「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

伊邪那岐命・伊邪那美命は倉吉市の新宮神社、素戔嗚命は倉吉市の清熊稲荷神社と東山神社にいた

2018-06-12 08:06:28 | 素戔嗚命
 
1  倉吉市の松ヶ坪遺跡から縄文晩期と弥生前期の遺物が出土した。
 松ヶ坪遺跡は左のビルのあたり、大御堂廃寺のすぐ南。
 琴浦町の中尾第一遺跡で縄文時代晩期終末期と弥生時代前期の遺物が発掘された。中尾集落は天太玉命と和久産巣日神が降臨した最初の場所である。縄文時代晩期終末期の遺物は縄文人である猿田彦一族が使っていたものであり、弥生時代前期の遺物は徐福一行が新しく作ったと思われる。
 湯梨浜町の長瀬高浜発掘調査報告書で「また縄文時代晩期の後半代に盛行する凸帯を持つ甕や鉢の小片が高浜遺跡からわずかに出土している。」とある。長瀬高浜遺跡から発掘された弥生前期の土器は玉祖命が使っていたものであり、縄文晩期の土器は猿田彦の一族が使っていたと思われる。
 猿田彦の一族は北栄町北条島に縄文前期から住んでいた。そして紀元前210年にこの地に到着し蒜山に上がっていた徐福一行に協力していた。だから、縄文晩期と弥生前期の遺物が一緒に見つかるのである。縄文晩期と弥生前期の遺物が一緒に発掘されるところは、徐福一行のメンバーが蒜山から降り立ったところと思われる。
 松ヶ坪遺跡で見つかった縄文晩期と弥生前期の遺物も伊邪那岐命、伊邪那美命の降臨を示している。その場所が駄経寺の新宮神社である。
 伊邪那岐は黄泉国(根国)を去って那岐山の周辺に拠点を移していた。素戔嗚は蒜山で天照大御神に暇乞いをしてから三朝町山田で八岐大蛇を見つけ成敗してから、稲田姫とともに伊邪那岐の移った鳥取県旧八頭郡に住んで大国主を生んだ。
 その後、素戔嗚は神大市比売との間に須勢理姫(宇迦之御魂命)を生んで、倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社に降臨した。古事記・根国での冒険はここが舞台と思われる。素戔嗚はその後、米田町の東山神社の地に移り十握剣を石上神宮(大原神社)に奉納した。東山神社は大原神社とは天神川を挟んで、ほぼ東西に位置する。また東側も西側も谷になっており、天然の要害の地である。
 須勢理姫は宇迦能山(茶臼山)に行ってからも東山神社に移った素戔嗚のもとに行ったり来たりしていた。

2  新宮神社
 
東伯郡倉吉町大字駄経寺字宮ノ前鎮座 
祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命 
由緒 古来より真宮大明神と称していた。
 天武天皇の和風諡号は瀛真人である。「真人」とは道教で瀛州(蒜山高原)に住む最高の仙人(伊邪那岐命)を意味する。天武天皇は倉吉市駄経寺町の新宮神社で伊邪那岐命を祀っていた。新宮神社では伊邪那岐命を真宮大明神と称した。真宮大明神とは「真人」のことである。

3  東山神社
 
 
 東伯郡倉吉町大字米田字僧ヶ平鎮座 
祭神 素戔嗚命 宇迦之御魂命(須勢理姫命)
由緒 古来より牛頭天王と称していた。

4 伊邪那岐命、伊邪那美命にしろ素戔嗚命にしろ全国の多くの神社で祀られているから、祭神を書き換える必要がなかった。賀茂皇大神宮には天武天皇が祭神になっていたから、書き換えなければならなかった。

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