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History, Strategy, Ideology, and Nations

中国の経済統計は信頼できるか?

2011年01月31日 | NEWS & TOPICS

 GDP世界第二位の座を中国に明け渡したことがショックだったと見えて、
 日本における各種メディアの経済ニュース欄を一読すると、
 やたらと中国経済の台頭ぶりを伝える記事であふれかえっている。
 借金まみれで経済成長の道筋さえ示すことができない日本の現状を顧みた時、
 時代はもはや完全に中国といった印象を受けることは止むを得ないが、
 多少、冷静に中国経済を見る感覚は必要であろう。
 
 たとえば、中国の軍事費について、公式発表を額面通りに信じている人はいないであろう。
 一説によると、実態は公表された数字の三倍以上とも言われているが、
 中国の統計数字が必ずしも信頼に足るものではないという点は、
 軍事だけでなく、経済に関しても当てはまるものである。
 この点について、米国の保守系シンクタンク・ヘリテージ財団で、
 アジア経済政策を専門に研究しているディレク・シザース氏は、
 次期首相と目されている習近平氏が、中国のGDPの数字について、
 「単なる参考のため(for reference only)」のものであると認めたことに言及しながら、
 中国政府の統計データへの疑問を呈している。

 Derek Scissors
 "China Grows 10 Percent Again: Is This Believable?"
 The Heritage Foundation, Web Memo, No. 3098 (January 20, 2011) , pp. 1-4.
 http://report.heritage.org/wm3098

 シザース氏が注目するのは、中国政府が発表した公式数字のうち、
 2010年における中国のGDP成長率が10.3%と力強い発展を見せている一方、
 その他の経済指標に関しては、そうした成長の勢いを感じさせるものになっていない点である。
 具体的には、消費者物価指数はわず3.3%上昇にとどまっており、
 この数字は、中国の物価対策において最低水準のものであった。
 また、他国では、GDPの算出に含まれる不動産投資や固定資産収入について、
 中国の公式数字においては含まれていなかった。

 なお、シザース氏は、今回の発表は修正されるものと予測しているが、
 中国のGDP成長率は、常に高く設定されることに変化はないであろうし、
 修正された内容も公表されることはないと見ている。
 むしろ、習近平氏が言及したように、中国の経済統計を過信しないことが重要であり、
 その点において、習近平氏の言い分に耳を傾けるべきと提言している。
 また、信頼できる統計数字を見ている限り、
 中国の経済発展は、GDP成長率よりも低いと言わざるを得ず、
 インフレをはじめとして、今後、中国が直面する経済的な試練も大きくなっているとしている。
 
 米国でも、中国の経済統計に関する検証が進んでいるとは言えない状況のようだが、
 軍事と同様、これから地道に行なわれるようになるだろう。
 経済成長を約束しなければ、支配の正統性を根拠づけられない中国共産党の実情を踏まえば、
 その動向を把握する上でも必要な作業であろう。 


村井知事を断固支持する

2011年01月27日 | NEWS & TOPICS

 すでに米国やヨーロッパでは始まっている試みだったのだが、
 とうとう日本でも取り組もうという声が上がってきたことは非常に喜ばしい。
 何のことかというと、性犯罪の前歴がある者や家庭内暴力(DV)の加害者の行動を監視するために、
 GPS端末を所持させるという条例案成立を、宮城県の村井知事が目指していることである。
 個人的には、この取り組みを断固支持するとともに、
 一日も早い条例案成立を願っている。
 そして、全国の都道府県においても、ぜひ前向きに検討してもらいたい。

 25日付『河北新報』によると、村井知事はこのアイディアを慎重に練ってきたようで、
 昨年春、宮城県警も加わってワーキング・グループを発足し、
 DNAサンプルや行動記録の提出などを義務づける対策案も出されたという。
 しかし、同年8月末に行なわれた県庁幹部との協議において、
 「人権侵害と批判される」との理由から、監視強化に消極的な姿勢が示されると、
 その姿勢に同調する動きが県庁サイドから続々と出始め、
 「自治体が取り組める分野なのか」と知事に翻意を迫った職員もいたらしい。
 それでも村井知事は、11月末、条例案の検討を開始するために推進本部を設置し、
 今月22日、記者会見において、このアイディアをいよいよ正式に発表したのである。

 【河北新報】2011年1月25日(ウェブ版)
 「村井知事押し切る 性犯罪前歴者にGPS案 県幹部たじたじ」
 http://www.kahoku.co.jp/news/2011/01/20110125t11019.htm

 すでに賛否をめぐって全国から意見が寄せられているらしく、
 現時点で、賛成27件、反対14件、賛否不明7件となっている。
 また、賛成意見が、再犯への抑止効果に期待を寄せる一方、
 反対意見では、基本的人権の侵害や監視の濫用を危惧する声が強く、
 対立構図としては、きわめて定型的なものに帰着している。
 つまり、世論的にはまだほとんど議論が深まっていないということであり、
 だからこそ、村井知事としては、大きく発表して議論を喚起したいという狙いがあったと推測される。

 しかし、マスコミの全体的なムードとしては、
 人権への配慮という理由から、反対へと世論をリードしていこうという心構えなのであろう。
 今日付『河北新報』のコラムにおいては、
 性犯罪の実態に言及しながらも、
 監視強化への動きに対して、「行き過ぎた監視社会を生みかねない」と牽制し、
 被害者支援の現場からの声として、
 今必要なのは「幼いころからの防止教育と被害を訴えやすい総合支援センターの設置」だとしている。
 
 【河北新報】2011年1月27日付(ウェブ版)
 「河北春秋」
 http://www.kahoku.co.jp/column/syunju/20110127_01.htm

 だが、GPS所持による再犯の抑止効果に疑問を呈しながらも、
 果たして防止教育と支援センターの設置が、
 それを上回る抑止効果を持っていると確定できる材料は一体どこにあるのだろうか。
 性犯罪被害者への同情と加害者の人権問題を天秤にかけながら、
 どちらにも配慮したように見せかけて、
 本当はどちらからも攻撃されにくい落とし所を見つけただけの偽善的な対策としか思えない。 
  
 実際、村井知事も、24日の記者会見で、
 まさしく正論というべき次のようなコメントを発表している。

 「私は、こういったようなものはやはり被害者の側に立って被害者をいかに守るのか、
  同じような被害を二度と起こさないためにどうすればいいのかということを
  大前提に考えるべきだと思うんですけれども、
  どうしても日本の場合は、加害者と被害者というものを
  同列に並べて物事を考えているような気がしているということでございます。
  諸外国では被害者を守る、被害を受けないようにする、
  1人でも被害者を出さないようにするにはどうすればいいのかということを
  最優先に考えながら施策を展開しているということで、
  そういった意識が日本は諸外国より遅れているととらえているということでございます」

 「女性と子どもの安全・安心社会づくり懇談会」
 第2回会合で表明した性犯罪防止強化の県条例の検討方針について
 http://www.pref.miyagi.jp/kohou/kaiken/h22/k230124.htm

 とにかく平和や人権といったリベラル志向の人たちに共通しているのは、
 「抑止」という概念がまったく理解できないことである。
 効果に疑問があるといった批判を繰り返す前に、
 性犯罪被害者の心理的苦痛を和らげるために、
 状況打開に向けて、直接的に有効な対策を提示することが何よりも求められていることである。
 被害者は、支援するNPOや弁護士のために存在しているわけではない。


風邪ダウン

2011年01月25日 | ET CETERA

 毎年、1~2月にかけて、必ずと言ってよいほど、一度は風邪に罹る体質なのだが、
 今年もめでたく先週末から風邪でダウンして、まったく動けない状況になってしまった。
 実を言うと、先々週にも、体調を崩し、その時は発熱と不快感で済んだので、
 今年は案外、軽く終わったと秘かに喜んでいたのだが、
 どうやらそれは単なる「前触れ」でしかなかったらしい。
 ちょうど金曜日の昼過ぎ辺りから、突如として咳が止まらなくなると同時に、
 関節痛が全身を襲うに至って、こりゃもうダメだと観念して、寝床へ潜り込んだのであった。
 その後、2日間、水分補給以外は一切、受け付けず、
 医者に掛かる気力さえも湧かず、
 横になりながら、ひたすら体内で暴れ回るウィルスと格闘を続けていたのだが、
 今日になって、ようやく机の前に座ることができるくらいにまで快復してきた。
 あとは、体調の推移を見ながら、薬をうまく使っていけば、
 元に戻ることができるだろう。
 いやはや、まずは一安心といったところである。

 それにしても、今年の風邪はしつこかった。
 元来、風邪の治療法などといっても、
 「寝て治す」以外に方法がないというのが古くからの知恵であって、
 医者に掛かったところで、感冒薬を処方されるだけで、根本的な治療が施されるわけではない。
 そのため、個人的には、いつも風邪に罹ったと分かった段階で、
 まずは熱めの風呂に入り、ウィルスが暴れやすい環境を作ってやった上で、
 随時、水分を多めに補給しながら、あとはそのまま体調が戻るまで寝るという方法を採っており、
 この方法だと、大体、丸一日もすれば、寝床から起きられるようになるのだが、
 今回は丸二日かかった。
 
 昔から風邪を引くと、この方法で治してきたが、
 ある人に言わせると、さっさと医者に診てもらって薬をもらった方が良いと言われる。
 確かにそうかもしれないが、基本的に風邪はウィルスによって発症するので、
 抗生物質は基本的に利かない。
 根本的な治療が施されるわけではないというのは、そういう意味であり、
 せいぜい風邪の諸症状を抑制するだけでしかないのである。
 したがって、風邪を治すためには、やはり自己免疫に頑張ってもらうしかないわけで、
 早い段階で薬に頼ると、症状が抑えられたことで風邪が治ったと勘違いして、
 結局は、風邪を買い殺してしまうことにもなりかねない。
 時折、冬の間中、ずっと風邪気味の人がいるが、
 それはまさに典型的である。

 ただし、風邪もピークを過ぎて、次第に快復傾向に手応えを感じ始めたら、
 抗生物質を使って、その流れを支援してやった方が良いように思われる。
 すでに体内には、今季の風邪のウィルスの抗体ができているので、
 あとは放っておいても、風邪はいずれ治っていくのだが、
 裏を返せば、ウィルス抗体が最も多く産生されているということであり、
 ここで一気にウィルスの駆逐を行なうチャンスと言える。
 快復してきたという実感も伴うので、精神的にもプラスの作用が見込める。

 風邪でグズグズした状態が続くのが好きではないので、
 どうしても短期集中で治そうと思うと、こうした方法になってしまうのであるが、
 幸い、この方法を採るようにしてから、
 どんな風邪でも大体3日間ほどで治すことができるようになった。
 病院に行く気力があるくらいなら、家で寝るに尽きるというのが結論である。
 なお、3日間、寝ているにもかかわらず、症状が快方に向かわない時は、
 おそらくそれは風邪ではなくて、何か別の病気である。
 そういう時は、すぐに病院へ行った方が良い。


「知的生産」学ってありかも

2011年01月21日 | WORK STYLE

 料理やスポーツの方法論を指南する本は、誰にも広く受け入れられる一方で、
 知的生産の技術に関する方法論を指南する本には、
 書き手の自己顕示欲が発露されたように受け止められるところが少なくない。
 多分、決まった方法論が存在するわけではなく、
 どうしても書き手の方法を押しつける形にならざるを得ないからであろう。

 それに加えて、元来、世間一般において、
 それほど多くの人が知的生産に携わっているわけでもないので、
 名のある学者が執筆した知的生産のマニュアル本は、
 「私はこれで成功しました」と自慢げに語られているような印象を与えてしまいがちである。
 実際、自慢話ではないと断りを入れながらも、
 しかし、方法論の説得力を上げるためには、自分の業績をひけらかさざるを得ないため、
 そうした印象を逃れることは不可避であろう。

 知的生産の技術を扱った文献は、何十年も前から数多く出版されているので、
 もう一体、どれだけ読めばよいのか分からないくらいなのだが、
 それだけ世代を超えた需要があるということだろう。
 そして、自慢話と知りつつも、何とか優れた書き手の方法を盗むために、
 新しいマニュアル本が出版されると、つい手が伸びてしまうのである。
 まるで参考書ばかり揃えて勉強した気になっている受験生みたいなもので、
 書籍代が余計にかさむだけで、益するところは小さい。

 先日も偶然、書店をぶらついていたら新書で出ていたので、
 少し紹介しておきたい。

 谷岡一郎
 『40歳からの知的生産術』
 ちくま新書、2011年

 「40歳」という年齢設定に深い意味はない。
 要するに、歳を取ってからでも、知的生産の技術を磨くことは可能だと言いたいだけである。

 肝心の内容だが、すでに他の文献で紹介されている方法の焼き直しが多い。
 裏を返せば、梅棹忠夫氏や野口悠紀雄氏の影響がいかに大きいかを知ることができる。
 興味深いポイントとしては、「セレンディピティ(serendipity)」という言葉を使って、
 物事の本質を見抜く能力に関して、若干、言及されている箇所もあるが、
 これとて、それを身に付ける具体的方法を示しているわけではなく、
 率直に言って、マニュアル本としては退屈な内容である。

 それにしても、レポートや小論文の技法なども含めて、
 ここまで色々と知的生産の方法論に関する文献が出ていると、
 これはこれで、もはや一つの分野を形成していると言ってもよい気がする。
 しかし、著者は違えど、書かれている内容は、大体どれも同じであり、
 オリジナリティに欠けていると言わざるを得ない。
 どれだけ知的生産の技術に通じていても、
 知的独自性を獲得することにはつながらないことがよく分かる。


立ち位置が分からない

2011年01月20日 | NEWS & TOPICS

 以前から、一部の報道で指摘されてきたが、
 外国人による軍事施設の近辺や地下資源がある土地の取得が進んでいるという実態を踏まえて、
 民主党は、その対策に向けたプロジェクト・チームを立ち上げ、
 今月から始まる通常国会での法案成立を目指すという。
 
 【産経新聞】(ウェブ版)2011年1月20日
 外国人の土地取得規制 政府・民主、今国会で関連法整備
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110120/plc11012009140054-n1.htm
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110120/plc11012009140054-n2.htm

 解説記事によると、現行の外国人土地法は、大正15年に施行されたもので、
 外国人による土地取得に関する制限を政令で定めることができるとしている。
 戦前は、国防上重要な保護区域を定め、外国人が土地を取得する場合、
 陸相や海相の許可を必要とし、保護区域も22都道府県に及んでいたのだが、
 終戦にともない、すべての政令が廃止されたため、
 現在は実効性が失われた状態になっている。
 今回、民主党のプロジェクト・チームは、外国人土地法だけでなく、
 森林法改正も視野に入れており、
 全国各地で中国系企業が森林買収を行なっている状況にも対処するとのことである。
 
 この取り組みについては、基本的に賛成したい。
 そもそも、今まで見直しを行なっていなかったことがおかしいのである。
 こうしたところにも、「コトナカレ・サキオクリ」世代のツケが現れている。
 民主党の場合、党内リベラルの声をどう抑えていくかが課題となっていくであろうが、
 少なくとも外国人参政権の付与に比べれば、はるかに国民的支持を得やすいはずであるから、
 ぜひとも法案成立を目指して頑張ってほしい。
 
 それにしても、民主党は立ち位置のはっきりしない政党である。
 いや、元来、立ち位置などないのかもしれないが、
 得体の知れない政党であることだけは間違いない。
 民主党の事情に詳しい人に聞くと、
 若手議員の多くは、いわゆる「保守」に近い政策志向を持っている一方、
 ベテラン議員は、いまだに「リベラル」への呪縛から逃れられない人たちが多く、
 その点では、実質的に世代間対立と同じ様相になっているらしい。
 率直に言って、この説明には納得していなくて、
 「保守」といっても、単に世論の動向を反映したポピュリストにすぎないと思っているが、
 抜けたビールのようなリベラル色の強い政策が追求されるくらいなら、
 いっそのこと、ポピュリストであってくれた方が扱いやすい。


自己否定の彼方

2011年01月18日 | NEWS & TOPICS

 昨日、マスコミ各社によって行なわれた世論調査の結果が発表されて、
 内閣支持率は、大方の予想通り、内閣改造にもかかわらず、30%前後の微増にとどまった。
 まったく新しい内閣が発足するわけではなく、
 改造人事も、4人の閣僚しか交代させなかったのだから、
 劇的に支持率が回復することは、最初から見込まれていなかったであろう。

 しかし、これが単に人事刷新への失望感に起因するものではないことは、
 今回の世論調査での関連質問における回答を見てみると明らかである。
 手元には、本日付の『産経新聞』(朝刊)しかないので、
 そこに示されたデータを引用していくと、
 とりわけ厳しいのは、景気対策と社会保障政策への評価であり、
 80%前後が「評価しない」と回答し、菅首相のリーダーシップに疑問を呈するものとなっている。
 さらに、今月の年頭会見で「不条理を正す政治」という理念を表明し、
 小沢氏をめぐる問題でも、強硬な姿勢を貫いているように見えるが、
 調査の結果では、30%ほどしか評価していない状況が浮き彫りとなった。
 閣僚人事の面では、やはり与謝野氏の入閣が注目すべきポイントだが、
 「期待する」という声が42%に対して、「期待できない」という声が47%であり、
 国内世論としては、冷やかな反応を示しているといえよう。
 
 すでに多くの解説記事で触れられているように、
 今回の改造内閣は、「財務省内閣」といっても過言ではないほど、
 財務省寄りの人事によって固められている。
 これにより、景気対策よりも財政再建を優先させる方針へと完全に舵を切る形となり、
 増税路線は決定的になった。
 当然、その影響は日本経済を直撃し、今以上に景気が悪化することは不可避であろう。
 このことは、バブル経済が崩壊した後、自民党政権が犯した失敗と同じ轍を踏むものであり、
 少し前の記事でも記したが、「失われた10年・第二幕」の始まりになるであろう。

 そこで問われるのは、民主党による政権交代の意味である。
 確かに、政権交代で国民から期待されたのは、
 自民党政権ではできなかった改革を実現することにほかならなかった。
 民主党自体も、その期待に応えるための政策をマニフェストに次々と盛り込み、
 それを「国民との約束」として提示し、政権交代を達成したのである。
 だが、蓋を開けてみると、その約束はことごとく修正せざるを得ないものであった。
 捻出できると公言した財源は、結局、見つけることができないままであり、
 外交面での自主性回復を謳うも、安全保障上の要因をまったく考慮していなかったことが露呈され、
 クリーンな政治を標榜しているにもかかわらず、
 党内の浄化作用が低く、それどころか党内対立まで引き起こしている始末で、
 当初、描いていた理想像から大きく離れたものとなっていることは、
 誰の目から見ても歴然としている。

 与謝野氏の登用は、その点では非常に皮肉なものと言える。
 周知の通り、与謝野氏は、民主党への政権交代が達成される前の麻生政権において、
 財務大臣を務めていた人物である。
 当時、民主党は、与謝野氏をはじめ自民党が進める経済政策を厳しく批判し、
 その代替案として、先のマニフェストが示されたはずであった。
 しかし、いまや再び与謝野氏を入閣させて、
 その主導の下で、財政改革に取り組もうというのだから、元の木阿弥というしかない。
 すなわち、今回の与謝野氏入閣によって、
 菅政権は、民主党への政権交代に何の意味もなかったことを自ら表明したに等しいのであり、
 もはや民主党政権の存在理由は失われたといっても過言ではないのである。

 近々、マニフェスト修正に向けた検討も始まると言われている中、
 やはり「国民との約束」を一方的に反故することは傲慢の誹りを免れないだろう。
 こうした状況になった責任の大半は、民主党自身の見通しの甘さと政策能力の低さにあったのだから、
 今から自民党を含めた野党の責任に言及するといった伏線を張るのではなく、
 民主党政権への中間評価として、改めて国民に信を問うのが筋であろう。
 今こそ野党は国会を政局化し、菅政権を窮地に追い込むべきである。
 自分から無意味な存在となった者を、いつまでも政権に留まらせている理由はないであろう。


社会的有用性とは?

2011年01月16日 | NEWS & TOPICS

 普段、インターネットをつないでいるパソコンは、リビングルームにあり、
 家族共用として使っている。
 しかし、自室のパソコンはインターネットにつないでいないので、
 ブログの記事を書く時は、一度、自室で文章を作った後、
 メディアに移してから、家族共用のパソコンでアップデートする作業を行なっている。
 作業というほど大袈裟なことではないが、
 諸々の事情から、こうした形を採っているのである。
 時々、2~3日分をまとめてアップデートする時があるけれども、
 決してまとめて書いているのではなく、
 自室で別の作業を続けていたり、何となく更新を忘れていたりするため、
 すぐにアップデートしていない時があるというだけのことであって、
 その日のうちに、ちゃんと記事は書いているのである。
 誤解があるといけないので、一応、念のため。

 さて、世間的には、センター試験真っ只中ということもあって、
 各種メディアにおいても、受験生を励ますメッセージが紹介されることもしばしばだが、
 今朝来た新聞をバサバサと広げて眺めていると、
 最近の受験生における専門選択の傾向は、「文低理高」になっているそうである。
 昔から「不況に強い理系」と言われてきたが、
 日本人の相次ぐノーベル賞受賞や宇宙開発への関心などとも相まって、
 理系志望者の増加が目立ってきたとされている
 
 しかし、現在、文系に身を置いている立場からすると、
 日本の大学というのは、結局、理系にしか価値が認められていないのだなと改めて思わされる。
 不況になると、文系が顧みられないというのは、
 それが社会的に何の役にも立たないと考えられていることが大きい。
 つまり、言い換えれば、文系の学問など単なる道楽にすぎないということである。
 誰もそこまで言っていないのかもしれないが、
 何だかちょっと淋しい気もするのである。

 文系の学問において社会的有用性は認められるか。
 もちろん、文系と一口に言っても、様々な学問分野があるため、一概には言えない。
 経済学や法学などは、まさに社会そのものを扱っているのだから、
 本来、社会的有用性があってしかるべきだし、
 そうした部分を学術的に追求することが求められている分野である。
 だが、文学や考古学はどうであろうか。
 実際、各地の大学で、こうした講座が相次いで廃止されていると聞いているし、
 一昔前まで、「バカの代名詞」とまで言われたことも災いしたのかもしれないが、
 英文学をはじめ、文学専攻の学生が大きく減っていることは、
 疑うべくもない事実である。
 おそらくこの傾向は今後も変わらないであろう。
 
 社会的有用性という面において、文系が理系よりも劣る部分があることは否定できないと思う。
 しかし、即応的な有用性は乏しいとしても、
 社会を構成するものは、今も昔も人間であることに変わりはない。
 時代や環境が違っても、そこに介在するものが同じである限り、
 直面する苦悩やディレンマといったものは、どこか似ている部分があるはずである。
 文系の学問に社会的有用性を見出せるとすれば、
 その苦悩やディレンマについて、即座に答えや結論を導くのではなく、
 どのように悩めばよいのか教え諭すことであろう。
 
 生き馬の目を抜くような時代であるから、
 そんな悠長なことを言っていられないという人もいるかもしれない。
 だが、そうした人でも、いつか自分の生き方に迷いを覚える時が来るものである。
 その時、耳元で囁ける言葉を持っていることが、
 文系の学問における社会的有用性につながっていくような気がする。
 ちょっと曖昧すぎるかな?


第二次菅改造内閣発足

2011年01月15日 | NEWS & TOPICS

 昨日、菅首相は内閣改造を行ない、4人の閣僚を新しく交代させて、
 波乱に満ちた通常国会へと臨むことになった。
 目玉人事としては、やはり「たちあがれ日本」から一本釣りで引き抜いた与謝野馨氏を、
 経済財政担当大臣に据えたことであろうが、
 これによって、財務省主導による増税路線はもはや規定コースに入ったというべきであろう。
 デフレ状況下で増税を断行すれば、どのような影響が出るかは歴然としているにもかかわらず、
 その方向に舵を切ったということは、
 今後、社会保障や年金の給付者増大で逼迫した状況にある財政再建を優先させて、
 経済成長への対策は後回しにするという選択肢を採用したことを意味している。
 当然、消費税率も10%台にまで引き上げられるだろうし、
 国内消費は大きく落ち込んで、デフレ・スパイラルに歯止めがかからなくなるだろう。
 その一方で、現役世代への負担は実質的にますます重くなることが予想される。
 まさしく「失われた10年・第二章」の幕開けである。

 とはいえ、今回の改造人事で重要だったのは、防衛大臣を留任させたことである。
 噂では、官房長官への転任という話もあったようだが、
 米国との関係を考慮すれば、その判断は難しかったように思われる。
 なぜなら、北沢氏は民主党政権で唯一、米軍基地移設問題に携わってきた人間であり、
 その人間を辞めさせることになれば、
 問題解決への方向性が再び暗礁に乗り上げることも否定できないし、
 それにともなって、米国側の不信感が一層、強まることも十分あり得るからである。
 日米外交で失敗した政権はすぐに潰れるという政治的教訓を踏まえれば、
 この判断は妥当なものだったと言えるだろう。

 ただし、対外的には無難でやり過ごせたとしても、
 国内事情は相変わらず「ねじれ国会」の状況が続いているし、
 今回、再び小沢グループから閣僚に登用しなかったことから、 
 党内結束への道は一段と遠ざかった。
 挙党一致という言葉は、完全に内容を伴わないフレーズになってしまった。
 むしろここまでやられると、小沢グループの方も覚悟を決める時が来るかもしれない。
 幸い、金庫番となる鳩山兄弟を押さえることには成功しているので、
 以前よりも、踏ん切りはつけやすくなっている。
 政局としては、夏に向けて、かなり流動的になっていくものと推測される。

 民主党政権の反省すべき点は、政権交代という歴史的出来事に酔いしれるあまり、
 何もかも変えようとしたことにある。
 そのため、本来なら、何年もかけて国内の合意を取り付けていくべき問題に安易に手をつけた結果、
 取り返しのつかない状況になっているのである。
 かつて民主党に期待していた人たちからは、
 菅政権になって自民党的になってきたと嘆く声も出てきているが、
 元来、国家政策をドラスティックに変えることは非常に難しいのであって、
 漸進的に改革を進めていくしかない。
 そこに王道はないと悟るべきなのである。

 今日は、各地でセンター試験が行なわれているが、
 試験問題に取り組む時、まずは簡単な問題から手を付けて、
 難しい問題は後に回せというのがセオリーだったはずである。
 民主党政権も、難問中の難問である北方領土問題の解決などに色気を見せるのではなく、
 まずは解決できる問題から順番に解決していくしかないということに立ち返って、
 地道に努力を重ねていくべきであろう。
 そうした姿勢がやがて国民の信頼を得ることにつながっていくのである。
 一発逆転を狙うのは、その努力が尽きた後からの話である。


高校卒業からの頭脳流出

2011年01月13日 | NEWS & TOPICS

 先日、ニュースサイトを眺めていたら、
 東大合格者を毎年、多く輩出している灘高校から、
 イェール大学に直接、入学した人が紹介されていた。
 元々、その人は英語が得意で、運用能力には問題がなかったこともあって、
 どうせ受験勉強をするなら、世界的に通用しない東大よりも、
 いっそのこと、米国の大学を目指した方がいいのではないかと考えて、
 見事、合格することができたとのことである。

 日経ビジネス
 「東大ブランドは通用しない 灘高トップはエール大学を選んだ」
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110111/217870/

 1980年代頃から、日本にも海外の大学が設置されるようになり、
 ケンブリッジ大やハーバード大学の日本校が開校されるとも噂された時期もあったが、
 その後、そうした噂が実現することもなく、今日に至っている。
 大学間競争の現状について詳しく知る立場にないので、
 真相のほどは定かではないが、日本の大学が軒並み反発し、海外からの大学参入を妨害したとも聞いている。
 確かに、世界的に知名度の高い大学が日本で開校するということになれば、
 これまでトップクラスの大学であっても、優秀な学生をさらわれてしまう可能性が高い。
 それを懸念して、文部省を巻き込みつつ、何らかの妨害工作が行なわれたとしても、
 別段、驚くに値するものではないだろう。

 ただ、今までは日本の高校生はすべて日本にある大学を受験するのが前提であった。
 現在でも、ほとんどの受験生は、日本にある大学を受験しているはずである。
 しかし、ニュースサイトで紹介されているように、
 海外の大学を受験する者が今後、増加していくとしたら、
 もはや頭脳流出どころの騒ぎではない。
 日本の大学システム全体に関わる危機的状況となるのではないか。
 
 そもそも日本の大学教育とは何を目的としているのだろうか。
 教養を深めるといっても、
 東大やICUなどを除いて、ほとんどの大学が教養学部を廃止しているし、
 専門教育を受けるといっても、
 それが本格化する三年次の秋になると、もう就職活動が始まるので、
 実質的には、ほとんどまともな専門性など身につかないまま終わってしまう。
 じゃあといって、大学院教育が充実しているかというと、
 実質上、教育プログラムは教官次第という杜撰極まりない内容で、
 専門知識や技術の修得は、結局、他人の方法を「盗む」しかなく、
 体系的に専門分野を学ぶといった体制には、まったくなっていないのである。
 
 就職活動の時期が早すぎて、専門教育が疎かになるとの大学側の主張を考慮し、
 経団連は、今年から企業説明会の時期を11月以降、
 採用試験を翌年4月以降にずらすとの申し合わせがなされた。
 しかし、そうした措置によって、今後、専門教育が充実するかというと、
 一部の単科大学を除いて、大きな変化はないであろう。
 
 そう考えると、さっさと日本の大学に見切りをつけて、
 高校から海外の大学に進学するのは、非常に賢明である。
 果たしてそうした頭脳流出を止めることができるかどうかが、
 やがて近い将来、日本の大学に問われることになるのではないだろうか。
 大学教育の目的を明確化させる時期が来ているといえよう。


どうやら私は性格が悪い

2011年01月12日 | NEWS & TOPICS

 ちょうどバブル経済が華やかりし頃、「一杯のかけそば」という話が世間を賑わせたことがあった。
 ストーリーとしては、おおむね次の通りである。

 大晦日の夜、閉店間際の蕎麦屋に、母親と子供二人の客がやってきて、一杯のかけそばを注文した。
 父親は、その蕎麦屋のかけそばを食べるのが楽しみであったが、
 交通事故に遭い、命を落としていたのである。
 そのため、残された母子は、亡き父の面影を偲ぶために、かけそばを注文したのだが、
 生活が苦しかったこともあって、一杯を三人で分け合って食べたのであった。
 その後、この母子は、毎年、大晦日になると蕎麦屋を訪れ、
 三人で一杯のかけそばを注文することが続いた。
 蕎麦屋の主人も、この母子を気にかけるようになっていったのだが、
 ある年を境にして、突然、来店しなくなった。
 蕎麦屋の主人は、そのことを不思議に思いながらも、
 数年が経過したある日、再びその母と成長した子供二人が蕎麦屋に現れたのである。
 子供は立派な社会人となり、老いた母とともに、かつてのかけそばを食べに来たのであった。
 そして、今度は一杯のかけそばを三人で分けるのではなく、
 母子三人で三杯のかけそばを味わったのである。

 この話は、国会でも朗読されたり、映画化もされるなど、
 感動を呼ぶストーリーとして、大いに好評を博した。
 だが、全然感動しなかった私としては、
 どうして世間はこの程度の話で感動するのかまったく理解できなかった。
 こうした人情話なんて、掃いて捨てるほどあるからである。
 ある時、素直に「全然感動しない」と友人に語ったこともあったが、
 即座に「分かってない」とか言われて、つま弾きにされた。
 理解できていないのだから、分かっていないという指摘はまさしく正しいけれども、
 そんなに感動するような話かなぁという印象は、ついぞ消えなかったものである。

 今また、同じような現象がちらほらと見受けられる。
 たとえば、年末の紅白歌合戦でも披露された「トイレの神様」という楽曲があり、
 やたらと各種メディアで「名曲」として持ち上げられている。
 しかし、何度か聴いてみたけれども、
 そんなに感動するような歌かなぁという印象をまた持ってしまった。
 トイレ掃除とおばあちゃんへの愛情の話がどうにもリンクしないのである。
 この曲を持ち上げるくらいであれば、
 同じ舞台で歌われていた、いきものがかりの「ありがとう」の方がずっといい歌だと思う。
 
 あと、全国各地で広がっている児童保護施設への寄付行為も、
 何となく胡散臭いものを感じてしまうのは、きっと私の性格が悪いからである。 

 ちなみに、「一杯のかけそば」の作者・栗原平という人物は、
 作品発表後、北海道大学医学部卒業という学歴詐称が発覚し、行方を眩ませていた。
 しかし、やがて行く先々の旅館で無銭宿泊を繰り返して、詐欺罪で告訴された挙げ句、
 滋賀にある寺の次女に近づき、その寺を乗っ取ろうとして宗派離脱を画策したが、
 総本山から認めらず、最高裁まで争った結果、敗訴になったというデタラメな男であった。

 こんな話をわざわざ紹介せずにはいられないとは、やっぱり私は性格が悪い。