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History, Strategy, Ideology, and Nations

知日派という仮面・廖承志

2010年04月13日 | INTELLIGENCE
 戦後日中関係に関心を持っている人ならば、
 廖承志という人物の名前は一度くらい目にしたことがあるだろう。
 日中友好協会会長を務め、中国共産党で史上最高の知日派と呼ばれた人物であり、
 外交史上でも、日本との間で「中日長期総合貿易覚書」に調印し、
 いわゆる「LT貿易」を開始したことで知られる。
 日本語も非常に堪能で、多くの政治家や財界人が廖承志との間に知己を得たが、
 その裏の顔は、中国の情報活動と深く結びついていたのである。

 廖承志は、1908年、東京で生まれた。
 その後、中国に帰国し、嶺南大学に入学するが、1925年に再来日し、早稲田大学に入学した。
 中国共産党との接点は、1928年に起きた済南事件を契機として入党しており、
 1932年までヨーロッパにわたって、オルグ工作に従事していたとされている。
 中国に再び戻ると、中華全国総工会宣伝部長に就任し、
 主に香港で抗日戦線に臨む華僑の組織化を担当した。

 しかし、1942年、国民党によって逮捕され、1946年まで投獄生活を余儀なくされた。
 幸運だったのは、米国の仲介により、国民党と共産党の間で捕虜交換協定が結ばれたことである。
 このおかげで、廖承志は出獄できることになって、
 1949年までに新華社通信社長、中国共産党宣伝部副部長を歴任した。
 さらに建国後は、華僑事務委員会副主任、党中央統一戦線工作部主任などを務めた。
 こうした経歴は、明らかに廖承志が政治工作の責任者であったことを裏付けるものである。

 1950年代に入ると、廖承志は訪日を繰り返し、日中間の窓口役を担うことになる。
 この間、日本では中国との貿易関係樹立を目指して、様々な議論が展開されていた。
 米国としては、貿易を通じて様々な技術情報が流出することを恐れていたため、
 日本独自の判断で中国との関係を深めていくことに懸念を抱いていたが、
 中国は、ソ連との関係に距離を置き始めていた時期でもあったために、
 対日工作の窓口は、社会党や共産党ではなく、公明党を選んだのであった。
 その成果が、先にも触れた「LT貿易」の成立にほかならなかった。
 ちなみに、ここでいう「LT」とは、
 交渉担当者のイニシャル(L=廖承志、T=竹入公明党幹事長)を取ったものである。

 廖承志は、1963年、日中友好協会会長に就任すると、さらに日本での人脈構築に力を注ぎ、
 1983年に死去するまで、その努力は続けられた。
 もちろん、それは「友好親善」という名の下に進められた中国の政治工作であり、
 実際、1964年には、新華社通信東京分社のジャーナリスト・呉学文が、
 スパイ容疑で日本から国外追放の処分を受けている。
 呉学文もまた、日中友好協会理事を務めており、
 田中角栄の訪中を水面下で画策していたことが伝えられている。
 こうした動きについて、当然、廖承志は把握していたであろうし、
 それ以上に、工作責任者として、陣頭指揮を執っていたであろうとも推測されるのである。
 
 ところが、廖承志に関しては、日本側から様々な形で称賛する声が多い。
 日中関係の発展に関係した人物の回顧録などを読むと、
 まるで廖承志を仏様のように崇めるものまで見受けられる始末で、
 おそらく中国伝統の接待攻勢に身も心も骨抜きにされてしまったのであろう。
 だが、その裏の顔は、オルグ工作を得意とする工作員にほかならず、
 人心を掴んで操作することにかけては、天下逸品の才能を発揮した人物であった。

 問題なのは、むしろ、無警戒すぎる日本側の対応である。
 日中友好協会には、多くの有識者や文化人が入っていたが、
 一体、どれほどの人が、廖承志の裏の顔に懸念を抱いていたであろうか。
 廖承志にとって、彼らはまるで赤子の手を捻るような存在であったに違いない。
 そして、その顔を知ろうともせず、今に至るも恩人のように称揚している現状を省みれば、
 日本人の無警戒さは、相変わらず改善されていないと言わざるを得ないのである。