日本人の悪い癖の一つとして、「すぐに忘れる」ということがある。
北朝鮮が核実験に成功した後、日本でもにわかに核武装論が沸き立ったことがあったが、
結局、そうした議論が政策に結びつくことはまったくなかった。
今となっては、あの喧騒は一体何だったのかと思わせる。
いつの間にか、核武装論はうやむやのまま終息を迎える形となってしまったけれども、
日本を取り巻く環境が、米中露朝といった4つの核保有国によって囲まれている状況に変化がない以上、
本来、こうした議論は継続的に進めていかなければならないはずである。
しかし、「すぐに忘れる」癖がある日本人は、
学者や研究者でさえ、核武装論の存在そのものを「なかったこと」にしようとする雰囲気がある。
国民世論としては、小難しい軍事の話より、経済問題に関心が向かうのは致し方ないが、
国際政治や外交を専門としてい人まで、この種の議論を真面目に考えようとしない状況は、
この先、日本の安全保障環境を顧みた時に寒々しい感じすら覚える。
果たしてこのままで良いのだろうか。
長年、ワシントンで生活し、米国の政府要人や学者との議論を重ねてきたジャーナリストの伊藤貫氏は、
煮え切らない日本の現状に強い不満を覚えている。
なぜなら、日本の厳しい国際環境に日本人自身が極めて鈍感な姿勢を示し、
「いざとなったら米国が助けてくれる」という他国依存型の安全保障政策を採り続けるからである。
次に挙げる文献は、ワシントンに向かう機内で読んでいたものだが、
あくまでもリアリスト的な視点に基づく伊藤氏の指摘は、
こうした状況を生き残るためにも、日本人の覚醒が何よりも不可欠であることを思い知らされる。
伊藤貫
『中国の核戦力に日本は屈服する 今こそ日本人に必要な核抑止力』
小学館新書、2011年
本書の主張は、副題に示されているように、
日本も核武装も含めた核抑止力を持つべきだというものである。
伊藤氏によると、今後20年ほどで、
米国は国力を衰微させ、アジアでの勢力圏確保が能力的に難しくなる一方、
軍事的・経済的台頭によって、中国がアジアの勢力圏拡大を本格化させていった場合、
核保有国とは絶対に戦争しない米国としては、
「平和的台頭」戦略から離脱し、核の恫喝も含めた中国の「ブラックメール」に対抗することができず、
日本や台湾といった米国の同盟諸国を見捨てるしかない状況が生まれるとしている。
つまり、軍事的に見れば、日米同盟の賞味期限は、およそ20年ということであり、
その後は、日本が中国の勢力圏に飲み込まれてしまうか、
中国の勢力圏拡大に対抗するために、日本も核抑止力を持つか、二つに一つしかないのである。
本書の内容は、あまりにも悲観的すぎると批判するものも多いだろう。
だが、国際政治は軍事力の動向を押さえていれば、八割方分かると言われている現実に則すなら、
その中で展開されている主張には耳を傾けざるを得ないだろうし、
多分、それは概ね正しいのであろう。
個人的には、核武装は非現実的であるように思われる。
乗り越えるべきハードルがあまりにも多く、しかもそのいずれもが高い。
仮にそうしたハードルを越えることができたとしても、
国際的孤立、とりわけ米国との関係悪化は避けられないであろう。
そうなった時、日本は4つの核保有国に独力で対峙していかなければならなくなる。
それはまさしく悪夢であって、核さえ持てばブレイク・スルーが得られるというのは、
やや短絡的であるような気がする。
しかし、安全保障の基本がワーストケース・シナリオを想定することから始まるとすれば、
伊藤氏が見据える20年後の未来に向けて、真面目に議論を重ねておく必要があるだろう。
もちろん、核武装もタブーではない。
そして、できれば、そうした議論を政策に結びつけることが重要である。
「頭の体操」という逃げ口上を用意して、
一度たりとも、真剣に核の議論をしていないということもまた、
戦後レジームから脱却できていない証左といえる。
この障害を克服するためには、やはり「人」が変わらなければならないのだろうか。
それまで時間は待ってくれるだろうか。