「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

高天原=蒜山、天孫降臨地=伯耆国説

2018-06-30 03:21:53 | 天孫降臨

佐竹淳如氏、田村誠一氏、vetty氏の高天原=蒜山説
古事記・日本書紀の高天原は岡山県真庭市の蒜山である、とする。
 
田村誠一氏、vetty氏の天孫降臨地=伯耆国説
瓊々杵命は蒜山から鳥取県北栄町の高千穂(大宮神社)に降臨した、とする。
 
1  宮崎県の高千穂を訪れた人は疑問に思われるそうである。出雲の地で国を譲りましょうといわれて、なぜ譲られた地が出雲から遠く離れた宮崎県なのか。建御名方命は国譲りに際して、なぜ出雲の国に逃げずに長野まで逃げたのか。事代主命は譲った国から魚釣りに出かけていて、帰ることが出来ずに、美保関の海に姿を隠した。なぜ出雲の国に帰らなかったのか。

2 瓊々杵命は国譲りで蒜山の加茂神社から犬挟峠を越えて関金の矢送神社に降臨した。瓊々杵命の降臨には五伴緒は随伴しなかった。五伴緒は天照大御神・月読命・饒速日とともに鏡ヶ成からすでに降臨していた。幼少の瓊々杵命は矢送神社から上福田(楯縫神社)に移り、百八十神が成長するのを待って上種(大宮神社)に御所を築いた。北栄町の大宮(上種)以前(矢送神社、楯縫神社)はやまかげの場所ばかりで葦原中津国を「日当たりの良い地である」と言ったのはもっともである。地元の者は瓊々杵命に日向の御子というあだ名を付けた。
 高天原(蒜山高原)から降りてきた天孫に譲られた国、天孫降臨の地は鳥取県中部であった。瓊々杵命のお供の者も北栄町の大宮を中心に自然な距離に祭られている(天児屋根命は穂波神社に祭られていた)。天照大御神は方見神社に、天太玉命は中尾神社に、石凝姥命は倉坂神社に、天手力雄命は神郷神社に、天鈿女命は長瀬神社にまつられている。木花之佐久夜毘売も瓊々杵命のおられた大宮神社と同じ丘陵(クシフルタケ)の少し下ったところにある亀谷神社に祭られています。行き来するのに自然な距離です。また産屋があったと思われる由良(等由良の由良)の高江神社は隣の丘陵地にあります(木花之佐久夜毘売を祭る子安神社)。

3 天孫族には産屋の習慣がありました。川ひとつ挟んだ隣の丘に産屋をこしらえて、そこでお産をし、一ヶ月はそこですごす。木花之佐久夜毘売は身の潔白を証明するために産屋に火を放ってお産をしたそうです。また、古事記には豊玉姫は産屋を作るのが間に合わなかったため、その子の名前は鵜草葺不合という名前になった、とある(但し、鵜草葺不合も火火出見のあだ名であるので産屋が間に合わなかったのは木花之佐久夜毘売のお産と思われる)。このように、天孫降臨の地は産屋の仕来たりのあるところでなくてはならないのですが、九州沿岸にはこの仕来たりはないそうです。日本海沿岸にはつい最近までこの仕来たりが残っていたそうです。

4 瓊々杵命は高千穂に立たれて「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、と古事記には書かれている。「韓国に向かい」で論争になったが、対馬海流にのると朝鮮半島からは流されるように鳥取県や丹後半島に着きますよと、とらえればよい。
 北条砂丘にはハングル文字のゴミが多く漂着する。また、北朝鮮のミサイルの部品が湯梨浜町(鳥取県中部)に流れ着いた。笠沙之御前とは北条砂丘のことであった。北条砂丘は海抜4mに海面があった地形を見ると笠型の砂丘となる。後方に葦原中津国が確認できる。葦原中津国の前に笠沙之御前があるとするのが定説である。位置もピタリと付合する。このような場所は全国のどこにもない。その葦原中津国も瓊々杵命、木花佐久耶姫、天児屋根によって平定された状態も確認できる。
海抜4mに海面があった(紀元前200年頃)鳥取県中部(倭国)の地形

 道の駅大栄にある看板。今でも半島からの密航者がいる。
笠沙之御前は北条砂丘であった。ここを巻くように韓国からの船が通ってきた。当時は海岸線が4m高く北栄町の北条砂丘が津の前にあり、それを巻くように入ってくれば天然の良港(津)があった。今でも葦が茂っており葦原中津国である。「朝日は直にさし、夕日は日照る」地である。
大宮神社(ニニギ命の御所があった所)に直に射す朝日。
※ 上種第1遺跡発掘調査報告書より
大宮神社周辺から弥生時代後期から古墳時代中期にかけての住居跡46棟が発掘された。

 大宮神社を取り巻くように建てられていたことが判る。弥生時代後期だから崇神天皇(在位188年~220年)は全国の由緒のある地に社を創建していったその一社である。ここは邇邇芸が降臨した場所として神社が創建された。
 葦原中津国より見た夕日。夕日の日照る国。 
 北栄町の下神の北側には大物主(天忍穂耳)のいた三輪山があった。今は崩されて丘だけとなり三輪神社跡の石碑が残るのみであるが、三輪神社には大物主(天忍穂耳)が祭られていた。三輪神社は宝暦三年(1753年)、大日本史の改ざん中であり、京都の藤原氏によって放火され焼失したと思われる。瓊々杵命(日向御子)は北栄町下種の大宮神社から父のいた北栄町下神の三輪山に何度も来ていたはずである。隣の松神神社には神阿多都比売(木花之佐久夜毘売)がまつられている。

5 白村江の戦で敗れた亡命百済王朝は奈良の飛鳥から近江の大津に移り(667年)、王族は宮崎県に逃げていた。天武天皇は藤原鎌足を殺害してから鎌足の3人の子供に罪はないとして不比等ら3人を引き取った。11歳の不比等は父鎌足(翹岐)に教えられたとおり、六韜に基づいて天武天皇やその部下を徹底的におだてた。不比等のおだてを見ていた周囲の者は不比等が毒殺の犯人だとは気が付かなかった。誰を毒殺するかは豊璋(天智)の娘の持統と相談した。
 日本書紀の編さんをしたのは不比等の息のかかった百済系史官である。藤原不比等は列島に百済国(箕子朝鮮)を再興したかったのである。 倭国は716年に亡命百済人2世の山上憶良(親倭派)を伯耆国の国司(国庁は倉吉市国府)とした。山上憶良は好きな万葉の歌一首をつくることもせず、調査に専念している。その後日本書紀は720年に発表されその年に藤原不比等も亡くなった。翌721年に山上憶良は朝廷へ帰った。5年後の726年、長屋王暗殺の邪魔になるとして筑前の国司として九州に左遷された。729年、長屋王暗殺。734年、倭国(鳥取県中部)にいた34代天皇(大王)を暗殺し、倭国を乗っ取った。

6 因幡国と伯耆国の神社の祭神を見ると、因幡国は古事記による神名が多いのに反し、伯耆国は日本書紀による神名が多い(鳥取県神社誌昭和9年刊)。伯耆国では明治維新前に神社調査なるものが行われている。日本書紀を編さんした一族の子孫は伯耆国神社の祭神名を日本書紀の神名に書き換えさせた。明治政府も藤原氏であった。藤原氏の支配は現在も続いている。
 北栄町下種・茶屋条の西の丘の上にある大宮神社(祭神 瓊々杵命)は鳥取県神社誌には載っていない。大正2年に合併という名のもとに消されている。現在の大宮神社は造りは新しいが、下種・茶屋条の住民はずっと昔からこの場所にあって管理してきたそうである。大宮神社は地元住民によっていまでも維持管理されている。中央の藤原政権も住民の記憶までは消すことが出来なかった。

7 やすみししわご大君の食国は倭も此処も同じとぞ思ふ -大伴 旅人
(私見)大伴 旅人のいう倭とは鳥取県中部のことであり、此処とは倭奴国(北九州)のことである。

8 父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より 成りてし人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み 蟾蜍の さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 山上 憶良
※ 訳 
 父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、モチにかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれもと思いのままにしようというのか、そうゆくものではあるまいよ。
※ 私見
 山上憶良は亡命百済人によるクーデターを知ってこの歌を作った。大君とは鳥取県中部(倭国)にいた天皇のことである。山上憶良(親倭派)は鳥取県中部(倭国)から奈良に帰って、後の聖武天皇の教育係もやっているが、このときはまだ長屋親王が亡くなる前であり、大君とは元正ではなく鳥取県中部(倭国)にいた34代天皇のことである。奈良の危険性に気づき長屋親王だけを奈良に行かせ大君(穂積天皇の次の第34代天皇)は鳥取県中部(倭国)に居た。この天皇のことは、続日本紀には記されていない。
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丹後の籠神社と新井崎神社に行ってきました

2018-06-29 11:35:07 | 伊勢野の天照皇大神宮

1  彦火明命を祀る籠神社です。
 
 火火出見と天之日矛は籠神社と深く関係している。前漢鏡と後漢鏡は但馬国を建国した天之日矛が籠神社に奉納したものと思われる。

2 丹後の籠神社の祭神の彦火明命は本来火火出見であった。
(1)先代旧事本紀は、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、亦の名を天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という」とする。
(2) 『消された大王ニギハヤヒの謎』の著者、神一行氏は、海部宮司の言葉を、その著書の中で「『籠神社』の主祭神の火明命には、いくつかの別名がありますが、籠神社にとってもっとも重要な別名は、彦火火出見尊です。籠神社は、養老元年(717)までは、主祭神として、火火出見尊を祀っていましたが、その後はわけあって、『海部氏本紀』の始祖・火明命として祀っております。」とある。これは、火明は、本来「火火出見」であったということである。
(3) 私見
 特選神名牒における松山市の国津比古命神社の祭神は櫛玉饒速日尊であり天照国照彦天火明が付いていない。本来天照国照彦天火明と櫛玉饒速日尊とは別神であり、一つにされたのは後世である。
 丹後周辺は浦島太郎伝説があり、山幸彦(火火出見)と関係が深い土地柄である。山幸彦(火火出見)なら海神とも関係が深く、海部宮司のいうように「彦火明命は本来彦火火出見尊であった」というのは信用できる。
 丹後の籠神社に火火出見と天之日矛は来たが天照大神と饒速日は来ていない。

3  徐福が上陸したという伊根町の新井崎神社です。
 
 説明板によると、神社の創建は長徳四年(998年)。場所は今の愛宕さんの付近だったが前を通る船に異変が続いたため、神意に逆らうとして現在のところに移し、南向きを東向きに変え建てられたという。
 徐福上陸の地とあるが、丹後に上陸したのは全国に30ほどある徐福伝説の地と同じく、徐福の部下と思われる。

4 「火」のつく神は木花佐久耶姫が燃やした産屋から出てきたので「火」の字を付けられた。「火」のつく神は本来、木花佐久耶姫の御子である。木花佐久耶姫の御子でない「火」に関係のない神に「火」がついているのは藤原氏による改ざんと思われる。
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倉阪神社、神郷神社、神田神社に行ってきました

2018-06-29 06:04:13 | 伊勢野の天照皇大神宮
1  鳥取県琴浦町倉坂の倉阪神社(祭神、石凝姥命・事代主命・素戔嗚命・稚産霊命・大山祇命・豊櫛命)です。
 
 
2  鳥取県琴浦町大杉の神郷神社(祭神、大物主命・猿田彦命・手力男命・素戔嗚命・大山祇命・金山彦命・大日孁貴命・稚産霊命・豊櫛命)です。
 
 

 倉阪神社と神郷神社の祭神である「豊櫛命」は古事記にある「天石門別の神」である。古事記には「天石門別の神は、一名櫛石窓の神、また豊石窓の神とも言い、御門の神である」とある。豊石窓の神と櫛石窓の神の一字づつを採り「豊櫛命」とした。こうしないと、藤原氏の検閲を通らないからである。


3 鳥取県倉吉市関金町の神田神社(祭神、天照日大御神・天忍穂耳命・日子番能邇邇芸命・日子穂穂手見命・鸕鷀草葺不合命)である。鸕鷀草葺不合は日子穂穂手見のあだ名である。これも天照大神が徐福であったことを隠すための方法の一つであった。ウガヤフキアエズ朝が72代続いたとする藤原氏の創作がある。
 また、神田神社は鏡ヶ成から降りてきた饒速日たち大勢のコース上にはあるが、犬挟峠から降りてきた四歳の邇邇芸のコース上にはない。神田神社の祭神は邇邇芸ではなく饒速日であった。

 
4 天孫(饒速日と邇邇芸)降臨よりも天照大神と月読命の降臨のほうが重要である。天孫降臨を古事記に記載するなら、天照大神と月読命の降臨がまっ先に記載されていなければならない。天照大神と月読命が琴浦町伊勢野と琴浦町槻下に降臨したことは倭国歴史書原本には書いてあったはずである。それを現在の伊勢国風土記や伊勢神宮の神道五部書を制作するために消している。

5 饒速日たち大勢は江府町下蚊屋に集まり鏡ヶ成から野添経由で神田神社に降りてきた。神田神社から天照大神のグループと饒速日のグループに別れた。天照大神は琴浦町の方見郷にいた建御名方に国譲りを要求し、武御雷と経津主を派遣し由良川で対峙させた。
 饒速日のグループは日吉神社から船に乗り、倉吉市の清熊稲荷神社の峰に到着した。そこで素戔嗚と出会った。天忍穂耳と猿田彦は素戔嗚から大国主が一人になったので国造りに協力してやってほしいと頼まれた。饒速日は10種の神宝を素戔嗚からもらった。天忍穂耳と猿田彦は船で北栄町の茶臼山の東の内海に至り、猿田彦は鏡で光らせて大国主に会った。
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天孫降臨五伴緒の一人 玉祖命について

2018-06-28 11:27:32 | 伊勢野の天照皇大神宮

 今回、長瀬高浜遺跡を調べて分かったことは、天孫降臨で天孫と一緒に降臨した五伴緒の一人である玉祖命がどこにも行かず長瀬高浜で玉を作っていたのではないか、ということです。玉祖命は伯耆国のどの神社にも祀られていないため、長い間判らないままにしていました。
 五伴緒とは
1. 天兒屋根命、---占いと祝詞を上げる。   伯耆国の神社で22社に祀られている。
2. 布刀玉命、(天太玉命)---占いと祝詞を上げるおよび諸々の準備。  伯耆国の神社で6社に祀られている。
3. 天宇受賣命、(天鈿女尊)---舞踊。  伯耆国の神社で11社に祀られている。
4. 伊斯許理度賣命 -- 鏡を作る。  伯耆国の倉坂神社に祀られている。
5. 玉祖命 ------玉を作る。  伯耆国の神社の祭神にない。
である。
 長瀬高浜遺跡からは弥生時代前期の玉作り工房跡4棟、住居跡2棟が見つかっています。
1. 玉の材料を全国から集めるのには、海岸近くが有利であること。
2. また天忍穂耳が天神川を降りてきたときに、砂でできた小さな嶋が天神川の河口にあることを知っていて降臨のさいに指示したと思われること。
3. ここで作られた管玉など玉類の制作技術は全国で玉作りの工房跡が見つかると、比較されるほど出来がよいこと。
4. 年代が弥生時代前期(第1次の降臨は紀元前185年ごろ)と確定していること。
以上により、玉祖命は長瀬高浜で玉作りをしており、亡くなるまでこの地から移動しなかったと思われる。

 湯梨浜町羽合歴史民俗資料館にて
 長瀬高浜遺跡で見つかった勾玉などの玉の飾り。
 管玉の制作過程を示している。
 「当時の玉作り技術の最先端をいくものだったと思われます。2200年前(紀元前200年)の人々の首には、ここで作られた淡い緑の管玉が輝いていたことでしょう」と書いている。
 
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天太玉命と和久産巣日命は実際に中尾集落に住んでいた

2018-06-28 05:43:23 | 伊勢野の天照皇大神宮

1 天孫降臨は鳥取県中部で行われ五伴緒の一人である天太玉命は中尾神社(祭神、天太玉命・和久産巣日命、伊勢崎村大字中尾鎮座)に居たとしていたが、鳥取県文化財団中尾第一遺跡発掘調査報告書(2004年)にも縄文晩期と弥生前期の遺構・遺物の発掘が記載されている。方見神社の祭神になっているのは大正2年に合併されたからである。
 天孫降臨、大国主の国譲りは縄文晩期から弥生前期頃に行われたはずであるから、天太玉命が降りたった中尾で縄文晩期と弥生前期の遺構・遺物が発掘されなければならないが、それが発掘された。中尾本村より少し離れたC1地区とC2地区でのみ発掘された。

2  中尾第一遺跡発掘調査報告書 (2004年鳥取県教育文化財団)
 C 1区の調査  
 検出した遺構は、掘立柱建物l棟、土坑7基、落し穴18基、溝2条で、時期は縄文時代から中世の可能性のあるものがあり、時期幅がある。出土遺物は、縄文時代から近世にかけての土器、石器、陶磁器、土製品、漆器などが出土した。かなりの時期幅があるが、縄文時代晩期終末期~弥生時代前期、古墳時代中期のものが主体をなす。
 遺構に伴わない遺物 縄文時代から近世にかけての遺物がコンテナ5箱分出土した。調査の概要で触れたように出土遺物は、縄文時代晩期終末期~弥生時代前期、古墳時代中期のものが主体をなし、出土地点は調査区南側に集中する傾向がみられた。縄文時代晩期終末期~弥生時代前期(157~175)当該期の遺物はすべて粗製土器であり、器面調整は内外面ともにナデ調整が施される。弥生時代前期(176~186) 176は壷の口縁部で横走沈線を2条めぐらす。
 C2区の調査 
 近世の耕作土やクロボクからは縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器、陶磁器、石器が出土している。なお、遺構の検出は漸移層で、行った。確認された遺構のうち、弥生時代の土坑墓群には墓壌の内部に石を配するもの、上面に石を配するものなどが確認されており注目される。
 竪穴住居2  遺物は底面からやや浮いた状態で縄文時代晩期の土器266~275、黒曜石の剥片S23・24、員による穿孔のある自然石S25、石鍬S 26・27が出土している。
 土坑墓6
 第5層からは弥生土器の細片がわずかに出土している。遺物から時期の特定はし難いが、弥生時代前期の範障に収まるものと考えられる。

3  私見
(1) 今回発掘されたのは中尾集落の外側のほんの一部であり、より中尾集落に近いところではより多く発掘されるものと推測される。
 ここと同時に玉祖命が降りたった長瀬高浜遺跡でも、縄文晩期と弥生前期の遺物が見つかっている。また、伊邪那岐・伊邪那美と素戔嗚が降り立った泊瀬(長谷)の松ヶ坪遺跡でも縄文晩期と弥生前期の遺物が見つかっている。弥生時代前期は紀元前200年~紀元前100年(土器編年による)。
 月下(槻下)の外宮の度会に行った豊宇氣毘賣命の母親である和久産巣日命は、天太玉命と一緒に中尾に居た。豊宇氣毘賣命は母親のいる中尾集落に住み、500mほど離れた槻下に仕事(食事作り?)に行っていたのかもしれない。猿田彦は天太玉命・豊宇氣毘賣命・和久産巣日命を槻下や中尾集落にお連れした。
(2) 中尾集落の写真
 中尾神社の祭神は、天太玉命と和久産巣日命である。山陰道の上から撮影した。この道路の工事中に中尾第一遺跡C区で縄文晩期と弥生前期の遺構・遺物が発掘された。
(3) 斎尾(斎王)廃寺は、白村江の戦いに勝利したことを天武天皇が記念して建立したものと思われる。過去数百年前から、この地から朝鮮半島・中国へ行くルートが出来上がっていた。天武天皇が伯耆国出身であることを知っていたから、奈良時代に土佐の池田王が天照皇大神宮を頼ってきたのである。天武天皇は天照大御神の子孫であると持統に言っていた。法隆寺と同じ伽藍配置の斎尾(斎王)廃寺は、後に藤原朝廷によって破壊された。
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斎尾廃寺と法隆寺は同じ豪族(蘇我氏)が建てたものである

2018-06-27 05:53:23 | 伊勢野の天照皇大神宮

1 南原千軒遺跡報告書(平成16年)より
 古代 
 現在県内では22ヶ所の古代寺院が見つかっているが、初期の仏教文化の姿を最もよく残し、山陰では唯一の国特別史跡に指定されている斎尾廃寺は、県内の古代寺院の多くが法起寺式伽藍配置を採用するのに対し、法隆寺式伽藍配置を採っている。
 塑像片・仏頭・鴟尾・鬼瓦の他、創建期の軒丸瓦には紀寺式、軒平瓦に法隆寺式系統のものが出土し、山陰・山陽では数少ない瓦当文様をもち、畿内と結びつきの深い有力豪族が斎尾廃寺周辺で勢力を持っていたと推察される。
 大高野遺跡では、総柱礎石建物群が検出されており、正倉(郷倉)と考えられ、郡衙推定地もその周辺に比定されている。その周辺の伊勢野遺跡、水溜り・駕籠据場遺跡、森藤遺跡群では、掘立柱建物を中心とする集落が見つかっている。
 斎尾廃寺の伽藍配置。
 法隆寺の伽藍配置。

2 私見
 県内では22ヶ所の古代寺院が見つかっているが、斎尾廃寺は、県内の古代寺院の多くが法起寺式伽藍配置を採用するのに対し、法隆寺式伽藍配置を採っている。
 670年以降に法隆寺を再建した豪族と白鳳時代(650年~710年)に斎尾廃寺を建てた豪族は同じ一族と思われる。「南原千軒遺跡発掘報告書」にある「斎尾廃寺周辺で勢力を持っていた畿内と結びつきの深い有力豪族」とは蘇我氏であった。斎尾廃寺の東方4kmの北栄町由良に聖徳太子(蘇我入鹿大王=蘇我善徳大王)の総本家があった。
蘇我善徳大王の皇子の天武天皇も斎尾廃寺の東方4kmの北栄町由良の出身であった(別稿「聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった」を参照されたし)
 蜘ヶ家山(葛城山)から由良も含め加勢陀川の東岸まで東西7kmにわたっての地域が葛城であった。百済の人質として、由良で育てられた中大兄王子(豊璋)は葛城皇子と自称していた。天武天皇は天照大神が最初に高天原(蒜山高原)から降りてきた琴浦町伊勢野の東方4kmの北栄町由良の出身であった。由良遺跡の時代は4世紀末ごろから奈良時代までの連続した複合遺跡であり、半径500mの広い台地上のクロボクを取り除き、きれいに整地して建物を建てている(由良遺跡発掘調査報告書より)。
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槻下(月下)集落と斎尾(斎王)廃寺に行ってきました

2018-06-27 03:55:21 | 伊勢野の天照皇大神宮
槻下(月下)神社の社叢。
 先に見えるのが槻下(月下)本村。
 
斎尾(斎王)廃寺の案内板。
 「槻下」は「月下」であり、「斎尾」は「斎王」であった。藤原氏は日本書紀と同じように原漢字の読みと同じ読みの別の漢字に書き換えている。徐福は斎王(斎の国の王)であった。
 建立時期は白鳳時代(650年~710年)であるがいつ廃寺になったかは判らない。白村江の戦いや藤原京・平城京(奈良朝)の成立と関係ありそうである。
 斎尾(斎王)廃寺の塔址から伊勢野方面を見る。右先に見えるのは、伊勢崎地区コミュニティー施設である。施設の下は池があるが、もとは堤である。この辺りには水田稲作に必要な小型の堤が多い。
 周辺には伊勢野遺跡がある。伊勢崎小学校跡地も見えます。
 斉尾廃寺の仏頭はおおらかな表情である。奈良の山田寺の仏頭もおおらかな表情である。
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方見神社の由緒にある「外宮の月下の宮」に居たのは月読命(保食神)である

2018-06-26 18:38:39 | 伊勢野の天照皇大神宮

 

1 月読命(保食神)は伊邪那岐が北栄町原集落で禊ぎをしているときに出会った三貴神(天照大神・月読命・須佐之男)の一人であり、北栄町大島で伊邪那岐に「夜の食国を治めよ」と命じられた。天照大神は饒速日の降臨のときに伊勢野(鳥取県琴浦町)に月読命は外宮の槻下(鳥取県琴浦町)に降臨した。邇邇芸の降臨のときには伊勢神宮は鳥取県琴浦町にすでに存在していた。

2 伊邪那美からは稚産霊が生まれた。稚産霊は豊受姫(饒速日と同じく江府町江尾神社の祭神)を生んだ。豊受姫と稚産霊は饒速日と一緒に鳥取県中部に降臨して幼い天香語山の世話をしていたが、饒速日が亡くなり4歳で邇邇芸が降臨してきたので幼い邇邇芸の世話をしていた。
 猿田彦は邇邇芸を亀谷丘陵(日向)にお連れしてから、豊受姫と稚産霊を天太玉とともに琴浦町の伊勢野(伊勢)にお連れした。稚産霊と天太玉は琴浦町中尾集落の神社の祭神になっている。稚産霊と天太玉は琴浦町中尾集落に行った(中尾遺跡発掘調査報告書より)。豊受姫は月読命のいる外宮の月下(琴浦町槻下集落)の宮の度会に行った。度会とは外宮の施設の一部ではなかろうか。厨房とかで食事を作っていたのかもしれない。月読は夜の食国を治めた。
 日向とは葦原中津国のクシフルタケ(北栄町の亀谷丘陵)のことであり、伊勢とは天照大神が最初に降り立った伊勢野(鳥取県琴浦町)のことである。距離にして3.5kmくらい離れている。歩いても、1時間以内で行ける距離である。藤原氏が倭国を乗っ取る奈良時代までは、元伊勢と言えば鳥取県琴浦町の天照皇大神宮のことであった。

3 「猿田彦は邇邇芸を『日向』にお連れしてから、『伊勢』に行かれた」という文章を読んで、「まさにこれは神話だ、生身の人間にできるわけがない」と書いておられる方がいたが、この文章でいう日向とは宮崎県ではないし、伊勢とは三重県ではない、どちらも鳥取県の中部にあり歩いて1時間以内の距離にあった。天照大神(徐福)・月読命(保食神)は鳥取県中部(倭国)を終の棲家にした。扶余族(藤原氏)による地名・神社の強奪である。

 

 

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方見神社の由緒にある外宮の「月下の宮」は現在の槻下(ツキノシタ)集落のことである

2018-06-26 11:52:49 | 伊勢野の天照皇大神宮


1  「月下の宮」とはロマンチックなこの世にはないような宮だと思っていたが、現在の地図にのっている槻下(ツキノシタ)集落のことである。郷土史家は「この集落は加勢陀川の東にあり、山側(伊勢野か斉尾)に内宮の天照皇大神宮があった」とする。位置関係としてはピッタリである。加勢陀川の西にある旧方見郷とは文化圏が違っていたのかもしれない。いきなり天照皇大神宮を加勢陀川の西に持ってこられて、元大塚・中尾・上伊勢・下伊勢の四ヶ村の氏神を境内社に押しやってしまったのだから、この四ヶ村の住民は憤慨されたと思う。

2  しかし、「槻下」をどう読むのだろうと思っていた時期もあった。難しい字である。これが「月下」だったのならば、なぜこの字を残さなかったのか。こちらのほうが、よほどロマンチックですぐ読めるのにと思う。そこが、地名・人名なんでもござれの藤原氏である。古事記の字を日本書紀の字に変えたように「月下」を「槻下」に変えている。伊勢野でも後で「野」を付けたのかもしれない。伊勢の郷となぜ呼ぶのか。伊勢崎村も後で「崎」を付けたのかもしれない。

3  伊勢野にあった天照皇大神宮は、海側に下ったところに外宮の月下(ツキノシタ)の宮があり摂社十六社、末社十七社を附属させていた。まるで、三重県の伊勢神宮のミニチュア版のようである。なぜ、こんな田舎に真似てまでそんなものを造る必要があったのか。そうではなくて、ここがオリジナル(元伊勢)であったからである。

4  伊勢神宮も出雲大社も宇佐の八幡宮総本社も丹後の豊受大神社・皇大神社も大きくて立派な造りである。建築様式もよく似ており、みな同じ一族が建てたものである。時代も同じ頃にたてたものと思われる。現在の規模の大きさに造ったのは、奈良時代(八世紀)後半である。伊勢神宮も出雲大社も式年遷宮をするようにしたのは同じ頃に藤原氏が定めたと思われる。

5  法隆寺と同じ伽藍配置の斉尾廃寺にあった寺は天照皇大神宮に並べて建立されていたものと思われる。上淀廃寺にしろ斉尾廃寺にしろ焼いたり壊したりしたのは藤原氏である。再建しようにも人間も法華寺畑遺跡で殺されているので、どうしようもなかった。ちょうど内宮と外宮の間を通る県道倉吉東伯線を倉吉方面に道なりに行けば、法華寺畑遺跡の横にでる。葦原中津国も通るのでそこにいた大国主の子孫も連れて行って殺したのだろう。阿遅鋤高日子根の子孫(大山の大神山神社の宮司)は助かったそうだが。奈良時代の藤原朝廷は首を切って晒し首にしたそうである。「これこれの子孫は褒美を与えるから名乗り出よ」と言って名乗り出させておいて、他所にテーマパークを造ってから、「お前は嘘をついたから処刑する」という手法と思われる。

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鳥取県神社誌に見る方見神社について

2018-06-26 04:18:21 | 伊勢野の天照皇大神宮


1  方見神社  東伯郡市勢村大字上伊勢字東屋敷
 祭神 天照大御神・伊邪那岐命・伊邪那美命・鵜草葺不合尊・菅原道真・素戔嗚尊・稲荷神・品陀和氣命・天太玉命・和加産巣日神
 由緒 創立年代詳ならず。往古は四至四町除地ありて社記に所在地を明記せり。その他多くの社領を有し官民の崇敬篤く、一に神宮に擬し野ノ宮斎王殿、着到殿等を構へ規模荘厳にして上官以下被官の社人十七人奉仕。上官屋敷、上ノ城戸、西ノ城戸等の名今に存す。その他、伊勢野、鈴鹿野、斎王野等の地名あり。また奈良朝の時、土佐より遁(のが)れ給いし池田王は、方見神主の許に隠れさせ給いしが、遂に神主となり奉仕せらりしとの伝説あり。(中略) 当社には往古より大田小田と称する神田あり、大田は朔日田と唱え九月一日にこの田の稲を神供に炊ぐ。小田は晦日田と唱えこの田の稲を以て部内諸神に供す。氏子の内より十三才未満の女子十二人を挙げ、神酒上げ神饌炊ぎとす。これを「三ケノオコラ」という。永久に相伝う。この田を植えるときは御田植祭を行い、官丁を課当せらりし。当社は昔より方見一郷の氏神にして、摂社十六社、末社十七社附属せしが、明治維新にこれを廃せられ、天照皇大神宮と称せしを方見社と改号、明治五年三月郷社に列す。当社は月下ノ宮を昔より外宮の関係にて両宮落合ひの神事とて、両社より十二頭の獅子を出し盛んに祭礼を行いしこと社伝に見ゆ。


2  大正二年に合併された神社
金市神社(鵜草葺不合尊)市勢村大字金市字馬場ノ内
北野神社(菅原道真)市勢村大字金市字天神ノ上
金屋神社(素戔嗚尊・稲荷神)伊勢崎村大字金屋字大田
大野神社(品陀和氣命)市勢村大字下伊勢字八幡土井
鈴野神社(須佐之男命)逢束村字鈴野
中尾神社(天太玉命・和加産巣日神)伊勢崎村大字中尾字屋敷
境内神社 
高柳神社 祭神 須佐之男命、稲田姫命、八王子


3  由緒の解釈
 奈良時代(政権を奪い取った藤原朝廷)には、藤原朝廷より遁(のが)れてきた土佐の王をかくまうほど力のある大きな神社であった。
 伊勢野、鈴鹿野、斎王野等の地名があった。野を取れば、伊勢・鈴鹿・斎王である。
 明治維新までは摂社十六社、末社十七社を附属させた天照皇大神宮と称していた。祭神は天照大御神・伊邪那岐命・伊邪那美命であった。
 「月下ノ宮を昔より外宮の関係にて両宮落合ひの神事」より月下ノ宮という外宮があったことがわかる。
 大田・小田を作り御田植祭をしていた。
 「神宮に擬し」の「神宮」とは三重県の伊勢神宮と思われる。こちらの方があとに造られたような書き方をしているが、奈良時代に土佐の池田王が助けを求めて逃れてくるほど権勢があったのであるから、奈良時代にはすでに古い歴史を有していたものと思われる。
 以上のことより伊勢神宮(奈良時代末)よりも古く伊勢神宮のモデルであった可能性がある。
 「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とあるので、徐福は倭国にとどまった。この倭国とは、「在東海中」とあるので、列島のことではなく日本海沿岸にある小さな国のことであり、鳥取県中部のことである。徐福(天照大神)も丹後には行っていない。天照大御神は高天原である蒜山高原から降りて、鳥取市河原町霊石山に伝承がのこる因幡国にも行ったが、亡くなったのは方見神社あたりと思われる。
 伊勢神宮だけは鳥取県中部と関係ないと思っていたが、やはりここをモデルとしたテーマパークであった。これで、天孫降臨の地(宮崎県)、出雲大社・素戔嗚・大国主(島根県)、葛城・師木・三輪山(奈良県)、伊勢神宮(三重県)の四県は古事記つながりで連盟を組んでいるそうであるが、すべて鳥取県中部に本物はあり、これをモデルにしたテーマパークであることが解った。

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建御名方命は鳥取県琴浦町方見邑にいた

2018-06-24 06:04:05 | 伊勢野の天照皇大神宮

 天孫降臨において健御名方のヒントが見つからなかったので触れなかったが、琴浦町の方見郷(鳥取県中部)に居たという確信が得られたので記述します。

 琴浦町の方見郷は加勢蛇川周辺にあった。邇邇芸命に先立って饒速日と同時期に天照大神が降臨したところである。
 一般に記紀において伊勢国、伊勢神宮とあるのは、今の伊勢国、伊勢神宮の時もあれば、鳥取県琴浦町の伊勢、伊勢神宮の時もある。また志摩国、伊雑宮のときもある。皆、伊勢国、伊勢神宮に収斂される。また、出雲とあるのは、今の出雲国(島根県)のこともあり倭国(鳥取県中部)のこともある。「伊勢津彦は出雲の神」と言うときの出雲は倭国(鳥取県中部)のことである。

1 国譲りにおいて古事記には建御名方が出てくるが、日本書紀には出てこない。日本書紀は亡命百済人によって、列島に百済を再興するために作られた百済王朝の歴史書である。その際乗っ取った倭国の歴史書である原古事記を利用した。古事記の建御名方の説話は藤原氏が原古事記を改ざん創作したものである。刀を上向きに立ててその上に座ってみたり、建御名方の腕を掴んで氷のようにしてしまうなどは創作である。伊勢国風土記のほうがより現実的である。原古事記の説話は伊勢国風土記に移し、さらに改ざんして今の古事記を作った。倭姫命世紀の原典も原古事記にあった。
 日本書紀・持統において、持統が反対を押し切って行ったのは伊勢神宮ではなく、伊雑宮の横にある千田寺であり、千田寺に勅使門を造るためであった。持統の言う通りにしなかった神官は伊勢神宮ではなく伊雑宮の神官である。この時はまだ伊勢神宮はなかった。伊雑宮の神官は持統が倭の天皇でないことを知っていて反抗した。聖徳太子(蘇我善徳大王)の造った千田寺に勅使門を造って参拝の制限をするのは持統が倭の王でない証拠である。持統の後ろには不比等がいた。
 原古事記には「天照大神が降臨しようと思われたところに建御名方が居た。天照大神は建御雷に勅して『遥か天津(葦原中津国)の方に国がある、ただちにその国をたいらげよ』と仰せられて、将軍としての徴の剣を賜った。」とあった。その国は鳥取県琴浦町の方見郷であった。

2 小沢打魚氏は「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とされ、降臨の地の舞台を丹後の由良川とされる。この由良川は丹後ではなく葦原中津国を流れる鳥取県北栄町の由良川と思われる。丹後の由良川はそのほかの舞台(葦原中津国など)が検証できておらず単発であり、あとが続かない。

 北栄町の由良川は西高尾ダムに水源を発する。西高尾、上種、茶屋条、下種、亀谷を通って当時は葦原中津国に流れ込んでいた。天照大神の天孫族は南の関金から来たから、方見郷を本拠地にしていた建御名方とは由良川を挟んで対峙することになる。黒字は平定後の天孫族の位置関係である。

3 天照大神は饒速日と一緒に蒜山(高天原)より倉吉市関金町神田神社に降臨した。
 天忍穂耳、饒速日、天児屋根・天太玉・天鈿女・玉祖命・思金命、猿田彦は素戔嗚のいた倉吉市の清熊稲荷神社の峰(哮峰)に降り、しばらく止まった。
 天照大神と月読命と石凝姥と天手力男は琴浦町の方見郷に住んでいた建御名方を信濃に行かせ、琴浦町の方見郷に降臨した。
 原古事記には「建御雷は問うて、『お前がこの国を去った時、何をもってそれを証拠だてるか』といった。すると申し上げて言うには、『私は、今夜、八風を起こし海水を吹き上げ、波浪に乗って東の方にまいりましょう。これがすなわち私が退却したという証拠です。』と。夜更けになって、大風が四方に起こり、大波をうち上げ、太陽のように光り輝いて陸も海も昼のように明るくなり、ついに波に乗って東に去った」(伊勢国風土記)とあった。
 琴浦町伊勢野から1kmほど下ると日本海である。建御雷は北栄町妻波の岩崎神社の祭神になっているので建御名方が船で東に行くのを見届けることができた。建御名方は東の因幡に上陸し因幡より父の大国主が中継地としていた播磨に行った(国道29号線沿いの旧道)。

4 播磨国にある上伊勢は播磨国風土記にみえる揖保郡林田里の伊勢野である、とする。伊勢津彦を祀っていたから伊勢野という、とある。上伊勢も伊勢野も鳥取県琴浦町にある。揖保郡林田里の伊勢野も上伊勢も人為的に付けられたように思われる。
 鳥取県琴浦町には月読命がいた外宮の槻下(月下)の地名が残る。方見(カタミ)郷もあった。タケ(ミナカタ)と似ている。内宮、外宮のほか、摂社16社、末社17社もあった。日本書紀の天武の段にある「天皇は泊瀬の斎宮で練習をさせて伊勢神宮の斎王にした」とある泊瀬の斎宮は倉吉市駄経寺町の神官もいた大御堂廃寺のことであり、鳥取県道151号を通って琴浦町伊勢野の伊勢神宮に行かせた。天武天皇の皇居は大御堂廃寺を神宮寺とした倉吉市の賀茂皇大神宮(現賀茂神社)にあった。
 藤原氏は琴浦町方見郷の原古事記の説話を伊勢国風土記に書き移した。その際、天照大神は神武天皇に、建御名方は伊勢津彦に、建御雷命は天日別命に変えた。矛盾が生じないように、日本書紀には記載しなかった。播磨国の伊勢野や上伊勢の地名は藤原氏が鳥取県琴浦町の地名を持ってきたものである。建御名方は信濃国に行く途中に揖保郡林田里に寄ったと思われる。藤原氏は伊和神社の祭神である大国主神の名を伊和大神に変え、建御名方の名を伊勢津彦に変えた。

5 建御名方は今の伊勢国に寄らずに信濃国に行った。研究者によると建御名方の足跡は、信濃国に十数ヶ所見つかるという。土木工事も行っている。
 長野市の風間神社の祭神は伊勢津彦命である。しかし、伊勢津彦が本当に信濃国に行ったならば、建御名方のように十数ヶ所足跡が見つかるはずである。
 風間神社の祭神である伊勢津彦命は、全国の神社ネットワークを使い藤原氏によってつくられたものである。他県に伊勢津彦とあるのは建御名方とあったのを藤原氏によって書き換えられたものである。
 藤原氏は伊勢国を創るに際し原古事記にあった建御名方命の説話を利用しようと考えた。時代を神武時代に設定し名前を伊勢津彦に変えて、伊勢国風土記を創作した。伊勢国風土記も出雲国風土記も藤原氏の創作である。伊勢国風土記には伊勢神宮のことは書かれていない。713年の時点では伊勢神宮はなかったからである。地名のいわれだけは、風土記に創作した。伊勢神宮も出雲大社も列島に百済国を再興するための大きなテーマパークであった。

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奈良の三輪山の「日向御子」は瓊々杵命である

2018-06-23 05:32:51 | 大物主

 北栄町下神に東の茶臼山より少し小さい三輪山があった。三輪山は今は崩されているが三輪神社跡の石碑は残っている。この山こそ奈良の三輪山のモデルである。ここに「日向御子」が祀られていた。
 下神の隣の松神神社には木花之佐久夜毘売・猿田彦が祀られている。ここに結婚前の木花之佐久夜毘売と猿田彦がいた。木花之佐久夜毘売は結婚して後は亀谷集落にいたが、下種の大宮神社にいた瓊々杵命に伴って天忍穂耳に会うために三輪山と大宮神社の間を行き来していた。下神の三輪神社には大物主(天忍穂耳)が祀られていた。
 瓊々杵命は四歳で関金の神田神社に降りて、成長するまで矢送神社におり、その後、楯縫神社にしばらくいて下種の大宮神社に御所を築いたのだが、矢送神社も楯縫神社も日照時間が短く日当たりの良くないところである。下種の大宮神社に移ってから、「この地は朝日の直に射し、夕日が火照る国で非常に良い地だ」と言った。地元の住民(国神)はこれを聞いて瓊々杵命を「日向御子」と名付けた。瓊々杵命は日当たりの良さばかりを言うので地元の住民は「日向御子」のあだ名をつけた。
 また地元の住民は神阿多都比売に「木花之佐久夜毘売」というあだ名をつけた。神阿多都比売が通ると桜が咲いたように華やかになるので、このあだ名をつけた。鳥取県中部の集落の住民はすぐにあだ名をつける習性がある。
 私の祖母の母はたいそうな美人で娘のころは「お札去った」というあだ名をつけられていたそうである。お札とは明治時代の神功皇后の肖像が入った一円札・五円札・十円札である。お札の神功皇后はたいそうな美人である。祖母の母は神功皇后の肖像に比べられるほど美人であったらしい。
 このように鳥取県中部の集落はあだ名をつけるのが好きな地域性である。このような集落の地域性というものは、二千年たっても変わらないと思われる。
 「日向御子」とは瓊々杵命のあだ名であり、「木花之佐久夜毘売」とは神阿多都比売のあだ名であった。「鵜草葺不合」も彦火火出見命のあだ名である。鵜草葺不合を生んだのは、木花之佐久夜毘売であった。
 米子に三輪神社があるがこれは全国に数ある三輪神社の一つで藤原氏が後に建立したものである。藤原氏は下神の三輪神社を放火焼失して消し去ろうとしているが、米子の三輪神社ではなく、下神の三輪神社が本当のモデルである。瓊々杵命の御所(下種)や葦原中津国とは目と鼻の先である。
 神武天皇は日向より出発したということを根拠に「日向御子」とは神武天皇であるという説がある。日向とは北栄町の葦原中津国と倉吉市の四王寺山のことであり、なぜ日向というのかは、瓊々杵命が言った「日当たりの良い地」だからである。だから「日向御子」とは「日当たりの良い」と言った本人の瓊々杵命に付けられたあだ名であり、神武天皇ではない。
 原因は、藤原氏が日向の地名を宮崎県に持っていき、奈良の三輪山の祭神を日向御子とし、神武天皇は宮崎県の日向から出発して奈良に到着した、としたからである。日向の地名の成り立ちと、瓊々杵命(日向御子)が鳥取県北栄町下種の大宮神社から北栄町下神の三輪山によく行き来していたことが分かっていないからである。
 下神の三輪山にいたのは、瓊々杵命の父の天忍穂耳命である。大物主とは天忍穂耳命のことであり、天忍穂耳命はここを拠点にして活動をしていた。
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大物主とは天忍穂耳であった

2018-06-22 16:48:39 | 大物主
1 「古事記」によれば、「大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神様が表れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が『どなたですか?』と聞くと『我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり』と答えた」とある。
 「奈良の三輪山・三輪神社の祭神は日向御子と大物主であり、大物主は日向御子の父である」というヒントをもとに、北栄町下神の三輪山・三輪神社の祭神を考えてみた。
 邇邇芸は葦原中津国にいる出雲族(八十神)に子が生まれて成長するまで、倉吉市上福田の楯縫神社から父のいた北栄町下神の三輪神社まで行き来をしていたコース(倉吉市半坂経由で灘手別所から船で北栄町下神まで)が特定できる。
 邇邇芸は日当たりの良さを言うので、あだ名を付けることが好きな地元民に「日向御子」と呼ばれていた。下神の三輪山の祭神は邇邇芸(日向御子)であった。邇邇芸は三輪神社の大物主(天忍穂耳)に会いに来た大国主とも会っていた。
 
2 三輪神社(天忍穂耳)側から茶臼山(大国主)を見る。

 大物主は天忍穂耳だが、江府町下蚊屋山口神社の祭神になっており、天安河原(江府町下蚊屋)での相談のときは天安河原にいた。饒速日・天照大神ほか大勢は江府町下蚊屋から鏡ヶ成→野添→関金町神田神社に降臨した。関金町耳から合流した天忍穂耳と饒速日は関金町日吉神社から船で小鴨川を下り清熊稲荷神社の峰(哮峰)に到着した。須佐之男に「一人になった大国主に協力してくれるよう」に頼まれた。大物主(天忍穂耳)は猿田彦と一緒に船で、小鴨川→天神川→茶臼山の東の内海に出て、茶臼山にいた大国主のところへやってきた。光り輝いてきたのは、猿田彦が鏡で照らしたからである。天孫降臨に際して、鏡を持った猿田彦を迎えに行かせたのも天忍穂耳である。

 茶臼山(大国主)側から三輪神社(天忍穂耳)を望む。下神の三輪山は当時は内海に面していて今より高い山であった。砂で出来ているので今は一部造成されて団地になっている。

 鳥取県北栄町下神にある三輪神社跡の石碑
 この三輪神社にいれば、葦原中津国とも近いため葦原中津国の様子がよくわかった。

3 大物主の子孫の大田命を祀っている神社は鳥取県西部に5神社ある。饒速日が祀られている江尾神社の周辺は大物主が祀られている。

 藤原氏は饒速日を消すために天忍穂耳を大物主という別名に変えた。鳥取県西部の祭神で使い分けているのは、饒速日を邇邇芸に書き直したのでそこは天忍穂耳のままにした。岡山で生まれて4才で鳥取県中部に降臨した邇邇芸が父の天忍穂耳と鳥取県西部で一緒にいるわけがない。鳥取県西部で一緒にいたのは鳥取県西部で生まれた饒速日である。
 饒速日の父は天忍穂耳であり、饒速日を祀る数少ない神社の江尾神社の周りには天忍穂耳は祀られていなければならないが、周辺の神社に祀られているのは大物主が多い。

4 邇邇芸の父(大物主)は実父(天忍穂耳)であった。
 神武天皇の四兄弟のいた四王寺山の横に上神がある。天孫族のいた山の麓には〇神という集落がある。それなら下神にある三輪神社にいたのも天孫族でなくてはならない。天忍穂耳が下神の三輪神社にいた。少彦名が常世の国へ去った後、大国主とともに多くの渡来人が定住した各地の衣食住の環境を整えてやる大事業を行っていた。国譲りの後、大国主命は邇邇芸と大事業を行った。邇邇芸は三輪山で大国主と会っている。 
◎ 原田常治氏の説
 「特選神名牒」では、桜井市三輪の大神神社の祭神は、「倭大物主櫛瓶玉命」と、「櫛瓶玉」がついている。松山市の国津比古命神社の祭神は、「櫛玉饒速日命」と、「櫛玉」がついている。大物主神は「大物主櫛瓶(甕)玉命」、饒速日は「櫛玉饒速日命」と呼ばれていた。
 饒速日について、神名の中に「櫛玉」があること、また大物主神には「櫛瓶(甕)玉」があることから、原田常治氏は「櫛玉=櫛瓶(甕)玉」と結論して、「大物主は饒速日尊であることが判明した」と言った。
 しかし、「櫛玉=櫛瓶(甕)玉」ではなかった。「櫛玉(くしたま)」は息子であり、「櫛瓶(甕)玉(くしみたま)」は父親であった。

 櫛玉饒速日は江府町江尾神社から下蚊屋(大物主が祀られている)に集合し猿田彦の待っていた鏡ヶ成から野添経由で関金町神田神社に降臨した。関金町日吉神社から関金町耳にいた父の櫛甕玉天忍穂耳とともに船に乗り倉吉市の清熊稲荷神社の峰(哮峰)に到着し、大国主の父の須佐之男に会い、十種神宝を授かった。
 天忍穂耳は須佐之男に頼まれて少彦名のいなくなった大国主に協力するために、猿田彦と一緒に船で大国主の居る茶臼山松樹庵の東の内海に到着して鏡で照らした。その後、天忍穂耳と猿田彦はそれぞれ大国主より西の下神(三輪神社)と松神に住んだ。

5 参考 鳥取県西部で大物主・天忍穂耳・大田命を祀る神社
北野神社 米子市赤井手(大物主)
三輪神社 米子市小波(大物主)
鶴田神社 西伯郡南部町鶴田(大物主)
森脇神社 西伯郡伯耆町畑池(大物主)
小林神社 西伯郡伯耆町小林(大物主)
井原神社 日野郡日野町福長(大物主)
矢原神社 日野郡日南町茶屋(大物主)
御机神社 日野郡江府町御机(大物主)
山口神社 日野郡江府町下蚊屋(大物主)
大河原神社 日野郡江府町大河原(大物主)
勝田神社 米子市博労町(天忍穂耳)
犬田神社 米子市陰田町(天忍穂耳)
壹宮神社 西伯郡大山町上萬(天忍穂耳)
熊野神社 西伯郡南部町金田(天忍穂耳)
水谷神社 日野郡日南町笠木(天忍穂耳)
山根田神社 日野郡日南町福萬来(天忍穂耳)
野組神社 日野郡日南町新屋(天忍穂耳)
霞神社 日野郡日南町霞(天忍穂耳)
福成神社 日野郡日南町神戸上(天忍穂耳)
漆原神社 米子市橋本漆原(大田命)
田中神社 西伯郡南部町中三反田(大田命)
大田神社 西伯郡南部町下中谷赤岩(大田命)
菅福神社 日野郡日野町上菅250番(大田命)
福栄神社 日野郡日南町神福(大田命)
 
 
 
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鳥取県神社誌に見る天穂日を祀る神社

2018-06-22 03:38:57 | 大国主と出雲族

1 天穂日を祀る神社(大正合併後の神社)
《鳥取県東部》
中村神社      岩美郡福部村大字中字宮ノ谷
賀茂神社      八頭郡賀茂村大字宮谷字寺坂
大江神社      八頭郡大伊村大字橋本字馬場
都波只知上神社   八頭郡散岐村大字佐貫字林ノ谷
都波奈彌神社    八頭郡散岐村大字和奈見字林ノ内
湯谷神社      八頭郡西郷村大字湯谷字大瀧
隼神社       八頭郡隼村大字見槻中字宮ノ本
日下部上神社    八頭郡安部村大字日下部字宮ノ谷
諏訪神社      八頭郡智頭町大字智頭字宮ノ前
天穂日命神社    気高郡大郷村大字大畑字森崎
《鳥取県中部》
五郷神社      三朝町牧560の1 
大原神社      倉吉市大原619番 
田内神社      倉吉市巌城1494番 
松崎神社      湯梨浜町松崎566番
《鳥取県西部》
天萬神社      南部町天万1009番
多里神社      日南町新屋70
末尾神社      手間村大字田住字松尾
御崎神社      米子市尾高
北野神社      米子市赤井手
新印神社      米子市新印137番
古川神社      春日村大字古豊千字屋敷
豊田神社      米子市古豊千
東千太神社     米子市古豊千888番
御崎神社      米子市河岡630番
北原神社      米子市福万667番
巨勢神社      米子市八幡254番3
逢坂八幡神社    大山町松河原233番
小町神社      伯耆町小町455番
三部神社      伯耆町三部824番
上の荘神社     伯耆町福吉264番
安井神社      日野町津地423番


2 私見
(1)《鳥取県東部》
 天穂日を祀る神社は八頭郡に8社ある。天穂日は国譲りの交渉に派遣されるまで鳥取県の八頭郡にいたと思われる。天穂日を祀る神社は素戔嗚・稲田姫・その両親を祀る神社を守る位置にある。天穂日は素戔嗚・稲田姫の御殿を守るために、八頭郡にいたものと思われる。その中で、賀茂神社(土師神社)と諏訪神社(向山神社)の2神社は本来の天穂日の任務とはかけ離れたところにあるため、天穂日を祀っていた準王一族(ヤマト王権から見れば河童と鬼)のいたところと推定される。大江神社、都波只知上神社、都波奈彌神、湯谷神社、隼神社、日下部上神社の6神社に天穂日はおり、素戔嗚と稲田姫の御殿を守っていた。天穂日はこの御殿で生まれた大国主を生まれたころから知っていた。
(2)《鳥取県中部》
 大国主は鳥取県北栄町の大神山(茶臼山)の松樹庵を本拠地にして葦原中津国を造っていた。天孫族は葦原中津国を大国主に譲ってもらう交渉に天穂日を出向かせた。五郷神社、大原神社、田内神社の3神社は天穂日が国譲りの交渉に行くまでにいたところと思われる。 天忍穂耳や天穂日にとって荒神(荒ぶる神)とされる準王一族(出雲神族)が葦原中津国にいることは国譲りの障害であった。天忍穂耳と天穂日は準王一族の動向を探ることにした。天穂日は伊那佐山(北栄町国坂の茶臼山)の隣の三輪山(北栄町下神)にいた天忍穂耳に頼まれて、伊那佐之小浜での国譲りの交渉の時に、すでに葦原中津国に多くいた準王一族(出雲神族)の本拠地を大国主に聞いたと思われる。大国主は天穂日に準王一族の本拠地を教えた。
(3)《鳥取県西部》
 天穂日は大国主の計らいで出雲神族の拠点である熊野大社の近くの能義平野(安来市)に移った。天萬神社以下の17社は伯耆国の西部であり、能義平野(安来市)に移るまでにいたところと思われる。その後、天穂日は大国主の計らいで、島根県東部の能義平野(安来市)を拠点とし、松江市南部(熊野大社)を拠点としていた準王(タケヒラドリ、クナト神)に出会った。天穂日は準王(長髄彦)の娘と結婚した。饒速日と長髄彦の妹を結婚させたのも天穂日と思われる。富氏の口伝によると「神武から数代の王は出雲神族の反乱を抑えるため出雲王家の娘を妻にした」とする。天穂日は後続部隊の手引きをした。出雲神族の子孫の富氏は天穂日を「ヤマト王権のスパイであった」とする。
 大国主を生まれた時から可愛がってきた天穂日は準王を大己貴神(オオナムチ)と呼んだ。準王一族は出雲神族といいその王の名を代々長髄彦・大己貴神(オオナムチ)と呼んでいた。

 

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否砂の小浜と葦原中津国

2018-06-21 03:15:25 | 大国主と出雲族
否砂の小浜と葦原中津国

1 伊那佐の小浜はどこにあったか。
 古事記の「伊那佐」とは発音だけであり「いなさ」とは本来の漢字に直せば「否砂」である。
 砂ではない浜であるから、周りは砂浜だったということである。そこに岩盤でできた波打ち際があった。天孫降臨が行われたのは紀元前160年頃であったから、今では完全に海抜5mくらいの陸地のはずである。その条件にぴったり合うのが北栄町の茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)である。大国主が造ったと言われる葦原中津国も同じ町内の近くにある。国譲りの交渉は大国主が住んでいた本拠地で行われた。
 北栄町の茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)はまわりが北条砂丘であり岩盤でできた山である。南側の水田も表面だけであって、その下は20数m下まで砂であり、その下にやっと岩盤があるそうである。その岩盤が尾根状に突き出ているのが茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)である。
 茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)のふもとの国坂神社の祭神は少彦名だけであるが、なぜ大国主が祭神でないのか、わざと消してあると思われる。大日本史・日本地理志料・特撰神名牒・神祇志は国坂神社の祭神を大国主であるとする。日本地理志料は「国坂神社は大国主の子孫が奉祀する所である」とする。国坂集落には大国主の子孫がいて、国坂神社を奉祀している。
 この岩盤の山に大国主は住んでいたのである。海抜10mくらいのところに岩を削って清水のでる狭いが平たいところがある。ここに庵(松樹庵)もあるがここで国譲りの交渉が行われたとみてよい。小さな砂でない浜である。実在した大国主が茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)の松樹庵に居た。

2  茶臼山を一周
 
 
3 葦原中津国を形成する十三集落の一つである穴沢集落にある天若日子(大正合併までは倉吉市寺谷の矢野宮神社)を祀っている灘手神社 
 
 穴沢集落の灘手神社に天照大神、天若日子命、鋤集落に阿遅鋤高日子根、亀谷神社に大国主、事代主、木花之佐久夜毘売、穂波神社に天児屋根命が祀られている。地形的にも葦原中津国であり、十三集落のうち四集落に天孫降臨に関係する神が祀られている。
 徐福(天照大神)は小さな湾(葦原の中津)に到着し(宮下文書)、原(北栄町原)・宇記島(北栄町大島)に上陸し灘手神社に来ていた。灘手神社の前は葦原の中津であった。
 神武天皇は掖上の岡(灘手神社)で国見をして、灘手の指(尾根)の重なりを秋津のトナメにたとえて北栄町大島を秋津島と名付けた。
 第5代孝昭天皇の葛城掖上宮は灘手神社にあった。
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