ゆぅすけです。
早速ですが、この世で恐ろしいと感じることは、たくさんあると思います。
死、病気、貧困、戦争、犯罪、事故、地震や津波や台風などの被害など・・・
日々、穏やかに過ごしたいと願ってみましても、毎日のように恐ろしい出来事というものが、この世のどこかで発生しており、何時なんどき、自分の身にふりかかったとしてもおかしくはないほどにであります。
こうしたことを踏まえたうえで、なにがこの世でもっと恐ろしいことなのか・・・と、私なりに考えてみました。
というよりも、これまでも何度もブログで綴ってきたことではありますが。
自分の子供や親兄弟、配偶者や友人といった大切な人たちが、残忍・残酷・悲惨なことに巻き込まれたことを思い浮かべると、これほど恐ろしいことはない。
ということです。
事実、なにかしら事件・事故によりわが子を失った親御さんの気持ちなどを考えますと、なんとも悼まれない感情が沸き起こってきます。
そして「哀悼の意」とは、悲痛な悲しみを背負ったご遺族の方々に対して気持ちをあらわす。ということだと思うようにもなりました。さらにお亡くなりになられた方々に対しては、手を合わせたり、黙祷によって自分の気持ちを捧げます。
そうしたことを、書物を読み知るでもなく、誰々様にお話しを聞き知るでもなく、ただただ自分なりに深く考たならば、まさに大切な人たちがいつも笑顔で健やかでいてくれること、これほどの幸福はないということに尽きるのです。
そして、こうした "幸福感を抱ける" ということは、まさに日頃より、きちんとした危機意識があってこそですから、大切な人が無事に学校や勤務先などから帰宅してきたときには、ホッとしたような安堵感を抱くことにも繋がっていきます。
まぁ、所詮は私自身が悲しみたくないだけですから、こうしたこともまた、自分さえ良ければ的な発想ともいえるのでしょうが、けれども、このような個人主義的思考というものについては、まったくもって嫌悪感や違和感を抱くことはないように思いますし、これこそが古代日本人的な個人主義だとも思うわけです。
この古代日本人的な個人主義の中心的な考え方として、相手のことを心から心配し、思いやればこそ、それは己にも還ってきますが、相手のことを心配もせず、思いやることもなければ、それはそのまま己にも還ってくるという考え方があると思います。
そして、親子、兄弟姉妹、夫婦、友達同士とのつながり、そして近隣とのつながりのなかで、互いに思いやり、心から案じ合えてこその信頼関係であります。
これを失えば、悲惨な事件や事故に大切な人を巻き添えにしてしまう恐れが増すのです。
多種多様な人々とのつながりを大切にしようとする考え方も大事ではありましょうが、しかし、まずはこうした身近な人を大切に想う心があってこそであります。
そうでなければ、所詮は上辺だけでのつながりでしかなく、そこに信頼関係など構築できるはずもありませんし、信頼関係が構築されていなければ、やがては争いの元にしかなりません。
そして、本来、われわれが恐ろしいと考えていること自体が、実はわれわれ自身が生み出しているという事象も数多くあります。戦争や暴力革命や家庭内不和、政治経済の腐敗、治安悪化など、数えればいくらでも出てきそうではありますが、こうした矛盾や本末転倒がなぜ起こってしまうのか、そうしたことも含め、ひとりでも多くの方々が考えていかなければならないように思います。
さらにいえば、宗教的要素や心理・科学的要素など必要ありません。小難しい書物を読む必要もありません。
ただただ大切な人を想う純真無垢な心があればこそなのです。