「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

倉吉市の大原神社が石上神宮(倉)であり湯梨浜町長瀬高浜が出雲大社のあった多芸志(タギシ)の浜であった

2019-02-24 04:49:56 | 天孫降臨

倉吉市の大原神社が石上神宮(倉)であり湯梨浜町長瀬高浜が出雲大社のあった多芸志(タギシ)の浜であった 。

1 国土交通省のホームページ「暴れ川とのたたかい」より
天文13年(1544)に起こった「天文の水」と呼ばれる洪水では、小鴨川が天神川に合流するあたりで栄えていた見日千軒を押し流し、下流の北条平野を泥沼に変えてしまいました。


2  天神川の造成の跡

 「古くから天神川は度々の氾濫で河道の位置を大きく変えていた。この河道が、現在のように直接日本海に流入するようになったのは、元文年間(1736-40)の河口開削工事によるもので、「天神川変遷略図」によると掘割を東村勘右衛門が設計し、米村所平が施工したとされています。これは天神山から東方の長瀬へ続く通称「石山さん」と呼ばれる安山岩の岩を撤去して今日の流路を作った」とある。
※ 私見
 江北浜集落の天神山から出ていた安山岩の岩の「石山」の読みはどう読んでいたのだろうか。江北浜集落には(いそえ)姓が多いのでこの辺りは(いそ)であった。石山の読みは「いそのやま」であった。
 河口開削工事は元文年間(1736-40)に行われているので、京都の藤原氏の証拠隠滅である。徳川光圀は大日本史で「石山が石上の地名由来であり、石山がタギシの柄である」と指摘していた。

 最近造られた案内板には「石山」とは書かず、「岩山」(倉吉ロータリークラブ)「天神山」(北栄町教育委員会)と書かれている。以前は「石山」と書かれていたことを知っていてわざと別の字を使っている。古事記の文字を別の文字を使って日本書紀を創作した藤原氏の手法である。京都の藤原氏の証拠隠滅の精神が今でもこの地では支配している。

 北栄町下神の本物の三輪神社は1753年、藤原氏の放火により焼失した。奈良の藤ノ木古墳と同じように、北栄町国坂の大国主のいた松樹庵を守っていた「世出開了行者〇〇信女」は1789年に殺された。

 元文年間(1736-40)まで天神川の下流に「石山(いそのやま)」は存在した。「タギシ」とは「古代の船の舵」のことであり、石山は舵の柄にあたる。舵の本体は長瀬高浜であった。天神川の上流の倉吉市大原を「石上(いそのかみ)」と言っていた。

 倉吉市の大原神社が石上神宮(倉)であり湯梨浜町長瀬高浜が出雲大社のあった多芸志(タギシ)の浜であった 。

3 天孫(饒速日とニニギ)降臨


 石凝姥以外の5伴緒と思金神は饒速日とともに北栄町の土下山(鳥見の白庭山のちに天香久山)に降臨したが、中洲を通って大国主の本拠地の松樹庵に至り、大国主と一緒に高い建物を建てる打ち合わせをするため笠沙之御前を東に湯梨浜町の長瀬高浜(タギシ)に行った(長瀬神社の祭神と長瀬高浜遺跡より)。
 石凝姥(琴浦町倉坂神社の祭神)は天照大御神や月読命・手力男や天石門別とともに西の方見郷(琴浦町)に降臨した。饒速日が亡くなってニニギが降臨することになったので天児屋根と天太玉は矢送神社に戻った。その後、楯縫神社に移り、出雲族の事代主や百八十神の子が成長するのを待っていた。ニニギも成長して葦原中津国(上種の大宮神社)に天児屋根(穂波集落)とともに降臨し、天太玉は伊勢の中尾集落に降臨した。
 饒速日とニニギの降臨の道案内はどちらも猿田彦が行った。

 

4 参考

 石 山

 旧東郷町史・第四節・東郷湾の時代には「今から十数万年前(洪積世)の東郷町の町域は、日本海が奥深く入り込み、大平山と馬の山に挟まれた大きな内湾の海中であった。その海岸線は、東郷谷の奥深い山すそを縁取るように、また、舎人・花見地区の平野部を完全に覆うように入り込んでいた。現在の標高でみると、約二十~三十㍍までの町域は、すべて海であったと考えられる。北条町の茶臼山・三輪山などは海中に浮かぶ島であった(図5)」とある。
※ 私見
 今から十数万年前(洪積世)とあるが、縄文海進のピーク時は今から五千五百年くらい前であり、そのときの海面は海抜25m前後まで上昇していた。けっして十数万年前(洪積世)ではない。
 そのほかは正しい。

 

 長瀬神社

 1736-1740まで天神川はなかったのだから、由緒は元文年間(1736-1740)から明治維新(1868年)までの間に作られている。「・・・勧請して、」までは維新の際、神社庁が付け加えたと思われる。

 すぐそばの長瀬高浜遺跡から弥生前期の住居跡も発掘されているのだから、長瀬郷は1499年よりずっと以前から開郷していた。郷土史家によると、素戔嗚も江戸時代から祭神であった、とする。

 由良郷の高江神社でさえ周囲に弥生時代後期の住居跡が多く見つかっていて、崇神天皇(在位188年~220年)の創建が想定されるのに、長瀬郷が由良郷より古くないわけがない。維新で神社庁による改ざんが見て取れる。祭神(天太玉・天鈿女)は、崇神天皇の創建から引き継いでいる。


 出雲大社

 長瀬高浜遺跡 径2.5mの巨大4本柱(出雲大社のモデル)。通説が出雲大社のモデルとする稲吉角田遺跡の土器絵画の4本柱建物はこの建物を描いたものである。

 大宮神社

 北栄町上種の大宮神社の周辺から弥生時代後期の住居跡60棟分が発掘された。大宮神社はニニギが降臨した地として崇神天皇(在位188年~220年)が建立した。


第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった

2019-02-19 04:46:12 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1 13代武内宿禰大臣(大王)の皇居は鳥取県北栄町原の元野神社である。
 日本書紀・推古・蘇我馬子の葛城県の要請とその死・において、「冬十月一日、大臣馬子は、阿倍連と阿倍臣摩侶の二人に天皇に奏上させ、『葛城県は元、私の本貫であります(代々葛城氏が居り、蘇我は葛城の同族になるという考え)。その県にちなんで蘇我葛城氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜って、私が封ぜられた県といたしとうございます』といった。推古は「いま、自分は蘇我氏から出ている。馬子大臣はわが叔父である。今わが治世に、急にこの県を失ったら、後世の帝が『愚かな女が天下に君として臨んだため、ついにその県を亡ぼしてしまった』といわれ、後世に悪名を残すことになるだろう」として許されなかった」とある。
 蘇我馬子大王が「葛城県は『元』、私の本貫」と言ったのは武内宿禰大王の皇居が葛城県にあったからである。武内宿禰大王は波多八代宿禰・許勢小柄宿禰・蘇賀石河宿禰 ・平群都久宿禰 ・木角宿禰 ・葛城長江曾都毘古など有力豪族の祖を生んだ。蘇我馬子大王の始祖は三男王子の蘇賀石河宿禰であった。
 比定地としては他に海竜王神社(周辺から弥生後期、古墳前期、古墳中期の遺跡が見つかっている)があるが、「元」の神社が一番崇められているので「元」の神社に武内宿禰大王の皇居があったと思われる。祭神は今までの例により、変更されている。
  元野神社
 波多八代宿禰・許勢小柄宿禰・蘇賀石河宿禰 ・平群都久宿禰 ・木角宿禰 ・葛城長江曾都毘古はここで育った。
 すぐ下には原集落がある。
 元野神社(昭和9年鳥取県神社誌より )
 鎮座地 東伯郡大誠村大字原字東屋敷
 祭神 素戔嗚尊
 由緒 創立年代不詳。往古より荒神社と称す。当地中世以降当大字の中央なる平野山がその頂上平坦にして且つ高燥なるにより別にこの地に素神を祭りしが地の利を得たるにより、終に平野社をの氏神として崇敬するに至りたるも、この地は元より由緒ある旧蹟なるを以て、里人は元宮荒神と称し今に尊崇絶ゆることなし。然るに明治12年神社明細帳提出の際、神社登録出願脱漏せるを遺憾とし、大正11年6月20日附けを以て神社明細帳に編入方出願し大正11年11月許可せらる。

2 私見
(1) 最初の神社明細帳は明治政府に認められなかった、ということである。祭神も由緒も変えて再提出したものと思われる。
 原集落も葦原中津国を構成する集落の一つであり、素戔嗚は伊邪那岐命に根国を治めよといわれて葦原中津国で泣いたが、それだけで「尊崇絶ゆることのない地」とはならない。伊邪那岐命が禊をした原はこの原集落と思われる。
 葦原中津国を構成する集落である灘手村谷の朝日神社(祭神 素戔嗚尊 由緒 古来牛頭天王と称して・・・。)を素戔嗚が泣いた地であると比定する。伊邪那岐は素戔嗚にこの国に住んではならない、といった。素戔嗚は朝日神社で泣いて、その後伊邪那岐の言葉を守り葦原中津国に入ることはなかった(根国での冒険参照)。元野神社の祭神は書き換えられている。曲の岡神社の祭神も綏靖天皇であったのを素戔嗚に書き換えている。元野神社の地は元宮(元皇居があった)といわれ由緒ある旧蹟であった。
(2) 応神天皇は葛城長江襲津彦であり、仁徳天皇は平群木菟宿禰であった。
 13代成務天皇はおらず、13代は武内宿禰大臣(王)であった(生年月日が同じであるとするため)。
 14代仁徳天皇は武内宿禰大臣(王)の4男の平群木菟宿禰であった(生年月日が同じであるとするため)。
 4男を16代にもってくるから、13代が300年も生きたという矛盾がおきるのである。4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)は14代であった。
 応神天皇の在位期間(354年~394年)に葛城長江襲津彦は朝鮮半島に渡って美女二人を献上されている(382年)。高句麗・百済は六韜に基づいて権力者に美女を献上していた。葛城長江襲津彦は権力者であり、天皇であった。葛城長江襲津彦は応神天皇であった。
(3) 蘇我一族の祖である蘇賀石河宿禰は武内宿禰大王の3男王子として生まれた。

 葛城県は「元」蘇我馬子大王の本貫であった。北栄町原集落も葛城県(葛城山のある県)であった。葛城山(蜘ヶ家山)の麓の原集落の「元」の神社は13代武内宿禰大王の皇居があった。平群都久宿禰(14代仁徳天皇)や葛城長江曾都毘古(15代応神天皇)は武内宿禰大王の王子として原集落で育った。原集落から船で対岸の由良にも行っていた。由良の門の歌がでてくるのは仁徳天皇(古事記伝)と応神天皇(日本書紀)だけであり、二天皇だけが由良によく行っていた。それは船で行ける由良の対岸にある北栄町原集落で育ったからである。これほど一致する比定地はほかにない。

 このころ葦原中津の水深が浅くなったので、二天皇とも難波津(東郷池)に皇居を置いた。


 天稚比古と高姫(下照姫)は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいた

2019-02-18 08:16:23 | 大国主と出雲族

 天稚比古と高姫(下照姫)は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいた。

1 灘手神社由緒には「大正5年11月灘手村大字寺谷字西前村社矢野宮神社祭神天稚比古を合併し灘手神社と改称す」とある。鳥取県神社誌のなかで天稚比古を祀る神社は湯梨浜町宮内の倭文神社と倉吉市福庭の波波岐神社と倉吉市寺谷の矢野宮神社である。
 倉吉市福庭の波波岐神社の祭神は国を譲った神を羅列して祀っているだけでそこに住んでいたわけではない。湯梨浜町宮内の倭文神社の祭神は孝霊天皇の皇居を隠すために波波岐神社の祭神を複写しただけである。天稚比古は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいたと思われる。

 倉吉市寺谷の矢野宮神社。
 
2 大国主と阿遅鋤高日子根
 神祇志料(明治6年)佐比売山神社の條に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」としていた。
 神祇志料の「伯耆国大神山」と出雲風土記の「伯耆国大神岳」とは同義である。どちらも伯耆国大山(ダイセン)を意味する、とするのが通説であった。しかし、伯耆国大神山(岳)の「大神」とは「大神郷」を意味している。奈良時代までは伯耆国久米郡北条郷を大神郷と呼んでいた。
 また、伯耆国大神「山」とは出雲風土記の伯耆国大神「岳」と同義である。「岳」とは百済語であり、より古い新羅語では「根」とする。したがって「岳」とは尾根を意味していた。
 「伯耆国大神山(岳)」とは伯耆国久米郡大神郷にある尾根を意味していた。伯耆国久米郡大神郷にある尾根のような山とは北栄町の茶臼山である。伯耆国大神山(岳)とは標高1711mの大山(ダイセン)ではなく標高93mの北栄町国坂の茶臼山であった。
 最近では大神岳は誤写であり、大山は火神岳であったとする。「岳」は奈良時代まで「根」であり尾根を意味する。火神岳は大山ではなく尾根状の低い山を意味することになりますます出鱈目になった。
 「御座」とは「本拠地」を意味する。大己貴命(大国主命)、少名毘古那命、須勢理姫命は鳥取県北栄町茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。
 また、日本地理志料は「茶臼山の北にある国坂神社は大国主の子孫が奉祀する所である」とする。
 天稚比古は倉吉市の寺谷にいたので倉吉市「鋤」で生まれた高姫の兄の阿遅鋤高日子根とは懇意にしていた。
 阿遅鋤高日子根の書き方は色々あるが、神名の「スキ」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神であり、「阿遅鋤高日子根」が本当と思われる。阿遅鋤高日子根は大国主命と宗像三女神の多紀理姫との間の子であり、妹に高姫(下照姫)がいる。阿遅鋤高日子根神は倉吉市「鋤」集落で生まれた。のちに別雷神となる。
 

 倉吉市灘手地区「鋤」に行ってきました。ここは、葦原中津国を形成する集落の一つです。

3 饒速日の降臨 

 

 天稚比古は饒速日の降臨コース上にいた。天稚比古が死んだのは、ニニギの降臨ではなく饒速日の降臨のときであった。
 天稚比古は倉吉市寺谷の矢野宮神社の地に高姫(下照姫)と一緒に住んでいた。天稚比古が返り矢で亡くなったのは矢野宮神社と思われる。国譲り後、高姫(下照姫)は湯梨浜町宮内ではなく、倉吉市志津の倭文神社に移った。
 天穂日の3年と天稚比古の8年で11年の間二人とも帰ってこなかった。天穂日が遣わされてから11年後、天照大御神一行(建御雷命・天照大御神・月読命・伊斯許理度売命・天手力男神・天石門別神)は神田神社の地から西の方見郷一帯に降臨した。饒速日一行(饒速日・天児屋根・天太玉・天鈿女・玉祖命・思金神)は神田神社から倉吉市清熊稲荷神社の峰に降り、倉吉市寺谷の矢野宮神社に寝所のあった天稚比古に雉の鳴女を遣した。
 天稚比古が死んでから饒速日は土下山に住んだが、天児屋根・天太玉・天鈿女・玉祖命は茶臼山の松樹庵を通り北条砂丘を東に行き長瀬高浜(タギシ)に至った。天児屋根・天太玉・天鈿女は長瀬神社の祭神になっている。玉祖命は長瀬高浜を終の棲家とし死ぬまでここで玉を作っていた(長瀬高浜遺跡より)。大国主も出雲大社のモデルの高い建物を建てる打ち合わせをするため松樹庵から長瀬高浜(タギシ)に行った。
 饒速日が亡くなりニニギが降臨することになったので天児屋根と天太玉は関金町の矢送神社に戻った。
 思金神は清熊稲荷神社の峰から長和田に、天鈿女は長瀬神社から泊村石脇字堀の石脇神社に移った。13代武内宿禰天皇の時代(在位280年~320年頃)、天孫降臨から約500年後、天鈿女の子孫は鳥取市の宮長にいた(宮長神社由緒より)。

4 参考
 阿遅鋤高日子根について
 古事記・天稚比古の段に「葦原中津国を平定するに当たって、遣わされた天穂日命が戻って来ないので、次に天稚比古が遣わされた。しかし、天稚比古は大国主の娘下照姫と結婚し、葦原中国を得ようと企んで八年たっても高天原に戻らなかった。そこで天照大神と高皇産霊神は雉の鳴女を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天探女が、不吉な鳥だから射殺すようにと天稚比古に進め、彼は高御産巣日から与えられた弓矢で雉を射抜いた。その矢は高天原まで飛んで行った。その為、高御産巣日は『天稚比古に邪心があるならばこの矢に当たるように』と誓約をして下界に落とすと、矢は寝所で寝ていた天稚比古の胸に刺さり、彼は死んでしまった。天稚比古の死を嘆く下照姫の泣き声が天まで届くと、天稚比古の父の天津国玉は下界に降りて葬儀のため喪屋を建て葬儀をした。下照姫の兄の阿遅鋤高日子根も弔いに訪れたが、彼が天稚比古に大変よく似ていたため、天稚比古の父と妻が『天稚比古は生きていた』と言って抱きついた。すると阿遅鋤高日子根は『穢らわしい死人と見間違えるな』と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった」とある。

長瀬高浜遺跡に近い神社である。

長瀬高浜遺跡の出雲大社のモデル。稲吉角田遺跡の土器絵画はこの建物。

裔胤とは子孫のことである。全国の神社の建立は10代の崇神天皇(在位188年~220年頃)が始めた。