歯科医物語

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まさか私が? 直腸がんステージⅢbと診断

2023-01-21 07:57:26 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
まさか私が? 直腸がんステージⅢbと診断 61歳記者の闘病生活


私も同じ大腸がんSTAGE3b

術後6日目の記者。何本もの管につながれシャワーも浴びられず、ひげも伸び放題だ=2022年11月10日午後7時40分、伊藤信司撮影



 

 毎日新聞彦根通信部で記者を務める私(61)は昨年秋、ステージⅢbの直腸がんと診断された。11月に患部を20センチほど切除し、12月からは抗がん剤治療もスタートした。リンパ節転移があり、5年生存率は約50~70%と宣告されている。還暦になるまで病気欠勤もなかった私にとって、まさに秋晴れの野原で雷に打たれたような気分だった。がん闘病では生きる意欲を保つため、仕事を続けることも肝心という。かくなる上は治療と記者活動の両立を目指し、ありのままの日常をつづっていきたい。







 ◇慢性の下痢に悩む  昨年初夏から慢性の下痢が続いていた。便に血が混じることもあったため、仕事の合間に肛門科や消化器科で診てもらった。しかし「いぼじ」「神経性の腸炎」などと、いずれも軽症と言われた。  処方された下痢止めや整腸剤を飲んで様子を見ていたが、症状は悪化。7月には取材先で便意を催し、しゃがみ込んでかかとで肛門を押さえ、何とかしのぐほどになってしまった。  私は20年近く東京本社で働いた後、2018年から名古屋市の中部本社での勤務、20年に彦根通信部に着任した。妻子が住む自宅は千葉県船橋市にあり、単身赴任生活は4年を超えている。新型コロナウイルス禍もあり外食は控え、スーパーの総菜なども利用して栄養バランスには心掛けていたつもりだ。しかし、忙しさの中で朝食や昼食を抜き、埋め合わせに夕食を食べ過ぎ、酒量も増えてしまうのが実情だった。





  7月に自宅に戻った際、妻は私の不調に気付き、「大きな病院で検査を受けてみたら」と勧めてくれた。1カ月以上続く下痢にただならぬ予感はあったが、重い病気が見つかることに恐れがあった。同時に連日の猛暑で「ドクターストップでビールを止められたらつらいな」との甘え心もあった。  医者いらずの半生だったし、今回も自然に良くなるのでは――と高をくくり、精密検査を秋まで先送りしてしまった。 







 ◇打ち砕かれた淡い期待  「直腸S状部が異常に肥大しています。血液中の腫瘍マーカー値も高く、これは恐らくがんでしょう」  10月7日、中部本社時代の知り合いに教えてもらった名古屋駅近くの総合病院でようやく精密検査を受けた。重病を否定してもらえるのでは、と淡い期待があったが見事に打ち砕かれた。  病理組織の検査結果も出て「直腸がん」と確定。しかし不幸中の幸いで、他臓器への転移は見つからなかった。自分でもこの病気を学ぼうと、図書館で解説本を何冊か借りて熟読した。「直腸がんや大腸がんは比較的おとなしく、治りやすい」との記述があり、少し心が静まる。 






 しかし10月20日、手術に向けた最終説明で主治医からがん進行度が「ステージⅢb」だと知らされた。腫瘍が腸管外壁まで達しており、周辺リンパ節も最大限切除するという。  最近出版された書籍を見ると、直腸がんステージⅢの5年生存率は63%となっていた。インターネット情報でも同様の数字がしばしば出ており、再び気持ちが沈んでしまった。





  ◇身に染みた周囲の温かさ  子供の頃から医者や病院が嫌いで、予防接種も1カ月前から気に病むほどだった。そんな私が生まれて初めて入院し、手術で腸を20~30センチ切るはめになった。最近は体への負担を減らすため、腹部に数カ所穴を開けるのみの「腹腔(ふくくう)鏡下手術」が増えている。しかし私の場合は切除範囲が大きく、下腹部を切り開く従来型の手法を取ることになった。  毎日新聞でも連載を持つ中川恵一・東京大特任教授の著書によると、がん診断を受けた患者が1年以内に自殺するリスクは通常の20倍以上で、告知直後の気分の落ち込み、うつ状態には特に注意が必要だとしている。  とはいえ、住んでいる通信部をしばらく空けることになり、大人として周囲へのあいさつは欠かせない。しかも今年度は地元自治会の役員も務めている。  10月15日にあった自治会の役員会で、直腸がん手術により当面は自治会の職務も果たせないと参加者に謝って回った。「留守宅は見守るので心配しないで」「大腸がんを完治させた友人がいる。きっと大丈夫」などと励まされ、ご近所の温かさが心に染みた。 





 ◇同窓生からのエールに涙  血便がひんぱんになり、肛門が圧迫される感じも強まってきた。予定を数日繰り上げて休職に入る。千葉県船橋市の自宅に戻り、妻と腹帯などの入院用品を買い出しに行った。  それらの持ち物に名前を書いたり、手術説明を読んだりして過ごしていると、高校時代に同窓だった女性から久々に「元気にしてる?」と無料通信アプリ「LINE(ライン)」のメッセージが届いた。別の同窓生の連絡先を教えてほしいとの内容だったが、何というタイミングだろう。  「実は直腸がんステージⅢが判明し、来週に手術予定」と返すと、「同窓女子の間で大騒ぎになってる」「がん治療を経験した男子たちが伊藤君に会いたがってる」と矢継ぎ早にメッセージが来た。  大手術を前に、仲間からの励ましに涙が出た。ふと野球部主将だった級友が数年前に悪性リンパ腫で急逝したことを思い出す。彼の敵討ちのつもりで何としても生き延びようと思いを新たにした。 






 ◇初めての手術に緊張  11月2日に入院し、名古屋駅前の高層ビル群を望む個室に入った。食事はおかゆに卵豆腐など、消化しやすいメニュー。3日は朝から北朝鮮がミサイルを発射し、病室のテレビは終日そのニュースで騒がしい。術前最後の夕食はサプリ飲料3本のみ。夜には下剤を2種類飲み、胃腸の内容物をすべて排出した。  手術当日の4日。朝からシャワーを浴び、ヒゲをそって身を清める。病室に来た看護師らがペンで腹に手術用の目印を何カ所か付けていった。「万が一、人工肛門を設ける際はこのあたりでいいですか」などと確認され、緊張感が高まる。  正午過ぎに妻とともに手術室に向かう。「北朝鮮のミサイルが飛んでこなければ大丈夫だよ」と虚勢を張り、入り口で別れた。金属製の器具類に囲まれた室内で高さ1メートルほどの手術台に上がる。背中に麻酔管を入れ、酸素マスクをかぶせられると、一気に意識が遠のいた。




  「はい終わりました」。医師の呼びかけで目が覚めた。直腸がんの手術を終えた私は既に手術室から集中治療室(ICU)のベッドに移っていた。「無事済んだよ」と妻が傍らでささやく。「何時間たったの」と聞くと、「ちょうど5時間半」と教えてくれた。  全身麻酔が解けた瞬間、寒気で思わず体を丸めた。すると今度は切ったばかりの腹部が猛烈に痛む。しかし術後の人間はさまざまなチューブや計測器でつながれ、動くこともできない。これから24時間は絶対安静で、ベッドから下りることもできないと聞かされた。  手術初体験の身としては、管につながれて宙づりのような状態になったのが最もつらかった。おりに閉じ込められて身動きが取れない動物になったような気分だった。





  ◇傷口は痛むが命を実感  ICUから一般病棟に移っても尿道管や腹腔(ふくくう)ドレーン(排管)、点滴類は抜けなかった。リハビリで術後2日目から歩行訓練が始まった。早期の社会復帰には早く体を動かしていくことが大事だという。しかし、たびたび体に管が絡まり、気がめいる。くしゃみやせきをすると、傷口が癒えていない下腹に衝撃が走る。寝ているときも痛みが怖くて寝返りも打てず、体がこわばって熟睡できない。いつまでこの泥沼が続くのか――。治療はまだ始まったばかりだが、先が見えずに命を絶ってしまう長期療養患者の気持ちが少し分かる気がした。  術後4日目、やっと背中への麻酔点滴、尿道管が抜けた。自力で排尿可能になり、生きた心地がする。食事も重湯から3分がゆに変わり、茶わん蒸し、鶏だんごなどおかずも増えてきた。精神的にも余裕が出て、妻や職場の上司にもようやく近況をメールで伝えることができた。  夕方、テレビを見ていると皆既月食が始まると聞き、病室から夜空を見上げた。赤黒く染まった月が欠けていき、再び満ちていく姿に宇宙の神秘を感じ、手術成功の喜びを初めてかみ締めることができた。 


 


 ◇新たな試練も  その後は連日リハビリ室で自転車こぎなどに励み、看護師からも褒められるほど回復が進んだ。予定を繰り上げて術後10日目で退院できた。通信部に戻ってきて「この調子なら12月から仕事の試運転を始め、年明けから完全に職場復帰できるのでは」と楽観的な気分になった。  ところが私のような進行がん患者には、患部切除後にも大きな試練が待っている。再発の恐れが約3割あるため、殺細胞性の抗がん剤投与を半年ほど続ける必要があるのだという。  12月1~3日に再入院し、まずオキサリプラチン(白金製剤)の点滴注射を受けることになった。
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新型コロナ 5類移行

2023-01-21 07:50:17 | ☆エッセイ・コラム
一番困るのはやはり医療機関であろう

直接診る 内科 小児科 呼吸器科や

それ以外の医療機関でも

患者の扱い方を 医師会 歯科医師会で紹介すべきだと思う


 
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「どうする家康」大河ドラマ館

2023-01-21 07:40:15 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)

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坂本龍一を突き動かしてきたものとは。

2023-01-21 07:15:29 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
坂本龍一を突き動かしてきたものとは。「世界のサカモト」のYMOから新作『12』に至るキャリアをたどる
2023.01.20 Fri
 
 

 

2022年12月11日(日)、オンライン・ピアノコンサート『Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022』が世界各国へ配信された。配信に向けて坂本龍一は「ライヴでコンサートをやりきる体力がない――。この形式での演奏を見ていただくのは、これが最後になるかもしれない」と語った。しかし、配信当日にわれわれが目の当たりにしたのはこれまでの音楽人生を背負い、いまもなお挑戦を続ける坂本龍一の姿だった。

 


坂本龍一によって生み出された革命的音楽とその創造性は、Yellow Magic Orchestra時代を知る古くからのファンのみならず、現代の若き音楽リスナーの心を震わせるものがある。「戦メリの坂本」として知っている若者も、彼の音楽的ヒストリーとその姿勢に触れることで、新しい「坂本龍一」に出会うことがきっとできるだろう。




そこで前作『async』から約6年ぶりとなるオリジナルアルバム『12』がリリースとなったいま、坂本龍一のコンプリートアートボックス『2020S』の制作過程を更新してきた連載『2020S BEHIND THE SCENE』にて公式インタビューを務めたライターの宮谷行美が、坂本のこれまでの音楽人生の歩みを振り返る。



 

YMOでの商業的成功と『戦メリ』で拓いた映画音楽への道

3才からピアノを始め、大学院時代よりスタジオミュージシャンとして活動していた坂本龍一は、1978年に細野晴臣と高橋幸宏とともにYMO(Yellow Magic Orchestra)を結成。シンセサイザーとコンピューターを組み合わせた革新的音楽を世に発信し、テクノ / ニューウェーブムーブメントを代表する存在となった。




1970年代にKraftwerkらが先駆けとなった、当時最先端の電子楽器を用いた新しいポップソングの様式である「テクノポップ」に多彩なアイデアと実験性、東洋的要素を加えたYMOの楽曲は唯一無二のものとして世界中の熱心な音楽リスナーたちを魅了した。一方、国内ではアイドル的人気を博し、商業的成功を収めた。




坂本龍一
1952年東京生まれ。1978年『千のナイフ』でソロデビュー。同年YELLOW MAGIC ORCHESTRA(YMO)を結成。散開後も多方面で活躍。映画『戦場のメリークリスマス』(大島渚監督作品)で英国アカデミー賞を、映画『ラストエンペラー』(ベルナルド・ベルトリッチ監督作品)の音楽ではアカデミーオリジナル音楽作曲賞、グラミー賞、他を受賞。常に革新的なサウンドを追求する姿勢は世界的評価を得ている。2014年7月、中咽頭癌の罹患を発表したが、2015年、山田洋次監督作品『母と暮せば』とアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督作品『レヴェナント:蘇えりし者』の音楽制作で復帰を果した。2017年春には8年ぶりとなるソロアルバム『async』を、同年末よりICC(東京)において新作のインスタレーション『IS YOUR TIME』を発表。その後も多数の映画音楽制作を手掛けるなどハイペースの活動がつづいている。




一方、坂本はYMO結成からほどなくして自身初のソロアルバム『千のナイフ』(1978年)でソロデビューを果たした。YMOと並行しながらユニット活動や楽曲参加、プロデュース業など精力的に活動し、1982年にはRCサクセションの忌野清志郎とのシングル“い・け・な・いルージュマジック”をリリースし、CMソングとしてヒットを記録した。
 



忌野清志郎+坂本龍一 “い・け・な・いルージュマジック”を聴く



 


 
そして1983年公開の映画『戦場のメリークリスマス』で、坂本は映画音楽家としてキャリアをスタートさせる。大島渚監督本人から出演を直談判された坂本は、とっさに「映画音楽をさせてもらえるのであれば出演する」と答えた(※)。大島はその場ですぐに了承し、坂本はヨノイ大尉として映画に出演、そして後世に残る名曲“Merry Christmas Mr. Lawrence”を生み出した。



 
映画は大きな反響を呼び、坂本の音楽は高い評価を受け、『英国アカデミー賞』作曲賞を日本人として初めて受賞。わずか30秒で思い浮かんだというメロディーが、彼を世界へ導いた。





※:婦人画報「【坂本図書 第6回】坂本龍一 人生を変えた、大島渚監督との出会い」参照(外部サイトを開く)



坂本龍一 “Merry Christmas Mr. Lawrence”を聴く
同作で『第36回カンヌ国際映画祭』に出席した際に、大島の紹介でイタリアを代表する映画監督ベルナルド・ベルトルッチに出会い、1983年YMO散開(解散)後の1987年公開の『ラストエンペラー』に出演、音楽をTalking Headsのデヴィッド・バーン、中国の作曲家である蘇聡とともに担当した。

 


これにより『アカデミー賞』作曲賞、『グラミー賞』映画・テレビサウンドトラック部門など名だたる音楽賞を日本人として初めて受賞し、映画音楽の作曲家として確固たる地位を築いた。今日に至るまで、同監督作『シェルタリング・スカイ』(1991年)、『リトル・ブッダ』(1993年)、山田洋次監督作『母と暮せば』(2015年)、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作『レヴェナント: 蘇えりし者』(2016年)、最新作にはコゴナダ監督作『アフター・ヤン』(2021年)など、数多の映画音楽を手がける。

 


 



 


 




 
坂本龍一 “The Last Emperor(Theme)”を聴く
Alva Noto & Ryuichi Sakamoto “The Revenant Main Theme”を聴く
坂本龍一 “After Yang - Main Theme - solo”を聴く
YMO散解後は矢野顕子らと「MIDIレコード」を設立し、ソロ作品のなかでも名作として名高い『音楽図鑑』 (1984年)をリリース。以降はニューヨークに拠点を移し、数々のソロアルバムやアルヴァ・ノトやクリスチャン・フェネスなどの音楽家との共作のリリース、“energy flow”をはじめとしたタイアップ、オペラ『LIFE』(1999年)の制作、多方面で活躍するアーティストとのジャンルの垣根を超えたコラボレーションなど、現在まで多岐に渡る活動を繰り広げている。
坂本龍一の『音楽図鑑』を聴く

坂本龍一を突き動かす、メロディーへの反抗と幼き頃からの探求心

坂本は10代の頃にピアニストの高橋悠治やジョン・ケージらのパフォーマンスをきっかけに現代音楽に目覚めて以降、幾度も「メロディー」に抗ってきた。メロディーにはさまざまな感情や想いを喚起させる力がある一方で、つくり手のエゴが押し付けられているような感覚にもなりうる。そのため坂本は、音楽構造そのものに密に交わるメロディーとなるまで熟考し、削り、整えていった。




『Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022』©2022 KAB Inc.
そして坂本は、メロディーへの反抗を続けるなかで、偶然の産物が生み出す一期一会のサウンドに惹かれていく。YMO時代に見つけた機械的な精密さ、効率の良さのなかに生じる「エラー」や「ノイズ」から、より人間の意図が介入できないサウンドや歪み、揺れの魅力へのめり込んでいった。
そうして生まれたのが、2009年にリリースされた『out of noise』である。この作品で坂本は、音楽の「脱構築」を試みた。ワンフレーズを少しずつずらして重ねる“hibari”、“composition 0919”や、坂本のピアノの即興に合わせて他楽器が異なるテンポで鳴る“still life”などから整列された音楽の型を破り、北極圏で録音した氷や水の音、洞窟に響く鈴の音を使用した"ice"、"glacier"を通して、自然が放つ唯一無二の美しさとその奥ゆかしさを音楽に昇華させた(※)。
「音楽はメロディーではない」というかねてからの主張を大きく掲げるとともに、自然や人間などから生まれる不安定さ、非同期のなかに生じるノイズにこそ抗えない美があるということを強く教えてくれる作品となった。
※:坂本龍一『out of noise』初回限定盤付属のライナーノーツ、

 



commmonsmag、ドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto:CODA』などを参照
坂本龍一『out of noise』を聴く
坂本はさらなる「非同期な音楽」を求め、次作『async』(2017年)を完成させた。よりパーソナルな制作環境に身を置き、メロディーではなくサウンドのレイヤリングをより重視した。そして環境音に和楽器やピアノの音などを取り入れ、近代的な音楽と逆行したいという意思を反映させた。東日本大震災の際に津波に襲われたピアノを使用したという“ZURE”では、ノイズの隙間に調律の狂うピアノが高らかに鳴った(※)。




調律が狂うということは、ピアノ本来の音に戻ろうしているということでもある。制限が解かれた津波ピアノは、坂本にとって長年求め続けた「自由」そのものだったのかもしれない。
※:OTOTOY「坂本龍一『async』について語る──メール・インタヴュー」参照(外部サイトを開く)





坂本龍一『async』を聴く
クラシック音楽や「民族音楽」が彼の音楽的ルーツであることは言うまでもない。しかし、彼の音楽活動やマインドの根幹にあるのは「聴いたことのない音を知りたい」という純粋な探求心ただひとつなのではないか。
雨の音も呼吸する音もホワイトノイズも、すべてが音楽となり得ること。そしてわれわれ人間と同じように楽器たちもまた、自然の恩恵を受けた産物である。それらの事実は、坂本に果てしない自由を与えるとともに、幼き頃からの探求心を絶えずくすぐり続けるのだ。





最後まで音楽をつくり続ける──「生」を提示する『12』

月刊文芸誌『新潮』2022年7月号より、坂本龍一による自伝「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」の連載がスタートした。連載開始にあたり、坂本は「自分の人生を改めて振り返っておこうという気持ちが強くなっている」と述べた。そう考えると、『Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022』は、キャリアを総括する選曲だったように思える。





あの日、坂本は衰えた身体と向き合いながらも、かわらずみずみずしく澄んだピアノの音色を奏でた。身体のなかで生まれたエネルギーは水のようにしなやかに流れ、指先を伝う。そして鍵盤の上で紙に水が滲むようにじんわりと広がり、音となって柔らかく響く。そんな一連の光景が見えるような気さえした。
既存曲にはいまだからこそできるさまざまなアレンジを施し、われわれに新しい楽しみを届けてくれた。まるで水が雨にも霧にも氷にも変化するように、坂本の音楽は年月をかけて多様に変化していくのだろう。これからもずっと。
坂本龍一“Merry Christmas Mr. Lawrence” 『Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022』より
そして約6年ぶりにリリースされるニューアルバム『12』は、がんとの厳しい闘病生活のなかで「日々のスケッチ」として制作された音楽が集う作品となる。主にピアノとシンセサイザーで構成されており、坂本の息遣いもそのまま録音されている。





最後の曲”20220304“には、2020年に制作したアートボックス『2020S』で坂本龍一が大層気に入っていた陶器の音も使用されていた。それぞれの曲名は作曲日の日付となっており、日を追うごとに変化する坂本の心情を垣間見るという楽しみもあるだろう。
また『12』は、『out of noise』『async』を経て、より強固となった坂本の「響き」へのこだわりや興味が、より体感的かつ感覚的にとらえられた楽曲群であるようにも思う。静かな環境で聴けば、ノイズともとれる細やかな環境音まで隅々をとらえることができ、まるで坂本の生活や感覚とダイレクトにつながるような気がした。一方、街の喧騒のなかで聴けば、騒々しさのなかからメロディーや音の余韻がじんわりと浮かび上がり、落ち着きや安らぎを感じさせた。音楽にトリップするというよりも、自身の日常と音楽がつながったような感覚だ。





「あえて手を施さない」ことが、聴く環境で異なる響きや印象を与えているのかもしれない。そこには流麗なピアノも華やかな装飾もない。その分、心地のよい静けさと聴く人の心をやさしく撫でるような温かさがある。あえて手を施さず残した音楽のスケッチたちは、坂本龍一の「生」をありのまま提示した。
『Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022』©2022 KAB Inc.





「ラストライブ」があったとはいえ、過去の『新潮』で「敬愛するバッハやドビュッシーのように最後の瞬間まで音楽をつくれたらと願っています」と本人が述べていたように、最後の最後まで、彼は音楽をつくり続けるに違いない。
また『2020S』の制作時、生物学者の福岡伸一との対話で「非線形的で時間軸がない、順序が管理されていない音楽をつくりたい」とも述べていた。
音楽は時間軸があってこそ成立する芸術、という概念に対して挑む坂本の姿勢に、新しい音楽の誕生への期待を寄せるとともに、ここからも続く坂本の音楽人生をしかと見届けたいと思う。


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小児文庫 山本悦子紹介

2023-01-21 07:06:51 | ☆個人日記




 

 

 


 

 

 

 


 

 

 

 

 

 
 
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