「死」とは何か
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2020年公開の映画『オールド・ガード』では、シャーリーズ・セロン演じる主人公は、数百年の命を与えられ、様々な時代を、人々を救う英雄として生き続ける。 もとより、この映画は単なる娯楽作品であるが、現代の最先端生命科学は、この「超長寿命」を現実的に追求しており、その急速な進歩は、数十年の間に、寿命を飛躍的に延ばす可能性を示唆している。
しかし、仮に生命科学や医学が人間の寿命を無限に延ばしたとしても、それが「不死」の実現を意味するわけではない。なぜなら、人間が命を失うのは、病気や老化だけではないからである。人生においては、交通事故や火災など、人間の肉体そのものを破壊し、消滅させてしまう出来事がある。 もし、そうした出来事をも超え、人間の「不死」を実現しようとするならば、未来学者のレイ・カーツワイルが『ポストヒューマン誕生』で予見したように、人間の頭脳の内容をすべてコンピュータに移植し、保存しておく技術の開発を待つしかないが、筆者は、そうした技術の可能性には懐疑的である。
この「不死への願望」は、人類始まって以来の「永遠の願望」でもあるが、筆者は、そもそも「不死」が実現した社会が、本当に幸せな社会であるかについても、疑問を抱いている。 かつて、漫画家の手塚治虫が、その代表作『火の鳥』において、主人公が「永遠の命」を与えられ、どれほどの悲惨と悲劇を経験しても死ねないことの苦悩から、最後には「殺してくれ!」と叫ぶシーンを描いているが、これは、手塚治虫らしい深い洞察であろう。 実際、人類の思想を顧みるならば、「死」というものは、必ずしも「恐怖」や「絶望」として受け止められているわけではない。
「死」を「安らぎ」や「救い」と考える思想も、明確に存在してきた。 筆者は、若き日に、原子力工学の研究者として、唯物論的な思想を抱いて人生を歩んできた人間であるが、それゆえ、「死」とは「無に帰する」ことであり、それは、ときに、人間にとって、「生」の苦悩や苦痛、「エゴ」の葛藤や煩悶から解放される「救い」にもなると考えてきた。 しかし、一方、世の中には、「死後の世界」を想定する思想も、数多く存在する。 例えば、リドリー・スコット監督の名作映画『グラディエーター』では、主人公の死に際して、仲間は“See you again.”と語り、映画『Xミッション』では、力尽きて崖から転落する寸前、仲間に対して“See you soon.”と語る人物が描かれている。 このように、「死後の世界」を想定し、その世界で再び会えるという物語は、ときに、愛する人を失ったとき、我々の心を深く癒してくれる。
「死」があるからこそ、「生」が輝く
また、スウェーデンの海洋学者オットー・ペテルソンは、亡くなる直前、「死に臨んだとき、私の最期の瞬間を支えてくれるものは、この先に何があるのかという、限りない好奇心だろう」と語っている。さらに、「輪廻転生」を信じるダライ・ラマ法王14世は、あるインタビューで、いつものユーモアを交え、「死ぬのが楽しみだ」と答えている。
実は、筆者は、これまで、こうした「死後の世界」を想定する思想は、人類が「死の恐怖」から逃れ、「死」を受容するための「救済の物語」であると考えていた。 しかし、近年、筆者の専門でもあった最先端量子科学の世界では、我々の意識の記憶が、死後も存続している可能性を示唆する仮説が提示されている。 それは「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」と呼ばれるものであり、この宇宙に遍在する「量子真空」(Quantum Vacuum)の中に、この宇宙で起こった出来事のすべての情報が、ホログラムの波動情報として記録されているという仮説である。 この仮説については、拙著『運気を磨く』
において詳述したが、もし、この仮説が正しいとすれば、我々の意識は、肉体が消滅した後も、何らかの形で存続している可能性がある。 しかし、仮に、そうした形で「死後の世界」が存在するとしても、やはり、この世界で与えられた、この人生は、一度かぎり。この人生には、いずれ終りがやってくる。そのことを覚悟するからこそ、我々は、かけがえの無いこの一瞬を慈しみ、精一杯に生きようとするのであろう。 されば、我々が気づくべき、一つの真実がある。「死」があるからこそ、「生」が輝く。 そのことに気づいたとき、人生の風景が変わる。 そして、この人生を生き切る、覚悟が定まる。 田坂広志◎東京大学卒業。工学博士。米国バテル記念研究所研究員、日本総合研究所取締役を経て、現在、多摩大学大学院名誉教授。世界経済フォーラム(ダボス会議)Global Agenda Council元メンバー。全国7100名の経営者やリーダーが集う田坂塾・塾長。著書は『運気を磨く』『直観を磨く』
『知性を磨く』など90冊余。