<過去記録(2007~2013年)>徳井由美子~ゆみりん・ブログ

ゆみりんこと、徳井由美子(ホーリー・ホーシー、他)の、これまでの過去ブログ記事を、ここに移設してきています。

苦難の意味

2010-01-13 16:06:47 | デボーション(瞑想)。
デボーションし(瞑想-思いめぐらし)てみた。

わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも、将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ローマ人への手紙9:38、39)

なぜか、”隠されたる神-(副題・苦難の意味)”山形謙二著 を朝から引っ張ってよんでみる。

(あらかじめ記しますが、以下特記部分以外はすべてこの本からの引用であることをおことわりします)

とくに第3章、”苦難の意味”、を。

「キリスト教はごご利益(りやく)がない。だからいい。(文中では”だからありがたい”となっていますが・・・)」

”私たちが第一にキリスト教に、そして天国に求めているものは、単なる永遠の生命とか、不幸のないパラダイスとかいうものではなく、主イエス・キリストという生ける人格にほかならない”-引用

・・”私たちがキリスト者になるということは、まさにコペルニクス的転回を経験することなのである。
  以前は、神も含めて、すべての世界が自分中心に回っていたのが、キリストとの出会いを体験することによって、神中心の世界に変えられるのである。”・・(引用)

ここで、C.S.ルイス(”ナルニア国物語”も書いた、神学者で作家)が述べた言葉。
(大事です、私にとっては)

人間の苦しみと愛の神の存在とを矛盾なく理解しようという問題は、わたしたちが<愛>という語にとおりいっぺんの意味を付している限り、
つまり人間こそがすべての中心であるかのように思います限り、解決できないのです。
人間は中心ではありません。
神は人間のために存在したもうのではないし、人間もまた、人間自らのために存在するのではない。」(文中強調-ブログ筆者)

  {筆者コメント:-そうですね、むずかしいですね..神を知る以前の人間はおろか神と和合したはずのクリスチャンでさえ、人生の苦しみやこの世の苦難をみるとき、”この世に神は本当にいるのか?(いるはずがない、など思う)”となります。・・・
 ちょうど、前記のルイスの指し示す内容は、歴史表面的な言い方をしますと、常々私は感じているんですが、中世後にあらわれた、人間回復運動~ルネッサンスの潮流を、元の正しい神の存在概念に、戻す方向のものであるような気がします。必要なことです。}

”すべてのものが、究極の真理たる神を中心とするとき初めて、人間の真の意味での幸福があり、宇宙全体の完成がある。このすべての中心である神のもとに私たちが憩うとき、本当の安らぎと慰めが与えられる。”(引用)

結局こういうことではないでしょうか・・

アウグスチヌスの『告白』の冒頭より
「神よ、あなたは、私たちを、あなたに向けて造られました。私たちはあなたのうちに安らうまでは安らぎを得ません。」

-人間が、どうしようもなく”自らの中心部分に感じる空洞”(穴のあいた感じ、欠落感)は、神によってでしか、ぜったいに埋まることがないそうです。
それは前期のアウグスチヌスの記のように、“人は神に向けて作られたものである”本質が、罪の世界にあっても、不変だからのようです。
私も自ら体験してその感覚はよくわかっています、もちろん、時折は今であっても。

病床に伏したときのパスカルのことばだそうですが
「主よ、わたしは、ただ一つのことを知っています。それは、あなたに従うのは善で、あなたにさからうのは悪であるということであります」

三歳の愛息子を失ってしまった、ビーベル牧師
「私が知ったことは、息子が衣食住の生活全般にわたって親である私たちに完全に依存していたのと同じように、
私たちは必要のすべてを完全に神に依存しているということ

・・本当にそうなのですね だが、私(たち)は、自らの功績で歩いているように思いがちです

ここまでで、苦難がなぜ人間に起こるのかということについてほとんど関連事項を引用できていませんが、

 (”順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ” 旧約聖書 伝道の書7:14)

もう一度ルイスを引用
「苦難はあくまでもわたしたちの関心を要求します。
神は、楽しみにおいてわたしたちにささやきかけられます。良心において語られます。
しかし苦痛においては、わたしたちに向って激しく呼びかけたもうのです。
苦痛は、耳しいた(聞こえない)世界を呼び覚まそうとし給う神のメガホンです」

・・そうですね、自分に関しても、順調のときは比較的何も考えません

新約聖書は一つの出来事を通して苦難の意味を述べている。(引用)

”イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて云った、
『先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか。』
イエスは答えられた、
「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。
ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」”(新約聖書 ヨハネによる福音書 9:1~3)