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「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

豊鋤入姫命(台与)は都を鳥取県中部(倭)にもどした

2021-02-26 03:48:07 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

 景行天皇(屋主忍男武雄心命)は倭姫命が亡くなった後、都を奈良の纒向に移したが豊鋤入姫命は都を鳥取県中部(倭)に戻した
 
1 魏志倭人伝に「卑弥呼は死に、塚を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壹與を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壹與に教え諭した。壹與は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わして、張政等が帰るのを送らせた」とある。
 「梁書倭国伝」「北史倭国伝」では「臺與」と記述されている。「壹與」は正しい表記ではなく「臺與」(とよ)が正しいと思われる。国史で「とよ」とは豊鋤入姫である。もともと倭姫命と豊鋤入姫命の巡行は時代も目的も違うものであった。藤原氏は伊勢神宮の由緒を創るために、同じ目的で引き継いだとする倭姫命世記を創作した。順番も書き換えた。日本書紀の系譜も書き換えた。

2 10代天皇から12代天皇までの問題となる系譜
⑴ 崇神天皇(本拠地は岡山県津山市中山神社)
皇后:御間城姫(御真津比売命) ー 大彦命(孝元天皇の皇子)の娘
◎活目入彦五十狭茅尊
妃:遠津年魚眼眼妙媛 ー 紀伊国(木国=津山市)荒河戸畔の娘
◎豊鍬入姫命 ー 史実は彦太忍信の娘であった
⑵ 垂仁天皇(本拠地は岡山県美咲町大宮神社)ー 彦太忍信か
皇后:日葉酢媛命(丹波道主王の娘)
◎五十瓊敷入彦命、大足彦忍代別尊 ー この位置は屋主忍男武雄心命である
◎葛木志志見興利木田忍海部刀自(住吉大社神代記による) ー 豊鋤入姫(台与)であり神功皇后
◎倭姫命 ー 史実は孝霊天皇皇女であった
妃:迦具夜比売(かぐやひめ)。 ー 開化天皇の曾孫(ひまご)。
⑶ 景行天皇(屋主忍男武雄心命)皇居は纒向日代宮 ー 屋主忍男武雄心命か
皇后:播磨稲日大郎姫 ー 若建吉備津日子の娘 ー この位置は津山市にいた影姫であった
◎大碓命 ー 身毛津君(牟宜都国造)等祖
◎小碓命(倭建命=若日子建吉備津日子) ー この位置は武内宿禰であった
妃:迦具漏比売(かぐろひめ)。 ー 倭建命の曾孫(ひまご)。
※ 私見
 古事記によれば景行天皇には80人の御子がいたことになっている。また、古事記では「倭建命(小碓命)の曾孫(ひまご)の迦具漏比売(かぐろひめ)が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうける」とするなど矛盾があり、このことから景行天皇と倭建命との親子関係に否定的な説がある。
 また、景行天皇自身に纏わる話は全くと言ってよいほど出てこないので、景行天皇が実在した可能性は低いとする説も少なくない。

3 屋主忍男武雄心命について
 正しいと思われる史料
 「紀氏系図」では、孝元天皇皇子に彦太忍信命、その子に屋主忍雄命、その子に武内宿禰と甘美内宿禰とする。
 「日本書紀」によると、天皇は紀伊(御真木国=津山市)に行幸して神祇祭祀を行おうとしたが、占いで不吉と出たため、代わりに武雄心命が遣わされた。武雄心命が阿備柏原(津山市)にて留まり住むこと9年、その間に影媛との間に武内宿禰を儲けた。
 「古事記」では「木国造の宇豆比古の妹の山下影日売を娶って建内宿禰(武内宿禰)を生む」とある。
 「梁書倭伝」に「また卑彌呼の宗女、臺與を立てて王にした。その後、また男王が立ち、並んで中国の爵命を受けた」(復立卑彌呼宗女臺與為王 其後復立男王並受中國爵命)とある。
※ 私見
 紀国・紀伊国は木国の読みを別漢字に直したものであり、木国とはもとは岡山県津山市のことであった。
 孝元天皇・開花天皇・崇神天皇は孝霊天皇の皇子であり兄弟承継をしていた。従って、11代垂仁天皇と彦太忍信命は「いとこ」、12代景行天皇と屋主忍男武雄心命は「またいとこ」になり年代的に一致する。
 豊鋤入姫(台与)は彦太忍信の子であり12代屋主忍男武雄心大王の妹になる。武内宿禰は12代屋主忍男武雄心の子であり13代男王であった。13代武内宿禰大王は女王の叔母の豊鋤入姫(臺與)と一緒に行動していた。
 11代倭国大王は垂仁か彦太忍信かは現時点では不明であるが、「住吉大社神代記」によると、彦太忍信には葛木志志見興利木田忍海部刀自という娘がいたとする。彼女が豊鋤入姫(神功皇后)であった可能性が高い。彼女は牟賀足尼命と嶋東乃片加加奈比女の子である田乃古乃連と結婚し、古利比女、久比古、野乃古連を生んだという。神功皇后(豊鋤入姫)は倉吉市上神におり、倉吉市北面で出産したという伝承がある。倉吉市上神・北面は葛木地域にあたる。
 「梁書倭伝」にある男王は武内宿禰大王であった。豊鋤入姫の甥の武内宿禰は13代倭国大王となり、鳥取県北栄町原の元野神社に皇居をおいた。父親ほどではないが多くの御子を作った。記紀の神功皇后のモデルは豊鋤入姫命と思われるが、百済色に強く染めてあり、新羅と兄弟国であった倭の姫とはかけ離れている。百済が新羅を攻めた時のことを原古事記にあった豊鋤入姫の事績を用いて創作した物語が神功皇后ではないかと思われる。藤原氏による改ざん創作物語である。

4 迦具夜比売と迦具漏比売、大碓命と小碓命について
※ 私見
 景行天皇は106歳まで生きたのだから皇子のひ孫を「妃」と出来るかもしれない、という説があるが、不可能である。
 垂仁天皇の系譜に「迦具夜比売(かぐやひめ)は開花天皇の曾孫(ひまご)」とある。開花天皇は垂仁天皇の2代前なので、迦具夜比売は開花天皇の孫ならおかしくない。開花天皇の曾孫(ひまご)であれば迦具夜比売は景行天皇の妃がふさわしい。
 迦具夜比売と迦具漏比売は姉妹であり二人とも景行天皇の妃であったと思われる。原古事記には「開花天皇(倭建命)の曾孫(ひまご)の迦具夜比売(姉)と迦具漏比売(妹)は景行天皇の妃となって・・・」とあった。倭建命と開花天皇は同一人物であった。
 このように、古事記・日本書紀の系譜は改ざんが多い。豊鋤入姫命も倭姫命も改ざんされている。豊鋤入姫命の父は彦太忍信命であり、倭姫命の父は孝霊天皇であった。
 大碓命・小碓命の物語も大吉備津日子(崇神天皇)と若日子建吉備津日子(開花天皇)をモデルにした創作であった。小碓命(倭建命)の位置は武内宿禰でなくてはならない。
 景行天皇は実在せず、その時の倭国大王は屋主忍男武雄心命であった。

5 魏志倭人伝によると「国中が服さず、更に互いが誅殺しあった」とある。なぜ、男王に服さなかったのであろうか。
  崇神天皇、垂仁天皇の活動本拠地は岡山にあったが、皇居は鳥取県湯梨浜町(師木)に置いていた。男王の皇居は鳥取県湯梨浜町(師木)に置いていたが、都は女王倭姫命(卑弥呼)の住む志摩国であった。神道の各地の代表者は奈良の纒向に集まり倭姫命の祭祀に参加していた。倭姫命(卑弥呼)が亡くなってから景行天皇(屋主忍男武雄心命)は都を奈良の纒向に遷したが子孫を増やすことに専念しており、倭姫命のようにうまく祭祀ができなかった。倭朝廷に深く関係する一族のいた地域では失望して誅殺しあった。景行天皇(屋主忍男武雄心命)は国中が不服の状態を見過ごすことはできず倭姫命に代わる女王を立てなければならなかった。景行天皇(屋主忍男武雄心命)は妹の豊鋤入姫に誅殺しあっている地域を巡行させ、鳥取県中部(倭)に本拠地を置かせることにした。

 豊鋤入姫が巡行した本当の比定地は以下の通りであった。
(1)倭の笠縫邑(鳥取県琴浦町八橋)(2)但波の吉佐宮(京丹後市丹後町の竹野神社)(3)倭の伊豆加志本宮(鳥取県倉吉市長谷集落長谷神社)(4)木乃国奈久佐浜宮(津山市二宮の高野神社)(5)吉備国名方浜宮(倉敷市上東)(6)倭の弥和乃御室嶺上宮(鳥取県北栄町下神の三輪神社)。
 別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。
 豊鋤入姫(台与)は鳥取県北栄町下神の三輪神社で祭祀をしたあと、倉吉市鋤集落を本拠地にした。
 第13代倭国男王の武内宿禰は鳥取県北栄町原の元野神社に皇居を置いた。


第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった

2019-02-19 04:46:12 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1 13代武内宿禰大臣(大王)の皇居は鳥取県北栄町原の元野神社である。
 日本書紀・推古・蘇我馬子の葛城県の要請とその死・において、「冬十月一日、大臣馬子は、阿倍連と阿倍臣摩侶の二人に天皇に奏上させ、『葛城県は元、私の本貫であります(代々葛城氏が居り、蘇我は葛城の同族になるという考え)。その県にちなんで蘇我葛城氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜って、私が封ぜられた県といたしとうございます』といった。推古は「いま、自分は蘇我氏から出ている。馬子大臣はわが叔父である。今わが治世に、急にこの県を失ったら、後世の帝が『愚かな女が天下に君として臨んだため、ついにその県を亡ぼしてしまった』といわれ、後世に悪名を残すことになるだろう」として許されなかった」とある。
 蘇我馬子大王が「葛城県は『元』、私の本貫」と言ったのは武内宿禰大王の皇居が葛城県にあったからである。武内宿禰大王は波多八代宿禰・許勢小柄宿禰・蘇賀石河宿禰 ・平群都久宿禰 ・木角宿禰 ・葛城長江曾都毘古など有力豪族の祖を生んだ。蘇我馬子大王の始祖は三男王子の蘇賀石河宿禰であった。
 比定地としては他に海竜王神社(周辺から弥生後期、古墳前期、古墳中期の遺跡が見つかっている)があるが、「元」の神社が一番崇められているので「元」の神社に武内宿禰大王の皇居があったと思われる。祭神は今までの例により、変更されている。
  元野神社
 波多八代宿禰・許勢小柄宿禰・蘇賀石河宿禰 ・平群都久宿禰 ・木角宿禰 ・葛城長江曾都毘古はここで育った。
 すぐ下には原集落がある。
 元野神社(昭和9年鳥取県神社誌より )
 鎮座地 東伯郡大誠村大字原字東屋敷
 祭神 素戔嗚尊
 由緒 創立年代不詳。往古より荒神社と称す。当地中世以降当大字の中央なる平野山がその頂上平坦にして且つ高燥なるにより別にこの地に素神を祭りしが地の利を得たるにより、終に平野社をの氏神として崇敬するに至りたるも、この地は元より由緒ある旧蹟なるを以て、里人は元宮荒神と称し今に尊崇絶ゆることなし。然るに明治12年神社明細帳提出の際、神社登録出願脱漏せるを遺憾とし、大正11年6月20日附けを以て神社明細帳に編入方出願し大正11年11月許可せらる。

2 私見
(1) 最初の神社明細帳は明治政府に認められなかった、ということである。祭神も由緒も変えて再提出したものと思われる。
 原集落も葦原中津国を構成する集落の一つであり、素戔嗚は伊邪那岐命に根国を治めよといわれて葦原中津国で泣いたが、それだけで「尊崇絶ゆることのない地」とはならない。伊邪那岐命が禊をした原はこの原集落と思われる。
 葦原中津国を構成する集落である灘手村谷の朝日神社(祭神 素戔嗚尊 由緒 古来牛頭天王と称して・・・。)を素戔嗚が泣いた地であると比定する。伊邪那岐は素戔嗚にこの国に住んではならない、といった。素戔嗚は朝日神社で泣いて、その後伊邪那岐の言葉を守り葦原中津国に入ることはなかった(根国での冒険参照)。元野神社の祭神は書き換えられている。曲の岡神社の祭神も綏靖天皇であったのを素戔嗚に書き換えている。元野神社の地は元宮(元皇居があった)といわれ由緒ある旧蹟であった。
(2) 応神天皇は葛城長江襲津彦であり、仁徳天皇は平群木菟宿禰であった。
 13代成務天皇はおらず、13代は武内宿禰大臣(王)であった(生年月日が同じであるとするため)。
 14代仁徳天皇は武内宿禰大臣(王)の4男の平群木菟宿禰であった(生年月日が同じであるとするため)。
 4男を16代にもってくるから、13代が300年も生きたという矛盾がおきるのである。4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)は14代であった。
 応神天皇の在位期間(354年~394年)に葛城長江襲津彦は朝鮮半島に渡って美女二人を献上されている(382年)。高句麗・百済は六韜に基づいて権力者に美女を献上していた。葛城長江襲津彦は権力者であり、天皇であった。葛城長江襲津彦は応神天皇であった。
(3) 蘇我一族の祖である蘇賀石河宿禰は武内宿禰大王の3男王子として生まれた。

 葛城県は「元」蘇我馬子大王の本貫であった。北栄町原集落も葛城県(葛城山のある県)であった。葛城山(蜘ヶ家山)の麓の原集落の「元」の神社は13代武内宿禰大王の皇居があった。平群都久宿禰(14代仁徳天皇)や葛城長江曾都毘古(15代応神天皇)は武内宿禰大王の王子として原集落で育った。原集落から船で対岸の由良にも行っていた。由良の門の歌がでてくるのは仁徳天皇(古事記伝)と応神天皇(日本書紀)だけであり、二天皇だけが由良によく行っていた。それは船で行ける由良の対岸にある北栄町原集落で育ったからである。これほど一致する比定地はほかにない。

 このころ葦原中津の水深が浅くなったので、二天皇とも難波津(東郷池)に皇居を置いた。


筑紫国造磐井に賄賂を送ったのは新羅ではなく百済である

2018-08-01 14:53:22 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1  日本書紀・継体天皇・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、新羅(百済)に破られた南加羅・㖨己吞を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。新羅(百済)がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とある。

2  私見
 訂正 任那は加羅ではなく、最初から最後まで半島南西部の全羅南道にあった。
(1) 任那は新羅や倭国が中国へ渡るためまた外敵から守るために造られた国である。日本書記は原古事記にあった「百済」を「新羅」に書き換えている。百済人の創る歴史書に百済国の悪行を書くことはできないから、原古事記に「百済」と書いてあった悪行はすべて「新羅」に書き直した。
 任那とは垂仁天皇(220年~248年)が「御真津」や「御真木」と同じように「御真奴」(みまな)とするようにと言われてから任那(みまな)と言うようになった。倭奴国はもともと北九州であった。大陸からの外敵から倭国を守るのが使命であった。新羅は逃げ場のない国だから西から侵略されそうなところを守るしかなかった。それでも倭国(鳥取県中部)と交易するには、この場所がベストであった。その新羅がなぜ倭国の国司に賄賂を送り倭国の軍隊の進軍を止めさせなければならないのか。百済は任那を占領して任那日本府(541年~)と名乗った。百済は新羅にも侵略を始めていた。窮地に陥った新羅は百済の本質を見抜いていたので、百済を任那の地から排除していった。660年には百済王朝の残りも倭国に亡命する。日本書紀は倭国を乗っ取った百済が創作したものであり、原古事記に書いてあった「百済」の悪行は「新羅」に書き換えた。
(2) 原古事記・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、百済に破られた南加羅・㖨己呑を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国司磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。百済がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とあった。
 百済王朝は高句麗と同じく中国の兵法書「六韜」に基づいて行動していた。「六韜第十五文伐篇」には賄賂のことが詳しく書いてある。倭国に亡命後「六韜」に基づいて大田皇女と鸕野讃良皇女を天武天皇に贈ったのも百済士人(天智と鎌足)である。不比等も「六韜」に従い権力者を徹底的におだてた。
 日本書紀の「新羅」は、原古事記では「百済」と書いてあった。主語を百済から新羅に書き換えるだけだから簡単なことである。卑弥呼の伝承をすべて神功皇后に書き換えるのと同じことである。但し、整合性は代が替わってもいつも気を付けていた。整合しない文章は書き換えた。
 百済は高句麗の手先である。高句麗と戦争をし、負けて再び建国し、また南下した、とあるが百済は倭国に敗れ北に退散したが高句麗にはっぱをかけられ「六韜」を教えられ、再び南下した。任那を侵略するにあたって倭国の重臣磐井に賄賂を送った。その結果が磐井の乱(527年)である。
(3) 5世紀後半から6世紀前半にかけて朝鮮半島西側で百済(日本)と任那(倭国)は争っていた。任那日本府の成立(541年~)は百済(日本)が任那(倭国)を占領したことを示している。また、その時代の記紀の記述(仏教公伝など)は原古事記を大きく改ざんしたものである。百済(日本)は武力だけでなくあの手この手を使って新羅と任那(倭国)を奪おうとしていた。

3  〈参考〉 ※参考文献 『六韜・三略』 守屋 洋 著  
 「六韜」 第十五 文伐篇
 文王が呂尚にたずねた。
 文王「武力を使わないで目的を達するには、どうすればよいか」
 呂尚「それには次の12の方法が考えられます。
 第一は、相手の欲するままに要求を聞き入れてやれば、やがて驕りの心が生じ、必ずや墓穴を掘るようなことをしでかします。
 第二は、敵国の寵臣を手なずけて、君主と権力を二分させるのです。
 第三は、側近の者に賄賂を贈って、しっかりとかれらの心をとらえるのです。
 第四は、相手国の君主に珠玉を贈り美人を献じ、女に溺れて政治を忘れるように仕向けたうえ、下手に出て、相手の言いなりになって調子を合わせるのです。
 第五は、相手国の忠臣を厚遇し、君主への贈物は減らして、相手の結束に楔を打ち込むのです。
 第六は、相手国の内臣を懐柔し、外臣を離間するのです。
 第七は、相手国の野心を封じこめるために、厚く賄賂を贈って寵臣を買収し、利益で釣って職責を怠るように仕向けるのです。
 第八は、相手国の君主に重宝を贈って、わが方を信頼するようにさせ、わが方に協力させるように仕向けるのです。
 第九は、相手国の君主を褒め上げていい気持ちにさせ、手も足も出ないふりをして安心させ、政治を怠るように仕向けます。
 第十は、謙虚な態度で相手国の君主に仕えて心をつかみ、頼りになる味方だと思わせるのです。
 第十一は、相手国の有能な臣下に、内密に高い地位を約束し、重宝を贈って手なずけ、わが方に肩入れする人間を増やすのです。
 第十二は、相手国の乱臣を手なずけて君主の心を惑わし、美女や歌舞団を送って関心をそちらに向けさせるのです。
 以上の12の策をすべて試みてから武力を行使するのです。つまり、天の時、地の利を考え、これなら勝てると見極めてから、はじめて軍事行動を起すのです。

倉吉市大原(石上)と三朝町大瀬(勾金橋)に行ってきました

2018-08-01 13:44:02 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1  倉吉市大原の大原神社
 案内板には昭和9年の鳥取県神社誌にある由緒と同じことが書いてあったが、伯耆国二の宮である波波岐神社の部分は消してあった。こうして、石上神宮の名称が647年以降は二の宮の波波岐神社とされ元禄時代には大原神社とされたようである。その頃、岡山の石上布都御魂神社の宮司の名前を物部にし、血洗いの滝の伝承を作って倉吉市大原は素戔嗚と関係ないことにした。今また、伯耆国二の宮の波波岐神社であったことを消そうとしている。
 沢山の良い武器や七支刀もあったものと思われる。藤原氏たちはこの武器庫を略奪しても多くの武器を積んで人形峠までの坂を上がるのは大変であったはずである。大原は倉〇姓や倉□姓が多い。

2  倉吉市大原の大原観音堂
 
 大原観音堂は第24代仁賢天皇の石上広高宮の跡と思われる。大原観音堂に上がると集落と街道がみえる。皇居としては良い立地である。

3  大原廃寺跡
 大原廃寺跡に上がる看板の裏に志羅谷川とあった。志羅谷川は新羅谷川と読める。
 
 大原廃寺は7世紀末頃に創建された寺院跡である、とする。天武天皇の時代である。雄略天皇が呉の使いをもてなされた「石上の高抜原(第20代安康天皇の石上穴穂宮)」はこのあたりと思われる。

4  三朝町大瀬の勾金橋
 三徳川は90度くらい曲がっている。ホテルの向こうの鳥取県道21号も90度くらい曲がっている。
 第27代安閑天皇の時代もこのあたりに橋があったはずである。

5  三朝町大瀬の大宮神社

 この場所に第27代安閑天皇の勾金橋宮があったものと思われる。

第20代安康天皇の石上穴穂宮と第24代仁賢天皇の石上広高宮は倉吉市大原にあった

2018-08-01 10:56:17 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1  古事記・日本書紀の石上神宮
(1)古事記・履中「天皇は、その道から大和にのぼって、石上の神宮に難を逃れた。・・・弟君はこうして石上の神宮に参上して天皇のもとに、『仰せの通りに平定いたしましたので、ただ今、戻ってまいりました。』このように取り次がせた。」とある。
 崇神天皇の時代に十握剣は石上布都魂神社に移されていたが石(イソと読ませる)上神宮は倉吉市大原にあった。天神川の川下には江戸時代まで石(イソ)山があった。石山は海岸近くにあり磯山である。天神川の上流の倉吉市大原を石(イソ)上と言っていたはずである。
 ここに出てくる「難波」とは東郷池のことである。北山古墳より西を波延といい北山古墳より東を難波と言っていた。東郷池は大陸との直接交流があった。そのため、歴代の天皇は磯城・斯鬼(シキ)に第二の宮を置いていたようである。
(2)日本書紀・垂仁「イニシキの命は川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。よってその剣を川上部という。忍坂邑に納め、その後、忍坂から移して石上神宮に納めた。・・・」とある。
 石上神宮は倉吉市大原にあった石上神宮である。川上宮は湯梨浜町川上集落にあったと思われる。忍坂とは波関峠のある坂と思われるから忍坂邑は三朝町片柴集落と思われる。
(3)日本書紀・雄略「雄略天皇は呉人をもてなそうと思われて、群臣につぎつぎ尋ねられ、『会食者には誰が良いだろうか』といわれた。群臣は皆『根使主がよいでしょう』といった。天皇は根使主を任じられた。石上の高抜原で饗宴をされた。・・・」とある。
 安康天皇は雄略天皇の兄であり、前天皇である。雄略天皇の皇居は打吹山の長谷寺にありシキ(斯鬼)にも宮があったようだから、忍坂邑(三朝町片柴)経由で東郷池にもよく行っていたようである。その途中に大原(石上の高抜原)がある。兄の皇居のあった地(石上穴穂宮)で雄略天皇は呉人をもてなした。
(4)古事記・神武 「高倉下は夢の中で『葦原中津国はひどく騒がしくて、乱れているようだ。わが御子たちも、病を得て困り果てている。葦原中津国は汝が平定した国であるから、今度も、汝建御雷之男神が降っていくがよい。』と天照大御神が命じられましたところ『私が降ってゆきませんでも、この前に平定の役目を果たした剣がございます。これを私の代わりに降しましょう。』と答えた」とある。この剣の名は佐士布都神と言う。別名を、布都御魂と言う。この剣は石上の神宮にある。
 場所は熊野とあるが、これは後の改ざんである。最初から石上神宮は奈良にあったと思わせるためのカムフラージュである。葦原中津国は十と利権中部にあり、天孫降臨も鳥取県中部であったから、建御雷之男神が降ったのは鳥取県中部(倭国)である。

2  岡山県赤磐市の石上布都魂神社
 宮司によると、崇神天皇の御代に疫病が流行り、霊剣が備前の石上布都魂神社に在ることを知った天皇が、霊剣を大和に移されて、疫病をしずめたということであった。つまり、天理の石上(イソノカミ)神社は、この石上布都魂神社の神剣を移した先であり、この備前の石上布都魂神社の方が元ということになる。
 この「大和」とは「倭」を書き換えたものであり、奈良ではない。崇神天皇の時代の疫病は倭国(鳥取県中部)で発生しており、鳥取県西部から大田田根子を呼び、北栄町下神の三輪神社で祭祀をした。疫病を鎮めるために神剣を移したのも倭(鳥取県中部)である。天理が元か備前が元かではなく、大和は奈良ではなく鳥取県中部(倭)であった。倉吉市大原の石上神宮(現大原神社)が元であった。

3  鳥取県倉吉市大原にある大原神社の由緒 (昭和9年の鳥取県神社誌より)
 鎮座地 東伯郡西郷村大字大原字宮ノ下  現在地 鳥取県倉吉市大原619番
 祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳神、天穂日神、天津彦根神、活津彦根神、熊野樟日神、素戔鳴神、倉稲魂神、天満天神
 由緒(抜粋)
 旧記に拠れば大化三年(647)丁未九月社殿を創建した。
 元禄時代には、この社を伯耆式内六社の一つの波々岐神社なりと言っていたようである。元禄七年武内自安子の記せる「伯陽六社みちの記」に「大原の里に行き・・・二の宮の波々岐ノ神社へ先まうて奉らんといへば」とある。大原の安綱の出身もこちらである(伯耆民談記)。

4  私見
 大原神社の創建は647年とあるが、647年は蘇我入鹿(聖徳太子)が暗殺された2年後である。石上神宮は647年に波々伎神社と社名を変えられた。その時に剣一千口などを奈良に移した。大原神社の前身は波々岐ノ神社であったから、素戔嗚命が八岐大蛇退治をした後まもなく創建されているはずである。素戔嗚命が辰韓から伯耆国に着いて(紀元前210年)大国主が青年になった頃、紀元前160年頃にはあったものと思われる。ちなみに、琴浦町の伊勢神宮は天孫降臨の前に内宮と外宮ができているから、紀元前160年頃と思われる。
 今の福庭の波々伎神社は元禄時代に命名された。元禄時代までは大原神社を波々岐ノ神社と呼んでいた。倉吉市大原には「大原ほうき」と言う地名があり、櫛稲田姫が「母来ませ」と叫んだ痕跡が残っている。素戔嗚命はそのころ東山神社(倉吉市米田町)に住んでおり、対岸にある大原の石上神宮に十握剣を奉納した。
 三朝町には二か所(大瀬と助谷)櫛稲田姫が「母来ませ」と叫んだと伝承される地がある。そしてもう一か所「母来ませ」と叫んだ地が大原である。
 「血洗いの滝」は八岐大蛇伝説が伯耆国の三朝町山田であったことを隠すために元禄時代に創作されたと思われる。また、石上布都魂神社の宮司の名前は十代前(30歳で世継ぎができるとすると300年前であり元禄時代)に物部に変えられたそうである。これも藤原氏によるカムフラージュ(整合性)である。
 倉吉市大原に最初の石上神宮があった。崇神天皇の時代に岡山県赤磐市の石上布都魂神社に十握剣を移した。崇神天皇の皇居は東郷池の畔にあったが、活動拠点は岡山県津山市であったから、倉吉市大原はその途中にある。大原にあった石上神宮の十握剣を石上布都魂神社に移したとしても不思議ではない。
 伯耆大原の安綱はここの出身である(伯耆民談記)。藤原氏の常套手段として本当の場所でないところ(伯耆町大原の地名は伯耆民談記の時代はなかった)を宣伝する。

5  天神川を下った海側に石(イソ)山があった。石山より山側の倉吉市大原を石(イソ)上と言っていた。石上神宮は鳥取県倉吉市大原にあり、第20代安康天皇の石上穴穂宮と第24代仁賢天皇の石上広高宮も倉吉市大原にあった。
 

第25代武烈天皇の皇居

2018-08-01 09:23:20 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
  第25代武烈(無道な百済王の事績を日本書紀に書かれている)の泊瀬列城(なみき)宮は倉吉博物館より少し西に行ったところにあった。
 
 鳥取県神社誌に載っておらず、誰も管理していないような廃神社であるが、瓊々杵命が降臨した北栄町の大宮神社でさえ鳥取県神社誌には載っていない。雄略天皇がいた長谷寺から山道が通っている。その山道上に明治39年に大きな鎮霊神社が創建されている。また、横の通りは並木通りである。

日本書紀にある倭(鳥取県中部)王の武烈・雄略の人殺しの記述は後の藤原氏による改ざんである

2018-08-01 05:30:57 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

 伯耆国(鳥取県中西部)は人命を大事にする国であった。
1  境港で育った水木しげるが戦争で生き残ったときに言った言葉
 水木しげるは境港で育った。
 「戦時中、特に前線では人間扱いされることなんてあり得ないことでした。人間なのか動物なのか分からないほど、めちゃくちゃだった」。上官に、「よく生きて帰ってきた」と喜んでもらえると思っていたが、「みんな死んでいるからお前も死ね」と言われた。
 バイエンに派遣された分隊は武装した現地人により襲撃を受けて全滅する。しかし、水木氏は不寝番として海軍の見張り台にいたために奇跡的に助かり、必死の思いで友軍部隊にたどり着き、所属する中隊に戻ることができた。しかし、「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだんだから、おまえも死ね」と言われた。


2  岡本喜八 米子の映画監督
 岡本喜八は「日本のいちばん長い日」を東宝で発表したのち、より自らの戦争体験に近い映画を作りたいと考え、ほかの映画会社に「肉弾」の企画を持ちかける。当時の監督の思いを綴った手記には「『日本のいちばん長い日』の欠落した部分を肉弾でうめねばならぬ。私の目の前で死んだ12人の戦友もフィリピンでもくずと消えた25名の同窓生も夫々小銃弾であった。二度と小銃弾になってはならない」と書いている。
 岡本監督の後日談
 岡本は「日本のいちばん長い日」は史実に忠実なだけのドラマで、あれには庶民が出てこない。だから、「肉弾」はできるだけ庶民にくっつけて描きたかった。いちばん身近な庶民の代表は僕自身だから、ささやかだけど僕の戦争体験を通してやってみようと。庶民代表でやってみようと。「肉弾」は自分史とも言えるわけで、やれたなと思っている。戦争でいちばん響いたのは、町内の小学生時代の友達が一人も帰って来なかったっていうことである、と言っている。


3  古事記・黄泉国・において「伊邪那岐は契を解くことを妻に申しわたした。この言葉を聞いた伊邪那美命が言うには、『・・・あなたの国の人々を1日に千人ずつ絞り殺してあげましょう。』伊邪那岐命は答えって言った。『・・・私のほうは一日に千五百人の産屋を建てて、子供を産ませることにしよう。』」とある。


4  仙人(伊邪那岐命)は三千人の少年少女を求めた。
 「史記」 巻百十八 淮南衡山列伝 第五十八
  又使徐福入海求神異物。還為偽辭曰: 『臣見海中大神、言曰: 「汝西皇之使邪」 臣答曰: 「然」 「汝何求」 曰: 「願請延年益壽藥。」 神曰: 「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」 即從臣東南至蓬莱山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰: 「宜何資以獻」 海神曰: 「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」 』 秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。
 ≪訳≫  ・・・また、徐福に海に出て、不老長寿の薬を求めさせたが、帰って来て偽りの報告をした。「私は海の上で大神に会い、こう言われました。・・・『汝らは何を求めておる?』。『延命長寿の薬をお願いしたいのです』。『汝の秦王の礼物では足らぬ。とても手に入れることはできぬ』と言い、東南の蓬莱山に私を連れて行きました。・・・『何を献上すればよろしいのでしょうか』と言うと、神は『育ちのよい少年少女と、いろいろの道具に技術を献上すれば、神薬を得られよう』と言われました」始皇帝は大いに悦び、少年少女三千人に五穀の種・諸道具・技術者を与え、東方に行かせた。徐福は平原と広沢を得、そこに止まって王となり帰ることはなかった。
※ (アットランダム スモーク氏のサイトより)徐州師範学院羅其湘教授の調査より 
 「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」
 「徐」家はかっての徐王国の末裔だった。その為に始皇帝から無理難題を押しつけられたが、又そういう名家の出身だからこそ、三千人の大集団を任せられる程の信頼が備わっていたのだとする。教授達は「徐福」の家系についても調査し、彼の先祖は夏王朝の初期に「徐」に封じられた王で、子孫は代々長江、准河、泗水、済水の流域一帯に栄えたと言う。つまり「徐福」は中国屈指の名門徐王の末裔という事になる。


5  殷王朝末裔準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷と言われていた青銅器文化の一族)の祭祀
 殷王朝では、祭祀に多数の人間を生贄として捧げる神事が執り行われた。生贄とされる人はチベット系遊牧民の羌族が多く、人狩りによって捕獲され、祭祀の時に神へ捧げられた。全ての生贄は意図的に頭が切り落とされている。甲骨文字の記録によると一度の祭祀でその数が650人に達したこともあったらしい。これまでの発掘で確認された生贄の数は一万四千体に及ぶ。
※ 列島に現れた鬼・猿は人をさらった。
 (楽々福神社由緒より)孝霊天皇の皇子、大吉備津彦と若健吉備津彦と共に西道鎮撫の勅命によって当国に巡行あり。この地に悪鬼占拠して人民を鹵掠(かすめとる)せしを、遂に平定したもう。
 (伯耆誌より)第七代孝霊天皇の世、鬼住山に悪い鬼兄弟眷属が住みついて近郷近在の女子供をさらったり、食料や宝物を奪って住民を苦しめていた。
 奥能登の猿鬼伝説「毎夜あちこちの集落へ出かけては、牛馬、家畜の豚などを食い荒らす。時には、子供をさらったり、傷つけたりした。」
 そのほか、大江山の酒呑童子伝説、備中の温羅伝説、中山神社の猿伝説、高千穂の鬼八伝説など鬼の伝説は全国に多い。


6  倭軍の蝦夷の平定の仕方(皆殺しではない)
 (溝口の鬼の館より)孝霊天皇は溝口の鬼の平定後、兄の鬼を家来にして北を守らせた。
 (日本書紀・景行天皇・蝦夷の性質・日本武尊は神人・より) 願わくは深謀遠慮し、悪い心を探り、叛く意思をうかがって、時には武力を示して、懐(ナツ)くものには徳をもって対処し、兵甲(武力=武器)を使わずとも自然と従わせるようにしろ。言葉を巧みに扱い、荒々しい神を鎮め、武を振るって悪い鬼を追い払え、とある。
 (日本書紀・敏達天皇・吉備海部直難波の処罰より)蝦夷数千が辺境を犯し荒らした。これによりその首領の綾粕らを召して詔され、「思うに、お前たち蝦夷を景行天皇(孝霊天皇)の御代に討伐され、殺すべきものは殺し、許せるものは許された。今、自分は前例に従って、首領である者は殺そうと思う」とある。殺さなければならないときでも、倭王は必要最小限にとどめた。


7  私見
 水木しげるにしろ岡本喜八にしろ鳥取県西部(伯耆国)で育った。人の命を大事にする環境で育った。水木しげるは「よく死なないで帰ってきた」と喜んでもらえると思っていた。岡本喜八は伯耆国(倭国)ではない日本国の戦争を皮肉交じりに風刺した。
 史記・淮南衡山列伝において司馬遷は「為偽辭」(偽の言葉を言って)と書いているが、「偽」とは外部の者が言ったのであって、伊邪那岐命が「令名男子若振女」を求めたのは史実であったと思われる。伊邪那岐命は人口を増やしたかったのである。また徐福は斉王(斉国の王)であった。鳥取県琴浦町「斉尾」の地名は「斉王」であった。斉王の地に徐福が降臨した。琴浦町伊勢野の天照皇大神宮に天照大御神は降臨した。伊勢野と斉尾集落は隣接している。
 倭国はこのような国であったから、祭祀に生贄の風習を残していた準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷と言われていた青銅器文化の一族)とは神武天皇のときから対立していた。倭国の大王は伊邪那岐命の考えを引き継いでいたから蝦夷を平定するときも蝦夷をできるだけ殺さないようにした。倭国は人命を大事にし人口を増やすことを考えていた。その結果、天智や鎌足のような危険人物の難民まで大事にしたのである。このことより伊邪那岐命(真人)を信奉していた天武天皇が全国の牢獄が空になるほど犯罪者を恩赦した精神がわかる。
 藤原氏は倭国を乗っ取ってからは、準王一族のいたところを聖地とした。準王一族の家津美御子(熊野権現)が徐福一行の4人を手下として仕えさせていたのは、京都の藤原氏にとって愉快であった。今の日本国も藤原精神を引き継いでいるから、出雲振根、家津美御子、鬼八、の居たところを聖地にして援助している。
 倭王は人を殺すことは必要最小限にとどめた。日本書紀にある倭(鳥取県中部)王の武烈・雄略の人殺しの記述は後の藤原氏による改ざんである。
 


武烈・継体について

2018-08-01 05:16:28 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

1  武烈天皇の旧辞は百済で無道を行った末多王の旧辞である。 
 日本書紀・武烈の暴虐・3年11月・において「この月に、百済の意多郎王が亡くなった高田の岡の上に葬った。」4年「この年百済の末多王が無道を行い、民を苦しめた。国人はついに王を捨てて、嶋王を立てた。武寧王が立った。」6年冬10月「百済国が麻那王を遣わして、調をたてまつった。天皇は、百済は長く貢物を持ってこなかったことをお思いになって、王を留め置いて返さなかった。」7年夏4月「百済王が斯我君を遣わして調を奉った。別に書状を奉って『前に調を奉った使の麻那は、百済の国王の一族ではありません。故に謹んで斯我を遣わして朝廷にお仕えさせます』という。その後、子が生まれて法師君という。これが倭君の先祖である。」とある。
私見
すべてこの百済の記述の間に意図的に暴虐が挿入されている。これは亡命百済人による後世の意図的改ざん挿入である。原古事記には武烈は普通の天皇としての旧辞が書かれていた。百済で無道を行った末多王の旧辞を挿入したものと思われる。末多王の名を武烈に書き換えている。悪いことはすぐ人のせいにする藤原氏の性格がよく表れている。百済であった王の悪行を倭国の天皇がしたように書いた。皇統が途絶えて他所から来た王を立てたのも百済であった。「国人はついに王を捨てて、嶋王を立てた。武寧王が立った。」とある。「麻那は、百済の国王の一族ではありません。」とあるが、慌てていて選定に間違いがあったのか、そうでなければ嘘をついて本当の王族の麻那を取り返そうという詐言かもしれない。百済人の言うことは信用できない。子供がなかったのも末多王のことであり改ざんである。


2  継体について
 天皇家は途絶えていないから「継体」という名は改ざんされた名である。倭国には、天皇になるための予備の一族(羽田氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏など)が13代武内宿禰天皇の時代から多くいたから、途絶えることはありえない。他国から探してくる必要はない。
 日本書紀・継体の擁立・2年12月に「南の海の中の耽羅人(済州島の人)が初めて百済国に使いを送った。」とある。
 この記述は百済王家には必要であるが、倭王朝の天皇の正統性を記録する原古事記には必要ない。これ以降は亡命百済人が挿入したものと思われる。百済の文字は37回、新羅は18回。日本は6回。任那は17回使われている。ここも百済を中心とした朝鮮半島情勢が書かれている。百済王家の同時代の歴史を混入させている。これを書きたいがために、武烈・継体の旧辞も巻き込んで改ざんしたものと思われる。日本書紀の武烈・継体の条で百済王家の歴史を書き綴ろうとした。天皇の名も後の改ざんと思われる。
 継体天皇は半島で殺されたという記述が日本書紀にある。


倭の五王の時代の朝鮮半島情勢について

2018-07-31 17:20:01 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
藤原氏は百済と新羅を入れ替えているので百済と新羅を元に戻して再現しています。
1 368年、百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済にいる民人を連れて帰化したいけれども百済が邪魔をして任那から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を任那に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。
※ 私見 
 おそらく襲津彦(応神天皇)は高句麗か百済に捕らえられていたと思われる。
370年、天皇は襲津彦が帰国しないのは百済が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰と的戸田宿禰に精兵を授けて任那(慶尚南道にあった)に派遣した。百済王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に来た。
371年に倭国は高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる(三国史記)。
372年(百済か高句麗)人が新羅の一礼部に来たり、集落に放火し、千人を捕虜にして立ち去った(三国史記)。
377年(百済か高句麗)兵が新羅の沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、(百済か高句麗)軍が攻略した(三国史記)。
379年、(百済か高句麗)兵が新羅の長峯城を攻略した(三国史記)。また、新羅の沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、(百済か高句麗)に備えたという。
※ 私見
 倭国が新羅に船で行くならば、対馬海流によって新羅南部に到着する。慶尚北道を攻撃するのは倭国ではなく、百済か高句麗と思われる。
382年、倭国は沙至比跪(襲津彦)を遣わして百済を討たせようとしたが、百済は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって任那を討ってしまった。
※ 私見
 沙至比跪(襲津彦)は権力者(天皇)であったからこそ百済は六韜に従って美女二人を送った。中大兄王子と鎌足も天武天皇に美女二人を送った。この頃から391年まで新羅は高句麗に侵略されていた(三国遺事)。
391年 倭軍が百済、新羅(高句麗に占領されていた)を破り、高句麗と戦う(広開土王碑)。
393年 (百済か高句麗)が新羅に攻めてきて金城を包囲し、五日間、囲みをとかなかった。

2 好太王(広開土王)碑文(414年)
(1)日本学会の通説
 そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が391年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、倭の臣民となしてしまった。
(2)396年百済は高句麗に生口を献上している。好太王は漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた(高句麗本紀)。
(3)399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
(4)400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
(5)404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
(6)407年、高句麗は百済へ出兵して6城を奪った。
※ 私見
 倭国軍(履中天皇)は414年までに高句麗の好太王(広開土王)を現在の北朝鮮と中国の国境付近まで後退させて攻め込んでいる。中国に倭国軍が半島奥深くまで侵攻してきたことが伝わっていたはずである。これを知った中国は倭国を警戒し、高句麗と百済を倭国に対する防波堤にすることを始めた。しかし、真実は倭国は中国皇帝に対し朝貢をするためのルートを確保したいだけであった。中国は勘違いをし、その後、高句麗・百済を支援するようになった。

3 高句麗と百済は倭国よりも早く中国(宋)から将軍の称号を受けた。
(1)高句麗と百済
 413年、高句麗は、「璉為二使持節都督営州諸軍事征東将軍高句驪王・楽浪公」。
 416年、百済は「以二百済王余映一為二使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」。
 420年「進号二〔百済王〕鎮東大将軍」を受けた。
 425年、太祖詔之曰「皇帝問二使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百濟王…」
(2)倭国
 421年、詔曰「倭賛萬里修レ貢、遠誠宜甄、可レ賜レ除授。」
 425年、賛又遣二司馬曹達一、奉表献二方物。賛死。
※ 私見
 賛は中国の皇帝に将軍の位を求めたが除授されることはなかった。
(3)438年 弟珍立、遣二使貢献。 自称 二使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭國王。表求二除正。 詔レ除二 安東将軍倭國王。
珍又求レ除二-正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國将軍号。詔二並聴。
※ 私見
 珍は百済を含むことを自称したが除授されたのは百済より格下の安東将軍であった。
(4)443年、倭國王済遣二使奉獻。 復以為二安東将軍倭國王。
   451年、加二使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東将軍一如故。 并除所レ上二十三人軍、郡。 済死。 世子興遣二使貢献。
※ 私見
 済は百済を外した6国の安東将軍に除授された。
(5)462年、詔曰 「倭王世子興、奕世載レ忠、作二?外-海、稟化寧レ境、恭修二貢職。新嗣二辺業、 宜授二爵号、可二安東将軍倭國王。」
※ 私見
 興は安東将軍を除授された。6国が外されているので降格か。
(6)興死。 弟武立。 自称二使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大将軍倭國王。
※ 私見
 武は6国の安東大将軍に除授された。百済と並んで、始めて「大」を付けてもらった。
 502年、梁は倭王武に征東大将軍に進号しているが、この時倭王武はすでに亡くなっていたと思われる。
 梁の初代皇帝蕭衍は、即位早々に倭王武・百済王余大を、共に「鎮東大将軍」から「征東大将軍」に進号する。 結局、三韓地域は分割し、それぞれ倭と百済に与えることによって、互いに牽制させるのが宋の外交政策の基本で、梁もそれを継承したと思われる。

4 「宋書蛮夷伝」にある武の 478年遣使の際の上表文
(1)わが国(累代倭国王として冊封されてきたこの国)は、(中国から)はるか遠くにあって、外夷に対する天子の藩屏になっています。
 わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏み越え、席を温める暇もなく戦ってきました。東方の毛人を征すること55国、西方の衆夷を服すること66国、海を渡って北方(朝鮮半島)を平らげる95国にものぼりました。
 王道はあまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまでおよんでいます。(中国皇帝の地を都のはるか遠くに広めたの意)しかも歴代の倭王は、宗主(中国の天子)のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えることはありませんでした。
(2)私はたいへん愚かな者ではありますが、かたじけなくも先王から王位を継ぎました。
 支配下の国々を馬を駆って率い天子のもとでの秩序に従い、百済からなおはるかな道のりゆえ、いつでも出撃できるように軍船を準備しておりました。しかるに、高句麗は、道理をわきまえず半島を呑み尽くすことを欲し、辺地の民を掠め、殺害することをやめようとしません。(わが使者を天子のもとに遣わす)たびに、途中で(高句麗に)押し止められ、良風(年限を違えず朝貢する美風)を失っています。海路を進むことがあっても、あるいは通じ、あるいは通じえないありさまです。
(3)私のなき父の済は、(高句麗が)入朝の海路をふさいでいるのをいきどおり、戦備を整えた100万にものぼる兵士たちも正義の声に感激し、大挙出征しようとしていましたが、そのとき、にわかに父(済)と兄(興)とを喪い、まさに成就しようとしていた高句麗遠征の成功も水泡に帰してしまいました。(私は)諒闇(君主が服喪する部屋)にこもって、軍隊を動かせず、これゆえにいたずらに安息して、いまだに(高句麗に)勝利していません。
(4)わたしの代になって、甲を練り兵を治め、無念の中に亡くなった父兄の志を遂げようと思っています。節義ある人士も勇猛なる軍隊も、文官も武官も功を立て、白刃が眼前に交わろうとも顧みはしません。もし皇帝の四海を覆う御徳により、この強敵(高句麗)を打ち砕き、わが国難を除いて太平をもたらしていただけるならば、歴代天子への忠誠をかえることはないでしょう。
 私はひそかにみずから開府・儀同・三司を仮称し、その余(の官爵)もみな仮授して、忠節に励んでいます。

5 私見
(1) 宋書蛮夷伝の武(雄略天皇)の 478年遣使の際の上表文には「わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏み越え、席を温める暇もなく戦ってきました。東は毛人 55国を征し、西は衆夷 66国を服す。渡りては海北 95国を平ぐ云々」とあって、ヤマト朝廷の国土統一、半島遠征の状況過程を伝えている。
 また「王道はあまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまでおよんでいます。(中国皇帝の地を都のはるか遠くに広めたの意)しかも歴代の倭王は、宗主(中国の天子)のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えることはありませんでした」とある。
 始皇帝は徐福(天照大御神)に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じていた。倭国の始祖である徐福(天照大御神)は始皇帝に忠実であり、その子孫も中国皇帝に朝貢していた。
(2) 倭国は初代神武天皇の時から10代崇神天皇が国内の準王一族を平定するまで、また、15代からも高句麗・百済と戦ってきた。蘇我稲目天皇の頃まで、倭王自ら前線に立っていたようである。15代応神天皇も例外ではなく、自ら朝鮮半島に出向いて3年間百済の捕虜となっている。百済は美女二人を権力者(天皇)の葛城襲津彦に差し出しているから、すでに六韜に従って行動していたと思われる。鎌足と中大兄王子も天武天皇に美女二人を差し出している。葛城襲津彦は天皇であった。
 継体天皇の期間の倭国王は朝鮮半島で亡くなったことが日本書紀に記されているが、それから倭国は任那(全羅南道)に強力な軍隊を置き、倭王自らは前線に立たないようにしたようである。百済は六韜に基づいて行動していたから、倭国は百済を味方と思っていたようである。しかし大蛇や蜂のように牙をむき出す事があった。百済は倭国が中国に行くのに百済を通らせていたようである。しかし、旅人を犯すこともあった。六韜の12の作戦の最後は軍事行動であった。倭国は百済の六韜に基づく行動に騙され百済を味方だと思い倭国の属国であることを中国に認めさせようとしている。しかし、百済は倭国より早く、416年「鎮東将軍百済王」、420年「鎮東大将軍」、 425年「鎮東大将軍」を受けており中国から見て立派な防波堤であった。同じ年、倭王賛も将軍号を求めるが中国は倭王賛に将軍号を与えていない。中国は百済は倭国と同等あるいはそれ以上であり、倭国の傘下にはない独立国として扱っていた。
(3) 502年には梁から倭王武は百済王余大と並んで征東大将軍にそれぞれ将軍号を進められたが百済王に余大はいない。これらの進号は梁王朝の創立時の祝賀的任官と考えられる。したがってこれらの任官をもとにして武の在位期間を考えることはできない。
 倭王武(雄略天皇)の没年は何時であろうか。雄略天皇崩:甲午年(489年)という説がありこれが正しいと思われる(古事記)。
 479年は百済の三斤王の没年である。百済は、475年に滅亡しているという説があるが、百済は滅亡していない。百済は全羅南道の任那も滅ぼし、日本書紀にはその時占領した任那を任那日本府と記載した。475年に滅亡したのは新羅である。累卵の危うきにあった国は新羅であった。雄略天皇が復興したのは新羅である。雄略天皇は新羅を復興し、百済を攻撃して479年に百済の三斤王は戦死した。三斤王は日本書紀では押磐皇子として記載されており仁賢・顕宗の父であった。雄略天皇は479年に高句麗も打ち破った。慌てたのは高句麗・百済を防波堤にしていた中国である。高句麗・百済に六韜を教え軍備を整えさせて倭国を攻撃させた。清寧天皇から安康天皇までは平均在位期間が短いため倭国の数天皇は戦死している。雄略天皇は高句麗まで打ち破ったとするのがその後の歴史につながる。雄略天皇は中国に朝貢するために高句麗を打ち破ったが、中国にはそれが脅威に映った。倭国天皇は百済・高句麗のバックに中国がいることを知らなかった。百済・高句麗は北部に後退していたが、中国にはっぱをかけられ6世紀前半には百済は攻勢を仕掛けてきた。全羅南道の任那を滅ぼし、540年には新羅の法興王も殺害した。
 5世紀の倭国王の対中交渉は武の遣使を最後にして史上から姿を消した。ニッポニカによると「その理由はかならずしも明らかではないが、一つには倭国王が対中交渉の限界に気づいたことにある」とする。22代から27代までの平均在位年数は9.4年であり、短い。おそらく朝鮮半島での高句麗・百済との戦いで倭国の数天皇は命を落としたと思われる。
(4) 現在の中華人民共和国は北は蒙古自治区、ウイグル自治区、西はチベット自治区、東は北朝鮮(高句麗)などを防波堤にしている。この中国の防衛体制は、5世紀も同じであったと思われる。
 5世紀には周辺各国に将軍の称号を与えた。将軍の称号には格があり、 「鎮東」「征東」も「安東」と言葉の意味は同じだが、安→鎮→征の順にランクアップする。「将軍→大将軍」のランクアップもあるから、全部で6階級ということになる。
 502年には、高句麗に「 車騎将軍、高句驪王高雲進号二車騎大将軍」、百済に「 鎮東大将軍、百済王余大進号二征東大将軍」、宕昌に「 安西将軍、宕昌王梁弥進号二鎮西将軍」、倭に「 鎮東大将軍、倭王武進号二征東大将軍」、河南に「 鎮西将軍、河南王吐谷渾休留代進号二征西将軍」の称号を与えた。高句麗だけは別格であった。中国から近い順に強い防波堤の意味を込めて上の称号を与えたと思われる。
(5) 百済は強いほうについたようである。雄略の在位中は倭国についたようである。しかし、倭国は騙されていた。百済は雄略が亡くなってから高句麗に付き、任那への侵略を始めた。
 全羅南道における前方後円墳は5世紀末頃から6世紀前半の古墳である。日本書紀に任那日本府と書かれている時代である。540年には新羅の法興王も殺害された。その後も全羅南道に前方後円墳を造っているので、全羅南道の任那の地を再び倭国が取り戻したと思われる。
 倭王の5人とも、自称の6国の中に高句麗を入れていない。武(雄略天皇)も高句麗を強敵としているくらいだから当然と思われる。
 新羅は倭国と兄弟国であり、そのことは百済も、高句麗も、中国も知っていたから倭国の傘下に入っている。どの国も、そのことについて異論はなかった。旧唐書倭国伝には「倭国の婦人衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている」とある。

6 唐曾要(旧唐書)には倭国と日本(百済王朝)は別に書かれている。唐の時代(660年~734年)列島は二朝が並立していた。
 倭は「古の倭奴国なり。新羅(統一新羅の中心)の東南(鳥取県中部)に在り、大海(日本海)の中(対岸)で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏」とある。宋書倭国伝(倭の五王)には「倭国は高句麗(高句麗の中心)の東南、大海(日本海)の中(対岸=鳥取県中部)にあり、世々貢職を修む」とある。「義楚六帖」(954年)に「倭国、在東海(日本海)中(対岸)。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とある。秦の時代、徐福は倭国に止まった。倭国は東海(日本海)の海中(沿岸)にあった。倭国は鳥取県中部であった。
 さらに「日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て、名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。」とある。初めて「日本国からの使者」を名乗った人物は、中国から疑われた。「倭国の別種」とは、「倭国にあるが倭人の国ではない」という意味である。
 ついで「新唐書」の日本国伝にも、「咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。」とある。日本という国号は近江に逃げていた天智(豊璋)が669年に立案しているので、亡命百済王朝による遣唐使は673年までの間に行われている。

7 私見
 中国皇帝に対して倭国(鳥取県中部)王はへりくだるが日本の使者は態度が横柄であった。
(1) 雄略天皇「私はたいへん愚かな者ですが、かたじけなくも先王から王位を継ぎ、支配下の国々を馬を駆って率い、天子のもとでの秩序に従い、百済からなおはるかな道のりゆえ、航海の準備もおこたらなかったのです。」(宋書蛮夷伝)
 蘇我馬子天皇「私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。」(隋書倭国伝) 
(2) 日本からの使者は態度が横柄であった(旧唐書倭国伝日本伝)
 日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
 その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている」とある。
(3) 雄略天皇と蘇我馬子天皇の必要以上のへりくだり方は今の鳥取県中部の年配者の人柄とよく似ている。このことからも倭国は鳥取県中部にあったことが判る。
 日本からの使者の横柄な態度は公家(藤原氏)の意見によって派遣された横浜鎖港談判使節団(1864年)の池田長発の写真を見ればわかる。この日本の横柄な態度は戦前まで続いていた。国際連盟の脱退なども横柄な態度の現れであった。
(4) 徐福は中国皇帝を表面上は立てていたから、その子孫の歴代倭国王も中国皇帝に朝貢していた。中国は日本国からの使者に対し、数百年の間朝貢してきた倭国王との連続性に疑問を抱いた。「日本国と名乗り倭国と連続していない」と思ったらしいことが旧唐書倭国日本伝に現われている。日本国の使者は亡命百済人が倭国を乗っ取って日本国と名乗ったのだとは言わなかった。しかし、態度が横柄であったため、中国皇帝の理解を得ることはできなかった。
 

雄略天皇の皇居、長谷の山(打吹山)に行ってきました

2018-07-31 11:59:35 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
 案内板には「長谷寺はいつごろ建てられたかはっきりしない。縁起では養老5年(721年)に建てられた」とある。日本書紀が完成したのが720年であり、不比等が亡くなった年(720年)の翌年721年まで山上憶良はこの近くの伯耆国庁にいた。山上憶良が帰る年に長谷寺は建立されたことになっている。

1 葛城山から長谷の山の登り口までのルート
 原古事記には、「神は来目川を越えて長谷の山の登り口まで見送った」、と書いてあったはずである。日本書紀は来目川まで送ったことにした。

2 長谷寺の登り口(長谷の山の登り口)
 神は長谷の山の登り口まで見送った。
 長谷寺の登り口に中国自然歩道案内板がある。この山は「いのしし」が出る。
 途中で、火火出見命と神武天皇四兄弟がいた四王寺山(畝傍山)が見える。木がなければ全体が見える。
 打吹山の中腹にあるため登り口からかなり高いところにある。

 石段を数百段上がったところに長谷寺がある。
 長谷寺の内部です。
 

3  倉吉市打吹山
 雄略天皇が「何とも言えず美しい」といった長谷の山(打吹山)。打吹山の山体は、おもに流紋岩から成っている。この流紋岩は中生代白亜紀の火山活動によって形成された。周辺の山々の地層と独立しており、より古いものである。
 打吹天女伝説は、藤原氏によって広められたものと思われる。孝霊天皇の居た湯梨浜町宮内の下照姫伝説や崇神天皇の居た津山の中山神社の猿の伝説と同じであり、そこにいた天皇の伝承を隠すためである。

4  鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡は東郷池周辺であり、シキ(志幾・斯鬼)にある。このシキ(志幾・斯鬼)に大県主の鰹魚木をのせた家があった。雄略天皇は打吹山の長谷寺にあった皇居から東郷池周辺に来た。
 蘇我稲目天皇と同じように、雄略天皇はシキ(志幾・斯鬼)にも宮があった。

雄略天皇の皇居は鳥取県中部(伯耆国)にあった

2018-07-31 11:01:28 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
 第十二代天皇以降は伯耆国は関係ないと思っていたが、第十五代天皇や第二十一代天皇も伯耆国にいた。

1  古事記の「一言主」や日本書紀の「一事主」は原古事記にあった「事代主」を書換えたものである。
 日本書紀には「天皇は葛城山に狩りにおいでになった。突然長身の人が出現した。天皇はどちらの公でいらっしゃいますか、といわれた。背の高い人は、自分は一事主神である、といった。神は天皇を見送りされて、『来目川』までお越しになった。」とある。
 古事記には「天皇が葛城山に登った時に、やはり山に登る人々があった。向こうが答えて言うのに、私は葛城の一言主大神である、と言った。天皇が帰る時に、神は『長谷の山の登り口』のところまで見送ってくれた。」とある。
 原古事記には「事代主」と書いてあった。日本書紀では、一字を書換え、古事記では二字を書き換えた。倉吉市福庭の波波伎神社の由緒は極秘文書として藤原朝廷に提出しなかったため、諦めて記紀の事代主を一言主に書き換えたものと思われる。
 事代主は神武天皇のときから皇室に協力した神として、祀られていた。したがって、雄略天皇は恐れかしこんだ(古事記)のである。
 事代主は葛城山(蜘ヶ家山)の西の亀谷におり、国譲り後は葛城山(蜘ヶ家山)の東の福庭の奥に隠れ住んだ。生きていたら、葛城山(蜘ヶ家山)を歩いていてもおかしくない。雄略天皇は葛城山(蜘ヶ家山)で事代主の幻影を見たものと思われる。
 日本書紀では「神は葛城山(蜘ヶ家山)から来目川(国府川)までお越しになった」とある。来目川とは国府川のことである。来目川は神武天皇が論功行賞で畝傍山の西、川辺の地に大来目を居らせられた、とある「川」である。久米ヶ原の南の国府川と思われる。
 古事記では、「神は『長谷の山(打吹山)の登り口』のところまで見送ってくれた。」とある。長谷の山は倉吉市の打吹山である。打吹山の中腹に長谷寺がある。雄略天皇は「泊瀬の山は、体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は何とも言えず美しい。」と歌った(日本書紀)。「泊瀬」(日本書紀)は「長谷」(古事記)を書き替えたものである。打吹山は日本のピラミッドであると言う者がいるくらいに美しい。蜘ヶ家山(葛城山)から長谷寺の登り口(長谷の山の登り口)まで行く途中に、国府川(来目川)がある。

2  古事記・雄略・白い犬
 雄略天皇が出かけて国の中を眺望すると、屋根の上に高く鰹魚木をつけて作った家があった。雄略天皇は「あの鰹魚木をあげて屋根を作った家は、誰の家か?」と尋ねたので、側に仕えている者が「志幾の大県主の家でございます。」と答えた、とある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じであり東郷池周辺のことである。古事記・雄略・白い犬の舞台は東郷池周辺であった。

3  長瀬高浜遺跡出土の埴輪(鳥取県湯梨浜町羽合歴史民俗資料館にて) 
 左上の写真が埴輪群。右上の写真はSB40(出雲大社のモデル)で古墳時代の初めごろとしているが、この近くの天神川床遺跡から弥生土器が多く発掘されている。これは、SB40の遺構の上にあったものと解しているので、SB40(出雲大社のモデル)は弥生時代前期の遺構であると解する。
 入母屋式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃
 四注式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃

4  鳥取県文化財団調査報告書6 長瀬高浜遺跡4  第4章 研究ノート
  16K地区埴輪群について(抜粋)          清水真一
 調査して取り上げた埴輪の数は、円筒埴輪12個、朝顔型埴輪53個、蓋型埴輪9個、家型埴輪5個、盾型埴輪3個、甲冑型埴輪3個、鞆型埴輪1個、大刀型埴輪(?)1個などである。       
 家型埴輪は5個体で、四注造りのものが西側中央部端に位置し、東側には入母屋式が1棟おかれていた。この他に切妻式のものが1棟、小型の四注造りのものが1棟の他、松江市乎所埴輪窯出土の屋根に火焔状の飾りをのせたものに近い大型の家型埴輪片が1棟分あるが、破片はそう多くない。火焔状飾りをのせるもの1棟、竪魚木(かつおぎ)をのせるもの2棟がある。
 一体どんな祭りが行なわれたのであろうか。高浜遺跡を総括的にみると古墳時代前期後半(4世紀後半)~中期前半(5世紀前半)にかけて、120棟もの竪穴住居と25棟もの掘立柱建物の立っていた大集落だった。その後古墳時代中期中葉(5世紀中葉)~後期後半(6世紀後半)にかけて、前方後方墳1基を含めて古墳21基、小石棺墓・木棺墓・円筒埴輪棺墓12基の墳墓群が作られる。
 埴輪群はこの集落が移動し墳墓が築造される間、つまり古墳時代中期前半の終り頃に作られたとみられる。

5  家型埴輪は5個体で、火焔状飾りをのせるもの1棟、竪魚木(かつおぎ)をのせるもの2棟がある、とする。また、埴輪群はこの集落が移動し墳墓が築造される間、つまり古墳時代中期前半の終り(450年)頃に作られたとみられる、とする。

鳥取県北栄町米里(磐余邑)に、第17代履中天皇、第22代清寧天皇、第26代継体天皇の皇居はあるか  

2018-07-31 10:14:27 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

 磐余の地の旧名は、片居または片立という。神武天皇の時代は海抜4mに海面があったから、北栄町米里集落と島集落の地形は中央に池があり、片側に居るか、片側に立つことになる。だから、片居・片立と言っていた。奈良の磐余邑ではなぜ片居・片立といったのかの説明ができない。

1 北栄町米里集落に皇居の候補地は3ヵ所ある。一つ目は一の崎、二つ目は三の崎である。「二の崎はどこにあるのでしょう」と地元の人は言っていた。三つ目の候補地は「船渡」ではなく「大谷」である。

一の崎・三の崎は、丘陵地を囲むように民家が建っている。皇居はこの丘陵地にあった。

2 奈良の磐余邑の説明文に「履中天皇の条には、『磐余池を作る』と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。 この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間にわたって存在していたとされています」とある。
 本当の磐余池は北栄町島集落の金繰溜池であった。池上の陵は島古墳群であった。5世紀・6世紀の古墳である。履中は5世紀の天皇である。一の崎の下を大(王)町という。一の崎にいたのは履中天皇である。


 「当社は一の崎峯に鎮座のところ、此の度下大町に改め整備し遷す。一の崎・大町・氏子一同」とある。もとは、一の崎峯の丘陵地にあった。ここでも大町の大は王と読める。反対説があるが、鳥取県中部では「王」を「大」に直している。

3 こちらを「三の崎」と言っていた。三の崎にいたのは継体天皇である。

 米里字三の崎には、嶌澤神社があった。大正2年に藤原氏の神社北条八幡神社に合祀され、分らないようにされている。姥ヶ谷にはどの天皇かの皇太后がいたと思われる。

4 「船渡」

 「船渡」と言う。土下山(鳥見の白庭山=天の香久山)の登り口である。水田の下は葦の層が厚く堆積していると言う。このあたりに船が来ていたのは、天孫降臨の頃、紀元前200年頃(海抜4m)である。

5 「大谷(王谷)」

 5軒ほどしかないが、「大谷」と言う。「大谷」に三天皇のうちの一天皇が居た。在位期間の短い天皇である。大谷にいたのは清寧天皇である。
 ここも天香具山の登り口である。

6 私見
 藤原氏は米里・島集落に何もなかったように消しているが、痕跡は残っている。935年統一新羅が滅んで危険が亡くなったので、京都から来た山田氏(検非違使をしていた)は北条(北の都=条里制)山田八幡神社を創り、田村一族(高句麗出身)も連れてきている。
 日本書紀は亡命百済人によって編纂されているため、百済王家の旧事が多く盛り込まれている。古事記もそれに合わせて改ざんしている。原古事記の文章も使っているが、それは日本が倭国を乗っ取ったことを判らないようにし、万世一系の皇統であることを作り上げる必要があったからである。
 日本書紀は無道な百済王の事績を武烈王の旧事としている。武烈王には子供がなかったので他所から継体に来てもらった、という筋書きであるが、武烈も継体の旧事も百済国での出来事である。したがって、継体の名も違う名であったが、ここでは継体としておく。

 

 


三天皇が皇居を置いた磐余とは鳥取県北栄町米里集落であった

2018-07-31 09:11:02 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
 三天皇が皇居を置いた磐余とはどこであろうか

1  磐余(伊波礼)を皇居とする天皇
 履中天皇 磐余稚桜宮(伊波礼若桜宮)(北栄町米里一ノ崎)
 清寧天皇 磐余甕栗宮(伊波礼甕栗宮)(北栄町米里大谷)
 継体天皇 磐余玉穂宮(伊波礼玉穂宮)(北栄町米里三ノ崎)
 継体天皇の皇統は途切れていないから皇居を転々と移してはいない。始めから磐余玉穂宮であった。

2  日本書紀・神武天皇では
 兄猾弟猾・において「また兄磯城の軍は磐余邑にあふれた。敵の拠点はみな要害の地である。それで道は絶え塞がれて通るべきところがない。・・・椎根津彦は神意を占って言うのに、わが君がよくこの国を定められるものならば、行く道が自らひらけ、もしできないのなら、敵がきっと道を塞ぐだろう。と言い終って老人老婆のかたちで直ちに出かけた。・・・道が開け、天香具山の赤土を無事に取ってきて平瓦や、手抉、厳瓮などをつくった。」とある。
 長脛彦と金鵄・において、「磐余の地の元の名は、片居または片立という。皇軍が敵を破り、大軍が集まってその地に溢れたので磐余とした。またある人がいうのに『天皇がむかし厳瓮の供物を召上げられ、出陣して西片を討たれた。このとき磯城の八十タケルがそこに屯聚み(兵を集めて)した。天皇軍と大いに戦ったがついに滅ぼされた。それで名付けて磐余邑という』と」とある。

3  私見
 神武天皇が青銅器文化の一族を攻めて、皇軍があふれたから磐余(伊波礼)という、とある。これは、鳥取県中部に帰ってきてからの事柄だから、磐余は鳥取県中部にあった。天香具山は北栄町の土下山に比定したが、この山に上がるには北栄町米里集落を通らなければならない。
 天忍穂耳が国譲りの交渉に葦原中津国に降臨しようとしたときには葦原中津国は騒がしかった。この時すでに準王一族(天孫族に遅れること16年)は葦原中津国と豊葦原瑞穂国(磐余邑)に到着していたと思われる。大国主の兄である八十神は準王一族(出雲神族)と思われる(千賊山の案内板より)。大国主と準王一族(出雲神族)は葦原中津国と豊葦原瑞穂国(磐余邑)に一緒に住んでいた。饒速日命は長髄彦の妹と結婚し土下山(トミの白庭山=アメの香久山)に住んでいた。土下山(トミの白庭山=アメの香久山)の周辺には準王一族(出雲神族)がいたはずである。四王寺山(畝傍山)と土下山(トミの白庭山=アメの香久山)とは近いが棲み分けていたと思われる。準王一族(兄磯城)は国譲りで事代主と一緒に天神川の東に退いていたが神武天皇の時代になって土下山(トミの白庭山=アメの香久山)に帰って来ていたと思われる。準王一族(兄磯城)は神武四兄弟が留守の間に土下山(トミの白庭山=アメの香久山)周辺を占拠していた。
 青銅器文化の一族の兄磯城の八十タケルが米里集落に集まっていた。米里集落から銅鐸が発掘されている。当時米里集落の中央部は汽水池になっていたから「片立」であり「片居」であった。皇軍は米里集落の北の伊那佐山(茶臼山)に籠城していた。長髄彦は中洲(笠沙之御前の柄)の豪雄と呼ばれていた。青銅器文化の一族の兄磯城の八十タケルは天皇軍と戦ったがついに滅ぼされた。「不入岡」の地名は準王一族(出雲神族)に対する警告としてこの頃に付けられたと思われる。
 
 
 

日本書紀14代天皇から27代天皇までの概略

2018-07-31 06:05:22 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

1 仁徳と履中の期間は倭の五王讃一人であった。
 原古事記には仁徳天皇と履中天皇の在位期間の間に一人の天皇が記載されていた。この天皇を仮に讃天皇とすると、この天皇は応神天皇の王子であり、反正天皇の兄であり、皇居は磐余の稚桜宮にあった。古事記・日本書紀では14代天皇を創作したために、実在した14代仁徳天皇を16代にしなければならなかった。15代応神天皇は百済にとって大事な天皇であったので動かすことはしなかった。仁徳天皇は応神天皇の兄であるので普通は応神天皇の前である。仁徳天皇は14代、履中天皇は16代であった。
 このように解すると、倭の五王の讃(履中天皇)は394年から436年までの在位(宋書倭国伝)となり、珍の兄であり、皇居は磐余邑(北栄町米里)にあったことになり、矛盾がなくなる。また、武内宿禰が仁徳天皇(武内宿禰の皇子)に仕えたとしても武内宿禰の年齢が220歳~360歳になることはない。日本書紀の仁徳天皇と履中天皇の期間は一人の天皇であり、倭の五王の讃であり、履中天皇であった。


2 反正は倭の五王珍に比定されるが、改ざんされている。
 古事記によると反正の在位期間は432年~437年(5年間)であるが、宋書倭国伝の讃の没年は436年であり、珍の元年は436年となる。古事記の反正は437年没となる。
 反正は実在であろうが、淡路島(藤原氏の聖地)で生まれ(日本書記)、身の丈は9尺2寸半(約二・八メートル)(古事記)、都は河内であり、讃の没年は436年(宋書倭国伝)が反正の没年437年(古事記)で在位1年、などは改ざんされていると思われる。原古事記にあった珍天皇は普通の身の丈であり在位は5年間とすると436年~441年の5年間であり、皇居は鳥取県中部(倭国)にあったはずである。


3 倭の五王済に比定される允恭も改ざんされている。日本書紀の在位は42年間としているが、宋書倭国伝では在位441年頃~454年の14年間である。允恭も応神天皇の王子としている(日本書紀)からは在位14年位が妥当である。日本書紀には皇居の記載はない。古事記には遠飛鳥の宮殿とある。稗田阿礼は場所を表現するのに特定しやすい表現をしているので、遠飛鳥の宮は稗田阿礼の表現ではない。日本書紀・衣通郎姫で藤原が6回使われている。藤原氏の祖は藤原鎌足(644年~)である。衣通郎姫の部分は百済(藤)王家の旧辞であると思われる。


4 倭の五王興に比定される安康天皇の在位は454年~467年頃(私見)で13年位である。日本書紀では3年で殺されている。古事記に在位期間を示すものはない。雄略天皇を凶暴な天皇にするために安康天皇は早い段階で殺されたことにした。実際は13年くらいと思われる。


5 倭の五王武に比定される雄略天皇は安康天皇の弟である。この点は「宋書」夷蛮伝と同じである。古事記では489年没とする。雄略天皇の在位は467年頃(私見)~489年と思われる。
 不比等たちは百済王家であった出来事を日本書紀の中に書き入れた。億計・弘計の発見物語もそのひとつである。そのために、雄略天皇の性格を凶暴にする必要があった。古事記・安康天皇の馬飼い牛飼いの話はその前段である。古事記における雄略はそれほど凶暴ではない。凶暴に描かれているのは日本書紀である。多くの人を殺したことにしている。


6 弘計・億計2王の発見物語は典型的な貴種流離譚であって、そのまま史実としては信じ難い。弘計・億計の話は百済国での出来事であり、亡命百済人たちは百済王家の歴史として、日本書紀に書き込んでいった。弟の弘計・兄の億計の話は列島には実在せず、2天皇の在位期間(15年)は、原古事記では倉吉市大原の石上広高宮を皇居とする1人の天皇が記録されていたはずである。
 百済人の山上「憶良」は侍医の百済人「憶仁」の子であるので、「億計」の名は百済人の名が連想される。顕宗天皇の近飛鳥八釣宮は架空の宮である。


7 第23代、第24代、第25代、第26代天皇は百済王家の王であり事績も百済であった出来事である。
 弘計や億計の話は百済国であった出来事である。億計の名前は亡命百済人の医師憶仁や山上憶良を連想させる。神楽歌における囃し言葉を「おけおけ」という。祭りの中でも神楽のようなにぎやかな祭りは百済発祥である。逆に盆正月のような静かな祭りは新羅発祥である。弘計や億計の話は列島の地名をちりばめて、列島を舞台にした。その父を殺した雄略天皇を残虐な天皇にする必要があった。
 雄略の旧辞は証明できる部分があるので、原古事記にあった旧辞を使っている。ただし、一言主は事代主と書いてあったのを改ざんしている。雄略は実在の倭国天皇(倭王武)である。雄略も倭国の天皇なので、無駄な殺生はしない天皇であった。わずかなことで人を殺すような天皇に仕立て上げたのは、藤原氏である。
 藤原氏は無道な百済王(末多王)の事績を日本書紀の武烈の旧辞に持ってきている。武烈(末多王)のような事績を無道と言うのである。百済の国人は末多王を捨てて、武寧王を立てた。継体のモデルは武寧王と思われる。
 23代天皇~26代天皇の旧辞と名は百済王の旧辞と名である。日本書紀第23代第24代の期間、倭国では1人の天皇であった。石上広高宮(倉吉市大原)に皇居があった1人の天皇の在位期間を2人に分けた。


8 宣化天皇はおらず蘇我稲目天皇(536年即位)であった。
 第28代宣化のときにはすでに蘇我稲目が天皇(大王)であった。日本書紀・宣化・那津官家の整備・において、詔して「・・・・。蘇我大臣(大王)稲目宿禰は、尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の籾を運ばせよ。・・・・早く郡県に下令して、私の心を知らしめよ」と仰せられた、とある。大臣とあるが詔したのは蘇我稲目天皇(大王)であると思われ、すでに天皇(大王)であった。


9 雄略天皇は在位467年~489年と思われるので489年(雄略天皇没)から536年(蘇我稲目天皇即位)までの47年の間に5人の天皇が即位している。一人平均9.4年であり、短い。これはそれまで倭国天皇は戦争の最前線に立つことが習わしであったので、半島で戦死したと思われる。ただ、蘇我氏からはその習わしを変えたようである。


10 おそらく、反正(在位436年~441年)、允恭(在位441年頃~454年)安康(在位454年~467年頃)は、高句麗・百済との戦いで戦死し新羅は累卵の危うきにあった。雄略天皇が復興した国は百済ではなく、新羅である。反正、允恭、安康は高句麗・百済にさんざんに負けており、戦死したのかもしれない(宋書蛮夷伝・武の上表文より)。百済は新羅を滅ぼし、新羅から倭国まで船で来て襲ったのかもしれない。長瀬高浜遺跡の多くの埴輪が壊されたのも5世紀中頃であるし、つづらさわまきの鉄刀と一緒に見つかった女性が亡くなったのも5世紀中頃である。反正、允恭に至っては名前もおかしいし、亡命百済王朝(日本)によって皇居の所在地のヒントも残らないくらい自由奔放に書かれているので高句麗・百済によって完膚無き迄にやられたと思われる。亡命百済王朝(日本)はその時の倭国天皇を覚えているので完全に書き換えたと思われる。


第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった

2018-07-30 15:02:26 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1  日本書紀・応神・弓月君・阿直岐・王仁・において「大和の軽の坂上の厩」を倉吉市馬場町に比定したが、応神天皇の皇居の軽島之明宮は何処であったか。
 軽と言いながら、島がついているので、天香具山を越えた北栄町島と迷っていたが、北栄町島は蘇我馬子の磐余池辺雙槻宮があったことがほぼ確実であるので応神天皇の軽島之明宮は北栄町島ではない。

2 小田、古川沢の交差点にて
 まっすぐ行くと、坂(軽の坂)がある。その坂の上(山側)に倉吉市馬場町(軽の坂上の厩)がある。反対側(海側)には穴窪集落がある。

3  鳥取県中部の空撮
 軽の坂上の厩は倉吉市馬場町にあった。応神天皇の原古事記の旧辞において、馬に関することは百済ではなく、新羅と書いてあった。その時の応神天皇の皇居はどこにあったのだろうか。

4 軽島之明宮は倉吉市穴窪集落かもしれない。第4代・第8代の居た小田集落の北になるが、南に軽之坂があるし北側も軽地域と思われるので軽島之明宮は倉吉市穴窪の可能性がある。
 海抜4mに海面があった時代(紀元前200年頃)、穴窪集落は島であったと推測される。「島之明」が意味するところは「以前は島であったがその後(354年頃)陸地になった」を意味するものと思われる。現在は穴窪とその周辺との高低差がないが、その時(354年頃)はまだ周辺との高低差はあったはずである。しかし、その後、明暦3年(1657年)に、石山を取り除き、天神川の流れを北に真っすぐに変えるまで、何度も洪水による土砂が北条平野を埋めていった。その都度、穴窪集落と周辺の高低差がなくなっていったものと思われる。 
 現在、海抜4mに海面があった地形を見ても軽の地域に島が見いだせない。穴窪の周辺は度重なる洪水で高くなって、高低差がなくなっている。洪水がなければ穴窪集落の周辺は青い水の表示となり、島が現れたものと思われる。 

5 穴窪神社の祭神は譽田別尊(応神天皇)だけである。
 由緒などは明治維新に改ざんさせられているのですべてを信用することはできないが、明治維新までは「正八幡宮と称していた」というのは信用できるかもしれない。
 また、「維新の際焼尽し」とあるが「藤原氏(明治政府)の威圧で維新の際、焼尽させられた」のではないだろうか。伯耆国では時の権力によって維新前に神社調査なるものが行われている。伯耆国がうるさかった(怒る)理由はここ(神社調査後の結果)にもあった。
 神功皇后や仲哀が祭神になっていない点も軽島之明宮の有力候補である。