「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

伊邪那岐が禊をした「阿波岐原」とはどこか

2018-06-15 19:27:54 | 黄泉比良坂

 古事記口語訳
1 「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」は北栄町原集落である。

 黄泉平坂は不入岡(イザ原遺跡)から始まる。伊邪那岐と伊邪那美は三貴神を迎えるために葦原中つ国を整備していた。孝元天皇と倭健命は大島で伊邪那岐と伊邪那美を祀った。伊邪那岐と伊邪那美は大島にいたはずである。天照大御神は灘手神社にいた。素戔嗚命は谷の朝日神社で泣いた。「筑紫の日向」は天孫が降臨した鳥取県北栄町の葦原中津国と思われる。葦原中津国を構成する集落に原集落がある。原は瀬戸を対岸にして葦原中津国の入口(小門)にあたる。「橘」とは葦原中津国の水面部分が橘の花に似ていたから例えたものと思われる。黄泉平坂は上神集落から原集落に行く道も想定される。その周辺に遺跡が多く見つかっている。遺跡報告書でも古代はこちらが幹線道路であったのではないかとする。縄文晩期では蜘ヶ家山を通って原集落に行く道路があったものと思われる。葦原中津国の水が引くまでは蜘ヶ家山を通る道が黄泉平坂であったものと思われる。「小門」とは津の入口のことを意味するのであろう。伊邪那岐が伊邪那美から逃げてすぐに禊をしたのは、鳥取県北栄町原集落と思われる。蜘ヶ家山の海竜王神社に辰韓から来た綿津身神と住吉神がいたものと思われる。
 さて禊ぎをしようとしたが、「上流は水の流れが激しすぎる。しかし下流は穏やかすぎる」と言って、中流付近に降りて水に入ったとき、始めに生まれた神の名を八十禍津日神、次に大禍津日神という。この二柱の神は、あの穢れの多い国に行った時の穢れから生まれたのである。次にその禍(まが)を直そうとして生まれた神の名は神直毘神、次に大直毘神、伊豆能賣神という。(合わせて三柱)。次に水底で身を洗ったときに生まれた神の名は底津綿津見神、次に底筒之男命という。中程で身を洗ったときに生まれた神の名は中津綿津見神、次に中筒之男命という。水面で身を洗ったときに生まれた神の名は上津綿津見神、次に上筒之男命という。
 これらの神は伊邪那岐が黄泉国から逃げて禊をしたときに生まれた神である。
2 私見
 伊邪那岐が黄泉平坂から逃げて着いたあわき原は北栄町の原集落である。原集落で禊をし、蜘ヶ家山の海竜王神社で綿津身神と住吉神に出会い、灘手神社で天照大御神と出会い、灘手地区谷の朝日神社で素戔嗚と出会った。どちらも、葦原中津国にある。月読命は葦原中津国にいた保食神を殺し保食神になった。伊邪那岐は葦原中津国の原集落で禊をしているときに3貴神と出会った。
 「あの穢れの多い国」とは黄泉国(倉吉)のことである。


黄泉平坂は鳥取県道23号線であることは遺跡分布より明らかである

2018-06-15 01:27:03 | 黄泉比良坂
 
 鳥取県は奈良県とどちらが多いかと言われるほど遺跡が多い。その中でも鳥取県中部は遺跡の密集地である。分布図を載せますのでご覧になってください。島古墳群は39である。線で囲んであるのは古墳群である。右の向山古墳群で500以上の古墳がある。

1  クズマ遺跡第2次発掘調査報告書より
蜘ヶ家山と四王寺山に挟まれた上神地区周辺(黄泉平坂)は、倉吉市でも有数の遺跡が密集する地域である。上神51号墳墳丘盛土で細石刃石核が出土するなど、その始まりは旧石器時代に及ぶことが明らかになっている。縄文時代では、取木遺跡の竪穴式住居・平地式住居と焼石群(101)、イキス遺跡の落し穴(100)などが、弥生時代前期ではイキス遺跡の土墳墓群(100)が知られる。弥生時代中期では、西前遺跡(70)A地区で竪穴式住居が確認されている。弥生時代後期以降、遺跡の数は増加する。

2  私見
 黄泉平坂はイザ原遺跡(75)あたりから始まる。鳥取県道23号線は蜘ヶ家山(葛城山)と四王寺山(畝傍山)に挟まれた上神地区周辺を通る。伊邪那美が伊邪那岐を追いかけたのは縄文晩期である。素戔嗚が大国主を追いかけたのは弥生前期である。縄文晩期は取木遺跡の竪穴式住居・平地式住居と焼石群(101)、イキス遺跡の落し穴(100)などが、弥生時代前期ではイキス遺跡の土墳墓群(100)が存在していた。遺跡の分布状態より黄泉比良坂は上神より蜘ヶ家山を通り北栄町原に達していたものと思われる。

3  師木(東郷池周辺)の遺跡分布
 東郷池周辺(師木)は大陸からの使節を迎えるため、歴代天皇は一ノ宮か二ノ宮をシキの宮として東郷池周辺(シキ)に置いていた。東郷池周辺は宮の比定地が多いためどの天皇の宮か特定することは難しい。

黄泉比良坂について『古事記』は、その場所を「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)という」と書いているが  

2018-06-14 15:55:56 | 黄泉比良坂
   黄泉比良坂について『古事記』は、その場所を「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)という」と書いているが
 この文章はのちに付け加えられているという説がある。藤原氏がのちに付け加えた可能性が高い。
 根堅洲国は倉吉、葦原中津国は北栄町大島の周辺であることが明らかになったので、黄泉比良坂は倉吉と北栄町の間になければならない。
 それは県道151号線(倉吉ー東伯線)か県道23号線(倉吉ー由良線)か。
 151号線は四王寺山の前を通り、琴浦町伊勢野に通じているため、倉吉の賀茂皇大神宮にいた天武天皇が伊勢野の天照皇大神宮に行くのに造られた幹線道路だと思われる。伊邪那岐・伊邪那美や素戔嗚・大国主が通るほど古いものだとは思われない。
 県道23号線は難読地名である不入岡(フニオカ)や上神(カズワ)の横を通っているし、なだらかな坂になっている。
 もし、黄泉比良坂を特定せよ、と言われたら、県道23号線と思われる。
 なお「黄泉比良坂」とは、「黄泉(黄泉国)と津(葦原中津国)とを結ぶ平坂線」というような意味と思います。
 写真を撮ってきましたのでご覧になってください。
 向こうが倉吉(黄泉国)でこの辺りから緩やかに坂が始まる。道の向こうは上神集落である。
 黄泉比良坂の一番高いところから倉吉(黄泉国)方面を見る。
 倉吉(黄泉国)方面より坂の一番高いところを見る。
 ここからは、葦原中津国まで下りの始まりである。
 北面(キタモ)までは坂と言えないほど平坦である。
 倉吉(黄泉国)方面からなだらかに降りてくる。
 ここの坂が少し急である。
 左の先に見えるのが葦原中津国を構成する穴沢集落である。古事記で坂本と言っているのは、坂の向こう側の集落か。あるいは完全に降り切ったところにある穴沢集落のことであろうか。
 伊邪那美はハンセン病にかかっており、打吹山の近くにハンセン病患者の収容場所(洞窟のような)があった。これはある方の説であるが、このように考えるのが正しいのではないかと思います。そこには、監守が多くいた。
 ベン・ハーという映画を見ましたが、ベン・ハーの母と妹がどこに隔離されていたか思い出されます。入口の広い洞窟でした。
 後記ー遺跡発掘報告書は、遺跡の分布状況から、古代は上神から蜘ヶ家山を通り島集落に至る道路が幹線道路だったのではないか、とする。

「その謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ」について

2018-06-14 05:47:19 | 黄泉比良坂


 これは、太安万侶の書きかたと全く違っています。後の世の人が挿入した文章です。(田村誠一氏)
 理由は以下の通りです。
 稗田阿礼は、その土地の状況を口述しましたから、地名の無いところでは、その地名の状況を本文の中に、書き込んでいます。
 例えば、その1例が古事記に書かれている次の部分です。伊邪那伎が黄泉の国から逃げ帰ったときに、穢らわしいものを見たと禊をした場所を書いた部分です。
是以伊邪那伎大神詔。吾者到於伊那志許米志許米岐穢國而在祁理故吾者爲御身之禊而。到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而。禊祓也。
 訳は、「ここをもちて伊邪那伎大神詔りたまひしく、「吾はいなしこめしこめき穢き國に到りてありけり。故、吾は御身の禊ぎ為む。」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき。」
 古事記には、このように表現したところがいっぱいあります。当時は、どこでも地名があったわけではありません。稗田阿礼は訪れたところに地名がないときは、その辺りの様子を書きました。
私見
(1) 私の理由はそもそも出雲国という国名は何時から使われだしたのか、ということです。全国の民が出雲国を認知し始めたのは出雲国風土記(733年)が編纂されてからではなかったか。藤原氏は713年から733年の20年間出雲の国造りに励んでいた。733年頃には出雲の国造り(テーマパーク)が完成した。したがって、稗田阿礼が古事記を編纂していた時には出雲国という国名はなかった。古事記に記載されている出雲国の字は後に藤原氏が書き加えたものであろう。
 出雲風土記では、国引きをした「八束水臣津野命が『八雲立つ』といったので、八雲立つ出雲という」と書いてありますが、八束水臣津野命は謎に満ちている。そもそも、国引きという大事業をなし終えた後、どこに消えたのか。この神の鎮座する社は「出雲国風土記」に記されていない。
 素戔嗚の「八雲立つ、出雲八重垣、妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を」の歌が由縁で、国名が「出雲」となったという説もある。出雲郡出雲郷があり、この郷名から出た国名だと思うのが普通である。この国名の元となった須佐之男命が詠んだ歌は、須賀の宮のところで、出雲郡出雲郷ははるか遠くの別の場所にあるから、疑わしく思われる。『出雲郷』は現地では『あだかえ』と読んでおり、出雲の国名の起こりとするには疑問がある。
 このような考えですから、故其所神避之伊耶那美神者。葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也。(死んだ伊邪那美の神は、出雲国と伯耆国の境の比婆山に葬った)も後の創作ではないかと思っています。ないことがわかっては嘘がばれるので、藤原氏はあちこちに比定地をこしらえました。
(2) 亦名謂火之迦具土神。(火之迦具土神という神を生んだ)。因レ生此子美蕃登<此三字以音>見炙而病臥在。(この子を生んだので性器を焼かれ、病みついた)。因レ生火神。遂神避坐也。(火の神を生んだために、とうとうお隠れになった)。
 「神避坐」この字からは死んだという意味は採れない。「葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也」この文章で死んだということが連想される。ハンセン病の施設があったことがわからないようにするために、伊耶那美は死んだことにしてしまったのだと思われる。当時はまだ、伝染病の隔離施設があったというだけで、場所が特定できたのだろう。この書き換えも藤原氏だと思われる。
(3) また、紀元前200年頃にはヨミの国はあったと思われる。それを中国の黄泉という字を当てはめたのは、太安万侶であろうか。私は、これも百済史官ではないかと思います。中国文化に詳しい百済史官の書き換えだと思っています。(山上憶良は702年の遣唐使に同行して中国に行っている)。だから、黄泉(死の世界)と意味ありげな漢字にまどわされないでハンセン病の収容所はあるが普通の国であった。根堅洲国は稗田阿礼がその国の地形を表して言った造語でありヨミの国という呼び方が紀元前200年頃には通用していたものと思われる。
(4) 古事記は、712年に完成し、その後、歴史上から消えてしまいます。812年に見つかったことが「弘仁私記」に記されています。その後、又、消えてしまい。現在は真福寺本という写本が残っています。書いた人は、藤原朝臣在判で、1263年のことです。この人が書き換えた可能性もあります。
 あるいは、451年の間、藤原氏のもとに在ったのだから、藤原氏20代にわたって、「辻褄が合う(整合する)ように書き換えよ」という言い伝えがあったのかもしれない。