『神よ、変えることのできないものを
受け入れる静かな心、
変えることのできるものを変える勇気、
そして、”その違いを識別する知恵” を私にお与えください。』
(ニーバー)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
(新約聖書テサロニケ人への手紙Ⅰ5:16~18)
-
マタイによる福音書 7:1~5
人を裁くな。自分が裁かれないためである。 <『イエスの言葉』・山上の説教より>
(理由: あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目には梁(ハリ=大きい悪)があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちり(チリ=小さい悪)を取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 )
(他)人を裁くのが、私も含め、(原)罪のある、人の常の傾向で、
他人に裁かれて(裁く=裁くというのは、その人の測りで、他の人を判断し、ある時には”悪”と断罪することです)、つらい、苦しい思いをするかと思えば・・
この法則(摂理というか)によると、・・自らが(知らず知らずにでも)他人を裁いていて、
その狭~い狭量な基準で、自分にも他からの裁きがかえってくるとは~。
実際、「あの人って、あんなことして、あんなこと言って(アホや・・)」とか胸のうちで思ったりすると
、必ず同じような基準で自分も「(あの人)アホや・・」と思われている、というのは体験上もわかります。
(・・・この山上の説教の間に、あの”主の祈り”(天にまします、われらの父よ、願わくば・・)が与えられた。)
-
ちょうど偶然か、この聖書の記述(マタイ7:1~5)は、いくつか以前のブログに書いてみた、以下の考察(後半)(マタイ6:34、35)の直後にくる箇所でした・・
マタイによる福音書6章 33,34節
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
こういうのも、ありました・・
コリント人への手紙Ⅰ 4:5
だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。
-裁くな、について考えてみました。
---
次には、どうありたいかを考えてみます。
今日の冒頭の2つ思い浮かびました。
○あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。 (ピリピ人への手紙 2:15)
○そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 (マタイによる福音書 5:16)
○「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 」(イエスの言葉) (マタイによる福音書5:13~16)
あなたがたは、地の塩、世の光..と言われたように。、
受け入れる静かな心、
変えることのできるものを変える勇気、
そして、”その違いを識別する知恵” を私にお与えください。』
(ニーバー)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
(新約聖書テサロニケ人への手紙Ⅰ5:16~18)
-
マタイによる福音書 7:1~5
人を裁くな。自分が裁かれないためである。 <『イエスの言葉』・山上の説教より>
(理由: あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目には梁(ハリ=大きい悪)があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちり(チリ=小さい悪)を取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 )
(他)人を裁くのが、私も含め、(原)罪のある、人の常の傾向で、
他人に裁かれて(裁く=裁くというのは、その人の測りで、他の人を判断し、ある時には”悪”と断罪することです)、つらい、苦しい思いをするかと思えば・・
この法則(摂理というか)によると、・・自らが(知らず知らずにでも)他人を裁いていて、
その狭~い狭量な基準で、自分にも他からの裁きがかえってくるとは~。
実際、「あの人って、あんなことして、あんなこと言って(アホや・・)」とか胸のうちで思ったりすると
、必ず同じような基準で自分も「(あの人)アホや・・」と思われている、というのは体験上もわかります。
(・・・この山上の説教の間に、あの”主の祈り”(天にまします、われらの父よ、願わくば・・)が与えられた。)
-
ちょうど偶然か、この聖書の記述(マタイ7:1~5)は、いくつか以前のブログに書いてみた、以下の考察(後半)(マタイ6:34、35)の直後にくる箇所でした・・
マタイによる福音書6章 33,34節
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
こういうのも、ありました・・
コリント人への手紙Ⅰ 4:5
だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。
-裁くな、について考えてみました。
---
次には、どうありたいかを考えてみます。
今日の冒頭の2つ思い浮かびました。
○あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。 (ピリピ人への手紙 2:15)
○そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 (マタイによる福音書 5:16)
○「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 」(イエスの言葉) (マタイによる福音書5:13~16)
あなたがたは、地の塩、世の光..と言われたように。、
先のお祈りは、神学者ラインホルト・ニーバーの祈りとして有名です。訳にはいろいろあるようです。
Wikipediaにはかなり詳しく載っていますよ~。
そやっ!ニーバー・・さんだったか
(調べられるのに、怠慢・・)
そっか、その両者を見分けられる英知も、・・やったね
コメントありがとう。
たとえば、
「まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」
とか。
よく、人(の態度とか性格とか)が良く変わってほしいと思うならまず自分が変わらないといけない。
なんて言われますけど、これなんてそういう意味ですよね。
そうやって置き換えて考えながら聖書を読むとなるほどなって思います。
2つめのコメント、ありがとう☆
-
そうです、永遠の命に導く、『聖書』をまた、読んでください!
(いっしょに聖書研究、しましょう。)