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History, Strategy, Ideology, and Nations

明らかにされたGHQ傘下「山崎機関」の存在

2010年11月24日 | INTELLIGENCE

 戦後日本におけるGHQの情報活動は、いまだによく分かっていない部分が多い。
 一つは、現在でも情報部(G2)関係の文書が非公開となっているため、
 きわめて限られた歴史的資料しか利用できないところに大きな原因がある。
 近年、CIA文書が公開されたことで、
 いくらかその概要を垣間見ることができるようになったとはいえ、
 服部機関や河辺機関といった比較的有名な工作機関でさえ、
 どのような指揮命令系統を経て、工作活動に従事していたのかは判然としていない。
 おそらく近い将来、G2文書が公開されれば、本格的な実証研究を進めることも可能かと思われるが、
 現時点においては、情報関係者の証言や回顧録などをベースにしながら、
 その実態に迫るしか方法がないのは致し方ないところであろう。
 
 さて、そうしたGHQの情報活動で中心的な役割を果たしていたのが、
 チャールズ・A・ウィロビー陸軍大将であったことは、
 この分野に関心のある人ならば、誰もが知っている話である。
 ウィロビーの傘下には、数多くの工作機関が非公式に設置されており、
 国内外での反共工作や大陸帰還者への尋問調査、通信情報活動などが行なわれていたのだが、
 本日付『産経新聞』(関西版)の記事によると、
 そうした工作機関の一つとして、「山崎機関」というものが存在し、
 朝鮮半島や満州といった地域に関する詳細な地理情報を収集して、
 GHQに提出する業務を請け負っていたことが、関係者の証言から明らかになった。
 「山崎機関」という名称の由来は、そのトップを務めた山崎重三郎元陸軍中佐から採られたもので、
 別名「Yセクション」とも呼ばれていたという。

 「山崎機関」の構成メンバーは、中国、ソ連、朝鮮半島で情報活動に従事していた旧日本軍人であり、
 G2が入っていた日本郵船ビルの2階と4階に、80~120人の規模で勤務していた。
 「山崎機関」が発足した正しい日付については不明だが、
 今回、産経新聞の取材を通じて得られた地図や調書を関係者と照合した結果から、
 少なくとも1950年頃には、組織として活動していたようである。
 ここで作成された報告は、GHQへと提出された後、
 朝鮮戦争で米軍による爆撃に利用されたと考えられている。
 
 ウィロビーの回顧録によると、
 当時の日本郵船ビルは、おおむね次のような階構成であった(※1)。
 1階=庶務・警備・行政関係部局
 2階=通訳翻訳課、心理作戦課、地勢情報課、ボイス・オブ・アメリカ
 3階=戦史編纂室、民間検閲課、公安課
 4階=軍事情報課、技術情報課、資料調査局(CIA極東支部、1950年~)など
 5階=情報参謀長室、情報参謀次長室、会議室、連絡・通信情報関係部局

 これを見ると、「山崎機関」関係者の証言とも一致しており、
 おそらく「2階・地勢情報課」が「山崎機関」のカバーネームであったように思われる。
 第二次大戦後、米空軍が中心となり、戦略爆撃の標的設定を目的として、
 ソ連の地理情報を積極的に収集していたことは、
 すでに「リンガー計画(Project WRINGER)」の活動が示している通りであり、
 「山崎機関」もまた、こうした情報活動の一端を担う存在であったことが示唆されると言えるだろう。
 
 また、朝鮮戦争との関連でいえば、同じくウィロビーの回顧録によると、
 仁川上陸作戦(クロマイト作戦)の支援を目的として、
 現地の情勢を把握するために情報工作員を派遣する「トルデー・ジャクソン作戦」が実施されたが、
 その工作員たちが送ってくる最新の情勢報告を地勢情報課が分析・整理していたとしており、
 空軍による爆撃以外にも、軍事作戦における基礎情報の提供に一役買っていたことが分かる(※2)。
 このことは、記事の中で紹介されている証言とも符合している。
 
 こうした証言や資料が出てきたとなると、
 強く望まれるのは、やはりG2関係の文書公開である。
 なぜなら、「山崎機関」のみならず、服部機関や河辺機関などによって提供された情報を、
 米国側がどのように利用し、外交政策や軍事作戦に反映していったかは、
 そうした文書を見ないことには検討するのが難しいからである。
 朝鮮半島の情勢が緊迫化しつつある中、
 一挙公開という決断はなかなかできないかもしれないが、
 関心を持つ一人として、期待しないわけにはいかない。

 ※1:C・A・ウィロビー/延禎監修
    『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』
    番町書房、1973年、65-66頁
 ※2:同書、246頁