同性愛者な私の日常を綴るブログです。閲覧は自由ですが、誹謗中傷等、マナー違反な行為だけは断固お断り致します。

「僕」をさがして  ①

2010年03月08日 22時08分21秒 | かいと
シリーズもので書いていく予定の
「僕」をさがして   はじまりました。
あまり文才ありませんが、どうぞご覧になってください。
よろしくお願いいたします。



1979年新春に 僕は誕生 次女として誕生しました。
父母ともに、とても子煩悩で、女の子ということもあり、舐めるような勢いで手塩にかけて育てられました。
父は自営業で、母は専業主婦。兄弟も多く、多くの人の中、何不自由なく育てられました。
今、思えばうちの家は裕福な方だったと思う。
兄弟が多いにもかかわらず、服は新しい服を買ってくれたし、古いが家も大きかった。

両親は本当に大切に育ててくれたと思う。
本当にありがたい。
僕がビアンであることは、けして両親の育て方の影響ではないと思う。
これは僕が生まれ持った生得的なものだと断言してもいい。


僕は生まれつき、女性と男性の心を持つ子供だった。
子供のころから、男性っぽいところが多かった。
母は僕と違って、女性らしい人で、服装はスカートが好きで、髪は長く、いつもきれいにしていた。
その母から生まれた女の子。
そのため、子供のころは、かわいい服を着せられたものだ。
母が買ってくる服は、いつもリボンがついていたり、ボンボンがついていたり、ピンクを基調とした服だった。
おしゃれに全く興味のない僕だったが、どうも母が買ってくる服は、気に食わなかった。
しかし、子供のころの僕は、着さされるままの人形であり、趣味でもない服をきていたのだ。
もちろん母の希望により髪も長かった。
周りの友達は「髪を伸ばしたいのに、お母さんが短くしなさいって言うんだよ」と言っていた。
「いいなあ。私も短い髪にしたいな」と、思っていたものだ。


遊び仲間も男の子だった。
兄や、弟、近所の男の子と一緒に、キャッチボールしたり、近くの川に冒険にいったり、自転車レースをしたりした。
その反面、女の子がする遊びにはまったく興味がわかない。
近所の女の子が僕を誘ってくれる人形遊びや、おままごと は苦痛でしょうがなかった。
まったく興味がひかれない。
できるだけ、そうゆう遊びには誘われないように、すこし距離をおいて接していた。
それでも、「遊ぼうよ」と言ってくれる好意をむげにもできず、
ときには、おままごとはお父さん役として参加し、どうにか過ごしていた。


つづく