<過去記録(2007~2013年)>徳井由美子~ゆみりん・ブログ

ゆみりんこと、徳井由美子(ホーリー・ホーシー、他)の、これまでの過去ブログ記事を、ここに移設してきています。

またまた考える・・

2010-01-15 15:51:59 | 私の考え。
『神よ、変えることのできないものを
受け入れる静かな心、
変えることのできるものを変える勇気、
そして、”その違いを識別する知恵” を私にお与えください。』
 (ニーバー)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
(新約聖書テサロニケ人への手紙Ⅰ5:16~18) 


マタイによる福音書 7:1~5

人を裁くな。自分が裁かれないためである。  <『イエスの言葉』・山上の説教より>

(理由: あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目には梁(ハリ=大きい悪)があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちり(チリ=小さい悪)を取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 )

 (他)人を裁くのが、私も含め、(原)罪のある、人の常の傾向で、
 他人に裁かれて(裁く=裁くというのは、その人の測りで、他の人を判断し、ある時には”悪”と断罪することです)、つらい、苦しい思いをするかと思えば・・

 この法則(摂理というか)によると、・・自らが(知らず知らずにでも)他人を裁いていて、
その狭~い狭量な基準で、自分にも他からの裁きがかえってくるとは~。

実際、「あの人って、あんなことして、あんなこと言って(アホや・・)」とか胸のうちで思ったりすると
、必ず同じような基準で自分も「(あの人)アホや・・」と思われている、というのは体験上もわかります。

(・・・この山上の説教の間に、あの”主の祈り”(天にまします、われらの父よ、願わくば・・)が与えられた。)


ちょうど偶然か、この聖書の記述(マタイ7:1~5)は、いくつか以前のブログに書いてみた、以下の考察(後半)(マタイ6:34、35)の直後にくる箇所でした・・

マタイによる福音書6章 33,34節

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

こういうのも、ありました・・
コリント人への手紙Ⅰ 4:5
だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。

-裁くな、について考えてみました。
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次には、どうありたいかを考えてみます。

今日の冒頭の2つ思い浮かびました。


○あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。 (ピリピ人への手紙 2:15)

○そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 (マタイによる福音書 5:16)

○「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 」(イエスの言葉) (マタイによる福音書5:13~16)
あなたがたは、地の塩、世の光..と言われたように。、