てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

横田めぐみさん拉致現場を訪れて・・・

2017年06月11日 13時40分00秒 | 【ヒゲ親父】事件の現場
オイラが日頃から北朝鮮に対して怒りの投稿を書くのは、
やはり日本人の拉致事件のせいだろうね。

特に、新潟で中学生の横田めぐみさんの拉致を知ったときは、その衝撃で言葉を失ったほどだ。

いくらなんでも女子中学生まで・・・・。


そして・・・、
国主導で国際犯罪を犯しときながら、あの国の言い放った言葉が
「横田めぐみは自殺したので、もうこの世にいません」だった。
オイラはあの国を絶対に許さないと思った。


先日図書館から借りたこの本と併せて昨日訪れた現場を報告したいと思います。

新潮社「めぐみと私の35年」横田早紀江著


ページを開いてみる。

第二章 絶望 -どこにもいない娘

文章は、

あの日のことは、思い出したくもありません と始まる・・・。


1977年11月15日の出来事。

1977年といえば2017年の今から40年前となる、オイラは8歳の小学生。
めぐみさんは13歳で中学1年生だからめぐみさんの方が5歳ほど年上だ。

あの日・・・、
1977年11月15日夜7時過ぎ、いつも夕方6時には帰ってくるめぐみさんがなかなか帰らないので、
心配された母 早紀江さんは、寄居中学校まで見に行かれた。


バドミントン部だっためぐみさんがいるとすれば体育館。

(著書より)
学校へ着くと、すでに人気はなく、校舎の裏手へまわって体育館へ急ぎました。
体育館には電灯が煌々とついており、「キャー、キャー」という女の人の声が聞えます。
まだ練習をしていたのだと、ほっと安堵しました。

ここか・・・



(著書より)
体育館の入口から中を覗いてみたのです。すると、生徒ではなく、お母さんたちがバレーボールの練習をしていました。
さっと血の気が引いて、胸騒ぎがします。あわてて校門の方へ走って行くと、守衛さんが立っていました。
「バドミントン部の父兄ですけど、子どもたちは帰ったんですか?」勢い込んで聞くと、守衛さんは怪訝そうに言われます。
「もうとっくに帰りましたよ。六時過ぎくらいには、皆、帰りましたが」
私は気が動転し、すぐさま校門を飛び出しました。


これが帰り道。

あの時、めぐみさんも歩いたのである。


早紀江さんは、めぐみさんの友達宅へ電話をし、顧問の先生にも電話をしています。

(著書より)
「一緒に帰ってきたから、もうだいぶ前に別れました」誰もがそう答えるので・・・・・、


この時の早紀江さんのお気持ちはいかほどだったでしょう。
心配で心臓が破裂しそうにあったに違いありません。


オイラにも経験があります。
もう帰らなければならない時間をとっくに過ぎて真っ暗になっても息子が帰って来ない・・・
(当時近所では不審者情報が頻繁にありました)
あの時の不安を思い出します。




海へと続くこの通りから、そこで左折して自宅方面へ曲がる交差点



早紀江さんは暗闇の中、懐中電灯を持ってそこらじゅうを探しました。

(著書より)
防風林の手前には、護国神社があり、周りに街灯もないため、境内へ続く石畳の道だけが白々と浮かびあがっています。真っ暗な参道を歩いていくと、松林が風にざわめき懐中電灯のかすかな灯りの先に慰霊塔が見えてきました。

ここですね。


白い石畳


懐中電灯に照らされた慰霊塔はここか・・・


たしかに夜だと真っ暗で怖いだろうな。

(著書より)
小三の息子たちは怯えてしまい、「もう、イヤだ、イヤだ!」と大声で泣き出しました。
さすがに奥の社殿までは怖くて行けず、やむなく門前まで戻り、寄居浜へと向かったのです。


この時の早紀江さんの気持ちを、想像するだけで心が痛い。


(著書より)
のちに、めぐみが失踪した日の足取りがわかりました。
バドミントンの練習を終え、部活のお友だち二人と学校の正門を出たのが、午後六時二十五分頃。三人は寄居浜の方へ向かって通りを歩き、一人が二つ目の角を右に、もう一人が次の交差点を左に曲がり、めぐみと別れました。それが、午後六時三十五分頃です。娘はさらに一人で歩いて、二筋目を左に曲がりますが、警察犬が立ち止ったのはその角でした。そこから家までは、わずか一、二分。娘の足跡はその角で忽然と消えてしまったのです。


ここでめぐみさんは消えた。


ここが拉致現場といわれているが、特定失踪者問題調査会はさらに進んだ自宅により近い場所だとみている。


ここで拉致された可能性もある

そこを右折すると、すぐにめぐみさんご自宅があった。



めぐみさん、怖かったのだろうなぁ・・・、

オイラにも娘がいるが、そんな悪夢が自分の娘に降りかかったらと思うと卒倒しそうな気持になる。

訓練された数人の工作員が、彼女を捕まえ、近くにある

目立たない防砂林の中へ運び込み、脱出の準備を整え、


浜辺に隠してあったボートに乗りこみ、


沖合に待機していた小型工作船で脱出したといわれている。
11月ともなれば冬直前、波も相当荒れていただろう。

まさかご家族や学校関係者の方もめぐみさんが北朝鮮によって国外に連れ去られたなんて思いもつかなかったことでしょう。


思えばオイラが中学生頃には、海水浴に行ってた内灘海岸などに「不審者を見つけたらすぐに警察へ」の看板が立っていた。
でも当時は変態オッサンのことだと思っていたのだが、警察関係者では海外工作員による連れ去り事件についてうすうす気付き始めていたのである。

めぐみさんの事件の前に能登で発生した宇出津事件をきちんと対処できていたなら、それから発生する多くの北朝鮮拉致事件は起こらなかったといわれている。


相当年月が経ってから、まともな神経では聞くことができないほどの残酷な話が報告されることとなる。

ずっと後になって出てきた証言によると、お父さんとお母さんが必死でめぐみさんを探していたとき、めぐみさんは北朝鮮の工作員に連れ去られ、40時間もの間、北朝鮮に向かう船の中の真っ暗で寒い船倉に閉じこめられて、「お母さん、お母さん」と泣き叫び、出入口や壁などあちこち引っかいたので、北朝鮮に着いたときには、手の爪がはがれそうになって血だらけだったと言われています。

・・・・・・・・・・・

北朝鮮に到着しためぐみさんは泣き続けた。そんな姿に、北朝鮮当局者は「朝鮮語を勉強するなら日本に帰してやる」と伝えた。だが、その約束は、当たり前のようにほごにされる。

・・・・・・・・・・・

証言によれば、めぐみさんは「完全隔離病棟」に収容され、30歳だった1994年4月10日に死亡し、15日に付近の山に埋葬された。証言者たちは「精神安定剤、睡眠薬を主に服用し、注射された」とし、睡眠薬のハイミナルなど、薬の種類と服用した量に言及した。
証言者たちは「患者が死んだ当時、全身に青い斑点があった」「劇物や過剰な量の薬物を飲んだり注射されたりしたとき見られる所見」とした。さらに「(めぐみさんの)遺体は(国家安全)保衛部(労働)党組織の指示で、トラクターに乗せられ、他の遺体5体とともに山に運ばれ、棺もなくそのまま同じ穴に埋められた」という。


だから・・・・、
だからオイラはどうしても北朝鮮を許せないのだ・・・。

あの国は、早く崩壊すべきなのである。


虚しい・・・。



(拝借


あの事件より、まもなく40年になろうとしています。


拉致事件はここからはじまった⇒宇出津事件現場


地村さん夫妻の拉致事件⇒福井県小浜拉致現場

【ヒゲ親父】
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村 その他日記ブログ 日々の気になることへにほんブログ村



コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ブラオイラ#201(息子と二人... | トップ | 今夜はイラク戦、日本ガンバ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

【ヒゲ親父】事件の現場」カテゴリの最新記事