「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

日本書紀の改ざん創作(特に百済と新羅を入れ替えている)について

2018-04-30 04:58:28 | 序章

1 日本書紀は「百済と倭は盟友関係にあった」とするが、倭と盟友関係にあったのは新羅であった。倭は間違いなく鳥取県中部なので、鳥取県中部に一番近いところに新羅は建国された。
 新羅は紀元前57年に、稲飯命が建国し、その後も、天之日矛が新羅から但馬国に渡来し新羅の第4代王として但馬国から脱解が行く、など、倭国や但馬国と親戚である。天武天皇のころまで倭国と新羅は兄弟国として強い信頼関係にあった。以前にも書いたように、百済と高句麗は兄弟国であり、強奪することに喜びを感じる民族である。倭国歴史書原本には百済が強奪や妨害をしたと書いてあった。日本書紀を創作するときに、百済史官は倭国歴史書原本を見ながら百済と新羅を入れ替えた。
 そもそも、自国の歴史書を造るのに、「一書に曰く」などという他所から来た者が書くような無責任な記述はしない。天武天皇の命によって造られた歴史書は原古事記である。原本はもっと膨大であったはずである。その古事記にしても藤原氏のもとに在った400年の間に、日本書紀に合うように(整合するように)改ざん・改悪・削除している。
 九州の方は日本書紀によって宮崎県を天孫降臨の地にしてもらったなどの関係で、日本書紀の信奉者が多いが、そのよってたつ日本書紀がそもそも史実と違うことが書いてある、ということである。

2 日本書紀の中で改ざん創作(特に百済と新羅を入れ替えている)されていると思われる部分を挙げてみました。元の記述はカッコ内であった。
イ   垂仁紀2年是歳条  
 崇神天皇の65年に朝貢してきた任那の使いが国へ帰るというので、絹織物を持たせたら途中で新羅(百済)に奪われた。別の伝承では「崇神天皇の御世に、大加羅国(全羅南道4県の任那)の王子・都怒我阿羅斯等が来朝した。垂仁天皇の御世になって国へ帰るというので、天皇は「大加羅国(全羅南道4県の任那)は崇神天皇の名をとって任那とせよ。とおっしゃられて絹織物を持たせた。新羅人(百済人)がそれを奪った」という。
※ 百済は金品を強奪することに喜びを感じる扶余族である。絹織物を奪ったのは百済である。
ロ   神功皇后摂政紀47年4月条
 百済と新羅が同時に朝貢してきた。新羅(百済)の貢物は多く、百済(新羅)の貢物は少なかったのでわけを聞くと、日本(倭)に来る途中で百済(新羅)の貢物を新羅(百済)が奪ったという。皇后と誉田別尊は使いをお出しになって新羅(百済)を責めた。
ハ   応神紀14年是歳条
 秦氏の祖先といわれる弓月君が来朝して言うには、「百済(北方)から多くの人民を連れてきたが、新羅(百済)の妨害にあって加羅国(全羅南道の任那)から日本(倭)に来ることが出来ない。」と言う。
※ 百済から出港して北九州に上陸すれば新羅は妨害することはできない。そうではなく、渡来ルートは百済→全羅南道の任那→加羅国→新羅から船で倭国(鳥取県中部)であっった。弓月君を妨害したのは百済であった。
ニ   応神紀16年8月条
 天皇は、「襲津彦が帰ってこないのは、新羅(百済)が妨害しているからである。」として、新たに将軍を加羅(全羅南道の任那)に派遣した。将軍は新羅(百済)との国境まで進軍して新羅(百済)を防ぎ、弓月が連れてきた百済(北方)の人民を連れ、襲津彦と共に日本(倭)に戻った。
※ ハで述べたように弓月君を妨害していたのは百済である。
ホ   仁徳紀53年5月条
 新羅(百済)が朝貢しないので兵を出して討った。
※ 盟友関係にある新羅を倭国が討つことはない。
ヘ   雄略紀7年是歳条
 天皇は、吉備の臣田狭を任那国司に任命し、田狭が留守の間に彼の妻をお召し上げになった。田狭は恨んで新羅(百済)に通じた。その頃、新羅(百済)と日本(倭)は不和であった。天皇は新羅(百済)討伐に田狭の子を差し向けられた。
※ 盟友関係にある新羅を倭国が討つことはない。百済は高句麗につく事があったので、そのときは倭国と不和になった。
ト   雄略紀9年3月条
 天皇は、「新羅(百済)は今まで朝貢を欠かした事がなかったのに、自分が王となってからは高麗の我が国への朝貢を妨害し、百済(新羅)を攻め、我が国への朝貢もしなくなった。新羅(百済)を討て。」とおっしゃって、4人の将軍を派遣された。
※ 高句麗百済が本当に朝貢していたなら自国から船を出し、北部九州に上陸すれば、新羅は妨害できない。新羅と百済を入れ替えているからこのような矛盾が生じる。

3 その他 
◎応神天皇7年(361年)百済人・任那人らが来て韓人池を造った。
※ 百済人の元は新羅人であった。百済人は扶余族だから労働力の提供はしない。
◎応神天皇25年(379年)25年の条は『百済記』の引用である。
※ 神功皇后62年と重複する。この年襲津彦(応神天皇)は新羅に行った。
◎神功皇后9年(326年?)・新羅出兵において、「高麗、百済2国の王は陣の外に出て頭を下げて『今後は永く西蕃と称して、朝貢を絶やしません』といった。それで内官家屯倉を定めた」とある。
※ 新羅を攻撃した事自体作り話だから、この部分は信用できない。高麗、百済2国は妨害する国なので攻撃したはずである。
◎神功皇后46年(361年)斯摩宿禰は卓淳国から百済にいった。
※ 百済は新羅・倭国を乗っ取るために高句麗が346年に建国した。建国から15年後に作戦を開始した。
◎神功皇后47年(362年)百済が初めて朝貢した。新羅人は百済と新羅の貢物を入れ替えた。
※ 最初に貢物を与え、おだてておいて、後で奪い取る六韜の戦術である。
◎神功皇后49年(364年)
※ 新羅再征とあるが、これは倭国ではなく高句麗と百済が卓淳国に集まり新羅を討ち破った。後ろにいたのは高句麗であった。百済の朝貢品を新羅が奪ったからというのは後の創作と思われる。
◎神功皇后52年(369年)百済は七枝刀などを奉った。
◎神功皇后62年(379年)新羅(百済)が朝貢しなかった。襲津彦を新羅(百済)に遣わしたが、新羅王(百済王)に美女2人を差し出された。
※ 六韜に基づく行為と思われる。
◎雄略天皇8年(463年)の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。
※ 「倭府行軍元帥」を書き換えたものと思われる。日本(百済)という国号は669年に天智が近江で考えた国号である。遡って使用している。
◎雄略天皇9年(464年)、新羅(百済)討伐「狼のような荒い心があって、飽きると離れ去り、飢えると近づいてくる。王師をもって攻め討ち天罰を加えよ」といわれた。
※ 倭王武の官号より雄略天皇は、高句麗・百済と敵対していた。不比等・百済史官は「百済」とあったのを「新羅」に書き換えている。雄略が再興した国は新羅であった。百済の攻撃によって累卵の危うき状態になっていた国は新羅であった。
◎雄略天皇21年(476年)、「百済国(新羅国)は一族すでに亡んで、倉下にわずかに残っていたのを、天皇の御威光により、またその国(新羅国)を興した」といった。
※ 雄略天皇がまた百済国を興したのなら、百済は倭国に頭が上がらないはずだが。雄略天皇が興した国とは新羅国であった。反正、允恭、安康の時代、新羅は累卵の危うき状態になっていた。反正、允恭の帝紀・旧辞はヒントが見つからないくらい大幅に改ざんされている。
◎雄略天皇23年(479年)、「筑紫の安致臣・馬飼臣らは船軍を率いて高麗を討った」とある。
※ ここは改ざんされていないと思われる。
◎継体天皇21年(527年)の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。
※ 倭の軍を踏みとどまらせるために、賄賂を贈ったのは百済である。賄賂を贈るのは六韜に基づく行為である。
◎継体天皇23年(529年)、加羅国の多沙津(帯沙江)を百済がいただきたいといった。加羅の王は苦言を呈した。「新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の3つの城をとり、また北の境の5つの城もとった」とある。
※ 近江毛野の派遣の条は改ざん無しと思われる。「詔して新羅に勧め、南加羅・㖨己吞を再建させようとした」とある。
※ 任那王が大伴大連金村に「・・・新羅は・・・」と言った「新羅」は原古事記では「百済」であった。新羅は多々羅・須那羅・和多・費智の4村を掠め取ったとするが、百済から取り返したと思われる。
◎継体天皇24年(530年)にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。
※ 冬10月調吉士は奏上して「・・・加羅を・・・」は「・・・任那を・・・」である。
◎継体天皇25年(531年)、百済本記には「高麗は安羅に至り、安羅王を殺した。また、倭の天皇・皇太子・皇子皆死んだ」と。
※ 倭国の王はこの頃、戦の最前線で戦っていた。倭国王は戦死することがよくあった。
◎欽明天皇の段。
※ 欽明天皇の段は百済と新羅の入れ替えが特に多い。欽明天皇は百済王であり、この時の倭国王は蘇我稲目大王であった。原文の「新羅」を日本書紀では「百済」に入れ替えているため、原文の「新羅王」も「百済王」と入れ替えた。百済の聖明王(在位523~554)は、原文では新羅の法興王(在位514~540)であった。詳しくは別稿「日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は入れ替えられている」を参照されたし。

4 私見
 日本書紀を制作したのは、不比等と百済史官であった。百済系2世の藤原不比等と亡命百済史官である。彼らは原古事記を見て百済の悪行を改ざんすることを考えた。自分の母国を悪く書かれていて、改ざん出来る立場にあるなら改ざんするのは人間の本能である。母国を悪く書かれないために、新羅と入れ替えることを考えた。それが現在の日本書紀である。
 倭国は鳥取県中部にあり、新羅から人力船で出港しても1日余りで到着する。紀元前57年から新羅と倭国は兄弟国(盟友関係)であった。

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日本書紀にある泊瀬山は奈良の初瀬山ではなく鳥取県倉吉市の打吹山である

2018-04-29 04:27:14 | 序章
 
 日本書紀・嶋王(武寧王)誕生において「6年春2月4日、天皇は泊瀬の小野に遊ばれた。山野の地形をご覧になり、深く感慨をもようされ歌われた。泊瀬の山は、体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、何とも言えず美しい。何とも言えず美しい。そこで名づけて道小野といった」とある。

1  奈良県桜井市の初瀬山について
 雄略天皇の歌った泊瀬山は奈良では桜井市長谷寺の裏にある初瀬山であるとする。
奈良県桜井市の初瀬山(はせやまと言ったりはつせやまと言ったりいい加減である)。
 ある方は「真北から30度ほど東を見ると、龍王山(585m)、その支峰の穴師山(409m)、龍王山に連なる巻向山(565m)、巻向山の支峰である三輪山(467m)がある。その奥にあるのは初瀬山だと思う」とされる。
 また「泊瀬山は固有の山の名ではなく、桜井市初瀬を囲む山々のことである」とする方もいる。
※ 私見
 桜井市長谷寺の裏にある初瀬山は人気がない。私もどれが初瀬の山なのかわからなかった。このような山を雄略天皇がわざわざ歌に詠むはずはない。山の体勢など全く分からない。本当の泊瀬(長谷)の山は鳥取県倉吉市の打吹山と思われる。
 「泊瀬の山は体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、何とも言えず美しい」とする山は倉吉市の打吹山であった。遠くに見えるのは蒜山(高天原)でありその向こうは吉備国である。藤原氏は湯梨浜町羽衣石にあった羽衣伝説をこちらに持ってきて「打吹山」と名付けた。天皇がいたことを隠すためである。倉吉も石上神宮(倉)にあった武器が良(吉)かったので「倉吉」と名付けた。
 2  長谷寺について(ウィキペディアより)
(1) 奈良県桜井市の長谷寺(はせでら)(全国長谷寺の総本山)
 長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。
(2) 鳥取県倉吉市の長谷寺 (ちょうこくじ)
「伯耆民談記」等に伝える寺伝によれば、奈良時代の養老5年(721年)、法道を開山として創建されたという。当初は長谷(ながたに)村(現・倉吉市長谷、長谷寺の西方)にあり、後に現在地に移されたという。草創の詳しい事情や中世までの沿革は判然としないが、中世には禅宗寺院であった。堂には重要文化財に指定の厨子内に秘仏の本尊木造十一面観音菩薩坐像を安置する。
 3  私見
 奈良県桜井市では「はせでら」と言い、鳥取県倉吉市では「ちょうこくじ」と読ませる。「伯耆民談記」は信用できるので、創建の詳しい事情は判然としなくとも721年の創建は間違いないものと思われる。総本山のほうが創建が新しいのは嘘になってしまうから、寺伝で686年の創建の伝承を作った。倉吉の長谷寺は「ちょうこくじ」と読ませて別の寺のようにしているが、十一面観音菩薩坐像を本尊にしているので同じ系列の寺として作っているはずである。創建時は「はせでら」といっていたと思われる。
 藤原氏は桜井市の一帯を日本書紀にある「泊瀬」のテーマパークとした。泊瀬朝倉宮も造らなければならなかった。白山神社をその宮跡とした。ウィキペディアには「その所在地は考古学的には確定していない。宮の場所については古くから2つの説があり、『帝王編年記』などは磐坂谷(桜井市岩坂)、『大和志』などは天の森(桜井市黒崎)とするが、立地条件などから、どちらの場所も宮の所在地としては疑問視されている。黒崎の白山神社境内にも「泊瀬朝倉宮伝承地」の碑がある。」とある。
 桜井市岩坂である。
 白山神社である。
 白山神社にある案内板「が立地的に見て、宮を営むのに適地ではない」とある。
  私は、立地条件(葛城山や久米川や長谷山の登り口の存在、長谷寺は打吹山の中腹にあること)などから、泊瀬朝倉宮跡を倉吉市長谷寺の地に比定している。藤原氏はそれを隠すために読み方を変えさせたり、寺伝で創建年を古くしたりしている。つじつま合わせ(整合)をしているが、最後に泊瀬の山は造ることができなかった。
 初瀬から少し下った出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑を造った。
 また長谷寺の近くに一言主が見送ってくれた長谷山口坐神社を造った。由緒では「長谷山」の「口」神社ではなく、「長谷」の「山口」神社という、とする。苦しい説明である。
 これらはみな倭国(鳥取県中部)を乗っ取ってから藤原氏が造った「泊瀬(初瀬)」というテーマパークである。泊瀬(長谷)の本物は鳥取県倉吉市中心市街地であった。
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師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった

2018-04-28 04:47:43 | 序章
 師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった。


1 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷命は、茅渟の菟砥の川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。・・・。石上神宮に納めた。ある説によると、五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた。この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部など合わせて十種の品部とものみやつこらを、五十瓊敷皇子に賜った。その一千口の太刀を忍坂邑に納めた。その後、忍坂から移して石上神宮に遷した」とある。
 この川上宮と忍坂邑はどこにあるのか。
※ 私見
 大正2年まで川上集落にあった新宮神社の住所は鳥取県東伯郡東郷村大字川上字鍛冶屋谷であった。河上という者をおよびになり、川上集落の鍛冶屋谷で太刀一千口を造らせられたものと思われる。楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部などは舎人であり湯梨浜町舎人地区にいた。川上宮は鳥取県湯梨浜町川上であったと思われる。
 川上宮から石上神宮に太刀一千口を遷するのに、東郷池はまだ海面が高く大平山の千坂まで行くことはできない。川上宮からいったん南の片柴集落まで行ったものと思われる。波関峠を越える坂が忍坂であった。鳥取県三朝町片柴集落が忍坂邑と思われる。

2 出雲王国王家の子孫という富當雄氏にインタビューした内容(吉田大洋著「謎の出雲帝国」より)
 第三派は、神武一族であり九州より攻め入ってきた。
 彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。まことに陰険であり、残酷であった。王の長髄彦は傷つき、倭(鳥取県中部)を神武にゆずって出雲は退いた。王は出雲で亡くなった。長髄彦(準王一族)は出雲出身であり、出雲の王であった。
 神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。我々の反乱を防ぐためでもあった。
(1)日本書紀・神武天皇・道臣命の密命と歌
 「(既に敵は撃破したのですが)残りの敵がまだ多くて、その数が解りませんでした。そこで密かに道臣命に命じました。『お前は大來目部を引き連れて、大室を忍坂邑に作り、そこで宴会を盛大に催して、敵を誘い寄せて討ち取れ』 。道臣命は密命を受けて、忍坂を掘って室を立てて、勇猛な兵士を選んで、敵兵を混ざって座りました。そして陰で命じました。『酒酣の後、わたしは立ち上がり、歌を歌う。お前たちは、私の声を聞いたらすぐにいっせいに敵を刺せ』 。座る場所に座って酒盛りしました。敵は密命を知らず、心のままに、ほしいままに酔いました。 そして道臣命は立ち、歌を歌いました。
 忍坂の大室に沢山の人が入っている。 沢山の人が来ているが、強い強い来目の兵士が頭椎や石椎で討ち倒すぞ
 味方の兵は、この歌を聞き、一斉に頭椎の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。皇軍は大いに喜び、天を仰いで笑った」とある。
(2)日本書紀・神武天皇・兄磯城・弟磯城
 「弟磯城が申し上げるのに『わが兄の兄磯城は、天神の御子がおいでになったと聞いて、八十梟帥を集めて、武器を整え決戦をしようとしています。速やかに準備をすべきです』と。
・・・。また、兄磯城の軍がいて、磐余邑に満ちていた。敵の拠点はみな要害の地である。そのため、道は絶えふさがれて通るべきところがなかった。・・・。男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄・兄磯城らを斬った。十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが、なかなか勝つことができなかった」とある。
※ 私見
 道臣命は忍坂邑(三朝町片柴集落)の大室で和解すると見せかけて酒を飲ませて多くの出雲神族(準王一族)を殺した。同じ三徳川の下流の山田(ヤマタ)集落でも素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した。神武天皇は、同じ三徳川の素戔嗚の八岐大蛇退治にヒントを得て多くの出雲神族(準王一族)に酒を飲ませて殺したと思われる。
 兄磯城と弟磯城は同族である。兄磯城は皇軍に斬られた。その後皇軍は長髄彦を討つことになった。長髄彦は出雲出身であり、出雲神族(準王一族)の王であった。兄磯城と弟磯城も出雲神族(準王一族)であった。
 神武天皇は論功行賞で弟磯城を磯城(師木)の県主とされた。弟磯城(師木県主)は出雲神族(準王一族)であり東郷池(師木津)の波延の地に住んだ。富當雄氏は「神武から数代の王は、反乱を防ぐため出雲の王家の娘を妻に迎えた」とする。師木県主の娘が出雲の王家の娘と思われる。

3 初代天皇から第4代天皇までの系譜
(1)初代神武天皇
(古事記)妻(比売多多良伊須気余理比売)の父は三輪の大物主。妻の母は、三島湟咋の娘の勢夜陀多良比売。
(日本書紀)妻(媛蹈鞴五十鈴媛命)の父は事代主。妻の母は、三島溝橛耳神の娘の玉櫛媛。
(2)第2代綏靖天皇
(古事記)母は、伊須気余理比売。妻は師木県主の先祖(始祖弟磯城の娘?)である河俣毘売。
(日本書紀)母は事代主の長女媛蹈鞴五十鈴媛命。妻は事代主の次女の五十鈴依姫。
 第一の一書では「磯城県主の娘の川派媛(かわまたひめ)」とある。
(3)第3代安寧天皇
(古事記)母は、河俣毘売。妻は河俣毘売の兄である県主の波延(ハエ)の娘の阿久斗比売。
その子に常根津日子伊呂泥命、大倭日子鋤友命、師木津日子命。師木津日子命の子の・・・知知都美命の姫に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼がある。
(日本書紀)母は五十鈴依姫。妻は事代主の孫の渟名底仲媛命。
(4)第4代懿徳天皇
(古事記)母は、阿久斗比売。妻は師木の県主(県主は姓)の先祖である賦登麻和訶比売命(またの名は飯日比売命)。
(日本書紀)母は事代主の孫の渟名底仲媛命。妻は息石耳命の娘の天豊津媛命。
※ 私見
(1)神武天皇の2番目の妻の父は古事記は大物主だとするが、京都で暇を持て余していた藤原氏による改ざんである。大物主は天忍穂耳であり出雲神族ではない。「矢の姿になって云々」は作り話である。
 日本書紀は事代主とする。古事記の大物主(天忍穂耳)とするよりはましだが事代主も大国主の子(?)なので出雲神族(準王一族)ではないはずである。それとも葦原中津国に一緒に住んでいたので、便宜上、大国主の子としただけで実際は出雲神族(準王一族)であったのだろうか。兄磯城・弟磯城(磯城県主)の先祖であってもおかしくないのは百八十神(出雲神族も含む)と一緒に葦原中津国から磯城の近く(倉吉市福庭)に退いていた事代主である。
(2) 古事記では第2代天皇から第4代天皇まで師木県主の娘を天皇に嫁がせている。日本書紀には第一の一書以外磯城県主は出てこない。日本書紀では、事代主が出てくる。しかし事代主の娘や孫ならばその天皇の母親か祖母の年代になってしまい、現実的ではない。古事記の師木県主の娘が史実であったと思われる。師木県主とは師木県の首長というような役職名であり、姓はその住んでいた地域の名に因んでハエ(波延・葉江・蠅)、と名付けたと思われる。
 日本書紀・神武天皇・橿原即位において「天皇は論功行賞を行われた。・・・。弟磯城(名は黒速)を磯城の県主とされた」とある。初代師木県主は神武天皇と戦った兄磯城の弟の弟磯城であった。兄磯城は準王一族(出雲神族)だから、弟磯城も準王一族(出雲神族)である。古事記の初代天皇から第4代天皇までの系譜のほうが「神武から数代の王は、反乱を防ぐため、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とする出雲王国王家の子孫の富當雄氏のインタビュー内容に合致する。
(3) 古事記では河俣毘売の系譜を判らなくしているが、日本書紀第一の一書では「川派媛(かわまたひめ)は磯城県主の娘」とするのでこちらが正しいと思われる。河俣毘売は磯城県主の始祖(弟磯城)の娘に比定すると年代も無理なくつながる。河俣毘売の父の初代師木県主(弟磯城)に波延(はえ)と名付けたのは、東郷池に波延(はえ)という波が延びる地域があって、そこに住んでいたからと思われる。
 当時の東郷池は今より海面が高かったので、東郷池に入ってきた波が陸地まで延びるような場所が想定できる。そこが波延(はえ)の地であったと思われる。湯梨浜町長和田(ナゴウタ)集落・北山古墳・野花(ノキョウ)集落のあたりは東郷池と海との出入口が正面にあり、海からの波がまっすぐに延びて来ていたものと思われる。長和田(ナゴウタ)の奥にハナミ(埴見)という集落があるが、このハナミ(波)も波に関係した地名と思われる。
 ハエとは波延・葉江・蠅とも書くが同じである。古事記では「師木津日子命の子の・・・知知都美命の姫に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼がある」とする。「・・・」は藤原氏の挿入と思われる。藤原氏は準王一族(出雲神族)のいたところを聖地とし、記紀に登場させている。
 第7代孝霊天皇の皇女の百襲媛は湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)で育った。百襲媛の母親の蠅(はえ)伊呂泥と蠅伊呂杼は出雲神族(準王一族)の系譜であり、孝霊天皇は蠅伊呂泥と蠅伊呂杼を湯梨浜町宮内の東郷池対岸の波延(はえ)の地から娶ったと思われる。卑弥呼の母親は倭国大乱の敵方(出雲神族)の出身であったので、のちに共立された。
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難波津とは東郷池であり、難波の柏の渡りも東郷池にあった

2018-04-27 02:46:04 | 序章
難波津とは東郷池であり、難波の柏の渡りも東郷池にあった
 
1  古事記・応神・天之日矛において「天之日矛は夫婦喧嘩をしたため妻は母の国に行くといって船で難波にきて、そこにとどまった。天之日矛はあとを追いかけて難波に行こうとしたが難波の海峡の神が、遮りとめて入れようとしなかった。しかたなしにそこから戻って、多遅摩の国に船を泊めた」とある。
 もしこの難波が大阪にあったのならば大阪で断られてまた船で但馬まで行ったということである。大阪から関門海峡まで帰って日本海に回って但馬まで行ったということである。
 新羅から関門海峡まで来ることだけでも対馬海流に逆らうことになり大変である。神功皇后でも失敗して引き返したことがあったようである。神功皇后たちの御艦は流されて、沖島に着いたものと思われる。東風が無いと東に流されて難しいようである。神功皇后の伝承として残っている。それ以来、沖島に供え物を置くようになった。
  難波は東郷池のことであった。長和田より西は真っすぐな波が来ていたが、橋津が波を遮るため北山古墳より東は複雑な波が来ていた。東郷池の長瀬高浜(タギシ)には大国主の頃から沖を通る船を監視していた。出雲大社は監視塔であった。天之日矛は長瀬高浜にいた海峡の神に遮り止められて入れなかった。妻から連絡が入っていたものと思われる。天之日矛はそのまま海流に乗って但馬まで行った。これが無理のない解釈である。時代は記紀の記載より数代前の第7代孝霊天皇の頃ではないかと思われる。

 「謎の出雲帝国」では、天日矛は出雲族と倭国大乱を戦っているので、弥生時代後期には渡来していた。倭国大乱は孝霊天皇の時代である。孝霊天皇は出雲族を鬼と呼んでいた。

2  古事記には「仁徳天皇(大雀の命)は難波高津宮で天下を治めた」とある。
 難波高津宮は鳥取県湯梨浜町の松崎神社と思われる。第13代の武内宿禰天皇は北栄町原にいたが縄文海退により葦原中津国には大陸からの船が入ってこれないようになったので武内宿禰天皇の皇子である第14代仁徳天皇と第15代応神天皇は東郷池に移った。

 
 この神社に来るまでの道は、道教の橋のようにクランクになっている。
 
高津である。大阪の難波高津宮とよく似ている高津である。
 難波の枕詞は「押し照るや」である。古事記の仁徳天皇記の「押し照るや 難波の崎よ」が初出である。意味は「一面に照り輝く」である。入江の水面が陽光を受けて一面にキラキラと照り輝く様子、それが「押し照るや」の枕詞を生んだ。
 松崎神社に上がる途中で「水面が陽光を受けて一面にキラキラと照り輝く様子」を写したもの。もっと高いところにある松崎神社に上がれば広くキラキラと照り輝く東郷池全体が見えたはずである。現在は木で見えないが当時は木が植えてなかったと思われる。大伴家持も赴任地の鳥取から東郷池の難波宮に来て歌を詠んだ。

3  日本書紀・推古天皇・遣隋使において「客たちは難波津に泊った。この日飾船三十艘で客人を江口に迎えて、新しき館に入らせた」とある。 
 客というのは、隋から「大国維新の化」(国の文化とインフラ)を教えるためにやってきた裴世清たちである。遣隋使である小野妹子の帰国と一緒に来日した。 
 蘇我馬子天皇は父の蘇我稲目大王の磯城島金刺宮のあった東郷池の龍島に新しい迎賓館を建てていた。その後、裴世清たちは北栄町島の蘇我馬子大王の皇居に招かれた。曲に後宮があった。
 
 
 
 
 
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シキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる

2018-04-26 03:54:56 | 序章
 シキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる。

1 古事記における第2代天皇、第3代天皇、第5代天皇の帝紀(欠史8代であり、藤原氏は8代の旧辞を消したため安心してそれほど改ざんはしていないと思われる)
第2代 綏靖天皇
 神沼河耳天皇 皇居は葛城高岡宮。
第3代 安寧天皇
 師木津彦玉手看天皇 皇居は片塩浮孔宮。
第5代 孝昭天皇 
 御真津日子訶恵志泥天皇 皇居は葛城掖上宮。

2 第2代天皇が葛城山(鳥取県北栄町)に高岡宮(曲の岡神社)を築いているので葛城地方は葛城山(蜘ヶ家山)と日向(四王寺山と葦原中津国)と思われる。師木地方もこの近くにあるはずである。

3 第3代天皇の皇居である片塩浮孔宮の「片塩」とは塩分濃度が半分の海に面した汽水池(津)の存在を窺わせる。その汽水池(津)のことを師木津と言っていたと思われる。第3代天皇の「師木津」は第5代天皇の「御真津」と対応して「師木の津」と読め、「師木にある津」と読める。

4 第5代天皇の皇居である葛城掖上宮は葛城地方にあり、御真津彦の「御真津」は葦原中津国(鳥取県北栄町)にあった津(橘の花の形をしていた)を表すものと思われる。師木津はもう一つの津である東の東郷池(柏葉の形をしていた)が候補に挙がる。師木津とはこの当時海との出入口が広く塩分濃度が高かったと思われる東郷池と思われる。

5 古事記・雄略・白い犬
 雄略天皇が出かけて国の中を眺望すると、屋根の上に高く鰹魚木をつけて作った家があった。天皇は「あの鰹魚木をあげて屋根を作った家は、誰の家か?」と尋ねたので、側に仕えている者が「志幾(シキ)の大県主の家でございます。」と答えた、とある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じである。東郷池の近くに長瀬高浜遺跡があるが、そこから鰹魚木をあげて屋根を作った家の埴輪が発掘された。
入母屋式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃
 四注式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃
 これらは志幾(シキ)の大県主の家を模して作った埴輪と思われる。
 鰹魚木をのせている家形埴輪は他府県でも出土しているが、近くに津のある遺跡は長瀬高浜遺跡だけである。東郷池が師木津であり、東郷池周辺が師木であったと思われる。

6 鰹木をあげて屋根を作った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(シキの候補)
(1)長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町) 海抜10m 海まで1km
(2)今城塚古墳(大阪府高槻市) 海抜32m 海まで24km 
(3)赤堀茶臼山古墳(群馬県伊勢崎市) 海抜135m 海まで100km
(4)岡山南遺跡(大阪府四条畷市)  海抜36m 海まで17km
(5)宮山古墳(奈良県御所市)  海抜130m 海まで24km
※ 私見
 鰹木をあげて屋根を作った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(志幾の候補)は長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外にも他府県にある。しかし、第3代天皇の「師木津」の諱より、師木の中には津があるものと思われる。長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外の遺跡・古墳はいずれも船の出入りできる津(湾)の近くにはない。(1)の長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)は津(東郷池)のそばにある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じであり東郷池周辺のことと思われる。雄略天皇の皇居は鳥取県倉吉市打吹山の長谷寺にあったが、古事記・雄略・白い犬の舞台は鳥取県湯梨浜町東郷池周辺であった。難波津も東郷池のことであり、河内は倉吉市鴨河内のことと思われる。
 古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺であった。

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古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町の東郷池周辺であった

2018-04-25 04:57:55 | 序章

古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町の東郷池周辺であった


1  欠史8代というが、鳥取県中部に実在した。第2代天皇は北栄町曲の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社(葛城高岡宮)に皇居があった。第3代天皇は湯梨浜町橋津観音堂に皇居があった。第4代天皇は倉吉市小田山に皇居があった。第5代天皇は倉吉市穴沢の灘手神社に皇居があった。第6代天皇は北栄町大島(室秋津島)に皇居があったが、朝鮮半島で捕らえた160人の生口(青銅器文化の一族)を中国皇帝に差し出した。第7代天皇は皇子や皇女と一緒に全国の青銅器文化の一族を平定した。第8代・第9代・第10代天皇は第7代天皇の皇子であり、卑弥呼は第7代天皇の皇女である。第7代天皇の黒田庵戸宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった。宮内遺跡で弥生時代後期(倭国大乱の時代)の日本一長い鉄刀が見つかっている。奈良の黒田庵戸宮はシキとされたところにある。鳥取県の東郷池周辺をシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)と言っていた。本当の黒田庵戸宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった。

2  第3代天皇と第5代天皇の諡号と皇居(古事記による)
(1)第3代安寧天皇 
諡号は、師木津日子玉手見命
皇居は、片塩浮穴宮
(2)第5代孝昭天皇
諡号は、御真津日子訶恵志泥命
皇居は、葛城掖上宮

3 古事記の第3代天皇と第5代天皇の帝紀は、旧辞を削除しているので、藤原氏は安心してそれほど改ざんしていないと思われる。  
  日本書紀は原古事記の読みに似た発音の漢字をあてているだけなので日本書紀の漢字の意味を探ろうとすれば、間違いを犯すことになる。例えば第5代天皇の諡号は古事記では「御真津」とするが日本書紀では「観松」とする。「観松」に意味はないのであって「御真津」の発音を「観松」という漢字に置き換えただけである。
 「御真」とは御真木や任那(御真奴)と同じ表現であって「本当の」という意味である。似かよったものがもう一つあることを前提とする。例えば、御真津(葦原中津国)は師木津に対応するし、御真木(津山)は木国(鳥取県智頭町)に対応するし、御真奴(朝鮮半島全羅南道の任那)は倭奴(北九州)に対応する。天孫が降臨して平定した葦原の中津(鳥取県北栄町)のことを指している。
 「御真津」にしろ「師木津」にしろ、船が出入りできる津(湾)であることを意味する。第3代天皇と第5代天皇の時代、海面は今より4mくらい高く、「御真津」「師木津」の比定地は現在の海抜4mくらいの地域で、海岸近くのはずである。御真津は「橘」の形に似ており、師木津は「柏」の形に似ていた。シキ(師木)とは津につく形容詞と思われるから、シキ(師木)の中に津があった。師木津とは鳥取県湯梨浜町の東郷池と思われる。海抜4mに海面があった時代の東郷池は柏葉の形に似ている。
 第3代安寧天皇の皇居は、片塩浮穴宮であり、師木津(東郷池)周辺にあったものと思われる。師木津は海抜4mに海面があった時代の塩分濃度の濃い地域(片塩)であり橋津・南谷地域と思われる。橋津観音堂の石段の登り口の横には穴があり、稗田阿礼は特徴を書き残していた。

4  古事記・雄略・白い犬
  雄略天皇が出かけて国の中を眺望すると、屋根の上に高く鰹木をつけて作った家があった。雄略天皇は「あの鰹木をあげて屋根を作った家は、誰の家か?」と尋ねたので、側に仕えている者が「志幾の大県主の家でございます。」と答えた、とある。

5. 鰹木をあげて屋根を造った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(シキの候補)
(1)長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町) 海抜10m 海まで1km
(2)今城塚古墳(大阪府高槻市) 海抜32m 海まで24km 
(3)赤堀茶臼山古墳(群馬県伊勢崎市) 海抜135m 海まで100km
(4)岡山南遺跡(大阪府四条畷市)  海抜36m 海まで17km
(5)宮山古墳(奈良県御所市)  海抜130m 海まで24km
 鰹木をあげて屋根を造った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(志幾の候補)は長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外にもあるが、いずれも船の出入りできる津(湾)の近くではない。長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)は東郷池(津)のそばにある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じであり東郷池周辺のことである。古事記・雄略・白い犬の舞台は東郷池周辺であった。難波・河内の地名は鳥取県中部にあったが、大阪に持っていき、鳥取県中部の難波・河内の地名は消した。
 古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺である。

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銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作ったのは殷王朝末裔の準王一族であった

2018-04-23 05:36:09 | 序章
銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作ったのは殷王朝末裔の準王一族であった

1 準王については、三国志魏略(260年頃)に「その子や親が国(辰国)に居留し、韓氏の姓を僭称する。準王は海中にあり、朝鮮とは互いに往来した。その後、絶滅した。」とあり、後漢書弁辰伝(432年)に「初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。後に箕準の家系は滅絶。馬韓人が再び辰王になる。」とある。
 準王が馬韓を攻めたのは紀元前195年のことであった。魏略には「準王は海中にあり」と記述されているが、海中とは対岸という意味であり、列島に渡ったということである。準王一族は数千人(後漢書)であり、多くが列島に渡ったものと思われる。朝鮮半島と行き来した。その後絶滅したとあるのは、ヤマト王権に平定されたことを魏略の筆者は知っていたからと思われる。

2 銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈は瀬戸内海を中心に広がっている。高地性集落も瀬戸内海を中心に広がっている。これは先住民が青銅器文化の一族を避けて、集落を高地に造ったからと思われる。
 最近の年代測定では一番古い銅鐸で紀元前190年頃とする。紀元前194年に列島に渡って来た殷王朝の末裔・準王一族が銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈をつくったと解するのが正しいと思われる。列島に銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作った一族の候補は準王の一族の他は見つからない。ヤマト王権の銅製品は銅鏡だけである。
 ヤマト王権は準王一族と神武天皇のときから敵対してきたが、第7代孝霊天皇のときに皇子の倭建命や崇神天皇、皇女の卑弥呼の活躍で全国を平定することができた。ただし、東国にいた青銅器文化の一族(蝦夷)は東北に逃げていて平定できなかった。蝦夷(青銅器文化の一族)は縄文人でもなければ、アイヌ人でもない、東北に逃げていった殷王朝の末裔準王の一族である。

3 日本書紀・景行25年・において「武内宿禰を遣わして、北陸と東方の諸国の地形、あるいは人民の有様を視察させられた」。景行27年武内宿禰は東国から帰って申し上げるのに、「東国のいなかの中に日高見国があります。その国の人は男も女も、髪を椎のような形に結い、体に入墨をしていて勇敢です。これらすべて蝦夷と言います。また、土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」とある。
 武内宿禰は大臣ではなく皇太子のときであった。のちに第13代天皇となる。私見では在位280年~320年(古墳時代前期)である。原古事記には、入の沢遺跡が焼打ちにあったので、視察に行ったと書いてあった。「攻略するとよいでしょう」は百済史官による挿入である。倭国天皇が百済王に仕えるという構成をとる。
 日本書紀・景行40年・倭建命の再征・において・天皇は倭建命を征夷の将軍に任ぜられ、「かの東夷は性狂暴で、凌辱も恥じず村に長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷の中でも、蝦夷は特に手強い。・・・どうか深謀遠慮をもって、良くない者をこらしめ、徳をもってなつかせ、兵を使わずおのずから従うようにさせよ。ことばを考えて暴ぶる神を鎮まらせ、あるいは武を振って姦鬼を打払え」といわれた、とある。
 倭建命がこのとき任じられたのは征夷の将軍ではなく第9代天皇であった。倭建命は第12代天皇の皇子ではないが、青銅器文化の一族(蝦夷)がどういう一族か知るのに役立つ。生け贄の風習のあった殷王朝の末裔である。倭建命と姉の倭姫命(卑弥呼)は一緒に巡行していた。稚日女命(卑弥呼)が岩手県の永岡神社に祀られているので、倭建命と倭姫命(卑弥呼)はここまで来ている。永岡神社の30kmほど手前に宮城県の入の沢遺跡がある。

4 平成27年7月29日付読売新聞に、大和王権と続縄文・交流と軋轢と題して「宮城県栗原市の入の沢遺跡で発見された古墳時代前期(4世紀)の集落跡が、考古学者の関心を集めている。銅鏡や装身具などの出土品が大和王権とのつながりを示すとともに、丘陵上に深い溝を巡らせて防御を固めた構造は、比較的平和に共存していたと考えられていた王権と続縄文文化の間に、厳しい緊張があったことを示す可能性があるからだ。」とある。
 銅鏡・鉄製品・勾玉・管玉・ガラス玉などの遺物より、この遺跡は倭王権の遺跡である。大和王権が敵対していた一族(続縄文と表現)とは、土着の縄文人やアイヌ人ではなく、東北に逃げていた殷王朝末裔の準王一族(蝦夷)であった。
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初期ヤマト朝廷(邪馬台国を含む)と銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族とは対立していた

2018-04-22 05:32:13 | 序章

初期ヤマト朝廷(邪馬台国を含む)と銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族とは対立していた

1  銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族と初期ヤマト朝廷(邪馬台国を含む)とを混同しておられる方がいるが、この両者は神武天皇の時から対立しており、第10代崇神天皇の時に全国を統一するまで、対立していた。
 青銅器文化の一族の起源は殷王朝の末裔の準王一族であった。出雲と北部九州(吉野ヶ里)を拠点として全国に展開していた。時代は弥生時代前期からである。 彼らは、鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷などと呼ばれていた。樂樂福神社の伝承に残る河童たちも降参した後の青銅器文化の一族を揶揄して伝えられたものと思われる。

2  彼らは弥生の早い時期から全国に展開したが、天照大神から第10代崇神天皇まで、初期ヤマト朝廷は鳥取県中部を拠点として北九州に行き辰韓(新羅)に渡り大陸との交易をはかってきた。神武天皇と戦った兄磯城や長髄彦も青銅器文化の一族である。
 後漢書には107年に倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じたとある。第7代孝霊天皇は120年頃の生まれであるから、帥升とは第6代孝安天皇と思われる。孝霊天皇の父の代から中国の皇帝に朝貢する途中で青銅器文化の一族が襲ってきた。かれらを捕らえて中国の皇帝に差し出したのが生口である。高句麗の広開土王碑にも百済が高句麗に生口を献じた記述があるため帥升(孝安天皇)が生口を捕らえたのも朝鮮半島と思われる。朝鮮半島では捕虜のことを生口と表現していた。青銅器文化の準王一族は朝鮮半島にも残っていた。百済は準王一族の国と思われる。

3  第7代孝霊天皇の時になって皇居を襲ってきたためいよいよ、家族総出で青銅器文化の一族を成敗することになった。卑弥呼・吉備津彦(崇神天皇)・吉備武彦(倭健命・開化天皇)の活躍で東は岩手県、西は九州天草まで平定し全国を統一した。崇神天皇は岡山県津山市中山神社に拠点を置き、卑弥呼は志摩国の加布良古崎を拠点とした。この頃(190年~220年)から全国の者が集まるための祭祀場を奈良の纒向に造り始めた。

4  「蝦夷」とは青銅器文化の一族の末裔である。
 日本書紀には蝦夷という一族が登場するが、これはどんな一族であろうか。
 日本書紀・景行天皇・日本武尊の再征において「天皇は日本武尊を征夷の将軍に任じられ、『かの東夷は性狂暴で、凌辱も恥じず、村の長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷の中でも、蝦夷は特に手強い。男女親子の区別もなく、冬は穴に寝、夏は木み棲む。毛皮を着て血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原をはしることは獣のようであるという。恩は忘れるが怨みは必ず報いるという。矢を髪で束ねた中に隠し、刀を衣の中に帯びている。あるいは仲間を集めて辺境を犯し、稔りの時をねらって作物をかすめ取る。攻めれば草にかくれ、追えば山に入る。それで昔から王家に従ったことがない。』」とある。
 敏達10年春2月「思うに、お前たち蝦夷らを景行天皇の御世に討伐され、ころすべきものは殺し、許せるものは許された。今、自分は前例に従って、首領者である者は殺そうと思う」と言われた、とある。
 これは孝霊天皇の時代の倭国大乱のことを指している。紀元前194年に馬韓から列島にわたってきて、銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈・銅族を作っていち早く全国に展開した殷王朝の末裔・準王の一族である。数千人が渡ってきて全国に展開し、倭朝廷(孝霊天皇一族)に平定された一族である。鬼・土蜘蛛・猿・河童などとも呼ばれていた。平和に暮らしていた先住民は彼らを恐れ、高地性集落を築いた。平定された後も彼らはあちこちで反乱を繰り返していた。白村江の戦で百済王家は馬韓出身の蝦夷を多く使ったが、多くは海の藻屑と消えた。
 また、日本書紀において「新羅に書き換えられた百済は、『各境界を犯し争い』『仲間を集めて辺境を犯し、稔りの時をねらって作物をかすめ取る』とある」が、「蝦夷」は、記紀において新羅に書き換えられた「百済」と同じである。百済は蝦夷と同族であり、朝鮮半島に残っていた殷王朝末裔の準王一族と思われる。

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殷王朝(商)について

2018-04-21 05:22:09 | 序章
殷王朝(商)について
 
1  組織体制
 組織体制は、大邑・族邑・属邑(小邑)が結びついた連合体で、邑(ゆう)というのは四方を城冊で囲んだ領域であり、大邑は王城、族邑は血統単位の集落である。殷王朝初期の鄭州王城には、大邑内に祭壇、骨角器や陶器の製作所、酒造工場、青銅器の鋳造所などがあった。

2  青銅器
 殷時代の画期は、文字の制定と青銅器の発展である。殷墟から多種多様の大量の青銅器皿や兵器などが発掘されたが、大型の方鼎は、重量が875kg、高さ1.3mもあった。

3  酒
 祭祀権と王権が一体であった殷王朝では、殷人は青銅の神像が置かれた神廟で、火を焚き、生贄を供えて神や祖霊を迎え、飲酒によって一種のトランス状態に落ちることで神の神託を聞いた。殷の青銅器には、神廟の跡と見られるところから出土した酒器と神像が多いのは、この物的証拠である。

4  生贄制度 
 殷王朝では、祭祀に多数の人間を生贄として捧げる神事が執り行われた。生贄とされる人はチベット系遊牧民の羌族が多く、人狩りによって捕獲され、祭祀の時に神へ捧げられた。全ての生贄は意図的に頭が切り落とされている。甲骨文字の記録によると一度の祭祀でその数が650人に達したこともあったらしい。これまでの発掘で確認された生贄の数は1万4000体に及ぶ。

5 私見
 秦の始皇帝が中国を統一したころ(紀元前221年)には、生贄の風習は衰退した。中国での生贄の風習は紀元前2世紀までにほぼ消滅した。
 しかし、殷王朝の末裔準王は紀元前194年にヤマトにわたってきている可能性が高い。その地は吉野ヶ里であり、出雲であった。どちらも青銅器文化であり、全国に展開していったが、のちに卑弥呼を擁する邪馬台国軍(ヤマト軍と同じ)によって平定された。弥生時代の終焉をもって青銅器文化も消滅する。準王はヤマトにおいて殷王朝の再興をはかったが叶わなかった(紀元260年頃の三国志魏略)。
 しかし、半島に残っていた準王一族(百済人=藤原氏)はのちに(642年)倭国に渡り殷王朝が滅ぼされた太公望の六韜に基づいて倭国を乗っ取り(734年)、国号を日本と命名した。首を切ったり、近親婚をおかしいと思わない点で藤原氏と殷王朝末裔の準王一族は同じ一族である。
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「倭国在、東海中」とは、「倭国は日本海の沿岸にある」ということである

2018-04-20 05:40:58 | 序章
「倭国在、東海中」とは、「倭国は日本海の沿岸にある」ということである

 「義楚六帖」「一切経」「大正新脩大蔵経」「唐大和上東征傳」の中に「倭国在、東海中」とある。この意味するところは何であろうか。
 現代の日本人はこれを読んで、「大陸より東の海に日本列島があるということであたり前のことを言っているだけである」と解するものがほとんどである。

1 「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とある。
  「一切経」の中に、「倭国、発音はウワという。東海の海中にある小さな国である。身体に朱色の丹を塗っている。」との記述がある。
  「大正新脩大蔵経」には倭国は「烏波反郭注山海経云倭国在帯方東大海内以女為俗無針工以丹朱塗身也説文亦東海中国也従人委声」とある。
※ 私見 「義楚六帖」は954年に僧の義楚によって書かれたもので、倭国も日本も同じ国として書かれているが、倭国は日本海沿岸にある小さな国であった(一切経)。徐福一行は倭国(鳥取県中部)に止まった。
 「唐大和上東征傳」において「南岳慧思は東海中の倭国の王家に倭州天皇(聖徳太子)として生まれ変わった」とある。「大唐七代記」は、南岳慧思の六朝転生の記述につづいて、「身を第六の生に留め、機を第七の世に候つ(中略)所以に倭国の王家に生まれ、百姓を哀衿し、三宝を棟梁とす」と記している。これによれば、慧思の第七生は達磨の勧告にしたがって、東海中の「倭国の王家」に生まれ変わったことになる。
 また 「所以生倭国之王家、哀預百姓、棟梁三宝、碑下題云、倭州天皇彼所聖化、(中略)李三郎帝即位開元六年歳次戊午二月十五日、杭州銭唐館写竟」とある。南岳禅師は倭国の王家に託生し、倭州天皇が後身であるとしている。倭州天皇とは聖徳太子のことである。
※ 私見 
 聖徳太子は天皇ではないし577年までに生まれているから、この書は間違いである、とする方がいる。聖徳太子は580年生まれの倭州天皇であることを「大唐七代記」の著者は知っていて「大唐七代記」を著わした。矛盾していることが判っていたら最初から著わさない。
 日本の文献はすべて正しく中国の文献は間違っているという立場に立つと間違いということになるが、中国の文献には嘘を記す理由がない。日本の文献に虚偽が書いてある。倭国を乗っ取った藤原氏によって倭国の歴史書は書き換えられている。

2  「東海」とは日本海のことである。
 韓国を好き嫌いは別にして、韓国は日本海のことを「東海」と呼んでいるし、「『東海』の呼称は『三国史記』東明王本紀(紀元前50年頃)に初めて登場し、広開土大王陵碑、八道総図、我国総図をはじめ、韓国の数多くの文献、古地図などに記録されている。また、東海は日本海呼称の根源といえる日本という国号の登場よりも700年も先に使われていた」とする。
 ※ 私見
 日本という国号は669年に天智(豊璋)が考案し、702年に中国に示した。したがって、奈良時代以前は 日本海とは言わなかった。奈良時代以前は韓国が主張するように、日本海は「東海」といっていた。したがって、「倭国在、東海中」とは「倭国在、日本海中」と読める。

3  「海中」とは海の対岸のことである。
 日本書紀に「事代主は国を譲って波の上に幾重もの青柴垣をつくり、船の側板を踏んで、海中に退去してしまわれた」とある。また、準王も「海中」にありと書かれている。事代主は対岸の倉吉市福庭の地に引越しして生きていた(波波伎神社由緒より)。また殷王朝末裔の準王一族は馬韓から対岸の列島に渡り、のちの藤原氏の基礎を築いた。
 「海中」という表現は「海の対岸」という意味である。「倭国在、東海中」とは「倭国は日本海の沿岸にある」ということである。
 
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縄文海進のピークは海抜20mあったとする倉吉住吉神社の案内板は正しいか

2018-04-19 04:51:44 | 序章
縄文海進のピークは海抜20mあったとする倉吉住吉神社の案内板は正しいか
1  「縄文海進のピークは6000年前から5000年前であり今より5m前後高かった」というのが通説であるが、倉吉市住吉神社の案内板には「往古この一帯が入江であった頃、海の守護神住吉神社をお祀りして植えた一本の欅の木が大きくなって住吉の船繋ぎの大欅と云って親しまれていた」とある。
 またNews Reader - German  my flood map | about | privacy  Data provided by NASA にお世話になりますが海抜20mのときに住吉神社の前が入江になります。
 海抜4m(紀元前200年頃)の鳥取県中部の地形は笠沙の御前が浮かび上がってくるが、倉吉住吉神社周辺は陸地である。
 海抜20mに海面がある鳥取県中部の地形です。これが「この一帯が入江になった」状態であり、住吉神社の前まで入り江になっています。住吉神社は中央下になります。茶臼山と三輪山が島になっています。
 住吉神社の部分を拡大したのがこの写真です。この一帯が入江になっています。
 住吉神社の前より撮影。交差点より向こうは入江であった。
2  私はこの住吉神社の伝承は正しいと思います。
 その結果、縄文前期から縄文中期に到る縄文海進のピークの時(紀元前3500年頃)に海面は今より20m高かったことがわかります。また、紀元前3500年頃に住吉神は船で海上交通をしていた。すでに大陸との行き来をしていたのではないかと思われる。
 なぜ通説はピーク時に4m位高かったとするのであろうか。それは、4mの時(紀元前200年頃)に地名を付ける一族が中国から渡来していたからである。彼らは、当時の海岸付近に灘とか穂波とか瀬戸とか津とかの地名を付けた。現在その地名のあるところが、海抜4~5mなので、地名から判断してピークが4~5mであるとした。
3. また、倉吉には縄文人がいて、今に伝承を伝えているということがわかる。近くの北栄町島から縄文前期から縄文晩期に続く遺跡が見つかっているので鳥取県中部には縄文前期(紀元前5000年)から人が住んでいた。
島遺跡発掘調査報告書第2集
http://sitereports.nabunken.go.jp/14048
 猿田彦一族は北栄町島にいて土地感があった土着の縄文人であったろうと思われます。天忍穂耳の指示に従って天孫降臨の道案内をした。天忍穂耳は北栄町下神の三輪山に、猿田彦はその下の北栄町松神を拠点としていた。松神(猿田彦の拠点)は北条島(猿田彦一族)の近くである。
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列島への渡来人

2018-04-18 19:32:29 | 序章

 日本列島への渡来人

1  縄文人
 縄文中期(紀元前3500年頃~)頃は西日本は少なくて、主に東日本に多く分布していた。喜界カルデラの噴火が関係していると思われる。縄文海進のピーク時(紀元前3500年頃)に倉吉の住吉神社にいた住吉神は大陸と交流していた。

2  楚・呉・越の水田稲作渡来民(紀元前900年頃~)
 稲作渡来民たちは、もともと中国の春秋から戦国時代に楚とか呉とか越と呼ばれていた地域の住民。始め九州に漂着した。板付遺跡(福岡県博多区)、福岡平野の菜畑遺跡、野多目遺跡、早良平野の橋本一丁田遺跡等。その後、中西遺跡・秋津遺跡(奈良県御所市)、服部遺跡(滋賀県守山市)、池島・福万寺遺跡(東大阪市・八尾市)に住み着いた。水田址は彼らがこの地に来ていたという証である。しかしこれらは初期ヤマト朝廷の遺跡ではない。

3  第1次徐福一行(紀元前219年)
 どこに到着せよという指示がなかったため、日本全国各地に漂着する。徐福と素戔嗚は、伯州(伯耆国)に到着し大神(伊邪那岐)と会っている。「育ちの良い少年少女を多く渡来させれば、不老長寿の仙薬の在りかを教えてやる」と言われた。大神(伊邪那岐)は人口を増やしたかった。青谷上寺地遺跡から出土した32体の人骨のDNA解析により、弥生時代、青谷は国際都市であり、彼らの出身地は東アジアの北から南までの広範囲であった。この移民政策は奈良時代まで800年の間続いた。鳥取県が移民を受け入れる玄関口であった。移民だけでなく珍しい文物も。シルクロードの終点は鳥取県であった。
 始皇帝は家来に徐福一行のあとを追わせた。始皇帝の家来は湯梨浜町の東郷池に到着し、忍坂を上り、三朝町山田に住んだ。山田(ヤマタ)のオロチのモデルは始皇帝の家来たちであった。

4  第2次徐福一行(紀元前210年)
 百工や育ちの良い少年少女三千人を伴って辰韓から対馬海流に乗って伯州に次々と到着した。辰韓(秦韓)に残った者もいた。山幸彦(火火出見)が辰韓に行ったとき。海神族の長は山幸彦(火火出見)が誰かをわかっていた。山幸彦(火火出見)を虚空津日高(徐ラツヒコ)の君だといった。
 三貴神(天照大神・月読命・素戔嗚命)は徐福一行のリーダーであった。不老長生の仙薬を求めていたので、当時多くが海であった出雲や松江ではなく、伊邪那岐の待っている伯耆国の葦原中つ国(橘・鳥取県北栄町)に到着した。素戔嗚は三朝町山田(ヤマタ)で八岐大蛇(始皇帝の家来)と出会い、退治した。八岐大蛇は徐福を追ってきた始皇帝の家来であった。八岐大蛇伝説は鳥取県三朝町山田(ヤマタ)が舞台である。
 少女たちの多くは米子周辺に留まらせた。米子周辺の神社にはその頃誕生したと思われる女神が多い。その後の天孫降臨は蒜山から鳥取県中部において行われた。初期ヤマト朝廷は鉄剣・鉄鏃・鉄矛・銅鏡を造った。

5  殷の末裔準王(紀元前194年)
 馬韓の地から準王の一族数千人が出雲・九州に渡ってきた。
 松江南部・吉野ケ里を本拠地として銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈・銅鏃などを作り、殷王朝再興のためいち早く全国に展開した。奈良県・和歌山県・大阪府南部・大阪の南茨木や淡路島も拠点にしていた。
 周辺住民は鬼・土蜘蛛・猿・河童などと言って彼らを恐れ、神武天皇の時代(弥生時代中期)高地性集落を造って彼らから身を守った。
 初代神武天皇のときから天皇家とも戦っている。第7代孝霊天皇のときが最大の戦い(倭国大乱)で皇子(開化天皇・崇神天皇)や皇女(卑弥呼)の頑張りでヤマト朝廷は全国を平定していった。天皇家は従わせることを主として、殺すことは最小限に止めたようである。しかし祭祀の方法は変えさせた。神社を始めたのは崇神天皇と姉の倭姫命(卑弥呼)である。

6  百済からの亡命者
 642年の高名な40人余りを乗せた百済からの船には翹岐や皇極天皇(天智の母親)も乗っていた。白村江の戦いによる亡命百済人(660年頃)にも王族は含まれていた。白村江の戦い以前の高句麗による亡命百済人は亡命一世より数世代になっているので、紀元前194年に馬韓から渡ってきた殷王朝末裔の準王一族も含めると、奈良時代には30万人くらいになっていたと思われる。全人口の6%を占める。不比等は百済(ホゼ)出身の一族に藤(フジ)の字をつけている。たとえば、不比等の時代より古い時代であっても、百済(馬韓)から日本に渡来してきたことが分かれば、その一族に藤を含む二字姓を授けた。
 藤原氏は心情的に、同じ馬韓の出身でヤマト朝廷を苦しめた準王の青銅器文化の一族(出雲神族)に味方をしていたので 、出雲や淡路島を聖域にしている。
 百済は馬韓に残っていた準王一族と思われる。日羅は百済人が船にのって大量に渡ってきたら、殺してしまえ、と言った。日羅は百済(日本)の危険性がわかっていた。

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