和貴の『 以 和 為 貴 』

差別と偏見

「差別だ!!」「偏見だ!!」

この日本国内において、こうした声を上げる人たちをよく見かけます。

人種差別、差別、女性差別、身障者差別、労働者差別など・・・。

世界人類史などを振り返りますと、過去500年以上もの永きに渡り、白人たちが有色人種に対して行った奴隷差別の悲惨さは、現代わが国における差別問題とは比較にならないほどに過酷なものでした。

奴隷化された有色人種の多くは、強制労働を虐げられ、不当な罪により拷問や重い刑罰を受け、家族との絆は裂かれ、生まれ育った地域を荒らされるなど、こうした人々の気持ちをよくよく考えますと、現代わが国における差別問題などは、まさに"子供ダマシ"とも思えるのであります。

さらには「差別だ!」「人権侵害だ!」などと声を上げることは、甚だ烏滸がましいとしか言わざるをえないのであります。

ではなぜ、白人たちは有色人種に対する悲惨極まりないともいえる奴隷差別を行ったのでありましょうか。そしてなぜ、第二次世界大戦が終わり、植民地だったアフリカや南米やアジア地域が解放されたにもかかわらず、現代もなお世界各国やわが国で差別を訴える人が絶えないのでありましょうか。

こうした二点を踏まえながら、色々と私見をあーだこーだと述べさせていただきたいと思います。さらには、差別と偏見の違いも自分なりにあーだこーだと述べさせていただきたいと思います。



1、差別のはじまり

まずは、深く考えることもないでしょう。私たち"人類"といってもただの哺乳類です。言葉や文字を使わない人類を想像すれば、おのずとその生体は見えてきます。さらには金銭もありません。都市や国家などもありません。あるのは集団くらいのものです。そして人々は世界の各地に定住し、独自の文化や文明を発展させていくことになります。この独自の文化や文明の始まりこそが"差別"のはじまりだったんでは?と勝手に妄想してみるのです。

文化や文明の発展は、現在でいうところの先進國と後進國との関係のように、集団と集団、都市と都市、国家と国家というような優劣を決定づけてしまいます。

進んだ文化・文明を享受している人たちからすれば、遅れた文化・文明の人たちに対して、上下階級意識が根付き、やがては差別的な言動へと発展していくことになります。

「我々こそが進んだ人類(民族・国民・宗派)である。」

このような意識は、遅れた人類に対する軽蔑に留まらず、救済や管理といった思い上がり意識〔傲慢さ〕にまで及び、やがては人類史上最悪ともいえる差別、白人たちによる有色人種に対する植民地政策=奴隷制度が始まることになります。

こうしたことは現在のわが国でもよく見受けられます。

それは都会に暮らす人たちの田舎に暮らす人たちへの意識であります。まさに私が妄想したような思い上がり意識〔傲慢さ〕が、都会で暮らす人たちの心を支配し、現在わが国における最大の差別となっているのでありますが、多くの日本人はそれを自覚していないのであります。

過去に日本テレビ系のテレビ番組で、『ダーツの旅』というものがありました。(今もやっているのかな?)

この番組では日本地図をロシアンルーレットのように回転させ、所ジョージ氏がダーツを投げ、刺さった村や町へ旅するというものでした。

そして「第一村人発見!」とナレーターがいうと、その村人に対して、スタジオ観覧者たちが爆笑するのです。

田舎育ちの私からすれば、何が面白いのか、全く理解出来ませんでした。

ただしかし、ひとつはっきり理解出来たのは、「馬鹿にされてる」ということでした。

文化・文明の発展はたしかに大切なことではあります。しかしながら人類はこれまで悲惨な歴史を幾度となく繰り返してきました。

にも関わらず、現在もなお経済力と軍事力による優劣だけでしか物事を判断出来なくなっているとさえ感じて仕方ありません。

こうした独自の観点からも、"差別のはじまり"があるならば、"差別のおわり"を絶対に実現させていかなければならないと強く思うのです。


2、偏見とは

差別と偏見を同義語のようにいう人たちがいます。

「差別はダメ!」「それは偏見だ!」と。

しかしながら、それは大きな間違いだと思うのであります。

上記でも述べさせていただいたように、差別というのものが進んだ文化・文明の人たちの意識ならば、偏見というのは遅れた人たちの意識であるからです。

私は常日頃、大切な人たちに対し、「偏見という危機感だけは、絶対に心に留めておけ。」と言うようにしています。

それは、思い上がり意識(差別主義者)から、自分の家族、生まれ育った地域や国家を守り通すために、この偏見というものが絶対に欠かせないと思うからであります。

思い上がり意識(差別主義者)たちは言います。

「私たちのほうが優れているから、劣っているあなたたちは変わりなさい」と。

それに意を唱えると、「それは偏見だ!」と返してきます。

一体、偏見の何がいけないのでしょうか?

『差別があるから偏見がある。』

偏見を無くしたいのであれば、まずは差別をなくす。これが道理だと考えますが、如何でありましょうか。


3、差別や偏見をおわらすには・・・

とは言いましても、かなり難しい問題であり、私くし如きがあーだこーだ言ったところで、おわらすことなど不可能であります。当然のことですが・・・。

しかしながら、こうした問題は各家庭の中で、親と子がきちんと話し合うべきであると思います。

差別や偏見という意識を考えるのではなく、平和とは何なのか?家族とは何なのか?国家とは何なのか?そうしたことを深く考え合う親子が少しづつでも増えていきますことを願いまして、今日はこのあたりで・・・。

↓↓モチベーション維持にご協力お願い致します。m(_ _)m

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「人権」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
2024年
2023年
人気記事