YS_KOZY_BLOG

History, Strategy, Ideology, and Nations

休止

2011年02月28日 | NEWS & TOPICS

 少し前にも宣言した通り、このブログは今日で一旦、休止することにします。

 振り返れば、昨年、米国に行く前に、軽い日記のつもりで始めようと思い立ってから、
 気づくと一年以上、このブログを続けていた。
 他のブログを眺めてみれば、何年にもわたって続けている人もいるので、
 たかが一年程度など続けたうちにもならないかもしれないが、
 元来、非常に飽きっぽい性分にもかかわらず、
 ここまでやってこられたことは、まるで奇跡のように感じられる。
 しかも、何の娯楽性もなく話題の提供もなく、文字ばかりでまったく愛想も愛嬌もないブログに、
 多い日は、500以上の閲覧数が記録されるなど、
 一体、誰が読んでいるのだろうと妙な気持ちに囚われることもあった。
 
 ブログを休止すると決めたのは、特に大きな理由があるわけではない。
 しかし、理由の一つとして、自分の中で、ややマンネリな気分になってきたことが挙げられる。
 先程、自分の性格を「飽きっぽい」としたが、
 実を言うと、政治や歴史といったことだけでなく、
 もっと肩の力を抜いたブログにした方が良いのではないかという気になっていて、
 ここら辺で心機一転を図りたいと思うようになってきたのである。
 春も近付いてきたし、いわば「模様替え」といったところです。

 したがって、このブログは休止しますが、
 どこか別の場所にブログを開設して続けることになると思います。
 しかし、今後も出来るだけひっそりと書いていたいので、移設先をここに記すことはしません。
 悪しからず。
 とはいえ、自分の関心や興味が大きく変わるわけではないので、
 何かを検索した際に、記事内容から発見されることもあるでしょう。
 その時は、新しいブログのタイトルから、
 「なるほど、こっちに移設したのか」と思ってくれれば幸いです。

 拙い文章にもかかわらず、記事に目を通してくれた方々には感謝いたします。
 それでは、また会う日まで。


政変後の動きはどうか?

2011年02月25日 | NEWS & TOPICS

 リビア・カダフィ大佐は、反政府デモの鎮圧に向けて、傭兵部隊を投入したと報じられている。
 また、一部の報道では、天安門事件を引き合いに出しながら、
 デモに参加した市民を死刑にすると息巻いて、
 実際、自国民に対して空爆を決行したというのだから恐れ入るしかない。
 正統性を失った独裁者の末路とは、こんなにも無節操で哀れなものかと思い知らされる。

 現在、類稀なる独裁体制を敷いている北朝鮮も、この光景を固唾を飲んで見ていることだろう。
 いかに情報統制を厳しいとしても、
 中東での出来事がまったく市民の耳に入らないということはないはずである。
 すでに今年に入ってからも、地方では五月雨式に反乱や暴動が発生していると報じられており、
 いよいよ抑止が利かなくなってきたからかもしれないが、
 地方に配置された軍部隊の銃や戦車から弾を没収する措置が採られているそうである。
 もちろん、これは反乱や暴動を事前に起こさせないためのものであろう。
 
 しかし、それにしても、なぜ今年になってから、
 中東において、唐突に民主化の波が押し寄せてきたのかはよく分からない。
 フェイスブックやツイッターといった情報ツールの影響と一般的には論じられているが、
 たとえそれで民衆の結束力が大きくなったとしても、
 その力が国家の持つ軍事力を圧倒することは、事実上、不可能である。
 それゆえに、かつて天安門事件がそうだったように、
 また、カダフィ大佐自身が実践しているように、
 自国民に対する強制的な鎮圧を行なうために武力を行使するということになれば、
 民衆はいとも簡単に押し潰されてしまい、市民革命は成立しないままに終わるのである。

 1980年代後半、確かに東欧諸国では西側陣営の情報が浸透し、
 そうした情報の影響を受けた数多くの市民が、政府を取り囲んで独裁体制に終止符を打たせたが、
 それは必ずしも市民のみによって達成されたわけではなく、
 その背後に市民側の主張に同調した軍部や警察の存在があったことを忘れてはならない。
 つまり、中東の民主化、言い換えれば独裁体制の終焉は、
 結局、市民の結束以上に、軍部や警察といった国家が持つ物理的強制力の動向によって、
 その方向性は大きく変わると言えるのである。
 
 今のところ、エジプトでは、軍部が政府側に付いたことで、劇的な政変を回避することに成功し、
 ムバラク大統領の辞任という形で、ひとまず区切りをつけたことになった。
 市民の不満が十分に収まっているわけではないので、
 今後ふたたび同じような政治運動が拡がらないとは限らないが、
 政治体制の根本的否定にまで発展する可能性は低そうである。
 だが、リビアでは、軍部が市民側に同調する動きを強めているため、
 このまま推移すれば、政治体制の転換まで到達するかもしれない。

 世界の主要国は、いずれもこうした動きを静観する構えだが、
 原油価格の高騰が象徴的であるように、
 政変後、石油生産の契約に関して、水面下での攻防が繰り広げられることになるだろう。
 日本もまた、出遅れないようにしたいところである。


日本版CIAの模索?

2011年02月23日 | INTELLIGENCE

 オーストラリアで発行されている新聞『シドニー・モーニング・ヘラルド(Sidney Morning Herald)』によると、
 中国や北朝鮮を対象とし、CIAやMI6をモデルとした情報機関の設立を目指す動きが、
 麻生・福田両政権下で進められていた事実について、
 内部告発ウェブサイト「Wikileaks」が入手した米外交公電から明らかにされたとのことである。

 Philip Dorling
 "WikiLeaks unveils Japanese spy agency"
 Sydney Morning Herald, February 21, 2011
 http://www.smh.com.au/technology/technology-news/wikileaks-unveils-japanese-spy-agency-20110220-1b17a.html

 基本的には、内閣情報調査室を中心として、主にHumint(人的情報)能力の強化を図るものだが、
 情報活動の経験や知識が必ずしも十分、蓄積されているわけではないという認識から、
 情報体制の構築を徐々に進めていくことが米国と合意され、
 人材育成や要員訓練などのプログラムも実施される予定だったとされている。

 吉田茂が1952年に「日本版CIA」を設立するために、
 内閣調査室を設立したことはよく知られている。
 実際には、当時、官房長官だった緒方竹虎が担当となって、
 米国からの支援や指導を仰ぎながら進めていったのだが、
 野党や世論の反発だけでなく、外務省の強力な抵抗にも遭遇したことで、
 米国型の情報体制を構築することは叶わず、
 結果的に、内閣官房の一部局としての立場を超えることはできなかったのである。

 すでにいくつかの一次史料から明らかにされているように、
 このとき、緒方竹虎はCIA局員から様々なブリーフィングを受けており、
 中国やソ連といった国々から帰還した日本人への尋問調査などで、
 米国側から日本側に対して協力を要請されていたことが分かっている。
 
 今回の記事は、ウィキ・リークスの暴露から報じられたものだが、
 安倍政権で「日本版NSC」構想が提起された後、
 日本でも情報機関の設立を目指す動きがあったことは、特に秘密にされていたわけではなく、
 各種メディアの報道などにおいても指摘されていた。
 また、小泉政権において、小泉元首相と安倍元首相(当時、官房長官)の両名が、
 ホワイトハウスで行なわれている国家安全保障会議(NSC)に出席しており、
 小さくない関心を寄せていたことは広く知られたところである。 
 したがって、記事の内容自体に驚くべきところは少ない。
 ウィキ・リークスの暴露は、それを改めて確認することが出来たということである。
 
 問題は、こうした動きが政権交代によってどうなったかということであろう。
 菅首相は、「日本版NSC」設立には前向きな姿勢を示しており、
 先のビデオ流出事件の影響もあって、
 基本的には、政府の情報管理を一元化することにも積極的だと言われている。
 ただし、それが情報機関の設立にまで結び付くかというと、
 やはり政治的に微妙と言わざるを得ないだろう。

 その一方で、情報機関の設立において、外部からの浸透を事前に排除しておくことが必要だが、
 その前提として、「スパイ防止法」を成立させておかなければならない。
 機密保持が担保されなければ、情報機関としての能力は著しく損なわれるし、
 国家間の情報協力も制約を受けざるを得ない。
 個人的には、情報機関の設立よりも先に「スパイ防止法」の成立が望ましいと思われるが、
 そちらの方はまだ、政治日程に組み込まれる雰囲気はなさそうである。

 なお、思うところあって、このブログは今月をもって、一旦、中断させることにします。
 いつか近いうちに再開させる予定ですが、
 その時はまた別の場所でお目にかかることになろうかと思います。
 新しくブログを開設しても、記事内容を大きく変えるつもりはないので、
 今のブログを継続するという選択肢もありましたが、
 自分の中で心機一転を図りたいという気持ちもあって、
 こうした形を採ることにしました。
 ここでの記事に関しては、いずれ削除しようと思っています。
 特に役立つ情報があるというわけではないので。
 
 それでは、残りわずかではありますが、どうぞよろしくお願いいたします。


明日、帰国です。

2011年02月18日 | FROM WASHINGTON DC

 スキャナーが壊れてしまって、その後、あれこれといじってみたが、
 結局、状況改善には至らなかった。
 そんなわけで、調べものはもう諦めて、昨日はスミソニアン博物館やらナショナル・ジオグラフィー協会やら、
 無料で入れるところを回りつつ、市街観光に繰り出していた。

 それにしても、こちらの天候は日毎に良くなっていて、
 日中は20度くらいまで気温が上がり、セーターを着て歩いていると汗ばむほどであった。
 こうした陽気になると、どこからともなく公園に集まってくるのが米国人の行動パターンで、
 特に正午から午後2時くらいは、オープン・カフェの席もほとんど埋まってしまう。
 しかも、ビジネス街だけでなく、近所の大学や保育園から学生やら園児もわんさか出てきて、
 いつの間にやらベンチの空席は見当たらなくなるのである。
 実に平和な光景としか言いようがない。
 
 今日はブランチを摂った後、この間、行った本屋(Book A Million)で、
 買い損なった本を何冊か買って、あとは帰国に向けた荷造りでもしつつ、
 時間があったら、どこかまた行こうかと思っていたのだが、
 荷造りの最中に入ってきたルームサービスのスタッフが
 ほとんど英語を使えない人で非常に焦った。
 最初、こちらの発音が悪いのかと思っていたけれども、
 どうやらまだ片言の英語しか話せないらしくて、
 スペイン語なら分かるらしい。
 こちらはスペイン語なんて「パエリア」くらいしか知らないので、
 これが本当のボディ・ランゲージといった具合に、
 身振り手振りでコミュニケーションする羽目になってしまった。
 いい思い出です。

 明日、朝早くホテルを出て、ダレス空港に向かい、
 そのまま直行便で成田に帰ってくる予定になっている。
 いつも思うが、過ぎてしまえば、いつでも一瞬である。
 きっと人生も死に際になったら、そう思うのだろう。
 しかし、それでいいのである。


スキャナー壊れた

2011年02月16日 | FROM WASHINGTON DC

 ガーン、スキャナーがおかしくなってしまったよ~ん。
 電源はちゃんと入るし、スキャナーの動作に問題はないようなのだけれども、
 どういうわけか、パソコンに画像が出てこない。。。
 取扱説明書は日本に置いてきたし、
 ヘルプをクリックしても、二言目にはカスタマーセンターに問い合わせろとしか言わないし、
 かといって、自力で直せるほどパソコンに精通しているわけでもなければ、
 米国のメーカーに直接、問い合わせて文句言うほどの語学力があるわけでもない。。。

 「この役立たずが!」と、一瞬、こちらで捨てて帰ってしまおうかとも考えたが、
 思えば、このスキャナーは、去年、訪米したときも連れて行った相棒で、
 色々と活躍してくれたしな・・・と妙な感慨がふつふつ湧いてきて、
 やっぱり日本に持ち帰って、修理することに決めた。
 とにかく、これが米国到着初日とかじゃなくて本当に良かった。
 今回は、デジカメも持ってきていないし、
 一回ごとに「チロリ~ン」と音を鳴らして、携帯電話の写メで撮るというチャレンジを敢行する勇気もないので、
 基本的なノルマをこなした後で起きたことは、不幸中の幸いであった。
 
 それで、まぁ、コピーを利用してもよかったのだが、
 もう何だか心が折れてしまって、早々に調査を打ち切ってホテルに戻ってきたのであった。
 世の中、なかなか思うようにはいかないもんですな。