「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

日本書紀は列島における百済再興のために制作された

2021-03-25 16:47:25 | 藤原氏

 日本書紀は列島における百済再興のために制作された。

1 「ヤマトタケルに秘められた古代史」において崎元氏は「書紀」は15代までの天皇の享年は知っているが、17代からの天皇の享年はほとんどわかりません、と言っている。人間の最長寿命の遺伝プログラムは最初から決められており、120歳程度とされる。それを越える天皇が16代までの中に6人も存在する。従って、16代までは潤色されている、とする。

 倭国を乗っ取った亡命百済王朝は、中国に天照・神武から続く万世一系の皇統だと思わせなければならなかった。しかし、天照大神が中国人であったことは隠さなければならなかった。従って神武元年を紀元前210年よりずっと古く見せなければならなかった。そのために、120歳以上の天皇を6人も創り、兄弟承継であった8代9代10代を父子承継にした。

2 旧唐書に倭国と日本(百済)は別の国と書かれるほど唐に疑われていたので万世一系の天皇家と思わせるようにしなければならなかった。そんなおり、太安万侶より倭国の歴史書が上程された。不比等をはじめとする亡命百済人たちは百済(日本)の歴史書を創るにあたり、倭国と日本(百済)は別の国と思われないために百済の王の中に倭国の王を混ぜた。
 日本書紀において原古事記から引用したと思われる倭国大王は神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇くらいである。あとは百済王の在位期間を持ってきている。大「臣」とされているのも、すべて倭国の大「王」であった。亡命百済人たちは、奈良で仕事を与えられ、倭国の下僕として働いていた。石像などを造ったのも亡命百済人である。テロで政権を奪った亡命百済人たちは日本書紀において倭国の大王を下僕(大臣)として仕えさせるという書き方をした。
 古事記原本には大「王」と書いてあったのを大「臣」に書き換えている。

 崎元氏は、単純に直線を引いて神武元年を207年とする。崎元氏は履中からの傾きは正しいとされるが、大臣が倭国大王なので690年は第31代の高市大王となる。百済人(扶余族)の性格は性急なので寿命も短かったようである。履中からの在位年数は百済王の在位年数である。一方、魏志倭人伝には「倭人はたいへん長生きで、100歳、あるいは8、90歳まで生きる」とあるから王の在位年数も現代とあまり変わらず30余年であった。 
 神武元年は紀元前60年であった。別稿「神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった」を参照されたし。
 神武元年を紀元前60年とし、690年に31代が即位したのでほぼ直線に近くなる。

3 蘇我氏は倭国大王であった。
 倭国13代大王は武内宿禰大王であり、その三男の蘇賀石河宿禰は蘇我氏の始祖であった。蘇我氏は武内宿禰大王の子孫であり、倭国大王になる血筋であった。蘇我稲目・蘇我馬子・蘇我入鹿・蘇我倉山田石川麻呂は大「臣」ではなく大「王」であった。太安万侶が上程した原本にはそう書かれていたが、百済人は日本国天皇を創り上げ蘇我氏三代は下僕(大臣)として仕えさせるという構成にした。
 したがって、宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智は倭国大王ではなく百済王であった。
 崇峻紀4年(591年)条に「崇峻天皇(蘇我馬子大王)は群臣と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った。政治実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満であった。崇峻天皇5年10月(592年)、天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して『いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ』と発言し、多数の兵を召集した。馬子は崇峻天皇の発言を知り、天皇が自分を嫌っていると考え、天皇を殺害することを決意する。同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を殺害させた」とある。
 「任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った」のは百済王の崇峻ではなく倭国王の蘇我馬子大王であった。朝鮮半島にいた東漢駒の軍に百済王の崇峻を殺害させた。主語を書き換え、舞台を倭国内のように書いているが舞台は朝鮮半島であった。
 皇極・斉明は642年に百済からの船に乗っていた「高名な40人余り」の中にいた百済人豊璋(天智)の母親であった。舒明は百済で亡くなった武王(百済人豊璋の父親)がモデルである。天武天皇は倭国28代蘇我善徳大王(聖徳太子)の王子であった。百済王の古墳は方墳・六角墳・八角墳であり、倭国王の古墳は円墳・前方後円墳であった。

4 倭国を征服・支配するために創られた百済の八幡神社の祭神として、神功皇后・武内宿禰・誉田別・仲哀天皇を創作し日本書紀に書き入れた。
 13代成務天皇と14代仲哀天皇は架空の天皇である。神功皇后は豊鋤入姫(台与)がモデルであった。倭国が弥生時代後期に神社・神道で全国を統一したのを真似て、不比等たち百済人は多くの八幡神社を全国に創った。
 列島に多く残っていた倭建命・倭姫命(卑弥呼)の伝承も消さなければならなかった。八幡神社周辺の倭建命・倭姫命(卑弥呼)の伝承は武内宿禰と神功皇后の伝承に吸収させた。
 13代大王の武内宿禰を大臣とした。抜けた13代天皇に架空の成務天皇をあてた。
 14代を誉田別の父親にすることにし14代に架空の仲哀天皇をあてた。本来14代であった仁徳天皇を16代に移した。
 15代は特別な天皇であったので動かすことはしなかった。応神天皇は百済が初めて倭国に朝貢したときの倭国大王であり、3年間人質として百済にいたため、百済にとって特別な天皇であった。応神天皇を百済の神社である八幡神社の主祭神にした。

5 神武東征は不比等の創作である。
 亡命百済人の王族は一時宮崎県にいたので不比等は宮崎県を都に見立てた。710年に平城京を築いてもらったので、不比等は宮崎にいた王族を奈良に呼び寄せた。王族が宮崎から奈良にきたのだから百済の都も宮崎から奈良に遷ったという体裁をとる必要があった。不比等は太安万侶が上程した原本に書いてあった初代神武天皇の鳥取県中部を出発して藤原氏の先祖の蝦夷(略奪集団の出雲族)を平定し、鳥取県中部に帰ってきた記述を利用することを考えた。不比等は倭国の歴史書に書いてあった神武天皇の記述を改ざんして神武東征を創作した。
 原本に書かれていた神武天皇たちの目的は蝦夷(出雲族)を平定することであった。九州の蝦夷を平定したあと、倭国に帰ったが、長髄彦に敗れ、倭国をいったん退いて福山市と尾道市を拠点として出雲から出てくる賊(出雲族)を平定し倭国を取り戻す機会をうかがっていた。倭国(鳥取県中部)を出雲族から取り戻し、紀元前60年に即位した。
 神武天皇は線刻土器の年代比較により摂津国(茨木市の東奈良遺跡)までは行っているが、奈良までは行っていない。唐古・鍵遺跡などの線刻土器は1世紀なので奈良を平定したのは4代懿徳天皇(在位40年~75年)と思われる。中国皇帝への最初の朝貢を北九州の倭奴国にさせたのも懿徳天皇と思われる(紀元57年)。倭奴国は「倭国に仕え従う国」と書く。2代から6代までの天皇は奈良だけでなく東国も平定していった。東北まで平定したのは7代孝霊天皇の皇子(倭建命)と皇女(倭姫命)であった。藤原氏は神武東征との整合性を謀るため、また藤原氏より以前に全国を統一していた別の王朝があったことを隠すため、2代から9代までの旧事を消した。
 10代崇神天皇は四道将軍を置き、全国に神社を建てて、殷王朝から伝わってきた出雲族の宗教を神道に改宗させて、全国を統一した。

6 倭国王2代から9代までの旧辞は削除した。
 倭国王第4代懿徳天皇は奈良を平定し、北九州にあった倭奴国を使って初めて中国に朝貢させた。倭国王第6代孝安天皇(倭国王帥升、在位105年~147年)は後漢への即位報告の朝貢途中、朝鮮半島でとらえた生口(捕虜=略奪集団の扶余族)160人を後漢の安帝に献じた(107年)。7代孝霊天皇とその子、8代孝元天皇と9代開化天皇と卑弥呼は全国と半島を平定した。
 奈良に都を遷したのは初代神武天皇としなければならないから、第4代の旧辞を残しておくと整合性が取れなくなるので消した。
 第6代の捕らえた生口は略奪に喜びを感じる扶余族であり、百済人の先祖であった。7代8代9代に平定された出雲族も略奪集団であり、百済人の先祖であった。藤原氏と同族である出雲族の平定される様を残すわけにはいかず2代から9代の旧辞は消した。出雲族と同族の藤原氏は倭国を乗っ取ってから、出雲国風土記を創作し出雲大社を築造して出雲を聖地にした。藤原氏以前に全国を平定・統一していた王朝の旧辞を残すわけにはいかなかった。

7 新羅と百済を入れ替えている。
 垂仁紀2年是歳条 、神功皇后摂政紀47年4月条、応神紀14年是歳条、応神紀16年8月条、仁徳紀53年5月条、雄略紀7年是歳条、雄略紀9年3月条にある「新羅」は原文に「百済」とあったのを書き換えている。
 新羅と倭国(鳥取県中部)は建国以来兄弟国であったので、倭国の歴史書に新羅を悪く書くことはない。百済人は倭国の歴史書にあった新羅と百済を入れ替えた。欽明天皇の段で特に多い。百済は新羅の法興王を殺した。
 仏教は新羅の法興王から伝わったにもかかわらず、百済から伝わったと書いた。飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルに建築された。
 湯梨浜町宮内遺跡発掘調査報告書や青谷上寺地遺跡発掘調査報告書を見ると、弥生時代前期から鳥取県中部(倭国)は大陸と直接交流をしていたことが判る。その大陸とは東郷池・青谷と最短距離にある新羅国である。新羅国は稲飯命が建国しそこで鉄製の武器を造っていた。新羅国と倭国(鳥取県中部)は弥生時代前期から兄弟国であった。
8 日本書紀は原古事記の発音を他の漢字であてた当て字である。
 日本書紀は古事記とは別の漢字を使う。意地でも別の漢字を使う。久米を来目と書く。長谷を泊瀬と書く。大御堂廃寺から7世紀の「久米寺」と墨書された皿が発掘された。日本書紀が製作される以前は「久米」の字が使われていた。「大倭」を大和や日本に変えている。先祖代々使ってきた「倭」の国号を倭国の大王はそう簡単に変えることはない。倭(やまと)と名乗った祖神(伊邪那岐)を大事にする一族だからである。8世紀に倭の国号を変えたとするが、倭の大王ならば先祖が800年使ってきた国号を「優雅でない」という理由だけで変えることはない。倭の文字が「優雅でない」から大和・日本に変えたのではなく、日本と名乗ったのは倭王朝とは別の百済王朝だからである。日本(百済)は倭国を乗っ取ったのである。

9 日本(百済)という国号を遡らせて使っている。
 日本という国号は百済からの人質の豊璋(天智)が669年に発案し702年に中国に知らせた。亡命百済人たちの国号であった。万世一系の日本国であったと思わせるため日本の文字を669年以前に遡って記載した。
 倭国歴史書には倭建命(157年~188年)と書いてあったのを日本武尊に書き直している。
 173年に卑弥呼と倭建命が建国し663年に統一新羅が半島を統一するまで、任那があった場所は最初から最後まで全羅南道であった。藤原氏は百済が任那を征服したと思わせないため、新羅に隣接する加羅10国が任那であると記載した。
 雄略天皇のときと512年から543年頃にかけて任那は百済(日本)に滅ぼされ占領されていた。「任那日本府」の文字は百済が全羅南道の任那を征服したので日本書紀では遡らせて「任那日本府」と書き換えた。

10 伊勢神宮と伊勢国を古く見せかけている。
 伊勢神宮は全国を統一した卑弥呼のいた志摩国を封印するために倭国を乗っ取った藤原氏が創建した。藤原氏だから奈良時代より古くはない。伊勢神宮がまだなかった時代に倭建命も持統も伊勢神宮に行ったことにしている。
 伊勢国を創るために、原古事記にあった建御名方と建御雷との国譲りの交渉を伊勢国風土記の伊勢津彦と天日別命との交渉に書き換え、時代を神武天皇の時代にして天照大神の降臨を日本書記には記載しなかった。伊勢国を創ったのも伊勢神宮と同じく奈良時代以降である。

11 準王一族のいたところを聖地にしている。
 藤原氏は朝鮮半島に残っていた箕氏朝鮮の準王一族と思われる。倭国を乗っ取ってから紀元前194年頃に渡来した準王一族のいたところを聖地にした。藤原氏は兄妹婚や母親・叔母との結婚(近親婚)をおかしいと思っていない節があるので藤原氏と準王一族(蝦夷)は同族と思われる。奈良、出雲、熊野、淡路島、阿蘇、高千穂など準王一族が多くいたところであり、藤原氏は倭国を乗っ取ったあと奈良、出雲、熊野、淡路島、阿蘇、高千穂などを聖地にして日本書紀でもそのように記載した。

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八幡神社は藤原氏の神社である

2018-05-17 05:28:22 | 藤原氏
八幡神社は藤原氏の神社である。

1 八幡宮は、八幡神を祭神とする神社。全国に約4万4千社あり、大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社とする。
 和銅元年(708)に鷹居社を造立し八幡神として祀ったのが八幡信仰の始まりといわれている。そして霊亀2年(716)には小山田社に遷座、さらに神亀2年(725)には、小倉山の丘陵(現在の亀山)にさらに遷座した。
 八幡神社の祭神は応神天皇、比売神(宗像三女神)、神功皇后のほか、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇、武内宿禰とともに祀っている神社もある。
2 私見
 八幡神社の始まりが当時最大権力を持っていた藤原不比等の時代であることと、新羅を攻撃して勝った神功皇后を立派だとして祭神としていることと、応神天皇(私見では在位354年~394年)の時代に百済は倭国に始めて朝貢しているので応神天皇は特別な天皇であったことから、八幡神社は倭国を乗っ取った百済出身の藤原氏によって創建され広められたものと思われる。
 現在では全国の神社(8万5千社ほど)の半数以上を占める。八幡神社でない神社(文部科学省の資料によると4万社くらい)よりも多い。八幡神社は日本各地の神社などに残るヤマト王権(紀元前60年~734年)の歴史・伝承を作り替え、あるいは消すために造られた神社と思われる。日本の本当の古代史や八幡神社の機能を知った徳川光圀は八幡つぶしをしている。徳川光圀の編纂した歴史書を読んだ京都の藤原氏は元禄時代に西日本のあちこちで徳川光圀に指摘されたところの辻褄合わせ(整合)をしている。伯耆国の大原神社もその一つである。元禄時代までは波波伎神社と称していたと由緒に残っている。八岐大蛇の伝承も残っていたものと思われる。台与(豊鋤入姫命)の伝承も神功皇后の伝承に置換えていった。それを完成させるためには、多くの八幡神社が必要であった。
 伯耆国には八幡と名のつく神社は少ない(鳥取県神社誌による)。鳥取県中部に限っては、藤原氏にとって本当に消さなければならない場所の近くに八幡神社を建立している。
 瓊々杵命の居た大宮神社の近くに高尾八幡宮。天忍穂耳のいた三輪山と大国主のいた茶臼山との間に北条八幡神社(周辺に大国主・大物主の本拠地と7天皇の皇居があった)。素戔嗚と須勢理姫(宇迦之御魂命)のいた倉吉の清熊稲荷神社の近くに八幡神社。あと一社が旧東郷町の小鹿谷桂男山八幡宮(秀尾神社だが祭神は八幡神)である。
 
3 高尾八幡宮
 
鎮座地 東伯郡栄村大字西高尾字八幡山 
現在 鳥取県東伯郡北栄町西高尾340番    
祭神 誉田別尊、帯中津彦命、気長足姫命、武内宿禰命、大已貴命、別雷神、素盞鳴尊、瓊々杵命、菅原道真
由緒 本社は陽成天皇元慶年中の創建にして石清水宮別宮種八幡宮として奉祭せられ、佐藤某なる者の献金によりて奉建せるものなり。爾来武門武将の崇敬甚だ厚く社領も亦多かりしか、平家追討の頃守護武士等社納米を抑留せる事ありしを、元歴二年源頼朝の令によりて是を停止せられ、事後一般の崇敬特に厚く、殷盛なる神社なりしが、群雄割拠の世に至り兵燹に罹り一時祭事微弱に陥りたるの時、本国の領主尼子晴久之を慨して社領を奉献して面目を革めたり。後尼子氏の滅亡とともに社領絶せり。下りて徳川氏天下一統の後も累代国主の祈願所として奉祭せられたり。
大正四年四月二十一日 
(1)大宮神社 東伯郡栄村大字上種字宮惣   
祭神 大己貴命、別雷命、素盞鳴命、瓊々杵命、菅原道真
(2)東高尾神社 東伯郡栄村大字東高尾字堂山  
祭神 素盞鳴命
を合併す。
 当社に古き経筒を蔵す、理学博士坪井正五郎、文学博士三宅米吉の鑑定によれば、藤原時代の献納物ならんと。尚当社か石清水八幡宮別宮なりし事、元歴二年正月十九日右大将頼朝の社領安堵の下文(石清水所蔵古文書)にあり。
※ 私見
 陽成天皇元慶年中の創建とは880年頃に創建されたことになる。
天孫降臨に際して、瓊々杵命は打吹山周辺をさけて山沿いを移動している。関金の北の鴨河内あたりが倉吉中心部にいた大物との境界であったようだ。瓊々杵命は関金ー志津ー福本ー上米積ー上福田ー下種と移動している。
 クシフルタケ(亀谷丘陵)の海側には木花佐久耶姫を祭る亀谷神社がある。葦原中津国を天児屋根(穂波神社)と挟んだ位置関係になっており、葦原中津国を平定した状態を確認できる。

4 北条八幡神社
鎮座地 東伯郡下北条村大字北尾字八幡山
現在地 鳥取県東伯郡北栄町北尾365
祭神 誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、大山祇尊、猿田彦神、素戔鳴尊、大己貴尊、少彦名尊、国常立尊、綿津見神、奥津彦神、奥津姫神、菅相烝、土御祖命、倉稲魂神、天児屋根尊、山神
由緒 当社は清和天皇貞観七年八月筑紫宇佐八幡宮の御分霊を奉祀して産土神とし尊崇するものにして郡内屈指の大社なり。
大正2年12月28日 
(1)苅山神社 東伯郡下北条村大字曲字苅山   
祭神 綿津見神
(2)岡神社 東伯郡下北条村大字曲字岡   
祭神 素盞鳴尊
(3)嶌沢神社 東伯郡下北条村大字米里字三ノ崎  
祭神 素戔鳴尊・大山祇尊
(4)田村神社 東伯郡下北条村大字島字田村  
祭神 猿田彦尊
(5)田井神社 東伯郡下北条村大字弓原字妙見  
祭神 国常立尊
(6)下神神社 東伯郡下北条村大字下神字南宮脇  
祭神 菅相烝
(7)三輪神社 東伯郡下北条村大字土下字野本  
祭神 大己貴尊・少彦名尊・猿田彦神・倉稲魂神・天児屋根尊
(8)弓原神社 東伯郡下北条村大字弓原字飯田  
祭神 奥津彦神・奥津姫神・菅相烝・土御祖命
の八神社を合祀する。
 (7)の三輪神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記す。
一、地名 上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ。大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ。
二、往古三輪神の鎮座地は下神郷の中央なる三輪山の麓字三輪脇に在りしが、宝暦三年の火災により野本山に移転せり。
三、鎮座地 土下(ハシタ)は往古土師部の此の地に移住せしより地名とす。土下山の頂には今尚数百の古墳散在し古器物を発見す。
※ 私見
 鳥取県東伯郡下北条村では大正2年に8つの神社を北条八幡神社に合併している。北条八幡神社(古くは山田八幡宮)は天忍穂耳のいた三輪山(神山)と大国主のいた茶臼山(大神山、宇迦能山、伊那佐山)との間にある。周辺には天皇の皇居の比定地が多くある。
 現在の国坂の茶臼山は大神山(オオミワヤマ)といい下神の三輪山も神山(ミワヤマ)と言っていたはずである。宝暦三年(1753年)の火災とあるが、大日本史の改ざん中であり、徳川光圀が矛盾を指摘していたので邪魔になり、藤原氏が放火したものと思われる。焚書・放火の好きな藤原氏である。「土師部の此の地に移住せしより土下の地名とす」とあるが、苦しい説明であり、納得できるものではない。土下は神武天皇の家来が土を下したところだから地名とされた。
 伯耆民談記には「山田家に古き伝記を所持せり。その文に『承平5年(935年)伯州山田別当下向八幡大菩薩奉還。当所号開発願主この子孫により山田を以て氏とす云々』。山田家承平の頃より天正年中まで連綿として続きたり(在承平5年(935年)~天正11年(1583年))」とある。
 創建は866年である。935年は統一新羅滅亡の年。山田氏は京都よりこの地に来たりて八幡大菩薩を奉還した。山田氏は京都から下向し六百年余りこの地を支配した。

5 倉吉の八幡神社
鎮座地 東伯郡倉吉町大字余戸谷町字四十二丸
現在地 鳥取県倉吉市八幡町3626-3
祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、素盞鳴尊、宇迦之魂命、武内宿禰命
由緒 創立年代不詳、文明十八年(1486)因幡守護山名豊明社殿を造営す。旧と八幡宮と称し倉吉町の西部及び小鴨村大字生田の産土神たり。
明治元年九月生田神社と改称、その後村社に列す。
大正二年九月
(1)谷田神社 倉吉町大字余戸谷字四十二丸
祭神 須佐之男命、宇迦之魂命
を合併す。
※ 私見
 倉吉市生田にあった久米八幡を明治時代こちらに遷した。
 伯耆国風土記残欠に、「伯耆とはもと母来といい、稲田姫が母来ませと叫んだからだ」と記されている。三朝町の坂本神社には稲田姫の両親が祭られ、三朝町大瀬には大瀬ほうきという地名(稲田姫はここで母来ませと叫んだ)があり、下っていくと大原神社(もと波波伎神社)がある。八岐大蛇伝説は三朝町山田(ヤマタ)が舞台であった。その後、素戔嗚と稲田姫は伊邪那岐命の後を追って、鳥取県八頭郡に行っていた。その後、素戔嗚は須勢理姫(宇迦之御魂命)と共に根国(倉吉市中心市街地)の清熊稲荷神社に戻った。明治維新の頃まで、清熊稲荷神社に大国主の根国での冒険の伝承が残っていたものと思われる。この丘陵全体の住所が倉吉町大字余戸谷字四十二丸であった。清熊稲荷神社はその中心部にある。
 素戔嗚と須勢理姫(宇迦之御魂命)が倉吉市の清熊稲荷神社にいたのを大日本史で徳川光圀は指摘していたはずである。藤原氏は明治時代になって八幡神社を造り根国での冒険の伝承を消した。
 また、饒速日一行の大勢は関金町の日吉神社より船で哮峰(八幡神社の峰)に降臨した。天忍穂耳・猿田彦・饒速日・天香語山・豊受姫ほか大勢はこの哮峰(八幡神社の峰)で素戔嗚に会った。素戔嗚は饒速日に十種の神宝を授け、天忍穂耳・猿田彦に大国主に協力してくれるように頼んだ。豊受姫は天香語山の子育てをしていた。4伴緒は長瀬高浜に行った。

6 東郷神社(湯梨浜町小鹿谷の小鹿谷桂男山八幡宮)
鎮座地 東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾
現在地 鳥取県東伯郡湯梨浜町小鹿谷768
祭神 國常立命、伊邪那岐命、素戔嗚命、速玉男命、事解男命、底筒男命、中筒男命、上筒男命、市杵島比賣命、大穴牟遅命、大山咋命、猿田彦命、誉田別命、足仲彦命、気長足姫命、大山祇命
由緒
(1) 引地神社 東伯郡東郷村大字引地字宮ノ峯
祭神 市杵島比賣命
(2) 森山神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字森山
祭神 素戔嗚
(3) 松上神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字杉ノ子
祭神 国常立命
(4) 秀尾神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾
祭神 誉田別命・足仲彦命・気長足姫命
(5) 新宮神社 東伯郡東郷村大字川上字鍛冶屋谷
祭神 速玉男命・事解男命・伊邪那岐命・大山祇命
(6) 麻畑神社 東伯郡東郷村大字川上字奥山ノ神
祭神 素戔嗚命・大山祇
(7) 山邊神社 東伯郡東郷村大字国信字宮ノ前
祭神 伊邪那岐命
(8) 別所神社 東伯郡東郷村大字別所字宮坂
祭神 上筒男命・中筒男命・底筒男命
(9) 高辻神社 東伯郡東郷村大字高辻字屋敷
祭神 大山咋命・大山祇命・大穴牟遅命
(10) 松尾神社 東伯郡東郷村大字方面字屋敷
祭神 大山咋命
(11) 久見神社 東伯郡東郷村大字久見字梵天谷頭
祭神 猿田彦命
(12) 谷口神社 東伯郡東郷村大字中興寺字屋敷
祭神 素戔嗚
(13) 和田神社 東伯郡東郷村大字田畑字和田
祭神 素戔嗚
を大正2年4月合併す。
※ 私見
 鳥取県東伯郡の旧東郷町では大正時代に実に12もの神社を東郷神社に合併している。4の秀尾神社は小鹿谷秀尾にあり東郷神社と同じである。秀尾神社の祭神は誉田別命・足仲彦命・気長足姫命であるので八幡神社であった。小鹿谷桂男山八幡宮(伯耆民談記)と呼ばれていた。秀尾の八幡神社に12の神社を合併して名前は東郷神社とした。なぜ東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾に八幡神社を造ったのか。近くに隠さなければならない重要なものがあったものと思われる。その中には、本田善光が仏像を引き上げた引地の引地神社や垂仁天皇の皇居があったと思われる川上集落の2神社も含まれている。12の神社にはそれぞれ立派な由緒があったはずである。12神社が合併され、消されてているのだから東郷池周辺のヒントが見つからないわけである。川上字鍛冶屋谷で刀を作ったものと思われる。南の波関峠から片柴集落(忍坂邑)に至る坂が忍坂に比定できる(当時川上宮から坂を越えて石上神宮に至るにはこのルートしかない)ので、東郷地域は重要な地域である。東郷神社のある小鹿谷にも天皇の皇居があったはずである。他にも調べれば史実がもっと現れるものと思われる。
 
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藤原氏の明治政府で始まった大日本帝国軍隊の歴史

2018-05-16 02:53:02 | 藤原氏

1  ウィキペディアより
☆ 明治元年(1868年)
☆ 日清戦争(1894年)
☆ 日露戦争(1904年)
☆ 日韓併合(1910年)
☆ シベリア出兵(1918年)
 連合国の1国であるロシアで「ロシア革命」が勃発すると、西部戦線で手一杯になっておりロシアへの出兵の余裕がないイギリスとフランスの依頼により、陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対してシベリア出兵が打診され、1918年にはアメリカと共同歩調を取ってシベリア出兵を実施した。なお、イギリスやフランス、イタリアなども出兵したが、その規模は日本に比べ小さいものであった。
☆ 第一次世界大戦後
 連合国の勝利に大きく貢献したこれらの功績により、大日本帝国は連合国五大国の一国としてパリ講和会議(1919年)に参加し、ヴェルサイユ条約によりドイツの山東省権益と、パラオやマーシャル諸島などの赤道以北の南洋諸島を委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟の常任理事国となった。
 しかし、他国が兵を戻す中でもシベリア出兵を継続したことで各国の猜疑を招き、国際的立場が厳しいものとなっていった。1920年の停戦命令に従わずにシベリヤに居続けたため、日本がロシアや中国においてアメリカの利権を侵すのではないかという疑いを持たれた。
☆ 満州国建国(1932年)


2  私見
 第一次世界大戦後、日本は国際貢献を果たした国として国際連盟の常任理事国となった。何か今の政府トップの目指す戦後70年の日本のあり方と似ているような。
 停戦後もシベリアに居続けたことから世界に疑われるようになったのであるが、今日、モルディブに海賊のために派兵されている自衛隊の幹部が、ほかの名目で居続けるようにしたほうが良いといったそうである。目的が終われば引き上げるべきである。侵略とみられる。

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大日本史と神祇志について

2018-05-15 05:50:34 | 藤原氏

1 大日本史と神祇志について(ウィキペディアなどによる)
(1) 大日本史は1657年(明暦3年)に編纂作業が開始され、編纂が終結するのが1906年(明治39年)と、実に250年もの長きに渡り続いた。
 まず「旧紀伝」と称されるものが完成する(1680)。天和二年(1682)に史臣の山県源七(元纜)が上京した機会に、公家の 土御門泰福 という人に、水戸からこういう書物を編修して差し上げるのは如何なものでしょうか、是非陛下にうかがって頂きたいと、光圀の意向を伝えた。霊元天皇は大変喜ばれ、是非献上せよ、とのお言葉があった。ところが、これを全面的に書き直すようにという命令が出る。そこで今まで編纂した「紀伝」は廃棄されることになり、新たに「新紀伝」の編纂が始まる(1683)。
(2) 徳川光圀の隠居(1690年)後 
元禄6年(1693年)から数年間、水戸藩領内において、八幡改めまたは八幡潰しと呼ばれる神社整理を行う。
元禄7年(1694年)11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫を刺殺した。
元禄13年12月6日(1701年1月14日)に食道癌のため死去した。享年73(満71歳没)。
徳川光圀の正室である近衛信尋の娘・尋子(泰姫)は結婚5年後に21才で病死している(1658年)。
(3) 光圀が史員に命じた歴史叙述の方法は、「正確に事実を究明して記述すれば、そのことの意味はおのずから明白となり、その事実を明らかにするために必要な事項は繁雑をいとわずこれを記載せよ。そのように厳正に記録された事実は「善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべし、而して乱賊の徒をして懼るる所を知らしめることになるであろう」という。
 歴史編纂事業は進められて行くが、明治維新の時に出来上がったのは「紀伝」だけである。
 「志(神祇志など)」・「表」を含む大日本史編纂事業が終結するのは1906年(明治39年)である。
 神祇志は神祇官や出雲大社や伊勢神宮について書いている。
 神祇官は7世紀以来の律令体制下で、太政官と並ぶ中央最高官庁。朝廷の祭祀をつかさどり、諸国の官社を総轄した。明治4年(1871)神祇省と改称。現在の神社本庁はその流れにある。

2 私見
(1) 1581年(天正9年)、羽柴秀吉は鳥取城を兵糧攻めで落城させ、因幡国の鹿野・私部・若桜・岩常・雨滝などは秀吉方の城となっていた。因幡の神社の多くは秀吉の焼き討ちにあっている。鳥取城の落城後、毛利方は吉川元春が馬ノ山砦に、織田方は羽柴秀吉が御冠山の陣に布陣し対峙した。毛利方は6千騎、対する織田方は6万騎と約10倍以上の兵力差があったが、羽柴秀吉は吉川元春と直接刃を交えることなく播州へと撤兵している。それは、鳥取県中部に倭国の都があったことを知っていた藤原氏の指示と思われる。羽柴秀吉は、後に近衛の養子になり藤原の姓を名のる。この事実を徳川家康は知っていた。徳川幕府は明治維新まで鳥取県中部を優遇していた。
(2) 元禄時代に主に西日本の各地で歴史の辻褄合わせ(整合)をしているが、徳川光圀の「旧紀伝」を見た藤原朝廷は光圀が指摘した矛盾をなくすために各地で歴史の辻褄合わせ(整合)をしている。徳川光圀は奈良時代に藤原氏が倭国を乗っ取ったことを知っていた。隠居後の八幡潰しや藤井紋太夫の刺殺がそれを示している。藤原氏は時間をかけて大日本史の改ざんをしていった。古事記・日本書紀の改ざんと同じである。序文に徳川光圀の信念を残しているのも、内容の信憑性を増すためである。古事記序文に天武天皇の編纂理由を残しているのと同じ効果を狙っている。
 元禄時代に藤原氏は倉吉市大原の波波伎神社を八岐大蛇伝説と切り離すため大原神社とし、事代主のいた福庭の神社を波波伎神社とした。また岡山県の石上布都魂神社の宮司の名前を物部にし、スサノオが十握剣を洗った血洗いの滝を造ったのもこの頃と思われる。茶臼山の松樹庵にいた世出開了行者◯◯信女が亡くなったのと、北栄町下神の三輪神社が火災により焼失したのがどちらも1700年代であり、これも歴史の辻褄合わせ(整合性)のためにされた。藤原氏が仕掛け人と思われる。
 明治9年に鳥取県は島根県に併合される。理由は「鳥取県民がうるさかったから」とする。鳥取県神社誌を見れば鳥取県民が明治政府(藤原氏)に文句を言った理由がわかる。

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明治初期の太政官制について

2018-05-14 03:49:43 | 藤原氏


1  ウィキペディアより
 政体書に基づいて1868年6月17日、日本の新しい体制が発足した。国家権力全体を支配する組織を太政官と称して律令制を導入した時よりあった。太政官は中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の八省を統括する最高機関である。
 1869年8月15日(明治2年7月8日)に、新しい太政官制が導入された。太政官の下には民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省が設置されるという二官六省制が採られた。また、三権がいずれも太政官の下に置かれた。太政官には左右両大臣と3名の大納言、3名の参議からなる「三職」が置かれて指揮をとった。
☆左大臣
 近衛忠房 (藤原五摂家)1867年10月24日 ~1867年12月25日
 九条道孝(藤原五摂家) 1867年12月25日~1869年7月13日
☆右大臣
 大炊御門家信(藤原北家師実流) 1867年12月25日~1868年7月13日
 三条実美(藤原北家閑院流の嫡流) 1868年7月13日~1869年8月15日
☆内大臣
 近衛忠房 (藤原五摂家)1864年1月31日~1867年10月24日
 大炊御門家信(藤原北家師実流) 1867年10月24日~1867年12月25日 
 広幡忠礼(藤原正親町天皇源氏嫡流)1867年12月25日~1869年8月15日
☆大納言 1869年7月~1871年7月
 岩倉具視(藤原村上天皇源氏久我家)
 徳大寺実則 (藤原東山天皇の流れ)
☆参議 1869年7月~明治18年
 西郷隆盛(藤原氏の子孫を自称)
 大久保利通(藤原氏末流を自称)
 大隈重信(菅原道真の血筋)
 前原一誠(長州藩士)
 木戸孝允(長州藩士)
 板垣退助(土佐藩士)


2  私見
 左大臣、右大臣に分ける制度(百済の制度)は天智(豊璋)が始めた。天武天皇は倭国天皇であったから両大臣制はなかった。持統と不比等は百済人であったから、両大臣制(百済の制度)をとっている。
 明治初期の左大臣、右大臣、内大臣、大納言までは藤原氏の正当血脈の華族が就いている。西郷隆盛と大久保利通は藤原氏の子孫であることを自称している。自称したくなるほど藤原氏の権勢が強かったと思われる。二人とも嘘をついたとして藤原氏に殺された。

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百済精神を理解できない伯耆国

2018-05-13 05:00:00 | 藤原氏


  秀吉は1585年に近衛前久の養子となって藤原姓となり、関白となった。藤原氏は、養子・秀吉に戦争するようにそそのかした。朝鮮出兵(文禄の役)はその7年後の1592年である。中国、朝鮮を支配し、天皇を中国・朝鮮・日本共通の皇帝にしようという思想は、藤原氏が元々持っていた思想である。第二次世界戦中の、大東亜共栄圏建設の思想でもあった。このときの仕掛け人は近衛(藤原氏)文麿である。
 高江神社の由緒
 朝鮮の役で伯耆国領主の南條氏はその君臣を一人も従軍させなかった。豊臣太閤はこれを責めその封を減じた。また伯耆西三郡を割きて吉川に與へ、東三郡のみを南條領として存置した。
 伯耆国は新羅と兄弟国であり京都にいる藤原氏の百済精神が理解できなかった。
 ちなみに、高江神社は天正時代以前は境内神社子安神社(祭神 木花開耶比売命)が由良郷の総産土神であった。祭典の時には天正時代にできた神輿やだんじりではなく、神社総代たちは少女たちの曳く子安さんの後をついて歩く。ここに、有名な木花開耶比売命の産屋があった。「由良」とは木花開耶比売命が付けた地名だそうである。男性には「ゆら」の発音は難しいが、女性は「ゆら」の発音は自然に出てくるという。

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倉吉市の法華寺畑遺跡は処刑場であった

2018-05-12 03:46:50 | 藤原氏
 法華寺畑遺跡は発掘された建物の規模と配置からすれば国分尼寺ではなく国庁に関連した役所です。全国に類例がなく何のための役所だったかは判らない。 (公式)
 「祭祀の場だったかも知れない。空間が広くとってあるのも儀式を行うためか。」という説もある。
※ 私見
 処刑場であった。
 伯耆国は他の国と違い、天照大神から34代倭国大王までの血筋の者も多くいた。藤原朝廷は鳥取県中部にあった葛城・軽・磯城(師木)・泊瀬(長谷)・宇陀・磐余邑・河内・難波・出雲大社・伊勢神宮・石上神宮・三輪神社などを宮崎県・島根県・奈良県・大阪府南部・和歌山県にテーマパークとして移したから、天照大神から34代倭国大王までの血筋の者が伯耆国にいては嘘になってしまう。そのような血筋は伯耆国にあってはならないので、家系抹消をするために特別に処刑場を造る必要があった。
  南の四棟に血脈狩りで見つけ出されたすべての男子を収容し、順番に処刑していった。理由は藤原氏得意のでっち上げである。だから、怨まれる、祟られる。また伝承を伝える者や神主や伯耆の風土記を書いた者や初期天皇がいたことの証人も殺していった。
 この建物は十世紀まで存在したそうである。すべてを消し去るのに二百年かかったことになる。藤原道長が望月の欠けることなしと言ったのもこの頃である。
 北東隅に銘のない墓石がたくさんある。祟られないように、国分寺で拝んだのだろう。この墓場の前に両墓制についての案内板があるが、誰の墓石か特定できないので、両墓制というようなものではない。
 これは法華寺畑遺跡の内側にあり発掘中骨が出てきたので新しい御影石で墓石(銘はない)を造った。
 逆さ戒名で有名な倉吉市関金町の地蔵院でも処刑が行われていた。731年頃に行基が創建したので首切りや残酷の好きな藤原氏の創建とわかる。憎しみを込めて逆さ戒名にした。
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古事記・日本書紀について 2

2018-05-10 05:24:06 | 藤原氏

1 古事記序文に「そこで天武天皇は『私の聞くところによれば、諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものがはなはだ多いとのことである。そうだとすると、ただ今この時に、その誤りを改めておかないと、今後幾年も経たないうちに、その正しい趣旨は失われてしまう・・・』」とある。
 諸家とはだれのことか。藤原氏は亡命百済人(扶余族)である。扶余族は「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」(三国志魏書・高句麗伝)。扶余族は強奪に喜びを感じる一族である。人・物・金品だけでなくなんでも強奪する。名前・系譜・歴史・地名も強奪する。642年に倭国に来た百済人の翹岐は中臣鎌足と名乗った。中臣の名前と系譜を強奪した。橘を立花に変えさせて橘姓を名乗り、難波を南場に変えさせて難波姓を名乗り、安倍を阿部に変えさせて安倍姓を名乗った。古事記・日本書紀の系譜も出鱈目である。天武天皇のいう「帝紀と本辞」を強奪したのは亡命百済人の藤原氏(扶余族)である。倭国の歴史を強奪したのも藤原氏(扶余族)であった。そして出来上がったのが古事記・日本書紀である。

2 日本書紀・推古天皇・新羅征討の再開で田中臣が言う。「そうではない。百済は度々豹変する国である。道路の区間さえも偽りがある。およそその言うところは皆信じられない。百済に任那をつけたりすべきでない」とある。新羅王は「任那は小さい国でありますが、天皇につき従い仕える国であります。どうして新羅の国が気ままに奪ったりしましょうか。今まで通りの天皇の内官家と定め、心配なさいませぬように」といった。ここに書いてあることはほぼ改ざんがないと思われる。日本書紀はその百済人が制作した。

3 古事記・素戔嗚命・八雲立つの条に「素戔嗚命と稲田姫との間に生まれた八島士奴美神が刺国若比売を妻として生ませた御子が大国主神である」とする。しかし、根国での冒険の条で、大国主命は素戔嗚命の娘の須勢理毘売をさらって逃げているので素戔嗚命の孫ではない。先代旧事本記には「八島士奴美神又の名を大国主」とある。また、八橋の地名由来でも「素戔嗚命の孫である高姫」とある。高姫は大国主命の娘である。素戔嗚は大国主と血のつながった父子であると解される。したがって、「櫛稲田姫との間に生まれた八島士奴美神が刺国若比売を妻として生ませた御子が大国主神である」は改ざんされている。大国主は素戔嗚と稲田姫との間に出来た子であった。系譜の強奪の一例である。

4 日本書紀は系譜を倭国歴史書原本とは変えて書いている。たとえば、日本書紀では倭建命を景行天皇の皇子としているが、倭建命は孝霊天皇の皇子であった。西国遠征で鳥取県北栄町島に帰ってくるまでは皇太子であったが、孝元天皇が青銅器文化の一族に襲われ亡くなったので、東国遠征のときには卑弥呼の推薦により開化天皇になった。倭建命の名は、肥前国風土記では「日本武尊」、常陸国風土記には「倭武天皇」とある。尾張国氷上姉子神社元社の宮簀媛命宅跡の石碑には「倭武天皇皇妃」とある。
 景行天皇の「冬十月、碩田国に着かれた~」よりは大分県ではなく、鳥取県の因幡国が舞台である。主語の天皇は孝霊天皇である。孝霊天皇は皇居を去ってから、但馬に疎開していたが10年後、但馬より因幡・伯耆を通って青銅器文化の一族を平定した。因幡誌では「日本書紀の稲葉川というのは鳥取の因幡川のことである」とする。藤原氏は「稲葉」を「因幡」に変えさせている。
 出雲国(伯耆国にいた素戔嗚の歌より)・日向国(伯耆国にあった地名)・筑紫国(伯耆国にあった地名)・伊勢国(伯耆国にあった地名)・紀伊国(因幡国にあった木国より)などの国名は藤原氏の「好字二字化令(713年)」によって定められた。これは地名の強奪である。

5 古事記・神功皇后・新羅を伐つ・で神功皇后が新羅を伐ってから言った。「新羅の国を馬飼である御馬甘と定めた」とある。また「日本書紀・神功皇后・新羅出兵」にも「今後は末永く服従して、馬飼となりましょう」とある。新羅の古墳から馬具が発掘されている。新羅は馬と深く関係する。倉吉市馬場町で馬を飼っていた阿直岐(日本書紀)の出身国は百済国ではなく新羅国であった。新羅の歴史を百済が強奪した一例である。

6 天武天皇の時代も伊勢神宮は鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮であった。
 「日本書紀・天武天皇・即位」2年に「大来皇女を伊勢神宮の斎王にされるために、まず泊瀬の斎宮にお住まわせになった」とある。この時にはまだ伊勢国には伊勢神宮はなかった。あったのは志摩国に卑弥呼の造った伊雜宮と卑弥呼の終の棲家の伊射波神社と聖徳太子の造った千田寺であった。魏志倭人伝に「シマ」国はある。
 734年まで伊勢神宮は鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮であった。伊勢国の伊勢神宮はまだできていなかった。
 奈良時代に土佐の国から池田王が藤原氏から逃れて、伊勢野の皇大神宮に助けを求めて来て、神官になって助かったという記述がある(方見神社由緒より)。天武天皇が鳥取県中部の出身だということを知っていたから伊勢野の天照皇大神宮を頼ってきた。その後池田王は琴浦町逢束(王塚)で亡くなったという伝承がある。奈良時代すでに鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮は全国に知られていた。天武天皇の大来皇女が斎王となった伊勢神宮とは鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮であった。
 天武天皇の在位中に伯耆国に大御堂廃寺と斉尾廃寺と上淀廃寺と大寺廃寺を建立している。琴浦町の斉尾廃寺は伽藍配置が法隆寺と同じであり、蘇我氏の本宗家が近く(4km東方の北栄町由良)にあったことをうかがわせる。

 
 上淀白鳳の丘 展示館にて

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古事記・日本書紀について

2018-05-09 05:40:15 | 藤原氏
1 古事記序文に「そこで天武天皇は『私の聞くところによれば、諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものがはなはだ多いとのことである。そうだとすると、ただ今この時に、その誤りを改めておかないと、今後幾年も経たないうちに、その正しい趣旨は失われてしまう・・・』」とある。
 諸家とはだれのことか。藤原氏は亡命百済人(扶余族)である。扶余族は「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」(三国志魏書・高句麗伝)。扶余族は強奪に喜びを感じる一族である。人・物・金品だけでなくなんでも強奪する。名前・系譜・歴史・地名も強奪する。642年に倭国に来た百済人の翹岐は中臣鎌足と名乗った。中臣の名前と系譜を強奪した。橘を立花に変えさせて橘姓を名乗り、難波を南場に変えさせて難波姓を名乗り、安倍を阿部に変えさせて安倍姓を名乗った。古事記・日本書紀の系譜も出鱈目である。天武天皇のいう「帝紀と本辞」を強奪したのは亡命百済人の藤原氏(扶余族)である。倭国の歴史を強奪したのも藤原氏(扶余族)であった。そして出来上がったのが古事記・日本書紀である。
 
2 唐曾要(旧唐書)には倭国と日本(百済王朝)は別に書かれている。唐の時代(660年~734年)列島は二朝が並立していた。
 倭は「古の倭奴国なり。新羅の東南に在り、大海の中で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏」とある。さらに「日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て、名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。」とある。
 初めて「日本国からの使者」を名乗った人物は、中国から疑われた。「倭国の別種」とは、「倭国にあるが倭人の国ではない」という意味である。
 ついで「新唐書」の日本国伝にも、「咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。」とある。
 日本という国号は近江に逃げていた天智(豊璋)が669年に立案しているので、亡命百済王朝による遣唐使は673年までの間に行われている。
 徐福は中国皇帝を表面上は立てていたから、その子孫の歴代大王も中国皇帝に朝貢していた。中国は日本国からの使者に対し、数百年の間朝貢してきた倭国王との連続性に疑問を抱いた。「日本国と名乗り倭国と連続していない」と思ったらしいことが旧唐書倭国日本伝に現われている。日本国の使者は亡命百済人が倭国を乗っ取って日本国と名乗ったのだとは言わなかった。しかし、態度が横柄であったため、中国皇帝の理解を得ることはできなかった。どういう態度だったかは公家(藤原氏)によって派遣された横浜鎖港談判使節団(1864年)の池田長発の写真を見ればわかる。
 日本(百済)は中国から連続性を疑われていたので始祖から連続した天皇家(万世一系の皇統)の歴史書を作る必要性を生じ、ちょうど712年に天武天皇が編纂を命じた倭国歴史書原本が献上されたので、不比等はこれを利用しようと考えた。そして出来上がったのが日本書紀である。

3 蘇我馬子大王と聖徳太子(蘇我入鹿大王)は天皇記・国記を作っていたというが、乙巳の変で燃やされてしまった。天武天皇の時代になって、正統な天皇家の歴史を残さなければならないという必要性を生じ、倭国歴史書の編纂を命じた。
 国家元首の正統性を示すための歴史書に「一書に曰く」などという無責任な書き方はしない。したがって、日本書紀は百済(日本)から来たものが、基本となる歴史書を参考にしながら文章を切り抜き、あちこちに張り付けて書き換えた歴史書である。

4 日本書紀には百済の話が多く出てくる。私見では倭国の親戚は新羅国であった(盟友関係)から、原古事記では百済に不利なことや新羅に有利なことが多く書いてあった。これも新羅の歴史の乗っ取りである。
 原古事記は歴代大王の帝紀・旧辞を整然と描いていたはずである。他人が読んでも嫌悪感をもよおすような事象は書くはずがない。今の古事記よりももっと分量は多かったはずだが、日本書紀を作ったために、14世紀に世に出るまでの600年あまりの間にかなり切り取りされている。それまで藤原氏のもとにあり、日本書紀に合うように、あるいは日本書紀より嫌悪感を感じるように改ざんを繰り返してきた。だから、藤原氏にとって不都合な旧辞(欠史八代)は削除してあるし、大碓・小碓のような話を創作することになる。原古事記には、初代から高市大王までの旧辞もすべて書いてあったはずである。

5 「壬申の乱」は「乱」ではなくヤマト王権が古くから行ってきた蝦夷(馬韓からきた準王一族)に対する平定であった。
 日本書紀・敏達10年(581年)に「蝦夷数千人が辺境を犯し荒らした。 蘇我馬子大王は首領の綾糟らを召して詔され、『お前達蝦夷は景行天皇(孝霊天皇)の世に討伐されて殺すべき者は殺され、許される者もいた。今、私も前例に倣って首謀者は殺そうと思う』といわれた」とある。
 壬申の「乱」の結果、「大友皇子、8月21日、首を吊って自決。右大臣中臣金、8月25日、近江国浅井郡田根で斬り殺された」。天武天皇も前例に倣って首謀者は殺した。亡命百済人(準王一族)の作った日本書紀はヤマト王権のする平定を上から目線で「乱」と書いた。
 隼人の乱(720年)も長年倭王権に属していた隼人を藤原氏が従わせようとしたため隼人が抵抗したのであり、テロリストは藤原氏であった。

6 左大臣右大臣制度は百済の制度である。天武天皇は新羅と親密に交流しているが、持統になって急に新羅にたいする態度が変化する。持統は新羅からの勅使に難癖をつけている(持統3年)。天武天皇は近江方の群臣の処分として右大臣を斬り、左大臣は流罪としてこの制度は無くしていたのだが、百済王朝の不比等と持統によって復活された。その後明治の太政官制まで続いた。
 後記ー660年より734年まで列島には2王朝が並立していた。左右両大臣制は百済王朝の官僚制度である。日本書紀は亡命百済王朝の歴史書であるから、基本的に大臣制度を採用している。倭王朝には大臣制度がなかった。聖徳太子(蘇我善徳大王)は自ら住民の陳情を聞いている。


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藤原氏は焚書坑儒をした。「焚書」について

2018-05-08 05:07:14 | 藤原氏

藤原氏は焚書坑儒をした。「焚書」について

1 日本書紀
 日本書紀は天武天皇ではなく藤原不比等が作ったものである。
 日本書紀を作ったのは、天武天皇ではない。日本書紀は日本を征服した藤原不比等が、自分たちが、征服した「倭」を、これからは、倭ではなく、「日本」という国名にしますと、外国にも宣言する独立宣言の記念誌であった。
 702年の遣唐使では日本という国号を使った。しかし、中国はそれまでの倭国との連続性に疑問を抱いていた。藤原不比等は万世一系の天皇家でなければならないことの必要性を感じていた。不比等は原古事記を見て百済国の歴史書に倭国天皇を混ぜて作ることを考えた。それが日本書紀である。

2 古事記
 不比等は日本書紀を編纂するにあたって原古事記を参考にしている。
 何人かの天皇は、いかにだらし無かったかを書いている。天武天皇がつくるように命じたはずの原古事記に、天皇家の悪口を書くということはあり得ない。
 原古事記には神武天皇から高市天皇までの素晴らしい業績が書いてあったと思われる。
 原古事記は天武天皇が作るように命じたが、実際に出来たのは712年である。天武天皇や高市天皇のことは知っているから、古事記に書くことが出来たのに、推古を最後に終わっている。推古以降の天皇も書かれていたが、削除したと考えるべきである。 そして、天武天皇の壬申の乱の部分だけを古事記の序文に残した。壬申の乱は天武天皇の最大の業績であるのに本文に書いてない。原古事記に書かれていた天武紀は、消されたばかりではなく、古事記の他の天皇の所も、改ざんされている。原古事記は焚書にした。

3 各国の風土記
 713年に各国に風土記の提出を求めた。それも一書として参考にしたが、出雲国風土記・伊勢国風土記以外は焚書にした。焚書坑儒は大陸のやり方であり、藤原氏が大陸(百済)から来た証拠にもなる。

4 天皇紀、国記
 蘇我馬子天皇と聖徳太子(蘇我入鹿天皇)によって編纂された天皇紀、国記、など大事な歴史書はすべて焚書にした。

5 三国史記
 統一新羅の時代は藤原氏(百済)も原三国史記に手をだせなかったが、高麗国になって、日本書紀と矛盾しないように原三国史記を改ざんして、現三国史記を作成した。原三国史記は焚書にした。

6 宮下文書
 徐福が筆録したと伝えられている文書である。しかし、これも藤原氏が改ざんして、原本は焚書にされた。

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藤原氏は大陸的手法である焚書坑儒をしているが、坑儒について

2018-05-07 03:08:39 | 藤原氏

 藤原氏は大陸的手法である焚書坑儒をしているが、坑儒について、奈良時代までは以下のとおりである。


 中大兄王子と中臣鎌足は蘇我入鹿天皇(蘇我善徳=聖徳太子)と蘇我倉山田石川麻呂天皇を殺した。
 中臣鎌足の子の不比等は天武天皇と天武天皇の側近20人ほどを毒殺した。天武天皇の毒殺の後にも、大津皇子、草壁皇子、高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇を毒殺している。
 長屋王の変で、藤原氏に濡れ衣を着せられて長屋親王一家は殺された。長屋親王、正室・吉備内親王、膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王など。
 伯耆国に住んでいた天皇家の生き証人も200年かけて殺していった。神武天皇の道案内をして名前を頂いた私の一族などもリストに載っていたはずである。どうして生き延びているのか解からないが、私が中学(蘇我入鹿天皇がいたと思われる丘陵地にある)の時に見た夢が半世紀近くたった今でも鮮明に覚えている。それは、私の父が斬首される夢であった。しかもそれで終わらず次は私の番であった。あまりの恐怖で目が覚めたが、大学の卒論で死刑制度の廃止について書いたのも、この夢が原因であったと思う。殺される理由も判らなかったし、殺す側が誰なのかも判らなかった。神武天皇が伯耆国にいたことを証明する私の一族を藤原氏は首を切って殺したかったのだろう。その思いが私の夢になって現われたのかもしれない。
 伯耆国の大神山神社の宮司の相見氏は阿遅鋤高日子根の子孫であり、長年家系抹消を恐れてきた。家系抹消とは、嫡男家だけではなく血筋の全てを消し去るということであり、全ての男は殺される。戦後、天皇は人間宣言をし、「神」ではなくなり、もはや血脈狩りなど考えられなくなった。それでもなお、相見家は警戒を解かず、現宮司まで一子相伝の秘密を維持していた。
 現在から見れば「何でそんなに警戒するの?」といった類のことですが、当事者にとっては生死を賭けた一大事だった。恐らく、祖に近い子孫は、「全ての男子が見付け出されては殺される現場」を見ているのだと思う。処刑が行われたのは、阿遅鋤高日子根のいた葦原中津国の近くの法華寺畑遺跡である。
 八世紀から倭国(鳥取県中部)のあちこちで血脈狩りが行われてきた。いわゆる恐怖政治である。倭国(鳥取県中部)の人間は、ここが都であったこと、天照大御神・素戔嗚・大国主や神武天皇以降の天皇がいたことは話さないようになる。
 11系統あった大国主命の子孫のうち阿遅鋤高日子根の系統以外の多くの系統は血脈狩りにあっている。

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藤原氏について(日本書紀は偽書)

2018-05-06 02:34:30 | 藤原氏

藤原氏について(日本書紀は偽書)


1 藤原氏の始祖は藤原鎌足である。藤原鎌足は百済出身であり中国の兵法書「六韜」を暗記していた(藤氏家伝)。天武天皇は「子供は親とは違う」という考えに基づいて、鎌足の子供三人を引き取った。しかし不比等は「六韜」の「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」を実行し倭国の天皇を毒殺した。
 太安万侶は天武天皇に頼まれていた原古事記を編纂し712年に穂積天皇に献上した。しかし、穂積天皇に渡る前に不比等に渡った。不比等は原古事記を読み、百済(日本)の歴史書を創ることを思い立った。720年に日本(百済)書記は完成する。その後、京都に遷都後も日本書紀の改ざんは藤原氏によって続けられていく。
 藤原氏は百済に残っていた準王一族ではないだろうか。百済出身の不比等やその後の藤原氏は、倭国に渡ってきてヤマト王権に敵対していた準王一族に、藤付き姓を与えたと思われる。
 数百年かけて日本書紀は改ざんされた後、世に出されたが、これは大日本史を250年かけて編纂した藤原氏のやり方と同じである。子供、若者に倭国を乗っ取る夢を託してつなげていけば、成し遂げることができる。


2 現在、「藤」付き姓の人が日本の総人口に占める割合はざっと6%だそうである。8世紀の日本の総人口が500万人ぐらいとされるから、「藤」付き苗字の人は奈良時代に30万人くらいいたことになる。藤付き姓の多くは紀元前2世紀頃から倭国に渡ってきていた準王一族(蝦夷)と思われる。東北、出雲、阿蘇に多い。藤原本家は、「福」付き姓に対抗して、百済出身者(準王一族)にあと一字に意味を込めて「藤」付き姓を与えたと思われる。
 島根県・宮崎県・奈良県・三重県・和歌山県に広くて大きいテーマパークを造り、東大寺の大仏を造るだけの人手は準王一族(蝦夷)でまかなえた。 全国に8万4千ほどある神社の宮司も藤付き姓が多い。
 不比等は日本征服の記念誌たる日本書紀を作るにあたって、伯耆国に天皇がいたことをことごとく消し去る作業をしている。それは恨みではなく征服を完全なものにするためと思われる。伯耆国の地名や神社や伝承を、百済の王族の正当性を作り上げるために、その外(九州や出雲や大和等)に移した。
 鳥取県北栄町にあった葦原中津国を宮崎県に持っていき、神武天皇の兄弟四人がいた四王寺山を宮崎県高千穂町の四王子峰と奈良の畝傍山に移し、大物主も、伊須気余理比売も溝咋姫も奈良と茨木市に移して伯耆国にいたことを解からないようにした。また、出雲大社と伊勢神宮も出雲国と伊勢国に創建した。
 宗形三姉妹も米子の胸形にいたのを北九州の宗像大社に移した。初代から31代までの天皇が伯耆国にいたことも、すべて消し去り、日本書紀には記載しなかった。天孫降臨で、葦原中津国を明け渡した大国主命がいたことは書いたが、事代主命・建御名方命のことも触れていない。
 京都の藤原本家は、神社の祭神を書き換えたり、潰したり、神主を変えたり、八幡神社やテーマパークを作ったり、新たに伝承を植え付けたり、新たな地名を創設したりした。
 また、原古事記にあった多くの「百済」の悪行の部分は「新羅」に書き換えた。「新羅」の善行の部分は「百済」に書き換えた。藤原氏は、「嘘も百回言えば本当になる」という信念を持っている。
 伯耆国、蒜山、美作国の伝承も恐怖政治によってきれいに消した。

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