「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

お盆のルーツは稲飯命が建国した新羅に有った

2018-08-16 02:03:42 | 閑話休題


1 『北史』『隋書』新羅伝には、「新羅の風俗、刑罰、祭祀、衣服、すべて高麗、百済と同じである。正月元旦ごとに皆で祝賀し、王は宴席を設けて来賓や官吏を招いて興じる。その日は太陽の神・月の神を祭祀して拝む。八月十五日には行楽を設け、官人に射撃競技をさせ、馬や衣服を賞品とする。大事があれば官吏が集って詳しく協議して定める」とある。


2 『北史』『隋書』新羅伝では風俗、祭祀は高麗、百済と同じである、とするが正月・八月十五日の行事は高麗、百済にはないからあえて書いたものと解する。これにより盆・正月の行事は新羅がルーツであると思われる。
 初期の辰(秦)韓を造った徐福は道教の方士であったから、盆・正月は道教に基づいているのかもしれない。「旧暦の七月朔日に地獄の蓋が開き、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという考え方は道教の影響を受けていると考えられる」(ウィキペディア)
 新羅がルーツの行事は厳かな行事である。八月十五日には官人たちに施しをする賞品のでる流鏑馬を行っていたようである。八月十五日の行事が僧侶たちに施しをして成仏できる、とする仏教のお盆になった。
 逆に高句麗・百済がルーツの行事は派手で賑やかな行事である。神楽は高句麗・百済がルーツの行事である。

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「蚊が噛む」と「すい~」について

2018-08-14 06:23:56 | 閑話休題


 鳥取県中部の方言を知りたい方はハワイ笑歌村塾の歌を聞かれるとそのまんまです。方言の汚さは名古屋弁と似たり寄ったりだと思われます。
 「蚊が噛む」と「すい~」を東京の人が聞くと、蚊は刺すんだよ。酸っぱいでしょう。と共通語に直させます。この方言は広島で使われているそうです。同じく鳥取県中部でも使われています。鳥取県中部と広島県とのつながりを感じます。また語尾に「ねぇ~」や「のぉ~」ではなく「なぁ~」を付けるのは、広島県でも福山市以北で鳥取県日南町に接するあたりまでだそうです。この「なぁ~」は鳥取県中部では当たり前に使います。初期天皇家は日南町から広島県に入り南下して福山市や尾道市にいたり、船で北九州や四国に行っていました。途中の府中市に孝霊天皇が終の棲家にされた南宮神社があります。余談ですが、皇子の崇神天皇が拠点とされた津山の中山神社も南宮と言っていたそうです。
 尾張国は志摩国(邪馬台国)の北にあるので、魏志倭人伝の一大率が置かれていたのは尾張国ではないかと思っています。名古屋弁は汚いという方がいますが、鳥取県中部の者は全く違和感がないと言います。鳥取県中部と尾張国とは関連があったのではないでしょうか。倭建命は鳥取県中部の生まれです。
 このように言語によって民族のつながりを辿ってみるのも面白いかもしれません。 

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古事記・日本書紀関係5県(島根、三重、宮崎、奈良、和歌山)が連携して全国に情報発信する「首都圏記紀シンポジウム」が東京で開催された

2018-08-10 09:31:03 | 閑話休題


1 亡命百済人たちは、天武天皇の命によって編纂され712年に献上された原古事記を手に入れた。それを読んだ不比等をはじめとする亡命百済人たちは原古事記を百済版に改ざんし、それを列島における百済国の歴史書にすることを考えた。それが日本書紀である。715年に穂積天皇を暗殺し、716年に山上憶良を原古事記の舞台になっている伯耆国の国守に任命して詳しく調べさせた。720年に不比等の病状が悪くなったので生きているうちに完成させるために、完成を急いだ。不比等が亡くなる3か月前に日本書記は完成した。翌721年に山上憶良は奈良に帰り726年まで東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として仕えたが、長屋王暗殺計画の邪魔になるため726年に筑前守に任ぜられた。藤原氏は729年に長屋王を暗殺し、列島に百済国を再興するための準備は出来上がった。亡命百済政権は日本書紀に基づいて島根県に出雲大社、三重県に伊勢神宮、宮崎県に天孫降臨の地、奈良県に磯城・葛城地方・三輪山、和歌山県に熊野三山を造った。それは列島に百済を再興するための大きなテーマパークであった。すべて倭国(鳥取県中部)にあったものである。741年頃に法華寺畑遺跡を造って倭国(鳥取県中部)の過去を語る者を騙して公開処刑していった。鳥取県中部に都があったことを誰も言うものが居なくなるまで処刑は二百年の間続いた。


2  八百年続いてきた倭国(鳥取県中部)を乗っ取った藤原氏が偽の歴史書に基づいて造ったテーマパークのある5県の知事が2014年1月に東京でシンポジウムを行っている。藤原氏の支配は続ているのであり、安保法案が通れば自衛隊の統制は戦前の軍国主義に返るに違いない。倭国にはいなかった天皇(百済王)の名前を言わされて、間違えればビンタをされる。国民を人間と思っていない(藤原に非ずんば人に非ずの思想)藤原政権(今の政府)によって虫けらのように命を消されていく。そういう歴史を繰り返してはならない。


3  安保法案はイケンというデモが鳥取県から始まった。イケン(駄目)という方言は広島県や岡山県でも使っているので広島県でも2016年8月30日のデモでイケン(駄目)が使われた。倭国(鳥取県中部)は安保法案に反対である。また、中国と戦争をしようというのだろうか。核を持っていない日本は最終的には負ける。これから、核を持つより、最初から戦争には近づかないがよい。

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初代神武天皇から第30代天武天皇までの皇居のうち29天皇の皇居は鳥取県中部にあった。実在しない天皇は除外しています

2018-08-04 10:36:54 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1 初代神武天皇から第30代天武天皇までの天皇の皇居(実在しない天皇は除外しています)

 初代神武天皇 畝火之白檮原宮 鳥取県倉吉市大宮。   第二代綏靖天皇 葛城高岡宮 鳥取県北栄町曲岡神社。   第三代安寧天皇 片塩浮穴宮 鳥取県湯梨浜町橋津観音堂。   第四代懿徳天皇 軽之境岡宮 鳥取県倉吉市小田。   第五代孝昭天皇 葛城掖上宮 鳥取県倉吉市穴沢灘手神社。   第六代孝安天皇 葛城室之秋津島宮 鳥取県北栄町大島。   第七代孝霊天皇 黒田廬戸宮 鳥取県湯梨浜町宮内倭文神社。   第八代孝元天皇 軽之堺原宮 鳥取県倉吉市小田。   第九代開化天皇(倭健命) 鳥取県北栄町瀬戸観音寺。   第十代崇神天皇 師木の水垣宮 鳥取県湯梨浜町長和田。   第十一代垂仁天皇 師木玉垣宮 鳥取県湯梨浜町川上。   第十二代景行天皇 奈良県纒向日代宮。   第十三代武内宿禰大王 鳥取県北栄町原元野神社。   第十四代仁徳天皇 難波高津宮 鳥取県湯梨浜町松崎神社。   第十五代応神天皇 軽島之明宮 鳥取県倉吉市穴窪。 難波大隅宮 鳥取県湯梨浜町小鹿谷。   第十六代履中天皇 磐余稚桜宮 鳥取県北栄町米里。   第十七代反正天皇 丹比柴籬宮。   第十八代允恭天皇 鳥取県倉吉市下古川。   第十九代安康天皇 石上穴穂宮 鳥取県倉吉市大原。    第二十代雄略天皇 泊瀬朝倉宮 鳥取県倉吉市打吹山長谷寺。   第二十一代清寧天皇 磐余甕栗宮 鳥取県北栄町米里。   第二十二代仁賢天皇 石上広高宮 鳥取県倉吉市大原。   第二十三代武烈天皇 泊瀬列城宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十四代継体天皇 磐余玉穂宮 鳥取県北栄町米里。   第二十五代安閑天皇 勾金橋宮 鳥取県三朝町大瀬大宮神社。   第二十六代蘇我稲目大王 師木島大宮 鳥取県湯梨浜町龍島 泊瀬柴籬宮 鳥取県倉吉市打吹山大江神社。   第二十七代蘇我馬子大王 磐余池辺双槻宮 鳥取県北栄町島   第二十八代蘇我入鹿大王 等由良宮 鳥取県北栄町由良。   第二十九代蘇我倉山田石川麻呂大王 難波長柄豊碕 鳥取県湯梨浜町長江。    第三十代天武天皇 賀茂皇大神宮 鳥取県倉吉市葵町賀茂神社。   第三十四代 北野神社 鳥取県倉吉市北野神社

2  鳥取県中部に特定できなかった天皇
 第十二代景行天皇 奈良県纒向日代宮

3  私見
(1) 初代から第三十代までの大王(第十二代は除く)は、鳥取県中部に皇居があった。
 なぜこう言えるかというと、倭王朝の一族は一旦ここは良い地だと決めて都と決めれば、よほどのことがない限り、皇居のある都を変えない一族だからである。新羅も同じ一族の稲飯命が建国したのであるが、その都慶州は千年の都と言われた。同じように、瓊々杵命が「いと良き地なり」と言い、神武天皇が「狭い国だが良い国をえた」と言って初代天皇として即位し、倭健命が「ヤマトは 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる ヤマトし 美し」と歌を詠んでから、倭国の外を活動本拠地にしても、皇居は倭国(鳥取県中部)においていた。たとえ出張先が吉備であっても皇居は倭国(鳥取県中部)においていた。
(2) 宋書倭国伝には倭王武(雄略天皇)の父(済)と兄(興)は戦死したように書いている。
 第十二代景行天皇は卑弥呼(倭姫)が亡くなった後、都を志摩国から奈良の纒向に遷した。
 第十七代反正天皇 丹比柴籬宮。
 本当の河内国(戦前までの日下村と西郷村)にあった丹比柴籬宮は、候補地が12ヶ所あり、特定が困難である。
(3) 日本書紀・神武天皇・宮殿造営に「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。原文には「國之墺區」とある。これは厳密には「国の奥深く安住に適した地」と解釈するそうである。私見では歴代29人の天皇の皇居の中で一番山奥に位置する。第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の周辺に皇居を造ったが、神武天皇は倉吉市大宮に宮殿を造営した。

 

 

 

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藤原四兄弟は新羅から来た疫病で亡くなった(737年)のではなく、新羅から来た刺客によって亡くなった

2018-08-04 10:23:52 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

1  藤原四兄弟と舎人・新田部は奈良にいた長屋親王を死に追いやってから、倭の都(鳥取県中部)にいた穂積天皇の次の天皇(大君)を死に追いやっている(734年)。倭の都(鳥取県中部)と新羅とは、火火出見(山幸彦)が辰韓に行き(紀元前130年頃)、神武天皇が倭の都(鳥取県中部)で即位し(紀元前60年)、兄の稲飯命が新羅国を建国した(紀元前57年)頃から800年ほど兄弟国として交流してきた。倭の天皇(大君)が殺されて、新羅が黙っているわけがない。


2  通説は、藤原四兄弟が亡くなったのは続日本紀から推測して死亡原因は疫病である、とする。737年の疫病について書かれている古文書は続日本紀以外には見つからない。続日本紀は藤原氏が作成した歴史書である。日本書紀と同じように虚偽が多くある。新羅の刺客によって藤原四兄弟が亡くなったとなれば芋づる式に別に倭の天皇がいたことが判って万世一系ではなくなってしまう。新羅の刺客によって藤原四兄弟が亡くなったことは隠さなければならなかった。
 新羅は事の真相を確認するために735年に使者を奈良に派遣した。新羅は、亡命百済朝廷が702年の遣唐使で唐に国号を「日本」に変えたと宣言したことを知っていたので、亡命百済朝廷の反応を見るため、国号を「王城国」に変えたと宣言した。新羅の刺客は同じ年に舎人・新田部を殺害した。737年にも刺客を送って藤原四兄弟を殺害した。亡命百済朝廷は京都に遷都後も新羅の海賊から守るために、日本海側5か所に四王寺を造った(9世紀)。


3  聖武が逃げ回ったのも、疫病からではなく、新羅の刺客からである。時の天皇が疫病のために4回も遷都するなどあるはずはない。倭は全国を統一支配しており、倭の拠点は全国に多くあった。倭の天皇ならば全国の拠点からもたらされる情報に即座に対応しなくてはならないのだから、そうそう遷都はできない。このことからも、聖武は亡命してきた百済王族の王であったことがわかる。百済のように簡単に遷都する。しかし、聖武の在位中に列島の王は1人になったので、天皇をつけてもよいかもしれないが、姓は天(アマ)ではない。阿毎(アマ)の姓を名乗る天皇は、鳥取県中部(倭の都)にいた天皇であり、穂積天皇の次の天皇で途絶えた(734年)。


4  藤原氏は741年ころより、伯耆国に新たに国庁をつくり、法華寺畑の処刑場も造って伯耆国(主に鳥取県中部)の粛清を始めた。
 大友皇子は飛鳥を倭京(日本書記・天武天皇・近江朝廷の対応)と呼んで百済王族の近江朝廷とは区別していた。亡命百済人の藤原氏は奈良で倭に助けてもらった恩を忘れて、奈良を倭京(倭が造った京)と言い、いつまた新羅の標的にされるかも判らないので、84年で奈良を捨てて京都に都した。京都に遷都(794年)してからも藤原道長が「望月の欠けることなし」と言った頃(1018年頃)まで、鳥取県中部(倭の都)の粛清を続けた。京都では新羅の都・慶州に負けじと千年以上我慢して遷都しなかった。その間も中国・朝鮮に怯えていたので、鎖国政策をとり続けた。藤原氏は「鳥取県中部は田舎であり、何もない」と言い、京都人にも言うように仕向けた。今でも京都人は鳥取県中部に来ると「鳥取県中部は田舎であり、何もない」と、他府県から来た者なら言わない言葉を突然、必要以上に言う。

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日本書紀・天智・天武・持統について

2018-08-04 06:58:28 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

1  白村江の戦いの仕掛人
 斉明天皇・7年5月・において「智興の供人の足島のために讒言され、使人らは唐の朝廷からお褒めの言葉を受けられなかった。使人らの怒りは上天の神に通じて、足島は雷にうたれて死んだ。時の人は『倭の天の報いは早いことだ』といった」とある。讒言したのは足島ではなく数百年交流が続いてきた鳥取県中部にあった倭朝廷である。「百済の賊が倭国出身の蘇我入鹿天皇と蘇我倉山田石川麻呂天皇をテロで暗殺したので百済を滅ぼして欲しい」と倭国の使いは唐の朝廷に言った。唐は仕方なく新羅と組んで百済を滅ぼした。


2  不比等による暗殺
 天武天皇の壬申の乱から10年の間に20人の天武天皇の腹心が謎の死を遂げている。首謀者は不比等か持統である。不比等と持統は影で食事に毒薬を混入させた。669年父の鎌足が殺害された時は不比等はまだ11才であった。鎌足の子3人は天武天皇に引き取られた。不比等は権力者を徹底的におだてた。腹心の部下も不比等を信用していた。天武天皇の人気が上がれば上がるほど倭国を乗っ取りたくなった。父親(鎌足)の敷いたレールを歩むことになる。壬申の乱で手柄のあった天武天皇の腹心の部下を次々と暗殺(毒殺)していった。仕上げは天武天皇であった。
 天皇になった天武天皇の皇子も毒殺していった。権力のためには手段を選ばなかった。それが父親の遺志であった。
 天武天皇はどうしたのであろう。頭は良いし、勇気もあるし、人望も厚いし、実行力もあるのだが、人が良すぎて疑うことを知らない。一時全国の獄が空になったくらい恩赦をしている。不比等を疑って殺していたなら、日本の歴史は変わっていた。天武天皇にとってはみんないい人なのである。倭王朝の天皇は概しておおらかである。日本書紀・天武天皇の条は改ざんが少ないと思われる。天武天皇には壬申の乱で痛めつけられていたので、後の藤原氏も天武天皇に敬意を払っていたようである。口伝えに天武天皇の条は改ざんしないでおこうという暗黙の了解があったようである。読んでいて不自然さがない。


3  伊勢神宮について
 天武天皇・即位・2年夏4月14日において「大来皇女を伊勢神宮の斎王にされるために、まず泊瀬の斎宮にお住まわせになった。ここはまず身を潔めて、しだいに神に近づくためのところである」とあり、天武天皇・即位・3年冬10月9日において「大来皇女は泊瀬の斎宮から、伊勢神宮に移られた」とある。
 泊瀬の斎宮とは倉吉市駄経寺町にあった大御堂廃寺のことである。伊勢神宮と書いてあるが、三重県まで行ったのであろうか。この時は三重県に伊勢神宮はなかった。三重県ではなく、近くに伊勢神宮がありました。鳥取県琴浦町伊勢野にあった生きた天照大御神が降臨した天照皇大神宮である。鳥取県道151号線は泊瀬の斎宮と伊勢神宮を結ぶためにできていた専用道路であったと思えるくらい端と端にある。高姫(下照姫)が通ったのもこの道路である(八橋の地名由来)。
 持統・伊勢行幸・6年3月6日において「天皇は諌めに従われず、ついに伊勢に行幸された。17日、お通りになる神郡(度会・多気の両郡)と伊賀・伊勢・志摩の国造らに冠位を賜わり、当年の調役を免じまた供奉の騎士・諸司の荷丁・行宮造営のための役夫その年の調役を免じ、全国に大赦をされた。」。6年5月13日において「伊勢神宮の神官が天皇に奏上し、伊勢国の今年の調役を免じられましたが、二つの神郡(度会郡・多気郡)から納めるべき赤引糸三十五斤は、来年に減らしたいと思います、といった。」とある。
 持統の伊勢行幸の主目的は、千田寺の前に勅使門(不開門)を造って蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の崇りを封ずることであった。指示したのは不比等である。伊勢・度会の地名は鳥取県琴浦町にあったものを713年以降に付けているから、この部分は後世に書換えている。免じたのは志摩国の調役である。伊勢神宮の神官ではなく、志摩国磯部の伊雑宮の神官である。ここで天照大御神を祀っていた。現在の伊勢神宮のあたりには、瓊瓊杵命の社だけしかなかったそうである。今でも磯部の伊雑宮周辺では持統の人気は悪い。持統は伊射波の登美のいたあたりで見つかった財宝を総て持逃げしたという。そのように、卑弥呼の造った磯部の伊雑宮の栄光を総て伊勢神宮に持逃げしていった。

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持統も大田皇女も百済滅亡の年(660年)に人質(采女)として鳥取県倉吉市に来ていた

2018-08-04 06:48:51 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

 
1 統一新羅の時代が終わり、高麗の時代になったので大陸の三国史記も改ざんされた。現三国史記は1145年に原三国史記を藤原氏が改ざんさせたものである。改ざん後原三国史記は焚書にした。
 三国史記では豊璋の父は義慈王とするが、原三国史記では豊璋の父は武王であった。中大兄王子は百済王子の豊璋であり、631年に6歳で人質として鳥取県中部に来ていた。その時の天皇は鳥取県北栄町由良に皇居のあった蘇我入鹿天皇であった。蘇我入鹿天皇はわが子大海人皇子と同じように豊璋を育てた。641年に豊璋の父の百済王武(舒明天皇のモデル)は亡くなった。16歳の豊璋(中大兄王子)は東宮(鳥取県北栄町由良は百済からみれば東の宮である)で誄を読んだ。642年1月、弟王子(?)の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが船で倭国に到着した。この中に豊璋の母親の皇極・斉明(武王の妻の善花公主か沙宅王后)もいたはずである。豊璋は643年に法興寺で開催した蹴鞠の会で翹岐(鎌足)と出会い、奈良に住んだ。蘇我倉山田石川麻呂は小さいころから百済王子の豊璋を知っていたので娘遠智娘を嫁がせた。豊璋は蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘を娶り、大田皇女(644年生まれ?)と持統(645年生まれ)は奈良で生まれた。


2 百済王家の本体は642年の島流し(?)の船の中にいた。百済は660年に滅び残りの百済王族は列島に亡命した。大田皇女と持統を采女(人質)として天武天皇のもとにいかせたのは、どちらがイニシアティブを取ったかわからないが、天智・鎌足は六韜に基づいて行動していたので、天智・鎌足のほうから申し込んだと思われる。大田皇女と持統は倉吉に皇居があった天武天皇のもとに行った。
 大来皇女は大田皇女と天武天皇との間に生まれた。661年に大来皇女が生まれ、662年に草壁皇子が生まれ、663年に大津皇子が生まれた。持統も大田皇女も采女(人質の子)として鳥取県倉吉市に来ていた。666年には天武天皇と大田皇女・持統は奈良の中宮寺にいたが、天武天皇と大田皇女は毒を盛られて岡山県の総社→鳥取県の伯耆町経由で倉吉に帰った。666年4月、総社市の寺で中宮天皇(中宮寺にいた天武天皇)の病気平癒を祈願している。翌667年2月、大田皇女は亡くなった。
 天智は倭国の王子のように葛城(北栄町由良)王子を名乗っているが、百済王子豊璋であった。それまでの百済王義慈王が660年に亡くなったので義慈王の弟の豊璋は鬼室福信に百済王になることを請われて百済に行ったが、百済で王になる気はなく、鬼室福信を殺害して「豊璋」の着ぐるみを大陸に投げ捨て、倭国に帰って倭国王子の中大兄王子になりすました。
 日本書紀の天皇のモデルは百済王が多い。天智天皇も百済王子豊璋であった。天智天皇の父母の舒明・皇極(斉明)も百済王族がモデルである。日本書紀に記されている41人の天皇の中で倭国の天皇がモデルと思われるのは数天皇しかいない。神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇などである。


3 日本書紀・天武天皇の段で泊瀬の斎宮の比定地が解からないのが通説である。この泊瀬の斎宮は倉吉市駄経寺町にあった大御堂廃寺のことである。雄略天皇の皇居は泊瀬の山にあった。それは、打吹山の長谷寺であった。泊瀬(長谷)とは打吹山を含む打吹山周辺のことであり、現在の倉吉市中心市街地である。また、倉吉市賀茂神社(江戸時代までは賀茂皇大神宮と呼んでいた)の由緒に飛鳥時代倉吉市駄経寺にあった神宮寺には僧侶のほか神官もいたことが記載されている。この天武天皇が造った大御堂廃寺が泊瀬の斎宮であり、斎王になるための訓練もしていた。天武天皇の皇居は倉吉市葵町の賀茂皇大神宮(現在は賀茂神社)にあった。
 大来皇女(661-701)は倉吉で生まれ、天武天皇が吉野に行った時も倉吉に残っていた。


4 つぎに問題になるのが額田王と尼子娘とカヂ媛娘である。
 この3人は伯耆国出身であり、持統や大田皇女よりも早く天武天皇に嫁いでいた。十市皇女は653年生まれで高市皇子は654年生まれであることや、磯城皇子や泊瀬部皇女は鳥取県中部(倭国)で生まれた名前であることからである。鎌足と天智の娘が天武天皇のもとに来たのは藤原鎌足の死(669年)と天智の死(671年)後と思われる。父が流罪になった大蕤娘は673年に天武天皇の夫人になった。
 日本書紀には天武天皇の妻の順位として、大蕤娘は7番目、額田王は8番目 、尼子娘は9番目、カヂ媛娘は10番目、とする。これが倭国の原古事記ならば逆転し、尼子娘は1番目、カヂ媛娘は2番目、大蕤娘は3番目、額田王は4番目となる。天智の娘や鎌足の娘は人質の娘(采女)であるから、順位は下であり、倭国の天皇になることはない。天武天皇はよくても倭国が許さない。もし天皇になったとすれば、それは列島に亡命してきた百済王家の天皇としてである。


5 持統の遺骨は天武天皇の陵に納められているという。それは藤原氏の作った日本書紀・続日本紀によるものであり、火葬にしてあれば誰の遺骨か判らないので火葬にした。火葬にすることは本人の遺言ではない。続けて4人もの天皇が火葬を希望したとは考えられない。聖武天皇からはピタリと火葬はなくなっている。持統・文武・元明・元正の4人は隠さなければならないことがあったからである。元正の時もまだ倭国(鳥取県中部)の影響力は奈良まで及んでいた。持統の火葬・夫婦合葬は本人の遺言ではなく藤原氏による作為的なものである。従って、野口王墓古墳(檜隈大内陵)は夫婦合葬墓ではなく、始めから野口王墓古墳(檜隈大内陵)に持統の遺骨はなかった。あったとしても他人のものである。

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三徳山と大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)について

2018-08-03 13:59:51 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  鎌倉時代末頃の成立と考えられる『金峯山草創記』には、「役行者の前世の姿である震旦国の好積仙人が、『仏法を開き行う所に落ちよ』と願い、三本の黄色い蓮華を投げたところ、伊予国石辻(石鎚山)、大和国弥勒長(金峯野山)、伯耆国三徳山に落ちたため、この三所は『仏法霊験の勝地』である」とある。

2  源頼朝は三徳山に剣を奉納している。

源頼朝寄付の剣(伯耆国の三徳山の宝物殿にて)

3  「吾妻鏡」によると、文治二年(1185)源義経は兄頼朝の迫害を逃れ、吉野山の吉水院に潜居したとある。吉水神社の社伝によると、「吉水神社は役の行者の休息の庵室として創立された金峯山寺の僧坊(僧房)・吉水院であった」とある。

4. 大御堂廃寺は久米寺といっていた。
 泊瀬は長谷であり、来目は久米である。長谷はハセであり、ハッセではない。古事記の「長谷や久米」の文字は実際に地名や人名として残っているが日本書紀の「泊瀬や来目」の文字は実際の地名や人名としては残っていない。造語である。
 日本書紀の文字は古事記の発音を別の漢字をあてて改ざんした造語である。現実の地名とピッタリあてはまる古事記の文字が稗田阿礼が述べて太安万侶が書き留めた文字である。日本書紀は原古事記を改ざんしたものであり、古事記は原古事記の残欠である。
 大御堂は地名であり大は王であり「王の御堂」とよめる。
 
 久米寺(大御堂廃寺)は新羅系の道場であり、天武天皇や役行者や大来皇女や長屋王はここで格義仏教に混ざった道教の修行をした。
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三徳山(鳥取県三朝町)の開祖である役行者は泊瀬の斎宮(鳥取県倉吉市)で仏教・道教を会得した

2018-08-03 13:20:26 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  鳥取県中部(倭国)の三徳山と泊瀬の斎宮
 鴨一族(事代主をリーダーとする百八十神)は国譲り(紀元前160年頃)で磯城(東郷池周辺)に移っていたが神武4兄弟が居なくなって(紀元前70年頃)から、一部は出身地の葛城に帰っていた。役行者は葛城出身の鴨一族という。

2  三徳山(鳥取県三朝町)
 三徳山の投入堂
 三徳山三仏寺本堂
 三仏寺の輪光院
 投入堂にあった蔵王権現像
 三徳山の宝物殿に役行者像があったのだが、日本遺産登録の記念行事があるので、貸出されてなかった。以前、吉野山の金峯山寺に行ったときに写した役行者像で代用します。鬼神を使役するのは道教である。

3  泊瀬の斎宮(鳥取県倉吉市)
 右の打吹山(泊瀬の山)のふもと(賀茂神社)に天武天皇の皇居があった。

 大御堂廃寺は広場になっている。右の建物はパークスクエア。山は打吹山(泊瀬の山)、麓の賀茂神社に天武天皇の皇居があった。

 僧房(修行する者の寄宿舎)が2棟あった。天武天皇・大来皇女・役行者・長屋親王は、一年半この僧房(修行する者の寄宿舎)に寄宿し仏教・道教(格義仏教)の修行をした。南半分は中部総合庁舎側(松ヶ坪遺跡)にあった。

 ここでは、仏教だけでなく、道教も教えていた。道教の混ざった格義仏教である。修験道は仏教と道教が混在したものである。
 

 奈良の寺院などとの関連が指摘され、大御堂廃寺を地方寺院と言うが、こちらが都であった。
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鳥取県倉吉市の大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)では仏教だけでなく道教(神道)の修行もしていた

2018-08-03 12:53:24 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

日本書紀・天武天皇即位の段に「2年夏4月14日、大来皇女を伊勢神宮の斎王にされるために、まず泊瀬の斎宮にお住まわせになった。ここはまず身を潔めて、次第に神に近づくためのところである。・・・。3年冬10月9日、大来皇女は泊瀬の斎宮から、伊勢神宮に移られた。」とある。泊瀬の斎宮とはどこのことであろうか。
 泊瀬(長谷)とは雄略天皇の皇居の解明より、鳥取県倉吉市の中心市街地であることが判った。天武天皇の時代に倉吉市に斎王を養成するような施設があったのだろうか。


1  「伯耆民談記」松岡布政より 
 伯耆民談記に「久米郡駄経寺村の大御堂  これも今は堂閣なし。駄経寺村の前なる田の中に小さき董(とう)あり。それ即ち大御堂である。いにしへは大きな伽藍の道場なりと言い伝う。・・・。またこの連りに華表(とりい)縄手という径(みち)あり。駄経寺の埴守である新宮大明神への古道なり。」とある。
  倉吉市駄経寺町より7世紀後半創建の大御堂跡が発掘された。
 倉吉市文化財調査報告書  史跡大御堂廃寺跡発掘調査報告書
http://sitereports.nabunken.go.jp/13635
ぜひご覧ください


2  軒瓦からみた寺院の造営時期(報告書より)
 大御堂廃寺跡からは多種多様の遣物が出土しているが、これらの遣物のうち屋瓦をとおして寺院の造営時期について考えをまとめる。
 A群は軒丸瓦のなかで最も古式の要素をもつ1類である。これら瓦当文様の特徴から7世紀第3四半世紀代に位置付けられるものと判断される。
 B群の軒丸瓦2類から5類は、川原寺式の系統に属する瓦当文様を配するから、7世紀第4四半世紀代に位置付けられる。
 C群の軒丸瓦6類と7類は、外区の密珠文の配置が大官大寺式に共通するが、内区の瓦当文様は本薬師寺式ないし藤原宮式に近い。このような特徴から、7世紀第4四半世紀代、それも後半頃に位置付けることが可能と考えられる。
 (私見) 
 報告者には大御堂廃寺は川原寺や本薬師寺や藤原宮よりも後に出来たという先入観がある。遅くとも壬申の乱までには完成していた。したがって、造営時期は663年から672年であると解する。天武天皇は壬申の乱のときには仏教・道教を会得していたからである。
 藤原宮や平城京の造営計画は、新羅・中国との交流があった倭国(鳥取県中部)が行っていた。蘇我善徳(聖徳太子)は隋国から来た裴世清たちと奈良に出向き、大国維新之化の教えを請うた。729年までは倭国に力があった。


3  奈良との関係
 報告書 仏像
 連立塼仏と同形のものは、奈良県山田寺跡や奈良県朝妻廃寺跡、和歌山県佐野廃寺跡、大御堂廃寺跡近くの大原廃寺跡等で出土し、その他に奈良県橘寺出土と伝えられたものがある。また、塼仏以外にも唐招提寺に所蔵される銅板押出三尊仏像に類例がみられる。
 報告書 銅製品
 銅製匙は正倉院宝物・雁鴨池出土品に類似する円形匙である。
 銅製獣頭は造形意匠の優れたもので類例は知られていない。材料は新羅産である。 


4  鳥取県倉吉市葵町の賀茂神社の由緒(昭和9年鳥取県神社誌)より抜粋 
 「明治までは賀茂皇大神宮と称へ衆庶の尊信特に篤し。当社隆盛の時代には神坂の東方五丁余の地に神宮寺ありて、多数の僧侶神官と共に社務を執行し、四時の祭典殷賑を極めたりし。当時の神宮寺は七堂伽藍の構造なりしと云ふ。現に寺坊の跡より巨大の礎石布目瓦等出づ。その付近に駄経寺、少林寺等の地名あり。何れも神宮寺の末寺のありし所といい伝ふ」とある。
 (私見)
 中国の五胡十六国時代は、儒教、道教、仏教が混ざり合う時代であった。道教を真似る格義仏教が発生した。新羅を通って渡ってきた大御堂廃寺の仏教は道教が濃く混ざった格義仏教であった。
 「神宮寺では多数の僧侶神官と共に社務を執行し」とある。神官とは倭国の崇神天皇(在位188年~220年)と卑弥呼(151年~248年)が開いた道教に基づく神道の神官である。 
 大御堂廃寺(久米寺)は仏教だけではなく道教の修行場でもあった。伯耆民談記には道場なりとある。道場の字義は釈迦が悟りを開いたところであると言われているが、道教を修行したところとも解せる。天武天皇も役行者も大来皇女も長屋親王もここで仏教・道教の修行をした。大来皇女は約1年半、この道場(大御堂廃寺)で仏教・道教の修行をした。その後、大来皇女は泊瀬の斎宮から直線距離で14kmほど離れている琴浦町にあった伊勢神宮に行った。琴浦町にあった伊勢神宮については「伊勢野の天照皇大神宮」をご覧ください。

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天武天皇の皇居、倉吉市の賀茂神社に行ってきました

2018-08-03 12:30:16 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  倉吉市の賀茂神社周辺の神社と遺跡
 第8代孝元天皇は北栄町大島に伊邪那岐命・伊邪那美命を祀って、第9代開化天皇(倭建命)は征西が成功し伊邪那岐命・伊邪那美命に神助を謝した(宮崎神社由緒)のだが、倭国の天皇家は伊邪那岐命・伊邪那美命を祀っていた。

2  倉吉市の賀茂神社
 左に行くと二階建ての立派な社務所がある。神社は石段を上がった高いところにある。

 天武天皇の皇居があったと言われてもおかしくないような広さと威厳がある。

3. 伊邪那岐命が言った「素戔嗚命は海原をおさめよ」(古事記)について
 倉吉の住吉神社の案内板に「往古この一帯が入江であった」とあるので、この一帯が入江となる(海抜20m)海岸線を引いてみました。紀元前200年頃は縄文海退が進み(海抜4m)青いところは原になっていた。しかし、以前は海だったのでこのあたりを「海原」といっていた。大物主がやって来た時は「海」を照らしてきた、と表現し「海原」と区別している。
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天武天皇の皇居は鳥取県倉吉市打吹山の賀茂神社にあった

2018-08-03 09:40:38 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

 正倉院宝物に似た佐波理匙が出土した大御堂廃寺(7世紀中ごろ)は鳥取県内最古で最大の廃寺跡である。
 大御堂廃寺は賀茂神社の神宮寺であった。賀茂神社には天武天皇の皇居があった。


1  倉吉市文化財調査報告書 第107集 史跡 大御堂廃寺跡発掘調査報告書(抜粋)
 大御堂廃寺跡のことは、18世紀の中頃に著された地誌『伯耆民談記』に記載がみられる。大規模な寺院跡の存在が古くから知られていた。大御堂廃寺跡を白鳳期に造営された寺院とする。そこには大御堂廃寺(久米寺)は道場と書かれ、新宮神社を駄経寺の埴守であると書かれている。
(1)  報告書 瓦
 大御堂廃寺跡から出土した鬼瓦は、鬼面を大きく表し下方に腕と脚を配した鬼面文を飾る特異なもの。特異な鬼面文が、新羅統一時代の鬼瓦の系譜に属するものである
(2)  報告書 匙 斎轟
 大御堂廃寺跡から出土した匙は、鉛同位体比から材料の産地は朝鮮半島の新羅系統と示唆される。正倉院宝物の佐波理匙に寸法・形態とも類似する。
 斎轟12点が出土した。長さは30cm前後である。切り込み、切り欠けのあるものは飛鳥藤原宮出土(7世紀後半)遣物に類似する。
(3)  報告書 塼仏
 連立塼仏と同形のものは、奈良県山田寺跡や奈良県朝妻廃寺跡、和歌山県佐野廃寺跡、大御堂廃寺跡近くの大原廃寺跡等で出土し、その他に奈良県橘寺出土と伝えられたものがある。また、塼仏以外にも唐招提寺に所蔵される銅板押出三尊仏像に類例がみられる。
(4)  報告書 木材の年輪年代測定結果一覧
 溜析横板東2の年代663年  溜析横板東1の年代629年  溜析横板東3の年代626年  溜析横板南2の年代622年  建築部材の年代600年  建築部材の年代434年  曲物14 底板の年代652年  曲物21底板の年代309年
(5)  報告書 まとめ
 この寺域は長方形の区画で、規模は東西の築地塀の心々距離で約135m(450尺)、南北は不明な点もあるが165m以上(200~220mを推定する)である。付属施設としては、僧房西に、溜析(井戸)を確認した。
 E群の軒丸瓦10類は、新羅系軒丸瓦の影響を受けて成立したと考えられる地方独特の瓦当文様を配する。F群の12類も新羅系の要素が認められる。新羅的な要素の瓦当文様が用いられている。大御堂廃寺跡の軒丸瓦の一種と同類のものが、近くの大原廃寺跡や野方廃寺跡にあることが指摘されている。
 塼仏は方形三尊塼仏と六尊連立塼仏がありそれぞれ伯耆国内の斎尾廃寺跡、大原廃寺跡の塼仏の元型となっている可能性がある。
 石仏は非常に珍しく仏教美術の上でも重要である。
 銅製匙は正倉院宝物・雁鴨池出土品に類似する円形匙である。
 銅製獣頭は造形意匠の優れたもので類例は知られていない。
 特殊な遣物として、溜析・木樋・木簡・木製祭祀具・漆器などが加わる。
 これら豊富な遣物から、山陰を代表する本格的寺院であったと推定される。伽藍配置・規模・遣物から、中央と直結した技術援助がうかがわれ、国家仏教政策の拠点的寺院であった可能性が指摘される。


2  賀茂神社(昭和9年鳥取県神社誌より)  
 現在地 鳥取県倉吉市葵町586
 祭神 別雷神
 由緒(抜粋) 維新前までは賀茂皇大神宮と称へ衆庶の尊信特に篤し。当社隆盛の時代には神坂の東方五丁余の地に神宮寺ありて、多数の僧侶神官と共に社務を執行し、四時の祭典殷賑を極めたりし。当時の神宮寺は七堂伽藍の構造なりしと云ふ。現に寺坊の跡より巨大の礎石布目瓦等出づ。その付近に駄經寺、少林寺等の地名あり。何れも神宮寺の末寺のありし所と云伝ふ。


3  私見
 684年制定の「八色の姓」の最高位の「姓」は「真人」であり、天武天皇の和風諡号は「瀛真人」である。「瀛」とは道教における東海(日本海)の三神山の一つ瀛州(蒜山高原)のことであり、「真人」とは瀛州(蒜山高原)にいた伊邪那岐命のことである。道教では神仙(仙人)が住むという海中(海の対岸)の神山の「瀛州(蒜山高原)」の最高の神仙(仙人)を「真人(伊邪那岐命)」という。
 伯耆民談記には、倉吉市駄経寺町にある新宮神社の伊邪那岐命のことを天武天皇の造った「駄経寺(大御堂廃寺)の埴守である新(真)宮大明神」とする。新宮神社の由緒には伊邪那岐命のことを「古来真宮大明神と称せし」とある。真宮大明神とは真人のことである。天武天皇は倉吉市駄経寺町で伊邪那岐命(真人)を祀っていた。
 木材の年輪年代測定結果より一番新しいもので663年(白村江の戦)に伐採されたものであり、伯耆国の上淀廃寺、斉尾廃寺、大原廃寺に先立って、大御堂廃寺は天武天皇が創建したと思われる。大御堂廃寺は泊瀬の斎宮であり琴浦町の伊勢神宮とは直線距離で14kmほどである。伯耆民談記には「道場」とあり仏教と道教(格義仏教に伴う道教)の修行をしていた。天武天皇も大来皇女も役行者も長屋親王もここで仏教と道教(格義仏教に伴う道教)を覚えた。
 賀茂神社の由緒にあるように神坂邑の東方五丁余の地に神宮寺があった。その付近に駄経寺の地名がある。倉吉市駄経寺町に賀茂神社の神宮寺があった。それが大御堂廃寺である。
 倉吉市賀茂神社は江戸時代までは賀茂皇大神宮と言われており、天武天皇の皇居は賀茂神社にあった。泊瀬の山(倉吉市打吹山)に皇居の有った天皇は、雄略天皇、武烈天皇(百済の無道な天皇の事績に改ざんしている)、蘇我稲目天皇である。飛鳥浄御原宮は後の創建である。したがって、天武天皇の出身は倭国(鳥取県中部)であった。天武天皇は初代神武天皇の時から引き続き、新羅と親しく交流していた。
 こう解することで、発掘された銅製獣頭の材料の産地は新羅系統であること、鬼瓦の鬼面文は新羅の系譜であることの謎が解ける。倭国は東郷池を通じて新羅と直接交流をしていた。そのため、歴代天皇は東郷池にも宮をつくっていた。シキの宮という。
 創建553年の新羅慶州の皇龍寺は東西288m、南北284mの広大な境内に、80m近い九層の木塔がそびえ、金堂には丈六(約5m)の三尊像が安置されていたという。
 大御堂廃寺は東西135m、南北220m(推定)の規模の寺域を有していた。倭国と新羅は兄弟国であった。寺院においても新羅のほうが兄であった。

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天武天皇の后・妃・嬪・宮人について

2018-08-03 08:58:25 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  「新しい日本の古代史」(AKIRA KATO)より
(1)鎌足は、暗唱できるほどに中国の古い兵法書「六韜」(りくとう)を愛読していた(藤氏家伝)。
 この「六韜」には例えば、
 「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば 宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」とある。これは「鎌足」が天武天皇に実行している。
 また「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」とある。これは「不比等」が天武天皇・高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇に実行している。
 この「六韜」の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆく。
(2)平安時代は政治・社会が六韜精神で運営されていた。
 都の正門がボロボロだろうが、火事で燃えて無くなろうが、そんな事は藤原氏にとっては、どうでもいいわけです。自分だけが阿弥陀さんのそばにいれば、庶民がどうなろうと知った事ではないと思っていたわけです。この当時は検非違使という現在の警察にあたるものはありましたが、正式には、法律に定められていない組織でした。それで、都といえども、警察などあってもないようなもので、無政府状態だったわけです。そんなわけで、人殺し、盗みはしたい放題といった状態です。今の感覚からすれば、もうむちゃくちゃです。これが、藤原政権のやっていることです。要するに、庶民の事など、虫けらも同然のように考えているわけで、まともな政治なんてやっていません。平安時代というと、いかにも優雅で、雅やかな、なんとなく源氏物語絵巻などが、イメージとして浮かんできますが、とんでもない話です。おそらくそれは、藤原氏の、ごく一部の生活模様だったでしょう。何しろ、藤原氏は聖徳太子が示したようなビジョンを持ちません。国をよくするという考え方を持つことはできなかったでしょう。六韜主義一本やりで、政権を奪い取ったわけですから、ひと言で言えば、大和朝廷を私物化したわけです。その後の荘園制度を見れば、 このことは一目瞭然です。

2  私見
(1)天武天皇は額田王と尼子娘(どちらも出身は鳥取県西部)を妻として十市皇女を生んだが、後に額田王は中大兄皇子の妃になった。日本書紀は天武天皇の即位を673年とするが、十市皇女(653年生)高市皇子(654年生)より天武天皇の即位は蘇我倉山田石川麻呂天皇の死亡年の649年と思われる。
(2)660年百済国は滅亡し百済王朝は倭国に亡命した。鎌足は新羅の後ろには天武天皇がいることを知っていたので「六韜」の「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」を実行した。660年大田皇女と鸕野讃良皇女は額田王と十市皇女と引き換えに倭国(鳥取県中部)の天武天皇(皇居は倉吉市の賀茂神社)のもとにきた。北栄町曲の後宮にいたカヂ媛娘もこのころ天武天皇の宮人となる。
(3)倭国から奈良へのルート
 羽曳野市野中寺の仏像台座框に「丙寅年(666年)の4月中宮天皇が病気になったとき栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像である」との銘文が刻まれている。中宮天皇とは奈良滞在中に父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が造った斑鳩の中宮にいた天武天皇のことと思われる。
 栢寺は白鳳時代に総社市にあった。天武天皇の病気平癒を請願するのがなぜ吉備の僧侶なのかと疑問に思われるが、総社市の栢寺は伯耆国の寺院(大御堂廃寺、大原廃寺、斉尾廃寺、上淀廃寺、大寺廃寺など)と同じ頃に天武天皇が創建したと思われる。天武天皇は奈良に行くのに倉吉から東に行くのではなく、一旦西の琴浦町斉尾廃寺と淀江町上淀廃寺と伯耆町大寺廃寺に泊まり、南の総社市の栢寺に泊まってから奈良に行った。額田王と尼子娘の出身が鳥取県西部なので現在のJR伯備線とほぼ同じルートで総社市に出て奈良県斑鳩の中宮に行った。天武天皇が斑鳩の中宮にいた時、天智、鎌足は桜井市の談山・多武峯をテロの拠点にしていた
(4) 尼子娘と額田王
 181号線上からはどこでも秀麗な山容の大山が見える。尼子娘は胸形徳善の娘である。胸形の君は米子市長砂町で宗像三女神を祀っていた。北九州の宗像大社の本家である。青森県の棟方氏もここの出身である。尼子娘は米子市長砂町の出身である。
 伯耆町大殿から大寺廃寺が発掘された。大寺廃寺も天武期である。天武天皇が創建した。天武天皇は伯耆町大殿の大寺に泊まって総社市に出た。大殿のちかくにはJR伯備線がある。
  額田王は伯耆町大殿の出身と思われる。珍獣ハンターのような例外もあるが伯耆町は美人の産地である。小野小町や神武天皇の媛蹈鞴五十鈴媛命も鳥取県伯耆町出身である。鎌足と天智は「六韜」の「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め・・・」を計画したが額田王は大田皇女や鸕野讃良皇女より美しかったので、額田王との交換を提案した。
 665年に定恵が百済士人に毒殺されている(藤氏家伝)ので、665年にはすでに百済人(藤氏)による毒殺の手段が使われていた。666年に天武天皇は大田皇女と鸕野讃良皇女ともに奈良の斑鳩の中宮にいた。鎌足は天智を通して鸕野讃良皇女に会っていた。この時の天武天皇に対する毒殺は未遂に終わったが、一緒にいた大田皇女は毒殺された(667年2月)。このとき不比等はまだ7歳で鎌足と一緒にいたので、おそらく実行犯は鎌足と接触があり毒殺方法を教わった鸕野讃良皇女と思われる。天武天皇の食事にも毒薬が混ざった。
(5)667年唐の使者が筑紫に来日した。百済王朝は飛鳥から近江に遷都した、というよりも、いよいよ見つかりそうになって天智と鎌足は多武峯から近江に逃げたのが真相と思われる。
 669年藤原鎌足は蘇我入鹿天皇、蘇我倉山田石川麻呂天皇暗殺の首謀者とみなされていた。天武天皇も毒殺しようとしていた。藤原鎌足は見つかり殺害された。669年以降、残された藤原鎌足の子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)は天武天皇に引き取られた。不比等は「六韜」の「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」を実行し、この「判断力が鈍った」天武天皇やその側近を毒殺していった。
 670年に父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が創建し天武天皇(中宮天皇)が滞在していた斑鳩宮が放火により焼失した。犯人は天智と思われる。翌年、天智は山科で殺害された。
(6)壬申の乱のあと673年以降に大蕤娘、新田部皇女、大江皇女が天武天皇のもとに来ているが、新田部皇女、大江皇女、弓削皇子は699年に毒殺されている。
 壬申の乱で活躍した天武天皇の家臣20名ほどと天武天皇も不比等と鸕野讃良皇女に毒殺されている。その後、不比等は高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇を毒殺した。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も犯人が不比等だと気が付かなかった。
(7)伯耆国の上淀廃寺は奈良国立文化財研究所のもと所長が亡くなる前に「天武期」と言われたそうである。伯耆国の大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)、斉尾廃寺(伊勢神宮と並立していた)、大原廃寺、上淀廃寺、大寺廃寺などは天武期に創建されている。法隆寺西院は同じ伽藍配置の斉尾廃寺が天武期に創建されているので天武天皇が再建したと思われる。藤ノ木古墳は聖徳太子の生前墓で斑鳩寺は蘇我馬子と入鹿(聖徳太子)を祀るために創建されたという説があり、聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の子の天武天皇にとって焼失した斑鳩寺をほっておくことはできないのが人情である。金堂も斑鳩寺とは角度が違うので再建されている。東院(夢殿など)は734年以降に藤原氏が建立した。
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日本書紀36代の期間と41代の期間の倭国天皇は蘇我倉山田石川麻呂天皇と高市天皇であった

2018-08-03 08:42:27 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  天武天皇は政略結婚を提案したのであろうか。
 中大兄王子(豊璋)は第29代蘇我倉山田石川麻呂天皇を殺害してから(649年)倭国(鳥取県中部)には賊に暗殺されたと報告していた。天武天皇は649年に倉吉市葵町の賀茂皇大神宮を皇居とし、第30代倭国天皇として即位した。
 天智と鎌足は倭国天皇の天武天皇に対し「六韜」に基づいて「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、・・・」を実行した。ただ、寵姫の額田王は美人であり効果が薄いと思ったので額田王を天武天皇から離す策略に出た。
 660年に大田皇女と鸕野讃良皇女は額田王と十市皇女と引き換えに倭国(鳥取県中部)の天武天皇(皇居は倉吉市の賀茂神社)のもとにきた。倭国王家から百済王家には額田王と十市皇女が行かされた。これを提案したのは天智と鎌足である。天智と鎌足は「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」も実行した。天武天皇は判断力が鈍っていた。額田王は鳥取県伯耆町大殿(大寺廃寺の近く)出身である。ちなみに小野小町も鳥取県伯耆町出身である。
 大国主命も米子市長砂町の胸形にいた多紀理毘売命を鳥取県北栄町の葦原中津国に娶った。青森におられる棟方氏から連絡がありました。棟方氏は江戸時代までは「胸形」と書き山陰(米子)にいてその後北九州に行かされたが、今は青森にいる、ということであった。鳥取県北栄町にいた事代主(伊須気余理比売の先祖)も大物主(子孫は大田命)もその子孫は鳥取県西部から見つかっている。神武天皇の2番目の皇后(伊須気余理比売)も伯耆町久古出身である。倉吉にいた天武天皇は神武天皇と同じように鳥取県西部から胸形尼子娘と額田王を娶っていた(それぞれ654年に高市皇子を653年に十市皇女を生んだ)。胸形尼子娘の父は胸形徳善であり、天武天皇の父は蘇我善徳であった。
 高市皇子が天皇になれなかったのは母親(胸形尼子娘)が田舎出身の胸形氏であったからと言うが、胸形氏は米子市長砂町出身(古事記の胸形の君)であり、名門中の名門である(以前の「宗像三女神の本家は米子の胸形神社であり九州の宗像大社ではない」を参照されたし)。高市皇子は倭国第31代天皇であった。
 京都の藤原氏は鳥取県中西部を何もない田舎と暗示にかけた。鳥取県中西部を田舎であると京都人は現在でも言い続けている。

2  660年に百済王朝は倭国に亡命した。倭国(鳥取県中部)王と百済王家(滋賀県大津)との間で和解が成立した。その和解案は二つの王家が列島に並立することを認めるものであった。
 天智の臨終に際して皇位を承継するかどうかの話は作り話である。その時の倭国天皇はすでに天武天皇であり(649年即位)、天智は法隆寺に放火した(670年)ので、近江で天武天皇に殺害された(671年)。

3  不比等の父の藤原鎌足と鸕野讃良皇女の父の天智は乙巳の変でテロを行った同志である。親たちの行ったテロの反省の上に立って、不比等と鸕野讃良皇女は今度は静かに政権を奪取することを考えた。その方法が毒殺による暗殺である。鸕野讃良皇女は、不比等と吉野(テロのアジト)で会っていた。次に毒殺するのは誰か、どうおだてるか、どう毒薬を入れるか、などを相談していた。
 不比等は父が殺害されて(669年)から他の二人の子と一緒に天武天皇のもとに来た(11歳)。壬申の乱などと言うが、倭王権が蝦夷(準王一族)に行なってきた平定の一環にすぎない。百済は朝鮮半島に残っていた準王一族(蝦夷)であった。不比等は壬申の乱にも同行し、鸕野讃良皇女とともに伊雑宮や千田寺にも行っていた。千田寺のいわれも知っていた。不比等も「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」を実行した。判断力が鈍った第31代高市天皇、第32代忍壁天皇、第33代穂積天皇を毒殺した。周囲の者は気が付かなかった。
 鳥取県中部(倭国)の影響力は、倭国にいた大王が殺される(734年)まで続いた。長屋王は親王であったからその親の高市皇子は天皇であった。高市皇子は倭国第31代高市天皇であった。長屋王が行っていた左道とは仏教と始祖の天照大御神(徐福)から続いてきた道教の混ざった卜占である。泊瀬の斎宮(倉吉市の大御堂廃寺)で仏教と道教(格義仏教)の修行をした。藤原氏は倭国にいた大王を殺して(734年)から、鳥取県中部(倭国)の粛清を始める。その処刑場が倉吉市の法華寺畑遺跡(741年創建)である。
 

 おまけ
 気品のある米子の女性(航空祭にて)
 鳥取県中部(倭国)の天皇は鳥取県西部(米子)の女性を娶ることがあった。
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中大兄王子は「豊璋」であり、藤原鎌足は「翹岐」である

2018-08-03 08:13:34 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

 1 中大兄皇子=「翹岐」説、藤原鎌足=「豊璋」説について
(1) 藤原鎌足=豊璋説は多い。関祐二氏はその根拠として、大織冠を賜ったのが、鎌足と豊璋だけであるからとする。「豊璋」は中大兄皇子である、とする方は少ない。中大兄皇子は豊璋に大織冠を授けているが自分で自分に褒美を授けるのはおかしいことや、中大兄皇子は日本書紀の第38代天智天皇であり恐れ多いこと、などが理由と思われる。
(2) 中大兄皇子=翹岐説では
 舒明3年(631年)、「百済王義慈は王子豊璋を人質として送ってきた」とあるが、このときの百済王は武王であり義慈王が百済王になるのは641年であるから、631年は間違いである、とする。また、百済には人質を差し出す理由がない、とする。

2 日本書紀の「百済人」と 「翹岐」と「豊璋」
◎敏達天皇12年(583年)、日羅は「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。・・・逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」と言っていた。
◎推古17年(609年)、大宰府の長官が奏上して「百済僧10人俗人75人が、肥後国の葦北の港に停泊しています」といった。徳摩呂・竜の二人を返して百済人らにつけ、本国に送り付けた。対馬に着いて、修道者11人が皆在留したいと願った。それで上表をして滞留を許され飛鳥寺に住まわされた。
◎舒明3年(631年)、「百済王義慈は王子豊璋を人質として送ってきた」とある。
◎舒明13年(641年)冬10月9日、「天皇(百済王武)は崩御された。東宮の開別皇子(中大兄王子)は16歳で誄をよまれた」とある。  
◎皇極元年(642年)、百済の従者たちは「今年1月、弟王子に当たる子の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが島流しになりました」といった。
◎皇極2年(643年)2月21日に、「筑紫の大宰府から早馬で伝えて、『百済国王の子翹岐弟王子が調使と共に到着しました』といった。
◎皇極3年(644年)、「中臣鎌足連は・・・つぎつぎと王家の人々に接触して、企てを成し遂げうる明主を求めた。そして心を中大兄に寄せたが、離れていて近づき難く自分の心底を打ち明けることができなかった」とある。
◎斉明七年(661)九月(天智紀)、「皇太子は長津宮にあって、織冠を百済の王子豊璋にお授けになった。・・・・軍兵5千余を率いて、豊璋を本国に護り送らせた」とある。

3 私見
(1) 中臣鎌足は藤原姓を授けられた。「藤原」の読みは「ホゼワラ」であり「百済倭国」の当て字である。中臣鎌足は百済人であった。鎌足はテロを実行する明主として中大兄皇子に心を寄せていた。中大兄皇子が百済の王族であることがわかっていたから鎌足は企ての明主として中大兄皇子を選んだ。百済王国を成し遂げる企てに賛同しその明主となれるのは百済王族である。中大兄皇子と中臣鎌足は百済人であった。
 中大兄皇子と中臣鎌足の百済名は何であろうか。このとき倭国にいた百済王族は豊璋、塞上、翹岐であった。豊璋の系譜はウィキペディアでもはっきりしないが、義慈は武王の長男である。義慈は塞上を弟王子と言っている。豊璋の弟も塞上である。豊璋と義慈は兄弟となる。631年が間違いではなく原古事記には武王とあったのを義慈に書き換えたと思われる。豊璋も武王の子であり、631年に倭国に来ている。
 日本書紀・斉明6年(660年)に「天皇、豊璋を立てて王とし、塞上を立てて助けとした」とある 。豊璋の弟は一緒に人質で倭国に来ていた塞上である。豊璋は武王の次男になるから、義慈の次の百済王になる。豊璋の兄は義慈王であり弟は塞上であった。豊璋は三兄弟の中であり中大兄であった。
 645年の段階で豊璋、塞上は13年間倭国にいた。一方、翹岐は3年にすぎない。乙巳の変のようなテロを起こそうと思えば倭国に来てから13年も何もしないわけがない。翹岐が倭国に来たのは642年である。643年の記述を最後に消えてしまう。年が明けて1月1日(元旦)に中臣鎌足が突然現れテロの準備を始める。翹岐は644年に中臣鎌足に変身しテロの準備を始めた。13年の長きに渡って倭国(鳥取県中部)に居た豊璋(中大兄皇子)を、渡来して間もない翹岐(中臣鎌足)が誘ったとみるのが正しいと思われる。
(2)中大兄皇子=翹岐説は「この時期は百済の最盛期であるから、日本に人質を送らなければならない事情はなかった」とする。しかし私見では、512年頃から何度も任那(全羅南道)を侵していたのは新羅ではなく百済であった。蘇我馬子天皇は日羅を呼んで進言を受けなければならないほど、百済に悩まされていた。日羅は「国王か王子を来させて」と言っていた(583年)ので、馬子は百済王武に「国王か王子が来るように」と言っていたはずである。631年に、任那(全羅南道)を侵さないことを約束し、倭国に6歳の豊璋と塞上を人質として差し出したとしてもおかしくない。百済にとって人質を差し出すことは兵法書六韜の教えを実践することにもなる。豊璋も蘇我入鹿天皇を徹底的におだてたはずである。「百済王義慈が送った」とあるのは百済王武であったのを改ざんしたと思われる。豊璋の生没年は不詳であるが豊璋は中大兄皇子であるので生年は626年であり6歳で倭国(鳥取県中部)に来ていた。天武の生年が623年であれ631年であれ、一緒に遊んだりして大事に育てられた。天武天皇とは他人であるが兄弟のようにして育てられたものと思われる。蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は人質であっても我が王子と同じように育てた。
(3) 中大兄皇子=翹岐説は「蘇我入鹿のテリトリーにわざわざ出向いて行くわけだから。蹴鞠の会を、法興寺で催したのが中大兄であるのはおかしい」とする。中大兄皇子(豊璋)は倭国の都で6歳から13年間、倭国の皇子と同じに育てられていた。蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は中大兄皇子が蹴鞠の会を、法興寺で催すことを許していた。中大兄皇子(豊璋)は倭国の都(鳥取県中部)で、正統な百済王子として6歳から13年間、倭国の王子と同じように育てられてきた。たまたま、644年に奈良の法興寺で蹴鞠の会を催すために行ったときに中臣鎌足に出会った。その時は18歳であった。「中臣鎌足は、中大兄と離れていて近づき難く」とは物理的な距離のことである。中臣鎌足は奈良にいた。豊璋こと中大兄は倭国(鳥取県中部)にいた。
(4) 中大兄皇子は鳥取県中部に長く居たため、鳥取県倉吉市大原(石上神宮)に武器が沢山あることを知っていた。倭国の軍備を減らすためにも石上神宮の武器を奈良に移す必要があった。石上神宮を管理していた物部氏とも顔見知りであり、中大兄皇子の依頼で647年に奈良に移されたものと思われる。647年より鳥取県倉吉市大原の石上神宮はなくなり、波波岐神社として始まった(鳥取県神社誌に大化3年創建とある)。「蘇我入鹿天皇が賊に殺されたように奈良は物騒だから武器を移したい」と言ったものと思われる。
(5) 中大兄皇子と遠智姫は結婚して一つ屋根の下に一緒に住んでいたから、自分が殺した義父の塩漬け首を遠智姫に見せる機会がある。一方、中臣鎌足と遠智姫は一緒に住んでいないから、殺す機会も少ないし、もし殺したとしても遠智姫に石川麻呂の塩漬け首を見せる動機も機会もほとんどない。石川麻呂の塩漬けの首を娘の遠智姫にみせたのは豊璋である。豊璋またの名は中大兄皇子が妻の遠智姫に義父の石川麻呂の塩漬けの首を見せたと解するのが無理がない。豊璋は中大兄皇子であった。
 豊璋の無道さ(首を切って塩漬けにするなど)は他の百済人と交わるうちに身についたものと思われる。この風習は百済人が馬韓に残っていた殷王朝末裔の準王一族(首を斬る一族)から受け継いだものと思われる。
(6) 豊後国(大分県)の西寒田神社縁起には「663年、大唐が百済を攻めた。日本は百済を救うため兵を遣わそうした。大織冠である藤原臣(藤原鎌足)はそのために九州へ下向し、豊前国(福岡県)中津郡に陣をとり、そこで指図し軍兵を集めた。その後群国に漂泊すること数ヶ月を過ごした」とある。白村江の戦いの時、藤原鎌足は九州各地(主に大分県・宮崎県)を転々としていたので、豊璋である可能性は低い。亡命してくる百済王族を住まわす地を探していた。白村江の戦いで亡命してきた百済王族が宮崎県木城町の比木神社と美郷町の神門神社の地にいたという伝承がある。
 一方、皇太子(中大兄皇子)は筑紫の長津宮で、豊璋に織冠を授け(自分で自分に褒美を与えた)、軍兵5千余を率いて、豊璋(中大兄皇子)を百済国に護り送らせた。中大兄皇子(豊璋)自身が百済に行った。豊璋はその後所在不明になるが、中大兄皇子は倭国に帰ってきた。豊璋という着ぐるみは大陸に投げてきた。百済王子の豊璋はいなくなったが、倭国王子の中大兄皇子は生きて倭国に帰ってきた。中大兄皇子と豊璋を決別させるため(豊璋は6歳のときから30年間倭国にいるのだからもう百済王子の豊璋ではなく倭国の王子になったことにするため)の日本書紀の粋な計らいである。百済王子の豊璋は倭国王子の中大兄皇子に変身して倭国に帰ってきた。
(7) 日本書紀・皇極元年(642年)3月~6月までに「翹岐」の名が11回出てくる。これは翹岐が藤原不比等の父親なのでそのデビューを華々しく書いたものと思われる。皇極2年(643年)を最後に翹岐の名は出てこない。代わりに翌皇極3年(644年)1月1日から、中臣鎌足を登場させている。
 皇極元年(642年)に翹岐は島流しになって倭国に来たのであるが、本当に島流しで倭国に流れ着いたのか。「島流し」とは島に到着してから船で他所に行けないようにすることである。何で倭国に着いたのか。609年の肥後国の葦北の港停泊の反省の上にたって「島流し」と言えば返されないですむと確信したからではないか。翹岐たちが島流しになった百済の大乱について百済本紀は一切語っていない。最初から欺くつもりで綿密に計画された謀略ではなかったのか。日羅は蘇我馬子天皇に進言していたが、蘇我馬子天皇から蘇我入鹿天皇に変わっていることも知っていた。これが蘇我馬子天皇なら609年のように百済に送り付けていたはずである。
 一般人の中にテロリストを忍び込ませていたのではないか、それも上手口をたたくテロリストを、と疑われる。このテロリストが中国の兵法書「六韜」を暗記するほど愛読していた鎌足であり翹岐であったと思われる。 翹岐を弟王子と言ったのも信用できない。翹岐は王族ではないと思われる。周りの者がそうだと言えばそうなってしまう。殺す相手(蘇我入鹿天皇)に上手口を言うのも六韜に基づく計画である。上手口を言って歓待されたのである。
 583年の日羅の進言によって百済がどういう国か判る。倭国・新羅を乗っ取るために建国されてから三百年経っていた。642年の「高名の人々40人」は倭国で国を造るための要人であったと思われる。天智の母親である皇極(斉明)も642年の島流しの船の高名の人々40人の中にいたはずである。

 

 

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