の内部から排除され、区別された、聖なるイメージ(志賀理江子の写真は一種の心霊写真のようにも思える)。聞くところによれば、志賀理江子の制作方法は、「35ミリカメラで撮影したネガから焼いたプリントを加工、マイクロレンズを使って再撮」(飯田志保子)したものらしい。しかし、厳密に言えば、志賀理江子の方法は何かを加えるという意味では、イメージの加工ではない。むしろ再撮という迂回のプロセスは、イメージを掃き払い、拭うための方法のように思える。

村上隆はすごい!本気で芸術の商品化を徹底しようとしようとしている。「芸術のブランド力を高めよ」(6月1日付朝日新聞朝刊)と。ここにボードレールのような逡巡は微塵もない。しかし、村上隆の戦略は、芸術の「商品への同化」とは違う。彼の戦略もまた、芸術を徹底的に商品化することで、芸術を商品から分離・区別することを狙っている。かの「GEISAI」が「芸術の見本市」であることは明らかであるとしても(まあ、何とかビエンナーレも、「芸術の国際見本市」には違いないのだが)、むしろ独立した「芸術のマーケット」を創出することで、芸術の、商品からの分離・区別を意図しているのだろう。芸術という「絶対的な商品」を創りだすために(その意味では、戦略は対置的ながら、その目的は純粋芸術派と変わらないわけだ)。村上隆の戦略に正当性があるかどうかというよりも、今現在もまだ、150年以上も前の、ボードレールの葛藤(問題)が生き続けていることに驚かざるを得ない。

しかし、「絶対的な商品」とは何か。完璧に使用価値が駆逐され、交換価値のみで成立する物=芸術。たとえば、ピエロ・マンゾーニの「糞の缶詰」?。しかし、果たして物である必要はあるのか。幻影としての芸術、絶対的物神性、絶対的フェティシズム。そういえば、イブ・クラインのパフォーマンス、「非物質的絵画的感性領域の譲渡」(クラインと画商が金箔と領収書を交換し、クラインは金箔を河に撒き、画商は領収書を燃やすというパフォーマンス)や「空虚の部屋」(パリ近代美術館の展示絵画をすべて取り去り、空虚な状態を作り出すというイベント)を思い起こす。その意味では、村上隆はいまだまだ、その交換価値を現実の市場に依存していると言えるかもしれない-大笑い。まあようするに、村上隆の戦略は、芸術作品の評価(他の物との区別・識別)を従来の美術制度(アカデミズムとか、キュレーターとか、批評家とかの判定)によらずに、市場に委ねてしまおうというわけである。

はたしてぼくらは、芸術作品を部屋に飾り、癒しをもたらす、美しい対象として眺めることができるのだろうか。アガンベンは『中味のない人間』(岡田温司他訳)のなかで、ロベルト・ムージルのある草稿を紹介している、「ムージルは、ピアノを弾いているアガーテの部屋に入ってきたときに、ある陰鬱で抗いがたい衝動を感じているウルリヒ(略)を描いている。彼は、この衝動に駆られて、家のなかに「悲痛なまでに」美しい調和を響かせるこの楽器に弾丸を数発発射してしまう」と。もはや芸術作品はわれわれの存在を脅かす危険な代物ではない。カントによって「関心なき快」と定義された美は、「「関心」の領域から抜け出て、単に興味をそそるだけになっている」。こうした近代芸術(=美としての芸術)のあり様に抵抗し、軽蔑したのがニーチェであり、アルトーである。

人類史上、これほど「芸術(アート)」が人々の口にのぼる時代はなかったし、「芸術(アート)」の存在そのものが認められた時代はなかった。ひとたび、「芸術とは何か」と問われたら、千差万別の答えが返ってくる時代なのに。ファッションもアートなら、家具もアートだ。ロック歌手もアーティストと呼ばれている。いまや人が作り出すすべての生産物はアートである。文字通り、「芸術(アート)の時代」だ。ボードレールも、ベンヤミンも、ハイデガーも、芸術作品とすべての生産物の見分けがつかなくなる時代を予想していた。もちろん、かのヘーゲルも、マルクスも。

最近、新訳がなされたアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』を再読した。人類進化の究極を描いたこの作品のなかで、衣食住の足りた世界では、何一つとして(芸術作品の)傑作を生み出すことはなかった、と書かれている。まあ、言い古されたことだが……。かつての古典ギリシア時代のポリス(都市国家)では、確固とした奴隷制度に支えられて、自由市民は基本的に衣食住の問題にわずらわされることなく、高尚な精神ゲームにうつつをぬかし、その正当性を競い合った。我こそが真の政治家である、我こそが真の詩人である、我こそが真の医者である、我こそが真のアスリートである……と。アゴーン(競技)の世界。そういえば、ヘルマン・ヘッセの小説『ガラス玉演戯』を思い出す。この小説もまた、ただただ名誉をかけて「ガラス玉演戯」を競い合う世界を描いたものだったように記憶する。ある意味、我々の時代も、こうしたユートピアのとば口にいるのかもしれない。いずれプラトンのような人物が現れて、すべての生産物にヒエラルキーをもたらす確かな基準をつくりだしてくれるかもしれない。それまではとりあえず、衣食住の問題にもわずらわされながら、我こそが真の芸術作品を創造するアーティストである、我こそが真の写真を撮る写真家である、我こそが真の基準をつくりだす批評家である……と、駄弁を繰り返すほかはない。

明確な敵を見出す術(すべ)を失ったがゆえに、秋葉原の歩行者天国に突っ込むことになる。我々は明確な敵を見出す術を学び、伝えなければならない。

photographeを「写真」と誤訳されてしまったことは、歴史の大いなるあやまちであったのだろうか。原義に近い「光画」-光で画く、光による図像の方が確かに相応しいのかもしれない。しかし、「写真」と誤訳されたことには、いくばくの正当性が含まれてはいはしないか。photographeには、「画く」という、どこか絵画的なコードに制約された感がある。むしろ、「真理を写す」ほうがphotographeの機能に相応しくはないだろうか。もちろん、ここでの「真理」とは現実のことでもなければ、事実を指すことでもない。「真理」とは、ハイデガーの言う「不伏蔵性(あらわにすること- アレーテア)」のことである。「写真」とは、物(被写体)をあらわにする行為そのものなのではないか。あらわにされた物そのものではなく、したがって、「真理」とはあらかじめあるものを見出すことではなく、「見出されるべきもの」である。「写真」と誤訳されてしまったことには、実は「写真」の大いなる可能性が秘められているのではないか。

フォトジャーナりズ(あるいはジャーナリズム一般)の問題は、その中立性を問うことではなく、誰の立場に立ったものなのか、誰の立場に立って機能しているものなのか、その「誰」を読み取ることが重要なのだ。「中立性」を問題にするすべての発言は疑ってかかったほうがいい。「いま、そこで起きていることを伝えたい」なんぞと言って、正義ぶっている写真はもっとも信用ならない。「私は何々を告発・抗議するために伝える」という発言こそ尊ぶべきものである。

森山大道の写真についてしばしば、「分節化された世界に先立つ、身体的・肉体的反応」なんて言われるけど、身体的・肉体的反応が本当に「分節化された世界に先立つ」ことになるのかしら。むしろ、通常、身体的・肉体的反応こそ、最も「分節化された世界」にどっぷり浸かったものじゃないの?(現象学的私への無反省的な信頼?)。運動・感覚的反応。酔っ払っても無意識のうちに帰路についているように-笑。したがって、身体的・肉体的反応が重要なのではなくて、それによって得られたイメージをどう操作するかが重要なのである。同様に、撮影行為における無意図性・無意識性(ノーファインダー、スナップ等々)が重要なのではない、そこで得られたイメージの使用こそが問題となるのである。

まったく旧聞に属するが、小原真史監督の『カメラになった男』のあるシーンを思い出した。この映画は中平卓馬のドキュメンタリーだが、そのなかで、沖縄でのあるイベントを撮った場面(おそらくは東松照明の沖縄展?)があった。壇上には、東松照明を筆頭に森山大道、中平卓馬、そして港千尋が、さらに客席の横には荒木経惟がいる。これはまさに日本写真史の縮図であった。一人、東松にかみつく中平。苦笑いをしながら、超然さを装う東松。なかに入って「まあ、まあ」と言ってとりつくろうとする森山。爆笑しながら茶々を入れる荒木。そして何とかまとめようとする港。それぞれの写真観があらわれた瞬間であった-大笑。あらためて言うまでもないが、ぼくは中平卓馬の身振りに最も好感をもつ。あくまでも「敵」を明確にしようとする中平と、「敵」が不明確であることを「良し」とする輩。

深川雅文はその著『光のプロジェクト』のなかで、「関数」としての写真について語っている。写真を関数的に分析する視点をもつことで、写真表現の力点を「写す/写される」関係から、「変換する」あるいは「移す」という関係にシフトさえることができると。たとえば、深川は森村泰昌の作品について、「森村作品の自らをイメージに代入することによる変換システムをg(x)とすれば、xには森村自身が代入される。名画をなぞる変換システムをf(x)とすれば、森村作品の関数は概略すればf(g(x)という関数として翻訳することも可能だろう」と述べている。深川が言う「関数としての写真」は、変換システムそのものを問わなければ、実は何も何も言っていないことに等しい(「関数」としての写真という観点はきわめて重要である。実際、ぼくも以前、このコーカス・レース上で、写真を現実の関数と見るべきではないか云々と記している)。たとえば、レンガー=パッチュの「世界は美しい」的写真もまた、変換システムの一つである、「生き生きと見せる」写真も変換システムの一つである。「写す」から「移す」、あるいは「サブジェクト」から「プロジェクト」へという視点に移行したからといって、何かを言ったことにはならない。相変わらず、その変換システムによって、写真の機能を「現実を暴露すること」に求めるつもりなのか。そうではなくて、その変換システムの仕組み、構造こそを問わなければならないのではないのか(その視点に立てば、森村泰昌の作品など、何ほどもない!)。ある種の変換システムが何故に不可視のものを不可視のままにしてしまうのか。モホイ=ナジの限界を問うとすれば、変換システムを「光の造形性」に抽象化・形式化(それをカント的美学化と呼ぼう)してしまったことなのである(それはまた、抽象絵画を中心としたモダニズム絵画の試みと呼応することになる)。

関数としての写真。Pを現実とすれば、関数として写真(イメージ)=(x)は現実との関係において変換されたP(x)となる。しかし、当然ながら、現実のPはP(x)でもある。写真はP(x)の関数(x)となる。さらに写真は(P(x)(x))の関数(x)となる。さらに……。このPは無限の()が続く(映像の時代といわれるゆえんである)。シニフィオンの連鎖。そして変換システムとしての関数(x)もまた多様であり、無限に置換可能となる。f(x)、g(x)、h(x)……のように。だから何だと言うのだ!-大笑。

あくまでも、重要なことは、この関数(x)がPに対してどのような関係にあるのか、どのように機能しているのかを問うことなのだ。この変換システムの機能を支えるものこそが、写真(イメージ)を支える物質的諸条件(レンズの効果から、撮影者の位置、支持体、流通メディアまでも含む)である。写真(イメージ)を読むとは、この物質的諸条件の関係性を問うことである。

写真(イメージ)の物質性、物質的諸条件によるイメージ、写されたもの(あるいは見る側が見てしまうもの)。物質性・諸条件の構造(イメージそのもの)・写されるもの。この三つの位相の絡み。

写真行為の三つのトポス。現実・第一に見る者(撮影者)・二番目に見る者(見る側)。この三つのトポスの絡み。

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