「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

古事記・「八雲立つの条」は改ざんされている。

2018-06-09 05:38:01 | 素戔嗚命
 
1 古事記・「八雲立つの条」
 「素戔嗚命は・・・宮殿を建てるべき土地を、出雲の国の中に探し求めた。訪ね歩いて、須賀という土地に至った時に、私の心はすがすがしいと感慨を洩らした・・・須賀と言う」とある。「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作 その八重垣を」と歌を詠んだ。足名椎命を宮殿の首長となした。
 次に素戔嗚命の系譜が書かれ「その後、素戔嗚命は、かねての望み通り母の国を訪ねて根堅洲国へと赴いた」とある。

2 素戔嗚命の系譜
 素戔嗚と神大市姫(大山祇の娘)との間に出来た子が、大年神と宇迦之御魂神である、とする。素戔嗚と櫛名田比賣との間に出来た子である八島士奴美神について「八島士奴美神が刺国大神の娘、名は刺国若比売を妻として、生ませた御子は、大国主神」とする。
 古事記・「根国での冒険の条」において「須勢理姫は大国主を助け大国主は須勢理姫を背負って黄泉比良坂まで逃げた」とある。「八雲立つの条」の素戔嗚命の系譜には娘の須勢理姫が書かれていないし、須勢理姫の母親が誰かわからない。須勢理姫は「根国での冒険の条」に詳しく書かれているので実在した姫である。須勢理姫は宇迦能山(北栄町の茶臼山=伊那佐山)で大国主と一緒に暮らした。鳥取県神社誌にも多く出てくる宇迦之御魂神(谷田神社の祭神)とは宇迦能山(北栄町の茶臼山=伊那佐山=大神山)に大国主と一緒に住んでいた須勢理姫のことではないのだろうか。宇迦之御魂神=須勢理姫であると思われる。倉吉市余戸谷町の谷田神社(清熊稲荷神社)に素戔嗚と一緒に住んでいた。藤原氏は手の込んだ改ざんをするものである。
 「八雲立つの条」の系譜が正しいとすると、大国主は素戔嗚の孫となるが、先代旧事本紀では、素戔嗚と稲田姫との間に生まれた八島士奴美神は大国主神、大己貴命であるとする。それが事実ならば、大国主と須勢理姫は異母兄妹ということになる。八橋の地名由来では「素戔嗚の孫の高姫」とある。血のつながった孫という意味にとれる。先代旧事本記は正しいかもしれない。
 「八雲立つの条」に書かれている素戔嗚の系譜は改ざんされている。「八雲立つの条」と「根国での冒険の条」のどちらを信じるかであるが、「根国での冒険の条」を信じるべきである。「八雲立つの条」は藤原氏が準王一族のいた島根県東部を聖地にすべく出雲に素戔嗚の伝承を創設していったので、それに合わせるために改ざんした条である。原古事記に記載のあった「根堅洲国へと赴くまでの宮殿」を出雲の須賀にあったことにした。宮殿を造った土地は出雲の須賀だとする記述はのちの藤原氏による改ざんである。では原古事記に書いてあったはずの素戔嗚が宮殿を造った土地は何処だろうか。私は三朝町山田集落や坂本集落の東南の大江神社か田岡神社のあたりではないかと推察する。

3 祭神が足名椎命・手名椎命・須佐之男・櫛名田比賣である神社は鳥取県神社誌831社中、田岡神社と境港市の余子神社と八頭町の大江神社の3社である。紀元前200年頃は今より4m海面が高く境港市余子のあたりは海であったので余子に素戔嗚の宮殿を造ることはできない。大江の大は王であり素戔嗚と思われる。祭神が61神あるのは素戔嗚の御殿があったことを隠すためと思われる。地形的には田岡神社と同じ緯度の東にある。

4 大江神社

 大江神社の祭神は多いが、王と呼べるのは素戔嗚がふさわしい。
 大江神社や田岡神社の南には岡山県奈義町があり那岐山があり鳥取県那岐村があった。伊邪那岐の本拠地があったと思われる。素戔嗚命が根堅洲国(倉吉市中心市街地)の谷田神社(清熊稲荷神社)や東山神社(祭神は須佐之男命と宇迦之御魂神)に行く前に宮殿を造った土地は周辺が山に囲まれた大江神社ではないかと思われる。天照大御神も霊石山に白兎に導かれて登ったという伝承がある。

5 田岡神社(昭和9年刊鳥取県神社誌)
鎮座地 鳥取県八頭郡佐治村大字津無字南ヶ市
祭神 足名椎命・手名椎命・須佐之男・櫛名田比賣
 由緒には「山城国より勧請せり」とあるが、藤原氏は全国神社ネットワーク(現在の公民館機能)を使い、鳥取県の神社の多くに「~より勧請せり」と書かせている。

昭和9年では立派な社殿があった。


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