「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった

2020-03-19 05:27:26 | 邪馬台国・卑弥呼

台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった

​​1 魏志倭人伝の卑弥呼と台与と国史における倭姫命と豊鋤入姫命
(1) 魏志倭人伝によると「倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。鬼道に事え能く衆を惑わす」とあり「更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(また)、卑弥呼の宗女、壹與、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる」とある。
 「台与は卑弥呼の宗女」とある。宗女とは宗室(王室)の女子のことである。台与は卑弥呼の属する宗室(王室)の女子であり「王の娘」である。
 国史において豊鋤入姫命は崇神天皇の皇女とされる。豊鋤入姫命は台与(トヨ)と発音も似ているので、魏志倭人伝の台与(トヨ)と思われる。卑弥呼も宗室(王室)の女子と思われる。卑弥呼は倭国大乱の時代の天皇の皇女(王の娘)であった。
 倭国大乱(146年~189年)後に女王となった卑弥呼の父は孝霊天皇(120年~211年)と思われる。孝霊天皇は鳥取県西部で鬼(出雲族)と戦っていた。孝霊天皇の皇女で卑弥呼にふさわしいのは倭迹迹日百襲媛命である。
(2) 日本書紀・垂仁天皇には「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着く」とある。また、倭姫命世記は「天照大神は豊鋤入姫命を御杖代として各地を巡幸していたが、豊鋤入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命に交代した。倭国、彌和乃御室嶺上宮までは豊鋤入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸した」とする。
(3) 台与を豊鋤入姫命とし卑弥呼を倭姫命に比定すると、国史と魏志倭人伝とは順番が違う。どちらが正しいだろうか。
 疑問や矛盾の多い国史より魏志倭人伝のほうが正しいと解すべきである。国史では「豊鋤入姫命は崇神天皇の皇女」とするが、これは倭国を乗っ取った藤原氏による系譜の改ざんである。
 倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。しかし、伊勢神宮ができた由来とするには説得力がない。何を言っているのかわからない。「天照大神が高天原から見た国に行きたい」では理由にならない。伊勢神宮でなければならない理由が書かれていない。倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命の巡行の次に、豊鋤入姫命の巡行では伊勢神宮に行きつくことはできない。「天照大神が高天原から見た国に行かせる巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行が必要であり、そのあと、宇陀から始まる倭姫命の巡行、としなければならなかった。伊勢神宮ができた由来を創作するために、目的も時代も違う巡行を整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。
(4) 倭姫命の巡行目的と豊鋤入姫命の巡行目的は違っていた。史実は「2世紀、倭姫命と倭建命の全国の準王一族(出雲神族)の平定が済んでから、倭朝廷と神戸にいた倭姫命(卑弥呼)が相談して奈良の纒向で神道の祭祀をすると決めて、倭姫命(卑弥呼)の安全な居所を探すために巡行し志摩国を都と定めた。3世紀、倭姫命(卑弥呼)が亡くなってから豊鋤入姫命(台与)は倭朝廷に深く関係する一族の倭姫命(卑弥呼)が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行をした」であった。2人の巡行は別の時代のそれぞれ違う目的の巡行であった。
 豊鋤入姫命が巡行した本当の巡行地は、倭国の笠縫邑は「鳥取県琴浦町八橋」であり、但波乃吉佐宮は「京丹後市丹後町の竹野神社」であり、倭国の伊豆加志本宮は「倉吉市長谷集落の長谷神社」であり、木乃国の奈久佐濱宮は「津山市二宮の高野神社」であり、吉備国の名方濱宮は「倉敷市上東」であり、倭国の彌和乃御室嶺上宮は「鳥取県北栄町下神の三輪神社」であった(別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参考されたし)。鳥取県中部(倭国)が都であったから、但波乃吉佐宮(竹野神社)と木乃国奈久佐濱宮(津山市二宮高野神社)と吉備国名方濱宮(倉敷市上東)は都であった鳥取県中部(倭国)をとりまく周辺地域である。魏志倭人伝にある千余人が誅殺し合ったのもこれら6地域であった。彼らは倭朝廷に深く関係する一族であり、卑弥呼(倭姫命)が亡くなった失望により誅殺し合っていた。
(5) 孝霊天皇は鳥取県西部に残る楽々福神社の由緒、日野郡誌、溝口の鬼伝説などにより実在した天皇であり、鬼(準王一族=出雲神族)と戦った。孝霊天皇(120年~211年)は倭国大乱(146年~189年)の時代の天皇である。
 鳥取県日光村の山田神社にいた孝霊天皇に「笹の葉を積み上げて南風が吹くのを待て」と告げた天津神は隣りの吉原神社にいた稚日女命であり、稚日女命は「神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた」孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命であった。志摩国一之宮の伊射波神社の祭神の稚日女命(倭迹迹日百襲姫命)と志摩国に神界を定めた倭姫命は同一神であった(別稿「倭姫命は『迹々日百襲』を省略された倭迹々日百襲姫命であった」を参照されたし)。
 卑弥呼は宋女(王の娘)であった。孝霊天皇と卑弥呼は共に倭国大乱の時期を生きており、卑弥呼(日皇女)は孝霊天皇の宋女(王の娘)の倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)であった。
(6) 全国を巡行して社を建て、準王一族(出雲神族)の銅鐸祭祀を道教の神道に変えさせる巡行は倭姫命がした。「倭姫命世記」は全国の平定後、倭王朝と倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)が相談して奈良の纒向で全国の代表を集めて神道(鬼道)の祭祀をすると決めてから、倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)の安全な居所を探すために、巡行した記録である。全国の準王一族(出雲神族)の平定は倭国大乱の間(146年~189年)に終わっている。全国の平定は台与の先代の卑弥呼がなしたことであり、台与は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行をした。
 倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)は倭建命(若日子建吉備津日子命)と一緒に全国を平定しているから時代は倭国大乱の時代であり、倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)は卑弥呼であった。
(7) 崇神天皇は全国を平定し、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と尊敬さているので、魏志倭人伝に言う信頼されない「男王」ではない。また、崇神天皇は90歳くらい(卑弥呼が亡くなる248年で)まで天皇であったとは思われない。卑弥呼が亡くなるまでに垂仁天皇に譲位していた。垂仁天皇の在位は崇神天皇から生前譲位を受けて卑弥呼が亡くなる248年頃までであった。卑弥呼が亡くなった後の「男王」は垂仁天皇の次の景行天皇であった。豊鋤入姫命(台与)は景行天皇(男王)の妹であった。
 豊鋤入姫命(台与)は倭朝廷に深く関係する一族の倭姫命(卑弥呼)が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行をした。豊鋤入姫命(台与)は崇神天皇や垂仁天皇の妹ではない。日本書紀は景行天皇の妹を倭姫命とするが、原古事記では景行天皇の妹は豊鋤入姫命であった。
(8) 原古事記には「孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛命(倭姫命)」とあり、「垂仁天皇の皇女、豊鋤入姫命」とあった。藤原氏は、本来、垂仁天皇の皇女であった豊鋤入姫命を崇神天皇の皇女とし、本来、孝霊天皇の皇女であった倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)を垂仁天皇の皇女とした。その動機は、伊勢神宮を創建したもっともらしい由来(鎌倉時代に執筆された神道五部書)を創らなければならなかったからである。
 倭姫命も豊鋤入姫命も欠史8代の皇女なり妹とすることは不比等の思いに反することになる。のちの藤原氏は崇神天皇も垂仁天皇も欠史8代ではないのでこの2天皇を利用した。
 ただし、景行天皇は架空の天皇であり、倭国12代大王は倭国13代大王武内宿禰の父の屋主忍男武雄心命であった(別稿「豊鋤入姫命(台与)は都を鳥取県中部(倭)に戻した」を参照されたし)。

2 海部氏勘注系図も豊鋤入姫命を先とし倭姫命を後にしている。
(1)6世孫 
大倭姫、宇那比姫命、亦名、天造日女命、一伝、竹野姫命、亦伝、大海靈姫命、亦伝、日女命云々
(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 
妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神
(3)10世孫 
妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命
(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)
妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命
※ 私見
 海部氏勘注系図には11世孫の妹として日女命またの名「小豊姫命」とある。この「小豊姫命」を魏志倭人伝の台与(トヨ)とする説がある。さらに、11世孫の妹の日女命は、亦名として、稚日女命、倭姫命とも記されている。私は稚日女命、倭姫命を卑弥呼とするが、勘注系図では小豊姫命(台与?)のまたの名として稚日女命、倭姫命が書かれている。しかし、さらに、またの名として玉依姫命、日神荒魂命、豊受姫命、活玉依姫、倭国香姫、倉稲魂命が記載されている。玉依姫命は神武天皇の母親である。日神荒魂命は天照大神の別名である。豊受姫命は瓊々杵命と一緒に降臨した姫である。活玉依姫は大物主と結婚した姫である。倭国香姫は倭迹迹日百襲媛命の母親である。倉稲魂命は私見では豊受姫に比定している。
 これがみな同一人物ですか。「そんな馬鹿な」ですよ。これは見る者を混乱させるために記載したものと思われる。籠神社の宮司は、「主祭神は717年までは火火出見命であったがわけあって彦火明命に変えている」という。717年は日本書紀の編纂中である。「わけあって」とは藤原氏による生きるか死ぬかの威圧であった。今の海部氏勘注系図が書かれたのは日本書紀の編纂中である。日本書紀に合うように書かかされている。正しい系図が藤原氏の手に渡ったら書き直せと言われるに決まっている。従わなければ殺される。だから見る者を混乱させて書き直せと言われない書き方をした。日本書紀の順序に合っているから藤原氏の検閲をパスした。
 日本書紀は「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された」とする。勘注系図では10世孫の妹に「豊鋤入姫命」の名が見え11世孫の妹に「倭姫命」の名が見える。「豊鋤入姫命」が先で「倭姫命」が後という順序は日本書紀に合っている。しかし本当は「倭姫命」が先で、「豊鋤入姫命」が後であり別々の巡行であった。本当の系譜は、「倭姫命」が9世孫(孝元天皇)の妹であり、「豊鋤入姫命」は13世孫(景行天皇)の妹であった。本来13世孫の妹の豊鋤入姫命を10世孫の妹に持ってきて、本来9世孫の妹の倭姫命を11世孫の妹に持ってきた。これで順序は逆になる。
 6世孫に大倭姫があるが、13世孫の妹の大倭姫命と10世孫の妹の大倭姫命との関係を見破った藤原氏に書き直すように言われ、13世孫の妹の大倭姫命を消してありもしない6世孫の大倭姫を書き加えたと思われる。
 勘注系図はこれ以上深入りすべきではない。ありもしない神名に惑わされ泥沼にはまり込む。

 

 

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鳥取県は東アジアからの移民を受け入れる玄関口であった。列島の王もここに居た。

2020-03-08 05:36:56 | 天孫降臨

 鳥取県は東アジアからの移民を受け入れる玄関口であった。列島の王もここに居た。

 邇邇芸命の「この地は 韓国に向きて、笠沙の御前を真来通りて  朝日の直刺す国 夕日の日照る国なり」について

1 「韓国に向きて」とは
 「韓国」とは朝鮮半島にある韓国(新羅)のことである。
 韓国(新羅)から人力船で出港すると海流(リマン海流と対馬海流)に流されて鳥取県に到着する。渡来人は葦原中津国(橘)や、東郷池(難波津)や、青谷(上寺地遺跡)や、湖山池や但馬にも到着していた。鳥取県は海流(リマン海流と対馬海流)の流れによって韓国に向いていた。

 伊邪那岐(大神)は人口を増やしたかったので徐福(天照大神)に多くの少年少女を連れてくるように言った。天照大神や素戔嗚やその子の大国主も祖神(伊邪那岐)の遺志を受け継ぎ、列島の人口を増やすことを考えていた。天武天皇の頃まで倭朝廷は祖神(伊邪那岐)を祀っていたので、列島の人口を増やすことが第一であった。天照大神(徐福)の時から列島の国造りをするために水田稲作を広めて、常世の国(ベトナムや雲南や広州や長江流域)より、先進技術を持った人々を列島に入植させていたが、多くは朝鮮半島(韓国)経由で鳥取県に渡来していた。したがって、邇邇芸命が降臨したときには祖神(伊邪那岐)の遺志を受け継いだ天孫族の事業(人口を増やすこと)にとって韓国(新羅)は非常に大事な国であった。


 葦原中津国(橘)にも、韓国(辰韓)からの船がひんぱんに来港していた。大国主のあと邇邇芸命も父の天忍穂耳(大物主)を手伝って国造りをしていた。

2 国立科学博物館の世界各地の古代人のDNA分析の第一人者である篠田謙一副館長は青谷上寺地遺跡から出土した32体の人骨のDNA分析をした。

 篠田氏は「国際都市の場合、こういう出方をする」と言った。青谷上寺地遺跡のそのほかの遺物より、韓半島(新羅)から直接青谷に渡来していることが判った。慶州の古墳は円墳であり、鳥取県中部の古墳も円墳である。
 青谷で亡くなった32名の出身地は東アジアの広範な地域から韓国(新羅)を出港し海流に乗って鳥取県の青谷に上陸したことが解かった。縄文人のDNAが多少混ざっているのは、渡来してから数代経っているからである。

 青谷は国際都市であった。

3 「笠沙之御前を真来(巻き)通りて」について
 

 韓国(辰韓)からの船がひんぱんに来港していたから、主語は韓国(辰韓)からの船である。

4 鳥取県中部は国際都市であり、都であった。
 青谷の手前にある東郷池(師木津=柏)や葦原中津国(御真津=橘)にも東アジアの広範な地域から多くの渡来人が訪れていたことは容易に察しがつく。
 「義楚六帖」・「一切経」・「大正新脩大蔵経」などに記載されている「倭国在東海中」とは「倭国は日本海沿岸にある」ことを意味している。新羅の慶州の古墳は円墳であり鳥取県中部の古墳も97%(全体で2395基)は円墳である。青谷上寺地遺跡の殺傷痕のある多数の人骨は倭国大乱の痕跡であった。倭国とは笠沙之御前(北条砂丘)や葦原中津国(橘)のあった鳥取県中部(青谷も含む)のことであった。
 弓月君の民も韓国(辰韓)経由で鳥取県中部に渡来し上陸していた。弓月君の民の渡来ルートは百済から北部九州ではない。百済から出港した場合、新羅は止めることができない。新羅から出港して鳥取県中部のルートなら新羅に行くまでに百済は止めることができる。藤原氏はここでも原古事記にあった新羅と百済を入れ替えている。応神天皇(葛城襲津彦)の皇居は笠沙之御前の手前の以前は島であった軽島之明宮(倉吉市穴窪)にあった。

5 渡来人はなぜ九州上陸を避けたのであろうか。
 納豆の起源は中国雲南省という説がある。少彦名も雲南省あたりから渡来して国造りを手伝っていた。神祇志料(明治6年)に「・・・大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」とする。大神山(岳)は私見では北栄町の茶臼山(久米郡大神郷の山)であるが、少彦名は鳥取県中西部(伯耆国)に住んでいた。少彦名は北栄町の茶臼山から常世国に帰った。常世国とは揚子江上流の雲南省あたりであった。
 「神武の兄の御毛沼命は常世国に行った」と古事記にあるが、何のために常世国(雲南省)に行ったのだろうか。それは、それまで九州に上陸する渡来ルートを変更させるためであったと思われる。
 人口を減らす一族(蝦夷・鬼八)が九州にいた(吉野ヶ里遺跡はその中心地であった)ので、蝦夷・鬼八を平定するために神武4兄弟は九州に向かい、九州の蝦夷・鬼八を平定した。九州の福岡県・佐賀県・鹿児島県で出土した紀元前100年頃の鉄鏃は神武4兄弟が放った鉄鏃と思われる。
 神武の兄の御毛沼命は常世国まで行き、渡来ルートを変更させた。それ以来、渡来人は半島の新羅を経由して日本海(東海)沿岸に渡来するようになった。

6 以下を記述したときは、NASAから資料提供をうけたドイツの「洪水マップ」の存在を知らず、勘に頼っていた。「洪水マップ」を使うと、海抜4mで笠沙之御前(北条砂丘)が現れる。
 北栄町大島を中心とする葦原中津国の前は北条砂丘(鳥取砂丘の次に広い砂丘)が広がっており、東園・西園集落に海抜10m~20m位の長い砂丘地があり、当時はこの砂丘地が笠形であった(今は造成されて、あちこち崩されている)。東園・西園集落は葦原中津国の入口(橘の小門=瀬戸集落と原集落の間)を出た真北にあり笠沙之御前(北条砂丘)の西側に位置する。
 東園・西園集落の東にある松神集落(松神神社の祭神は木花咲耶姫)で木花咲耶姫は瓊々杵命(下神集落の三輪山に来ていた日向御子)に求婚された。

 東園の砂丘地。ここで海抜15mくらい。
 「笠沙之御前を真来(巻き)通りて」とは、海と葦原中津国の湾とをつなぐ入口が東園・西園集落の高い砂丘地(笠沙之御前)を回らねば、船で入って来れなかった。そのような位置に東園・西園集落の高い砂丘地(笠沙之御前)は今でもなっている。「韓国からの船が笠沙之御前を真来(巻き)通りて入ってきた」ということである。

 西園の砂丘地。ここで海抜20mくらい。

 
 
 
 
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