「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

伯耆国久米郡大神郷

2018-06-20 05:04:20 | 大国主と出雲族
伯耆国久米郡大神郷

1 大神(みわ)山とは鳥取県北栄町の茶臼山であり、神(みわ)山とは同じく鳥取県北栄町の三輪山であった。
 北条八幡神社由緒より「上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神(みわ)郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ」とある。
 和名類聚抄(938年)に記される伯耆国久米郡内の郷に大神(みわ)郷はない。しかし神(みわ)の付く郷は10郷中3郷ある。その3郷とも大神郷の名残と思われる。
 「高城史」より。立縫(たてぬい)郷は楯縫郷であり、八橋郡は笠縫郡であった。上神(かみつみわ)郷・下神(しもつみわ)郷・神代(みわしろ)郷は大神郷であった。
 出雲風土記にある「伯耆国の大神岳」とは百済読みであり、奈良時代以前は新羅読みの「伯耆国の大神根」と表記して尾根を示していた。大神郷の中で尾根の形状をしている山は標高93mの茶臼山である。新羅読みの「大神根」(大神郷にある尾根)は茶臼山と思われる。
 出雲風土記にある「伯耆国の大神岳」とは、鳥取県北栄町の茶臼山のことであった。大国主と少彦名と須勢理姫は茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。松樹庵の案内板には「この庵の由来は明らかではないが境内には天明2年(1782年)に光明寺六世寂眼和尚が立てた石碑がある。また、石段上の地蔵は、寛政元年(1789年)『世出開了行者◯◯信女』の墓である」とある。

2 北栄町三輪山について
 奈良県桜井市三輪にある大神神社(大和国一宮)は旧来「大神大物主神社」と呼ばれていた。大神郷の大物主のいた神社であったから「大神大物主神社」と呼んでいた。大神郷は鳥取県北栄町にあった。大物主は鳥取県北栄町三輪山(神山)の三輪(神)神社にいた。奈良県桜井市三輪にある大神大物主神社名は鳥取県北栄町三輪山(神山)の三輪(神)神社から移されたものである。
 三輪山(神山)の近くの中浜遺跡からは古墳時代前期後半(4世紀前半)の山陰型甑形土器が出土している。また、三輪山のある下神集落からは弥生時代の土器(天忍穂耳の時代は弥生時代)が発掘されている。奈良の三輪山の遺跡は一番古いもので4世紀後半である。このことからも北栄町の三輪山のほうが古いことが分かる。
 北条町誌によると「三輪山は2万年前の火山灰が降り積もった地層で、標高は34mであった。土地の起伏は甚だしく険しい急な坂道のため人々が往来するのに大変な場所だった。昭和3年から開墾が始まり今はなだらかになっている。昭和45年頃から砂とりが始まった。三輪神社は宝暦3年(1753年)火災により焼失した」とある。
 大物主は天忍穂耳であり鳥取県北栄町の三輪(神)山にいた。大物主(天忍穂耳)は日向御子(瓊々杵命)や大国主の子が成長して瓊々杵命が葦原中津国を統治するようになるまで、北栄町の三輪山(神山)にいて、隣の茶臼山(大神山)にいた大国主を助けて水田稲作を全国に広めるという、大事業に携わっていた。

3 私見
 北条郷(上北条、中北条、下北条)は大神郷の中にあった。上北条(下古川、小田、古川沢、中江、大塚、新田、井手畑、穴窪)を神代(みわしろ)郷といい、下北条(松神、下神、曲、北尾、北条島、米里、弓原、田井、土下)と中北条(国坂、江北)は下神(しもつみわ)郷に属しており、大神(みわ)郷に含まれていた。
 北栄町国坂の茶臼山は大神郷(下神郷)にある山だから大神(みわ)山と言っていた。北栄町下神の三輪山は神(みわ)山と言っていた。大神山は大山ではない。波波伎神社名が移されたように大神山神社名も北栄町の国坂神社から移されたものと思われる。大山(蓬莱山)は徐福(天照大神)一行が 大山の秀麗な山容を目標に辰韓から次々に東海を渡ってきたのであるから大山(蓬莱山)で国見をするのは徐福(天照大神)が一番ふさわしい。神社名は変えられているが、今の大神山神社には徐福(天照大神)が祀られていたはずである。
 南部町の赤猪岩神社の祭神は大国主と素戔嗚と刺国若比売とするが、大国主は素戔嗚と稲田姫の子として鳥取県八頭町大江郷で誕生しており、刺国若比売は実の母ではない。大国主に対するいじめは鳥取県東部で完結しており赤猪岩の話は藤原氏によって創られたものと思われる。赤猪岩神社には赤猪岩の話より大事なものがあり、それを隠すためと思われる。それは倭国大乱における激戦地の伝承であったと思われる。どちらの伝承も手間山にいたのは出雲神族であった。
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大国主の本拠地は鳥取県北栄町の茶臼山(宇迦能山=伊那佐山=大神山)であった

2018-06-19 05:37:05 | 大国主と出雲族
 大国主の本拠地は鳥取県北栄町の茶臼山(宇迦能山=伊那佐山=大神山)であった

1  鳥取県神社誌より抜粋
  鳥取県北栄町の茶臼山のふもとにある国坂神社
 祭神 少彦名神
 由緒 創立年月不詳、白河天皇承歴四年六月御卜に国阪神の祭を穢せる祟りあるを以て社司に中祓を科せらる(朝野群載)。当社の御祭神に就いて大日本史に土人の説として、大己貴命を祀ると云ひ日本地理志料も又大国主命を祀る乃ちその裔の奉祀する所と記す。当社前方に面積約二反歩の神池あり、一面に蓴菜河骨を生ず、往昔地方に疫病流行し或は難病人ある時当社に祈願し此の水草を煎用するときは神徳の霊験ありとて其の名遠近に高し、現今尚此の水草を刈取り毎年四月八日薬草祭典を行ひ参拝者に頒つ。
 国坂神社の祭神について、「特撰神名牒」には大穴牟遅神、少彦名神、事代主神、「神祇志」には大己貴命とある。国坂神社の祭神に就いて、「大日本史」に土人の説として、大己貴命を祀るという。「日本地理志料」もまた大国主命を祀るという。「日本地理志料」はさらに国坂神社は大国主の裔(子孫)の奉祀する所と記す。国坂集落には大国主の子孫がいて国坂神社を奉祀している。

2 伯耆国久米郡に大神郷があった。
 神祇志料(明治6年)佐比売山神社の條に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」とする。

 北条八幡神社由緒より「上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神(みわ)郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ」とある。上神郷・下神郷・神代郷は大神郷であった。下神郷(大神郷)にある尾根のような茶臼山を古代は大神根(岳)と言っていた。奈良時代までは伯耆国久米郡北条郷を大神郷と呼んでいた。

3 私見
(1) 大神山神社の由緒には「記録の徴すべきものなく」としながらも、「続日本記(797年)に『大山神』、文徳実録(879年)に『大山神』、三代実録(901年)に『大山神』とあり、出雲風土記(733年)に『伯耆国大神岳』、延喜神名式(927年)に『伯耆国相見郡大神山神社』とある」を挙げている。由緒の筆者の「その大山といい大神山というも同一の山なり」とするのは正しいか。
 神祇志料の「伯耆国大神山」と出雲風土記の「伯耆国大神岳」とは同義である。どちらも伯耆国大山(ダイセン)を意味する、とするのが通説である。しかし、伯耆国大神山(岳)の「大神」とは「大神郷」を意味している。
 また、伯耆国大神「山」とは出雲風土記の伯耆国大神「岳」と同義である。「岳」とは百済語であり、より古い新羅語では「根」とする。したがって「岳」とは尾根を意味していた。
 「伯耆国大神山(岳)」とは伯耆国久米郡大神郷にある尾根を意味する。伯耆国久米郡大神郷にある尾根のような山とは北栄町の茶臼山と思われる。伯耆国大神山(岳)とは標高1711mの大山(ダイセン)ではなく標高93mの北栄町国坂の茶臼山であった。
 「御座」とは「本拠地」を意味する。大己貴命(大国主命)、少名毘古那命、須勢理姫命は鳥取県北栄町茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。
(2)少彦名神は薬草の神様でもあるため、実際にここにいた。大国主命もここを拠点として活動していていた。藤原氏は下神の三輪山に放火して三輪神社をなくしたのをよいことに、土下集落に移転した三輪神社の祭神を大国主にしている。そして国坂神社の祭神から大国主を削除した。
 また、奈良の三輪山・三輪神社の祭神が瓊々杵命と天忍穂耳であることを隠すためでもある。天孫降臨に関係する二人が奈良の三輪山・三輪神社に祀られることは、宮崎県と重複するからである。
  
4  国坂の茶臼山について(当時は海に面していた)

 案内板を見ると弘法大師が茶臼山に来た可能性がある。
 松樹庵の奥にある清水。岩盤が露出している。茶臼山は草木で覆われていて、地質が何でできているかわかりづらいのだが、全体が岩である可能性が高い。この周辺は北条砂丘(鳥取砂丘に次いで広い砂丘)が広がっており(笠沙の御前とは海のほうに傘型になった砂丘があったということである)茶臼山の周りは砂地なのだが、茶臼山が海に面していたときは、砂浜でない浜があった。伊那佐小浜である。建御雷之男による国譲りの談判は鳥取県北栄町国坂の茶臼山(宇迦能山又の名は伊那佐山又の名は大神山)で行われた。
 大国主命、少彦名命、宇迦能御魂命(須勢理姫命)は鳥取県北栄町国坂の茶臼山(宇迦能山=伊那佐山=大神山)の松樹庵を本拠地として全国の国造りに出かけていた。

5  倭国発祥の地
 蜘ヶ家山(葛城山)より見る茶臼山(宇迦能山又の名は伊那佐山又の名は大神山)
 上の山は宇迦能山又の名は伊那佐山又の名は大神山(現在北栄町国坂茶臼山)。大国主が須勢理姫を連れて本拠地とした。国坂集落には大国主の子孫が住み、国坂神社を奉祀している。
 右下は島集落。島集落の丘陵地には縄文前期から晩期までの遺蹟遺構がある。そこに縄文人の猿田彦一族が住んでいた。
 蘇我馬子天皇の皇居もこの丘陵地にあった。
 蜘ヶ家山(葛城山)より見る茶臼山(宇迦能山又の名は伊那佐山又の名は大神山)と土下山(天香具山)。
 右に少し見えているのが天香具山(土下山)。天孫族は何度もこの山を通って大国主のいる伊那佐山に国譲りの交渉に臨んだ。
 神武天皇は伊那佐山を拠点として天香具山の麓にいた兄磯城と戦った。香具山の土を取って下したところが土下集落である。写真では香具山(土下山)と伊那佐山(茶臼山)の間の集落である。
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葦原中津国(狭義)にいた大国主・大年神・準王一族(出雲神族)の妻子(娶るとは男の本拠地に女を来させることである)

2018-06-16 04:57:55 | 大国主と出雲族
葦原中津国(狭義)にいた大国主・大年神・準王一族(出雲神族)の妻子(娶るとは男の本拠地に女を来させることである)

 兎の予言したとおり大国主神は八上姫と結ばれ、やっとのことで国作りを完成させることができ、葦原中津国(狭義)を治める神様となりました。
 古事記には「大国主の命は葦原中津国(狭義)を中心に治めていた」とある。
 
1 葦原中津国を構成する集落
1 瀬戸  2 西穂波  3 亀谷  4 津原  5 谷  6 鋤  7 穴田  8 別所  9 尾原  10 穴沢  11 穂波  12 原  13 大島
 
2 大国主と少彦名と須勢理比売と八上比売は鳥取県北栄町の茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)に住んでいた。
(1) 素戔嗚の娘の須勢理比売(鳥取県中部ー倉吉市出身)と大国主は異母兄妹である。子供もない。根国から大国主に背負われて黄泉平坂の麓まで行き宇迦能山(伊那佐山=茶臼山=大神山)の松樹庵に住んだ。素戔嗚は「・・・出雲の国を治めるがよい。お前の連れている、我が娘の須勢理比売を正妻として・・・」と言っているがこれも藤原氏による改ざんである。
(2) 八上比売(鳥取県東部ー鳥取市出身)は大国主の妹の須勢理比売とおりあいが悪かった、ということは宇迦能山(伊那佐山=茶臼山=大神山)の松樹庵に須勢理比売と一緒に住んでいたものと思われる。子供を置いて八上郡に帰った。
 
3 古事記・大国主神御末神等の段
 古事記には「この大国主の神は、后に歌われたように、多くの妻を持ち、したがってまた多くの御子を持った」とある。
(1) 胸形の奥津宮にいる神、多紀理比売命(鳥取県西部ー米子市出身)を娶って生んだ子は、阿遲鋤高日子根神、次にその妹高比売命、またの名は下光比売命。この阿遲鋤高日子根神は、今迦毛の大御神という。(鋤)
(2) 神屋楯比売命を娶って生んだ子が事代主神。(亀谷)
(3) 八嶋牟遲能神の娘、鳥耳神を娶って生んだ子が鳥鳴海神。
(4) 日名照額田毘道男伊許知邇神を娶って生んだ子は國忍富神。
(5) 葦那陀迦神、またの名は八河江比売を娶って生んだ子は速甕之多氣佐波夜遲奴美神。
(6) 天之甕主神の娘、前玉比売を娶って生んだ子は甕主日子神。
(7) 淤加美神の娘、比那良志比売を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神。
(8) 比比羅木之其花麻豆美神の娘、活玉前玉比売神を娶って生んだ子は美呂浪神。
(9) 敷山主神の娘、青沼馬沼押比売を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神。
(10) 若晝女神を娶って生んだ子は天日腹大科度美神。
(11) 天狹霧神の娘、遠津待根神を娶って生んだ子は遠津山岬多良斯神。
以上に述べた八嶋牟遲能神から遠津山岬多良斯神まで、これを十七世の神という」とある。
※私見
 大国主神御末神等の段とあるが「多くの妻を持ち、多くの御子を持った」のであるから、「この神」とは大国主と解すべきである。八嶋牟遲能神から遠津山岬多良斯神までも大国主の妻と御子と思われる。「十七世の神」は「合わせて十七神」を改ざんしたものと思われる。
 
4 古事記・大年神羽山戸神御子等の段
(1) 大年神が神活須毘神の娘、伊怒比売を娶って生んだ子は、大国御魂神。次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。
(2) 香用比売を娶って生んだ子は、大香山戸臣神。次に御年神。
(3) 天知和迦流美豆比売を娶って生んだ子は、奧津日子神、次に奧津比売命、またの名は大戸比売神。これは世の人々が斉拜する竃の神である。次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である。次に庭津日神、次に阿須波神、次に波比岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神。
 大年神の子は、大国御魂の神から大土の神まで、合わせて十六神である。
 この羽山戸神が大気都比売神を娶って生んだ子は若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那賣神、次に彌豆麻岐神、次に夏高津日神、またの名は夏之賣神。次に秋比売神、次に久久年神、次に久久紀若室葛根神である。このくだり、羽山戸神の子、若山咋神から若室葛根まで、合わせて八神である。
※私見
 大年神羽山戸神御子等の段は大国主神御末神等の段との間に少名毘古那神の段と幸魂奇魂の段が入っているが大年神羽山戸神御子等も葦原中津国で生まれたものと解される。大年神は大国主の異母弟であるから、大国主は葦原中津国の国造りに須勢理比売だけではなく大年神を誘ったものと思われる。大年神が3人の妻を娶った場所は大国主と同じ葦原中津国と思われる。
 「次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である」とあるが、平安時代に京都の藤原氏が加筆したものと思われる。羽山戸神の子も国譲りの時までに葦原中津国で生まれていたものと思われる。
 
5 私見
 先代旧事本記によると「大国主は素戔嗚と稲田姫との御子であり、大年神と須勢理姫は素戔嗚と神大市比売との御子である」とする。大年神は大国主の異母弟にあたる。大国主は異母妹の須勢理姫と一緒に葦原中津国の国造りを始めたのだから同じ異母弟の大年神も誘ったものと思われる。古事記・神代10の巻(大年神羽山戸神御子等の段)に記載されている大年神の子は、大国主と同じく葦原中津国において生まれたと思われる。
 「百八十神」という表現や葦原中津国の広さからすると大国主、大年神、それに葦原中津国から逃げずに大国主に従った準王一族(出雲神族)の妻子も一緒であったと思われる。
 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族が列島に渡ってきたのが紀元前194年頃であるから、その頃、大国主は14歳くらいであった。八上姫をめぐる大国主のライバルは鬼であった(千賊山の案内板より)から、因幡の白うさぎ伝説に出てくる兄の八十神は、のちに鬼と言われた準王一族(出雲神族)であったと思われる。準王一族(出雲神族)は大国主がまだ妻を娶る前から伯耆国より東の因幡国に来ていたのだから、その途中にある伯耆国の葦原中津国にも来ていたはずである。天忍穗耳命が「豊葦原の水穂の国は、ひどく騒がしい」と言っったのは準王一族(出雲神族)が豊葦原の水穂の国(葦原中津国・磐余邑を含む)を占領していたからと思われる。その後、大国主は父の素戔嗚から譲られた武器で八十神(準王一族)を蹴散らして葦原中津国の国造りを始めた。
 原古事記には瓊々杵命の降臨の前に饒速日の降臨が記されていたが、記紀においては削除されている(先代旧事本記による)。北栄町の土下山(天の香久山=鳥見の白庭山)に降臨した饒速日は準王一族(出雲神族)の妹を娶っている(先代旧事本記)。北栄町の土下山(天の香久山=鳥見の白庭山)には長髄彦の妹の登美夜須毘売が饒速日の妻になって来ていたから、土下山(天の香久山=鳥見の白庭山)周辺には準王一族(出雲神族)もいたものと思われる。同じ北栄町の葦原中津国にも準王一族(出雲神族)が残っていたと解するのが無理がないと思われる。大国主の妻子や大年神の妻子を合わせても五十五神ほどである。百八十神は大まかな数字だとは思われるが百八十神になるにはあと百二十五神必要である。
 饒速日の降臨は紀元前185年頃と思われる。饒速日が亡くなって瓊々杵命が降臨したのは紀元前180年頃と思われる。国譲りが終わったのは紀元前160年頃と思われる。国譲り(紀元前160年頃)の後、大平山に退いた事代主と一緒の百八十神の中には準王一族(出雲神族)も多くいたものと思われる。葦原中津国を退いた百八十神の多くは大平山を下り東郷池の波延の地に住んだと思われる。
 神武天皇が帰ってきたとき(紀元前60年頃)に、大平山を降りた東郷池周辺(磯城)には兄磯城・弟磯城がいた。日本書紀・兄磯城・弟磯城に「天神の御子が来られたと聞いて、朝夕畏れかしこまっていました。・・・。」とあるので兄磯城・弟磯城一族は天神の存在を以前から知っていたものと思われる。兄磯城・弟磯城は事代主と一緒に退いた百八十神の中にいた準王一族(出雲神族)の子孫と思われる。兄磯城は神武天皇に従わず戦ったので殺されたが、弟磯城は神武天皇に従い師木県主となりその住んでいる地名に因んでハエ(波延・葉江・蠅)と名乗った。
 百八十神は大平山の千坂を下り門田集落や佐美集落や埴見集落や長和田集落に住んだと思われる。百八十神の中にはのちに磯城県主(弟磯城)になる準王一族(出雲神族)も含まれていたと思われる。古事記・雄略・白い犬にある「鰹木をあげて屋根を作った志幾の大県主の家」は門田集落や佐美集落や埴見集落や長和田集落などの波延地域のどこかにあったと思われる。
 「千坂」は通行人が賊に襲われることがあったので、以前は「血坂」と書いていたと郷土史家はいう。
 
6 参考 古事記訳文
(1) 神代9の巻
 ◎ 須勢理比売の歌
大国主神の正妻である須勢理比売命は、すなわち多くの后の中の大后であって、すでに八上比売が御子を置いて稲羽へ帰ったことでも分かるように、ほかの后たちに対して嫉妬する心がとくに激しかった。・・・。
 ◎ 大国主神御末神等の段
この大国主神が、胸形の奥津宮にいる神、多紀理比売命を娶って生んだ子は、阿遲鋤高日子根神、次にその妹高比売命、またの名は下光比売命である。この阿遲鋤高日子根神は、今迦毛の大御神という。
大国主神が、また神屋楯比売命を娶って生んだ子が事代主神である。また八嶋牟遲能神の娘、鳥耳神を娶って生んだ子が鳥鳴海神。この神が日名照額田毘道男伊許知邇神を娶って生んだ子は国忍富神。この神が葦那陀迦神、またの名は八河江比売を娶って生んだ子は速甕之多氣佐波夜遲奴美神である。この神が天之甕主神の娘、前玉比売を娶って生んだ子は甕主日子神である。この神が淤加美神の娘、比那良志比売を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神である。この神が比比羅木之其花麻豆美神の娘、活玉前玉比比売を娶って生んだ子は美呂浪神である。この神が敷山主神の娘、青沼馬沼押比売を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神である。この神が若晝女神を娶って生んだ子は天日腹大科度美神である。この神が天狹霧神の娘、遠津待根神を娶って生んだ子は遠津山岬多良斯神である。このくだり、八嶋士奴美神から遠津山岬帶神まで、十七世の神という。
(2) 神代10の巻
 ◎ 少名毘古那神の段
この大国主神が出雲の御大の崎にいたとき、波間から、天の羅摩の船に乗り、鵝の皮を剥いで着物にしたものを着て、やって来た神があった。・・・。
 ◎ 幸魂奇魂の段
大国主神は愁い歎いて、「私一人で、どうやってこの国を作り終えることができよう。どの神と協力すればいいのだろうか。」と言った。このとき、・・・。
 ◎ 大年神羽山戸神御子等の段
その大年神が神活須毘神の娘、伊怒比売を娶って生んだ子は、大国御魂神。次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。また香用比売を娶って生んだ子は、大香山戸臣神。次に御年神。また天知和迦流美豆比売を娶って生んだ子は、奧津日子神、次に奧津比売命、またの名は大戸比売神。これは世の人々が齋拜する竃の神である。次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である。次に庭津日神、次に阿須波神、次に波比岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神。このくだり、大年神の子は、大国御魂の神から大土の神まで、合わせて十六神である。この羽山戸神が大気都比売神を娶って生んだ子は若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那賣神、次に彌豆麻岐神、次に夏高津日神、またの名は夏之賣神。次に秋比売神、次に久久年神、次に久久紀若室葛根神である。このくだり、羽山戸神の子、若山咋神から若室葛根まで、合わせて八神である。
(3)神代11の巻
 ◎ 国平御議の段
天照大御神は、「豊葦原の、千秋の、長五百秋の、水穂の国は、私の子、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命が治めるべき国である」と言って、高天原から降らせた。天忍穗耳命は天の浮橋に立ち、下界を窺って「豊葦原の、千秋の、長五百秋の、水穂の国は、ひどく騒がしく乱れているようだ」と言って、再び高天原へと戻り、その由を天照大御神に説明した。・・・。
(4)神代12の巻
 ◎ 大国主神国避の段
・・・。すると大国主神は「私の子たちの言う通り、私も従おう。この葦原の中つ国は、天神の詔のままに、ことごとく差し上げよう。ただその後の私の住処は、天神の御子が住んで世をお治めになる宮と同様に、どっしりと宮柱が太く、千木を空高く掲げて造ってくだされば、私は黄泉の国に隠れよう。私の子の百八十神たちは、事代主神が指導者として天神に仕えたなら、反逆することはない。」こう言って、・・・。
 
 
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黄泉平坂は主に鳥取県道23号線であることは遺跡分布より明らかである

2018-06-15 01:27:03 | 黄泉比良坂
1 鳥取県は奈良県とどちらが多いかと言われるほど遺跡が多い。その中でも鳥取県中部は遺跡の密集地(県全体の3分の2を占める)である。その中でも倉吉市上神地区周辺は遺跡が密集する地域であり、密集度は全国で1位である。蜘ヶ家山には猿田彦一族が縄文前期からおり、四王寺山には弥生中期から神倭磐余彦の4兄弟がいた。
 鳥取県中部には、まだ未発掘の遺跡が多くあることは考古学会でも知られているが、中央の学会は明るみに出ないように蓋をするばかりである。中央の学会は古事記・日本書紀を改ざんした藤原氏(亡命百済人)の流れだから、古事記・日本書紀を優先し矛盾する考古学的発見には蓋をする。したがって、定説と異なる考古学的発見を理由づけして全国に公表しようとする者は今までいなかった。
 分布図を載せますのでご覧になってください。線で囲んであるのは古墳群。島古墳群は39番。右の向山古墳群で500以上の古墳がある。

 
2  クズマ遺跡第2次発掘調査報告書より
 蜘ヶ家山と四王寺山に挟まれた上神地区周辺(黄泉平坂)は、倉吉市でも有数の遺跡が密集する地域である。上神51号墳墳丘盛土で細石刃石核が出土するなど、その始まりは旧石器時代に及ぶことが明らかになっている。縄文時代では、取木遺跡の竪穴式住居・平地式住居と焼石群(101)、イキス遺跡の落し穴(100)などが、弥生時代前期ではイキス遺跡の土墳墓群(100)が知られる。弥生時代中期では、西前遺跡(70)A地区で竪穴式住居が確認されている。弥生時代後期以降、遺跡の数は増加する。

※ 私見
 黄泉平坂はイザ原遺跡(75)あたりから始まる。蜘ヶ家山(葛城山)と四王寺山(畝傍山)に挟まれた上神地区周辺を通る。不入岡から上神までは緩やかな坂であり女坂であった。上神から蜘ヶ家山を登り、原に至るまでは急な坂であり、男坂であった。
 伊邪那美が伊邪那岐を追いかけたのは縄文晩期である。素戔嗚が大国主を追いかけたのは弥生前期である。遺跡の分布状態より黄泉比良坂は上神より蜘ヶ家山を通り北栄町原に達していた。
 
3  おまけ  東郷池周辺(難波=師木)の遺跡分布

 東郷池周辺(難波=師木)は新羅からの船や使節を迎えるため、歴代天皇は一宮か二宮をシキの宮として東郷池周辺(シキ)に置いていた。東郷池周辺は宮の候補地が多いためどの大王の宮か特定することは難しい。
 
 
 
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「その謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ」について

2018-06-14 05:47:19 | 黄泉比良坂

1 この文章は、藤原氏がのちに付け加えた可能性が高い。
 以下は田村誠一氏の文章です。
 「これは、太安万侶の書きかたと全く違っています。後の世の人が挿入した文章です。
 理由は以下の通りです。
 稗田阿礼は、その土地の状況を口述しましたから、地名の無いところでは、その地名の状況を本文の中に、書き込んでいます。
 例えば、その1例が古事記に書かれている次の部分です。伊邪那伎が黄泉の国から逃げ帰ったときに、穢らわしいものを見たと禊をした場所を書いた部分です。
是以伊邪那伎大神詔。吾者到於伊那志許米志許米岐穢國而在祁理故吾者爲御身之禊而。到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而。禊祓也。
 訳は、『ここをもちて伊邪那伎大神詔りたまひしく、「吾はいなしこめしこめき穢き國に到りてありけり。故、吾は御身の禊ぎ為む。」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき。』
 古事記には、このように表現したところがいっぱいあります。当時は、どこでも地名があったわけではありません。稗田阿礼は訪れたところに地名がないときは、その辺りの様子を書きました。」
2 私見
(1)田村誠一氏の言う「伊邪那岐は竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき」とは鳥取県北栄町の原集落であっった。
 根堅洲国は倉吉、葦原中津国は北栄町大島の周辺であることが明らかになったので、黄泉比良坂は倉吉と北栄町の間になければならない。
 黄泉比良坂とは、「黄泉(黄泉国)と津(葦原中津国)とを結ぶ平坂線」というような意味と思います。
 県道23号線(倉吉ー由良線)は難読地名である不入岡(フニオカ)や上神(カズワ)の横を通っているし、なだらかな坂になっている。
 もし、黄泉比良坂を特定せよ、と言われたら、県道23号線に沿った道路と思われる。
 遺跡発掘報告書は、遺跡の分布状況から、古代は倉吉市上神から蜘ヶ家山を通り北栄町原集落に至る道路があり、古代の幹線道路だったのではないか、とする。県道23号線は当時、汽水湖であった穴沢を通るので幹線道路は上神から蜘ヶ家山に上がって北栄町原に至っていたと思われる。

(2) また、紀元前200年頃にはヨミの国はあったと思われる。それを中国の黄泉という字を当てはめたのは、太安万侶であろうか。私は、これも百済史官ではないかと思う。中国文化に詳しい百済史官の書き換えだと思っています。(山上憶良は702年の遣唐使に同行して中国に行っている)。だから、黄泉(死の世界)と意味ありげな漢字にまどわされないで伝染病の収容所はあるが普通の国であった。根堅州国は稗田阿礼がその国の地形を表して言った造語でありヨミの国という呼び方が紀元前200年頃には通用していたものと思われる。
(3) 古事記は、712年に完成し、その後、歴史上から消えてしまう。812年に見つかったことが「弘仁私記」に記されている。その後、又、消えてしまい、現在は真福寺本という写本が残っている。書いた人は、藤原朝臣在判で、1263年のことであった。この人が書き換えた可能性もある。
 あるいは、451年の間、藤原氏のもとに在ったのだから、藤原氏20代にわたって、「辻褄が合う(整合する)ように書き換えよ」という言い伝えがあったのかもしれない。

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須勢理姫(宇迦之御魂命)は宇迦能山の兄(大国主)と東山神社の父(素戔嗚)との間を行き来していた

2018-06-13 07:05:12 | 素戔嗚命
 
1  鳥取県中部の宇迦之御魂命を祀る神社(鳥取県神社誌より)
 鳥取県中部の宇迦之御魂命を祀る神社はこれが総てである。右側の神社を線でつないでみる。
 舩内神社の祭神は素戔嗚も含むがこれは中江神社からの大正合併によるものであるから、宇迦之御魂命は素戔嗚と一緒ではなかった。小田神社、田内神社、村上神社、勝宿祢神社も一人である。谷田神社と東山神社は合併前から素戔嗚と祀られている。村上神社にいたのは川を渡るためと思われる。

2  勝宿祢神社
祭神 彦火火出見命、宇迦之御魂命

3  村上神社
祭神 土御祖之命、奥津比古命、奥津比女命、宇迦之御魂命

4  田内神社 
祭神 天穂日之命、菅原道真命、宇迦之御魂命

5  小田神社
祭神 大山祇命、宇迦之御魂命

6  舩内神社
祭神 猿田彦神、素戔嗚尊(大正5年中江神社より合併)、経津主神、宇迦之御魂命

7  國坂神社
祭神 少彦名神

國坂神社は大国主の子孫が奉祀している。
鳥取県北栄町の茶臼山が宇迦能山であった。

8  茶臼山の東側にある松樹庵
 
 
 この松樹庵は一年中絶えることのない清水が湧くところであり、古代でも人が住むことができた。大国主と少彦名と須勢理姫(宇迦之御魂)と八上姫はここに住んでいた。

9  松江「ホーランエンヤ」の拠点である城山稲荷神社の祭神も宇迦之御魂命である。ただし、城山稲荷神社の創建は松平直政によって1639年になされたものである。鳥取県中部の神社はみな由緒に「創立年代は詳ならず」と書かされている。
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伊邪那岐命・伊邪那美命は倉吉市の新宮神社、素戔嗚命は倉吉市の清熊稲荷神社と東山神社にいた

2018-06-12 08:06:28 | 素戔嗚命
 
1  倉吉市の松ヶ坪遺跡から縄文晩期と弥生前期の遺物が出土した。
 松ヶ坪遺跡は左のビルのあたり、大御堂廃寺のすぐ南。
 琴浦町の中尾第一遺跡で縄文時代晩期終末期と弥生時代前期の遺物が発掘された。中尾集落は天太玉命と和久産巣日神が降臨した最初の場所である。縄文時代晩期終末期の遺物は縄文人である猿田彦一族が使っていたものであり、弥生時代前期の遺物は徐福一行が新しく作ったと思われる。
 湯梨浜町の長瀬高浜発掘調査報告書で「また縄文時代晩期の後半代に盛行する凸帯を持つ甕や鉢の小片が高浜遺跡からわずかに出土している。」とある。長瀬高浜遺跡から発掘された弥生前期の土器は玉祖命が使っていたものであり、縄文晩期の土器は猿田彦の一族が使っていたと思われる。
 猿田彦の一族は北栄町北条島に縄文前期から住んでいた。そして紀元前210年にこの地に到着し蒜山に上がっていた徐福一行に協力していた。だから、縄文晩期と弥生前期の遺物が一緒に見つかるのである。縄文晩期と弥生前期の遺物が一緒に発掘されるところは、徐福一行のメンバーが蒜山から降り立ったところと思われる。
 松ヶ坪遺跡で見つかった縄文晩期と弥生前期の遺物も伊邪那岐命、伊邪那美命の降臨を示している。その場所が駄経寺の新宮神社である。
 伊邪那岐は黄泉国(根国)を去って那岐山の周辺に拠点を移していた。素戔嗚は蒜山で天照大御神に暇乞いをしてから三朝町山田で八岐大蛇を見つけ成敗してから、稲田姫とともに伊邪那岐の移った鳥取県旧八頭郡に住んで大国主を生んだ。
 その後、素戔嗚は神大市比売との間に須勢理姫(宇迦之御魂命)を生んで、倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社に降臨した。古事記・根国での冒険はここが舞台と思われる。素戔嗚はその後、米田町の東山神社の地に移り十握剣を石上神宮(大原神社)に奉納した。東山神社は大原神社とは天神川を挟んで、ほぼ東西に位置する。また東側も西側も谷になっており、天然の要害の地である。
 須勢理姫は宇迦能山(茶臼山)に行ってからも東山神社に移った素戔嗚のもとに行ったり来たりしていた。

2  新宮神社
 
東伯郡倉吉町大字駄経寺字宮ノ前鎮座 
祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命 
由緒 古来より真宮大明神と称していた。
 天武天皇の和風諡号は瀛真人である。「真人」とは道教で瀛州(蒜山高原)に住む最高の仙人(伊邪那岐命)を意味する。天武天皇は倉吉市駄経寺町の新宮神社で伊邪那岐命を祀っていた。新宮神社では伊邪那岐命を真宮大明神と称した。真宮大明神とは「真人」のことである。

3  東山神社
 
 
 東伯郡倉吉町大字米田字僧ヶ平鎮座 
祭神 素戔嗚命 宇迦之御魂命(須勢理姫命)
由緒 古来より牛頭天王と称していた。

4 伊邪那岐命、伊邪那美命にしろ素戔嗚命にしろ全国の多くの神社で祀られているから、祭神を書き換える必要がなかった。賀茂皇大神宮には天武天皇が祭神になっていたから、書き換えなければならなかった。
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根国での冒険の舞台は鳥取県倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社であった

2018-06-12 05:06:33 | 素戔嗚命
 根国での冒険の舞台は鳥取県倉吉市余戸谷町の谷田神社である、としていたが、谷田神社の痕跡が見つからない。鳥取県神社誌(昭和9年発行)には載っているので、合併(大正時代)までは存在していたはずである。山の周りを廻っても見つからないので、八幡神社の宮司に聞いたところ「 清熊稲荷神社の登り口の5~6軒家があるあたりではないか」という。しかし、祠も何もない。ひょっとしたら、宇迦之御魂命は稲荷神だから現在の清熊稲荷神社ではないのだろうか、と思い上がってみることにした。
 この丘陵地の一等地にあった。八幡神社よりもずっと古いのだから一等地にあっておかしくない。
鳥居はこの冬に倒れた。神社庁の管理する神社ではないので修理する予算もないのだろう。
だいぶ上がったがまだまだである。右が泊瀬の山(打吹山)である。
右から上がってきてまだ左に上がっていかなくてはならない。石段も掃除されてなく、落ち葉で見えないくらいである。
宇迦之御魂命(須勢理姫)は稲荷神だから狐である。
かなりの荒廃ぶりである。 大正2年に神社庁の管理ではなくなったのだから、清熊稲荷神社が谷田神社と思われる。
家が何軒でも建てられるような広さがあった。蛇もムカデも出そうなところである。
根国での冒険の舞台は鳥取県倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社であった。
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根堅洲国(黄泉国)は倉吉市中心市街地にあった 2

2018-06-11 14:39:21 | 素戔嗚命
 川のかたちは木の根に似ている。

1  古事記・根国での冒険
 「大国主は須勢理姫を背中に負い逃げ出した。素戔嗚が髪をいちいちほどいている間に、二人はいっそう遠くへ、遠くへとのがれて行った。素戔嗚は風のようにあとを追って、ようやく黄泉比良坂まで達したが、そこはもう根国の境である。そこで大声で『・・・・・ここな奴め!』といった」とある。
 
2  古事記・黄泉国
 「伊邪那岐は追われて鬘を投げ捨てた。それがブドウとなり、なお遠く逃れることができた。つぎに櫛を投げ捨てた。それが竹の子となり、さらに遠くへ、遠くへとのがれていった。伊邪那美は八柱の雷神と夜見国の軍隊をつけて追いかけさせた。伊邪那岐は十握剣を振りながら遠くへ、遠くへとのがれて行った。伊邪那岐はようやく黄泉比良坂の麓まで辿り着くことができた」とある。
 
3  素戔嗚の本拠地から黄泉比良坂の麓までと伊邪那美の収容されていた洞窟から黄泉比良坂の麓までとはどれくらいの距離であったのだろうか。
 素戔嗚の本拠地(倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社)から黄泉比良坂の麓(倉吉市不入岡)までは約2kmくらいであった。「二人はいっそう遠くへ、遠くへとのがれて行った」距離は2kmほどであった。
 伊邪那美の収容されていた洞窟は塞がれている可能性がある。百済国再興(比定地を他所にする)のためには隠さなければならなかった。原古事記には夜見国の軍隊の記載はなかった。「千五百人の夜見国の軍隊」は平安時代に藤原氏が書き加えたものである。伊邪那美の洞窟は打吹山の周辺にあったはずであるから、黄泉比良坂の麓(不入岡)までは、2km~3kmくらいである。
 
4  伊邪那岐・伊邪那美は第1次(紀元前219年)の徐福一行に会ってから、高天原(蒜山)より降臨し根堅洲国(倉吉市中心市街地)を治めていた。二人で葦原中津国(北栄町)の国造りも始めていたが、伊邪那美が病気になったので中断していた。素戔嗚と出会ったのは伊邪那美を見舞いに行って追われて逃げていた時であった。素戔嗚は徐福の第2次(紀元前210年)の2番目のリーダーとして辰韓(のちの新羅)より伯耆国(伯州)に結集していた。伊邪那岐は素戔嗚に「私に代わって海原を治めよ」と言った。海原とは長谷(泊瀬)の海原であり根堅洲国と同じ地域である。
 
5  素戔嗚は海原を治めようと泊瀬の海原を調べているうちに、八岐大蛇を発見した。八岐大蛇を退治してから伊邪那岐の後を追って稲田姫とともに鳥取県八頭郡に住んでいた。その後、神大市比売との間に出来た宇迦之御魂命(須勢理姫)とともに蒜山側から根国の清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)に移って住んでいた。古事記・「根国での冒険」の舞台はここと思われる。
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倉吉市中心市街地は根堅州国であり素戔嗚が治めよと言われた海原であった 

2018-06-11 14:13:51 | 素戔嗚命

1 古事記には素戔嗚が根堅州国に住んでいることが書かれている。日本書紀は略して根国としか書いていない。
 稗田阿礼はある場所を書き表すのにあとで特定できるようにその場の具体的な特徴を書いている。根堅州国とは稗田阿礼の造語である。「州」とは川と川の間に挟まれた陸地である。支流も含めて全体が根のような川があり、川と川に挟まれた岩盤でできた堅い州があった。そこが根堅州国であった。根堅州国は「堅」の字が入っているから、川と川の間(小鴨川と天神川の間)に挟まれた岩盤でできた堅いところであった。

 倉吉市周辺の川である。まるで木の根のように見える。全国の川の中で一番木の根に似ているのは鳥取県の天神川である。倉吉市の打吹山の北側に小鴨川と天神川に挟まれた州があり、そこが岩盤でできていた。そこが根堅州国であった。
 葦原中津国を見ればわかるように、当時の国とはあの程度の広さであったことを考えると、根堅州国も現在の倉吉市の中心部であったと思われる。

2 縄文海進のピーク時は倉吉市の中心部近く(住吉町)まで海が来ていた(住吉神社前の案内板より)が、素戔嗚の時代には縄文海退により、倉吉市中心部は原になっていた。以前は海だったから海原と言った。素戔嗚はその海原を治めるように命じられた。

  古事記に言う「海原」とは、昔海であったが、その時(紀元前200年ごろ海抜4m)は原になっていたところのことを言う。倉吉市住吉神社の由緒に「このあたり一帯入江であった」とする。その状態になるのは海抜20mのときである。

 伊邪那岐は素戔嗚に海原を治めよといった。伊邪那岐・伊邪那美は蒜山高原(瀛州)より海原(倉吉市駄経寺)に降臨していた。その証が縄文晩期・弥生前期の松ヶ坪遺跡である。天武天皇はそのことを知っていたから松ヶ坪遺跡の前に大御堂を建てた。伯耆民談記は「新宮大明神(祭神 伊邪那岐・伊邪那美)は駄経寺(大御堂)の埴守であった」とする。ヤマト王権は伊邪那岐・伊邪那美(祖神)を祀っていた。第八代天皇や第九代天皇も北栄町大島で伊邪那岐・伊邪那美(祖神)を祀っていた(宮崎神社の由緒より)。
 海原は世界中にあるが、原古事記には◯◯の海原と書いてあったはずである。藤原氏は◯◯を消している。稲飯命が入座した海原は辰韓の海原(海抜4m~20m)であった。

3 古事記・「根国での冒険」の舞台は清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)と思われる。このあたりも根堅州国(黄泉国)と言っていた。大国主命が素戔嗚命を頼ってきた根堅州国もここであった。素戔嗚命は三朝町山田(ヤマタ)にいた八俣大蛇を退治してその時使った十握の剣を倉吉市大原の石上神宮に奉納した。素戔嗚命が居た倉吉市米田の東山神社は天神川を挟んで石上神宮の西にある。

 

 

 
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宇迦之御魂命(須勢理姫)を祀る鳥取県の神社38社(合併前の神社も含む)

2018-06-10 01:54:38 | 素戔嗚命

1  因幡国(鳥取県東部)22社(合併前の神社も含む)
小羽尾神社 岩美郡東村小羽尾
多居乃上神社(須勢理姫) 岩美郡宇部村
大平神社 岩美郡津ノ井村
虫井神社(以下の2社を合併) 八頭郡山形村大呂
芦津神社 八頭郡山形村芦津河原
八河神社 八頭郡山形村八河谷字宮ノ下
岩神神社 八頭郡富沢村岩神
三輪神社 八頭郡智頭町南方
向田神社 八頭郡土師村穂見
祓谷神社(以下の2社を合併) 八頭郡土師村三田祓谷
井上神社 八頭郡土師村三田湯谷
小谷神社 八頭郡土師村山根荒神谷口井手ノ上
土師神社(以下の3社を合併) 八頭郡土師村埴師宮山
北谷神社 八頭郡土師村埴師香伝地
木原神社 八頭郡土師村木原宮郡家
勝手神社 八頭郡土師村横田本谷
河野神社(以下の4社を合併) 八頭郡土師村三吉檜谷口
広嶺神社 八頭郡土師村三吉山田
宮国神社 八頭郡土師村三吉十日市
檜神社 八頭郡土師村三吉大坪
聖神社 八頭郡土師村慶所宮ノ尾
大屋神社 八頭郡那岐村大屋一ノ谷

2  伯耆国(鳥取県中部)12社
谷田神社(八幡神社) 倉吉市余戸谷町四十二丸
勝宿禰神社 倉吉市下田中
神庭神社 倉吉市円谷
東山神社 倉吉市米田町
村上神社 倉吉市巌城村ノ上
田内神社 倉吉市巌城宮ノ前
小田神社 倉吉市小田宮ノ谷
船内神社 倉吉市下古川
古布庄神社 琴浦町古布庄
下見神社 琴浦町三本杉
諏訪神社 琴浦町八橋
大父神社 琴浦町以西大父

3  伯耆国(鳥取県西部)4社
唐王神社(須勢理姫) 西伯郡所子村唐王
貴布禰神社 西伯郡車尾村車尾
上代神社(須勢理姫) 日野郡石見村上代
板井原神社(須勢理姫)日野郡根雨板井原
※私見
 唐王神社は須勢理姫が亡くなったところであるとする。これをもって鳥取県西伯郡所子村も出雲国に含まれていたのではないかとする説があるが鳥取県西部は出雲国ではない。大国主は鳥取県中部で亡くなっている。鳥取県西部4社のうち3社の祭神を隠さず須勢理姫としているところに藤原氏の何らかの意図が見て取れる。大国主の活動本拠地は鳥取県西部より西であり鳥取県中部は何もないよ、としたかったのである。そうなら、なぜ藤原朝廷は鳥取県中部に伯耆国府を造ったの、ということである。

4  私見
(1) 鳥取県神社誌昭和9年刊に記載されている須勢理姫(宇迦之御魂命)を祭神とする神社は合併前の神社を含めると38社である。そのうち智頭町が18社でありほぼ半数となる。大山祇と神大市姫は岡山県真庭市社にいたのではないかと思われる。その後、大山祇と神大市姫は伊邪那岐と一緒に鳥取県智頭町に来ていた。智頭町には大屋がある。大屋毘古は智頭町の大屋にいたと思われる。木国は紀国でも紀伊国(和歌山県)でもない鳥取県智頭町であった。素戔嗚は櫛名田比賣との間に大国主が出来てから、鳥取県智頭町(木国)の大山祇と神大市姫のもとに行っていた。素戔嗚と神大市姫との間に大年神と須勢理姫が生まれた。伊邪那岐が亡くなって素戔嗚と須勢理姫は最初の約束どおり蒜山経由で鳥取県倉吉市(根堅洲国)の清熊稲荷神社に降りてきた。大国主は中山神が来るまで中山神社(御真木)にいたが、その後、素戔嗚を追って鳥取県倉吉市(根堅洲国)の清熊稲荷神社に降りた。
(2) 倉吉市の八幡神社について
 八幡神社 祭神 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 素戔嗚命 宇迦之御魂命 武内宿禰命
鎮座地 東伯郡倉吉町大字余戸谷町字四十二丸
現在地 倉吉市八幡町3626-3
由緒 大正2年 谷田神社 祭神 素戔嗚命 宇迦之御魂命(須勢理姫) 倉吉町余戸谷町四十二丸(八幡神社の現社地)を合併する。
 谷田神社が大正2年まで倉吉町余戸谷町四十二丸にあった。祭神は素戔嗚命と宇迦之御魂命(須勢理姫)であった。谷田神社は清熊稲荷神社に神社名を変えている。
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天穂日は素戔嗚と稲田姫の御殿を守るため鳥取県の旧八頭郡にいた

2018-06-09 12:49:49 | 素戔嗚命
1  天穂日を祀る旧八頭郡の神社(合併前の神社も含む)

 ※日下部上神社   八頭郡安部村大字日下部字宮ノ谷(祭神 天穂日命、明治元年合祀ー倉稲魂命、保食神)

※隼神社  八頭郡隼村大字見槻中字宮ノ本(祭神25神)
※土師神社        八頭郡賀茂村大字稲荷字川向(祭神 天穂日命)
 
 
※大江神社   八頭郡大伊村大字橋本字馬場(祭神61神)
 河下の北側だけを見張っていればよい、地理的には天然の要害の地である。北側には船岡町がある。周囲が八重垣の地である。因幡国二ノ宮であり、素戔嗚と稲田姫が初めに住んだ御殿と思われる。大国主はここで生まれた。北側で天穂日が見張りをしていた。
 
※湯谷神社   八頭郡西郷村大字湯谷字大瀧(祭神 天穂日命、明治元年合祀ー瀬織津姫神、保食神)
※都波奈彌神社   八頭郡散岐村大字和奈見字林ノ内(同村字宮の上 岡神社、祭神8神)
※都波只知上神社  八頭郡散岐村大字佐貫字林ノ谷(同村字宮の前 石坪神社、祭神19神)
 
※田岡神社  八頭郡佐治村大字津無字南ヶ市
 素戔嗚が 神大市比売と結婚したので、稲田姫とその両親と幼い大国主はこちらに移ったと思われる。警護をしていた天穂日も湯谷神社、都波奈彌神社、都波只知上神社に移っていたと思われる。
 
※向山神社    八頭郡智頭町大字市瀬字上御手屋敷(千賊山の板井原集落内)
 板井原を八上売沼神社に向かって降りていくと途中に「和多里世箭子の水」という説明板がある。そこには「千賊(洗足)山に住んでいた鬼が、日中人目を忍びワサビ谷を下り、この水を飲んで馬乗橋下のオウ穴で水浴し、八上姫に会いに行ったと言い伝えられている」とある。
 
※八上売沼神社  祭神 八上姫神  八頭郡八上村大字曳田字上土居
「この曳田郷をひらいたのは漂着した外地の船人たちである」とする。

※私見
(1) 大江神社と田岡神社とは千代川を挟んで左右対称の位置にある。これは素戔嗚がいた時(大江神社)と素戔嗚が神大市比売と結婚して稲田姫のもとを去っていなくなった時(田岡神社)とに分けられると思われる。
 大江神社は天然の要害の地であり、周囲を八重垣といっても過言ではない。大江神社には大国主、天穂日、素戔嗚、稲田姫がいたと思われる。大国主の生誕地は大江神社と思われる。藤原氏はそれを隠すために全国一祭神を多くした。

 大江神社を守るために日下部上神社と隼神社に天穂日がいたものと思われる。
 田岡神社には素戔嗚が神大市比売と結婚して稲田姫のもとを去ってから大国主と稲田姫は移ったと思われる。
 田岡神社を守るために湯谷神社と都波奈彌神社と都波只知上神社に天穂日はいたと思われる。
 都波奈彌神社と都波只知上神社と隼神社と大江神社は祭神が多すぎるが、天穂日を目立たなくするために祭神を多くしたと思われる。
(2) 土師神社と向山神社にも天穂日が祀られているが、土師神社は川のすぐそばにあり簡単に浸水しそうなところである。大江神社や田岡神社とは離れており天穂日が警護をしていたとは思われない。土師神社には準王一族(出雲神族)がいたと思われる。
 向山神社は千賊山のまだ奥の高いところにある。千賊山には八上姫と会った鬼の伝承があり、鬼といわれていた準王一族(出雲神族)がいた。千賊山の奥の板井原にも準王一族(出雲神族)はいたと思われる。この神社も大江神社や田岡神社とは離れており天穂日が大国主を警護をしていたとは思われない。
 土師神社は賀茂神社に、向山神社は諏訪神社に合併された。賀茂神社も諏訪神社も準王一族(出雲神族)を崇拝していた藤原氏の神社ネットワークとして造られたものである。準王(千家系図2代の建比良鳥に比定)一族(出雲神族)は初代天穂日を祀っていたから、土師神社と向山神社に天穂日を祀っていたのは準王一族(出雲神族)であったと思われる。土師神社(天穂日)と向山神社(天穂日)の地にいたのは天穂日ではなく準王一族(出雲神族)と思われる。

2  那岐神社 八頭郡那岐村大字大春字宮の本(祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命ほか17神)

 伊邪那岐命は黄泉国が嫌になっていたから、高天原、泊瀬の海原、夜の食国は三貴神に任せて八頭郡の那岐村に移った。

3  素戔嗚は海原を治めるつもりでいたが三朝町山田で八岐大蛇を殺してから殺害現場の近くにいることができず、伊邪那岐命が移った那岐村の近く(八頭町大江郷)に稲田姫との御殿を建てた。
 素戔嗚と稲田姫は大江神社と田岡神社に来ていたから、天穂日も素戔嗚を守るために旧八頭郡に来ていた。大国主命は大江神社で生まれた。紀元前208年頃と思われる。鬼が千賊山に来たとき(早くとも紀元前194年)には大国主は14歳くらいになっていた。八上姫をめぐる大国主のライバルは準王一族(のちに鬼・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる)であった。素戔嗚は大国主がまだ幼い頃に大国主と別れている。根国での冒険は父親が息子に対して強くなるための躾けであった。

4  大山祇も伊邪那岐と一緒に那岐山周辺に来ていた。

 大屋神社 那岐村大字大屋字一ノ谷奥(祭神 素戔嗚、宇迦之御魂命、大山祇命)
 宇迦之御魂命(須勢理姫)と父と祖父は最初ここにいたものと思われる。
 大屋という地名は岡山県、兵庫県にもあるが大屋比古のいた木国は智頭町かもしれない。

5  おまけ

 那岐駅

 那岐神社の真向かいにある高貴山極楽寺
 高貴山極楽寺(開創646年)は乙巳の変(645年)の藤原氏と関係がありそうである。
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古事記・「八雲立つの条」は改ざんされている。

2018-06-09 05:38:01 | 素戔嗚命
 
1 古事記・「八雲立つの条」
 「素戔嗚命は・・・宮殿を建てるべき土地を、出雲の国の中に探し求めた。訪ね歩いて、須賀という土地に至った時に、私の心はすがすがしいと感慨を洩らした・・・須賀と言う」とある。「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作 その八重垣を」と歌を詠んだ。足名椎命を宮殿の首長となした。
 次に素戔嗚命の系譜が書かれ「その後、素戔嗚命は、かねての望み通り母の国を訪ねて根堅洲国へと赴いた」とある。

2 素戔嗚命の系譜
 素戔嗚と神大市姫(大山祇の娘)との間に出来た子が、大年神と宇迦之御魂神である、とする。素戔嗚と櫛名田比賣との間に出来た子である八島士奴美神について「八島士奴美神が刺国大神の娘、名は刺国若比売を妻として、生ませた御子は、大国主神」とする。
 古事記・「根国での冒険の条」において「須勢理姫は大国主を助け大国主は須勢理姫を背負って黄泉比良坂まで逃げた」とある。「八雲立つの条」の素戔嗚命の系譜には娘の須勢理姫が書かれていないし、須勢理姫の母親が誰かわからない。須勢理姫は「根国での冒険の条」に詳しく書かれているので実在した姫である。須勢理姫は宇迦能山(北栄町の茶臼山=伊那佐山)で大国主と一緒に暮らした。鳥取県神社誌にも多く出てくる宇迦之御魂神(谷田神社の祭神)とは宇迦能山(北栄町の茶臼山=伊那佐山=大神山)に大国主と一緒に住んでいた須勢理姫のことではないのだろうか。宇迦之御魂神=須勢理姫であると思われる。倉吉市余戸谷町の谷田神社(清熊稲荷神社)に素戔嗚と一緒に住んでいた。藤原氏は手の込んだ改ざんをするものである。
 「八雲立つの条」の系譜が正しいとすると、大国主は素戔嗚の孫となるが、先代旧事本紀では、素戔嗚と稲田姫との間に生まれた八島士奴美神は大国主神、大己貴命であるとする。それが事実ならば、大国主と須勢理姫は異母兄妹ということになる。八橋の地名由来では「素戔嗚の孫の高姫」とある。血のつながった孫という意味にとれる。先代旧事本記は正しいかもしれない。
 「八雲立つの条」に書かれている素戔嗚の系譜は改ざんされている。「八雲立つの条」と「根国での冒険の条」のどちらを信じるかであるが、「根国での冒険の条」を信じるべきである。「八雲立つの条」は藤原氏が準王一族のいた島根県東部を聖地にすべく出雲に素戔嗚の伝承を創設していったので、それに合わせるために改ざんした条である。原古事記に記載のあった「根堅洲国へと赴くまでの宮殿」を出雲の須賀にあったことにした。宮殿を造った土地は出雲の須賀だとする記述はのちの藤原氏による改ざんである。では原古事記に書いてあったはずの素戔嗚が宮殿を造った土地は何処だろうか。私は三朝町山田集落や坂本集落の東南の大江神社か田岡神社のあたりではないかと推察する。

3 祭神が足名椎命・手名椎命・須佐之男・櫛名田比賣である神社は鳥取県神社誌831社中、田岡神社と境港市の余子神社と八頭町の大江神社の3社である。紀元前200年頃は今より4m海面が高く境港市余子のあたりは海であったので余子に素戔嗚の宮殿を造ることはできない。大江の大は王であり素戔嗚と思われる。祭神が61神あるのは素戔嗚の御殿があったことを隠すためと思われる。地形的には田岡神社と同じ緯度の東にある。

4 大江神社

 大江神社の祭神は多いが、王と呼べるのは素戔嗚がふさわしい。
 大江神社や田岡神社の南には岡山県奈義町があり那岐山があり鳥取県那岐村があった。伊邪那岐の本拠地があったと思われる。素戔嗚命が根堅洲国(倉吉市中心市街地)の谷田神社(清熊稲荷神社)や東山神社(祭神は須佐之男命と宇迦之御魂神)に行く前に宮殿を造った土地は周辺が山に囲まれた大江神社ではないかと思われる。天照大御神も霊石山に白兎に導かれて登ったという伝承がある。

5 田岡神社(昭和9年刊鳥取県神社誌)
鎮座地 鳥取県八頭郡佐治村大字津無字南ヶ市
祭神 足名椎命・手名椎命・須佐之男・櫛名田比賣
 由緒には「山城国より勧請せり」とあるが、藤原氏は全国神社ネットワーク(現在の公民館機能)を使い、鳥取県の神社の多くに「~より勧請せり」と書かせている。

昭和9年では立派な社殿があった。
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草薙剣(八俣大蛇が持っていた)を模して作られたと思われる稲荷山古墳出土の鉄剣と秦兵馬俑一号坑出土の青銅剣

2018-06-07 07:38:40 | 素戔嗚命
 
1  稲荷山古墳 鉄剣 レプリカ
 稲荷山古墳出土の鉄剣は八俣大蛇が持っていた草薙剣を模して作ったものと思われる。製作は471年という説がある。

2  兵馬俑博物館  秦兵馬俑一号坑出土 秦青銅剣

クロームメッキが施されているため今でも銀色に輝いている。

3  稲荷山古墳出土の鉄剣のほうが少し短いだけで形状は両刃でありほぼ同じである。
 400年経っても錆びずに短時間で広範囲の草が刈れるのは、始皇帝が持っていた青銅剣しかないと思われる。2200年経った今でも十数枚の紙が切れるそうである。
 八俣大蛇とされていたのは、第一次の徐福(紀元前219年)を追ってきた始皇帝の家来たちであった。彼らは辰韓(朝鮮半島の東側)から出航して鳥取県湯梨浜町の東郷池に到着し、上陸して三朝町山田(ヤマタ)に住んでいた。彼らは9年後に素戔嗚が現れるまで、毎年娘をさらった。稲田姫が8人目の娘であった。

4 ちなみに、素戔嗚が蒜山高天原に上がってきたのは、三朝町山田で始皇帝の家来たちを発見したので、天照大神に報告と忠告に上がってきたのではないだろうか。「なぜ、始皇帝に報告しないのか」と忠告したと思われる。天照大神と櫛稲田姫のためにも素戔嗚は始皇帝の家来たちを成敗する必要があった。始皇帝の家来たちに濃い酒を飲ませて成敗してから、始皇帝陵から見つかったのと同じ剣を持って天照大神に献上したが、天照大神はその剣の存在を知っていたから、なにも言わずに受け取っている。徐福もその剣の存在を知っているから、黙って受け取る。古事記には「素戔嗚はこの太刀を取り、『これは不思議なものだ』と思ったので、天照大神に報告した」と書かれているだけで天照大神の反応が書いてない。徐福(天照大神)は事情を知っているから、何も言わなかったと思われる。曲がっても元に戻るから「不思議なもの」(形状記憶合金)なのである。それ以来、天叢雲剣として天皇家の三種の神器となる。

5 梅宮大社の神職者で学者玉木正英の「玉籤集」裏書にある記載は、綱吉の時代、熱田神宮で「布をほどいて剣を見ると、長さは2尺78寸(およそ85センチメートル)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、剣の中ほどは盛り上がっていて元から6寸(およそ18センチメートル)ほどは節立って魚の脊骨のようであり、全体的に白っぽく、錆はなかった」とある。

 形状と白っぽさは秦兵馬俑一号坑出土のクロームメッキされた青銅剣と同じである。

6 「天叢雲剣は天武天皇に崇った」という日本書紀の記述は天武天皇の暗殺を隠ぺいするための不比等の作り話である。天武天皇は天照大神の正統な承継者である。テロでそれ以前の天照大神から続く政権を奪い取った天智こそ崇られてもおかしくないのであり、天武天皇が崇られることはない。天武天皇は天叢雲剣に崇られて死んだのではなく、不比等に頼まれた持統によって毒殺された。毒殺した張本人の不比等が本当のことを日本書紀に書くわけがない。天武天皇が死んだ原因をなぜわざわざ書く必要があったのか。当時でも疑う者がいたからと思われる。
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八岐大蛇は第1次の徐福一行(紀元前219年)を追いかけてきた始皇帝の家来たちであった

2018-06-06 05:00:48 | 素戔嗚命
 
1 八俣大蛇は八俣だから九頭竜のことであり、九頭竜なら中国にも伝説として存在する。しかし、素戔嗚と話ができて、酒を飲んでくれるような関係である。八俣大蛇とされていたのは、素戔嗚と同じ秦語を話し、始皇帝の剣を持っていた第一次の徐福(紀元前219年)を追ってきていた始皇帝の家来と思われる。彼らも伯耆国に到着し、東郷池から波関峠(忍坂)を越えて、三朝町片柴(忍坂邑)を通り、三朝町山田(ヤマタ)の地に辿り着いていた。八俣の大蛇伝説は八の字が好きな藤原氏が三朝町山田(ヤマタ)であった事件を後に脚色したものと思われる。
 始皇帝の剣は始皇帝陵から見つかっているものでもそんなにたくさんは無いようである。しかし、今でも錆びずにカミソリのような切れ味でしかも形状記憶合金でできているというから、その当時でも貴重なものであったと思われる。素戔嗚が天照大御神に献上してそれが天皇家の三種の神器にされるのも不思議なことではない。熱田神宮にあるのを見たと言う者の証言によれば始皇帝陵から見つかった剣とよく似た両刃の剣だそうである。倭姫命が持っていたということは、倭姫命は女王だったということである。このことからも、倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)が卑弥呼(日女命)であったことが判る。

2 素戔嗚は伊邪那美(母)を知っているので、第1次の徐福一行(紀元前219年)の時から、徐福(天照大神)に同行しており、9年後の第2次の徐福一行(紀元前210年)にも同行していた。素戔嗚と徐福(天照大神)一行は辰韓より次々に伯州(伯耆国)に到着した。徐福本隊(三貴神)は最初に出雲の日御碕神社(祭神は天照大神と素戔嗚)に到着し、次に米子市陰田町の日御碕神社→境港市渡の日御碕神社→大山町御崎の日御碕神社→北栄町の葦原中津国に到着した。伊邪那岐は三貴神を迎えるために葦原中津国の浮島(北栄町大島)にいた。天照大神は伊邪那岐に再会して灘手神社(倉吉市穴沢)にいたが、高天原(蒜山高原)を治めるように言われ、高天原(蒜山高原)に上がった。素戔嗚は(泊瀬の)海原を治めるように言われ、「母の国」と言って朝日神社(倉吉市谷)で泣いた。素戔嗚は泊瀬の海原(倉吉市中心市街地)を調べているうちに、三朝町坂本で稲田姫の両親に会い、「三朝町山田に9年前に到着していた始皇帝の家来たちがいて、毎年一人づつ娘をさらっていく。稲田姫は8人目であり泣いている」ことを聞き、稲田姫と結婚することを約束させて、始皇帝の家来たちに話しかけ、濃い酒を飲ませて殺害した。始皇帝の家来たちは始皇帝陵で見つかった両刃で錆びない形状記憶合金でできた剣を持っていた。素戔嗚はその不思議な剣を天照大神に渡した。それが天叢雲の剣(草薙の剣)である。

3 素戔嗚は出雲の船通山の頂に降りたりしていないし爪を剥がされたりしていない。素戔嗚についての古文献や伝承の多くは、藤原氏による改ざん挿入潤色と思われる。伊邪那岐は黄泉国を嫌い那岐村(鳥取県智頭町)を次の本拠地にした。素戔嗚は伊邪那岐の本拠地(鳥取県智頭町那岐村)の近くの八頭町大江郷に稲田姫との御殿を造った。天穂日はその御殿を守っていた。大国主はそこで生まれた。
 大国主が14歳くらいになった頃(紀元前194年頃)に殷王朝末裔の準王一族も出雲・伯耆・因幡に到着する。因幡の白兎伝説に登場する大国主の兄とされる八十神は殷王朝末裔の準王一族であった。彼らは後に全国に展開し鬼・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれた。

4 天照大神(徐福)が伊邪那岐と葦原中津国で再会し、高天原を治めよと言われたときに、伊邪那岐は「連れてきた多くの少年少女を水田稲作のできる葦原中津国で育てるがよい」と言ったはずである。いつまでも葦原中津国で泣いている素戔嗚に、伊邪那岐は「この国に住んではならぬ」といった。伊邪那岐や大国主のいう国造りとは人口を増やすことであり、そのための育児・食育の環境を整えることであった。

5 天照大神(徐福)たちが蒜山周辺で仙薬を探しているうちに、葦原中津国は準王一族に占領されていた。天忍穂耳は下界(葦原中津国)が大変騒がしい、と言った。大国主は兄の八十神(準王一族)を素戔嗚からもらった武器で蹴散らし従わせた。天穂日は大国主に準王一族の拠点(松江市の熊野大社)を聞き出し、能義平野(安来市)に行った。天穂日は準王を大穴持命(大国主)と名づけた。それ以来出雲神族の歴代の王を大穴持命(大国主)と呼ぶようになった。事代主(磯城県主の先祖)も建御名方も大国主の実の子ではなく大国主に従った準王一族(出雲神族)と思われる。
 
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